2013/05/06 - 2013/05/06
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ドクターキムルさん
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鎌倉市二階堂にある覚園寺(かくおんじ)は真言宗泉涌寺派の寺であり、鷲峰山(じゅぶせん)覚園寺という。
覚園寺は、2代執権・北条義時(北条政子の弟)の戌神将伝説で知られている大蔵薬師堂(建保6年 (1218年)の創建)を前身とし、9代執権・北条貞時の時代(永仁4年(1296年))に正式に寺院となった。このときの開山は京都泉桶涌寺の智海心慧(ちかいしんえ)である。同じ鎌倉の泉涌寺派の浄光明寺と同様に浄土、真言、律、禅の四宗兼学の道場であった。また、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇は覚園寺を勅願寺とした。その後は足利尊氏の庇護を受け、建武4年(1337年)の火災では仏殿(薬師堂)が焼失するが、文和3年(1354年)に尊氏により再建され、尊氏自書の梁牌が虹梁に残されている。なお、現存する薬師堂は尊氏再興時の部材を残しているが、元禄2年(1689年)に改築に近い大修理を受けている。このときに、裳階(もこし)を取り去り、茅葺き屋根に葺き替えられた。元々は、円覚寺舎利殿のように入母屋作りの柿葺(こけらぶき)であった可能性もあるという(。ただし、江戸初期の修理で茅葺きに葺き替えられたが、昭和42年(1977年)の修理で柿葺に戻された)。現在では寺社にはトタン屋根は少なく銅葺きであるように、当時(江戸時代)は困窮しており、茅葺きは背に腹には代えられず、止むに止まれずに葺き替えたのだという。多少の瓦が発掘されていることから、鎌倉国宝館で平成17年(2005年)に開催された「特別展 覚園寺−開山智海心慧七百年忌記念−」の図録では「重層裳階付瓦葺き」としている。それも、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊した。
本尊薬師如来像、日光・月光菩薩像、十二神将像や明治初年に廃寺となった大楽寺由来や智理光寺由来の貴重な仏像が残されている。廃物稀釈でも伝来の仏像が散逸しなかったのは逆賊・尊氏の寺であったことも幸いしたと今の住職は話している。
覚園寺が管理している百八やぐらは鎌倉切っての大寺院であった永福寺の関係者の墓ではないのかと疑問をぶっつけると、薬師堂ヶ谷に向いているやぐらは覚園寺の関係のものであることは確かでしょうと答えた。また、山号の鷲峰山は釈迦如来が法華経を説いた浄土を意味し、埋葬の地とされた可能性もあるとも断わった。その後、調べると、「鎌倉廃寺事典」(p.243)に「今、百八やぐらと称せられる墓窟群は恐らく永福寺関係のものであろう」とあった。
住職とついつい1時間半も話し込んでしまい、辺りは暗く成り掛けていた。それでもまだ、境内に立っていた鎌倉の夏の風物詩とされる「黒地蔵縁日」の看板が見えた。
(表紙写真は門前に立つ覚園寺境内図)
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