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<br /> カステラ、びいどろ、眼鏡橋……<br /> 幕末の長崎は、どんな景色だったのでしょう。<br /><br /> その名残を求めて、長崎の町歩きをしました。<br /><br /><br /> できれば、龍馬に出会えればいいなあ……<br /> 

龍馬のいた長崎

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2013/01/15 - 2013/01/15

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ちびのぱぱ

ちびのぱぱさん


 カステラ、びいどろ、眼鏡橋……
 幕末の長崎は、どんな景色だったのでしょう。

 その名残を求めて、長崎の町歩きをしました。


 できれば、龍馬に出会えればいいなあ……
 

同行者
カップル・夫婦
交通手段
徒歩 Peach
  • <br /> こぢんまりとしたホテルモントレ長崎……<br /><br /> アズレージョ(ポルトガルのタイル)の青が冴え、イベリア半島の情緒があります。<br /> 長崎の町は、江戸時代の鎖国政策下で、オランダと中国だけが出入りを許されていましたが、なぜかオランダよりも、ポルトガルの残り香が、つよく漂っているように思います。<br /><br /> オランダとポルトガルは、とても異なっています。<br /> 長崎に、ポルトガルの残像が400年も残り続けているのは、それが日本と西洋の、初めての出会いであったという以上のものが、きっとあると思うのです。<br /><br /> ハウステンボスは、ずいぶん離れたとこに、あるではないですか。


     こぢんまりとしたホテルモントレ長崎……

     アズレージョ(ポルトガルのタイル)の青が冴え、イベリア半島の情緒があります。
     長崎の町は、江戸時代の鎖国政策下で、オランダと中国だけが出入りを許されていましたが、なぜかオランダよりも、ポルトガルの残り香が、つよく漂っているように思います。

     オランダとポルトガルは、とても異なっています。
     長崎に、ポルトガルの残像が400年も残り続けているのは、それが日本と西洋の、初めての出会いであったという以上のものが、きっとあると思うのです。

     ハウステンボスは、ずいぶん離れたとこに、あるではないですか。

  •  七つの丘の町リスボンは、この長崎と、よく似ています。<br /> たとえ互いのことが見え無くても、この長崎の町は、きっとそのことを感じ取っているのです。<br /><br /> アムステルダムは…… やっぱり佐世保かな。(行ったことありませんが)

     七つの丘の町リスボンは、この長崎と、よく似ています。
     たとえ互いのことが見え無くても、この長崎の町は、きっとそのことを感じ取っているのです。

     アムステルダムは…… やっぱり佐世保かな。(行ったことありませんが)

  • <br /> 手頃価格で、良い宿です。


     手頃価格で、良い宿です。

  • <br /> ポルトガル風宿を朝に出て、江戸情緒を探して町を歩きます。


     ポルトガル風宿を朝に出て、江戸情緒を探して町を歩きます。

  • <br /> 1634年に造られた眼鏡橋、二度ほど洪水で損壊しています。一度目は、橋が架けられてから14年後、そして二度目は350年後の昭和57年。<br /> いずれも全損ではなく、ほかの中島川にかかる石橋たちに較べて、よく耐えたようです。<br /><br /> 実は、この橋を渡るのは二度目で、一度目は昭和57年の水害の直前でした。今日と同じように、よく晴れ上がった青空が、メガネの形を引き立てていたと記憶しています。<br /> 橋の見えるみやげ屋で、小さな、ステンドガラス柄のビードロを、粋な女将さんから購入しました。<br /> みやげ屋の狭い店内には、ビードロのほか大小様々の長崎凧が飾ってあり、天井には大きな長崎バラモンがつり下がっていました。<br /> 赤いバラモンの眼が、ぎょろりとこちらを睨んで、夢に出てきそうでした。<br /> おみやげに買ったビードロは、しばらく自宅の棚に飾っていましたが、いつしか見あたらなくなりました。<br /><br /> さて、眼鏡橋を渡ろうとして、以前に渡ったときと違う何かを感じました。<br /><br /> 「あれ、こんな感じだったかな?」<br /><br /> 橋の昇り口の橋端は、階段状になっているのですが、それが以前と違うイメージを与えたのです。<br /> 後で調べると、明治期に、人力車の通行用につけられたスロープを、昭和57年に修復するとき、元の階段状に戻したのだと言うことでした。<br /> なるほど、旧に復す、か……。<br /><br /> この珍しい橋のある景色に、江戸時代にここを訪れた人たちは、感嘆の声を上げたことでしょう。<br /><br /> 「まっこと、きみょうなカタチをした橋じゃのう。ちくと渡ってみるかのう、わしも。」<br /><br /> なんて、龍馬さんも言ったのでしょうか。<br /> 


