1965/03/20 - 1965/04/27
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yamada423さん
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シャン・ド・マルス公園から望むエッフェル塔 1965.3.24
Tour Eiffel from Parc du Champ de Mars
アーカイブ MJET「四大学学生フランス工業視察団」旅行
この旅行記は、今からおよそ50年前の1965年3月から4月に都内の四つの大学(早・慶・東・工)の理工系学生がフランスの理工系学生との交流とフランスの工業事情の視察を目的に組織したMJET(Mission Japonaise des Etudiant de Technologie)の第2次フランス視察旅行の記録です。
この年は外貨購入が一般民間人に解放された翌年で、1年間に買えるのは500ドルという厳しい制限枠がありました。固定為替レートで1ドル360円です。末尾に関連記事。
この範囲内で40日の滞在費、小遣い、などの全てを賄うのには並々ならぬ努力と多くの関係機関の協力が必要でした。
旅行会社に一括依頼するわけには行かず、すべて自分たちで役割分担して成し遂げた経験は今に生きています。
視察旅行の前年の1964年は東京オリンピックが開催された年で、夏休みにはフランスからの視察旅行の学生の受け入れ・旅行案内(同行)などに奔走しながら自分たちの旅行の準備に追われました。フランス学生の歓迎レセプションが開かれた日仏工業技術会会長安西宅で、接待役の会長ご子息の令夫人が皇太子妃の妹と知った学生たちの驚きと感激は・・・。末尾に写真4枚を特別掲載します。
2020年7月末に受け入れの記録をまとめて公開しました。
シリーズ昭和の記録No.5 訪日フランス学生受入れ記録
https://4travel.jp/travelogue/11636754
旅行の準備の一つにフランス語会話の習得があり、週3回2時間10ヶ月、市ヶ谷にある東京日仏学院の会話専門コースでボルドー出身のFrancois Forget先生に特訓を受けました。テキストはなく、20コマのスライドとオープンリールのテープでの会話を聞くだけで、何度も何度も聞く・話すの繰り返しで耳から覚えました。幼児と同じです。今でも旅行会話には困りませんが読み・書きは辞書なしではほとんどできません。
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1965.3.20に羽田飛行場を飛び立ったチャーター機DC6-Bは最初の給油地台北を過ぎてしばらくすると、4発エンジンの一つが停止してしまい香港に不時着となった。約24時間後に飛び立ってからはバンコク、カルカッタ、カラチ、ダマスカスで給油し3日がかりでようやくパリのル・ブールジュ空港に降りた。
パリの滞在ホテルは5区モンジュ通りRue MongeにあるHotel Paris- Latinで、カルチェラタンの一角にあり、近くにはパリ大学の本部(ソルボンヌ)や各学部(第1大学?第○○大学)が集まっている。
翌日からヴェルサイユ宮殿、ルーブル博物館などの見学、パリ学生都市日本館でのオリエンテーション、日本大使館レセプション、鉄鋼研究所I.R.S.I.D、高等商業学校H.E.C、食品化学学校E.N.S.I.A訪問など多忙なスケジュールに追われた。
3月26日からは東コース、西コースの2グループに分かれてのバスによる視察旅行が始まった。4月8日にグルノーブルで両グループが揃ってI.E.G(グルノーブル大学電気工学科)の学生と再会し、4月10日に両グループがパリに戻ってパリでの自由行動日、4月15日から23日のヨーロッパ内自由行動週間を経て最後のパリ近郊の視察を実施した。
最後には仏日協会主催のレセプションがコンコルド広場を見下ろすMme Rosset宅で開かれ、出席したフランス人と再開を約束し、時を忘れて歓談した。
このアーカイブ旅行記は西コースに参加した私の記録ですが、途中でカメラを落として故障(巻き上げ不十分)してしまったため途中までしか写真がありません。帰国後フィルムを現像して初めて巻き上げ不良が判明し、悔しくて、残念で涙してしまった事件が、その後私が写真に強くこだわりを持つきっかけになったという歴史秘話も今公開します。
今回48年ぶりに思い出の地を再訪するにあたり、参加者の参考になればと思い公開します。
個人のアルバムの写真をデジタル複合機CANON MP600でデータ化したもので、私の写真が多いのはこの事情によります。写真1枚あたりのデータ量は最近のデジタル一眼レフの5分の1程度です。(400ー800kB)
当時使用していたカメラは富士フィルム製Fujica35-SE FUJINON 45mm f1.9 詳細は下記を参照ください。
http://www.asahi-net.or.jp/~rd2h-ari/FU35SE19.htm
1965年当時の為替レートは固定相場制で1米ドル=360円、1フランス・フラン=72.92円でした。ちなみに独マルク=90円、スイス・フラン=83.39円、英ポンド=1008円
あとがき
この50年近く前の旅行記を編集・公開するにあたり、100枚あまりの写真は2年前にアルバム写真をはがしてデジタル複合機でデータ化してありましたが、文章は旅日記(コクヨのB5フィラーノートブック80円)を改編することなくそのままWORDデータにしました。
この旅行記の編集にあたり、校正は誤字訂正と読点などに限り、それ以外は漢字変換も避け原文のまま<旅日記>として掲載しました。国語に弱い工学部の学生の旅日記に漢字が少ないことに気づきます。
地名や教会などの固有名詞には原語を追記・併記したものもあります。その他(注: )追記など。
風景など美しいものに感動し、言葉に表現したくなる習性はこの頃から備わっていたように思いました。
旅日記が最近始めた4トラの投稿に役立っていますが、原点はここにあります。
この視察旅行に行ったメンバーの年齢は日本人男子の平均寿命まで十指で足りてしまいます。今年5月に計画しているMJET有志フランス旅行http://4travel.jp/traveler/810766/album/10763784/は冥土の土産には早すぎますが、半世紀の遷り変わりを体験するよい機会になると期待しています。
2013.5.13ー24日のシニア9名によるフランス旅行は一生の思い出になる素敵な旅でした。企画.手配・添乗員役を務めてとても大変でしたが、無事に成田に着いた時の喜びと感動は言葉では表せません。
2013フランスの旅 ハイライト編
http://4travel.jp/travelogue/10784450
その後2014年4月には1964年オリンピック直前に滞日したフランスの学生たちが奥様同伴で総勢16名が来日しました。
半年後の10月には私がその時の3夫妻を訪ねます。
スコットランド・フランスの旅 2014(準備編)
http://4travel.jp/travelogue/10935919
下記には20編の旅行記のリンクが記載してあります。
スコットランド・フランスの旅2014 20. ゴッホ終焉の地 オーヴェル
https://4travel.jp/travelogue/11013646
旅日記を半世紀たって公開する時が来るとは夢想だにせず、まさに通信革命の恩恵と思っています。
この旅行記は自分たちが社会に巣立つ前の未熟な年代を(の)生きた証の一つとなれば望外と思って編集・公開することにしました。
読者の皆様にとって少しでも参考になれば嬉しく思います。
2013.3.13 yamada423
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 社員・団体旅行
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
MJET(Mission Japonaise des Etudiant de Technologie)のバッジ
日本理工系学生使節団
大きさ25.5×17.3mm
終活で各種バッジを整理して電子データで保存することにしました。
このバッジはフランス訪問時に着けていたものです。
2020.9.8写真追加 -
1965.3.20 11:45 羽田飛行場出発前の視察団の主に私が所属する大学のメンバー
今年2013年5月の視察団有志のフランス旅行に参加するメンバー9人中、この中に5人います。3人は日仏学院で一緒に仏会話を学びました。
外貨が一般民間人に解禁された翌年で、学生の海外渡航は極めて稀な時代です。この年1965.7外務省発行の「わが外交の近況(第9報)」によると1964年度の一般旅券の発給数は118667件で約6割が経済活動、2割が文化活動、観光は1割以下です。 -
香港に不時着したDC6-B
この写真は台北飛行場です。
台北を飛び立ってしばらくすると暗くなり、右内側のエンジンの排気管が赤くないのに気づきました。よく見ると闇の中にプロペラが停止しているのが見え不安になる中、エンジン故障で香港に降りると告げられ一層不安が増した。
香港着22:00 市内のホテルへ案内された。
予定外の香港滞在となり、初めての香港への興味と故障への心配とで複雑化気持ちで一日過ごすことになった。
結局修理を終えて香港を出発したのはほぼ24時間後の21:45。 -
不時着してまる1日滞在した香港のホテルの食堂と思います。
<旅日記>(3.21 不時着の翌日)
7時半に10階の食堂で朝食をすませた後、8時半に総務会を開いた。11時にならないとCPA(航空会社)から連絡が来ないので12時まで自由行動となる。
5人でバスに乗り市内へ見物に行く。二階建てのバスに乗ったが、行先がわからないので10分でおろしてくれと頼む。1人20セント(13円)。空港の近くでバスを降りた。十数階建ての建物は外観は一見立派だが、中をよく見るほどそのひどさがわかる難民収容アパートが建ち並ぶ。 -
<旅日記>
裏通りには日曜日のためか朝市が立ち、非常に人が多い。歩いている人も、物を売る人も非常に・・・・・・格好をしているが、それと同じように道路もすごく・・・・。 -
<旅日記>
着ているものを見ると、日本人が着るパジャマのようなのを着て街を歩いている人が多いのに気づく。 -
