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明日香村に親友が住んでおり、遊びに来いよというわけで彼の所に一泊し、土曜日は彼が仕事があり、彼のホンダのカブを借りて明日香村の史跡をアチコチ訪ね歩き、翌日曜日に彼の会社の電気製品運搬用のピックアップで更にその周辺を案内してもらった。当時はまだまだマイカーなんて若い勤め人には高値の花だった。<br /><br />たしか高市村が明日香村となったのは1956年頃と思われる。まだまだ村は和辻哲郎の「古寺巡礼」の時代の風景とほとんど変わっていなかったのではあるまいか?? それに高松塚古墳の発掘以前だったし、田舎の里山の美しい静かな村であった。もちろん古代史好きの観光客がワイワイと、ほとんど訪れなかった時代である。

1963年/明日香の里

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1963/07 - 1963/07

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Berg Heil

Berg Heilさん

明日香村に親友が住んでおり、遊びに来いよというわけで彼の所に一泊し、土曜日は彼が仕事があり、彼のホンダのカブを借りて明日香村の史跡をアチコチ訪ね歩き、翌日曜日に彼の会社の電気製品運搬用のピックアップで更にその周辺を案内してもらった。当時はまだまだマイカーなんて若い勤め人には高値の花だった。

たしか高市村が明日香村となったのは1956年頃と思われる。まだまだ村は和辻哲郎の「古寺巡礼」の時代の風景とほとんど変わっていなかったのではあるまいか?? それに高松塚古墳の発掘以前だったし、田舎の里山の美しい静かな村であった。もちろん古代史好きの観光客がワイワイと、ほとんど訪れなかった時代である。

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  • 川原寺 飛鳥は古代日本政治文化の中心地、大安寺 飛鳥寺 薬師寺等と並び飛鳥四大寺と云われた。現今では川原寺跡の中金堂跡は弘福寺(ぐふく)となっている。7世紀中期 天智天皇の時代の創建と云われる。

    川原寺 飛鳥は古代日本政治文化の中心地、大安寺 飛鳥寺 薬師寺等と並び飛鳥四大寺と云われた。現今では川原寺跡の中金堂跡は弘福寺(ぐふく)となっている。7世紀中期 天智天皇の時代の創建と云われる。

  • 橘寺 聖徳太子誕生の地、太子の父の用明天皇の別宮といわれる。本堂は1864年に再建、境内は国の史跡。 橘寺の由来は 垂仁天皇の命令で不老不死の果物を外国に取りに行った田道間守(たじまもり)の持ち帰った橘の実を植えた事に由来。田道間守のこの話は戦前の国語の教科書に載っていたから「後期高齢者」の人達は知っているはず。

    橘寺 聖徳太子誕生の地、太子の父の用明天皇の別宮といわれる。本堂は1864年に再建、境内は国の史跡。 橘寺の由来は 垂仁天皇の命令で不老不死の果物を外国に取りに行った田道間守(たじまもり)の持ち帰った橘の実を植えた事に由来。田道間守のこの話は戦前の国語の教科書に載っていたから「後期高齢者」の人達は知っているはず。

  • 石舞台 1952年国の特別史跡指定。<br />蘇我馬子の墓であるといわれる。昔からこの大きい石は露呈されていたらしい。<br /><br />訪ねた時は周りは唯の広場で、特別保護されているのでもなく、丁度子供達の遊び場には絶好の場所だった。 こんな大きな石に飛び乗って遊びまわればさぞ楽しかったことだろう!!

    石舞台 1952年国の特別史跡指定。
    蘇我馬子の墓であるといわれる。昔からこの大きい石は露呈されていたらしい。

    訪ねた時は周りは唯の広場で、特別保護されているのでもなく、丁度子供達の遊び場には絶好の場所だった。 こんな大きな石に飛び乗って遊びまわればさぞ楽しかったことだろう!!

