2010/01/09 - 2010/01/24
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ドクターキムルさん
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鎌倉には戦前に建てられた石碑が多くある。それを巡ろうと出かけた。鎌倉市教育総務部教育センターのWeb:鎌倉市GreenNet「鎌倉の石碑」(http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouikuc/sekihi18.html)を頼りに、ここに掲載されている84の石碑を順次巡った。結論から言うと、このWebでは石碑の所在地の番地や時には町名までに間違いがあり、これを頼りに全部巡ることはとても出来ない相談だ。実際に鎌倉市教育総務部教育センターの者が石碑の所在地を確認してWebに掲載したものと思われるが、まるで小学生以下の仕事ぶりだ。少なくとも、鎌倉町は昭和14年11月3日に鎌倉市になっているのであるから、これ以降の昭和15年3月や昭和16年3月に建てられた石碑が鎌倉町青年団ということはありえようか。石碑には鎌倉市青年団と彫られている。碑銘が正しくないものも何碑か見受けられる。税金を払っている鎌倉市民は抗議すべきかも知れない(。電話番号:0467(23)3000 Fax番号:0467(24)5569 内線番号:2465 メールアドレス:kenkyu@city.kamakura.kanagawa.jp)。実際に行かれる場合には鎌倉史跡碑事典(http://www.kcn-net.org/sisekihi/menu.htm)(83石碑)で調べてからの方が確実であろう。
日蓮上人の所謂「辻説法」の旧跡を示す石碑も、今も大路の2箇所にある。「日蓮大聖人辻説法之旧地」(本興寺、建立年は不明)(大町の本興寺門前)と「日蓮上人辻説法之阯」(鎌倉町青年団、昭和11年)(小町2丁目)である。当時は大町、小町ともに鎌倉の繁華街であり、そこの辻で日蓮上人が説法したことはあっただろう。どちらとも言えない。しかし、「俊基朝臣墓所」(鎌倉町青年会、大正6年)と「玉縄首塚由来」(玉縄史蹟顕彰会、昭和43年)と「稲村崎」(鎌倉町青年団、大正13年)と「主馬盛久之頸座」(鎌倉町青年団、昭和10年)と「勝長寿院旧蹟」(鎌倉町青年会、大正6年)の5つは建てる必要のないものである。墓前に立つ大きくて立派な「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と古くて(建立年は剥離して判読できない)立派な「玉縄首塚碑」、公園の石碑群の中心となる古い「稲村崎碑」(明治27年)の石碑があり、「主馬盛久之頸座」の横には古い「盛久頸座」の石碑(大正8年)があり、「勝長寿院旧蹟」(大正6年)の横には古い「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)があるからだ。また、「玉縄城址」は2つあり、何やら「大森貝塚」碑のようだが、団地内にある新しい石碑(鎌倉友青会、昭和31年)は記載内容に乏しい。これに対し、諏訪壇(城祉)登り口にある石碑(鎌倉同人会、大正15年)の方が古く、記載内容もしっかりしている。したがって、「玉縄城址」(鎌倉友青会、昭和31年)は蛇足である。石碑建立当時に「事業仕分け」があったならば、蓮舫議員でなくても「2つはいらないでしょう。」となる。付け加えると、平成12年に建てられた頼朝墓前の「頼朝公顕彰碑」(源頼朝会)は新し過ぎよう。
全てが公開されている訳ではない。「偏界一覧亭旧跡」は瑞泉寺裏山にあるが、鎌倉石の階段が磨り減ってしまったとして公開中止になっている。実際に公開中止に到った理由は、この史跡がいたずらされたことがきっかけのようだ。一人の心ない行為が鎌倉を訪れる人たちの楽しみを奪ってしまう。
現在、石碑がないものもある。「和賀江嶋」(鎌倉町青年団、大正13年)は昨年秋の台風で倒壊し、市文化財課で修復中である。
民家の敷地内にあるものがある。「永安寺址」(鎌倉町青年団、大正15年)は造園業を営む植政さんの庭にある。「荒居閻魔堂阯」(鎌倉町青年団、昭和13年)は民家(借家)の庭端に建っている。これらは民家の人に断ってからでないとならないのは言うまでもない。また、「玉縄城址」(鎌倉同人会、大正15年)は女子校(清泉女学院(中・高校))の敷地内であり、校門でその旨を告げ、校内受付で申請書をもらい、その書面に必要事項を記載して許可を受ける必要がある。
石碑の中には立地場所が悪いものがある。「西御門」(鎌倉町青年団、大正15年)と「桑ケ谷療養所跡」(長谷上町文化会、昭和37年)は道路上にある。いつ車が衝突するとも限らない。「桑ケ谷療養所跡」は新しいものだが表面には車であろう、こすれた痕が見られる。壊れてからでは遅い。道路から奥に引っ込めてほしいものだ。
最も重要なことは、これら大正6年以前にも鎌倉には石碑が建てられていることだ。「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と「玉縄首塚碑」と「稲村崎碑」(明治27年)、「盛久頸座」(大正8年)、「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)は上述したが、他にもある。目に付いたところでは、光則寺石碑、御霊神社石碑(大正2年)、大江広元墓所石碑、毛利季光墓所石碑、「明治天皇閲兵之処」石碑(八幡宮)(明治6年)、「鉄道轢死之碑」(明治42年)、「復興寄師芳君之碑」(海蔵寺)、「竺僊梵僊和尚顕彰碑」(葛原ヶ岡ハイキングコース)(昭和15年)、「道路開墾記念之碑」(稲村ガ崎)(昭和13年)、「ローベルト・コッホ碑」(稲村ガ崎)(大正元年)、関東大震災慰霊碑」(浄泉寺)などが挙げられる。
一番気になる碑は、寸松堂(鎌倉市笹目町5)前の「これより東海道」の石碑である。昭和11年に有形文化財に指定されている店舗(木造2階建搭屋付(一見木造3階建)、九輪が上がる)を建てる際に、庭にあった石碑が邪魔になったので店先に移したものだそうだ。この裏には「塔之辻」(鎌倉町青年団、昭和4年)があるが、道路は交差していない。かつては辻であり、道路傍には道標があったのであろう。中砥にするような石の材質にも見え、丈夫そうだ。かつては藤沢から鎌倉を経由し、朝夷奈切通を越え六浦に至り、走水から房総に渡る「古東海道」があった。その道標である可能性もある。それならば400年以上前のものであり、貴重である。
まずは、JR北鎌倉駅から葛原ヶ岡ハイキングコースを辿り鎌倉山に至り、化粧坂を下ってJR鎌倉駅へ行くコースと、大船界隈から湘南モノレールで湘南町屋駅に行き、湘南深沢駅から湘南江の島駅に出て、江ノ島駅から江ノ電を乗り継いで稲村が崎に到るコースから始める。
湘南江の島駅はホームが4階にあるために、遮る建物もなく、富士山が綺麗に見えたのだが、窓ガラスが汚れたり、鉄芯が入っていたりして写真に収めることができなかった。湘南モノレールで訪れる多くの観光客のために、この素晴しい光景を観光資源化してほしいものだ。
(表紙写真は稲村ガ崎の「ローベルト・コッホ碑」)
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「洲崎古戦場」(鎌倉友青会、昭和31年)(寺分485近く)。
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湘南モノレール駅の中間。
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「義経宿陣之阯」(鎌倉市青年団、昭和16年)(満福寺門前)。
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源義経と腰越。
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満福寺本堂。
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境内崖上の六地蔵。
