2012/01/14 - 2012/01/16
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倫清堂さん
年末年始に普段の倍になる仕事を今シーズンも終え、心も身体もようやく一休みできる状態になったので、京都へ行くことにしました。
今回の目的は、太秦で秦氏関連の史跡を訪ねることと、宇治で平等院鳳凰堂を見学がてら源三位頼政公の墓所へお参りすることの2本柱。
シーズンを外れているのか、飛行機はガラガラです。
冬の安定しない気流の中、揺れに耐えながら空での時間を過ごし、ほぼ定刻で伊丹に着きました。
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まずは伊丹空港から車で亀岡に向かいます。
片側一車線の山道が続き、約1時間ほどで丹波国一之宮の出雲大神宮に到着しました。
周辺は田んぼが広がる農村地帯で、参道は車がすれ違えないほど細い道でした。
出雲大神宮の御祭神は大国主命と妻神の三穂津姫命。
亀岡は山陰道への入り口なので、出雲の神様が祀られているのは納得できますが、出雲大社よりこちらの方が歴史は古いと考えられています。
よく知られる島根県の出雲は江戸時代まで杵築大社と呼ばれていましたが、亀山のこの地に祀られる大国主命を遷したことで出雲と呼ばれるようになったと、『丹波国風土記』に記載されているためです。
もしそれが本当だとすれば、国譲りの舞台は高天原(大和)に案外と近かったことになります。出雲大神宮 寺・神社・教会
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背後にそびえるのは神体山の御影山。
この山は、国土を生成したとされる国常立尊が眠る墓とされ、その御霊を祀ったのが、大国主命の妻神である三穂津姫命であったとされています。
そして、国常立命が宮を営んだ場所が田場(たには)と呼ばれていたことから、この国は丹波と名付けられたのでした。
国常立尊が鎮まる神体山が出雲の大神として崇敬されて来たことと、出雲の神とは大国主命であることを合わせれば、2柱の神は同一神が別な姿として現れたのだと解釈することもできるように思われます。 -
神体山までは登れませんが、そこへと続く山道の途中には、崇神天皇社や、素戔嗚尊と櫛稲田姫尊を祀る上の社、春日社や稲荷社などがあります。
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その参道の途中あちらこちらに、注連縄の張られた中くらいの石がありますが、境内には大きな磐座もあります。
磐座は神社建築が始まる以前からのとても古い信仰の対象で、一万年以上前から尊ばれていたとも考えられます。
帰りに鳥居の近くに出ている露店でせんべいを買いました。
せんべいを売っているおばさんと少しばかり話すと、全国の一之宮のうち離島にあるお社以外はほとんど参拝したという方だということが分かりました。
冗談半分に、またどこかで会うかもしれませんねと言うと、その時は声をかけて下さいと明るく手を振ってくれました。
全国の一之宮でせんべいを売り歩いているのか、ちょっとばかり謎に思いました。 -
京都の市街地へと向かう途中で、松尾大社に参拝しました。
松尾大社の御祭神は大山咋神と市杵島姫命。
京都では最古の神社とされ、もともとは松尾山を神体山として信仰していたのが起源と考えられます。
原始的な信仰を今の形式に改めたのが、渡来人の秦氏です。
第40代天武天皇の御代、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を創建したのでした。松尾大社 寺・神社・教会
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秦氏に伝わる説話によると、秦氏の娘が川で洗濯をしている時に矢が流れて来たので、それを持ち帰って祀ると、後日懐妊して男子を産みました。
