2012/02/10 - 2012/03/12
578位(同エリア802件中)
倫清堂さん
桜の名所として有名な吉野ですが、敢えて観光シーズンを外して訪れました。
吉野は京の都から絶妙の距離にあるため、都を追われたり都を覗ったりする立場の人が拠り所としたケースが多くあります。
その中でも特に忘れられないのが、皇室が分裂した南北朝時代。
明治天皇が南朝を正統と正式に認められたことから、南朝とは言わず吉野朝と呼ぶのが正しいのです。
この吉野の地では、後醍醐天皇とその皇子である大塔宮護良親王が武家政権打倒のために幾度も挙兵と敗北を繰り返し、その度に多くの血が流れたという経緯があります。
後醍醐天皇は、武家による専制を排し、一君万民の太平の世の実現を理想とした、歴代の天皇の中では珍しい動的な性格の方でした。
今回は吉野朝時代の史跡を中心に、吉野とその周辺をめぐりたいと思います。
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伊丹空港から車で約1時間。
最初に訪れたのは奈良市内にある般若寺。
このお寺はコスモスが咲く寺として有名らしいですが、自分が訪れた目的はもちろんコスモスではありません。
駐車場に車を停めて境内に入ると、小学生(中学生?)の集団が研修を行っていました。
般若寺は白雉5年の創建とされ、聖武天皇が大般若経を納められた上に建てられた十三重石宝塔があります。
鎌倉幕府(北条政権)の専横に対し、討幕のための密談が最初に行われたのは元亨4年。
後醍醐天皇や側近である日野資朝・俊基が全国の武士に討幕を呼びかけますが、情報が漏れてしまったことで失敗に終わり、両公卿の遠流という処分で収束しました。
後醍醐天皇はそれに志を折ることはせず、またも諸国の武士に挙兵を呼びかけますが、今度は側近の吉田定房卿の裏切りによって、ついに都落ちとなってしまうのでした。
しかし、後醍醐天皇自らの玉体が危うくなったことで、それまで挙兵の機会を見計らっていた武士が蹶起するきっかけとなったのでした。般若寺 寺・神社・教会
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父の帝をこよなく尊敬する大塔宮護良親王は、比叡山の座主という立場にありましたが、父の危機に際して還俗し、討幕の挙兵を決行しました。
都から逃れた天皇とともに笠置山で幕府軍と戦い、楠木正成公などが各地で呼応しますが、ついに笠置山は落ち、後醍醐天皇は幕府によって隠岐に遷されてしまいます。
その際、大塔宮が潜伏されたのが、ここ般若寺です。
幕府の追手を逃れて般若寺に籠り、全国に令旨を飛ばしていましたが、ついに潜んでいることがばれてしまい、幕府の軍勢に取り囲まれてしまいました。
もはや逃げることも叶わないと悟られた大塔宮は、一か八かの賭けに出て、多くの経典が収められている唐櫃に姿を隠したのす。
執拗な探索の手も唐櫃の中までは及ばす、大塔宮は難を逃れて大楠公が指揮する赤坂城に合流することが出来たのでした。
その唐櫃は、本堂の内部に安置されていました。
大塔宮は今でいう190センチの大男だったと伝えられますが、唐櫃は小柄な人でも隠れるのは難しいほどの大きさでした。
ただ、歴史遺物の真偽などは、自分にとってはどうでもよいことです。
大塔宮が命拾いをしたという伝承が残っている場所というだけで、訪れた甲斐は充分に感じることができました。 -
奈良は京都よりも歴史の古い町ですから、行く所行く所で着目すべき時代もめまぐるしく変わります。
次に訪れたのは、国内最古の木造建築として知られる法隆寺。
聖徳太子による建立です。
推古天皇が初めて女性天皇として即位された時、厩戸皇子は立太子し、摂政に任命されます。
時は蘇我氏の全盛期で、前帝の崇峻天皇は大臣蘇我馬子が放った刺客によって弑されてしまいました。
聖徳太子は仏教による国家の泰平を理想とし、蘇我氏と協力して廃仏派の物部守屋を倒します。