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硯の池。
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弁慶の腰掛石。
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弁慶の力石。
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浄泉寺山門。朱塗りされた質素な木鼻と四方に上がった浪の飾り瓦が印象的だ。
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大正12年9月1日関東大震災挟死者供養塔(浄泉寺境内)。
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浄泉寺本堂。震災後の再建。住職から、銅葺きなのは屋根を軽くし、地震に強くするためと聞いた。
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日蓮聖人祈乞霊跡道の道標。
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日蓮聖人祈乞霊跡道の道標。
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「日蓮上人祈雨旧跡」(鎌倉友青会、昭和31年)(雨乞池)。
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石碑の後はやぐら群。
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「十一人塚」(鎌倉町青年団、昭和6年)(稲村ガ崎1-15-25、極楽寺方面踏切近く)。
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十一人塚史跡看板。
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十一人塚。
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夕焼け迫る。稲村ガ崎から見る江ノ島方向。
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夕焼け迫る稲村ガ崎から見る富士山。
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夕焼け迫る稲村ガ崎から見る富士山。
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「稲村崎碑」(明治27年3月)稲村ガ崎公園石碑群の中心石碑。表面剥離が進んでいる。
横に「史蹟稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」(昭和19年10月建設)石碑が建つ。 -
「明治天皇御製」歌碑。稲村ヶ崎史蹟顕彰会が昭和19年10月に建設。「新田義貞 投け入れし剣の光あらはれて 千尋の海もくかとなりぬる」。
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「稲村崎」(鎌倉町青年会、大正6年)(稲村ガ崎公園)。
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ボート遭難の碑と銅像。
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ボート遭難の碑。
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遭難者名簿(1964年5月17日)。
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「真白き富士の嶺」。
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「かながわの景勝50選 稲村が崎」石碑。
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稲村ガ崎中腹の石碑。
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鎌倉市医師会碑(昭和58年)。
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ローベルト・コッホ碑。
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「ローベルト・コッホ碑(解説)
この碑は、世界的細菌学者ドイツのローベルト・コッホ博士の来日を記念して、弟子である北里柴三郎博士と鎌倉市関係者により、大正元(1912)年9月、建立されたものである。当初、霊仙山頂に建立されたが地盤の脆弱化により、昭和58(1983)年10月に鎌倉市医師会等によりこの地に移設された。
コッホ博士は、病気と病原菌の関係を客観的に証明する方法を提案し、病原細菌学という新しい分野を開拓した人である。
明治35(1905)年「結核に関する研究」でノーベル生理学・医学賞を受賞している。北里は破傷風菌の純培養に成功、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見、それを応用した血清療法を確立し、現代免疫学の祖と言われている。
碑文の大意
明治42年(41の誤り)7月、ドイツの大医コッホ先生が北里博士と一緒に鎌倉に遊び富士山を望みて大変喜ばれた。霊仙山頂でコッホ先生は日の出と日暮れの素晴しさを見て堪能された。
帰国後数年も経ないうちに亡くなられたので、山の所有者である田村氏らと相談し、石碑を建てて事蹟を遺そうと考えた。山の下の稲村ガ崎は新田義貞中将が武運を祈って刀を沈めたといういわれある地である。海と富士山のおりなす絶景のこの地を今は海外の偉人がここに留まって風景を賞した所として世に伝えるべきと考える。 大正元年9月 永坂周記弁書」。 -
稲村ガ崎のやぐら。
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稲村ガ崎のやぐら。
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稲村ガ崎から江ノ島を望む。
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「道路開墾記念之碑」(昭和13年3月)。下部から表面剥離している。掘削された切通しの向こう側に建つ。
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小坪方面。
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逗子方面。
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名越方面。煙突は名越切通下の斎場。
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長柄・桜山古墳群がある山が見える。
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材木座方面(大きな屋根のお寺は光明寺か)。
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斉藤養之助氏顕徳碑(昭和30年)。
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小坪方面。
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材木座方面。
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