2013/01/15 - 2013/01/15
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ちびのぱぱさん
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カステラ、びいどろ、眼鏡橋……
幕末の長崎は、どんな景色だったのでしょう。
その名残を求めて、長崎の町歩きをしました。
できれば、龍馬に出会えればいいなあ……
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- カップル・夫婦
- 交通手段
- 徒歩 Peach
-
こぢんまりとしたホテルモントレ長崎……
アズレージョ(ポルトガルのタイル)の青が冴え、イベリア半島の情緒があります。
長崎の町は、江戸時代の鎖国政策下で、オランダと中国だけが出入りを許されていましたが、なぜかオランダよりも、ポルトガルの残り香が、つよく漂っているように思います。
オランダとポルトガルは、とても異なっています。
長崎に、ポルトガルの残像が400年も残り続けているのは、それが日本と西洋の、初めての出会いであったという以上のものが、きっとあると思うのです。
ハウステンボスは、ずいぶん離れたとこに、あるではないですか。 -
七つの丘の町リスボンは、この長崎と、よく似ています。
たとえ互いのことが見え無くても、この長崎の町は、きっとそのことを感じ取っているのです。
アムステルダムは…… やっぱり佐世保かな。(行ったことありませんが) -
手頃価格で、良い宿です。 -
ポルトガル風宿を朝に出て、江戸情緒を探して町を歩きます。 -
1634年に造られた眼鏡橋、二度ほど洪水で損壊しています。一度目は、橋が架けられてから14年後、そして二度目は350年後の昭和57年。
いずれも全損ではなく、ほかの中島川にかかる石橋たちに較べて、よく耐えたようです。
実は、この橋を渡るのは二度目で、一度目は昭和57年の水害の直前でした。今日と同じように、よく晴れ上がった青空が、メガネの形を引き立てていたと記憶しています。
橋の見えるみやげ屋で、小さな、ステンドガラス柄のビードロを、粋な女将さんから購入しました。
みやげ屋の狭い店内には、ビードロのほか大小様々の長崎凧が飾ってあり、天井には大きな長崎バラモンがつり下がっていました。
赤いバラモンの眼が、ぎょろりとこちらを睨んで、夢に出てきそうでした。
おみやげに買ったビードロは、しばらく自宅の棚に飾っていましたが、いつしか見あたらなくなりました。
さて、眼鏡橋を渡ろうとして、以前に渡ったときと違う何かを感じました。
「あれ、こんな感じだったかな?」
橋の昇り口の橋端は、階段状になっているのですが、それが以前と違うイメージを与えたのです。
後で調べると、明治期に、人力車の通行用につけられたスロープを、昭和57年に修復するとき、元の階段状に戻したのだと言うことでした。
なるほど、旧に復す、か……。
この珍しい橋のある景色に、江戸時代にここを訪れた人たちは、感嘆の声を上げたことでしょう。
「まっこと、きみょうなカタチをした橋じゃのう。ちくと渡ってみるかのう、わしも。」
なんて、龍馬さんも言ったのでしょうか。
-
古くはポルトガル、江戸に入っては、オランダと中国との交易の窓口だった長崎。
独特というか、チャンポンというか。 -
眼鏡橋から山の方へ歩くと、中通り商店街に出ます。
狭いながらも、趣のある店が並んでいます。
ちょうど、その角にあるのが1830年、天保元年創業、岩永梅寿軒。
おかしやさんです。 -
いろいろ美味しそうなものがありますが、目が行ったのはおしるこ。
モナカのようになっていて、皮をさいて中の具と一緒にお椀に入れ、お湯を注ぐだけでお汁粉のできあがり。
インスタントおしるこです。 -
たった一個(157円)しか買わなかったけど、……親切でした。
しにせには、独特のゆとり、というか、おっとりとした構えがあります。 -
商店街に沿って少し歩くと、高田茶屋「とんかつ文次郎」があります。
こぢんまりした店ですが、美味しいトンカツが食べられるだけでなく、
中は、龍馬ゆかりの亀山焼きが展示してあり、出される食器にも用いられています。
お昼ちょっと前なので、席に若干の余裕がありました。 -
坂本龍馬はこの亀山焼きのどんぶりで、飯を食っていたらしい。
ちなみに、下関市立長府博物館には、龍馬が滞在していた下関を離れる際、豊永長吉に餞別として贈ったと伝わる茶碗が展示されています。
さらに、その復刻版が3675円でAmazonに出ているので、龍馬ファンは購入して、それでカツ丼でも食べながら、新しい日本のあり方について思索を練るべきでしょう。 -