香港の下町
<旅日記>3.21
昼食の時に飛行機の出発時刻が夜9時となったことを知らされた。
それまでの時間にバスで市内観光することになった。3台のバスに分乗し香港の市外を約4時間にわたり見学した。香港島を一望する高台、手前には難民収容アパートが立ち並ぶ。
港に近い市場はは日曜の午後とあってものすごい人出である。市場の奥の方で年配のオバさんたちが麻雀に余念がない。パイは日本のものよりずっと大きく、ジャラジャラという音が響く。好きな人にはたまらない音だろう。
その後中共(中国本土)との国境が見える高台へ上る。国境といっても大きな川の岸に金網が張ってあるだけである。
辺りは一面水田であり、溜池が方方にある。その中で何百羽ものアヒルやガチョウが飼われている。帰りが予定より遅くなったためか運転手がやたらに飛ばす。しかし交通量が少ないので、あまり危ないと感じることはない。50?60Km/hであったろうか。 -
交通警察官は屋根付きの台上で交通整理です。
<旅日記>
ホテルへ戻ってすぐに荷物をとって別の中華料理店へ食事に行った。ここでも二階で麻雀をやっている。香港で見た中では、麻雀をやっているのはみな女の人であった。
そこでの食事はかつてないほど楽しいものであった。本場の中華料理で、最初は何が出されるか誰も知らず、出されるものを全部平らげていたが、前菜、スープ、魚、アヒル(ダック)、ナマコ、餃子、・・・・と続いて、途中からさすがに余って手を出さなくなった。
皆があまり食べたので重量が増え飛べなくなるのではないかと余計な心配をする者まで出てきた。
9時半頃に空港に着き、10時少し前に飛び立った。
赤く焼けた排気管を見て、エンジンが会長に回っていることを確認し、ホッとした。 -
現代の旅客機と比較して窓が大きいのは飛行高度が低かったためと思います。
DC-6B。巡航速度450km/h、航続距離4000km、座席数36?58席(国際線)、96席(国内線)。空気が薄い高高度を飛んでも機内の気圧を一定に保つ与圧機能が付いたDC-6Bは、DC-4に比べ快適性が格段に向上。
http://news.mynavi.jp/series/jal/002/index.html -
バンコクからカルカッタ、カラチは30度を超えるような暑さでした。
<旅日記>
(3月22日)
2時半頃(香港時間)バンコクに着く。その少し前にジュースが出されたが眠っていたところなのでうまいとは思わなかった。機内はすごく蒸し暑く、また急降下したので頭がぼんやりして気分が悪かった。空港へ降りても眠くて仕方ないのでベンチで寝ていた。
約1時間後、ふたたび飛び立ち、カルカッタへ向かう。その間ほとんど眠り通しであった。
途中、ぼんやりとモヤのかかった地平線上に上る太陽がすごくきれいで印象的であった。
カルカッタへ着く50分ほど前からガンジスのデルタ地帯の上にさしかかった。次から次へと大きな川を飛び越え、川の上流は朝もやではっきりしない。その蛇行の模様は独特で、大きな河の間の分岐もほとんど同じような蛇行を見せていた。
カルカッタでは1時間ほど休憩し、そこで朝食を摂った。パインジュース、パン、目玉焼き、それとコーヒーのように濃い紅茶が朝食である。
私たち数人は滑走路が見えるラウンジで朝食をとったので、我々のDC6-Bよりずっと古い型の双発機などが飛び立つのが見え、「あんなのがちゃんと飛び立つのだから我々も安心だ」などと話した。
カルカッタを発ちパキスタンのカラチに向かう途中はほとんど乾ききった高原の上を飛び続けた。畑のように区画がはっきりしているところ、干上がった河川、まっすぐ伸びる道路、砂漠のようにうねりを見せる原野(山脈)などだ。窓から四方を見渡したくても見えるのはうっすらかすんだ地平線のみである。日本では到底かんがえられない景色である。道路には自動車の影は見あたらず、カラチまでの間ただ一度認めたにすぎない。(と言ってもずっと外を見ていたわけではないが・・)
カラチに着いた時は真夏を想わせる暑さであったが、空気が乾いていて、室内はそれほど暑さを感じなかった。昼食は街のレストランでのフィッシュカレーで、魚の肉ばかりで野菜はほとんど入っていないようで、すごく辛くてあまり食欲が出なかった。コメの粒の長いことも日本と変わっていておもしろかった。飯のまずいこと!
(3月23日)
夜中にダマスクスへ着く少し前に食事が出た。この時激しく揺れ、ひどく酔ってしまい、全然食欲がなかった。鳥肉は見るのもいやなほどで、りんごとパンだけ、あとで食べるように持っていた。
ダマスクスへ降りたときは少し気持ちがよくなったが、すごく眠くて仕方なかった。
イタリア上空では街の光が少し見えただけであったが、フランスでは夜が明けて畑や所々に点在する小さな町がよく見え、川が氾濫しているところもあった。フランスアルプスの雪をかぶった姿は、日が出ていたらさぞかし美しい景色であったろう。
パリ時間で7時半頃ブールジェ空港に着いた。
雨がやんだばかりで、水たまりが方々にあった。
(羽田を飛び立って75時間あまりでようやくパリに着いた) -
パリの凱旋門屋上
右はシャンゼリゼ通り、左遠方はモンマルトルの丘 -
シャン・ド・マルス公園から見たエッフェル塔 3月23日
パリに朝到着し、休む間もなくパリ市内遊覧に出かけた。主要な観光スポットであるエッフェル塔や凱旋門、モンマルトルなど。 -
シャイヨー宮からのエッフェル塔
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コンコルド広場
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エッフェル塔?東方向の風景
中央やや右のドームはアンヴァリッド、更に右はパンテオン -
エッフェル塔の北方向の風景
遠くにモンマルトルの丘が見える -
パンテオン
フィルムの巻き上げ不良で見られる部分は半分しかありません。
クロード・モネの「草上の昼食」のようには右断片が残ってはいません。 -
懐かしいシトロエン2CV軍団
フランスの自動車税法上の排気量CV(約1/6リットル)は日本の表示では9馬力に相当するそうです。従ってこの車が18馬力。
ポアティエでフランスの女子学生Anneの車で郊外の宿舎(ユースホステル)まで5人乗りで行ったが80Km/hも出すのには驚いた。 -
このドームがどこであったか記憶がありません。
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リュクサンブール公園のいけに浮かぶヨット
中央のドームはパンテオン -
リュクサンブール宮殿
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リュクサンブール公園の彫像とパンテオン
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パリ国際学園都市La Cite Internationale Universitaire de Parisにあるスイス学生会館UNIVERSITE DE PARIS FONDATION SUISSE
http://www.fondationsuisse.fr/
スイス生まれで主にフランスで活躍した建築家ル・コルビジェarchitecte Le Corbusierが設計した。コルビジェは上野の国立西洋美術館1959の基本設計も手がけた。 -
3月23日
パリ国際学園都市La Cite Internationale Universitaire de Parisにある
Maison du Japon(日本館)でのオリエンテーション後のレセプション -
パリ外環道路 Boulevards
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上のMAISONと下のFRANCEは読めますが中の文字が分かりません。
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ヴェルサイユ宮殿 3月24日
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ベルサイユ宮殿の広大な庭園には数知れぬ程の大理石彫刻があります。
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3月24日
ルーブル博物館(当時は美術館とは呼ばれていなかった)のミロのヴィーナス -
日本大使館でのレセプション 3月24日
萩原大使のご招待で盛大なレセプションが日本大使館で開かれた。
<旅日記>
午前中は最初の見学で鉄鋼研究所IRSIDを訪れた。
20年前に夜勤の各部門からなる連盟から出資されて設立された。
8年前から二つの研究所で各種の鋼、製鋼技術の開発が行われている。
300名の所員の80人がエンジニア -
日本大使館でのレセプションのひとコマ。
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日本大使館でのレセプション
私(左端)は連日のレセプションで少々疲れ気味のようです。 -
ENSIAの学生たちがブラスバンドで迎えてくれた。
1965.3.25 -
フットボールゲームに興じる学生たち
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高等商業学校ECOLE DES HAUTES ETUDES COMMERCIALES
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学生食堂で一緒に食事しました。
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高等商業学校HECでの歓迎の挨拶
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1965年3月26日(金)
いよいよ視察旅行の出発です。
初日はノルマンディー地方のカーンCAEN、モンサンミッシェルMt.St.Michelを経由してサンマロSt.Maloへ向かいます。この道路は比較的広い方です。
<旅日記>3月26日
