1990/06/25 - 1990/06/27
1301位(同エリア1830件中)
砂布巾さん
宿泊はクレムリンの真前のナツィオナール。かつてはレーニンも泊まっていた由緒あるホテルだそうだ。フロントの縄張り意識は凄まじく、大勢の客が待っていてもマイペースで自分の仕事以外の業務は一切行なわない。これぞ共産主義の極致。彼らにとっては働いても働かなくても給料は一緒だから極力仕事はしたくないのだ。これまでの2カ所のホテルはツインをシングルとして使っていたが、今度はシングルルーム。お湯の出は悪かったけど、ちゃんとバスタブもテレビもある。ただし石鹸はやはり無い。
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イルクーツク以来のシャワーと洗濯を済ませた後は、またもや3人組で繰り出す。アルバートという店に入った。何百人も入る広いフロアではトップレスショーからダンスタイムもあって賑やか。昔、坂本九ちゃんが歌っていた‘悲しき60才’の曲がロック調で流れて懐しかった。値段はデイナーメニューで3人で 164R。食堂車の料金感覚に馴れている身には、正に目の飛び出るような値段。3人で一瞬にしてエレナの月収分を軽く食べたわけだ。
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6月26日 体調最悪!
車内での最後の様子を記した前日の直後から体調不調に陥ってしまい、トイレットペーパーを借りて(備え付けはない)駆け込む。下痢だ! 長旅の疲れに加えてどうやら昨日停車した駅で買って飲んだ牛乳(ドロッとしてプレーンヨーグルトに近い)が当ったらしい。ガイドブックには‘避けたほうが無難’と記されていたが、何とかなるさ式の横着な楽観主義が顔を覗かせてしまった。昨日はそれで収まったのだが、気が進まないのに2人に連行されたアルバートで食べた肉料理やデザートのアイスクリームが悪かったのか、明け方から3回トイレに起きる。まるで水のようなのが一気に出る。
早く目覚めたらツアーの皆さんの宿舎ホテルコスモスへ出向いて市内観光に混ぜてもらうのも良いかな、の思惑も目覚めが10時過ぎでボツ。昼までゆっくりして赤の広場へ行く。やっと1人旅にやって来た気分に浸り、楽しく歩くことが出来た。赤の広場 広場・公園
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広場の真前にあるのがモスクワ最大のグム(Гум)百貨店。百貨店ではルーブル対策も含めチャイコフスキー、モーツァルトのCD3枚を購入。1枚20Rは\500。
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日本人には何とも奇異に映るのが物を買う時のシステム。欲しい品物を伝票に書いてもらい、レジ(kacca カッサ)で支払いを済ませ、レシートを持参して商品を受け取りに行く。在庫管理と万引防止には役立つのだろうが、二度手間には違いない。前回の渡欧の際に、ザルツブルクで一緒だった日本人から面白おかしく聞いていたが、やはり変な印象を受けた。一種の失業対策か? オーディオ売場にも行ってみたけど、商品は日本の20年以上昔の品物といった感じだから、他の商品も推して知るべし。
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行列も方々で見掛けるけど、モスクワの新名所ゴーリキー通りのマクドナルドが一番長く、公園をグルッと1周しざっと300m位はあっただろう。サービスという言葉など全くなかったソ連の人々にとって世界共通のあのサービスは正に革命的な驚きで、開店当初はヤミハンバーガー!?が横行(後に購入は1人10個までに制限された)したり、マフィアが派手な格好で行列に並んでいるという微笑ましい光景?も見られたそうだ。
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その後は地下鉄を利用して、ツアーの皆さんの宿舎ホテルコスモスへ行ってみる。モスクワの地下鉄は核シェルターにもなるようにとフルシチョフ時代に建設されたものだそうで、正に地底深くを走っている感じ。乗り方は簡単。自動改札機に5カペイカ(\1)硬貨を入れれば良い。コスモスでは皆さん休んでいたようなので、レストランで今日唯一の食事(10$)を済ませタクシーで帰る。タクシーは乗車前に値段を交渉で決める。外国人観光客がルーブルで払うと言うと決まって良い顔はしない。タクシー運転手も外貨が欲しいのだ。
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ホテルに帰る前にライトアップされた赤の広場に再び行き、午前0時のレーニン廟の衛兵交替を見る。玉ネギ坊主の聖ワシリー寺院が幻想的な雰囲気で何とも言えず綺麗だ。寺のあまりの美しさに感銘したイワン雷帝(在位1533~84)は、同じものが作れないよう設計者の目をくりぬいてしまったそうだ。
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6月27日 Ленин氏と対面
昨夜は寝付きが悪かった上に再び下痢。7時半には頼んでもいないモーニングコールで起こされる。しばらく書き事等をして10時半に出発。