わたしらは、「六白黒豚の豚汁付きトンカツ定食」をいただきました。
特に日本の未来について考えるでもなく、ひとときの憩いに安堵するサラリーマンたちに混じって、このあとの観光ルートに思いをはせたのです。 -
ちょっと、気になって、Wikipediaを覗いてみると、
亀山焼きは慶応元年(1865年)、財政難のため廃窯となったあと、その工場跡地を高田利平が購入し、坂本龍馬が率いる亀山社中の活動拠点となったとあります。
長崎高田酒店のホームページを覗くと、
利平の弟文平の奥さんであるトキが、伊良林亀山で高田茶屋を営んでいるときに、龍馬たちがカンパーニーのための場所を探していることが伝わり、トキの一声ならぬ鶴の一声で貸すことが決まったといいます。
きっぷの良いおかみさんです。
その間を取り持ったのが小曽根乾堂(こぞねけんどう)で、NHK龍馬伝では本田博太郎が演じていました。
しぶくていい感じでした。
ついでながら、この小曽根家、もともと平戸の商人であった好夢(こうむ)という人が先祖で、眼鏡橋が慶安元年に損壊したときに修理したのが、彼だといわれています。
それにしても、好夢という名前、面白そうな人物を連想させます。夢が好きで、眼鏡橋を愛していた粋人だったのでしょうか。
その夢好きの血筋が、小曽根乾堂をして、龍馬という夢に力を貸さしめたのかもしれないと、想像してみました。
焼き物の方ですが、現在、高田家の子孫高田祐治氏が、亀山焼を『崎陽亀山焼高田茶屋』として再興中です。
この茶碗でご飯を食べているうちに、現在亀山社中の博物館になっている工場跡に、是非とも行ってみたくなりました。 -
中通り商店街から、眼鏡橋とは反対の山の方に上がってゆくと、ほぼ垂直に屹立する石垣に沿って水路が走る、細い通りに出ました。
山側に寺が並んでいる、寺町通りです…… -
民家の軒天の上で、日向ぼっこをするねこ
声をかけたら、のびをしました。 -
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どこまでも続く、石垣……
このあたりの景色、昔からずっと変わっていないかも、と思いました。 -
深崇寺と三福寺のあいだに、こんな通りがありました。 -
入ってみます。 -
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登りが一息つくところに、このような石柱がありました。
どうやら、ここを亀山社中跡と同定しているようです。 -
ふつうの古民家のような玄関を入り、少額の入場料を払って上がり框に立つと、誰かの家に入り込んだような気分になります。
中では、気さくなボランティアの方がいろいろと説明してくださいました。
ここは「龍馬かぶれ」の武田鉄矢さんが名誉館長で、写真の羽織も寄贈されたそうです。
龍馬ゆかりの品々の展示に、思わず感嘆の声を上げると、ここにあるのは、レプリカで、本物は京都にあります、と笑顔で説明してくれました。
しゃれっ気があって、楽しい説明を聞かせていただきました。 -
この靴、作らせたら5万くらいかかったとか…… -
龍馬かぶれ…… -
おりょうきぶん
もたれている柱は、当時からのものだそうで、
「たぶん、坂本龍馬がいつももたれかかっていた柱、っちゅうことになっとります。」
と、いたずらっぽい笑いを造りながら説明してくださいました。 -
そこから歩いてすぐの見晴らしの良い場所に、このようなものが……
このブロンズのブーツに足を入れ、銅でできたユニオン号の舵を握ると、
グラバー邸にあった隠し部屋のことが思い出されました。 -
龍馬についての資料は、少なくないとはいえ、なぞも多いようです。
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たとえば、龍馬とグラバーの関係のことがあります。
かたや、スコットランドの武器商人、
かたや、倒幕と新しい日本を築き上げる夢を抱く自由人。
スコットランド人というのは、どこか反体制的なところがあるように思います。
260年続いた旧態依然とした体制を、刷新しようとの志を持つ二歳年上の日本人に、グラバーはどんな思いを持って接したのでしょう。 -
たしか、勝海舟だったと思いますが、龍馬はぬけめのない西郷吉之助のようだと評していました。
紀州藩との船舶衝突事件のことなど考えると、交渉相手としての坂本龍馬は、恐ろしく手強い。
対するグラバーも、大変なやり手です。
この二人がどんなやりとりをしたのか、見てみたかったなあ。 -
グラバー園の道ばたに咲いていた、ソテツの雌花……
蛾の触覚のような大胞子葉につつまれ、龍馬の癖毛を連想しました。 -
ふたたび、伊良林亀山の
