2013/09/21 - 2013/09/22
232位(同エリア696件中)
倫清堂さん
今年は伊勢と出雲が遷宮を行うという滅多にない年であるばかりでなく、富士山の世界遺産への登録や東京オリンピック開催などが決まり、日本が再興へと向かう始まりの年になりそうな予感がします。
そういう世相にあって己の心境にも変化が生じ、政治に対する不満というものが心の奥の方へと追いやられてしまったような気がします。
昨年は日本の政治を変える原動力に一滴の油を注ごうと一大決心を起こし、月に1・2回という頻度で大阪を訪れましたが、厳しい現実と向き合って自分自身の力不足を痛感し、様々な方から応援をいただきながらも結局何事も起こせず終わりました。
結果は不甲斐ないものでしたが、こうした経験をしたからこそ何の心残りもなく、政治を変えたいという思いをまるで禊によって心身の穢れを流したかのように、きれいさっぱり払拭することが出来たのだと思います。
それと同時に、次なる目標を漠然としたものから具体的なものへと昇華させることが実現したのでした。
この心境の移り様を禊にたとえましたが、志として置かれたものが交代しただけと見るならば寧ろ遷宮に近いのかも知れません。
具体的な目標を述べるのはここでは差し控えておきますが、今回群馬を訪れることになったのもその目標に関連しています。
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早朝のやまびこ号。
3連休の初日とあって始発駅の仙台から乗客の数は多め。
郡山あたりからデッキに立つ人の姿も見られるようになりました。
東北新幹線に乗った回数は数え切れませんが、小山駅で降りるのは今回が初めて。
両毛線に乗り換えると、部活なのかはたまた補習授業なのか、制服姿のたくさんの高校生と乗り合わせることになりました。
両毛線の毛とは、かつて令制国名の上毛野・下毛野国に由来しています。
日本人が省略好きなのは今も昔も変わらないことで、毛野の毛を省略したために上野・下野という名前が一般的となりました。
両毛線と命名した人とそれを受け入れた時代の感性に、拍手を送りたいと思います。
しばらく電車に揺られ、いよいよ目的地の足利駅に到着。
電車を降りて徒歩10分、目指した先は足利氏の居館があった鑁阿寺です。鑁阿寺 寺・神社・教会
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足利氏は清和源氏の中でも摂津国の多田を本拠とした河内源氏の流れで、河内源氏の祖である源頼信公から4代後の義康公が上野国足利の地に土着したことから足利を名乗りました。
義康公が建てた居館に、嫡男である義兼公が大日如来を奉安する堀内御堂を建てたのが始まりです。
正安元年、足利尊氏公の父である貞氏公によって本堂が再建されましたが、これは当時では最新だった禅宗寺院の様式を取り入れたものでした。
本堂は今年8月、国宝に指定されたばかりです。 -
本堂の前には開基足利義兼公お手植えと伝えられる大銀杏が勢いよく茂っています。
鎌倉時代末期の古地図に大銀杏の記載はなく、実際は樹齢は550年とのことですが、それでも戦国時代んびおける足利氏の没落を見たことになります。 -
境内には国の重要文化財に指定される鐘楼と経堂、県の文化財に指定される多宝塔や御霊屋などがあります。
御霊屋は赤く塗られた姿から赤御堂とも呼ばれ、本殿には15代将軍足利義昭公の像を祀っているとのことです。
徳川家は新田氏の末を名乗りましたが、赤御堂の現在の建物は11代将軍家斉公による寄進であり、足利家も軽視していなかったことが分かります。 -
足利学校の開館時間である9時を回ったので、そちらへ向かうことにした道の途中、足利尊氏公の像を見つけました。
後醍醐天皇の篤い信頼を受け、尊という偏諱まで授かった尊氏公は、身内には野心の塊のような弟直義、権謀術数に長けた執事の高師直を抱え、外には代々足利氏と競い合う新田氏の当主義貞公との対立があり、常に難しい立場に立たされ続けていました。
しかし彼はそれを乗り越えるだけの知能と忍耐、そして強運の持ち主であった言えます。
喰うか喰われるかの時代にリーダーとして生きた尊氏公がもし泰平の世に生まれていたら、全く違う人生を歩むことで後々まで愛される人物になっていたかも知れません。
尊氏公はある一面では、明治時代の人々が下した評価のとおり逆賊ですが、その背中には悲しい時代の非情を一身に背負った犠牲者としての影が見えるのではないかと思います。 -
足利学校は鑁阿寺からすぐの所にあります。