6時10分ころ同室のM君(原文の人名は実名)に起こされた。昨夜寝たのが1時半なので目をあけているのがやっとの状態。顔も洗わないで荷物の準備。(スーツケースに)入りきれないのは風呂敷に包んだ。急いで朝食に行っても食欲なし。まだ目が覚めていないのである。
7時の出発時間にやっと間に合った。
今日のパリは1年に何日もないというほど強い雨。
これではさすがにパリでもコウモリ傘がなくては歩けないだろう。
パリをたったのが7時15分。バスに乗ったらゆっくり眠ろうと思ったのに、走り出すと眠気がとれてしまった。
パリ市内を西へ進みオートルートに出る。郊外に出てしばらくするとセーヌのほとりにEDF(Electricite de Franceフランス電力公社)の新鋭火力発電所の二本の高い煙突とレンガ色の建物が近づく。
建物の横に2.5BILLIONS KwH PAR AN年間発電量25億KwHと書かれている。
EDFにとっても自慢の発電所なのであろう。
パリの西約50KmでEVREUXに通じるオートルートを建設中で、もうほとんど完成していた。
8時45分にEVREUXを通過、パリからちょうど100Kmである。(ロードマップ持参していたのでわかる)EVREUXの少し手前右手にSOLEX(気化器の大手)の工場。 -
パリからカーン経由モン・サン・ミッシェルまでの道路地図
PARIS→Evreux→Lisieux→Caen→Mont.St.Michel
水色でマーキングした道路・地名を通過したことが大きな一枚のフランスの道路地図(HALLWAG FRANCE)に記録されています。
ここに掲載したのはBARTHOLOMEW ROAD ATLAS EUROPEの道路地図帳によるものです。 -
カーンCAEN市内。 遠くにパン屋PAULの看板が見える。
右端の私の後ろの車はシトロエンの高級車DS19でトヨタのクラウンのような存在。先進的技術の油圧式懸架装置「ハイドロ・ニューマチック」を備えたことでも知られる。
<旅日記>
EVREUXからCAENに向かう道路、幅は6mぐらいであまり広いとは言えないが、両側にほぼ同じ幅の歩道のような草地、その外側に約10m間隔で並木がある。
この並木、直線部分ではどこまで続くかわからないほど、地平線に吸い込まれるように感じるほどである。LISIEUXを過ぎると道幅も広くなり、並木もなくなったり、木が小さくなったりする。
雨はパリを出てすぐにやみ、ほとんど晴れてしまった。
数キロあるいは十数キロおきに小さな村や町があらわれ、この頃には雨もやんで太陽が我々のうしろから照らしているので、ほんとうにフランス的といえる家々が陽に映えて実に美しい。
村のまん中を流れる水をふんだんにたたえた小川や、とがった屋根の小さな教会など、フランスの田舎に来たことをしみじみ感じさせてくれる。 -
カーンの大聖堂
カメラは広角レンズではないため、高い尖塔と街並みを広く写すにはこのような手法が必要でした。最近でも時々使います。
第二次世界大戦の終盤、ノルマンディー上陸作戦ののち、カーンは激戦地となり、街は聖堂と病院を残し灰燼と帰した。カナダ軍とイギリス軍がカーンを確保したのは1944年7月9日である。街の再建には14年間 (1948-1962)が費やされた。
<旅日記>
11時少し過ぎにCAENに着く。ここのレストランで昼食。ロティ(rotiロースト)、シードル(りんご酒)など。
1時までフリーだったので街を散歩した。古い城壁に登って向かいの教会を眺める。少し雨、風強し。 -
カーン市の中心部ギュアール広場Place Guillouardから男子修道院を望む。
-
モンサンミッシェルの修道院からの眺め。
見学時間が少ししかなかったので、修道院の上まで息を切らして駆け上がった記憶があります。
2008年に再訪した時には修道院の待ち時間が長く、入るのは諦め、周囲の景色をたくさん撮りブログに公開しました。ベスト・アクセスの一つです。
http://4travel.jp/traveler/810766/album/10468332/
<旅日記>3月26日
午後はMt.St.Michel(モンサンミッシェル)の古い教会(修道院)を訪ねる。
海の中に建っており、今は島まで通じる道路があるが、昔は潮が引いた時だけしか渡れなかったという。ここに来る頃には少し太陽が顔を出し良かった。
教会まではすごく急な階段を何弾も登らなければならなく、教会の上からのながめは曇ってはいたがすばらしかった。晴れていたらさぞかしすばらしかったろうと思うと少し残念であった。 -
潮が引いた時の風景ですがモノクロ写真のため、どこが海で、どこが干潟かよくわかりません。
この時は世界遺産に指定(1979)されるより15年も前であり、グラン・リューで大勢の人を見た記憶はなく、修道院にも観光客はほとんどいませんでした。 -
モンサンミッシェルの西40Kmの海に面した城塞都市サンマロSt.Malo
<旅日記>3月26日
Mt.St.Michelを4時半に発ちSt.Maloに向かう。5時少し過ぎにSt.Maloに着く。
思ったより大きな町である。昔ローマ人が築いたという石造りの町で、ホテルは城壁の内側にあり、城門が小さすぎて中まで入れず、外側で降りた。 -
こんな田舎の町にもパリから高速列車TGV(直通3時間)が乗り入れるほどの観光地になったようです。
http://jp.franceguide.com/%E3%82%B5%E3%83%B3-%E3%83%9E%E3%83%AD.html?NodeID=1&EditoID=33411 -
3月27日(土)
ランス川の河口付近に建設中の潮力発電所
運転開始は翌年1966年です。潮力発電所としては世界的にもトップクラスの規模です。各チャンネルの中に水平に軸流式タービンが合計24基配置されています。出力24万Kw
このような建設現場の見学も工業視察団の目的です。
<旅日記>
ランス河口の潮力発電所
規模の大きさとアイディアに感心させられる。
フランスでは火力発電の設備より水力発電の設備のほうが安いそうである。また興味があるものには手をつけて見るそうで、この潮力発電はそのよい例である。設備が安いため水力発電を積極的に開発しているが、これが限界に達したら原子力に頼るそうである。
3月、9月の潮力(潮位)の差は最大13.5m
水量 1億8千万m3 18000m3/秒
耐水圧の問題が重大である。
今から100年前にここから18Km上流に水車あり。 -
水力発電の軸流タービン(水車)を設置するチャネルの工事現場
-
シャトーブリアンChateaubriantのホテルTERMINUS
ここに泊まったのではありませんが休憩時間に写したものです。
同じかどうかわかりませんが今でもChateaubriant TERMINUS Hotelがあります。Chateaubriantは一般的には高級フィレステーキとしてのほうが知られているかもしれません。
<旅日記>
レンヌRennesの町 この地方の首都
かなり大きな町で、町中を学校が終わった小学生が列を作って家へ帰る姿がみられた。子供が実に多く見えたのもこのためであろう。この町のアカデミーの前でバスの窓の中から写真をとる。
レンヌ郊外に建設中の石油精製工場が左手に見える。レンからアンジェーまでの間、所々に小さな町がいくつもあらわれる。どの町にも小さいながら尖塔をもった美しい教会が必ず見られれる。
3時40分?4時(一時休憩)
シャトウブリアン・・・フランスの有名な詩人かつ文学者(19C)(19世紀)
ド・ゴールがイギリスがEECに加盟する時に反対した演説に引用した有名な文学者の住んでいた城。レンヌRennesとアンジェーAngersの間に同名の町がある。
天気が良いので古城が実に美しく、美しい沼と共に印象的であった。
アンジェーに着いたのは7時近くで、ホテルは駅前の"HOTEL de la FRANCE"
夕食後S君とアンジェーの城を見に行く。城の周囲には街灯があまりなく、すぐ近くまで気がつかなかった。
よく晴れていたので星が実にきれいで、北斗七星、北極星などがよく見えた。星空にそびえる古城、遠くには教会の尖塔、まるでオトギの国に来たようである。
こんな町でも商店のショーウィンドーは全く美しく飾られており、古い家具店の照明の美しさはしばし立ち止まって眺めずにはいられなかった。
これこそショーウィンドーの効果があるのだろう。
この時に体験したフランスの夜のショーウィンドーの美しさは私の心に深く刻まれ、パリに滞在した時に夕方から夜にかけての街歩きの原動力になっています。
ショーウィンドー写真を載せた旅行記
http://4travel.jp/traveler/810766/album/10485630/
http://4travel.jp/traveler/810766/album/10545891/
http://4travel.jp/traveler/810766/album/10645066/ -
サンマロSt.MaloからレンヌRennes→シャトーブリアンChateaubriant→アンジェーAngers→ソーミュールSaumur→シノンChinon→ツールTouer→ポアチエPoitiers
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<旅日記>3月28日(日)
9時半にホテルを出発、すぐにロアール河畔に出る。霧が非常に深く、対岸はおろか川面もはっきりしない。
しかしフランスの田舎の感じはよく出ている。しばらくしてソーミュールSaumurの城が見える。
ソーミュールを過ぎ、シノンChinonを通るころにはすっかり晴れ、シノンの城址が青空にくっきり浮かび、実に美しい。シノンのラブレーの銅像の前でバスを降り写真をとった。またシノンの郊外には明日見る予定の原子力発電所の設備が見える。 -
-
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<旅日記>
11時15分 アゼルリドーAzay-le-Rideauに着くこの有名な城(1518ー1527年に建つ)で約1時間半見物。天気が実によく、真っ青の空に映える城の白さが目にしみるように美しい。
前に池があり、さらに広大な庭の緑が非常によく調和している。あとで内部も見たが、こちらは非常に簡素で、かえって見なければ良かったと思った程である。 -
アゼルリドーの城に描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの像?