その娘の父が孫に父親が誰かを訊ねると、孫は矢を指さし、そのまま天に昇ったので、矢の正体は松尾大明神であることが分かったという内容です。
そこで男の子は別雷神として、その父である松尾大明神は御祖神として、それぞれ上下賀茂神社で祀られることになったのでした。
後に賀茂氏は、秦氏に婿入りすることで関係を強化することになります。
松尾山の山頂には、かつての祭祀場の跡が今も残されています。 -
いつからか松尾大社のお使いは亀と鯉とされ、境内のあちこちには亀の像が置かれています。
特に撫で亀さんは健康長寿の御利益があるとされ、多くの人たちに触れられているようです。
松尾山から流れる御手洗川の滝に、霊亀の滝と名付けられた滝があります。
和銅8年、そこから首に3つと背中に7つの星を持つ金の大亀が現れたため朝廷に献上したところ、これを瑞祥として元号が霊亀に改元されたのでした。
渡来人の秦氏にとって、亀と鯉が何か特別な意味を持っているような気もします。 -
霊亀の滝の他にも、松尾大社には名前に亀がつく亀の井があります。
この亀の井の水でお酒を醸造すると腐らないとされ、全国の酒造家がはるばる汲みにやって来るとのこと。
境内にある神輿庫には、6基の神輿を納めることができますが、表には全国の醸造元から奉納された酒樽がずらりと並べられています。
その日本酒も、初めは秦氏によって製法が大陸から伝えられたものだったと、『古事記』には記録が残されています。 -
現在の社殿は室町時代の応永4年に建てられ、江戸時代の天文11年に大改修されたもの。
京都最古の神社だけあって、境内には歴史を感じさせる植物も多かったのですが、相生の松も椋の霊樹も残念ながら枯死してしまいました。 -
宝物館では、平安時代に作られた一木造りの神像が3体公開されていますが、時間の都合で見学は叶いませんでした。
その代わりにはなりませんが、境内にあるお酒の資料館に入り、中の展示をざっと見て回りました。 -
続いて松尾大社からほど近い梅宮大社に参拝。
本殿には大山咋神をはじめとする4柱の神をお祀りします。
相殿には、嵯峨天皇と檀林皇后、二人の間の子の仁明天皇と皇后の父の橘清友公という実在の人々をお祀りします。
御祭神からも分かるように、梅宮大社は橘氏との関係が深く、創建は橘氏の祖諸兄公の母の県犬養三千代により今から約1300年前のこと。
幾度も遷座を繰り返し、檀林皇后によって現在の場所に遷されました。
大山咋神は橘氏の氏神で、日本書紀には娘の木花咲耶姫命が嫁ぐ際に酒を造ってお祝いしたという記事があることから、酒解神とも呼ばれています。梅宮大社 寺・神社・教会
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御祭神の木花咲咲耶姫命が火の中で彦火々出見尊を産んだ故事から、神社は安産の神として信仰されています。
また、御祭神の仁明天皇は雅楽、特に横笛の名手であり、日本で初めて自ら作曲もされた方であったことから、芸能の神としても崇敬されています。
父帝の嵯峨天皇も雅楽の発展に努められ、それまでの大陸伝来のものから日本風に改めるという功績を残しています。
橘氏は源平藤橘と並び称される名族の一つで、敏達天皇の流れですが、神社の位置や御祭神から考えれば、秦氏の影響を思わずにはいられません。
橘氏と秦氏との関係については、いずれ調査してみたいと思います。 -
珍しく、昼食を食べる店をあらかじめ決めていました。
京福電鉄帷子ノ辻駅から歩いてすぐの場所にある、つたやという大衆食堂です。
コインパーキングに駐車して商店街に入ると、あまりの近さにうっかり見落としてしまいました。
近くには時代劇の撮影所もあり、勝新太郎など俳優がよく訪れていたというお店です。 -
一番のお勧めは親子丼らしいので、早速注文。
甘い味付けで、なつかしい味がしました。
ざっと見た限り、店内には有名人の写真やサインなどはなく、彼らの来店を誇っていない所に好感が持てました。
商売は地元の人たちに愛されることが基本ですが、その王道は守られているようです。