法隆寺建立の詳しい年は今も不明のままですが、一説には物部守屋鎮魂のために聖徳太子が建てたと言われています。法隆寺 寺・神社・教会
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中門の左右には、阿吽の仁王像。
和銅4年に造られた、我が国最古の仁王像です。
中門から廻廊がのびていて、金堂と五重塔を囲んでいます。 -
中門の反対側には、教学と修行が行われる講堂があります。
平安時代に一度焼けてしまっているので、様式は他の建物と異なっています。
薬師如来と日光・月光菩薩の三尊像が安置されています。 -
イチオシ
五重塔はどこから見ても美しい姿でそびえています。
内部四方に、ブッダの生涯を彫った塑像が置かれています。
特に有名なのは、北側に置かれた涅槃図。
まさに入寂しようとするブッダを、弟子たちが取り囲んでいますが、彼らの表情はそれぞれ違う表情で悲しみを表わしており、芸術作品としても見事なものです。 -
聖徳太子の子である山背大兄王は、法隆寺で蘇我入鹿に攻め滅ぼされたとされます。
その山背大兄王の墓がどこにあるか、事前に調べてはいなかったので境内の職員の方に訊ねてみると、よく分からないような顔をしていましたが、西にある夢殿がそうではないかと教えられました。
西院伽藍を出て西に向かうと、人の出入りの激しい建物がありました。
東室の聖霊殿、聖徳太子摂政像などが安置されています。 -
それから大宝蔵院を見学し、しばらく歩くとようやく夢殿に到着しました。
法隆寺の境内面積はとても広く、東西に800メートルもの距離があります。
夢殿のある場所は、聖徳太子が政務を執った斑鳩宮の跡で、山背大兄王はやはりこの地で一族とともに最期を迎えています。
しばらく荒廃していましたが、天平11年に行基によって八角形のお堂が建てられました。
聖徳太子をかたどった救世観音像が安置されています。 -
夢殿の北側から更に西に進むと、中宮寺があります。
中宮寺は聖徳太子が御母穴穂部間人皇后の隠居所に建てた寺です。
もとは法隆寺の東に500メートル程の場所にあり、法隆寺と同じ四天王寺式の伽藍でしたが、何度も火災に遭ったために現在地へ移されたとのことです。
本堂が、装飾のほとんど施されない質素な姿をしているにもかかわらず、人工的な印象が強いのは、真四角の堀に囲まれているからだと思います。
ここには、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像とは別で、やはり国宝に指定される半跏像が安置されており、間近で拝むことができます。
弥勒菩薩特有の半跏思惟の形式ですが、なぜか寺では如意輪観世音菩薩としています。中宮寺 寺・神社・教会
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境内で見かけた斑鳩神社の標識が気になり、少し寄り道してみることにしました。
途中で何ヶ所か標識を見かけますが、肝心の鳥居はなかなか見えません。
すぐそこにあるような書かれ方でしたが、足早に歩いても15分ほどかかってしまいました。
斑鳩神社は菅原道真公を祀る天神系の神社ですが、法隆寺の鬼門の位置に鎮座しており、法隆寺鎮守四社の一つとされます。斑鳩神社 寺・神社・教会
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法隆寺の見学を終え次に向かったのは、法隆寺の裏鬼門に鎮座する龍田神社。
聖徳太子が法隆寺の建設地を探し求めた際、龍田大明神が現れて斑鳩の地を指示したため、守護神として龍田大社から勧請してお祀りした神社です。
延喜式にも記載される由緒ある神社ですが、神職の方の姿は見えませんでした。
確認できませんでしたが、社殿の裏には物部守屋の首を洗った池があるとのことです。龍田神社 寺・神社・教会