アンボワーズはレオナルドが最晩年を過ごした町として知られており、アンボワーズ城から400メートルほど離れた場所にはレオナルド最後の家、クロ・リュセ城が今も当時のままの姿で残されています。
レオナルドはアンボワーズ城の二重の螺旋階段を設計したことでも知れれている。 -
-
ブドウ酒の貯蔵所(cave)を見学した後の記念撮影
<旅日記>
アゼルリドーの城を見た後、トゥールTours郊外の小さな村のレストランで食事をとる。1時半頃であった。白ブドウ酒はロアール流域だけあって実にうまい。
昼食後、ブドウ酒の貯蔵所(cave)を見学させてくれた。奥行が1.5Kmもあるというものすごいもので、ブドウ酒がビンにつめられて、口を横あるいは斜め下に向けて約100万本あるという話。帰りがけに数本おみやげにくれた。 -
レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたという家の前での憩いのひととき
<旅日記>
トゥールへ着く前にレオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたという家へ行った。レオナルドはフランスのフランソワ一世に呼ばれてフランスに来て、死ぬ前3年間ここに住んでいたという。
ここは美術館museeになっており、彼のアトリエとなった3つの室、小さなシャペル(ローマ法王が数年前にここを訪れた時の写真があった)、科学・技術史上の数々の発明品の具体的な模型たとえば飛行機、自動車、上げ橋、ポンプ、大砲、戦車、ハシゴなど非常に興味深いものがある。
この家の前庭の草原はこの館を眺めるのに絶好で、天気がものすごくよかったので、みんな寝転んだり飛び回ったりして楽しんだ。
仰向けになってながめていると、空の青さが日本の秋の空を思わせるように青かった。
家の前で遊んでいた子供や、孫をつれたおばあさんにいろいろ話しかけた。
子供に日本の切手をやったら大変よろこんでくれ、高橋先生にカレンダーをくれた。
トゥールでもホテルは駅の横であった。
夕食時に昼の酒蔵でもらったブドウ酒を飲んだが、昼時のものよりなおうまかった。
夕食後はまた散歩に出かけたが、店は全部しまって何も買えなかった。しかしショーウィンドーはここでも非常に美しかった。
帰りがけ四年生のグループと一緒になり、カフェでお茶を飲みながら30分ほどしゃべって帰った。
今日のホテルはバス付きで、家を出て初めてバス(風呂)を使った。 -
ENSMA(国立機械・航空技術高等師範学校)
http://www.ensma.fr/ -
ENSMAで出迎えてくれた学生パデーM.Jack Padet
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真っ先に走り寄って挨拶を交わしたのはマダム・ゲタールMme Goethals
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<旅日記>3月29日(月)
朝7時半の朝食はひじょうにつらかった。
昨日そばを通ったシノンの原子力発電所を見学した。
シノンChinonの町からは約10Km離れており、ロアール川に面している。
まずEDFのMonsieur Martin Schmittからこのシノンの原子力発電所の概要説明を受け、その後パンフレットを見ながらEDF-1,EDF-2,EDF-3の3つの発電設備を外側から見学した。
EDF-2は今年2月23日から運転を開始し、EDF-3は現在建設中である。燃料棒を入れるグラファイトのケースの積込み作業中で構造がよくわかった。
いずれも一次の冷却剤としてCO2を用いており、EDF-2では圧力25あtm.てmp250?400℃。
ここはロアール川に面しており環境は最高である。 -
概要説明をしてくれたEDFのマルタン・シュミット氏Monsieur Martin Schmitt
EDF:Électricité de France(フランス電力会社)はフランス最大の電力会社である。
<旅日記>
説明の時映画を見せてくれたが、ここでフランスでは火力発電による電力のコストと原子力によるものとが1968?1970年頃に等しくなる予定だそうだ。
また原子力発電の占める割合も大きく、フランスがいかにこれを重視しているかがわかる。
見学後、ロアールの北岸BourgueilでCAVE(酒蔵)を訪ねた。ここは貯蔵庫ではなく各産地のブドウ畑の写真や、昔使ったブドウのしぼり機(木製)などが展示してあった。帰りにみなでカンパイをして、※シュバリエの歌を歌いながら踊ったり、歓談したりした。
※シュヴァリエの歌(スペリングは怪しいです)
Chevaliers de la table rounde
goutons voir si le vin est bon.
2行繰り返し
goutons voir oui,oui,oui,goutons voir non,non,non
goutons voir si le vin est bon.
その後、町のレストランで昼食。Monsieur Martin Schmittの近くの席で、
Phillip Vaschrieとも隣席であった。Ranceの昼食と同じくらい楽しく豪華であった。Martin Schmittさんの勢力的でユーモアたっぷりの話しぶりは、この昼食を一層楽しいものにしてくれた。
帰りがけに氏とレストランの前で写真をとった。(掲載写真) -
ポアチエPoitiersにあるENSMA(国立機械・航空技術高等師範学校)で迎えてくれたGoethals教授ご夫妻
<旅日記>
シノンからポアチエまでは約2時間。
ポアチエのENSMAの前でバスを止め、ゲタール教授夫妻が門から出てきたので、バスから最初に飛び出してあいさつした。先生もよく覚えていて下さり、フランスへ来ていちばん楽しみにしていた瞬間がついに来た。
ENSMA関係の学生(注:前年ENSMAの学生の来日時に受け入れを担当した)の名前を一人一人覚えていてくれたことはほんとうにうれしかった。ただ残念なのは去年来た学制はジャック・パデー意外は誰もポアチエに出迎えられなかったことである。
ENSMA(ECOLE NATIONSALE SUPERIEURE DE MECANIQUE ET D'AEROTEKUNIQUE
http://en.wikipedia.org/wiki/%C3%89cole_nationale_sup%C3%A9rieure_de_m%C3%A9canique_et_d'a%C3%A9rotechnique -
ポアチエの町を案内してくれたジャック・パデーM.Jack Padet
<旅日記>
ENSMAでは日の丸を掲げ、琴の音楽を流して非常に歓迎してくれた。学校は非常に美しく、特に玄関の桜が美しかった。
レセプションではゲタール先生があいさつされ、日本側は土田君が仏語でこたえた。
その後ホテルへ行ったが、我々去年のENSMAのメンバーはA.M.Duport(女子学生)の車で行った。Anneの車に乗った私達5人はパデーの車を待っていたが、30分以上も待っていたが来ないので行ってしまったのか、ホテル(ユースホステ)へ着いてみるとすでに来ていた。パデーはしきりに彼女にあやまっていた。
A.M.Duportの2CV(シトロエン)は4年間乗っているというのに、看かけによらず80Km/hは平気で出していたのでには全く感心した。やはり高速で走るようにできているのだろう。(日本の車とちがって)
ホテルで着替えて、またポアティエ市内の青年の家auberge de jeunesseで夕食に行き、市のレセプションがあった。この時もAnneの車で、今度は90Km/hのメーターの針が振り切れていた。またまた感心した。
市内へ戻っても彼女自身場所を知らないので4、5回聞きながら探し、最後には車の前を歩いて教えてくれたり、オマワリに聞いたりしてやっと(Enfin!!)たどりついた。
この時ちょうど市の関係者の挨拶が終わったところだった。
夕食の後、この地方の踊りをたくさん見せてくれ、青年の家の人たち、あるいは市の関係者、教授の子供達と歓談して、非常な歓迎にとてもうれしかった。
I.E.Gの場合ほどハデではないが、食事にごはんを出してくれたり、ひじょうによく気をくばってくれた。
レセプション終了後、またユースホステル(ポアティエ市内から約20Km南にある)にもどったが、ここはまわりに何もなく外は真っ暗なので、寝る前のひと時をT,K,I君等と星を見ながらすごした。星の美しいことは口では言い表せないほどで、いつまでも忘れられないであろう。 -
3月30日(火)
<旅日記>
朝7時に起き、8時にはもうバスに乗り込んだ。
まず午前中はポアティエ市内の教会を3つ、PALACE DE JUSTICE(裁判所)、ENSMA付属のAERONAUTIC & THERMIC LABORATORY見学。研究所ではMach 8を出すという風洞を見る。5段のコンプレッサー、長さ100mもの圧縮空気タンク、その他規模は非常に大きく、また実験設備は非常にぜいたくに使っている。
あの大きな研究所で学生6人、教授3人しかいないとのこと。
風洞ではマッハ1.5付近の流れにedgeをおいた場合の波形の写真を(投影)実験をやりながら直接見せてくれた。
その後学生食堂で昼食、非常に豪華であった。
午後は3時から約2時間ENSMAの見学およびお別れパーティー。
MadameにHONDAのカタログをあげたらおみやげをくださった。
ENSMAの学生と住所を交換したりサインをし合ったりして別れた。