     1634年に造られた眼鏡橋、二度ほど洪水で損壊しています。一度目は、橋が架けられてから14年後、そして二度目は350年後の昭和57年。
     いずれも全損ではなく、ほかの中島川にかかる石橋たちに較べて、よく耐えたようです。

     実は、この橋を渡るのは二度目で、一度目は昭和57年の水害の直前でした。今日と同じように、よく晴れ上がった青空が、メガネの形を引き立てていたと記憶しています。
     橋の見えるみやげ屋で、小さな、ステンドガラス柄のビードロを、粋な女将さんから購入しました。
     みやげ屋の狭い店内には、ビードロのほか大小様々の長崎凧が飾ってあり、天井には大きな長崎バラモンがつり下がっていました。
     赤いバラモンの眼が、ぎょろりとこちらを睨んで、夢に出てきそうでした。
     おみやげに買ったビードロは、しばらく自宅の棚に飾っていましたが、いつしか見あたらなくなりました。

     さて、眼鏡橋を渡ろうとして、以前に渡ったときと違う何かを感じました。

     「あれ、こんな感じだったかな?」

     橋の昇り口の橋端は、階段状になっているのですが、それが以前と違うイメージを与えたのです。
     後で調べると、明治期に、人力車の通行用につけられたスロープを、昭和57年に修復するとき、元の階段状に戻したのだと言うことでした。
     なるほど、旧に復す、か……。

     この珍しい橋のある景色に、江戸時代にここを訪れた人たちは、感嘆の声を上げたことでしょう。

     「まっこと、きみょうなカタチをした橋じゃのう。ちくと渡ってみるかのう、わしも。」

     なんて、龍馬さんも言ったのでしょうか。
     

  • <br /> 古くはポルトガル、江戸に入っては、オランダと中国との交易の窓口だった長崎。<br /><br /> 独特というか、チャンポンというか。


     古くはポルトガル、江戸に入っては、オランダと中国との交易の窓口だった長崎。

     独特というか、チャンポンというか。

  •  <br /> 眼鏡橋から山の方へ歩くと、中通り商店街に出ます。<br /> 狭いながらも、趣のある店が並んでいます。<br /><br /> ちょうど、その角にあるのが1830年、天保元年創業、岩永梅寿軒。<br /> おかしやさんです。

     
     眼鏡橋から山の方へ歩くと、中通り商店街に出ます。
     狭いながらも、趣のある店が並んでいます。

     ちょうど、その角にあるのが1830年、天保元年創業、岩永梅寿軒。
     おかしやさんです。

  •  いろいろ美味しそうなものがありますが、目が行ったのはおしるこ。<br /><br /> モナカのようになっていて、皮をさいて中の具と一緒にお椀に入れ、お湯を注ぐだけでお汁粉のできあがり。<br /> インスタントおしるこです。

