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京浜急行逗子線神武寺駅から徒歩5分、高野山真言宗青龍山・東昌寺(とうしょうじ、神奈川県逗子市池子)は鎌倉にあった東勝寺(とうしょうじ)が起源となっています。<br /><br />元弘3年(1333)、新田義貞軍により鎌倉に攻め込まれた北条高時以下一族を含む約870名が東勝寺にて自刃し、141年続いた鎌倉幕府はここに終焉を迎えます。<br /><br />東勝寺住職の新海和尚は源頼朝が平家亡霊の成仏祈願の為に造立させたというご本尊の大日如来像をいち早く救い出し、当地に東勝寺を再建します。<br /><br />江戸時代になりますと当地は鎌倉の英勝寺(えいしょうじ)の支配下に入ったため寺名の「勝」を「昌」に改め現在に至ってます。英勝寺は徳川御三家、水戸徳川初代徳川頼房の養母であった太田道灌の塁孫娘が英勝院尼となって開基したことで著名な尼寺ですが、水戸徳川家への遠慮からの改名と思われます。<br /><br />上述の通り鎌倉時代から由緒ある社寺ではありますが、境内の規模に恵まれないこともあり不本意な境遇に置かれているようですがそれに反してピリッとした歴史の重みを感じざるを得ません。<br /><br /><br />2022年8月14日追記<br /><br />東昌寺ホームページには下記の如く詳細にわたって紹介されています。<br /><br />『 東昌寺歴史<br /><br />東昌寺は、鎌倉時代に北条泰時公により執権家歴代の菩提寺として鎌倉の西ケ谷(鎌倉市小町)に建立された東勝寺に由来すると伝えられています。東勝寺は、当時、青龍山東勝寺と呼ばれていました。<br /><br />一方、後に東昌寺の境内に移されることになった丈六阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂が、承久2年(1221年)に池子の大上阿弥陀ケ谷(おおがみあみだがや、現在の県立逗子高校の奥)に建立されました。この阿弥陀堂は、源実朝公の非業の死を弔うために母の政子が、仏師・運慶に依頼して丈六阿弥陀如来像を作像させ祀ったという石碑がありました。<br /><br />元久3年(1333)5月22日、新田義貞の率いる大軍が、稲村ガ崎から鎌倉に攻め込みました。北条勢は、必死に防衛しましたがその甲斐もなく、新田軍が若宮大路まで迫ってきました。その事を知った北条高時は、一族郎党とともに先祖代々の墓地のある東勝寺立てこもり、そこを最期の場所に選び、寺に火をかけて自害して最期を迎えました。この戦いは、東勝寺合戦として知られています。この戦火の中を当時の東勝寺の住職・信海和上はただ一人で本尊の大日如来像(平家亡霊の成仏祈願のため、頼朝が全信僧都に命じて造立したと伝えられる)を守り、山道伝いに池子に落ちのびて東勝寺を再建したと伝えられています。<br /><br />江戸時代になって池子は、寛永14年(1637)に水戸徳川家につながる尼寺の英勝寺の支配下になりました。この寺の名は、水戸家への遠慮から「勝」の字を「昌」に改め、「海照山東勝寺」から「青龍山東昌寺」に変わりました。また、英勝寺の命により阿弥陀堂が東昌寺境内に移されました。<br /><br />池子は、逗子市内で、もっとも古くから開けた土地で、古東街道として日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の道として使われていました。また、池子は、徳川家に支配されていたことから、徳川家の紋所(立三葉葵)が随所に見ることができます。<br /><br />享保12年(1727年)に火災になり、寺のすべてを消失しました。当時の住職の寛定、頼雄、海乗の三代にわたり50年をかけて復興事業を行い、今日の東昌寺ができました。』<br /><br /><br />

相模逗子 第3代北条泰時が執権家歴代菩提寺として創建し高時一族が自害全焼した東勝寺に由来し江戸期には水戸徳川家支配下に置かれた『東昌寺』散歩

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2012/10/20 - 2012/10/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

京浜急行逗子線神武寺駅から徒歩5分、高野山真言宗青龍山・東昌寺(とうしょうじ、神奈川県逗子市池子)は鎌倉にあった東勝寺(とうしょうじ)が起源となっています。

元弘3年(1333)、新田義貞軍により鎌倉に攻め込まれた北条高時以下一族を含む約870名が東勝寺にて自刃し、141年続いた鎌倉幕府はここに終焉を迎えます。

東勝寺住職の新海和尚は源頼朝が平家亡霊の成仏祈願の為に造立させたというご本尊の大日如来像をいち早く救い出し、当地に東勝寺を再建します。

江戸時代になりますと当地は鎌倉の英勝寺(えいしょうじ)の支配下に入ったため寺名の「勝」を「昌」に改め現在に至ってます。英勝寺は徳川御三家、水戸徳川初代徳川頼房の養母であった太田道灌の塁孫娘が英勝院尼となって開基したことで著名な尼寺ですが、水戸徳川家への遠慮からの改名と思われます。

上述の通り鎌倉時代から由緒ある社寺ではありますが、境内の規模に恵まれないこともあり不本意な境遇に置かれているようですがそれに反してピリッとした歴史の重みを感じざるを得ません。