ボルドーまで約3時間半、陽が暮れるのがおそいので8時半にホテルに着いた時もそれほど真っ暗ではなかった。
ボルドーの町はパリを出て以来の大きな町で、自動車と人通りの多いことはパリ以上である。港町らしい活気があり、あやしげなのもある。
今日、あした2晩同じホテルに泊まるので、洗たくしたり、荷物を整理したりしたので、ねるのは1時になってしまった。あすは8時におきよう。 -
<旅日記>3月31日(水)
午前中は最初の予定をかえて、まずSaint-Emillion(サンテミリオン)へCAVE(葡萄酒醸造所)を見学に行った。まずこの町の観光局の所長を前にやっていたというじいさんが出てきて町の歴史を長々としゃべったが、さっぱりわからなかった。ここでもまたブドウ酒の穴倉を見学。その後、中世の修道院の跡や教会などを見てまわったが、暑さと疲れでどれも興味がなかった。じいさん一人がハッスルしている感じだった。 -
ボルドー周辺地図 BARTHOLOMEW ROAD ATLAS EUROPE
<旅日記>3月31日(水)
ボルドーに帰ってから昼食をとり、しばらく自由時間があったので花のいっぱいさいている広場で休んだ。広場の椅子に座っているとバアさんが料金をとりに来たのでS君と共に立ち上がってしまい、おまわりに聞いたところ、本来は払うべきであるが外国人は大目に見られということだった。
このおまわりは非常に愛嬌があり、向かいの椅子にこしかけていたかわいい女子学生をYさんが写真をとろうとして、おまわりさんにとらせるようたのんでくれというと、この女子、はじめ恥ずかしがって後ろを向いてとらせなかったが、とうとうYさんの努力の前にまいってしまった。
四時にマルセル・ダッソー社へ見学に出かけた。
見学したのはミラージュ?、?戦闘機、ミステール輸送機(ジェット)などの最終組立であるが、ほとんど完成しているものを組み立てていつので内容はほとんど分からないが興味深いものであった。
ミラージュ?はマッハ2.2の速度を持つという。
工場の外で完成したミラージュ?のエンジンテストを行っていたが、その爆音はものすごいもので、思わず耳に手をあてるほどである。
またミラージュと思われる一機が空港上空でテスト飛行をやって見せており、そのスピードと迫力はまさに弾丸のごときすばらしさである。
工場見学を急いで終え、ボルドーのHOTEL DE VILLE(市役所)のレセプションに行った。シャンデリアの輝く見事な部屋で、今まで飲んだこともなかったほどうまい酒(ブドウ酒)をごちそうになった。
CHATEAU de Caussade(この夜のワインに一つ)
今日のボルドーは夏を思わせる太陽の強さと暑さで、これはボルドーでもきろくてきな(80年来)のものだそうである。おかげでサンテミリオンヘ行った時にはマロニエの葉が非常に美しく、スモモの花も満開であった。
Le Chateau de Caussadeボルドーの東40KmのTrelissacの北に位置する
http://www.ville-trelissac.fr/decouvrir/monuments/chateau-de-caussade.html
Chateau de Caussade関連写真集
http://www.google.co.jp/search?q=Le+ch%C3%A2teau+de+Caussade&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=76U2UdG5CYj-lAWWzYHYDw&sqi=2&ved=0CDoQsAQ&biw=1161&bih=636
<旅日記>4月1日(木)
今日のボルドーはきのうとうって変わって曇り空で、雨も振りそうな天気である。
ボルドーからポーPauの近くのラックLacqまで約3時間バスにゆられて、途中高橋先生からフランスの新聞のこと(今朝の新聞LA FRANCEに昨日のレセプションのようすが一面に写真入りでのった)、フランス留学の話などしていただいた。
ポーに近づくころLacqの天然ガス採取のプラントが見え始めた。ガス精製の際の廃ガスを燃やす赤い炎が印象的である。LacqとPauのあいだの小さなレストランで昼食をとった。ここでの出来事を記録しておこう。
◎E君がサラダのレタスをもっと欲しいといってマドモアゼルに”レタス”が欲しいといったところ、彼女は"les tasse"と思いちがいをしてタース(カップ)を持ってきた。
◎やはりE君の話。同じレストランで、今日洗礼を受けたというマドモアゼルに今朝市場で買った赤いバラをあげところフランス式の挨拶をおくられ、それを写真にとった者までいた。
昼食後はいよいよラックの天然ガスのプラントの見学。
まず規模の大きいことには今さらながらおどろいた。工場ではまず防毒マスクを渡され、万一に備えた。プラントの概要を仏語で説明された後、中央制御室、ガスの採掘現場・・・・といってもすべて遠隔操作のため現場には制御に必要な装置とパイプラインがあるのみである。
その後ラックの天然ガスに関するフィルムを見たが、ひじょうに眠くてやっと聞いていた。最後にプラント内をバスに乗ったまま見学。硫黄の分離装置、石油化学製品のプラントなど外観だけでは素人には分からないが、分離した硫黄の巨大な山は印象的であった。
Pauのホテルは大通りに面したHOTEL CONTINENTAL。 -
教会のステンドグラス(どこの?)
<旅日記>4月2日(金)
午前中はまずペシネのアルミニウム工場を見学。工場へ着いていつものように概要説明。この工場はラックLacqのすぐ近くにあり、天然ガスを使用して発電し、これをアルミ電解に利用している。
アルミニウムの電解方法の簡単な説明と、このNogeres工場の規模などを聞く。工場見学の前に時計をはずし事務所に預ける。これは電解工場での強烈な磁場のために部品が磁化するのを防ぐためである。
電解工場の内部はもうもうと煙がたちこめ、800メートルもあるという建物の端から端まで見通せないほどである。工場内には溶けたアルミを運搬したり、アルミナを補給する労働者以外はほとんど人影が見られない。
ちょっとおもしろいのは、電極の間にたまるガスを抜くために、電解槽の溶けたアルミの中へ木の棒(太さ5cm、長さ3mぐらい)を差し込んで燃やし、その燃焼ガスを利用(燃焼ガスと共に追い出す)していたことである。
次に電極(アノード:陽極)の消耗を補給する方法は興味深いもので、消耗(2cm/day)しただけ上部からコークスとピッチを補給し、これが熱で溶けて固形化し、連続的に補給できる。
電解工場見学の後、電極用のピッチの製造工場、直流を得るための整流室、連続鋳造向上(インゴットを作る)を見た。
見学後、きのうと同じレストランで昼食。ペシネ社の招待なのできのうよりすばらしかった。
この後一度ホテルへ帰り、3時半にターボメカ社の迎の車でターボメカの工場見学に行った。
ターボメカ社はポー市内から約10Kmで、車で10分ほどのところにある。
正式に工場内を見るには軍の許可が要るので、最初の交渉では見学不可能であったが、M君の努力によってトレーニングセンターだけ見学できることになり、パンフレットをもらうことができた。
この会社にはちょうど日本の石川島重工から来ているIさんがいて、会社の概要の説明、ターボメカのエンジンの特色、トレーニングの方法、等を説明して下さった。
この会社は完全に個人資本で、社長個人で98%の資本をにぎり、他の家族の名義などになっているといわれる。製品のジェットエンジンは小型のものばかりであるが、各所に独特なアイディアを盛り込んでおり、特に燃焼室の形や燃料の供給方法など、ひじょうに一般のものとかわっている。
トレーニングセンターには各国から来た学校、会社、軍などのバッチが残してあったので、我々もMJETのバッチをおいてきた。
最後に門の前でIさんといっしょに記念撮影、帰りも送ってきてもらった。 -
つづき
ホテルに帰ってからChateauxのあたりへ散歩に行くと、その前で数人の子供が遊んでいたので話しかけると、最初は警戒しているらしくこわそうな顔をしていたがすぐに慣れて、彼らが近くに住んでいる小学生達で、いちばん年上の子が12才、小さいのが5才であること、その中の一人の9才で小学校2年生のかわいい顔をした青いセーターの男の子の父親が、たった今私たちが行ってきたターボメカに勤めていることなどがわかった。
持っていた日本の切手を一枚づつやると非常に喜び、フランスで買うとすごく高いと言っていた。
(この男の子の名前と住所はノートに書いてある)
M.Andre Lasserre c/o Gabriel Lasserre
3 Rue Sully P.B.P FRANCE
子供たちの遊びは我々もやったことのある花火(カンシャク玉)で、目の前でやってみせた。彼らにとっては非常に楽しいらしく得意になって話すのである。しかし彼らの友達がずっと大きなカンシャク玉で遊んでいて、爆発によるケガで指先を落としてしまったことがあるという話をしている時はさすがに真剣だった。それでこちらも笑うわけにはゆかず、つい真面目な顔になってしまった。
夕食はIさんに案内されて安楽園でホンコン以来の中華料理を味わった。
うまいご飯としょうゆの味はなつかしかった。
4月3日(土)午前
とある町で水仙の花を選ぶマダム
<旅日記>
今日は工場見学がないので朝はゆっくりできた。
出発前に小包用の紙を買いに行ったがなかなか見つからず、そのまま帰った。 -
さて、これは何でしょう。
クイズではありませんが、デジタルカメラの用にデータが付いているわけではないので分からないものもあります。 -
ルルドLourdesのBasilique寺院
