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  9月13日  ポーランド入国~ブロツワフ<br /> 少し早起きして8:24発の列車で出発、荒涼とした荒野を通ってシレジア地方の中心地ブロツワフにやって来る。シレジアは18世紀半ばにはオーストリアとプロシアが2度にわたり争奪戦を演じた要衝の地。<br /> DDRの国境駅はゲーリッツ。ここに55分間停車して、出国・入国審査が行なわれる。入国審査も簡単なもので手持ち外貨を口頭で申告させられたけど他は問題なくパス。車内の審査が終わってから、外ではゲーリッツから乗る乗客の審査が行なわれた。4人の内黒人の少年はパスポートの写真と別人ではないかとの嫌疑をかけられ、しばらくホームで話をしていたが係官の部屋に連れて行かれ、結局列車に乗られなかった。第二次大戦後国境となったナイセ川(後述)は駅を出るとすぐの細い川。鉄橋の中央に小屋があり、鋭い目付きをした国境警備隊員を発見した時には、ここは東欧なんだと改めて感じた。<br /> ブロツワフという地方都市に下車したのは、某ガイドブックに‘切符を買うのに半日は掛かる’と書いてあったので、買いやすいであろう地方都市で買っておこうと思ったからだ。女性の係員には溜息をつかれたけど、実際には国内の全列車のチケットが国営旅行社 ORBIS(両替も)の窓口で20分で買えた。乗車する区間と時刻それに日付を全て書いて手渡したのが良かった。ブロツワフ~カトービッツ~アウシュビッツ、クラクフ~ワルシャワ~グダニスク~シュチェッチン~クノービッツ(フランクフルトの対岸)とポーランドを1周するルートで 111,660ズロチ(以下Zt)。一体幾らぐらいか、最後をご参照下さい。<br />  それにしてもポーランド人は陽気。列車の車掌さんは鼻歌まじりにやって来て、‘Leipzig,Dresden,Yokohama’とまくしたてて行ってしまったし、今日泊まるYHの受付のおばさんとは言葉は通じなかったけど、楽しそうに人のパスポートをもてあそんだりおばさんとベチャベチャおしゃべりしたり。チェコはプラハが美しかったのに、どうして印象が薄いのだろう? それは人々の笑顔が殆ど見られなかったからではないか?    <br /> ちなみに40$が 361,228Ztでした。つまり鉄道料金は1$=\140で計算しても約\1,800円と驚異的な安さ。これなら噂話として聞いたことがあるブダペスト~北京の鉄道料金が60$というのも理解出来る?

109日間ユーラシア大陸横断 第5部 音楽・歴史の (Musik,Geschichte) その4 ポーランド、フランクフルト編

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1990/09/13 - 1990/09/18

2943位(同エリア3728件中)

砂布巾

砂布巾さん

  9月13日  ポーランド入国~ブロツワフ
 少し早起きして8:24発の列車で出発、荒涼とした荒野を通ってシレジア地方の中心地ブロツワフにやって来る。シレジアは18世紀半ばにはオーストリアとプロシアが2度にわたり争奪戦を演じた要衝の地。
 DDRの国境駅はゲーリッツ。ここに55分間停車して、出国・入国審査が行なわれる。入国審査も簡単なもので手持ち外貨を口頭で申告させられたけど他は問題なくパス。車内の審査が終わってから、外ではゲーリッツから乗る乗客の審査が行なわれた。4人の内黒人の少年はパスポートの写真と別人ではないかとの嫌疑をかけられ、しばらくホームで話をしていたが係官の部屋に連れて行かれ、結局列車に乗られなかった。第二次大戦後国境となったナイセ川(後述)は駅を出るとすぐの細い川。鉄橋の中央に小屋があり、鋭い目付きをした国境警備隊員を発見した時には、ここは東欧なんだと改めて感じた。
 ブロツワフという地方都市に下車したのは、某ガイドブックに‘切符を買うのに半日は掛かる’と書いてあったので、買いやすいであろう地方都市で買っておこうと思ったからだ。女性の係員には溜息をつかれたけど、実際には国内の全列車のチケットが国営旅行社 ORBIS(両替も)の窓口で20分で買えた。乗車する区間と時刻それに日付を全て書いて手渡したのが良かった。ブロツワフ~カトービッツ~アウシュビッツ、クラクフ~ワルシャワ~グダニスク~シュチェッチン~クノービッツ(フランクフルトの対岸)とポーランドを1周するルートで 111,660ズロチ(以下Zt)。一体幾らぐらいか、最後をご参照下さい。
 それにしてもポーランド人は陽気。列車の車掌さんは鼻歌まじりにやって来て、‘Leipzig,Dresden,Yokohama’とまくしたてて行ってしまったし、今日泊まるYHの受付のおばさんとは言葉は通じなかったけど、楽しそうに人のパスポートをもてあそんだりおばさんとベチャベチャおしゃべりしたり。チェコはプラハが美しかったのに、どうして印象が薄いのだろう? それは人々の笑顔が殆ど見られなかったからではないか?   
 ちなみに40$が 361,228Ztでした。つまり鉄道料金は1$=\140で計算しても約\1,800円と驚異的な安さ。これなら噂話として聞いたことがあるブダペスト~北京の鉄道料金が60$というのも理解出来る?

