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京浜急行金沢文庫駅から徒歩15分の金沢山・称名寺(しょうみょうじ、神奈川県横浜市金沢区金沢町)を訪問しました。<br /><br /><br />現地入手の称名寺パンフレットでは次の通り紹介されています。<br /><br />『称名寺は鎌倉幕府(12~14世紀)の北条一族の中核で幕府内でも重責を担った北条実時(ほうじょう・さねとき)が、ここ金沢の地に13世紀中頃本拠地を造り、その中に持仏堂を建てたのが始まりです。実時の子顕時(あきとき)、孫の貞顕(さだあき)が更に拡充して、三重塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院とした全盛時代の様子が「称名寺絵図」(1323年)に記録されています。<br /><br />鎌倉は、幕府が開かれ人口も急増し、各地から米を始め大量の物資が船で運び込まれました。金沢の六浦が外港として鎌倉の台所口となり、物資は朝比奈切り通しを越えて運ばれました。六浦は、重要な地となり、金沢北条氏が邸宅を構えてこの地を抑えたとされています。』

武蔵金沢文庫 鎌倉幕府3代執権北条泰時に連なる北条実時が鎌倉の外港とされる要衝地金沢に居館を構え自ら開基の『称名寺』訪問

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2012/10/20 - 2012/10/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

京浜急行金沢文庫駅から徒歩15分の金沢山・称名寺(しょうみょうじ、神奈川県横浜市金沢区金沢町)を訪問しました。


現地入手の称名寺パンフレットでは次の通り紹介されています。

『称名寺は鎌倉幕府(12~14世紀)の北条一族の中核で幕府内でも重責を担った北条実時(ほうじょう・さねとき)が、ここ金沢の地に13世紀中頃本拠地を造り、その中に持仏堂を建てたのが始まりです。実時の子顕時(あきとき)、孫の貞顕(さだあき)が更に拡充して、三重塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院とした全盛時代の様子が「称名寺絵図」(1323年)に記録されています。

鎌倉は、幕府が開かれ人口も急増し、各地から米を始め大量の物資が船で運び込まれました。金沢の六浦が外港として鎌倉の台所口となり、物資は朝比奈切り通しを越えて運ばれました。六浦は、重要な地となり、金沢北条氏が邸宅を構えてこの地を抑えたとされています。』

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 称名寺市民の森・案内図<br /><br />すっかり整備され公園として市民の憩いの場となっています。

    称名寺市民の森・案内図

    すっかり整備され公園として市民の憩いの場となっています。

  • 称名寺・赤門

    称名寺・赤門

  • 称名寺・参道

    称名寺・参道

  • 称名寺塔頭光明院・表門

    称名寺塔頭光明院・表門

  • 説明板

    説明板

  • 称名寺・仁王門<br /><br />仁王門は1818年再建、仁王(金剛力士像)は寺院の聖域を守る一対の仁王像が安置されています。仁王門を通る事によって、参拝者の心が清められるといわれています。

    イチオシ

    称名寺・仁王門

    仁王門は1818年再建、仁王(金剛力士像)は寺院の聖域を守る一対の仁王像が安置されています。仁王門を通る事によって、参拝者の心が清められるといわれています。

  • 称名寺・庭園<br /><br />浄土の世界をこの世に再現しようとした庭園洋式になっています。阿字ケ池を中心に此岸と中之島を結ぶ反橋は過去から現在までの苦労を表し、中之島からの平橋は仏の教えを守れば彼岸(弥勒浄土)に安らかに行けることを示しています。

    イチオシ

    称名寺・庭園

    浄土の世界をこの世に再現しようとした庭園洋式になっています。阿字ケ池を中心に此岸と中之島を結ぶ反橋は過去から現在までの苦労を表し、中之島からの平橋は仏の教えを守れば彼岸(弥勒浄土)に安らかに行けることを示しています。

  • 反橋と平橋

    反橋と平橋

  • 庭園・説明板

    庭園・説明板

  • 庭園風景

    庭園風景

  • 庭園風景

    庭園風景

  • 庭園風景

    庭園風景

  • 梵鐘堂<br /><br />北条実時が、父の七回忌に鋳造させ、子の顕時が1301年に再鋳造しました。(高さ127Cm、口径70Cm、重さ375Kg)