     いろいろ美味しそうなものがありますが、目が行ったのはおしるこ。

     モナカのようになっていて、皮をさいて中の具と一緒にお椀に入れ、お湯を注ぐだけでお汁粉のできあがり。
     インスタントおしるこです。

  • <br /> たった一個(157円)しか買わなかったけど、……親切でした。<br /> しにせには、独特のゆとり、というか、おっとりとした構えがあります。


     たった一個(157円)しか買わなかったけど、……親切でした。
     しにせには、独特のゆとり、というか、おっとりとした構えがあります。

  • <br /> 商店街に沿って少し歩くと、高田茶屋「とんかつ文次郎」があります。<br /><br /> こぢんまりした店ですが、美味しいトンカツが食べられるだけでなく、<br /> 中は、龍馬ゆかりの亀山焼きが展示してあり、出される食器にも用いられています。<br /> お昼ちょっと前なので、席に若干の余裕がありました。


     商店街に沿って少し歩くと、高田茶屋「とんかつ文次郎」があります。

     こぢんまりした店ですが、美味しいトンカツが食べられるだけでなく、
     中は、龍馬ゆかりの亀山焼きが展示してあり、出される食器にも用いられています。
     お昼ちょっと前なので、席に若干の余裕がありました。

  •  坂本龍馬はこの亀山焼きのどんぶりで、飯を食っていたらしい。<br /><br /> ちなみに、下関市立長府博物館には、龍馬が滞在していた下関を離れる際、豊永長吉に餞別として贈ったと伝わる茶碗が展示されています。<br /> さらに、その復刻版が3675円でAmazonに出ているので、龍馬ファンは購入して、それでカツ丼でも食べながら、新しい日本のあり方について思索を練るべきでしょう。<br /><br />

     坂本龍馬はこの亀山焼きのどんぶりで、飯を食っていたらしい。

     ちなみに、下関市立長府博物館には、龍馬が滞在していた下関を離れる際、豊永長吉に餞別として贈ったと伝わる茶碗が展示されています。
     さらに、その復刻版が3675円でAmazonに出ているので、龍馬ファンは購入して、それでカツ丼でも食べながら、新しい日本のあり方について思索を練るべきでしょう。

  • <br /> わたしらは、「六白黒豚の豚汁付きトンカツ定食」をいただきました。<br /><br /> 特に日本の未来について考えるでもなく、ひとときの憩いに安堵するサラリーマンたちに混じって、このあとの観光ルートに思いをはせたのです。


     わたしらは、「六白黒豚の豚汁付きトンカツ定食」をいただきました。

     特に日本の未来について考えるでもなく、ひとときの憩いに安堵するサラリーマンたちに混じって、このあとの観光ルートに思いをはせたのです。

  •  ちょっと、気になって、Wikipediaを覗いてみると、<br /><br /> 亀山焼きは慶応元年(1865年)、財政難のため廃窯となったあと、その工場跡地を高田利平が購入し、坂本龍馬が率いる亀山社中の活動拠点となったとあります。<br /><br /> 長崎高田酒店のホームページを覗くと、<br /><br /> 利平の弟文平の奥さんであるトキが、伊良林亀山で高田茶屋を営んでいるときに、龍馬たちがカンパーニーのための場所を探していることが伝わり、トキの一声ならぬ鶴の一声で貸すことが決まったといいます。<br /> きっぷの良いおかみさんです。<br /><br /> その間を取り持ったのが小曽根乾堂(こぞねけんどう)で、NHK龍馬伝では本田博太郎が演じていました。<br /> しぶくていい感じでした。<br /><br /> ついでながら、この小曽根家、もともと平戸の商人であった好夢(こうむ)という人が先祖で、眼鏡橋が慶安元年に損壊したときに修理したのが、彼だといわれています。<br /> それにしても、好夢という名前、面白そうな人物を連想させます。夢が好きで、眼鏡橋を愛していた粋人だったのでしょうか。<br /> その夢好きの血筋が、小曽根乾堂をして、龍馬という夢に力を貸さしめたのかもしれないと、想像してみました。<br /><br /><br /> 焼き物の方ですが、現在、高田家の子孫高田祐治氏が、亀山焼を『崎陽亀山焼高田茶屋』として再興中です。<br /><br /> この茶碗でご飯を食べているうちに、現在亀山社中の博物館になっている工場跡に、是非とも行ってみたくなりました。<br />