旅行の満足度
5.0

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  •  9月14日  虐殺の地、アウシュビッツ Auschwitz<br /> アウシュビッツ(現在はポーランド語の地名になっている)。今回の旅で一番来てみたかったところであり、また来たくなかった所でもある。<br /><br />

     9月14日  虐殺の地、アウシュビッツ Auschwitz
     アウシュビッツ(現在はポーランド語の地名になっている)。今回の旅で一番来てみたかったところであり、また来たくなかった所でもある。

  •  改めて言うまでもないが、ここは第二次大戦中にナチスがユダヤ人絶滅作戦を行った多くの収容所の中の1つだ。収容所は全部で28棟あり、その中の幾つかが展示館になっていて、犠牲者の遺品や写真が展示され、ガス室や死体焼却炉、独房等は当時のまま残されている。一番戦慄を覚えたのは、最初の展示館にあった物凄い量の髮の毛。高さ3m、奥行5m、長さ50m程の長い展示ケースの中一杯に詰まっている。数万人分は十分あっただろう。体臭が‘ムッ’と鼻につくのがたまらない。ナチスはこれを原料に様々な製品を作ったのだそうだ。

     改めて言うまでもないが、ここは第二次大戦中にナチスがユダヤ人絶滅作戦を行った多くの収容所の中の1つだ。収容所は全部で28棟あり、その中の幾つかが展示館になっていて、犠牲者の遺品や写真が展示され、ガス室や死体焼却炉、独房等は当時のまま残されている。一番戦慄を覚えたのは、最初の展示館にあった物凄い量の髮の毛。高さ3m、奥行5m、長さ50m程の長い展示ケースの中一杯に詰まっている。数万人分は十分あっただろう。体臭が‘ムッ’と鼻につくのがたまらない。ナチスはこれを原料に様々な製品を作ったのだそうだ。

  •  近くにはこの10倍の規模のビルケナウという収容所跡もあるそうだが、ここだけでもう十分。とてもそんな気は起こらない。けれども僅か50年前に起こった人類の悲劇から我々は決して目を背けてはならない。<br /> 宿泊はクラクフYH。ポーランドにしては珍しく?明るい感じの所だ。でもここまで来るのが大変だった。アウシュビッツから列車を間違え、2つ先の駅で降りて1時間待たなければならなかったし、YHに着いてからは同室のポーランド人がシャワーに行って鍵がかかり、しばらく待たなければならなかった。彼は‘ヒトラーがソ連を攻撃した時、何故日本も攻撃しなかったのか’と敵意を示す一方、ドイツ統一にも不満そうだった。18世紀後半にプロイセン・オーストリア・ロシアに分割され、第二次大戦初期には独ソ両軍に占領されるなど、特に両国に苦しめられてきたポーランド人の気持を垣間見た気がした。 宿泊は40,000Zt、1年半前は 1,600Ztだからインフレの凄まじさが分かる。

     近くにはこの10倍の規模のビルケナウという収容所跡もあるそうだが、ここだけでもう十分。とてもそんな気は起こらない。けれども僅か50年前に起こった人類の悲劇から我々は決して目を背けてはならない。
     宿泊はクラクフYH。ポーランドにしては珍しく?明るい感じの所だ。でもここまで来るのが大変だった。アウシュビッツから列車を間違え、2つ先の駅で降りて1時間待たなければならなかったし、YHに着いてからは同室のポーランド人がシャワーに行って鍵がかかり、しばらく待たなければならなかった。彼は‘ヒトラーがソ連を攻撃した時、何故日本も攻撃しなかったのか’と敵意を示す一方、ドイツ統一にも不満そうだった。18世紀後半にプロイセン・オーストリア・ロシアに分割され、第二次大戦初期には独ソ両軍に占領されるなど、特に両国に苦しめられてきたポーランド人の気持を垣間見た気がした。 宿泊は40,000Zt、1年半前は 1,600Ztだからインフレの凄まじさが分かる。

