2010/04/11 - 2010/04/11
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ドクターキムルさん
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北条時頼(嘉禄3年(1227年)〜弘長3年(1263年))は寛元4年(1246年)〜康元元年((1256年)まで第5代執権を務めた。北条時氏の次男で、4代執権・北条経時の弟である。
宝治元年(1247年)には宝治合戦で、有力御家人の三浦泰村一族を滅ぼした。三浦泰村一族500余名は頼朝の法華堂に籠り、墓は頼朝墓近くの大江広元墓参道の鳥居近くのやぐらの中にある。なお、時頼は最初に毛利季光(大江広元の四男。長州藩毛利家祖)の娘を正室としたが、宝治合戦で季光が三浦氏側に付いたために離別した。季光の墓は大江広元墓の隣にある。
建長4年(1252年)には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、第6代将軍に宗尊親王(後嵯峨天皇の皇子)を擁立し、親王将軍の始まりになった。
建長5年(1253年)、時頼は南宋の僧侶・蘭渓道隆を招いて、建長寺を建立し、この後禅宗が鎌倉武士のよすがとなる。また、宝治2〜3年(1248年〜1249年)にかけて、道元を鎌倉に招いている。鶴岡八幡宮の北には750回大遠忌を記念して、曹洞宗高祖道元禅師顕彰碑が建っている。
病に倒れ、執権職を北条長時に譲って出家し、最明寺入道と号した。しかし、引退後も政治の実権を握り、その後の北条氏による得宗専制政治の先駆けとなった。最明寺は時頼が山ノ内の邸宅の傍らに建立した寺である。最明寺は嫡子の北条時宗が再興して禅興寺と称した。後年、関東管領の上杉憲方が、鎌倉公方である足利氏満氏満の命によって、禅興寺を中興した。明月院は禅興寺の塔頭であり、上杉憲方自身が建立した。名は憲方の法号「明月院天樹道合」から採っている。そのときに憲方が時頼の塔所を建立した。しかし、禅興寺は明治初年に廃仏毀釈によって廃寺となり、明月院境内に時頼の墓の宝筐印塔が残った。
北条氏の祖先発祥の地である伊豆長岡市の最明寺には幕府に願い出て分骨した時頼の墓が建っている。また、京急鮫洲駅近くの東京都品川区南品川5にある海晏寺には時頼の供養塔がある。
能の一曲「鉢木」は鎌倉時代から室町時代に流布した北条時頼の廻国伝説を元にしており、青森県名川町には法光寺、出逢坂、御坊塚などがあり、秋田県象潟町の蚶満寺には時頼手植えのつつじがあるなどゆかりの地が多く伝えられている。
時頼は一人明月院に葬られ、その子・孫・ひ孫は一緒に隣にある円覚寺に葬られている。明月院でそのことを質問したら、住職が出て来て、「家の家族でもそのことが話題になるのですよ。」と話に入ってきた。明月院住職は京都・妙心寺のお坊さんだったそうだ。元寇後に、武家の埋葬が変わったのか。
(表紙写真は北条時頼の墓)
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