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 鎌倉市二階堂にある永福寺(ようふくじ)跡は、国指定の史跡になっている。永福寺は鎌倉時代初期に、源頼朝が中尊寺の二階大堂・大長寿院と毛越寺・大泉が池を模して建立したとされる寺院で、当時は鶴岡八幡宮、勝長寿院と並んで鎌倉の3大寺の一つであった。永福寺の中心伽藍は二階建てであった事から「二階堂」と称された。現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている。ちなみに、それ以前の地名は大蔵(大倉)であった。また、二階堂(建久3年(1192年)竣工)を中心に、北に薬師堂(建久5年(1194年)竣工)、南に阿弥陀堂(建久4年(1193年)竣工)が建てられていたことから、字名に三堂の名も残っている。それぞれのお堂には、薬師堂には薬師如来、阿弥陀堂には阿弥陀如来が安置された。二階堂には釈迦如来が安置されたようだが、「釈迦堂」とはならなかった。裳階(もこし)付きの伽藍は見慣れていても、二階建ての伽藍はそれほど珍しかったからであろうか。<br /> 永福寺は、奥州平定(文治5年(1189年))で犠牲となった源義経や藤原泰衡らの霊を供養するために創建された。勝長寿院(文治元年(1185年)竣工)は父源義朝の菩提を弔うために建立され、大御堂(おおみどう)と呼ばれた大伽藍であった。頼朝が創建したと伝えられる大寺といえば、證菩提寺(建久8年(1197年)竣工、横浜市栄区上郷町)があるが、こちらは治承4年(1180年)、石橋山で戦死した佐那田与一の霊を弔うためと伝えられている。当時、鎌倉中とされた野七里の向こうになり、1km四方の寺域があったとも言われている。狭い鎌倉中であれば、300m四方もあれば大寺であるが、鎌倉在郷であれば、その10倍の寺域となるから驚きである。これら大寺の建立を経験し、さらに京都の諸寺を見学し、奈良東大寺を再興し、平泉の大寺を見分した後で、頼朝が権力の最高潮に達した頃に、旗挙げした頃に殉職した家臣を弔う寺であったのであるからさぞや大伽藍であったことであろう。<br /> 永福寺の機能は、頼朝の死後は賓客をもてなす鎌倉幕府の迎賓館に変貌していったと市文化財課の担当者はいう。発掘成果に基づいて三堂の基壇を復元中であるが、お金がないから伽藍は建設しないのだという。なるほど。また基壇は木組で平泉の全くの模倣であるという。頼朝ほどの権力者が石組の基壇ではなく、木組にしているのは奥州征伐での犠牲者を弔うためだとする建立の目的が伝わってこようか。<br /> 永福寺は応永12年(1405年)の火災の後に廃絶した。廃寺の時期については、鎌倉市ホームページ「鎌倉の宝」では「応永12年(1405)に焼失し、江戸時代初期頃に廃寺となりました。」(http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/t_aug.html)と江戸時代まで存続したとしている。この「江戸時代まで存続」説は多く見かける。「武家の古都鎌倉」のホームページには、「頼朝の死後は将軍家の遊興の場所として繁栄しましたが、鎌倉幕府滅亡後は寺勢が衰え、近世期には廃絶してしまいます。」とあり、江戸時代には廃絶しているとしている。また、神奈川県生涯学習文化財課のホームページにも「江戸時代始め頃には廃寺となりました。」とある。<br /> 豊臣秀吉が小田原を征伐した後の鶴岡八幡宮寺の荒廃振りは伝えられており、徳川家康に修理・造営を命じている。では徳川家康始め、江戸幕府では、頼朝が創建した鶴岡八幡宮寺と永福寺のうち、鶴岡八幡宮寺は存続させ、永福寺は廃寺にした明確な理由があるのであろうか?<br /> 江戸時代になって家康は鶴岡八幡宮寺の僧坊を復し、歴代将軍は社殿を造営したが、永福寺については何もなされなかったのは既に廃寺になっていたからとする考えの方が理がある。頼朝が創建した3大寺はいずれも特別なものであり、荒廃していながらでも400年後まで存続していたものは全て徳川幕府からの庇護を受けたのであろう。<br /> また、ここ大倉の地、後の二階堂大路と大手中路が交差する辻に何故永福寺が建てられたのかも明確にする必要がある。私は、頼朝はここから六国見峠を越えて野七里を通って奥州平泉に出陣し凱旋したからであろうと考えている。この大手中路は馬で通れる道で、当時、怨霊は道を伝って来ると考えられていたから、その道沿いに滅ぼした義経や奥州藤原氏の怨霊を鎮める寺を建立したと考えるのが妥当であろう。<br /> 基壇を復元しても、こんなものが世界文化遺産の構成要素だなどと納得できる人など誰もいない。お金がなくて永福寺の伽藍を再建できなくても、永福寺が廃寺になった時期や永福寺がこの地に建立された理由を明確にする方が先であろうと思う。<br />(表紙写真は永福寺跡阿弥陀堂基壇)