その創設は、古くは奈良時代に置かれた国学であったという説や、小野篁が慈覚大師円仁の助力によるという説があり、新しいものでは鑁阿寺を開基した足利義兼公によるという説が唱えられています。
どちらにしろ関東最大の学問所として再興させたのは、関東管領の上杉憲実公でした。史跡足利学校跡 名所・史跡
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10歳で関東管領に就任した憲実公は、永享4年から足利学校の再興のために尽力し、書籍を寄進したり、鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(学長)に招いてソフト・ハードともに整備し、ついに全国から学生を集めるほどの大規模な学校へと成長したのでした。
初代庠主は僧侶ですが、学問の中心は儒学で、孔子を祀る聖廟では季節の式典が絶えることなく行われていました。
寛文8年に造営された聖廟の中を見ると、孔子像の右には小野篁の像も置かれていました。
孔子とその弟子を祀る「釋奠」という儀式は、現在も毎年11月23日に欠かさず行われています。 -
イチオシ
江戸時代に入ると学問の主流が官学の朱子学へと移ったため、足利学校は衰微することとなり、明治維新後は藩校としての存続の願いもむなしく、廃藩置県によって廃校となってしまいました。
敷地の東半分は小学校が新設されることとなり、建物の多くが破却されてしまいました。
最も大きな建物である方丈も撤去された建物の一つですが、戦後になって小学校が移転したことで復元が実現し、現在は内部を公開しています。 -
方丈の入り口に、初めて見る道具が置かれていました。
説明書きによると、これは実用的な道具ではなく、儒教の大切な教えの一つである「中庸」を体験できる装置なのだそうです。
孔子が魯の国の桓公廟で実際に見たというこの装置は、空の状態だと器が傾いていますが、水を入れることで少しずつ水平な状態に近づきます。
しかしその先が面白いところで、そのまま水を入れすぎるとひっくり返ってしまい、何事も中庸が大事なのだという戒めを教えてくれるのです。 -
庫裡入り口から内部へと進みます。
庫裡は現在、展示室として使われています。
足利学校中興の祖、上杉憲実公の像が出迎えてくれました。 -
孔子をはじめとする儒教の聖人たちの像も置かれています。
左から孟子、曾子、孔子、顔子、子思子。
孟子は孔孟と並び称される人物。
曾子は孔子の高弟。
孔子は言わずもがなの儒学の祖。
顔子は早世し、悲嘆に暮れる孔子に「ああ、天、我を滅ぼせり」とまで言わせた人物。
子思子は孔子の孫。 -
庭園も整備されており、学生たちは四季の移ろいを感じながら学問に取り組んだことが想像出来ます。
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庠主が接客に用いた書院は立入禁止でした。
足利学校は日本最古の学校として世界遺産への登録を目指しています。
見学を終えて足利駅に戻り、再び両毛線に乗って前橋へ。 -
新前橋駅で降りてレンタカーを借りました。
群馬県内の移動は車を使うことになります。
早速ナビで厩橋城跡を目的地に設定し、案内されるままに走ること10分。
到着したのは官庁が立ち並ぶ一画の駐車場でした。
車を降りて周囲を歩いてはみたものの、そこがかつて城であったことを示す痕跡は全く見当たりません。
しかし幸いなことに観光客向けの地図が描かれた看板を見つけ、公園と東照宮が徒歩圏内であることが分かったので、そちらへ向かうことにしました。
道すがら、左手に現在の群馬県庁である高層ビルと趣のある昭和庁舎が見えました。 -
その群馬県庁のすぐ先に、木々が生い茂る小高い丘を発見。
底の部分は石垣が構築されています。
このわずかに土を盛っただけの地形こそが、かつてここに厩橋城という壮大な城が築かれたことを現在に伝える、小さな手がかりなのです。
厩橋城(この頃にはすでに前橋城と改名)は利根川による浸食に常に悩まされ、城として機能するよう川越藩主の松平直克公によって再建されたのは、なんと大政奉還の半年前のことでした。
新築したばかりの多くの建物は破却され、本丸御殿だけは県庁舎として再利用されますが、それも昭和3年に解体。
その後も開発が進み、現在はこの土塁と石垣だけが往時を偲ばせる遺産となっております。前橋城跡 名所・史跡
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土塁の手前には、馬の埴輪の記念碑が建てられています。