    梵鐘堂

    北条実時が、父の七回忌に鋳造させ、子の顕時が1301年に再鋳造しました。(高さ127Cm、口径70Cm、重さ375Kg)

  • 釈迦堂<br /><br />落着いた茅葺の屋根がひっそりと控えています。称名寺創建の北条実時の33回忌の徳治3年(1308)に造営されました。屋根のトップには北条家家紋「三つ鱗」が配されています。

    釈迦堂

    落着いた茅葺の屋根がひっそりと控えています。称名寺創建の北条実時の33回忌の徳治3年(1308)に造営されました。屋根のトップには北条家家紋「三つ鱗」が配されています。

  • 金堂

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    金堂

  • 金堂瓦<br /><br />特徴深い瓦が印象的です。瓦には北条家の家紋「三つ鱗」が刻まれており、実時ら北条氏一族に使用が許されている家紋です。

    金堂瓦

    特徴深い瓦が印象的です。瓦には北条家の家紋「三つ鱗」が刻まれており、実時ら北条氏一族に使用が許されている家紋です。

  • 金堂前<br /><br />北条家家紋「三つ鱗」が刻されています。

    金堂前

    北条家家紋「三つ鱗」が刻されています。

  • 庭園風景<br /><br />金堂から平橋と阿字ケ池を捉えます。

    庭園風景

    金堂から平橋と阿字ケ池を捉えます。

  • 謡曲「六浦」と青葉楓

    謡曲「六浦」と青葉楓

  • 百番観世音霊場登口<br /><br />右手には「百番観世音霊場登口」と刻印された石柱があります。

    百番観世音霊場登口

    右手には「百番観世音霊場登口」と刻印された石柱があります。

  • 称名寺・百観音石碑<br /><br />時間の関係もあり登りませんでしたが、百観音は西国三十三霊場の観音、坂東三十三霊場の観音そして秩父三十四霊場観音を当山で一挙に参拝できるようです。

    称名寺・百観音石碑

    時間の関係もあり登りませんでしたが、百観音は西国三十三霊場の観音、坂東三十三霊場の観音そして秩父三十四霊場観音を当山で一挙に参拝できるようです。

  • 楷樹(孔子木)<br /><br />一般には楷の木と呼ばれており、中国・台湾に産して日本では見られず僅かに孔子に関係する湯島聖堂(東京)及び足利学校(栃木)で確認できる程度です。

    楷樹(孔子木)

    一般には楷の木と呼ばれており、中国・台湾に産して日本では見られず僅かに孔子に関係する湯島聖堂(東京)及び足利学校(栃木)で確認できる程度です。

  • 境内風景

    境内風景

  • 北条実時墓所への階段

    北条実時墓所への階段

  • 北条実時墓所<br /><br />北条実時(1224~1276)は鎌倉幕府第2代目執権北条義時の孫で貞応3年に実泰の子として生まれました。実時は引付衆や評定衆など幕府の要職を歴任し、文永3年追訴奉行を務めています。<br /><br />政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力を尽くし、文武ともに優れた知識人で、現在の称名寺がある地に別業を開き、金沢文庫の礎を築きました。<br /><br />墓地内中央の宝篋院塔は実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔は一門の墓といわれています。<br /><br />また、江戸時代この墓地を修理した時は、素焼きの壺の類が出土したといいます。(説明板)

    北条実時墓所

    北条実時(1224~1276)は鎌倉幕府第2代目執権北条義時の孫で貞応3年に実泰の子として生まれました。実時は引付衆や評定衆など幕府の要職を歴任し、文永3年追訴奉行を務めています。

    政治面で活躍する一方、広範な分野の学問にも力を尽くし、文武ともに優れた知識人で、現在の称名寺がある地に別業を開き、金沢文庫の礎を築きました。

    墓地内中央の宝篋院塔は実時の墓と伝えられ、さらに左右の五輪塔は一門の墓といわれています。

    また、江戸時代この墓地を修理した時は、素焼きの壺の類が出土したといいます。(説明板)