  •   9月15日  古都、クラクフ Krakow<br /> 9時に起きて、ティミオスと駅へ向かい荷物を預けて1人でクラクフ市内を歩く。中央広場の聖マリア教会では、盛大な葬式が行なわれていた。町の名士が亡くなったのだろう。

      9月15日  古都、クラクフ Krakow
     9時に起きて、ティミオスと駅へ向かい荷物を預けて1人でクラクフ市内を歩く。中央広場の聖マリア教会では、盛大な葬式が行なわれていた。町の名士が亡くなったのだろう。

    聖マリア教会 寺院・教会

  •  真中には細長い中央市場の建物があり、中には土産物屋が入っている。そして両側には様々な露店もある。

     真中には細長い中央市場の建物があり、中には土産物屋が入っている。そして両側には様々な露店もある。

  • 広場ではポーランド・ポップス?やおじいさんの弦楽四重奏など素人の音楽家の演奏も聞けたが、これが何とも洗練されておらず如何にもポーランド的。でも皆一生懸命だ。

    広場ではポーランド・ポップス?やおじいさんの弦楽四重奏など素人の音楽家の演奏も聞けたが、これが何とも洗練されておらず如何にもポーランド的。でも皆一生懸命だ。

  •  それにしても本当に寒くなって今やセーターが必要。ちょうど市場で売っていたので買った。ズロチなら80,000Zt、ドルなら9$とおばさんが言ったので少し迷ったけど、東欧に入る直前にニュルンベルクで用意していたドルで払った。でもレートを計算すると、ズロチの方が少し安かった。

     それにしても本当に寒くなって今やセーターが必要。ちょうど市場で売っていたので買った。ズロチなら80,000Zt、ドルなら9$とおばさんが言ったので少し迷ったけど、東欧に入る直前にニュルンベルクで用意していたドルで払った。でもレートを計算すると、ズロチの方が少し安かった。

  •  今日唯一の食事は、中央広場のそばの Wierzynekという店。ブラウンシュヴァイクに寄った時にポーランド来訪中だったニールスが教えてくれた店。だから是非行っておきたかった。日本風の前菜、ポーランドビール、鳥肉をたっぷりのバターで炒めた料理にポテトフライとサラダが付いて55,000Ztは約900円。

     今日唯一の食事は、中央広場のそばの Wierzynekという店。ブラウンシュヴァイクに寄った時にポーランド来訪中だったニールスが教えてくれた店。だから是非行っておきたかった。日本風の前菜、ポーランドビール、鳥肉をたっぷりのバターで炒めた料理にポテトフライとサラダが付いて55,000Ztは約900円。

  •  9月16日  ワルシャワも雨だった Warschau,auch regnet.<br /> クラクフ23:50発の列車で早朝首都ワルシャワに到着。車内ではほとんど寝られなかった。8人用のコンパートメントの荷物棚まで満杯で荷物を背負ったままの実に窮屈な格好で座らざるを得なかったからだ。<br /> でも日程的に無理だろうと思っていたワルシャワに来られたので、少し歩いてみる。駅を出ると、真正面にスターリンからの贈物、異様な文化科学宮殿の建物が目につく。ポーランドの小話、「ワルシャワで一番景色の良い場所は?」「文化科学宮殿の屋上」「何故?」「文化科学宮殿が見えないから」。

     9月16日  ワルシャワも雨だった Warschau,auch regnet.
     クラクフ23:50発の列車で早朝首都ワルシャワに到着。車内ではほとんど寝られなかった。8人用のコンパートメントの荷物棚まで満杯で荷物を背負ったままの実に窮屈な格好で座らざるを得なかったからだ。
     でも日程的に無理だろうと思っていたワルシャワに来られたので、少し歩いてみる。駅を出ると、真正面にスターリンからの贈物、異様な文化科学宮殿の建物が目につく。ポーランドの小話、「ワルシャワで一番景色の良い場所は?」「文化科学宮殿の屋上」「何故?」「文化科学宮殿が見えないから」。