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次に向かったのは大和郡山市。
ここで、藍染体験を行うことにしていました。
旅行雑誌の紹介で知りましたが、興味が湧いたので予約を取っておいたのです。
体験をさせてくれるのは、箱本館「紺屋」
箱本とは郡山町中の自治組織で、紺屋はその一つ。
古くから藍染職人が集まった町で、通りの真ん中には紺屋川が流れています。箱本館「紺屋」 美術館・博物館
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実際に染物をして販売しているだけでなく、金魚がデザインされた様々な日用品を収集・展示しています。
郡山は金魚の養殖が盛んな町でもあるのです。
早速申し込み、開始時間まで館内を見学しました。
そして程なく開始時間となり、工房へと移動しました。
東北から来たことを告げると、昨年は予約したにもかかわらず震災でキャンセルした経緯を覚えていて下さいました。 -
真っ白なバンダナに模様をつけながら、藍に染めて行きます。
道具は簡単、ビー玉やクリップ、輪ゴムや割り箸など。
布を折ったりしながら、藍に染めたくない所にこれら小道具を固定します。
頭の中で、完成品のデザインをイメージするとよいとアドバイスされますが、初めての人にはそう簡単にイメージできるものではありません。
勘だけを頼りに小道具を取り付け、ついに藍の窯へ浸ける工程へと進みます。
最初に部屋に入って思ったのは、独特のにおいがするということでした。
においの正体が煮られた藍で、生きたままの状態を保つため、なるべく泡を立てないようにとの注意を受けました。
藍の窯に数分浸け、水で洗い流すことを繰り返し、途中で色を変えたい部分の小道具を外したりして、最後は酢が入った液体につけて定着させます。
およそ1時間半で、世界に一つの藍染めバンダナが完成しました。
広げてみると、イメージしていたのとはだいぶ違うデザインがそこにありました。 -
1日目の最後は、大和郡山城跡で。
郡山城は、織田信長公に降った筒井順慶によって築かれ、秀吉公による天下統一後は弟の秀長公が居城とし、柳澤吉里公が国替えとなってから明治維新まで柳澤氏の居城となりました。
城跡には柳澤神社が鎮座。
御祭神の柳澤吉保公は吉里公の父で、5代将軍綱吉公の側用人を務めました。
関ヶ原の戦いの後、家康公は大阪城の秀頼公を移封させることを試みましたが、淀君や側近たちが拒み、ついに大阪の陣で豊臣家滅亡へと至ってしまいます。
大和国は非常に豊かな土地で、ここへ移ることで豊臣家を存続させる選択肢もあったのですが、大阪城の魔力がそれをさせなかったのでしょう。
この郡山の地でもし豊臣氏が存続していたら、どのようにして近代化の道を歩むことになったのか、思案してみるのも楽しいひとときでした。
郡山城の天守閣は現存せず、柳澤神社の裏に石垣だけが残されています。郡山城跡 花見
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2日目はいよいよ目的地の吉野へ向かうことになりますが、その前にどうしても立ち寄りたい場所がありました。
今年は『古事記』編纂1300年。
古事記の序によると、稗田阿礼が口頭で述べた伝承を太安万侶が書き取ってまとめたものが本文とされます。
初代天皇は神武天皇で、その即位は一説に紀元前660年とも言われています。
しかも日本の歴史は神武天皇から始まったのではなく、それ以前の人物は神として描かれておりますが、実在していた可能性も考慮しなければなりません。
もちろん当時は紙などが無く、国の歴史は全て言葉として子子孫孫に言い伝えられていました。
そういう役割を負った人たちは、伝承を正確に次の世代へ伝えることが一生の仕事だったのですから、その重圧は計り知れないものがあったと思われます。