他に、オムライスも正当派の味で人気です。 -
昼食場所につたやを選んだのは、勝新太郎が目当てなのではなく、歩いて行ける場所に蛇塚古墳があるからです。
食事を終え、住宅街の細い生活道路をトコトコと歩いて行くと、10分もかからずに古墳の場所へ到着しました。
もともとは前方後円墳だったのが、現在は石室がむき出しになっており、一部は鉄骨によって支えられています。
ここ嵯峨野一帯は秦氏によって開発された場所であり、この大規模な古墳には秦氏の有力者が眠っていたと考えられます。
特に有力なのは、秦河勝の墓であるという説です。
秦河勝は聖徳太子の右腕として活躍した人物で、聖徳太子の薨去後は蘇我氏による迫害から逃れるため、備前へ移ったとも言われます。
大阪の寝屋川にも、秦河勝のものと伝えられる墓がありますが、まだそちらは訪れたことはありません。蛇塚古墳 名所・史跡
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秦河勝が建立した広隆寺も太秦にあります。
時は推古天皇11年。
『日本書紀』によると、秦河勝は聖徳太子から仏像を賜り、それを御本尊として広隆寺を建立したとあります。
この時、聖徳太子は33歳。
この時の聖徳太子の姿を像とした本尊が年に1度だけ御開帳されますが、その像には歴代天皇が即位された時にお召しになった儀服が、代替わりするまで着せられることになっており、現在も今上陛下の御束帯が着せられています。広隆寺 寺・神社・教会
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聖徳太子像は見られませんが、多くの国宝級の仏像が霊宝殿に安置されています。
歴史の教科書に必ず乗っている弥勒菩薩半跏思惟像、国宝指定第一号の仏像もその中にありました。
この仏像を見て、その感動を言葉で表そうとしても、言葉が浮かびません。
像に見入っている間の心境は、感動という状態とはちょっと違うような、これまであまり感じたことのない安心感、懐かしさのような不思議な感情でした。
この像は朝鮮半島から伝わったと思われて来ましたが、日本にしか自生しないクスノキが一部で使用されていることから、国内で制作された可能性も否定できません。
どの国で作られたにしろ、この仏像の浮かべる微笑に救われない人は、どの人種どの民族にもいないだろうと思います。 -
政治史にはあまり存在感を見せない秦氏ですが、神道や仏教など宗教には必ずと言ってよいほど関わりを持っています。
それまで山や磐座への原始的な信仰だったのを、鳥居や社殿など建築様式を整えたのも秦氏。
仏教の各宗派にもそれぞれ秦氏が関わっている他、陰陽道や修験道も秦氏の一族によって創始されたのでした。
太秦に鎮座する秦氏に関わりの深い神社の中で、まず注目すべきは大酒神社。
秦の始皇帝が御祭神という、珍しい神社です。
同じく「おおさけ」と称する、秦氏ゆかりの神社として、兵庫県赤穂市に大避神社があります。
大酒神社の鳥居は、柱が八角形でした。 -
同じく秦氏ゆかりの木嶋神社に参拝。
正式な名称は木嶋坐天照御魂神社。
織物の始祖を祀るため、蚕の社とも呼ばれています。
その織物の技術も、秦氏によってもたらされたものです。
ここには、世にも奇妙な姿をした鳥居があります。
普通の鳥居は柱が2本ですが、上から見るとちょうど正三角形に見える三柱鳥居です。
家庭用の神棚には、3つの御札を収めることができますが、『古事記』などの神話を読むと、3柱で1セットとする神様が意外に多いことに気付きます。
初めに現れた造化三神、伊邪那岐命から生まれた三貴子、宗像三女神、住吉三神。
そして皇位継承の証とされる三種の神器。
日本三景や三大祭など、日本人が3という数字をことのほか好むのも、神道の影響によるのではないかと考えられます。
原始的な磐座信仰には、このような決まりはありませんでした。
3という数字をあちこちに仕掛けたのは、他ならぬ秦氏だったのです。