    文化科学宮殿 建造物

  •  その後は作曲家ショパンゆかりの聖十字架教会へ。朝7時過ぎだったのに、もう礼拝が始まっている。ポーランド人は本当に信心深い。夕方教会へ行ってみても、必ず何人かが祈りを捧げている。カトリックが彼らの心の支えであるのがよく分かる。教会から旧市内へ向かっているうちに雨が降りだした。ワジェンキ宮殿という美しい宮殿にも行ってみたかったけど、ワルシャワはこれで打切り。第二次大戦末期の1944年8月1日に始まったワルシャワ蜂起(ソ連軍はすぐ近くに居ながら事態を傍観した)に対するヒトラーの報復で徹底的に破壊されたこの町だが、今ではそんなことは全く感じさせない。<br /> グダニスクへ向かう列車の中で一緒になったのが法政大学の堀内氏。彼は初の海外旅行先にポーランドを選び、ワルシャワに5日も滞在してグダニスクに向かっているとか。ドレスデンで一緒になった学生といい、東欧に来る奴は変な奴ばかり。マトモなのは俺だけだ! 日本の情報に飢えていた小生に神戸高塚高校の校門圧死事件について教えてくれた。<br /> 宿泊はグダニスクにあるYHの中の1つで小学校の上にある。下宿しているのか子供達が多い。クラクフやブロツワフの約半額の20,125Zt(\350)と安いが、シャワーが無い。洗面所で頭だけは洗ったけど、これは不便だ。そういえばブロツワフのYHはバレースクールに隣接し、ドミトリーも男女混合のYHだった。ポーランドにはユニークなYHが多い。<br /> 夕食は堀内氏と町中のホテルで。ズロチの持ち合わせが少なくなってヒヤヒヤしたけど、ポーランドビールとサラダ付のロースト・ビーフで36,000Zt。真っ暗になってしまい、帰りには市電の降りる停留所が分からず困ったけど、何とか帰り着けた。<br />(ティミオスと堀内氏)

     その後は作曲家ショパンゆかりの聖十字架教会へ。朝7時過ぎだったのに、もう礼拝が始まっている。ポーランド人は本当に信心深い。夕方教会へ行ってみても、必ず何人かが祈りを捧げている。カトリックが彼らの心の支えであるのがよく分かる。教会から旧市内へ向かっているうちに雨が降りだした。ワジェンキ宮殿という美しい宮殿にも行ってみたかったけど、ワルシャワはこれで打切り。第二次大戦末期の1944年8月1日に始まったワルシャワ蜂起(ソ連軍はすぐ近くに居ながら事態を傍観した)に対するヒトラーの報復で徹底的に破壊されたこの町だが、今ではそんなことは全く感じさせない。
     グダニスクへ向かう列車の中で一緒になったのが法政大学の堀内氏。彼は初の海外旅行先にポーランドを選び、ワルシャワに5日も滞在してグダニスクに向かっているとか。ドレスデンで一緒になった学生といい、東欧に来る奴は変な奴ばかり。マトモなのは俺だけだ! 日本の情報に飢えていた小生に神戸高塚高校の校門圧死事件について教えてくれた。
     宿泊はグダニスクにあるYHの中の1つで小学校の上にある。下宿しているのか子供達が多い。クラクフやブロツワフの約半額の20,125Zt(\350)と安いが、シャワーが無い。洗面所で頭だけは洗ったけど、これは不便だ。そういえばブロツワフのYHはバレースクールに隣接し、ドミトリーも男女混合のYHだった。ポーランドにはユニークなYHが多い。
     夕食は堀内氏と町中のホテルで。ズロチの持ち合わせが少なくなってヒヤヒヤしたけど、ポーランドビールとサラダ付のロースト・ビーフで36,000Zt。真っ暗になってしまい、帰りには市電の降りる停留所が分からず困ったけど、何とか帰り着けた。
    (ティミオスと堀内氏)