群馬は日本で初めて発見された旧石器時代の遺跡、岩宿遺跡を有することから、考古学研究では国内でも最先端を進んでいます。
この後、この旅の一番の目的地である群馬県埋蔵文化財調査センターを訪れて遺跡について調べることを予定しており、埴輪のオブジェを見ただけで興奮は高まるのでした。 -
その興奮をなんとか抑え、前橋公園に鎮座する東照宮を参拝。
東照宮がこの地に鎮座することになった経緯は複雑です。
まず結城秀康公の子の松平直基公が越前の地に家康公の御霊を祀るために越前国勝山に東照宮を造営。
江戸時代中期に松平家が前橋藩に入封したものの、利根川の氾濫によって川越に移住し、その時に川越に東照宮を造営。
その後、復旧を果たした前橋城に戻った松平氏によって川越の東照宮の社殿は解体され、この地へ移築されたのでした。 -
イチオシ
車に戻り、群馬県埋蔵文化財調査センターのある渋川へ向かいます。
山道をくねくねと登った先の、どん詰まりに位置するセンターは、なんと休館日で人の気配が全くありません。
公共施設の休館日は月曜日だという先入観があり、下調べを徹底しなかった自分の過ちです。
今回の第一の目標が達成出来なかったことになりますが、ここで悔やんでも仕方のないことなので、次の目的地に向けて再出発することにしました。
それは群馬県でも西の方に位置する榛名神社。
埋蔵文化財調査センターの見学を終えてから急いで参拝する予定でしたが、これで時間に余裕が生まれました。
途中で橋の工事が行われ、20分ほど渋滞に巻き込まれましたが、伊香保温泉を通り抜け、榛名湖が見える駐車場で一休み。
榛名富士にて詠む
空よりもなほ青やかに澄みわたる
榛名の湖(うみ)に富士の添ひ立つ榛名湖レストハウス 乗り物
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榛名湖から先は急カーブの連続する急な傾斜の山道となり、乗っている軽自動車のエンジンは必死に音をあげながら回り続けています。
行けども行けども森の木しか見えない風景がしばらく続きましたが、ようやく小さな集落にたどり着くと、そこは榛名神社の門前町でした。
公営の駐車場が見当たらず、神社の参拝者向け駐車場もないようなので、銅の鳥居に最も近い土産物屋の駐車場を利用することにしました。榛名神社 寺・神社・教会
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銅の鳥居の先には随神門。
本来は仁王門でしたが、明治の神仏分離によって随神門と呼ばれるようになりました。
あまり注意して見る人はいませんが、天井には「雲龍」の文字が書かれています。 -
右手は杉の木立ちが生い茂り、左手は絶壁が迫る参道を歩くと、安藤広重の「六十余州名所版画図絵」に描かれた行者渓と、そこにかけられた神橋にたどり着きます。
修験道の創始者である役行者もここで修行を行ったと言い伝えられているとのこと。 -
更に先には萬年泉。
旱魃に見舞われた際、榛名神社で雨乞祈願を行うことが伝統となっておりましたが、祈願の後にこの泉の水を持ち帰って帰るのが習わしだったそうです。榛名神社 寺・神社・教会
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イチオシ
榛名神社の神域中第一の杉は矢立杉。
武将が戦勝と所領安堵を祈願した後、境内の立ち木に矢を射立てる儀式を行いましたが、この杉は武田信玄が矢を立てたと伝承されています。
その後ろには神幸殿。
神幸祭の際に神輿が留まる社殿です。
ここから先は急な石段となり、心なしか空気も薄くなった感じがします。榛名神社 寺・神社・教会
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そして榛名神社のシンボルとも言える鉾石と、龍の彫刻が施された双龍門の見事な取り合わせが目の前に現れます。
榛名神社の歴史は、第2代綏靖天皇の御代にまで遡るとされます。
神武天皇以前に大和を治めていた饒速日命とその子の可美真手命が、榛名山中に神籬を立てて天神地祇を祀ったのがその始まりです。
綏靖天皇は現在のところ架空の人物であるというのが定説となっており、在位の年代も確定していませんが、有史以前から信仰の場となっていたことは間違いないと思われ、これら奇岩がその対象とされていたことも疑いない真実なのでしょう。榛名神社 寺・神社・教会
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双龍門の先に、榛名神社の本殿と国祖殿が置かれています。