鎌倉永福寺跡-2013年早春

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2013/02/23 - 2013/02/23

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市二階堂にある永福寺(ようふくじ)跡は、国指定の史跡になっている。永福寺は鎌倉時代初期に、源頼朝が中尊寺の二階大堂・大長寿院と毛越寺・大泉が池を模して建立したとされる寺院で、当時は鶴岡八幡宮、勝長寿院と並んで鎌倉の3大寺の一つであった。永福寺の中心伽藍は二階建てであった事から「二階堂」と称された。現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている。ちなみに、それ以前の地名は大蔵(大倉)であった。また、二階堂(建久3年(1192年)竣工)を中心に、北に薬師堂(建久5年(1194年)竣工)、南に阿弥陀堂(建久4年(1193年)竣工)が建てられていたことから、字名に三堂の名も残っている。それぞれのお堂には、薬師堂には薬師如来、阿弥陀堂には阿弥陀如来が安置された。二階堂には釈迦如来が安置されたようだが、「釈迦堂」とはならなかった。裳階(もこし)付きの伽藍は見慣れていても、二階建ての伽藍はそれほど珍しかったからであろうか。
 永福寺は、奥州平定(文治5年(1189年))で犠牲となった源義経や藤原泰衡らの霊を供養するために創建された。勝長寿院(文治元年(1185年)竣工)は父源義朝の菩提を弔うために建立され、大御堂(おおみどう)と呼ばれた大伽藍であった。頼朝が創建したと伝えられる大寺といえば、證菩提寺(建久8年(1197年)竣工、横浜市栄区上郷町)があるが、こちらは治承4年(1180年)、石橋山で戦死した佐那田与一の霊を弔うためと伝えられている。当時、鎌倉中とされた野七里の向こうになり、1km四方の寺域があったとも言われている。狭い鎌倉中であれば、300m四方もあれば大寺であるが、鎌倉在郷であれば、その10倍の寺域となるから驚きである。これら大寺の建立を経験し、さらに京都の諸寺を見学し、奈良東大寺を再興し、平泉の大寺を見分した後で、頼朝が権力の最高潮に達した頃に、旗挙げした頃に殉職した家臣を弔う寺であったのであるからさぞや大伽藍であったことであろう。
 永福寺の機能は、頼朝の死後は賓客をもてなす鎌倉幕府の迎賓館に変貌していったと市文化財課の担当者はいう。発掘成果に基づいて三堂の基壇を復元中であるが、お金がないから伽藍は建設しないのだという。なるほど。また基壇は木組で平泉の全くの模倣であるという。頼朝ほどの権力者が石組の基壇ではなく、木組にしているのは奥州征伐での犠牲者を弔うためだとする建立の目的が伝わってこようか。
 永福寺は応永12年(1405年)の火災の後に廃絶した。廃寺の時期については、鎌倉市ホームページ「鎌倉の宝」では「応永12年(1405)に焼失し、江戸時代初期頃に廃寺となりました。」(http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/t_aug.html)と江戸時代まで存続したとしている。この「江戸時代まで存続」説は多く見かける。「武家の古都鎌倉」のホームページには、「頼朝の死後は将軍家の遊興の場所として繁栄しましたが、鎌倉幕府滅亡後は寺勢が衰え、近世期には廃絶してしまいます。」とあり、江戸時代には廃絶しているとしている。また、神奈川県生涯学習文化財課のホームページにも「江戸時代始め頃には廃寺となりました。」とある。
 豊臣秀吉が小田原を征伐した後の鶴岡八幡宮寺の荒廃振りは伝えられており、徳川家康に修理・造営を命じている。では徳川家康始め、江戸幕府では、頼朝が創建した鶴岡八幡宮寺と永福寺のうち、鶴岡八幡宮寺は存続させ、永福寺は廃寺にした明確な理由があるのであろうか?
 江戸時代になって家康は鶴岡八幡宮寺の僧坊を復し、歴代将軍は社殿を造営したが、永福寺については何もなされなかったのは既に廃寺になっていたからとする考えの方が理がある。頼朝が創建した3大寺はいずれも特別なものであり、荒廃していながらでも400年後まで存続していたものは全て徳川幕府からの庇護を受けたのであろう。
 また、ここ大倉の地、後の二階堂大路と大手中路が交差する辻に何故永福寺が建てられたのかも明確にする必要がある。私は、頼朝はここから六国見峠を越えて野七里を通って奥州平泉に出陣し凱旋したからであろうと考えている。この大手中路は馬で通れる道で、当時、怨霊は道を伝って来ると考えられていたから、その道沿いに滅ぼした義経や奥州藤原氏の怨霊を鎮める寺を建立したと考えるのが妥当であろう。
 基壇を復元しても、こんなものが世界文化遺産の構成要素だなどと納得できる人など誰もいない。お金がなくて永福寺の伽藍を再建できなくても、永福寺が廃寺になった時期や永福寺がこの地に建立された理由を明確にする方が先であろうと思う。
(表紙写真は永福寺跡阿弥陀堂基壇)