  • この狭い飛鳥の地で古代の権力闘争が行われていたらしいが、世界史的に見れば「なんとスケールの小さな事よ!!」と思わざるを得ない。

    この狭い飛鳥の地で古代の権力闘争が行われていたらしいが、世界史的に見れば「なんとスケールの小さな事よ!!」と思わざるを得ない。

  • 岡寺 創建時期不明 なんでも天武天皇の皇子、草壁皇子が住んだ岡宮跡に建立されたといわれる。2005年、国の史跡指定。

    岡寺 創建時期不明 なんでも天武天皇の皇子、草壁皇子が住んだ岡宮跡に建立されたといわれる。2005年、国の史跡指定。

  • 本堂は1805年建立 奈良県指定文化財。 仁王門と書院は重要文化財<br /><br />友人宅はこの村の旧家で、この付近の田圃を掘れば何か必ず出てくると入っていた。その後彼の屋敷内から小さな金仏像が出てきて、しかるべき博物館に寄贈した由。

    本堂は1805年建立 奈良県指定文化財。 仁王門と書院は重要文化財

    友人宅はこの村の旧家で、この付近の田圃を掘れば何か必ず出てくると入っていた。その後彼の屋敷内から小さな金仏像が出てきて、しかるべき博物館に寄贈した由。

  • 鬼の雪隠 元々は古墳の石室だったらしい。ここも特別に保護されていたわけでは無く、道端にそのまま置いてあり、写真の様にぼっくいに鉄条網が簡単に張られていただけであった。<br />少し離れたところにある「鬼の俎板」と同じ古墳の一部であった由。

    鬼の雪隠 元々は古墳の石室だったらしい。ここも特別に保護されていたわけでは無く、道端にそのまま置いてあり、写真の様にぼっくいに鉄条網が簡単に張られていただけであった。
    少し離れたところにある「鬼の俎板」と同じ古墳の一部であった由。

  • 説明のぼっくいに<br />「欽明天皇桧隈坂合陵陪家鬼の雪隠付属地 宮内省」と書いてあった。

    説明のぼっくいに
    「欽明天皇桧隈坂合陵陪家鬼の雪隠付属地 宮内省」と書いてあった。

  • 周りはほとんど人影もないのどかな田園風景。

    周りはほとんど人影もないのどかな田園風景。

  • 橿原神宮 初代天皇 神武天皇の畝傍橿原宮の跡とされる地に 明治天皇に依って1890年創建。

    橿原神宮 初代天皇 神武天皇の畝傍橿原宮の跡とされる地に 明治天皇に依って1890年創建。

  • 静かな佇まいを見せてはいるが歴史はそんなに古いものではない。

    静かな佇まいを見せてはいるが歴史はそんなに古いものではない。

  • 本殿 1855年建立の京都御所の内侍所を移転。<br />文華殿 1844年建立 1967年天理市の柳本藩織田家の表向御殿を移築 双方重要文化財。

    本殿 1855年建立の京都御所の内侍所を移転。
    文華殿 1844年建立 1967年天理市の柳本藩織田家の表向御殿を移築 双方重要文化財。

  • 久米寺 聖徳太子の弟、来目皇子創建といわれ、これが有名な「久米の仙人」伝説の由来といわれる。<br /><br />何でも天空にいた久米仙人が下界の娘の腰巻から覗いた白いふくらはぎを見て目をまわし、空から転落したという。なんとも楽しい仙人ではある。

    久米寺 聖徳太子の弟、来目皇子創建といわれ、これが有名な「久米の仙人」伝説の由来といわれる。

    何でも天空にいた久米仙人が下界の娘の腰巻から覗いた白いふくらはぎを見て目をまわし、空から転落したという。なんとも楽しい仙人ではある。

  • 久米寺 多宝塔 重要文化財 1659年京都の仁和寺から移築された。

    久米寺 多宝塔 重要文化財 1659年京都の仁和寺から移築された。

  • 墳丘は円墳状であるが本来は八角形。<br /><br />天武天皇 686年崩御<br />持統天皇 702年崩御

    墳丘は円墳状であるが本来は八角形。

    天武天皇 686年崩御
    持統天皇 702年崩御

  • 天武・持統天皇陵 古墳時代末期 天武・持統天皇お二人の合葬陵とされる。現今では「野口王墓」という。<br /><br />

    天武・持統天皇陵 古墳時代末期 天武・持統天皇お二人の合葬陵とされる。現今では「野口王墓」という。

  • 法隆寺 特別な説明も必要としないであろう。

    法隆寺 特別な説明も必要としないであろう。

  • 法輪寺 創建伝説に2説ある由。<br />         <br />622年 聖徳太子 太子の子 山背大兄王が父太子の病気平願っての建立説。<br /><br />670年斑鳩寺焼失後、百済開法師 園明法師 下氷新物 の3人の造営説。<br /><br />