三柱鳥居のある場所は、かつては元糺の池と呼ばれて豊かな湧水を湛えていたとのことですが、現在は水は涸れています。
3という数字に込められた仕掛けがどうということよりも、乱開発による自然への反発の方が、いずれ人間に対して現実的な形でメッセージを投げかけるのではないかと心配です。木島坐天照御魂神社 (蚕の社) 寺・神社・教会
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太秦で秦氏に関連する史跡をあらかた見終えたので、宿泊地でもある京都市街に入りました。
日が暮れるまでまだ時間があったので、御所の西に鎮座する護王神社に参拝。
御祭神は和気清麻呂公命と和気広虫姫命。
和気清麻呂公は、道鏡が皇位簒奪を目論んだのに対し、宇佐八幡に赴いて「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」との御神託を持ち帰って、これを阻止したのでした。
これが道鏡を怒らせ、姉の広虫姫とともに流罪に処せられますが、後に道鏡は失脚し、清麻呂公は従五位下に復位されて、平安京への遷都に力を尽くしたのでした。護王神社 寺・神社・教会
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境内には、狛犬のかわりにお使いの猪の像があります。
これは、清麻呂公が宇佐へ向かう際(大隅国に流される途中という説もあり)に道鏡派の役人によって殺されそうになったところ、現れた猪の大群によって救われたという伝説によるものです。
この猪とは、当時吉備地方に勢力を誇っていた秦氏を動物にたとえたものと考えら、清麻呂公と秦氏は表と裏に役割を分担し、ともに皇統護持のための働きかけを行っていたのです。
まだ行ったことはないですが、宇佐神宮にも当然のことながら秦氏が強く影響力を持っていたことでしょう。
新しい都となった平安京も、実は秦氏の支配下にあった土地だということが明らかになっています。
御所の大内裏は秦河勝の邸宅の跡地に建設され、右近の橘は河勝邸の庭にあったものをそのまま植えたとも言われています。
平安京建設に力を注いだ清麻呂公も、そのような事情はよく理解していたのかも知れません。 -
護王神社には、ぜんそく封じのカリンの木など見どころも沢山あります。
境内に展示されている、全国から寄せられた猪の人形たちは、見ていて飽きません。
また平成19年には、現代の仏師による広虫姫の像が奉納され、参集殿のロビーに安置されているとも案内されていました。 -
京都では生麩の炙りを食べたいと思っていました。
どこにでもあるものかと思って、見かけのよい店に入ってみましたが、用意していないとのこと。
かわりに鴨肉を焼いたものを食べました。 -
これで諦める自分ではなく、次に入った店でようやくありつきました。
理想は自分で炙ることでしたが、まず口にできたことだけでも有り難いと思うことにしましょう。
餅のような食感でした。 -
翌朝。
せっかく四条通の宿に泊まったので、早起きして八坂神社まで参拝に行くことにしました。
八坂神社は2回目。
前回は交通機関を利用したので、今回はうれしい発見がありました。
それは古いような新しいような、町に溶け込んでいるようにも浮いているようにも見える建物、四条南座です。
南座が見えるあたりに橋があり、そこには出雲阿国の像が立っていました。出雲の阿国像 名所・史跡
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八坂神社は南座からすぐで、四条通の東の端に位置しています。
早朝とあって人通りはほとんどなく、車も全く通っていませんでした。
しかし逆に境内に入れるかが心配になりましたが、神主さんたちの朝は早く、あちこちで箒などを持って一日の始まりの奉仕をされていました。
前回の参拝の際は、参道に根付などを売っている露店が並んでいましたが、今回は早過ぎるためかそれらの姿はありません。