ブーツのブロンズのところから、ネコたちに導かれるように…… -
坂道を下り -
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松翁軒というカステラの老舗の本店に来ました。
場所は、公会堂のすぐ近くです。
このお店、1681年、長崎市の本大工町に初代山口屋貞助が店を構え、カステラや砂糖漬けなどの製造を始めました。歴代菓子作り一筋に三百余年を数える松翁軒の歴史は、ここが出発点となります。(松翁軒ホームページより)
そうとう古いです。
江戸時代に、カステラを食べるというのはどんな感じだったでしょう。
龍馬伝では、亀山社中でカステラを作ろうと、試作を重ねる様子が描かれていました。
うちの妻も、何度か挑戦していましたが、どうも、ひとつうまくできなかったようで、最近とんと作りません。
この老舗で、五三焼きを、二階のカフェでいただこうと思ったら、
「すみません、連休明けなもんで、二階はお休みにさせていただいてます。」
だそうで、呆然としていると、すぐにお盆にのったカステラとお茶が二人分出てきて、
「どうぞ、お召し上がりください。」
と、隅の椅子に案内されました。 -
1849年にたてられた崇福寺の三門。
ここはたしか……龍馬伝のなかにも登場していましたね。
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この浦島太郎の竜宮城のような三門を見て、龍馬もさぞかしよろこんだでしょう。 -
さて……、だいぶ日が傾いてきました。
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路面電車を乗り継いで、浦上の方に向かいました。
松山停車場で降りて、平和公園に向かいます。 -
まだ、陽が残っています。
長崎と広島では、原爆と一言でいっても、タイプが違います。
広島はウラン爆弾ですが、長崎は超微量原子のプルトニウム爆弾です。
つまり、日本は二種類の原子爆弾の実験場になりました。
平和公園には、長崎刑務所浦上支所の遺構があります。 -
人道的に見て、落としたのが日本ではなかった、ということは、せめてもの救いのように思われます。
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戦争とは何なのか、領土問題かまびすしい昨今に、冷静になって考える余裕は、集団としてみた人類にはないのでしょう。
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爆心地脇に立つ、移設された浦上天主堂の柱の一部です。
1グラムにも満たない物質が解放され、そのエネルギーが、この上空500mで解き放たれました。 -
その地下4mに、原爆落下当時の地層が残されていました。
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一瞬にして亡くなった方は、時間をかけて亡くなった人に比べて、まだ好運だっとさえ、思えてきます。
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最後に、亀山社中の上にある、風頭公園に行ってみました。
龍馬を語る政治家が多いように思います。
ならば、ほんとうにそういう人になってほしいと思いました。
そういう人と、この人のどこが違うのでしょうか。 -
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この旅の始まりに、京都河原町の近江屋跡の碑を見かけました。
コンビニのわきに、ひっそりと佇んでおります。
区画整理の関係で、当時の道路が今と少しずれていて、ちょうどこの碑の真上あたりで、龍馬は死んでいたことになると言います。
見上げたからといって、当然なにがあるわけもありません。
時間というものは、遡ることはできないものですから。
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夕飯を食べるのに、中華街を訪れました。
江戸時代、長崎の人口7万に対して一万人の中国人がいたそうです。
その中国人たちは、1859年に唐人屋敷(新地の少し南、今の館内町)から、この新地中華街に居留地が移りました。
幕末は、真新しい中華街がにぎわっていたことでしょう。
わたしたちは、チャンポンと皿うどんをいただきました。
この料理のように、二つの文化が互いを高めるカタチで融合してゆくことを、祈らずにはいられません。
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