本殿は、これも奇岩である御姿岩の洞窟と一体となっており、社殿全体が極彩色に彩られ、見事な彫刻が施されています。
御姿岩を見上げると、まるで頭部と胴体がはっきり分かれた人の姿をしているようで、神仏習合時代には地蔵岩と呼ばれていました。
榛名神社の御祭神は、火を司る火産霊神と、土を司る埴山毘売神。
国祖殿は神仏習合時代の本地堂で、本地仏勝軍地蔵が祀られていました。 -
榛名神社から宿泊地の高崎に入るには、思ったほど時間はかかりませんでした。
道路の交通量が多めだったので、車がスムーズに進めばより早く行き来できることだと思います。
まだ日没まで時間があり、チェックインするには早すぎると思ったので、翌日に予定していた護国神社の参拝を前倒しすることにしました。
群馬県護国神社は城跡にではなく、高崎駅から伸びる県道49号線を折れずにまっすぐ進んだ高崎観音山麓天神山に、皇居を遥拝する向きに鎮座しています。群馬県 護国神社 寺・神社・教会
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大鳥居から長い参道を進むと、子供たちの元気のよい掛け声が聞こえてきます。
空手や棒術の稽古をしている子供たちの声でした。
青少年の健全育成に取り組むため、神社として努力されているようです。 -
明治42年、群馬県招魂会の結成と高崎公園内に英霊殿の建立が祭祀の始まりで、昭和14年に群馬県護国神社として造営。
現在は47000柱を超える群馬県出身の英霊をお祀りしています。 -
駅前のホテルにチェックインし、徒歩で高崎城跡へと向かいました。
高崎城は徳川家臣、井伊直政によって慶長2年に築かれた平城で、天守閣とそれを囲むように艮・巽・坤・乾の4つの櫓が築かれていました。
それらの建物のうち、現在は乾櫓しか残されておりません。
高崎城は3代将軍家光公の弟忠長公が幽閉され、自刃した城でもあります。 -
1日目の夜は珍しく10時台に寝たためか、朝は4時過ぎに目が覚めてしまいました。
昼前には車を返さなければならないので、少しでも早く行動を開始した方が得です。
シャワーを浴びて軽く行先を調べ、朝食もとらずにホテルを出ることにしました。
2日目は上野國一社八幡宮への参拝から。
正しくは八幡八幡宮(やわたはちまんぐう)と呼ぶようですが、群馬県内で最も早く八幡神が勧請された神社であることから、上野國一社と呼ばれることが多いようです。 -
参拝を終えて境内を歩いていると、雑草を刈っている男性が話しかけてくれました。
どことなく顔つきが今上陛下に似ており、話し方も物柔らかでしたので、おそらく神社の宮司さんなのだと思いましたが、確認のために尋ねることはしませんでした。
その男性の説明によると、境内にある建物のうち赤い屋根が仏教の建物で、黒い屋根が神道の建物だということです。
他の八幡宮と同様、こちらも神仏の結びつきは強かったようです。
裏にも神様がいるからと勧められるままに社殿を一回りし、正面に戻ると、どこへ行ってしまったのかその男性の姿は見えなくなっていました。 -
群馬を訪れると決まった後、いつものように下調べを行い、距離があるため日程に加えることを断念した場所がありました。
しかし思わぬ時間に目が覚めてしまい、出発も早めたため、そこを訪れる時間的な余裕が生まれることとなりました。
一度は諦めた場所なので、小躍りしたい気分で車を向かわせると、高崎の市街から1時間もかからずに到着することが出来たのでした。
近くにある道の駅の駐車場に車を停め、向かった先は妙義神社。妙義神社 花見
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イチオシ
境内には彼岸花が可憐に咲いていました。
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石段の先に見える赤く塗られた総門は、かつて白雲山石塔寺であった時代には仁王門でした。
左右には邪気を睨みつける阿吽の仁王像が置かれています。 -
岩肌をむき出しにした妙義山が、すぐ目の前に見えます。
参道は、登山をする人のための登山道にもなっているらしく、一目で登山者と分かる重装備の人たちを何組か見かけました。
妙義山は、榛名山・赤城山とともに上毛三山に数えられるだけでなく、耶馬溪・寒露渓とともに日本三大奇勝にも選ばれています。
その妙義山を構成するのは、白雲山・金洞山・金鶏山の三山。
ひときわ高く険しい嶺の白雲山は、妙義神社の神体山とされます。妙義神社 花見
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銅鳥居をくぐって右側には波己曽社の社殿。