     ちょっと、気になって、Wikipediaを覗いてみると、

     亀山焼きは慶応元年(1865年)、財政難のため廃窯となったあと、その工場跡地を高田利平が購入し、坂本龍馬が率いる亀山社中の活動拠点となったとあります。

     長崎高田酒店のホームページを覗くと、

     利平の弟文平の奥さんであるトキが、伊良林亀山で高田茶屋を営んでいるときに、龍馬たちがカンパーニーのための場所を探していることが伝わり、トキの一声ならぬ鶴の一声で貸すことが決まったといいます。
     きっぷの良いおかみさんです。

     その間を取り持ったのが小曽根乾堂(こぞねけんどう)で、NHK龍馬伝では本田博太郎が演じていました。
     しぶくていい感じでした。

     ついでながら、この小曽根家、もともと平戸の商人であった好夢(こうむ)という人が先祖で、眼鏡橋が慶安元年に損壊したときに修理したのが、彼だといわれています。
     それにしても、好夢という名前、面白そうな人物を連想させます。夢が好きで、眼鏡橋を愛していた粋人だったのでしょうか。
     その夢好きの血筋が、小曽根乾堂をして、龍馬という夢に力を貸さしめたのかもしれないと、想像してみました。


     焼き物の方ですが、現在、高田家の子孫高田祐治氏が、亀山焼を『崎陽亀山焼高田茶屋』として再興中です。

     この茶碗でご飯を食べているうちに、現在亀山社中の博物館になっている工場跡に、是非とも行ってみたくなりました。

  • <br /> 中通り商店街から、眼鏡橋とは反対の山の方に上がってゆくと、ほぼ垂直に屹立する石垣に沿って水路が走る、細い通りに出ました。<br /><br /><br /> 山側に寺が並んでいる、寺町通りです……<br />


     中通り商店街から、眼鏡橋とは反対の山の方に上がってゆくと、ほぼ垂直に屹立する石垣に沿って水路が走る、細い通りに出ました。


     山側に寺が並んでいる、寺町通りです……

  • <br /> 民家の軒天の上で、日向ぼっこをするねこ<br /><br /> 声をかけたら、のびをしました。


     民家の軒天の上で、日向ぼっこをするねこ

     声をかけたら、のびをしました。

  • <br /> どこまでも続く、石垣……<br /><br /> このあたりの景色、昔からずっと変わっていないかも、と思いました。


     どこまでも続く、石垣……

     このあたりの景色、昔からずっと変わっていないかも、と思いました。

  • <br /> 深崇寺と三福寺のあいだに、こんな通りがありました。


     深崇寺と三福寺のあいだに、こんな通りがありました。

  • <br /> 入ってみます。


     入ってみます。

  • <br /> 登りが一息つくところに、このような石柱がありました。<br /><br /><br /> どうやら、ここを亀山社中跡と同定しているようです。


     登りが一息つくところに、このような石柱がありました。


     どうやら、ここを亀山社中跡と同定しているようです。

  •  ふつうの古民家のような玄関を入り、少額の入場料を払って上がり框に立つと、誰かの家に入り込んだような気分になります。<br /> 中では、気さくなボランティアの方がいろいろと説明してくださいました。<br /><br /> ここは「龍馬かぶれ」の武田鉄矢さんが名誉館長で、写真の羽織も寄贈されたそうです。<br /> 龍馬ゆかりの品々の展示に、思わず感嘆の声を上げると、ここにあるのは、レプリカで、本物は京都にあります、と笑顔で説明してくれました。<br /><br /> しゃれっ気があって、楽しい説明を聞かせていただきました。

     ふつうの古民家のような玄関を入り、少額の入場料を払って上がり框に立つと、誰かの家に入り込んだような気分になります。
     中では、気さくなボランティアの方がいろいろと説明してくださいました。