稗田阿礼の頃には筆記具もかなり発達しており、彼は天武天皇がお選びになったいくつかの資料を与えられ、それらの暗記に取りかかったのでした。 -
その稗田阿礼を祀る神社が、賣太神社。
鎮座地は猿女君の一族の居住地であったことからも、稗田阿礼は猿女君に連なる血筋だったようです。
賣太神社は、田んぼにかこまれた静かな場所にありました。
『古事記』編纂1300年なので、何か記念の授与品や冊子などがないかと期待しながら鳥居をくぐります。
しかし、予想に反して社務所に人影すらありません。
境内には、かたりべの碑という石碑が建っている他、あまり変わったところはありません。 -
稗田阿礼は莫大な資料をほとんど暗記しましたが、それはまだ文章の形にはなっていませんでした。
約30年後の和銅4年、元明天皇の勅によって太安万侶が稗田阿礼の言葉を写し取る作業が始まり、翌5年に『古事記』として完成したため、天皇に献上したのでした。
その年から数えて、今年1300年に当たるのです。
あまりに古い歴史であるため、一昔前までは史実として認めない学者も多く存在しました。
しかし太安万侶の墓が昭和54年に発見されたことで、その実在が明らかになり、『古事記』が編纂されるまでの過程も信憑性が高くなったのでした。
その墓は奈良の中心部からかなり離れた場所にあるため、今回は行くことはあきらめました。
その代わりではないですが、太安万侶が祀られる多神社を参拝することにしました。 -
多氏は神武天皇の子である神八井耳命の後裔とされます。
神武天皇の末子であった後の第2代綏靖天皇は、父から皇太子に立てられますが、兄の手研耳命が皇位を奪い取ろうとして弟たちの殺害を目論みます。
しかしそれは発覚し、綏靖天皇は兄の神八井耳命とともに手研耳命を討つことを決意します。
しかしいざ決行の時、神八井耳命は恐怖心によって矢を撃つことができず、即位した弟を支えて祭祀に専念することにしたのでした。
社殿によると、神八井耳命が天神地祇を祀ったのが始まりとされ、それだけでもひときわ歴史の古い神社であることが分かります。
延喜式にも記載され、正式には多坐弥志理都比古神社という長い名前を持っています。
4社が横一列に配される本殿は、江戸時代中期の様式とのこと。
多神社には元伊勢伝承も残っており、歴史の宝庫と言って過言ではありませんが、立派な社務所は門が閉ざされており、お話しをうかがったりはできませんでした。 -
いよいよ今回の第一の目的地である吉野へ向かいます。
それなりに早めに出発したつもりでしたが、事前に調べて予想していた以上に、奈良市内の道路は混んでいました。
それでも吉野は遠いという感覚はありませんでした。
その吉野の入り口に鎮座するのが、吉野神宮。
まずはその吉野神宮に参拝しました。
建武中興十五社の一つで、後醍醐天皇を主祭神としてお祀りしています。
境内は明治以降に創建された神社に共通する景色です。吉野神宮 寺・神社・教会
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社殿を正面から撮影しようと試みますが、日陰に入らないと逆光になってしまいます。
時刻は正午近くなので、社殿は北向きに建てられているということ。
普通は南向きに建てられるので北向きは珍しいのですが、後醍醐天皇の意識とともに北の京を向いているということに気付いたのでした。 -
摂社の御影神社には藤原資朝卿と藤原俊基卿、船岡神社には児島高徳卿と児島範長朝臣と桜山玆俊朝臣、瀧櫻神社には土居通増朝臣と得能通綱朝臣が祀られています。
藤原資朝卿は日野氏を名乗り、正中の変で佐渡島に流されて処刑された、後醍醐天皇の側近。
藤原俊基卿も同じく日野氏で、資朝卿の遠流の後は二人分の働きで諸国の豪族に討幕を働きかけますが、元弘の変で捕えられて鎌倉にて処刑されます。
児島氏は備前の豪族で、以前調べたところによると、どうやら役行者の末裔のようでした。
桜山玆俊朝臣は備後の豪族で、後醍醐天皇が幕府軍の手に落ちた時に自決しています。