八坂神社の御祭神は素戔嗚尊。
天照大御神の弟神で、荒っぽい乱暴者の神として描かれています。八坂神社 寺・神社・教会
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御創建は斉明天皇2年と伝えられており、当時は神社よりも寺としての性格の方が強かったようです。
明治以前は牛頭天王とその后神である頗梨采女、子の八王子が祀られていましたが、神仏分離によって素戔嗚尊と后神の櫛稲田姫命、天照大御神との誓約の際に出現した八柱御子神と改められました。 -
宿と八坂神社の間を歩いて往復すると、1時間以上かかりました。
朝食をとり、2日目の行動を開始します。
この日は宇治の探索が中心となります。
最初の目的地の宇治上神社を目指し、近くに駐車場がないかを探しながら走ると、神社の入り口にたどりついてしまいました。
2台だけ駐車できるスペースから、ちょうど1台が出るところだったので、そこに車を停めます。
そして境内に入り、まず目に入るのが、拝殿とその前に盛られた2つの砂山です。
これは以前に上賀茂神社で見た立砂と同じものかと思いましたが、本当のところはよく分かりません。
宇治上神社の御祭神は応神天皇と、その皇子の仁徳天皇・菟道稚郎子の兄弟です。
応神天皇は弟の菟道稚郎子を皇太子に立てていましたが、父帝が亡くなっても兄を重んじて皇位につかず、この地に離宮を建ててお住まいになっていました。
しかし兄も父の意志を重んじて皇位を継ぐことはせず、そのため3年間も天皇がいない時代が続いてしまったのです。
そこで菟道稚郎子は、自ら命を絶つことで、兄を皇位につかせたのでした。宇治上神社本殿 拝殿 寺・神社・教会
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兄の仁徳天皇は、その知らせを聞いて悲しみ、弟を離宮の近くに手厚く葬りました。
そしていつからともなく菟道稚郎子の離宮は神社として信仰の場所となったのでした。
正面の拝殿とその後ろにある本殿は、国宝に指定されています。
康平3年に建立された本殿は神社建築としては日本最古とされ、現在は覆屋の中にありますが、格子の間からその姿をうかがうことができます。
宇治上神社のお使いは菟。
これは、菟道稚郎子の「菟」という字から決められたそうです。
菟の土人形に入れられたおみくじを記念に引いて来ました。
境内には御神木をはじめとしてたくさんの木が植えられており、その中には1本だけ宇治茶の木があるそうですが、見分けがつきませんでした。 -
宇治上神社の前の道路をそのまま進むと、宇治神社が見えて来ます。
こちらも御祭神は菟道稚郎子命で、離宮としていた場所に創建された神社という由来も宇治上神社と一緒です。
もともと宇治上神社とともに離宮明神とか離宮八幡などと呼ばれていました。
藤原頼通によって平等院鳳凰堂が築かれてからは、その鎮守社としてそれまで以上に篤く崇敬を集めました。
しかし明治維新によって、宇治上神社を上社、宇治神社を下社として分離されrことになります。
菟道稚郎子の御陵も、両社の近くにあります。宇治神社 寺・神社・教会
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宇治橋を渡って、平等院鳳凰堂へと向かいます。
この橋がかかる川の名前は宇治川ですが、実際は琵琶湖から流れる瀬田川や大阪湾に流れ込む淀川と同一の川です。
瀬田大橋の時もそうでしたが、車で移動すると気軽に停めて橋のかかる風情を楽しむような余裕はなかなか生まれません。
もっとも車がなければこれほど多くの場所を訪れることは不可能なので、次のご縁を待つことにしたいと思います。
平等院の近くには多くの有料駐車場があり、まだ早い時間のためかスペースには余裕がありました。
入場料を支払う時に、境内の拝観順路について詳しく説明されました。
自分で好きに移動してよいわけではなく、人の流れは決められているようです。