    法輪寺 創建伝説に2説ある由。
             
    622年 聖徳太子 太子の子 山背大兄王が父太子の病気平願っての建立説。

    670年斑鳩寺焼失後、百済開法師 園明法師 下氷新物 の3人の造営説。

  • 秋篠寺 東門<br />創建時期の確かな事は不明。 古文献では780年には光仁天皇が食封を施入した、或いは806年に桓武天皇の57忌が行われたと記録にある。<br /><br />この寺と伎芸天立像は松本清張の小説で有名になった。

    秋篠寺 東門
    創建時期の確かな事は不明。 古文献では780年には光仁天皇が食封を施入した、或いは806年に桓武天皇の57忌が行われたと記録にある。

    この寺と伎芸天立像は松本清張の小説で有名になった。

  • 中宮寺 621年 聖徳太子が母の為の御所を寺としたとの伝説がある。江戸時代初期より、門跡寺院として今日に至る。<br /><br />ここの50円切手になった木造菩薩半跏像は有名である。確か学生時代(1950年代後半)か、或いはこの時か記憶が確かではないが、この菩薩像は暗くて狭い座敷の床の間にひっそりとおわしはずが、その後中宮寺を訪れた時には立派な新しい本堂に安置されていた。

    中宮寺 621年 聖徳太子が母の為の御所を寺としたとの伝説がある。江戸時代初期より、門跡寺院として今日に至る。

    ここの50円切手になった木造菩薩半跏像は有名である。確か学生時代(1950年代後半)か、或いはこの時か記憶が確かではないが、この菩薩像は暗くて狭い座敷の床の間にひっそりとおわしはずが、その後中宮寺を訪れた時には立派な新しい本堂に安置されていた。

  • 室生寺 680年 役小角(えんのおずぬ)の草創、空海が中興との説。「女人高野」の別名があり、高野山と違って女人禁制ではない。この五重塔は国宝。

    室生寺 680年 役小角(えんのおずぬ)の草創、空海が中興との説。「女人高野」の別名があり、高野山と違って女人禁制ではない。この五重塔は国宝。

  • 室生寺 弥勒堂? 又は金堂?(調査不足・後日訂正)

    室生寺 弥勒堂? 又は金堂?(調査不足・後日訂正)

  • 室生寺への沢筋の道の途中にある磨崖仏。

    室生寺への沢筋の道の途中にある磨崖仏。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • スーポンドイツさん 2008/10/03 17:17:25
    はじめまして
    Berg Heilさん
    昨夜は足跡だけ残して失礼しました。近々明日香へ行こうかと思い彷徨っておりましたが、珍しい写真に驚き1票!となった次第です。

    ドイツもかなりお詳しいようですね。30年前に西、その後東ドイツにも行きましたので懐かしく拝見しました。
    また寄せていただきます。
    すーぽん

    Berg Heil

    Berg Heilさん からの返信 2008/10/04 10:59:57
    RE: はじめまして
    拙い昔の旅日記お目に留まり、更には一票入れて頂き有難うございます。
    当時の明日香の里は全くの田舎、道路の舗装もまだまだだったと思います。今ではこんな風景はすっかり変貌して、古代史フアンで賑わっている事と思います。

    小生は独逸にはまった不良老年、あと3年で後期高齢者、それを過ぎれば末期高齢者になるのも時間の問題、健脚衰えざるうちに歩き回るつもりです。独逸の訪問した街や城は約130ヶ所、今年は野暮用多く、更には手元不如意なこともあり、旅には出ませんでしたが明年はカミサンをエスコートしながら、プラハ3泊 ブダペシュト3泊 ウイーン4泊(3回目)の旅を計画中、現地の観光局からパンフレットを取り寄せて予習するのも楽しみの一つです。
    旅日記の投稿はタネ切れでしばらくお休みです。

    又、あなた様の旅日記を覗かせていただきます。

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