土居通増朝臣と得能通綱朝臣は伊予の豪族河野氏の一族で、元弘の変から後醍醐天皇への忠誠を貫き、新田義貞公に従って越前で討死します。
なぜ多くの吉野方の忠臣からこれらの人々が選ばれたのか、基準は定かではありませんが、早い段階から後醍醐天皇とともに討幕の計画に関与していたことが顕彰されたように思います。
あの大楠公でさえ、志は勤皇であったことは間違いないとしても、実際に挙兵したのは後醍醐天皇の挙兵よりも後だったのでした。 -
後醍醐天皇とともに討幕の狼煙をいち早くあげた人物として忘れてはならないのが、皇子の大塔宮護良親王です。
大塔宮の第一の危機は、般若寺の唐櫃に隠れたことで回避できました。
隠岐島に動座された後醍醐天皇にひとまず安泰が確保されると、死んだと見せかけていた大塔宮と大楠公は金剛山に築いた千早城で再び挙兵し、幕府軍が引き寄せられている間に後醍醐天皇の島抜けが成功したのでした。
しかし千早城も落ち、大塔宮は十津川から吉野へとご潜伏を続けます。
吉野の蔵王堂で挙兵するも、6万の幕府軍に囲まれてもはや行く手には死あるのみと覚悟を決められた大塔宮ですが、その鎧を着て身代りとなって討死したのが、側近の村上義光公でした。
吉野神宮から、蔵王堂のある金峯山寺へと向かう道の途中、小高く目立たない場所に、村上義光公の墓はあります。
その子、義隆公もともに討死することを望みましたが、父はそれを許さず、大塔宮をお守りすることを命じます。
そして義隆公もまた、さほど遠くない場所で討死するのですが、大塔宮はからくも逃れることができ、ついに鎌倉幕府は滅亡するのでした。村上義光墓 名所・史跡
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金峯山寺へ続く道には売店も見え始め、観光地らしくなって来ました。
駐車場を探して迷い込んだのは、どうやら金峯山寺の職員用の駐車場のようです。
観光で来ているらしい車もあり、ここへ少しお邪魔することにしました。
まず目に入ったのは、吉野朝宮址の碑と南朝妙法殿。
吉野朝の皇居があった場所で、吉野朝4代と戦死者を祀るために昭和になってから建てられたものです。
吉野朝の皇居であった金輪王寺は、徳川幕府によって日光の輪王寺となりました。
予定では、蔵王堂の奥に位置するこの場所は最後に訪れるつもりでしたが、車で迷い込んだために逆になってしまいました。吉野朝宮跡 名所・史跡
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駐車場の場所からも蔵王堂はよく見えます。
5階建てのビルと同じくらいの高さはあるでしょうか。
下からは、まさに見上げるという表現がぴったりなほど、高くそびえる木造の建物です。
現在の蔵王堂は吉野朝時代のものではなく、豊臣秀吉公によって再建されたものですが、国宝に指定されています。
後醍醐天皇を継いだ後村上天皇の時、神も仏も恐れぬ高師直によって焼かれてしまったのでした。
蔵王堂の正面には、大塔宮御陣地の碑が立っています。
ここで別れの盃を交わし、6万の幕府軍に決死の戦いを挑んだ時が、大塔宮第二の危機でした。
その後、建武新政は失敗し、足利家との対立が決定的となり、後醍醐天皇の命によって大塔宮は捕えられ、足利直義のいる鎌倉へと送られます。
そして中先代の乱のドサクサに、直義の家来によって失わされてしまうのでした。金峯山寺蔵王堂(国宝) 寺・神社・教会
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純粋すぎるほど純粋に生きた大塔宮と対照的に、後醍醐天皇と鎌倉幕府の間を老獪に行き来していた人物が、後醍醐天皇の側近の吉田定房卿です。
その墓が金峯山寺の近くにあることは分かっていたのですが、どうしても見つからず、交番で訊いてもお巡りさんは首をかしげるばかりです。
ようやく見つけた場所は、廃校になった小学校の校庭の一番奥。