  • (列車で一緒だったフランス人のお兄さん)<br /><br />9月17日  ティミオス、堀内と歩く?グダニスク Gdansk<br /> 朝は先日クラクフで一緒だったティミオスの家へ堀内氏と行く。YHから歩いて行ける場所だったので、10時前に行ったから、5時着の列車でカトーヴィッツ(ブロツワフとクラクフの間)から帰って来たばかりという彼には少し気の毒だった。<br /> 彼は現在は両親とアテネに住んでいるので、家には小学校の先生をしているおばさんがいた。ケーキをご馳走になっていると、彼女が政治的な話を始め‘ Hitler,Hirohito,No good!’、原爆に関して‘アメリカは悪いが、戦争を終わらせるには必要だった’と言っていた。‘今日の夜行で次の目的地へ行く’と言ったら、‘最低3日なければ…’と言われたけど、日程上止むを得ない。<br /> 「ズデーテンは欧州で望む最後の領土である」と広言しながらチェコスロヴァキア全土を勢力下に置いたヒトラーの次の標的はポーランドに向けられた。反ソ・反共からドイツに対しては宥和的だった英仏もこれを機に対独強硬策に転じた。しかしスターリンはミュンヘン会談で英仏への不信感を募らせていたので英仏との軍事同盟締結交渉は捗らず、逆に1939年8月23日にドイツと不可侵条約を締結した。

    (列車で一緒だったフランス人のお兄さん)

    9月17日  ティミオス、堀内と歩く?グダニスク Gdansk
     朝は先日クラクフで一緒だったティミオスの家へ堀内氏と行く。YHから歩いて行ける場所だったので、10時前に行ったから、5時着の列車でカトーヴィッツ(ブロツワフとクラクフの間)から帰って来たばかりという彼には少し気の毒だった。
     彼は現在は両親とアテネに住んでいるので、家には小学校の先生をしているおばさんがいた。ケーキをご馳走になっていると、彼女が政治的な話を始め‘ Hitler,Hirohito,No good!’、原爆に関して‘アメリカは悪いが、戦争を終わらせるには必要だった’と言っていた。‘今日の夜行で次の目的地へ行く’と言ったら、‘最低3日なければ…’と言われたけど、日程上止むを得ない。
     「ズデーテンは欧州で望む最後の領土である」と広言しながらチェコスロヴァキア全土を勢力下に置いたヒトラーの次の標的はポーランドに向けられた。反ソ・反共からドイツに対しては宥和的だった英仏もこれを機に対独強硬策に転じた。しかしスターリンはミュンヘン会談で英仏への不信感を募らせていたので英仏との軍事同盟締結交渉は捗らず、逆に1939年8月23日にドイツと不可侵条約を締結した。

  •  二正面戦争回避に力を得たヒトラーはポーランドがドイツのラジオ局を襲撃した事件をでっち上げ、9月1日に攻撃を開始。英仏が対独宣戦布告して第二次大戦が始まった。ソ連も直ちにポーランドに侵攻しドイツと両国で分割した。続いてソ連はフィンランドに宣戦して領土を奪い、更にバルト三国を併合した。このように戦争初期は準同盟関係にあった両国だが、その後対立を深め、第1部でも述べたように41年6月には第二次大戦最大の激戦独ソ戦へと突入した。

     二正面戦争回避に力を得たヒトラーはポーランドがドイツのラジオ局を襲撃した事件をでっち上げ、9月1日に攻撃を開始。英仏が対独宣戦布告して第二次大戦が始まった。ソ連も直ちにポーランドに侵攻しドイツと両国で分割した。続いてソ連はフィンランドに宣戦して領土を奪い、更にバルト三国を併合した。このように戦争初期は準同盟関係にあった両国だが、その後対立を深め、第1部でも述べたように41年6月には第二次大戦最大の激戦独ソ戦へと突入した。

    ヴェステルプラッテ 自然・景勝地

  •  当時ダンチヒと呼ばれていたグダニスクは、独ポ対立の象徴だった。このような背景から郊外には開戦の地ベステルプラッテがある。ここに停泊していたドイツの武装商船の攻撃で戦争が始まり、ポーランドは守備隊 182名で2日間攻撃に耐えたとされているが、実際にはヒトラーの‘電撃戦’は国境を一気に越えたに違いないから象徴的な意味しかないかも知れない。

     当時ダンチヒと呼ばれていたグダニスクは、独ポ対立の象徴だった。このような背景から郊外には開戦の地ベステルプラッテがある。ここに停泊していたドイツの武装商船の攻撃で戦争が始まり、ポーランドは守備隊 182名で2日間攻撃に耐えたとされているが、実際にはヒトラーの‘電撃戦’は国境を一気に越えたに違いないから象徴的な意味しかないかも知れない。