しかし、どうしてもあらがえない生理現象が起きてしまい、順路と逆を目指すことになりました。
用を足せる場所の近くにあったのが、赤い鐘楼です。
もともとここに掛けられていた鐘は、三大名鐘の一つに挙げられ、特に形が優れていると評価されています。
実物は現在、宝物を保存・展示する鳳翔館に収められています。平等院 寺・神社・教会
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宝翔館は目の前ですが、順路では最後になっているようなので、決められた方向へ進むと、すぐに鳳凰堂の裏側へとたどり着きました。
正面からは写真などでよく見られますが、裏から見るのは初めてです。
正面から見ると鳳凰が羽を広げている姿に見えますが、裏にはちゃんと尻尾らしき出っ張りがあり、なんだか感心してしまいました。
その尻尾の先が示す位置にあるのが、塔頭の浄土院。
何の変哲もないお寺ですが、笠置山が落ちた後に後醍醐天皇が一時身を置かれた部屋があります。
この時、鎌倉幕府は三種の神器を手放すよう、しきりに後醍醐帝に圧力をかけました。
しかし帝は、武力によって皇位継承が弄ばれることを憂い、非武装ながら最後まで神器を守りぬかれました。
帝は弑される一歩手前でしたが、大楠公が自分を死んだと見せかける工作を行い、討幕の反乱が一時おさまった状態となったため、隠岐への御動座という形で決着したのでした。 -
イチオシ
鳳凰堂の特別拝観は別料金で、50名までがスケジュールに沿って案内されます。
受付をした時、ちょうど次の案内の5分前でした。
平安時代の建築物のため、柱などに触ることは当然ながら禁止。
バッグなど持ち物が触れることで傷がつかないよう、移動にも注意するようにとのこと。
少し大げさかも知れませんが異世界へ行くような気分で、反橋を渡って鳳凰堂へと進んだのでした。
鳳凰堂は永承7年の建立ですから、今世紀半ばに築1000年を迎えます。
藤原頼通による開創の時には、極彩色のあでやかな装飾がちりばめられていましたが、さすがにこれだけの年月が過ぎると、よく目を凝らして見ないと見えないくらいに色あせてしまっています。
それにしても軍事的に重要な宇治橋の側にあって、兵火に燃えることなく当時の姿のまま現在まで残されたことは、奇跡に近いことだと思います。 -
源三位頼政公も、宇治橋で戦った人の一人です。
平治の乱で河内源氏の一族が没落する中で、平家との関係を維持して政権にいた頼政公は、摂津源氏の流れ。
警護中の御所に現れた鵺を弓で射て退治したという伝説ばかりでなく、自ら和歌を詠み和歌集の編集も行った、文武両道の人でした。
その頼政公も、後白河法皇を幽閉した平清盛の横暴についに耐えきれず、領地を奪われた以仁王とともに平家討伐を決意します。
以仁王の令旨は全国に散らばる源氏の一族や寺社勢力に下されますが、一部の裏切り者によって討伐計画が平家に洩れてしまいます。
平家による捕縛の網をかいくぐり、以仁王は円城寺に逃れ、いよいよ以仁王を捕えるための大軍が進発しようとしたその時、頼政公は挙兵したのでした。
両者は合流して奈良へ逃れようとしますが、途中で以仁王の体力が衰弱したため、やむなく平等院で休息をとることにします。
頼政公は宇治橋を落としますが、平家の軍は渡河して押し寄せ、もはやこれまでと頼政公は自害したのでした。
その場所は平等院の境内にあり、ちょうど扇型の敷地として残されていることから、扇の芝と呼ばれています。 -
頼政公の辞世。
埋もれ木の花咲くこともなかりしに
身のなる果てぞ悲しかりける
頼政公の墓所は、塔頭の最勝院の境内にあります。
以仁王も無事に逃れることが叶わず、流れ矢に当たって薨去しましたが、この挙兵が全国の反平家勢力の蹶起を促し、平家追討へと時代の新しい波を呼ぶことになったのでした。 -
平等院では最後に鳳翔館を見学。
その入り口は地下トンネルのような姿ですが、いくつかある山路のひとつで法花堂之路という名前もついた、歴史的な遺構なのだそうです。
