2013/01/15 - 2013/01/15
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ちびのぱぱさん
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路面電車を下駄にして、長崎の町をガラガラと歩く。
めがねのような石橋は、叩かず渡り
古い柱時計のある老舗菓子店で、ポルトガル伝来のカステイラの味を知る。
だれもいない、展望の良い公園で、龍馬になりきり
ヴェンセスラウ・デ・モラエスが、ため息をついた、長崎港の夜景に沈黙する。
中華街の名も知らぬ小さな料理店で、チャンポン麺にソースをかけることを学び
長崎刑務所浦上支所跡の原爆廃墟で、こみ上げてくるものをこらえつつ、人類の抱える罪深さを考える。
長崎に来て良かったなあ……
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄 徒歩 Peach
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ホテルモントレ長崎の隣、旧英国領事館の裏を歩いております。
長崎には、幕府が鎖国政策を放棄してすぐの安政6年(1859年)には、英国領事が置かれました。
この領事館ができたのは明治40年で、昭和17年まで使われたというのですから、ちょっと意外です。ホテルモントレ長崎 宿・ホテル
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どうして、長崎にイギリスの領事館があり続けたのだろう、と考えてみると、船が主要な交通手段であったあいだ、やはり、九州がもっともヨーロッパに近かったと言うことなんでしょうか。
そして当然、長崎がその玄関口であったわけです。
「日本も広いねえ、日本はいいねえ。」
この建物を見上げながら、妻がしきりに言います。
私も、そう思いました。
なにしろ、ついさっきまで大阪にいたのですから。
飛行機が、気軽な庶民の乗り物になり、船は、高価な移動手段になって行くのでしょうか。 -
すぐに、オランダ坂があります。
オランダ坂 名所・史跡
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活水女子
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ほんの150年ほど前から、おらんださんたちが、この通を行き来するようになりました。
このあたりに多く住んだ異人さんたちは、総じて「おらんださん」と呼び習わされたそうです。
わたしも、こどものころ、白人を見るとアメリカ人と呼び、髪を長くしている男の子はビートルズと呼んでいました。 -
大柄な白人の客を乗せて、この坂で人力車を引くのは、さぞかしいやだったことでしょう。
「オブリガーダ(ありがとう)。」
「ちぇっ、たったこれだけかよ。もう、おらんだはのせねえ。」
モラエスは、オランダ人ではなくポルトガル人です。
明治時代に日本に来て、徳島でその生涯を閉じた、ヴェンセスラウ・デ・モラエスをご存じでしょうか。
彼は、軍人、作家、そして商人という、それぞれ全く趣の異なる三つの顔を持っていました。
不思議なのは、そのどれひとつとして、ほんとうの彼を代表しているようには見えないところです。
彼は、おそらく、日本人以上にこの明治の日本を愛し、それは死ぬまで変わることがありませんでした。
モラエスが軍人として赴任していたマカオから、明治22年に初めて日本を訪れたのが、この長崎でした。
もう30年以上前、作家の新田次郎が毎日新聞に連載していた「孤愁(サウダーデ)」は、そのときのモラエスの感動を情感たっぷりに描写しております。
『船が進んでゆく両側の山の深い緑はしたたるばかりに輝いていた。……長崎湾を形成する地形のすべてに濃厚な緑の化粧が施されていた。……今までこの目で見てきたどの国の緑と較べても、この長崎のみどりに勝るものはない。』(「孤愁・上」毎日新聞社)
新田次郎はこの「孤愁」の執筆中に亡くなりましが、なんと30年以上を経て、息子さんが後を引き継いで完成させたのです。
ほんとに、びっくりしました。
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ポルトガル人であったモラエスが、生涯日本を愛し続け、日本に住み続けた理由は、いろいろあったと思います。
モラエスの面影を求めて、12年ほど前にポルトガルを訪れ、この国が驚くほど日本と似ていることに、すぐに気づきました。
特に、モラエスが最初に訪れたこの長崎の景色、ポルトガルの持つ不思議な自然と、とてもよく似ています。
シントラや、ブサコといった、深い森で覆われた地は、見たこともないような不思議な形の植物が繁茂しています。
たぶん、大西洋から吹き寄せる湿った空気のせいで、植物も人間もウェットになったのだと思いました。
そう、人間の気質も、とても日本と似ているように思います。
お隣でも、さばさばとしたスペイン人の気質とは、似てもにつかない、そう言っても過言ではないと思います。 -
オランダ坂を登り切ったあたりに、この東山手十二番館があります。
明治初期の造りだそうで、モラエスを含め、この地を訪れたおらんださんたちは、ここを利用したのかも知れません。
モラエスの心を躍らせた明治の景色を求めて、しばらく彷徨しようと思います。東山手十二番館 名所・史跡