     ここは「龍馬かぶれ」の武田鉄矢さんが名誉館長で、写真の羽織も寄贈されたそうです。
     龍馬ゆかりの品々の展示に、思わず感嘆の声を上げると、ここにあるのは、レプリカで、本物は京都にあります、と笑顔で説明してくれました。

     しゃれっ気があって、楽しい説明を聞かせていただきました。

  • <br /> この靴、作らせたら5万くらいかかったとか……


     この靴、作らせたら5万くらいかかったとか……

  • <br /> 龍馬かぶれ……


     龍馬かぶれ……

  •  おりょうきぶん<br /><br /> もたれている柱は、当時からのものだそうで、<br /><br /> 「たぶん、坂本龍馬がいつももたれかかっていた柱、っちゅうことになっとります。」<br /><br /> と、いたずらっぽい笑いを造りながら説明してくださいました。

     おりょうきぶん

     もたれている柱は、当時からのものだそうで、

     「たぶん、坂本龍馬がいつももたれかかっていた柱、っちゅうことになっとります。」

     と、いたずらっぽい笑いを造りながら説明してくださいました。

  •  そこから歩いてすぐの見晴らしの良い場所に、このようなものが……<br /><br /> このブロンズのブーツに足を入れ、銅でできたユニオン号の舵を握ると、<br /> グラバー邸にあった隠し部屋のことが思い出されました。<br />

     そこから歩いてすぐの見晴らしの良い場所に、このようなものが……

     このブロンズのブーツに足を入れ、銅でできたユニオン号の舵を握ると、
     グラバー邸にあった隠し部屋のことが思い出されました。

  • <br /> 龍馬についての資料は、少なくないとはいえ、なぞも多いようです。<br /> 


     龍馬についての資料は、少なくないとはいえ、なぞも多いようです。
     

  •  たとえば、龍馬とグラバーの関係のことがあります。<br /><br /> かたや、スコットランドの武器商人、<br /> かたや、倒幕と新しい日本を築き上げる夢を抱く自由人。<br /><br /> スコットランド人というのは、どこか反体制的なところがあるように思います。<br /> 260年続いた旧態依然とした体制を、刷新しようとの志を持つ二歳年上の日本人に、グラバーはどんな思いを持って接したのでしょう。

     たとえば、龍馬とグラバーの関係のことがあります。

     かたや、スコットランドの武器商人、
     かたや、倒幕と新しい日本を築き上げる夢を抱く自由人。

     スコットランド人というのは、どこか反体制的なところがあるように思います。
     260年続いた旧態依然とした体制を、刷新しようとの志を持つ二歳年上の日本人に、グラバーはどんな思いを持って接したのでしょう。

  • <br /> たしか、勝海舟だったと思いますが、龍馬はぬけめのない西郷吉之助のようだと評していました。<br /> 紀州藩との船舶衝突事件のことなど考えると、交渉相手としての坂本龍馬は、恐ろしく手強い。<br /><br /> 対するグラバーも、大変なやり手です。<br /> この二人がどんなやりとりをしたのか、見てみたかったなあ。


     たしか、勝海舟だったと思いますが、龍馬はぬけめのない西郷吉之助のようだと評していました。
     紀州藩との船舶衝突事件のことなど考えると、交渉相手としての坂本龍馬は、恐ろしく手強い。

     対するグラバーも、大変なやり手です。
     この二人がどんなやりとりをしたのか、見てみたかったなあ。

  • <br /> グラバー園の道ばたに咲いていた、ソテツの雌花……<br /><br /> 蛾の触覚のような大胞子葉につつまれ、龍馬の癖毛を連想しました。<br />


