1990/06/28 - 1990/06/30
1594位(同エリア1805件中)
砂布巾さん
6月28~29日 レニングラード Ленинград
モスクワのレニングラード駅を昨夜23時に出発し、レニングラードのモスクワ駅(少々ややこしいですが)に着いたのは朝7時半。コンパートメントでは中国系っぽいアメリカ人が一緒だった。1年間の長旅でヨーロッパ、中東、中国にまで行くという羨ましい旅。
ホテルはツアーの皆さんと一緒のプリバルティスカヤ(バルト海の前?)という長い名前。ワシリエフスキー島先端の客室 1,200室の大ホテル。目の前はフィンランド湾だ。チェックインの時、書類の番号が少し違っていたらしく、受付の女性に後で来るよう言われたが、森本さんの‘大丈夫ヨ’もあって行かなかった。エレベーターを降りると部屋に向かう長い廊下にも扉があるのだが、幾ら押しても開かない。時間が早いからかナと真剣に悩んだが引かなければならなかったのだ。
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29日の午前中はプーシキン市エカテリーナ宮殿へのツアーに便乗させて貰った。宮殿では若い女性が北山・中野コンビをつかまえ写真を撮らせて、‘後で写真を送って’と言わんばかりに住所を紙に書いていた。人に頼んでいる割には無表情でえらく愛想がなかった。これもソ連式?
エカテリーナ宮殿 城・宮殿
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(傘にご注目! いつもこうして持ち歩いていたけど、どこかで行方不明になってしまった)
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帰る途中には第二次大戦(ソ連では大祖国戦争と呼ぶ)最大の激戦だった独ソ戦(1941年6月22日開戦)の時ナチス・ドイツとの分界線だったという川もあった。レニングラードは 900日に及ぶナチスの包囲に抵抗し、期間中60万人に及ぶ犠牲者を出したのだそうです。ショスタコービッチがこれを称えて交響曲第7番「レニングラード」(シュワルツネッガーのアリナミンVドリンクのコマーシャルに使われた)を作曲したのは有名だ。
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28と29の午後は前田さんと一緒に歩く。ネヴァ河畔のレニングラードは1613年に開かれたロマノフ朝のツァーリー、ピョートル大帝(在位1682〜1725)が西欧への窓口として開いた町だけあって、アカ抜けて実に美しい。この地は第一次大戦中の1917年に起こったロシア革命でロマノフ朝が崩壊するまで首都だった。1905年の‘血の日曜日事件’(第一次ロシア革命)の舞台ともなったかつてのツァーリーの居城エルミタージュ美術館や
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エルミタージュ 建造物
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(目障りなものが写ってないものも)
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ペトロパブロフスク要塞(若い男の子がタバコをくれと合図を送ってきた)、ネフスキー大通りなど、主な見所が固まって歩きやすい。元来美術には余り興味のない小生だが、確かにエルミタージュは凄い。とにかくアッという間の2時間だった。
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異様な光景だったのが地下鉄のホーム。ホテル近くの駅にはホームにエレベーターの扉のようなものが並んでいて、列車が到着すると一斉に扉が開く。
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前田さんのことを少し。どこかのキャリアウーマンかと思っていたけど、28日になって白状したところによると、某都市の駅ビルで営業している食べ物屋の代表取締役だそうです。小生より6歳年長で某在京有名大学英文学部卒。取締役になったのは数年前にお父さんが亡くなられたからだそうです。その後何回かあった見合いの機会にも小生のような素晴らしい男性に巡り合うことが出来ず?ここまで来たとか。でも今は弁護士の彼氏がおられるそうです。どうかお幸せに! ‘英検1級合格を目指す’と列車内でも英語版ニューズウィークやタイムを読む一方で、気が強くておまけに酒豪。豪傑お姉さんといった感じの人。
聖イサアク大聖堂 寺院・教会
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6月30日 空前絶後!? CCCP Jeans購入
レニングラードでも同宿だったツアーの皆さんはモスクワ経由ハバロフスクに飛ぶため朝食後ホテルを出発。エレナさんにはお礼に新潟で買った土産とキーホルダー、日本の美男子の写真を差し上げた。それにしても新潟駅から空港に向かうバスの中で一緒だった動作の鈍いおじいさんとレニングラードまで一緒とは…。皆さんお元気で! 呉々もアエロフロートが落ちませんように。 -
午前中は多くの著名人が眠っているアレクサンドルネフスキー修道院の墓地に行く。モスクワで銅像を見つけられなかったチャイコフスキーのお墓参りをするのが目的だ。彼の作品は、3大バレー音楽、3大交響曲、「弦楽セレナーデ」、ナポレオンのモスクワ遠征の失敗を描いた「大序曲1812年」、「ピアノ協奏曲」などどれも素晴らしい。バッハ、モーツァルトとともに小生が最も好きな作曲家でもある。ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、ボロディン等、ロシアの作曲家もお墓も隣接してあった。でも残念なことに雑草が生い茂るなど手入れは十分行き届いていない。