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東山手洋風住宅群東山手洋風住宅群 名所・史跡
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おらんださん専用のアパートだったようです -
細い石段を下ってみます -
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洋風住宅群下の細道から、孔子廟を覗くことができます。 -
オランダ坂を反対側に下ります -
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路面電車の終着駅である石橋停車場を渡って、グラバー園の方に向かうと、珍しい斜行エレベーターがありました。
乗り方にとまどっていると、親切なご婦人が教えてくださいました。
坂の町リスボンにも、サンタジェスタのエレベーターというのがあって、この上のエレベーターがちょっと似ています。グラバー園 名所・史跡
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あちらこちらに、ねこがいるんです。 -
グラバー園からは、長崎港が一望できます。
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すぐ眼下に、長崎の造船所が見えています。
ベルギー号で来港したモラエスが、同室のイギリス人と、長崎の造船所と日本の未来について語るシーンがあります。
日本人が、わずかな期間に欧米の進んだ文明を取り入れ、それに追いつこうとしていること。
ここにはすでに、江戸時代のうちに艦船の修理工場である長崎製鉄所が作られ、明治4年には造船所として機能しはじめます。
モラエスの来た明治22年には、岩崎弥太郎の息子による三菱重工が後を引き継ぐべく産声を上げていました。 -
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園内で、岩崎本舗の角煮まんじゅうが、食べられます岩崎本舗 西浜町店 グルメ・レストラン
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グラバー邸 -
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グラバーと、龍馬たち幕末の志士との関係は、いろいろいわれています。
NHKの龍馬伝を思い出しながら、部屋を見て回りました。 -
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ポルトガルの、シントラやブサコのうっそうとした森の、不思議な植物たちを思い出しました。
このようなシダ植物が、生い茂っております。
孤愁というのは、サウダーデの訳として、新田次郎が考案したものなのでしょうか。
ウィキペディアのサウダーデの項を一部引用してみます。
「単なる郷愁(nostalgie、ノスタルジー)でなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事でもう得られない懐かしい感情を意味する言葉と言われる。
だが、それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、いわゆる『憧れ』といったニュアンスも含んでおり、簡単に説明することはできない。ポルトガルに生まれた民俗歌謡のファド (Fado) に歌われる感情表現の主要なものであるといわれる。」
新田次郎が孤愁という言葉で表現しようとしたものは、日本の奥深くへとのめり込んでゆくモラエスが聞く、ローレライの歌声のような気がしました。 -
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大浦天主堂
小説の中では、初めて日本を訪れたはずのモラエスが、この建物の由来を詳しく語って聞かせ、周りを驚かせるシーンが登場します。
江戸末期の元治2年に、フランス人神父によって建てられたもので、明治初期に今のカタチになりました。
浦上天主堂は、原爆によって崩壊しましたが、爆心地から離れていたこの教会は、大きな被害を免れたといいます。 -
昨年出版の「孤愁」によると、モラエスは、マカオにアチャンという中国人妻がいましたが、日本で福本ヨネと結婚し、彼女が死ぬと、ヨネの故郷の徳島に移って、死ぬまでそこで暮らしました。
最後は、いわゆる孤独死であったといいます。
本作には、ポルトガルのマメのスープと日本の味噌汁がとても似ていることが、モラエスの心象として描かれています。
徳島の味噌汁は、モラエスにとってふるさとの味となったのでしょうか。 -
夜に、もう一度ホテルを抜け出して、グラバー園につづく斜行エレベーター(グラバースカイロード)に行ってみました。
最上階のドアを出ると、目の前にはごらんの長崎の夜景が広がっておりました。
すでに先客がいて、髪の長い女性が、港を吹き上がってくる風に髪をなびかせて、夜の長崎を見つめています。
いつかこの港から、船に乗ってどこかに旅に出てみたいと、思いました。
たとえばそれが、マカオであったとしたら、どれほどすてきな旅になるでしょう。グラバースカイロード 乗り物
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