     グラバー園の道ばたに咲いていた、ソテツの雌花……

     蛾の触覚のような大胞子葉につつまれ、龍馬の癖毛を連想しました。

  • <br /> ふたたび、伊良林亀山の<br /><br /> ブーツのブロンズのところから、ネコたちに導かれるように……


     ふたたび、伊良林亀山の

     ブーツのブロンズのところから、ネコたちに導かれるように……

  • <br /> 坂道を下り


     坂道を下り

  •  松翁軒というカステラの老舗の本店に来ました。<br /> 場所は、公会堂のすぐ近くです。<br /><br /> このお店、1681年、長崎市の本大工町に初代山口屋貞助が店を構え、カステラや砂糖漬けなどの製造を始めました。歴代菓子作り一筋に三百余年を数える松翁軒の歴史は、ここが出発点となります。(松翁軒ホームページより)<br /><br /> そうとう古いです。<br /><br /> 江戸時代に、カステラを食べるというのはどんな感じだったでしょう。<br /> 龍馬伝では、亀山社中でカステラを作ろうと、試作を重ねる様子が描かれていました。<br /> うちの妻も、何度か挑戦していましたが、どうも、ひとつうまくできなかったようで、最近とんと作りません。<br /><br /> この老舗で、五三焼きを、二階のカフェでいただこうと思ったら、<br /><br /> 「すみません、連休明けなもんで、二階はお休みにさせていただいてます。」<br /><br /> だそうで、呆然としていると、すぐにお盆にのったカステラとお茶が二人分出てきて、<br /><br /> 「どうぞ、お召し上がりください。」<br /><br /> と、隅の椅子に案内されました。

     松翁軒というカステラの老舗の本店に来ました。
     場所は、公会堂のすぐ近くです。

     このお店、1681年、長崎市の本大工町に初代山口屋貞助が店を構え、カステラや砂糖漬けなどの製造を始めました。歴代菓子作り一筋に三百余年を数える松翁軒の歴史は、ここが出発点となります。(松翁軒ホームページより)

     そうとう古いです。

     江戸時代に、カステラを食べるというのはどんな感じだったでしょう。
     龍馬伝では、亀山社中でカステラを作ろうと、試作を重ねる様子が描かれていました。
     うちの妻も、何度か挑戦していましたが、どうも、ひとつうまくできなかったようで、最近とんと作りません。

     この老舗で、五三焼きを、二階のカフェでいただこうと思ったら、

     「すみません、連休明けなもんで、二階はお休みにさせていただいてます。」

     だそうで、呆然としていると、すぐにお盆にのったカステラとお茶が二人分出てきて、

     「どうぞ、お召し上がりください。」

     と、隅の椅子に案内されました。

  • <br /> 1849年にたてられた崇福寺の三門。<br /><br /> ここはたしか……龍馬伝のなかにも登場していましたね。<br /><br /> 


     1849年にたてられた崇福寺の三門。

     ここはたしか……龍馬伝のなかにも登場していましたね。

     

  • <br /> この浦島太郎の竜宮城のような三門を見て、龍馬もさぞかしよろこんだでしょう。


     この浦島太郎の竜宮城のような三門を見て、龍馬もさぞかしよろこんだでしょう。

  •  さて……、だいぶ日が傾いてきました。

     さて……、だいぶ日が傾いてきました。

  •  路面電車を乗り継いで、浦上の方に向かいました。<br /> 松山停車場で降りて、平和公園に向かいます。

     路面電車を乗り継いで、浦上の方に向かいました。
     松山停車場で降りて、平和公園に向かいます。

  •  まだ、陽が残っています。<br /><br /> 長崎と広島では、原爆と一言でいっても、タイプが違います。<br /> 広島はウラン爆弾ですが、長崎は超微量原子のプルトニウム爆弾です。<br /><br /> つまり、日本は二種類の原子爆弾の実験場になりました。<br /> 平和公園には、長崎刑務所浦上支所の遺構があります。