最初に目指すのはレーニン廟。荷物検査でカメラがひっかかり、預けさせられた。レーニンは神聖だからだろう。行列の長さはマクドナルド以上かもしれないが、どんどん入れていくので11時の衛兵交代で一時中断したけど待時間は25分程度。やっぱりマクドナルドが恐らくナンバーワンだ。
廟の中には衛兵に守られてレーニンの遺体が安置されている。亡くなってから70年近くにもなるのに今にも起き上がるのではないか、と思えるくらいに良好に保存されている。でもやはり死体なのだから余り気持ちの良いものではない。かつてはスターリンも一緒に安置されていたのだそうだが、スターリン批判以後は廟の後方へ移されたそうで、実際彼の銅像は左から2番目にあった。レーニン廟 モニュメント・記念碑
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その後は、昨日入ることの出来なかった玉ネギ坊主の聖ワシリー寺院や
聖ワシリイ大聖堂 寺院・教会
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クレムリン(Кремль)の内部、
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レーニン中央博物館へ。レーニンの像は学校や駅、空港等様々な所に見られる。そんな彼の存在がソ連を一時極端な宗教弾圧に走らせたのは疑いないであろう。それにしてもあれほど徹底的に宗教を弾圧したクレムリンのお膝元に幾つかの寺院があるのがなんとも不可思議。
食欲は全く無し。昼飯は16時に地下鉄ビィエロースカヤ駅近くのカフェテリアで。皮の厚いギョーザにクリームソースをかけたような料理は仲々美味。値段は63カペイカだから¥15程度。神棚のようなものがあったのが面白かった。 -
スターリンの大粛清とスターリン批判
スターリンは1924年にレーニン(スターリンに危惧を抱いていた)が亡くなった後、権力を掌握し、自らの神格化を押し進めるとともに、1930年代から本格的な大粛清に取り掛かった。この時代に殺された人々は彼の政敵にとどまらず、幅広く一般市民にも及び、KGB(秘密警察)が盗聴や検閲で一般市民の動向を監視する一方、市民の密告を奨励して無実の人々を次々と逮捕・監禁し、今なお全貌は明らかではないが、この時代に殺された国民は二千万人に及ぶとも言われている。これは第二次大戦中の犠牲者に匹敵する。
このような恐るべき粛清が行なわれた背景には、広大なソ連の国内建設に労働力が必要であったこと、そして社会主義を守るため反対勢力の存在を極端におそれたこと、そしてスターリン自身の極度に猜疑心の強い性格が災いしたと言えるだろう。スターリンはヒトラーとともに人類史上最大の殺人者だった。
スターリンの死から3年後の共産党第20回大会(1956)でフルシチョフが行なったいわゆるスターリン批判は内外に大きな衝撃を与え、対外的には東欧でポズナニ暴動(ポーランド)やハンガリー動乱を誘発した。 -
*ホテルの入口には部外者を入れないためおじさんが、各階には女性の世話係(時には売春婦の世話もするらしい)がいる これも一種の失業対策
*大きな交差点にはお巡りさんの詰所があって、車の流れを見ながら信号を操作する 失業対策! -
*町中にある飲料水の自動販売機には備付けのガラス製のコップがあり、そのコップを洗って使う (コップを下向きに押さえ付けると水が出てくる)
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*コスモスHに3月にモスクワ線が就航した大韓航空のステッカーが貼ってあったり、町中に三星の広告があったり、韓国が着実にソ連に浸透
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*団体以外の日本人は少ない。2日間で見掛けたのは5人程度だった。
*モスクワでは両替等で声を掛けて来る人が少ない。完全にロシア人しているためか、見るからに金を持って無さそうだからか?
*ブロマイド売場はブルースリーが大変な人気、NINJA VS MAFIAなんてのもあった。レーニンやスターリンの風刺漫画も発見。 -
*ナツィオナールの表示では、ギリシャ・ドラクマ、イタリア・リラといった一般に弱い通貨として定着している西側通貨でも支払いOK。
*写真はボリショイ劇場ボリショイ劇場 劇場・ホール・ショー
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*クレムリン前にあった戦争犠牲者を追悼する碑
Beatles,BACK IN THE USSRを聴きながら -
イルクーツク〜モスクワ間のチケット
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ナツィオナールのカード
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一番上はインツーリスト・ホテルのカード。ハバロフスクかイルクーツクかは判らない
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