  • 美しい旧市街には壊れたままの建物が幾つもあり、

    美しい旧市街には壊れたままの建物が幾つもあり、

  • 巨大な聖マリア教会には戦争の時の写真や図などが展示してあった。

    巨大な聖マリア教会には戦争の時の写真や図などが展示してあった。

  •  ここはポーランド民主化の先駆け自主管理労組連帯(1980年 ワレサ委員長)発祥の地でもある。市役所には誇らしげにそれらの写真が展示してあった。そのゆかりのレーニン造船所(現グダニスク造船所)にも行ってみたかったけど、夕方は近郊の海水浴場ソボタや港町グディニアに案内してもらい時間が無くなってしまった。ソボタでティミオスがお土産を買ってくれたけど無い! 荷物を取りに家に寄った際、忘れてしまったのだろうか? とても残念だ。<br />*市役所屋上から 遠くに見えるのが自主管理労組連帯発祥の地グダニスク造船所!

     ここはポーランド民主化の先駆け自主管理労組連帯(1980年 ワレサ委員長)発祥の地でもある。市役所には誇らしげにそれらの写真が展示してあった。そのゆかりのレーニン造船所(現グダニスク造船所)にも行ってみたかったけど、夕方は近郊の海水浴場ソボタや港町グディニアに案内してもらい時間が無くなってしまった。ソボタでティミオスがお土産を買ってくれたけど無い! 荷物を取りに家に寄った際、忘れてしまったのだろうか? とても残念だ。
    *市役所屋上から 遠くに見えるのが自主管理労組連帯発祥の地グダニスク造船所!

  •  9月18日  もう1つのフランクフルト Andere Frankfurt.<br /> 昨夜はグディニアを深夜23時過ぎに出発する列車に乗り、5時半にシュチェッチンに着いた。列車内では到着駅などのアナウンスが全く無かった。ポーランド人はアナウンスがなくても困らないのだろうか?<br /> シュチェッチンは冷戦初期にイギリス首相に復帰したチャーチルがアメリカで行なった「鉄のカーテン演説」でも有名な町。町の中心部をオーデル(ポーランド語ではオドラ)川が流れている。前述のように戦後はオーデル、ナイセ両川を結ぶ線が(東)独ポ国境となったが、最下流地域だけはポーランド側がドイツ側に食い込んだ形になっている。<br /> 予定では2度の乗換えで 12:58にはDDRのフランクフルトのポーランド側の対岸のクノービッツに着くはずだったのだが、ここからが聞くも涙、語るも涙の物語。シュチェッチンから時刻表に載っているはずの列車が来ない。しかも2本も続けて!? そこでInf.へ行き、教えてくれた列車は時刻表にはない。‘一体どうなってるんだ!’と再度出向いたら、ポーランド語で何やらまくしたてて他の人と交代してしまった。このヤロー、ケツをまくってやりたいのはこっちのほうだ! 信じられますか? 駅の時刻表に載っている列車は来ず、教えてくれたのは時刻表には無い列車。こうなったらヤケクソだと思い、その列車が出るという駅へ行ってみました。列車は確かにあった。けれども接続が極めて悪い。最初の乗り換え時に1時間、2回目には何と3時間。バスがあるよと駅員の人が教えてくれたので待っていたら、どこかのおじさんが見かねたのか、車で約15分の国境の橋まで連れて行ってくれました。一瞬不安は過ぎりましたが…。従ってDDRへの再入国は徒歩。外国人は殆ど通らないせいでしょう、出国は簡単でした。手持外貨の申告もなく、出国のスタンプも無いようでした。DDR入国もスムース。係官もサービス精神旺盛で‘入国のスタンプが欲しいか?’と尋ねてくれました。返事は勿論‘ Ja!’。