<旅日記>4月3日(土)午前
ポーPauを発ってまず、約40KmはなれたルルドLourdesの聖地でバスを降りる。
ここのBasilique寺院は非常によく均整がとれ、広場の反対側から見ると後ろの緑の山や近くを流れる川の流れ、まっ白なコブシの花などとともに非常に美しい。またここの地下には大聖堂があり、これは近代建築技術によるモダンなもので、その大きさはおどろくべきものである. -
ルルドLourdesのBasilique寺院の右半分
フィルムの送りが半分しかされない故障のため、画面の正常部分を拾い集めた写真がほとんどです。 -
Lourdesルルドの泉
<旅日記>4月3日(土)
ポーPauを発ってまず、約40KmはなれたルルドLourdesの聖地でバスを降りる。足の悪い人が来てそこの泉の水を飲むと治ると言われているところで、泉(今では蛇口が並んでいる)の水を水筒やカンに入れて持ち帰る人がたくさんいる。
ここにはフランスのみならずヨーロッパ各地から訪れる者があとを断たず、今日も広場でスペインから来たという団体に会った。
みやげ物屋とホテルの数がものすごく多いのもこのためであろう。 -
ルルドの聖堂に納められた(献灯された)巨大なろうそく。
奇跡の泉で足が治って、不要になった松葉杖がたくさん残されています。 -
後ろ姿の修道女
<旅日記>4月3日(土)午後
12時半にルルドを発ち、20KmほどはなれたTARBESで昼食。
レストランのすぐ近くに私立の女学校があり、食事をしたあと数人で校内に入って写真を撮るふりをすると、昼休み中の女子学生が一斉に注目。しばらくすると先生が出てきて、ここは私立であるから写真はとらないでくれと追い出された。と言っても非常に物柔らかな調子で、笑いながら断られたのである。
午後はTARBESとTOULOUSEの間にある古いCathedralと古代人が住んでいたといわれる洞窟を見学する。Cathedralのある小さな部落からは、遠くに雪におおわれたピレネーの山々がかすかに見え、近くにはなだらかな谷をはさんで向かいの山から聞こえる小鳥の声、道ばたの草原に咲く紫のすみれの花など実にのどかで美しい風景である。
わずか20分あまりの休けいであったが、非常に心身とも休まる心地がした。
古代人が住んでいた洞窟というのは鍾乳洞からなり、構造は四国で見た龍河洞と同じようなもので、それよりも長さは短いが空間の部分が大きいようである。内部には壁に人間の手形がいくとも描かれており、あきらかにかつて古代人が住んでいたようである。
おもしろいのは手形に指をつめたことを示すものがあることである。古代人は肉親が死ぬと指をつめたといいう説もある。 -
Toulouse手前87KmのSt.Gaudens付近の道路標識
N117(国道117号)
SAINT MARTORY18
SAINT GIRONS48
TOULOUSE87
<旅日記>4月3日午後
トゥールーズヘ向かう途中の道路の右側にある道標(右側通行のため右にある)を観察しているとなかなかおもしろかった。
よく完備している点では実におどろくべきほどである。1Kmごとに赤い頭の道標、100mごとに数字の入ったのが並んでいる。
直線部分で速度を何回か計ってみたところ、1Kmにつき39から秒であった。
40秒とすると90Km/hourであるが、道路が良いのとバスが良いためにそれほどスピード感はない。 -
アルビAlbiにあるロートレック美術館MUSEE TOULOUSE-LAUTREC
<旅日記>4月4日(日) Toulouse→Albi 77Km
朝ホテルを出る時はすっかりくもって霧がかなり深かったが2?30分するとだんだん明るくなり、陽がさしてきた。アルビーへ着くころにはすっかり晴れたがやはり春。花ぐもりの空は日本と変わりない。
アルビーではろーとれっく美術館を見学する。コレクションの数は非常に多く、内容もかなり充実しているように思えたが、特に感心するようなものはなかった。フランスの1Frの切手のモデルになっている絵があったので絵ハガキを買った。(注:当時は絵画にあまり興味がなく、よく理解しようという気がなかった。
アルビの大聖堂cATHEDRALはレンガ造りの巨大なもので、私たちが中へ入ろうとした時、ちょうど日曜日(復活祭の2週間前)のミサが終わったところであった。
内部正面にあるパイプオルガンは実にすばらしいもので、演奏を聞けないのが残念であった。
昼食は近くのレストランでとったが、最初連絡が行ってなかったというのでかなり待たされた。
午後はゴヤ美術館を見学。館長自身が我々を案内しながら説明してくれた。午前中見たロートレックのものより、数こそ少ないがずっと優れたものが多いように思えた。スペイン美術館にするよう努力しているとのことで、スペイン画家の絵が多いのが目立つ。(当然なり)
この美術館(もとは宮殿・・・ベルサイユを造ったのと同じ建築家そ作という)の前庭は典型的なフランス式庭園で、キハすべて幾何学的模様に刈り込まれており、その間にチューリップ、ヒヤシンス、三色すみれなどが色鮮やかに咲いている。中央の噴水のまわりには日曜日のためか子供を連れた母親、走りまわる小学生。木かげには老人の姿が目立つ。 -
トゥールーズToulouse周辺の道路地図
<旅日記>
再びトゥールーズへ帰る途中、小さな町でちょうどカーニバルをやっており、町の付近の道ばたには車の行列ができ、畑の中まで車でいっぱいである。紙ふぶきを頭に受けた女性、道ばたのおもちゃ屋の風船、大きな人形をかついだパレードなど、いかにもカーニバルらしい光景である。
その後トゥールーズまでの間(5?60Km)、あまりにもねむいのでいつの間にか眠ってしまった。この間に誰かにいたずらされてサングラスに面白い仕かけができていた。(閉じた目の絵が描かれていた)
4月5日(月)
午前中はフリーだったので買い物に出かけた。
昨夜荷造りした小包を郵便局へ出しに行ったら1Kgまでしか送れないといわれて頭にきた。ポーでは2Kg以上送った者がいると言って抗議したが、その理由を聞いても、あまり早口で言われるのでさっぱりわからず、そのまま帰った。
デパートでカー手袋を買った。最初グルノーブルで買うつもりだったが、日程を見るとほとんど買い物の時間がないためである。
昼食後再びデパートに行ったが、昼食時間(12h?14h)で閉まっていた。
フランスではデパートまでちゃんと昼食用休みのを設けているのである。
午後は今日の目的であるシュド・アヴィアシオンの見学。
会社へ着くとすぐにトゥールーズのデペシュ(新聞の名)のカメラマンが来て、カラベル(機種名)の前で写真をとった。明日の朝の新聞に出すそうである。
英語版の映画”カラベル”と”コンコルド”を見た後、カラベルの組立工場を見学。さすがにフランスが誇る旅客機だけあって立派なものである。
コンコルドのキャビンの組立などもやっていたが、コンコルドは1967年末までには完成するそうである。
シュド・アヴィアシオン
・国営である・・・資本はすべて国家に属する。
・9つの工場 パリ地区3、大西洋3、トゥールーズ、マルセイユ、カンヌ
・23000人の労働者(9工場)
◎製品:カラヴェル、ヘリコプター、コンコルド(英と共同)
最初の飛行は10年前
1959年に商業的生産化 それ以来192機 26の会社に納入
4月6日(火)午前
昨日のシュド・アヴィアシオンっ見学の記事がのっている新聞を駅まで買いに行った。駅はホテルの下にある。
ボルドーの場合とちがい団長が正式に述べたことなのでほとんど正確に伝えられていた。
今日の行程は非常に長いので8時には出発した。
まずN113を通ってカルカソンヌへ。ここには2世紀に造られたという城壁がほとんど完全な形で残っており、内部は一部博物館になっていた。
非常になまりのある(アクセントの強い)仏語をしゃべる案内人に着いて城壁の上や内部などを見学。帰りに出口をまちがえて城壁の反対側へ出てしまい集合時間におくれた。
この時一緒に先生、Sさん、N代表、会計、点呼係、部屋割係などがいたので安心だった。 -
<旅日記>4月6日(火)午後
昼食までにBEZIERSまで行った。
午後BEZIERSから地中海に沿ったN112を通り初めて地中海を見た。今日は曇っていたため、せっかくの海も青くない。地中海の貝を拾って持ち帰る。
Seteまで海沿いの道を通り、再び地中海が見えなくなる。
NIMEまで眠る。ニームでは古代ローマ時代の闘技場を見物。2フランの入場料は高かったが入ったかいはあった。見物席のいちばん上に上がってニームの市内を見下ろしたり、闘技場のまん中に立って大声をあげて気分を晴らした。 -
ニームNimes市内の道路標識
N113(国道113号)
Arles 31(アルル)
Marseille 122(マルセイユ)
Gare SNCF(フランス国鉄駅) -
ニームのコロッセウム(円形闘技場)
-
アヴィニヨンAvignonのポン・デュ・ガールPont du Gard
<旅日記>4月6日(火)午後
ニームからアヴィニヨンへ行く途中ローマ時代の水道橋Pont du Gard(
ポン・デュ・ガール)の下で休けい。
流石に大きな水道橋で、いちばん上にのった人間がまるでアリのように見える。 -
アヴィニヨンの教皇庁
<旅日記>4月6日(火)夕方
アヴィニヨンの街に入るころちょうど夕ぐれ時で、遠くに夕日を浴びて
白く輝くアヴィニヨン教皇庁、町並みの赤い屋根が新緑の並木の間から見える風景は非常に美しく印象的であった。
ホテルのすぐ近くに広場があり、ここには銅像が建ち、カフェのテーブルが何列も並んでおり、夕暮れ時に憩う人々でにぎわっていた。広場にはハトもでいた。 -