     まだ、陽が残っています。

     長崎と広島では、原爆と一言でいっても、タイプが違います。
     広島はウラン爆弾ですが、長崎は超微量原子のプルトニウム爆弾です。

     つまり、日本は二種類の原子爆弾の実験場になりました。
     平和公園には、長崎刑務所浦上支所の遺構があります。

  •  人道的に見て、落としたのが日本ではなかった、ということは、せめてもの救いのように思われます。

     人道的に見て、落としたのが日本ではなかった、ということは、せめてもの救いのように思われます。

  •  戦争とは何なのか、領土問題かまびすしい昨今に、冷静になって考える余裕は、集団としてみた人類にはないのでしょう。

     戦争とは何なのか、領土問題かまびすしい昨今に、冷静になって考える余裕は、集団としてみた人類にはないのでしょう。

  • <br /> 爆心地脇に立つ、移設された浦上天主堂の柱の一部です。<br /> 1グラムにも満たない物質が解放され、そのエネルギーが、この上空500mで解き放たれました。


     爆心地脇に立つ、移設された浦上天主堂の柱の一部です。
     1グラムにも満たない物質が解放され、そのエネルギーが、この上空500mで解き放たれました。

  •  その地下4mに、原爆落下当時の地層が残されていました。

     その地下4mに、原爆落下当時の地層が残されていました。

  •  一瞬にして亡くなった方は、時間をかけて亡くなった人に比べて、まだ好運だっとさえ、思えてきます。

     一瞬にして亡くなった方は、時間をかけて亡くなった人に比べて、まだ好運だっとさえ、思えてきます。

  • <br /> 最後に、亀山社中の上にある、風頭公園に行ってみました。<br /><br /> 龍馬を語る政治家が多いように思います。<br /> ならば、ほんとうにそういう人になってほしいと思いました。<br /><br /> そういう人と、この人のどこが違うのでしょうか。<br />


     最後に、亀山社中の上にある、風頭公園に行ってみました。

     龍馬を語る政治家が多いように思います。
     ならば、ほんとうにそういう人になってほしいと思いました。

     そういう人と、この人のどこが違うのでしょうか。

  • <br /> この旅の始まりに、京都河原町の近江屋跡の碑を見かけました。<br /><br /> コンビニのわきに、ひっそりと佇んでおります。<br /> 区画整理の関係で、当時の道路が今と少しずれていて、ちょうどこの碑の真上あたりで、龍馬は死んでいたことになると言います。<br /><br /> 見上げたからといって、当然なにがあるわけもありません。<br /> 時間というものは、遡ることはできないものですから。<br /><br /> 


     この旅の始まりに、京都河原町の近江屋跡の碑を見かけました。

     コンビニのわきに、ひっそりと佇んでおります。
     区画整理の関係で、当時の道路が今と少しずれていて、ちょうどこの碑の真上あたりで、龍馬は死んでいたことになると言います。

     見上げたからといって、当然なにがあるわけもありません。
     時間というものは、遡ることはできないものですから。

     

  • <br /> 夕飯を食べるのに、中華街を訪れました。<br /><br /> 江戸時代、長崎の人口7万に対して一万人の中国人がいたそうです。<br /> その中国人たちは、1859年に唐人屋敷(新地の少し南、今の館内町)から、この新地中華街に居留地が移りました。<br /> 幕末は、真新しい中華街がにぎわっていたことでしょう。<br /><br /> わたしたちは、チャンポンと皿うどんをいただきました。<br /> この料理のように、二つの文化が互いを高めるカタチで融合してゆくことを、祈らずにはいられません。


     夕飯を食べるのに、中華街を訪れました。

     江戸時代、長崎の人口7万に対して一万人の中国人がいたそうです。
     その中国人たちは、1859年に唐人屋敷(新地の少し南、今の館内町)から、この新地中華街に居留地が移りました。
     幕末は、真新しい中華街がにぎわっていたことでしょう。

     わたしたちは、チャンポンと皿うどんをいただきました。
     この料理のように、二つの文化が互いを高めるカタチで融合してゆくことを、祈らずにはいられません。

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