  • 北条実時墓所<br /><br />中央部の宝篋院塔が実時、奥の五輪塔が一族の墓と伝えられてます。<br /><br />辺りは広い敷地となって当地を拠点とした実時の威容が感じられます。

    北条実時墓所

    中央部の宝篋院塔が実時、奥の五輪塔が一族の墓と伝えられてます。

    辺りは広い敷地となって当地を拠点とした実時の威容が感じられます。

  • 庭園風景

    庭園風景

  • 北条実時像

    北条実時像

  • 北条顕時・貞顕墓所への階段

    北条顕時・貞顕墓所への階段

  • 北条顕時・貞顕墓所<br /><br />北条顕時(1248~1301)は実時の子で鎌倉幕府の重職であった引付衆(ひきつけしゅう)や評定衆(ひょうじょうしゅう)などを歴任しました。1285年の霜月騒動により一時政界を退きましたが、その間禅に傾倒し、五山版のさきがけとなる「伝心法要」の開版を行いました。<br /><br />貞顕(1278~1333)は顕時の子で六波羅探題を務めた後第15代執権となりました。和漢の書物を多数収集し、金沢文庫を国内屈指の武家の文庫に創り上げるとともに、称名寺の伽藍や庭園の整備につくし、その最盛期を築きました。1333年新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにあい、北条高時及び北条一族とともに鎌倉東勝寺で滅びました。<br /><br />墓地は従来向かって右の五輪塔が貞顕、左の五輪塔が顕時の墓とされましたが、1935年右の五輪塔から青磁壺(重要文化財)が発見され、さらにその五輪塔の様式等から、右の五輪塔が顕時、左の五輪塔が貞顕で南北朝期の供養塔と確認されました。(説明板)<br /><br />

    北条顕時・貞顕墓所

    北条顕時(1248~1301)は実時の子で鎌倉幕府の重職であった引付衆(ひきつけしゅう)や評定衆(ひょうじょうしゅう)などを歴任しました。1285年の霜月騒動により一時政界を退きましたが、その間禅に傾倒し、五山版のさきがけとなる「伝心法要」の開版を行いました。

    貞顕(1278~1333)は顕時の子で六波羅探題を務めた後第15代執権となりました。和漢の書物を多数収集し、金沢文庫を国内屈指の武家の文庫に創り上げるとともに、称名寺の伽藍や庭園の整備につくし、その最盛期を築きました。1333年新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにあい、北条高時及び北条一族とともに鎌倉東勝寺で滅びました。

    墓地は従来向かって右の五輪塔が貞顕、左の五輪塔が顕時の墓とされましたが、1935年右の五輪塔から青磁壺(重要文化財)が発見され、さらにその五輪塔の様式等から、右の五輪塔が顕時、左の五輪塔が貞顕で南北朝期の供養塔と確認されました。(説明板)

  • 北条顕時・貞顕墓所

    北条顕時・貞顕墓所

  • 北条顕時墓石

    北条顕時墓石

  • 中世のトンネル<br /><br />称名寺側から見たトンネルです。

    中世のトンネル

    称名寺側から見たトンネルです。

  • トンネル説明板

    トンネル説明板

  • 現在のトンネル<br /><br />称名寺と金沢文庫を連絡するトンネルが作られています。

    現在のトンネル

    称名寺と金沢文庫を連絡するトンネルが作られています。

  • 中世のトンネル<br /><br />中世資料博物館側から見たトンネルです。

    中世のトンネル

    中世資料博物館側から見たトンネルです。

  • 中世資料博物館<br /><br />かつての金沢文庫跡地に中世資料館が建てられています。<br /><br />自分が入館した時は「鎌倉興隆」-金沢文庫とその時代-特別展がなされていました。

    中世資料博物館

    かつての金沢文庫跡地に中世資料館が建てられています。

    自分が入館した時は「鎌倉興隆」-金沢文庫とその時代-特別展がなされていました。

  • 金沢文庫と称名寺説明板

    金沢文庫と称名寺説明板

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