アヴィニヨンの橋
<旅日記>4月6日(火)夕方
夕食前の時間に一緒に遊んアヴィニヨン教皇庁のある丘に登り、ローヌ側にかかる有名なアヴィニヨンの橋が見えるところまでゆくと、ちょうど真っ赤な太陽が雲の間からのぞいていた。 -
これはアヴィニオン市内かどうか定かではありません。
-
N100のFORCALQUIER村の入り口の道路標識
DIGNE 49
SAULT 53
<旅日記>4月7日(水)
今日はアヴィニヨン?グルノーブルまでフランスアルプスを通るので8時に出発。(注:約280Km)
まずN100を通ってN96の交差点まで。ここまでの風景が日本の四国によく似ているような印象を受けた。左右にオリーブ畑が時々見られ、小高い山の中腹まで上っている。昨日よく見られた糸杉もあまり見られなくなる。
アヴィニヨンの近くでは畑の間に防風林が必ず有り、糸杉、ポプラなどが植えられているが、それがみな風に吹かれる方向になびいている。 -
斜面にはオリーブの木が見られる。
-
アヴィニヨンからグルノーブル?Annecyまでの道路地図
<旅日記>
N96をしばらく行くとナポレオン街道Route Napoleonに入る。
山道ではバスの速度は非常におそい。ヨーロッパの車は高速用に作られておりギヤ比が高いので坂道に弱いのは当然であろう。
途中GAPで昼食。この町は今年のモンテカルロラリーの通過した町である。
そう思うとなかなか興味がもてる。
レストランは交差点に面し、ロータリーの横に噴水があり、天気が良かったので近くの雪の残る山とともに非常に美しかった。
午後の道はさすがに急な山道で、今年のラリーで日産のブルーバードが雪の中に閉じ込められて失格してしまったというのもうなづける。
今日はグルノーブルまでで、ここでは一つのホテルに全員とまれず、GRAND HOTELとHOTELROYALに分宿。
6時からEcole PolytechniqueでGrenoble市のレセプション。物性論のネール教授(Grenoble大学)のあいさつが最初であった。
(その後の夕食と町の雰囲気についての印象は書かない方が良さそうなので止める。) -
GAP方向を示す道標
-
Annecyから
4月8日(木)グルノーブルGrenobleからシャロンChalon-s-Sao:neまで
<旅日記>
9時50分 グルノーブルのGRAND HOTELを出発。HOTEL ROYALへ寄って、残りのメンバーを乗せる。
グルノーブルを発った時は小雨が降っていたが、しばらくしてやんだ。
イゼール川Isereに沿ってN90をシャンベリーChamberyへ。シャンベリーをすぎてじきにLac de Bourget(ブーゲ糊)のほとりへ出る。
フランスではめずらしく湖があり、非常に美しい。
このあたりからもフランスアルプスが頂上のほうが雪につつまれてそびえている。アルプスだけあってさすがにけわしそうな山々が続く。
Annecyも湖のほとりのかなり大きな町で、15分ほど降りて休けいする。
昼食はAnnecyから13Kmほど湖に沿って東へ下ったTalloiresという小さな町のレストランで食べる。第二グループも同じレストランで、我々が着いた時まだ始めたばかりだったので、我々は1時間近く待たされた。
その間湖のほとりで石なげなどして食欲を増そうとした。湖のほとりの草原のクローバの緑やすみれの紫色がつゆにぬれて非常に美しかった。
すっかり晴れていなかったのが残念であった。 -
AnnecyからChalon-s-Sao:neまでの道路地図
<旅日記>4月8日
午後AnnecyからN508でBellegardeのN84の交差点まで、Bellegardeの直前のG
enissiatで水力発電所(Genissiatダム)を見る。これはGENEVEのレマン湖から流れ出るRhone川に作られたもので出力80万Kwといわれる。
N84のNantuaをすこし過ぎる頃から雨になり、しばらくするとやんだが東の方の真黒い雲を背景に実に美しいにじが見られた。二本、しかも非常に鮮やかで、内側の紫色まではっきり見えた。
Bourgからは平らな道でスピードもかなり出せたので、おもったよりかなり早くChalonに着いた(7時40分)
Chalonの町は非常に小さく3★ホテルでも・・・(以下略)
4月9日(金)
今日は最初予定していたLe Creusotの鉄工所が兵器を作っているため見学できないことになってしまい、残念ながら一日遊びの日となってしまった。
今日は非常にかわり易い天気で、一日中降ったりやんだりで晴れたりの天気であった。
Chalon.s.S.からN78(注:現在はD978 Route de Chalon)でAutunまで行き、そこで昼食用の食料品を買い込む(係りが)
我々は有名なCathedraleをJack Padetの案内で見学した。塔野上まで上がったが風が強くて寒かった。
昼食はN78からすこし山へ入ったMontsaucheの近くの湖のほとりでとった。
そこへ着く直前にひょうがぱらつくという寒く風の強いところで、昼食を始めても寒くてガタガタふるえながらパン、ソーセージ、ハム、魚のカンヅメ、オレンジジュース、ブドウ酒、バナナを食べた。
食べ終えるころ初めて陽が出るという皮肉な天気である。
午後は割合よく晴れ、方々にある牧場の緑や牛の姿が美しかった。
BOURGESの35Kmくらいの地点でバスが故障を起こし30分ほど停車した。
ちょうど牧場の入り口の近くだったので、その牧場でウマとびをやったり、オニゴッコをやったりして久しぶりに走りまわっていい気分だった。
今日は割合早くホテルに着いた(6時40分頃) -
パリ付近の道路地図
<旅日記>4月10日(土)
いよいよ今日はパリに帰る日である。朝出発前にBOURGESのCathedralをS,T両君と見に行く。近づいた時の大きさにまず圧倒され、内部のステンドグラスの美しさと大きさにおどろく。
中にあったオルガンをTさんが弾くのを聞いていたが、その音の美しさと内部の静けさが非常に良く調和し、何とも言えぬ気分になった。
あすは日曜日なので本当のパイプオルガンをノートルダム寺院に聴きに行こうと約束した。
帰りにS君が銀行に寄ったのですこしおそくなり、ホテルへ走って帰ってやっと間に合った。
フォンテンブローまでは約150Kmで、12時頃着いた。
今日はレストランの予約が出来ず、1人7.5フランずつ渡されて各自かってに食べに行った。約10フランで食べられた。1/4のブドウ酒付き。(注:730円)
2時からフォンテンブローの宮殿の内部を見学。土曜の午後で各国の学生団体が来ており、イギリス、ドイツ、フランス、ベルギー等、まるでオリンピックのようなので、誰かが我々最後の日本学生を称して、”いよいよ日本選手団の入場であります”と声高らかに声明、一斉拍手。
ベルギーの学生はおもしろい白い帽子をかぶっており、いろいろな絵や文字が書かれており、我々もサインを求められ、してやった。
この宮殿はベルサイユと同じような様式で、内部は修理中の部分が非常に多かった。
フォンテンブローからパリまではAUTO ROUTEを通ったが、このすばらしさは名神高速道路以上であろう。AUTO ROUTEの終点とパリ市街地へ入る頃はさすがにパリに帰ってホッとした気分になった。パリを出るときも、再び帰るときも雨であったのは残念であった。
パリのホテルはPARIS LATINで、前と同じである。久しぶりに第2グループと顔を合わせる。雨が降っていたので夜は外出せずにホテルで日記を書いたり、手紙を書いたり、また日本からの手紙を開いたりした。
4月11日(日)
日曜日なのでノートルダム寺院のミサを聞きに行くために少し早めに朝食をとる。出かける前にTさんに誘われてフランス人の家庭への正体を受けることをきめ、高橋先生を通して電話していただく。
9時半少し前に、S,T両君と共にノートルダム寺院へ。前のミサの途中らしかったが中に入って椅子をとる。周囲の人々のやる通りに従いミサを聞く。
長時間立ったり座ったりしたままじっとしていることに慣れていなかったので、かなり苦しい思いをした。
ミサの途中の合唱、この寺院の内部の空間にもののみごとに共鳴するパイプオルガンの美しさに心をうばわれる。
11時に寺院を出てフランス人のお宅へ。オテル・ド・ヴィルからメトロで行きNATION駅で降りたが、出口が非常にわかりにくく、地下道をさまようこと約5分。早めに出てきてよかったとつくづく思う。訪問する前に花屋で赤いバラを5本買って持って行く。
アパートは入口が非常にそまつなので最初わかりにくかったが、下に住んでいる人に訊いてやっとわかった。
アパートの部屋ではご夫妻が快く迎えて下さったが、何と挨拶してよいか少々とまどったがすぐに慣れた。
まず氏が自慢の日本、中国の調度品のコレクションをいくつも見せてくださって、我々二人はただ驚くばかり。1818年の中国製の化粧セットに及んでは、ただただ目を見はるばかりであった。夫人の肖像画も非常にすばらしかった。
昼食はブルターニュ地方のクラシックなもの。夫人がブルターニュ地方(St.Malo)の生まれだそうである。
約3時頃までかかり、その間にロアール地方のカーヴで味わったブーヴァエ
BOUVARY?の白ブドウ酒(10年)1955年の赤など、非常にうまい酒を味わわせてくれたので少々飲みすぎてしまった。
食事後、氏の運転するFIATでGRAND BOLVERD(注:直径約10Kmのパリ外郭環状大通り)を通ってコンコルド広場、シャンゼリゼを通り、ブーローニュの森へ行く。日曜なので人出が多く・・・と言っても日本の感覚からすると非常に少なく、芽をふき始めた森の緑が夕日を浴びて非常に美しかった。