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修道院ではちょうど結婚式の最中だった。2名の牧師と6名のコーラスの歌声が修道院一杯にこだまし、幻想的なムードが漂う。宗教には格別興味のない小生だが、こんな時はキリスト教って素晴らしいと思う。‘青銅の騎士像’の前に行っても新婚さんだらけ。お日柄がよろしかったのでしょう。
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これから寒いであろう北欧に入るのに上着を持って来なかった小生、列車内で布団代わりに愛用していた前田さんの上着を手に入れ損なったので買うことにした。勿論ヤミ両替対策でもある。駅前の市場でジーンズを売っていたので購入した。値段は 170Rだからモスクワで両替したレートで計算すれば\4,500。これはエレナの月収(140R)の1ケ月分以上。値切らず表示価格で買う者が愚かなのかもしれないが、もしこれが正式な値段ならソ連経済の深刻な一面を見た思いだ。旅費の足しにアメリカ製ジーンズを売る話(これも一種のヤミ両替、相当高く売れるそうだ)はよく聞くが、ソ連のジーンズを買った日本人なんて空前絶後に違いない。
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夜は町中のキーロフ劇場でアダンのバレー「ジゼル」を観た。値段は円払いで\3,000少々。劇場の前方は金持そうな外国人観光客ばかり。撮影禁止なのに演奏途中でも立ち上がって写真をパチパチ。困ったものだ。
明日は列車でフィンランドのヘルシンキに向かう。ソ連はシステムや考え方が全然違い、あらゆる意味で興味深かった。でも正直言って少し疲れた。
*写真は啓蒙専制君主エカテリーナ2世の像 -
ソ連の印象をまとめておきます
ソ連は本当に広大な国です。特に鉄道でイルクーツク、モスクワの宿泊をはさんでハバロフスク~レニングラードを横断すると、その感を一層強くします。しかし車中6泊は体に応えます。しかもモスクワまでの見所はそんなに多くありません。ですから余程体力に自信があり、鉄道好きの人にしか薦められません。モスクワは赤の広場とクレムリンを見るだけでも十分訪れる価値があります。そしてレニングラード、最低でも丸2日はかけてじっくり見たい町です。
旅程作成の段階ではキエフやバルト3国、中央アジアへのルートも浮上し、結局アエロフロートで(今治、高松、大阪経由)新潟からハバロフスクに入りソ連を横断してヘルシンキに抜けるオーソドックスルートとなった訳ですが、再三記したように、日本人8人組のツアーとレニングラードの2日目まで一緒で、時には添乗員さんがメンバー以上に気を使って下さるなど感謝に堪えません。レニングラードでの3泊も含め、良い日程だったと自己満足です。 -
ロシア人は一見気難しい。でも馴れてくると公然とワイロを要求してきます。
お兄さんの病気を治療をしてもらったにもかかわらず女性2人組にタバコを要求したターニャしかり、小生に要求したニコライしかり。彼らからすれば恵まれている者がそうでない者を助けるのは当然、という論理かも知れません。
*写真右がニコライ -
有名な行列は町中の至るところで見られます。ロシアの小話に‘行列があればとにかく並べ’というのがありますが、カフェー(КАФЕ)前の行列も配給品のための行列なのでしょうか? もしお茶を飲むにも行列を作らなければ飲めないようでは、統制経済の失敗を如実に示していると言えるでしょう。
表の経済状態が良くないため物々交換や勤務先から商品をくすねての横流しなど地下経済の占める割合がかなりと聞きます。モスクワで1回白タクを利用するハメとなったのですが、これもその一端を示していると言えるでしょう。
このような70年以上にわたる実態を無視した国家による統制経済(流行のファッションまでも共産党中央委員会で決定されていた)や第二次大戦終結以後の軍事最優先主義、またスターリン時代の極端な個人崇拝、続くブレジネフ以後の低迷期で疲れ切っているのは事実でしょう。致命的だったのは特に最近経済がガタガタだったのに、軍事的にアメリカに対抗しようとしたことです。また社会主義の盟主として東欧諸国、ベトナム、キューバ、北朝鮮などへの援助も重荷でした。ですからゴルバチョフの登場は歴史の必然だったかも知れません。しかしその民主化路線は、これまで共産党政権の強圧的な力によって封じ込められていた様々な問題のパンドラの箱を開けてしまったのです。
1991年末にソ連邦が崩壊し、世界史を大きく変えたゴルバチョフから急進改革派エリツィンの時代(都市名も一部変わったが本文では訪問時の名称を使用した)になっても民族問題は経済危機、インフレ、軍や国民のモラル低下、犯罪の激増、環境破壊、核管理などとともに最も深刻な問題なのです。
旧ソ連の不安定化は世界的な混乱を招く恐れがあります。ですからその改革の成功を願わずにはいられません。でも前途は決して明るいとは言えません。
行こうソヴィエト
必ず寄ろうレニングラード
体力のある人にはお薦め鉄道旅行
でもやめようヤミ両替と駅で売ってるミルク -
* 出発前に東京で買い、とても興味深かった本。
* 例のジーンズを着て、ショスタコーヴィチの「レニングラード」交響曲を聴きながら。年に1回か2回は必ずこの Situationがある。 -
レニングラード~ヘルシンキのチケット
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