境内には案内板が少なく、どんな神様をお祀りしているのか分かりません。
どうやら波己曽社は旧本殿であるらしく、宣化天皇2年に創建された当時は妙義神社ではなく波己曽社を名乗っていたようです。
妙義の名は菅原道真公がこの地の景勝を愛し、明魂と名づけたことに由来するようで、道真公は御祭神の一柱でもあります。
道真公が本当にここを訪れたかどうかは文献を調べていないのでなんとも言えませんが、日本武尊も御祭神であることから、やはり元々は修験道の修行場であったのが最初なのではないかと思われます。妙義神社 花見
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ここから先はまっすぐ伸びる165段の急な石段。
石段は昔のままの状態を保っていますが、参道両脇の杉はまだ植えられたばかりの若い苗木が目立ちました。
景観を維持するためには相応の努力が必要で、しかも何十年単位での確かな計画がなければならないのでしょう。 -
石垣の上に建てられた唐門をくぐると、いよいよ本殿のある場所です。
唐門は宝暦6年の建造で、扉には鳳凰の彫刻が施されています。 -
平成19年の台風によって本殿の裏山が崩れ、本殿への被害は免れたものの透垣などが一部破損してしまったため、5年をかけて修復工事が行われていました。
本殿への参拝が可能となったのは、平成24年12月から。
まるで日光東照宮のような豪壮華麗な社殿は、修復されたばかりとあってひときわ輝いています。 -
本来なら真っ先に参拝しなければならない一之宮は、群馬の旅の終盤に訪れることになりました。
上野国一之宮、貫前神社です。
現在の正式名称は一之宮貫前神社で、社格まで名称に含めてしまっているのは一之宮の中でもここだけ。
この名称が決まった当時の関係者は、一之宮であることを余程誇りに思っていたのでしょう。貫前神社 寺・神社・教会
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大鳥居の先にある総門の脇には、蛙の木と呼ばれる樹が葉を茂らせています。
学術的にはタブの木と呼ばれる樹種で、昭和18年に蛙の形をしたサルノコシカケが生えたことから、「勝ち蛙」として出兵兵士やその家族から尊ばれたということです。
現在は「無事蛙」と呼ばれ、交通安全のお守りとされています。 -
数多くの神社を参拝して来ましたが、ここ貫前神社の社殿の配置は非常に珍しい様式です。
神様は最も高い所にお祀りするのが常識ですが、貫前神社では本殿を見下ろすように石段を下り、最も深い場所に建つお社を参拝します。
このような配置を下り宮とも呼ぶようですが、古い歴史を持つ神社の中でこのような例は他に認められないのではないかと思います。
御創建はおよそ1400年前の安閑天皇元年。
物部氏の支族が氏神の経津主神をお祀りしたのが始まりとされています。
現在、御祭神は経津主神と姫大神の2柱。
姫大神は養蚕と機織りの女神とされることから、養蚕の盛んであったこの地方で古くから信仰されて来た神であり、いつからか外から来た経津主神と一緒に祀られるようになったのでしょう。貫前神社 寺・神社・教会
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現在の社殿は3代将軍徳川家光公の命による造営で、きらびやかな装飾をまとっています。
平成の大修復の最中でしたが、本殿と拝殿の修復は終わったばかりで、真新しい社殿を目の前にすることが出来ました。
残る透塀の修復も、この秋の間には完了するとのことです。 -
境内にあるスダジイと銀杏の2本の自然木は、どちらもとみおか名木十選に認定された立派な木です。
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群馬での最後の予定地、富岡製糸場には予定通り開館時間直前に到着。
入場券売り場が開くのを待つ見学客が思った以上に多く、観光施設として愛されていることを実感しました。
明治維新によって一足遅く国際社会に飛び込んだ日本にとって、国力を高めることは差し迫った課題でした。
教育面と軍事面、そして産業面でそれぞれ徳川幕府時代には考えられなかった政策が立案・実行され、西洋諸国が驚くほどの変化を遂げることに成功したのでした。
産業面で推し進められた政策を総称して殖産興業と呼びますが、富岡製糸場は殖産興業政策の中心的な存在となった施設です。