この時は工事の車や資材などがあり、バリケードがめぐらされていたため、墓の近くまで進むことは叶いませんでした。
正中の変は不注意による情報漏洩で起きたのに対し、元弘の変は味方であると信じていた吉田定房卿の密告によって起きたものです。
そのことから定房卿は裏切り者の烙印を押されますが、後醍醐天皇の御還幸の後はちゃっかり側近として仕えているのです。
後醍醐天皇が隠岐に遷られた後、鎌倉幕府は定房卿の功を認めて、皇子たちの監視役(お守役)を命じたのでした。
皇子たちに危機が及ばないよう、幕府を上手に操っていたのです。
そもそも定房卿の裏切りは、正中の変のようなことが再び起これば後醍醐天皇の命も危ないと予想したために、言葉だけの討幕を行動に移させるためのきっかけを自ら作ったものとも解釈できるのです。 -
金峯山寺は役行者によって開基されたお寺です。
修験道の祖の役行者は幼少の頃から葛城山や大峯で修業し、ここ金峯山で蔵王権現を感得しました。
役行者は目の前に現れた蔵王権現の姿を桜の木に刻み、それを安置したのが金峯山寺の始まりです。
仁王門は京都から来る信者のために北向きに建てられています。
蔵王堂の前には、大塔宮御陣地を囲むように威徳天満宮や観音堂などが並んでいます。
もと二天門が建っていたとされる場所には、後醍醐天皇をお導きしたという導之稲荷社が鎮座。
村上義光公忠死之所碑なども建っています。 -
周辺を歩くと、駐車場のある売店が何軒かあるのが分かりました。
最初からそちらに停めていればよかったのですが、道幅は狭く引き返すのは容易ではないので、最初に見つけた所に停めてしまうのが人間の心理というもの。
車を移動して売店に入り、昼食をとりました。
注文したのは柿の葉寿司がついた葛うどんの定食。
桜の季節には賑わうのでしょうが、今はまだ桜には一ヶ月ほど早く、新緑の吉野の風景を堪能しながらのんびり味わうことができました。 -
次に向かったのは吉水神社。
後醍醐天皇が現妙法殿に皇居を置かれるまで、身を寄せられていた建物が現存しています。
しかし驚くべきは、後醍醐天皇の御座所となった書院は日本最古の住宅建築であるということです。
駐車場が分からず苦労しましたが、階段と兼用の車道を通って境内にまで入ります。
こちらの宮司さんは知り合いの知り合いに当たり、初めてお会いしたにもかかわらず気さくにいろいろなことを教えてくださいました。
古くは吉水院と呼ばれる金峯山寺の僧坊でしたが、明治の廃仏毀釈で後醍醐天皇と楠木正成公・吉水院宗信公を祀る神社になったのでした。
吉水院宗信公は吉野勢に後醍醐天皇奉戴を説いた豪僧で、彼の働きがなければ吉野は後醍醐帝の皇居にはならなかったと言えます。吉水神社 寺・神社・教会
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拝観料を払って書院の中を見学しました。
最初に目に入るのは、義経・静御前潜居の間。
文治元年、義経公は兄頼朝公の追手を逃れ、ここ弁慶らとともに吉野に潜みました。
室町初期の改築とのことですが、壁の装飾は色褪せています。
その先には、後醍醐天皇玉座。
秀吉公による修復で、こちらは金箔の装飾がきらめいています。
更に奥には義経公が使用していた鎧などが展示されており、吉水院があらゆる時代で歴史の目撃者となって来たことが分かります。 -
庭園も見どころがたくさんあります。
北闕門は、後醍醐天皇が京都へとお帰りになる日を祈願されていた場所です。
花にねてよしや吉野の吉水の
枕の下に石走る音 -
時代は下り文禄3年、天下人となった豊太閤は吉野で盛大な花見の宴を催しました。
その本陣となったのも吉水院です。
ここに後醍醐天皇が皇居を置かれていたことを、豊太閤はどのように思ったのでしょうか。 -
空模様がだんだん怪しくなって来ました。
次の目的地の如意輪寺も、駐車場の場所がよく分からないので困りました。
