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かつての薬王寺(やくおうじ、神奈川県横須賀市大矢部)には三浦半島衣笠に拠点を置き鎌倉時代中期まで有力御家人の中で二代目将軍頼家を補佐する合議制の一人として三浦氏棟梁だった三浦義澄(みうら・よしずみ、1127~1200)の廟があります。<br /><br />三浦義澄は治承4年(1180)に源頼朝が伊豆で旗揚げ時に、直ちに頼朝方を支持した事により周辺豪族に影響を与え幕府創設に大きく貢献した三浦義明(みうら・よしあき)の後継で、討死した義明と別れた後一族を引き連れ房総で頼朝と合流、下総から武蔵を経て鎌倉入りに頼朝を支えた有力御家人のひとりです。<br /><br />三浦一族は関東豪族の中で特に源氏との歴史的関係深く、遡れば源頼義並びに義家以来の事で、源頼義が相模守に任じられた頃、三浦氏祖の為通(ためみち、1010?~1083)はたちまち主従関係を結んでいたようです。<br /><br />その後頼義の前九年の役には為通もこれに従い手柄をたて、その功により三浦郡の地を受領し三浦姓を名乗り衣笠に居館を構え、続く後三年の役でも義家に従うことでますます源氏との繋がりが深まり併せて三浦半島における三浦氏の地盤が広がります。<br /><br />頼朝の信頼は厚く、建久3年(1192)、頼朝が征夷大将軍に任じられる時、天皇の勅使が鎌倉に到着の際に、義澄は辞令を受け取る大役を演じます。<br /><br />また頼朝は度々自ら三浦の館を訪ねたり、あるいは三浦の地に造らせたいくつかの別荘に滞在したりして義澄への格別の信頼を与えていることを示しています。<br /><br />然しながら頼朝の絶大なる信頼を得ることで他の御家人の嫉妬をかう事に繋がることを義澄は警戒していましたから、どんな時でも控えめで慎重に対応していました。<br /><br />正治2年(1200)義澄が74歳でなくなると、それまでの北条氏との権力闘争が激化します。つまり後継の義村は父義澄の我慢強さを受け継いでおらず、対する北条義時の権謀さにおいては優るとも劣らずで互いに腹の探り合いが続きます。<br /><br />この権力闘争にも終局を迎えます。宝治元年(1247)、時の執権北条時頼と三浦泰村・光村兄弟と武力対決の場面を迎え、結果北条軍の勝利で幕府創設以来55年を経てようやく宿敵を倒し安定勢力となります。<br /><br /><br />2022年8月17日追記<br /><br />義澄暮石付近に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。<br /><br />『  横須賀市指定史跡<br />        薬 王 寺 旧 跡<br /><br />薬王寺は仏頂山と号し、建暦2年(1212)鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛が父義宗や叔父義澄の菩提を弔うため創建したものと伝えられるが、明治9年頃廃寺となった。もともとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。<br /><br />石塔群のうち凝灰岩製の方形石を三重した石塔は、三浦荒次郎義澄と伝えている。最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、二層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれている。<br /><br />これら石塔群は当地出土の元応2年(1320)銘の青板碑(満昌寺)とともに薬王寺の歴史を裏づける貴重な存在である。<br /><br />      昭和48年1月指定<br />                  横須賀市教育委員会 』<br /><br /><br /><br /><br /><br />

相模三浦衣笠 13世紀初頭鎌倉幕府侍所別当の和田義盛が父義宗と叔父義澄を供養するため創建したとされる『薬王寺旧跡』散歩

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2012/10/20 - 2012/10/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

かつての薬王寺(やくおうじ、神奈川県横須賀市大矢部)には三浦半島衣笠に拠点を置き鎌倉時代中期まで有力御家人の中で二代目将軍頼家を補佐する合議制の一人として三浦氏棟梁だった三浦義澄(みうら・よしずみ、1127~1200)の廟があります。

三浦義澄は治承4年(1180)に源頼朝が伊豆で旗揚げ時に、直ちに頼朝方を支持した事により周辺豪族に影響を与え幕府創設に大きく貢献した三浦義明(みうら・よしあき)の後継で、討死した義明と別れた後一族を引き連れ房総で頼朝と合流、下総から武蔵を経て鎌倉入りに頼朝を支えた有力御家人のひとりです。

三浦一族は関東豪族の中で特に源氏との歴史的関係深く、遡れば源頼義並びに義家以来の事で、源頼義が相模守に任じられた頃、三浦氏祖の為通(ためみち、1010?~1083)はたちまち主従関係を結んでいたようです。

その後頼義の前九年の役には為通もこれに従い手柄をたて、その功により三浦郡の地を受領し三浦姓を名乗り衣笠に居館を構え、続く後三年の役でも義家に従うことでますます源氏との繋がりが深まり併せて三浦半島における三浦氏の地盤が広がります。

頼朝の信頼は厚く、建久3年(1192)、頼朝が征夷大将軍に任じられる時、天皇の勅使が鎌倉に到着の際に、義澄は辞令を受け取る大役を演じます。

また頼朝は度々自ら三浦の館を訪ねたり、あるいは三浦の地に造らせたいくつかの別荘に滞在したりして義澄への格別の信頼を与えていることを示しています。

然しながら頼朝の絶大なる信頼を得ることで他の御家人の嫉妬をかう事に繋がることを義澄は警戒していましたから、どんな時でも控えめで慎重に対応していました。

正治2年(1200)義澄が74歳でなくなると、それまでの北条氏との権力闘争が激化します。つまり後継の義村は父義澄の我慢強さを受け継いでおらず、対する北条義時の権謀さにおいては優るとも劣らずで互いに腹の探り合いが続きます。

この権力闘争にも終局を迎えます。宝治元年(1247)、時の執権北条時頼と三浦泰村・光村兄弟と武力対決の場面を迎え、結果北条軍の勝利で幕府創設以来55年を経てようやく宿敵を倒し安定勢力となります。


2022年8月17日追記

義澄暮石付近に建てられた説明板には下記の通り紹介されています。

『  横須賀市指定史跡
        薬 王 寺 旧 跡

薬王寺は仏頂山と号し、建暦2年(1212)鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛が父義宗や叔父義澄の菩提を弔うため創建したものと伝えられるが、明治9年頃廃寺となった。もともとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。

石塔群のうち凝灰岩製の方形石を三重した石塔は、三浦荒次郎義澄と伝えている。最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、二層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれている。

これら石塔群は当地出土の元応2年(1320)銘の青板碑(満昌寺)とともに薬王寺の歴史を裏づける貴重な存在である。

      昭和48年1月指定
                  横須賀市教育委員会 』





交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 薬王寺旧跡案内板<br /><br />

    薬王寺旧跡案内板

  • 改修記念碑

    改修記念碑

  • 霊廟<br /><br />薬王寺は建暦2年(1212)当時の侍所別当であった和田義盛が父義宗と叔父義澄の菩提を弔うために創設したと伝えられてますが、明治9年頃廃寺になってます。

    霊廟

    薬王寺は建暦2年(1212)当時の侍所別当であった和田義盛が父義宗と叔父義澄の菩提を弔うために創設したと伝えられてますが、明治9年頃廃寺になってます。

  • 霊廟<br /><br />中央が三浦義澄の墓と言われています。<br /><br />

    イチオシ

    霊廟

    中央が三浦義澄の墓と言われています。

  • 霊廟一部

    霊廟一部

  • 薬王寺旧跡説明坂<br /><br />

    薬王寺旧跡説明坂

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