明治5年、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナの指導を仰ぎつつ、富岡製糸場は官営工場として操業を始めました。
ブリューナとはなかなか優れた感性の持ち主だったらしく、歴史ある日本という国において産業の発展を実現するには、日本らしさを失わない方法でそれを推進しなければならないと考えたようです。
彼がフランス式のやり方を強行したなら、おそらく富岡製糸場は現在まで残ることにはならなかったでしょう。
富岡製糸場にて詠む
日の本の門出紡ぎしをとめらの
影もはやなき煉瓦屋のまど富岡製糸場 名所・史跡
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受付から見て正面にある横長の建物は東繭倉庫。
その一部が展示室と売店として見学者を受け入れています。
展示用ですが、実際に蚕を飼っています。 -
展示室では決められた時間には糸車の実演が行われています。
江戸時代まではこの道具を使って絹糸を紡いでいましたが、これを機械化して今でいう大量生産を実現したのが紡績機です。 -
生糸の原料となる繭は、中の蛹を殺したりカビ発生を防いだりするため、まずは乾燥させます。
乾燥させるための建物は大正11年に建てられ、操業停止まで使われていました。 -
乾燥させられた繭は繰糸場に運ばれ、いよいよ生糸として紡がれます。
富岡製糸場にはフランス式の繰糸器が300釜も備えられ、世界最大の規模を誇りました。 -
敷地内には、お雇い外国人として明治8年まで指導に当たったブリュナの住宅が残されています。
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また昭和15年に建てられた3代目の診療所も残されています。
労働者を使い捨てにするのではなく人として大切に扱うことが、日本の産業を強くした最大の理由だったことを忘れてはなりません。 -
富岡製糸場の見学を終えると、朝から何も食べていないことに気づきました。
製糸場の周辺は観光地として多くの商店が並びますが、店内でシューマイを食べられる信州屋という店に入ることにしました。
名物である絹入りのシューマイをお土産に買って帰りたいところですが、帰宅するのは夜遅くとなるので、この場で食べるだけで済ませることにします。
熱々のシューマイは口の中でとろけるような触感で、上品な味でした。信州屋 グルメ・レストラン
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イチオシ
予定通りにレンタカーを返却し、湘南新宿ラインで新宿へ。
中央線を使って分倍河原駅へと向かいます。
分倍河原は乗換駅ですが、駅前にある新田義貞公之像を見るために改札を出ました。
数ある騎馬像の中でも、いわゆる最も「カッコイイ」像だと思っています。
器用に思慮深く立ち回り、身内までも自らの手で死に至らしめた足利尊氏公と、不器用で生一本で、最後まで後醍醐天皇を信じ死地に赴いた新田義貞公。
無常なる現し世では足利が勝利を収めましたが、不滅の魂の世界では足利は新田に頭が上がらないことでしょう。新田義貞公之像 名所・史跡
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分倍河原で乗り換え、聖蹟桜ヶ丘駅で下車。
この旅の締めくくりは、武蔵国一之宮の小野神社です。
駅から歩くこと約10分。
住宅街の用水路に鯉が泳いでいるようなのどかな土地に鎮座しています。小野神社 寺・神社・教会
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小野神社は日本の首都である東京都に鎮座しているのとは対照的に、一之宮の中で恐らく最も規模の小さい神社でしょう。
まず神職が常駐しておらず、また周辺には小野神社を名乗る神社が多数あってそれぞれが正統を主張し、社殿も比較的新しいものばかりです。
しかし遺跡からの出土品から察するに、大国魂神社が武蔵総社に定まるまでは多くの伽藍が立ち並ぶ姿をしていたことでしょう。
御祭神の天下春命は八意思兼神の御子神で、八意思兼神を祀る秩父神社を含め、武蔵西部が一つのまとまりであったことを示唆しているようです。 -
東京駅で友人と待ち合わせ、酒を飲みながら近況報告。
しかし調子に乗って飲みすぎたため、帰りの新幹線の乗車券を紛失してしまい2枚目を買うことに。
自分の愚かさに呆れながら、慌ただしい日程の旅を終えることになったのでした。
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