道路脇に車を置いて細い道をしばらく歩くと、駐車場があるではありませんか。
しかしそのまま引き返さず境内へと入りました。
如意輪寺の開基は延元年間、三吉善行の弟である日蔵道賢上人によります。
後醍醐天皇が理想とされた醍醐天皇も帰依された僧です。
境内には百人以上の参拝客がいて驚きました。
老若男女のご一行は、吉野一帯をハイキングしているグループのようです。
ちょうど次へ出発するところだったらしく、彼らの姿が消えると森閑とした寺の静けさが戻りました。如意輪寺 寺・神社・教会
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大楠公が湊川で討死し、新田義貞も越前で滅び、吉野に対する足利の締め付けはますます厳しいものとなりました。
延元4年、後醍醐天皇は後村上天皇に譲位し、その翌日崩御しました。
正平3年、足利軍は吉野覆滅を断行するため、高師直・師泰兄弟を送りました。
大楠公の嫡子正行公は後醍醐天皇の御廟を参拝し、本堂の扉に鏃で辞世の句を刻むと、一族郎党を引き連れて四条畷で高軍を迎え撃ち、壮絶な最期を遂げたのでした。
宝物殿に収められている扉を見ましたが、辞世の文字からはとても繊細な人柄の印象を受けました。
その後、本堂の方へ向かう道を間違えてしまい、後醍醐天皇御霊殿へと入り込んでしまい、畏れながら手を合わせて帰り道を探しました。
しかし、あまり広くもない境内なのになぜか帰り道が見つからず、不思議な思いをしました。 -
ようやく本堂へ戻る道を見つけ、最後に後醍醐天皇の御陵を参拝しました。
この御陵は全ての天皇陵の中で唯一、北を向いています。
後醍醐天皇の御生涯も、あらゆる天皇の中で最も過酷で波乱に満ちたものだったのではないでしょうか。
大覚寺系と持明院系に二分された皇位継承が幕府によって利用されていることを憂えた後醍醐帝は、鎌倉幕府討幕のために全国の武士に綸旨を発し、自らも挙兵され、一度は失敗して隠岐へと遷されるも、皇子大塔宮や大楠公などの働きによって討幕に成功します。
しかし御新政の理想は武士たちの不満を解消するまで浸透せず、公家は公家で栄華に酔っていたため、足利らの裏切りを呼び、日本の国民は京都と吉野に二つの太陽を戴くこととなってしまったのでした。
後醍醐天皇の皇子の中にも、戦や足利の陰謀によって命を落とした方は一人二人ではありません。
このような英邁な天皇がおられ、理想のために命を惜しまなかった忠臣たちがいて、そして今の日本があることを忘れてはならないと思います。後醍醐天皇塔尾陵 名所・史跡
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建武中興と並ぶ日本史上の大改革として忘れられないのが大化改新です。
大化改新を行った中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏打倒の密談を行った場所と言われている談山神社への参拝で、今回の旅は締めくくりたいと思います。
吉野が桜の名所であるのに対し、談山神社は紅葉の名所。
ここも観光地なので広い駐車場があり、そこへ車を停めたのですが、神社の境内まではかなり距離があって、時間の計算が狂ってしまいました。
この日は、東日本大震災からちょうど一年に当たる3月11日。
東京では追悼のための集会が、天皇陛下皇后陛下御臨席で行われることになっています。
地震発生の2時46分に合わせ、御神前で国家泰平の祈りを捧げたいと思っていたのでした。談山神社 寺・神社・教会
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参道で後醍醐天皇が寄進された石灯籠を見つけました。
元徳3年と刻銘されています。
ようやく鳥居までたどり着き階段を見上げると、すぐ上に社殿があるのですが、その途中に柵が設けられており、なぜか受付まで遠回りする順路となっていました。