パリの中にこんな美しい森をもつパリジャンたちをうらやんだ。
森の中の競馬場(注:ロンシャン競馬場)でちょうど最終レースがスタートし、すぐ前を撮るのが見えた。スタンドにはぎっしり人がつまり、パリにもこんなに人が集まるところがあるのかと、つくづく思った。
帰りにアンヴァリッドの前で降りてその大きさと洗い流されて美しくなった外部、夕日に映えるその美しさにしばし見とれる。
車の中で今晩フリーかと聞かれてOuiとこたえたため、ついに夕食まで招待されて断りきれなかった。結局、午後全部と10時すぎまでつきあうことになる。氏は今年8月1日、Mission Franco-Japonaisを通して日本に来られるそうである。日本で再び会えることを互いに口にしながら別れた。
帰りもメトロでオテル・ド・ヴィルまで。それからホテルヘ帰る途中、道ばたに駐車中のE-Type Jaguarを見つけ、しばし見とれる。
ひとまずここで前半を終わりにします。
後半はパリ近郊の工場、研究所の見学と4月15日?23日の自由行動期間に訪れたドイツ、スイス、ベルギーの旅行記ですが、個人的な行動でアーカイブ(公文書)と呼ぶのにふさわしいとは思えず、旅日記を公開するかは未定です。 -
ここからは9日間の自由行動日に行ったドイツなどの写真です。
運良く助かった貴重な写真です。 -
シュトットガルト市内
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大型ベンツが走っているのでドイツとわかります。
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シュトットガルトから列車に乗る前の朝食は駅で食べました。
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ハイデルベルグ駅のホーム
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ハイデルベルグのネッカー川にかかる橋の上と思います。
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ドイツにも駐留軍が残っていたのでしょうか。定かではありません。
あとがき
48年も前の写真を公開する時が来るとは思ってもいませんでした。インターネットという近代通信革命の恩恵です。
写真はわずかしかありませんが、旅日記はかなりの頁があるので文字入力に手間取りました。
工学部の学生の記録なので漢字が少なく小中学生向きかもしれませんが、できれば高校・大学生に読んでいただけると嬉しいです。
もちろん私と同年代のシニアの皆様にも昔の風景など参考にしていただければと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
yamada423 -
当時使用していたカメラと同じFujica35-SE FUJINON 45mm f1.9
詳細は下記を参照ください。
http://mino1st.web.fc2.com/02_fuji/35se.html
フィルム巻き上げレバーが底部にあり、落とした時に半分しか巻き上がらない致命傷を負ってしまいました。巻き戻しレバーが動いていたので損傷に気づかず、帰国後に現像して初めて判り、私自身の心にも深い傷を負ってしまいました。
落とす(首から下げていて屈む)という不可抗力の事象に対するフェイル・セーフの思想があれば、底部に重要機能部は設けないと思うのですが、自動車のような人命に関わる機械とは考えが違うようです。 -
1965年の視察旅行で移動ルートを記録した赤い表紙の道路地図(HALLWAG FRANCE)と、この旅行記の説明用に通過した道路・地名を水色でマーキングしたBARTHOLOMEW ROAD ATLAS EUROPEの道路地図帳の表紙。
地図を持っていき、行程を確認しながら旅をすることの楽しさ、メリットはとても大きいです。パッケージツアーで長距離をバスで移動する時など、退屈しのぎにもなります。海外の地図も丸善、ジュンク堂、紀伊国屋などで手に入ります。国別のものが2?3千円程度です。地図帳は地域全体が見渡せず、旅行携行用には適しません。スマホでGマップ見ても?でしょう。 -
1964年7月29日
フランスの学生一行はロシアの客船ウリスキー号で横浜港へ着き、最初は東京工業大学でオリエンテーションを行いました。 -
ようこそ 日本へ!
オリエンテーション会場
夜は日仏工業技術会会長の安西邸で歓迎レセプションが開かれました。 -
特別掲載
1964年7月30日
日仏工業技術会安西会長宅で開かれたフランス学生の歓迎レセプションで挨拶するENSMAのM.Pierre Sarda
安西会長(中央)、菊池理事(東京大学教授)(右) -
安西会長(中央)、M.Pierre Sarda(右)、菊池理事(東京大学教授)(左)
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安西会長のご子息夫妻とフランス学生
令夫人は現皇后の妹御 -
安西会長邸の庭園に集うレセプション出席者
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私はポアチエの航空機械大学ENSMA http://www.ensma.fr/の随行メンバーとして川崎航空機、帝国酸素、神戸製鋼、東洋工業、八幡製鉄、三菱造船などの工場見学の交渉と会計幹事を担当しました。
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鹿苑寺金閣
工場見学の合間の観光も大切な文化交流でした。 -
清水寺
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神戸製鋼所高砂工場見学の記念撮影
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三菱造船長崎工場見学の様子が地元のテレビで放映されるととても喜んでいました。
翌年私たちがフランス訪問時にも翌日の新聞に載ることが何回かありました。 -
長崎造船短期大学での交流会
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お別れパーティが行われた目白の椿山荘のバーベキュー・ガーデン
教授夫妻と学生
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この旅行記へのコメント (3)
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- ミモザおばさんさん 2013/08/31 21:53:38
- 1965年渡欧は凄いですね!
- 私の周りで1960年代に海外に行った人は誰もいません。
1970年初めに行った学生がいて、確かお嬢様だったので我々平民の学生は羨望・・・でした。
皆でパリの話を聞いた覚えがあります。
自分自身がヨーロッパに行ける日が来ようとは、夢のようです。
yamadaさんたちは凄い方々だったのですね!
この旅行記は服装からとても懐かしく、楽しく拝見しています。
ミモザおばさん
- yamada423さん からの返信 2013/08/31 22:23:41
- RE: 1965年渡欧は
- ミモザおばさん こんばんは
お便りありがとうございます。
1965年の学生工業視察団は東大、東工大、慶応、早稲田の四大学の理工系学生と引率教授2名含めた70名の約40日の旅行で、仏会話も含めて1年かけて準備しました。
一般人に外貨が解禁された翌年で、滞在費を含めて500ドル(18万円)の持ち出し制限があり、やりくりには苦労しました。全て自分たちで計画・手配した経験は今に生きています。
前年の1964年東京オリンピックの直前に来日した仏学生の、日仏工業技術会の安西会長邸でのレセプションのホステス役が正田恵美子さん(現皇后の妹)であったのも懐かしい思い出です。
この時の仏学生が50周年を記念して来年4月の桜の季節に来ますので、いろいろと対応を考えています。
yamada423
> 私の周りで1960年代に海外に行った人は誰もいません。
> 1970年初めに行った学生がいて、確かお嬢様だったので我々平民の学生は羨望・・・でした。
> 皆でパリの話を聞いた覚えがあります。
> 自分自身がヨーロッパに行ける日が来ようとは、夢のようです。
>
> yamadaさんたちは凄い方々だったのですね!
>
> この旅行記は服装からとても懐かしく、楽しく拝見しています。
> ミモザおばさん
>
>
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- 一歩人さん 2013/04/17 07:23:45
- ふ、ふ、あの頃は、みんな若かったですよね
- yamada423さんへ
ふ、ふ、なんとなく、自分たちの若いころを思い出して、よかったです。
モノトーンのせいでしょうかね。
学生時代にいったベルサイユ宮殿の庭園はいまだに忘れられません。
当時は、印象派の知識がなく、東京で印象派展で見ると、
そうそう、現地でみたなああと思うこの頃です。
ふ、ふ、Q&Aで立ち寄らせていただきました。
よかったです。なんとなく、ひらめいたかしらね。
ありがとうございました。
失礼しま〜す♪
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