  • 永福寺跡が見下ろせる裏山。<br />「散策路」の立て看板がある。この尾根道は百八やぐらに続く。かつて、宝治の乱で三浦氏一族がここ永福寺から頼朝法華堂へと向かった道であろう。<br />テニスクラブ入口(二階堂字四石)から入るとこの裏山へと上がれる。<br />永福寺跡は整備・工事中のために立ち入り禁止である。<br /><br />傍らにロープが張られ、立て看板に「草を刈る」と紙が貼られている。<br />法華堂跡(頼朝墓)の島津家墓所の参道の草を刈らないでお叱りを受けたことからこうして徹底が図られているのだろう。

    永福寺跡が見下ろせる裏山。
    「散策路」の立て看板がある。この尾根道は百八やぐらに続く。かつて、宝治の乱で三浦氏一族がここ永福寺から頼朝法華堂へと向かった道であろう。
    テニスクラブ入口(二階堂字四石)から入るとこの裏山へと上がれる。
    永福寺跡は整備・工事中のために立ち入り禁止である。

    傍らにロープが張られ、立て看板に「草を刈る」と紙が貼られている。
    法華堂跡(頼朝墓)の島津家墓所の参道の草を刈らないでお叱りを受けたことからこうして徹底が図られているのだろう。

  • 永福寺跡の裏山から瑞泉寺方面を望む。<br />裏山からは永福寺跡が見下ろせる。

    永福寺跡の裏山から瑞泉寺方面を望む。
    裏山からは永福寺跡が見下ろせる。

  • 永福寺跡。

    永福寺跡。

  • 永福寺跡。

    永福寺跡。

  • 永福寺跡。

    永福寺跡。

  • 永福寺跡。

    永福寺跡。

  • 「基壇平面図」。<br /><br />工事現場で立ち入り禁止区域に立っている。今日は中に入っての見学会である。<br /><br />CGでの復元された伽藍の様子を描いた看板も立っていたが写真を撮り忘れた。発掘調査では橋桁などは発見されていないのだが、赤い反橋になっている。<br /><br />反橋は架けられる計画だそうだ。発掘成果よりも観光客受けを狙ってのことだろう。

    「基壇平面図」。

    工事現場で立ち入り禁止区域に立っている。今日は中に入っての見学会である。

    CGでの復元された伽藍の様子を描いた看板も立っていたが写真を撮り忘れた。発掘調査では橋桁などは発見されていないのだが、赤い反橋になっている。

    反橋は架けられる計画だそうだ。発掘成果よりも観光客受けを狙ってのことだろう。

  • 永福寺跡に復元された基壇。

    永福寺跡に復元された基壇。

  • 永福寺跡。

    永福寺跡。

  • 永福寺跡。基壇と山裾。

    永福寺跡。基壇と山裾。

  • 房州石。復元用の石として買い集められている。

    房州石。復元用の石として買い集められている。

  • 永福寺跡阿弥陀堂基壇。

    永福寺跡阿弥陀堂基壇。

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