早足で受付まで行って拝観料を納めると、ちょうどラジオから黙祷始めの音声が。
まさか受付のおばさんに向かって黙祷も出来ないので、少し離れて社殿の方を向き、しばし頭を下げて佇みました。 -
多武峰については、司馬遼太郎氏の『街道をゆく』にも書かれています。
それによると、多武峰の地名は『日本書紀』斉明天皇紀に既に見られ、田身嶺の字が当てられているとのこと。
早速確認してみると、確かに斉明天皇が飛鳥岡本宮を置かれたと書かれています。
また『万葉集』巻九には
ふさ手折り多武の山霧しげみかも
細川の瀬に波の騒ける
の歌が収められています。 -
イチオシ
天武天皇の御代、唐から帰国した鎌足公の長男定慧は、父の遺骨を摂津阿威山から移葬し十三重塔を建てました。
そのモデルは唐の清涼山宝池院の十三重塔とされていますが、現存するのは世界唯一で、国の重要文化財に指定されています。
屋根がいくつも重なっているので高さがありそうですが、実際は意外に小ぢんまりしています。
社務所では十三重塔の土鈴が売っているはずでしたが、あいにく売り切れとのことで、非常に残念でした。
延長4年に天神地祇・八百万神・鎌足公尊像を祀る総社を建立、醍醐天皇から「談峰権現」の勅号を賜り、神仏習合が始まりました。
尊像は豊臣秀長公によって郡山城下へ遷座されたことがあります。
しかし秀長公が病気になるなどの異変が起きたため、再びもとの場所に戻されたと言う経緯があります。 -
談山神社の御祭神は藤原鎌足公。
藤原氏の歴史は、古いという一言の言葉では表現できません。
その祖は、皇室の祖神である天照大御神に既に仕えていました。
彼の名は天児屋根命。
祝詞を作成したり唱えたりする役割を負っていたことから、言霊に通じていたか声が清らかな人物だったのでしょう。
天児屋根命はニニギ命の天孫降臨にも従い、その子孫の天種子命は神武天皇の御東行に従ったとされます。
歴代天皇の側近は、もちろん中臣氏ばかりではありませんでした。
むしろ中臣氏はそれほど強い権力は持っていませんでしたが、大化改新で蘇我氏を滅ぼしたことで、天皇と二人三脚で国の政治を動かす地位へと昇ることができたのでした。
当時の蘇我氏が握っていた権力は、今の総理大臣の何倍も強いもので、皇位継承に関わるどころか天皇の暗殺まで平気で行っていました。
蘇我入鹿も非常に優秀な頭脳を持っていた人で、天皇を廃して自ら新しい王統を打ち立てるという易姓革命の野望すら持っていたと思われます。
その最大の障碍であった聖徳太子の皇子の山背大兄王が、斑鳩宮で討たれたことは、夢殿参拝の時に見て来ました。
日本がシナのような国になっては一大事と立ち上がったのが、蘇我入鹿の学友でその能力も認められていた中臣鎌足公だったのです。
彼は、それまで目立つことのなかった中大兄皇子が皇位継承者としてふさわしいことを知り、情報が絶対に洩れることのないよう細心の注意を払いながら、入鹿の陰謀を潰すための計画を着々と進めます。
そしてついに蘇我氏を滅ぼし、苦難の末に全国の豪族をまとめ上げて、日本を統一国家として作り上げることに成功したのでした。
談山神社本殿背後の山には、蘇我氏誅滅の密談を行ったという談所ヶ森があります。
拝殿の中には入ることも可能で、社宝などの展示を間近で見ることができました。 -
ポツポツと雨が落ちて来たので駐車場へと急ぎますが、途中で石の十三重塔があるとの看板を見つけ、そちらへと向かいました。
淡海公十三重塔と名付けられたこの石造の塔は、藤原鎌足公の次男、不比等を祀っています。
今回の旅では、奈良の般若寺で1基、ここ多武峰で2基の十三重塔を見ました。
木造のものは談山神社に現存する1基だけですが、石造のものは探せば他にもあるかも知れません。
車を発進させると、雨が本降りとなりました。
持ちこたえてくれた天気に感謝しつつ、宿泊場所へと向かったのでした。
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