2022年8月14日追記

東昌寺ホームページには下記の如く詳細にわたって紹介されています。

『 東昌寺歴史

東昌寺は、鎌倉時代に北条泰時公により執権家歴代の菩提寺として鎌倉の西ケ谷(鎌倉市小町)に建立された東勝寺に由来すると伝えられています。東勝寺は、当時、青龍山東勝寺と呼ばれていました。

一方、後に東昌寺の境内に移されることになった丈六阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂が、承久2年(1221年)に池子の大上阿弥陀ケ谷(おおがみあみだがや、現在の県立逗子高校の奥)に建立されました。この阿弥陀堂は、源実朝公の非業の死を弔うために母の政子が、仏師・運慶に依頼して丈六阿弥陀如来像を作像させ祀ったという石碑がありました。

元久3年(1333)5月22日、新田義貞の率いる大軍が、稲村ガ崎から鎌倉に攻め込みました。北条勢は、必死に防衛しましたがその甲斐もなく、新田軍が若宮大路まで迫ってきました。その事を知った北条高時は、一族郎党とともに先祖代々の墓地のある東勝寺立てこもり、そこを最期の場所に選び、寺に火をかけて自害して最期を迎えました。この戦いは、東勝寺合戦として知られています。この戦火の中を当時の東勝寺の住職・信海和上はただ一人で本尊の大日如来像(平家亡霊の成仏祈願のため、頼朝が全信僧都に命じて造立したと伝えられる)を守り、山道伝いに池子に落ちのびて東勝寺を再建したと伝えられています。

江戸時代になって池子は、寛永14年(1637)に水戸徳川家につながる尼寺の英勝寺の支配下になりました。この寺の名は、水戸家への遠慮から「勝」の字を「昌」に改め、「海照山東勝寺」から「青龍山東昌寺」に変わりました。また、英勝寺の命により阿弥陀堂が東昌寺境内に移されました。

池子は、逗子市内で、もっとも古くから開けた土地で、古東街道として日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の道として使われていました。また、池子は、徳川家に支配されていたことから、徳川家の紋所(立三葉葵)が随所に見ることができます。

享保12年(1727年)に火災になり、寺のすべてを消失しました。当時の住職の寛定、頼雄、海乗の三代にわたり50年をかけて復興事業を行い、今日の東昌寺ができました。』


交通手段
私鉄 徒歩

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  • 東昌寺山門<br /><br />東昌寺で最も古い建物で元文5年(1740年)に建立されました。昭和42年に茅葺を瓦葺きに葺き替えられました。

    東昌寺山門

    東昌寺で最も古い建物で元文5年(1740年)に建立されました。昭和42年に茅葺を瓦葺きに葺き替えられました。

  • 東昌寺社標

    東昌寺社標

  • 本堂<br /><br />本尊大日如来が安置されています。大正12年の関東大震災で、江戸時代に建立されていた本堂が倒壊し、昭和9年に建立されました。

    本堂

    本尊大日如来が安置されています。大正12年の関東大震災で、江戸時代に建立されていた本堂が倒壊し、昭和9年に建立されました。

  • 阿弥陀如来像<br /><br />承久2年(1221)北条政子は自分の息子である鎌倉幕府第三代将軍実朝(さねとも)の菩提を弔うため阿弥陀如来像を彫らせて、池子の近隣の阿弥陀堂に祀ったと伝えられています。阿弥陀堂を含む地域が英勝寺の支配下に入った江戸時代になりますと、阿弥陀堂が東昌寺に移され、逗子市の重要文化財となっています。<br /><br />

    阿弥陀如来像

    承久2年(1221)北条政子は自分の息子である鎌倉幕府第三代将軍実朝(さねとも)の菩提を弔うため阿弥陀如来像を彫らせて、池子の近隣の阿弥陀堂に祀ったと伝えられています。阿弥陀堂を含む地域が英勝寺の支配下に入った江戸時代になりますと、阿弥陀堂が東昌寺に移され、逗子市の重要文化財となっています。

  • 阿弥陀如来説明文

    阿弥陀如来説明文

  • 二階堂行盛五輪塔<br /><br />この五輪塔は鎌倉幕府第8代執権北条時宗(ほうじょう・ときむね、1251~1284)の甥で第10代執権北条師時(ほうじょう・もろとき、1275~1311)時代の武将である二階堂行盛(にかいどう・ゆきもり、1181~1253)の墓と伝えられています。<br /><br />当墓は従来二階堂氏ゆかりの寺で葉山町堀の内の慶増院にありましたが、その後東昌寺に合祀された経緯があります。

    イチオシ

    二階堂行盛五輪塔

    この五輪塔は鎌倉幕府第8代執権北条時宗(ほうじょう・ときむね、1251~1284)の甥で第10代執権北条師時(ほうじょう・もろとき、1275~1311)時代の武将である二階堂行盛(にかいどう・ゆきもり、1181~1253)の墓と伝えられています。

    当墓は従来二階堂氏ゆかりの寺で葉山町堀の内の慶増院にありましたが、その後東昌寺に合祀された経緯があります。

  • 二階堂行盛説明文

    二階堂行盛説明文

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