鳳凰堂の屋根に乗っていた一対の鳳凰や、阿弥陀如来のまわりで楽器を演奏する雲中供養菩薩のうちの一部など実物の他、鳳凰堂の扉絵も色鮮やかに甦らせて、当時の様子を今に伝える工夫がなされています。鳳翔館 美術館・博物館
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今回は宿泊場所を大阪に取ったので、大阪で旅を締めくくりたいと思います。
訪れたのは摂津国一之宮の住吉大社。
2回目の参拝です。
初めて参拝したのは10年近く前なので、境内のことなどあまり記憶が鮮明ではありません。
確か大阪の知人と約束があったため、時間に追われての参拝になったような気がします。
今回は幸いたっぷり時間があるので、境内を存分に散策することにしました。
住吉大社の御祭神は筒男三神と神功皇后。
筒男三神とは、黄泉国から返られた伊弉諾尊が禊で清められた際、海の水の底・中・上にそれぞれ生れた神様です。
もともとはこの筒男三神を住吉大神としてお祀りしていましたが、その後神功皇后を合祀し、今に至ります。住吉大社 寺・神社・教会
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境内の池には太鼓橋と呼ばれる反橋がかかっています。
石の橋脚は慶長年間に淀君が奉納したものです。
埋め立てされる以前、この辺りは海に面しており、海上安全の神様として崇敬されて来ました。
神功皇后摂政11年、三韓征伐に赴かれる際に住吉大神に戦勝祈願をされたのが始まりです。
その時、皇后は後の応神天皇を身ごもられたまま戦地へ向かわれたと言われており、その応神天皇の次に即位した仁徳天皇が波速に都を遷して墨江の津を開港されたのとが、後の大阪・堺の発展へとつながることになります。
記紀の記述と朝鮮半島やシナの資料を合わせて読むと、神功皇后による御出兵は創作ではなく、実際に起こった歴史的事実であることが分かります。
皇后が凱旋された後、改めて御神託によりこの地に創建されたのでした。 -
社殿は、住吉造という神社建設の中でも最も古い様式を今に伝えています。
その住吉造の本宮が第一から第三までまっすぐ縦に並び、それぞれに筒男神をお祀りしていますが、神功皇后は 後に合祀されたことから、最も手前の第三本宮の横に、第四本宮として祀られています。
初めに3社を並べて建てたのは、天火明命の子孫とされる田裳見宿禰で、秦氏との関わりがあったと考えられます。
この日はどんど焼きの日に当たっており、昼間ながらもたくさんの露店が参道に並んで、たくさんの人でにぎわっていました。 -
第一本宮の更に奥へと進むと、摂社末社があるのを初めて知りました。
樹齢千年の楠を御神木とし、宇迦魂命を祀る南くん(王に君)社です。
初辰さんと呼ばれて親しまれており、毎月初の辰の日には多くの参拝客を集めています。 -
商売繁盛の御利益があるとのことで、自分も小さな経営者でもあり、記念に招き猫を買って行くことにしました。
授与所には、右手で招く猫と左手で招く猫の2種類が置いてあります。
訊ねてみると、右手でお金を招き、左手で人を招くとのこと。
迷ったあげく両方下さいというと、両方求める人は心が円い人だとほめられました(?)
地元の商売人たちは、偶数月と奇数月の初辰の日にそれぞれ右手の猫と左手の猫を買い求め、4年かけて48体が揃った時に満願成就の証として納めるそうです。 -
境内には他にも見どころが多く、大阪最古の図書館とされる住吉御文庫もあります。
享保8年に奉納された土蔵の2階建て。
大阪というと商売の街のイメージですが、かつては学問も盛んだったようです。 -
翌朝、宿泊地の十三で神津神社を参拝。
神津神社 寺・神社・教会
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住吉大社と同じ筒男三神と神功行動、そして応神天皇をお祀りする八幡社です。
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