     9月18日  もう1つのフランクフルト Andere Frankfurt.
     昨夜はグディニアを深夜23時過ぎに出発する列車に乗り、5時半にシュチェッチンに着いた。列車内では到着駅などのアナウンスが全く無かった。ポーランド人はアナウンスがなくても困らないのだろうか?
     シュチェッチンは冷戦初期にイギリス首相に復帰したチャーチルがアメリカで行なった「鉄のカーテン演説」でも有名な町。町の中心部をオーデル(ポーランド語ではオドラ)川が流れている。前述のように戦後はオーデル、ナイセ両川を結ぶ線が(東)独ポ国境となったが、最下流地域だけはポーランド側がドイツ側に食い込んだ形になっている。
     予定では2度の乗換えで 12:58にはDDRのフランクフルトのポーランド側の対岸のクノービッツに着くはずだったのだが、ここからが聞くも涙、語るも涙の物語。シュチェッチンから時刻表に載っているはずの列車が来ない。しかも2本も続けて!? そこでInf.へ行き、教えてくれた列車は時刻表にはない。‘一体どうなってるんだ!’と再度出向いたら、ポーランド語で何やらまくしたてて他の人と交代してしまった。このヤロー、ケツをまくってやりたいのはこっちのほうだ! 信じられますか? 駅の時刻表に載っている列車は来ず、教えてくれたのは時刻表には無い列車。こうなったらヤケクソだと思い、その列車が出るという駅へ行ってみました。列車は確かにあった。けれども接続が極めて悪い。最初の乗り換え時に1時間、2回目には何と3時間。バスがあるよと駅員の人が教えてくれたので待っていたら、どこかのおじさんが見かねたのか、車で約15分の国境の橋まで連れて行ってくれました。一瞬不安は過ぎりましたが…。従ってDDRへの再入国は徒歩。外国人は殆ど通らないせいでしょう、出国は簡単でした。手持外貨の申告もなく、出国のスタンプも無いようでした。DDR入国もスムース。係官もサービス精神旺盛で‘入国のスタンプが欲しいか?’と尋ねてくれました。返事は勿論‘ Ja!’。

  •   *壊れたままの教会<br /> 距離にすれば 100km少しであろうシュチェッチン~フランクフルトが13時間も掛かってしまった。<br /> それにしてもシュチェッチンの時刻表は一体何だったのだろう? 駅には普通ある出発、到着を示す電光板は無いし、不親切な所だと思った。これでポーランドの印象が少し悪くなってしまった。グダニスクの前後が夜行列車という駆け足観光だったけど、クラクフそしてグダニスクがとても美しかった。両地で一緒だったティミオスに感謝あるのみです。アウシュビッツは決して楽しい所ではないが、ポーランドへ来たら必ず訪れておくべき所。ワルシャワもグダニスクと同様戦争では徹底的に破壊されたけれども、戦後見事に復興した。それには彼等のどれだけの苦労があったことか、心から敬意を表します。<br /> 第2の故郷ドイツに帰って来てホッとした。最後になってこの様なトラブルがあったので尚更だ。フランクフルト・アン・デア・オーデル、BRDのフランクフルト・アム・マイン(人口は70万人程度)のように大きな町ではないけれど、本当に素敵な所。やっぱりドイツは全てが素晴らしい。嬉しくて夕食は近くのレストランでシュニッツェル。<br /> 宿泊はユーゲント・ツーリスト・ホテル JTH。町の中心に一際高くそびえているビルの中にあり、1泊30DM。‘日本人は来ますか?’と尋ねたら‘あなたが初めてです!’<br /> そうかここは‘地球の歩き方’には載っていなかったのだ。<br /><br />* 2回目の訪問記を含む戦後の独ポ国境問題はこちらへ <br />   http://4travel.jp/travelogue/10926082

      *壊れたままの教会
     距離にすれば 100km少しであろうシュチェッチン~フランクフルトが13時間も掛かってしまった。
     それにしてもシュチェッチンの時刻表は一体何だったのだろう? 駅には普通ある出発、到着を示す電光板は無いし、不親切な所だと思った。これでポーランドの印象が少し悪くなってしまった。グダニスクの前後が夜行列車という駆け足観光だったけど、クラクフそしてグダニスクがとても美しかった。両地で一緒だったティミオスに感謝あるのみです。アウシュビッツは決して楽しい所ではないが、ポーランドへ来たら必ず訪れておくべき所。ワルシャワもグダニスクと同様戦争では徹底的に破壊されたけれども、戦後見事に復興した。それには彼等のどれだけの苦労があったことか、心から敬意を表します。
     第2の故郷ドイツに帰って来てホッとした。最後になってこの様なトラブルがあったので尚更だ。フランクフルト・アン・デア・オーデル、BRDのフランクフルト・アム・マイン(人口は70万人程度)のように大きな町ではないけれど、本当に素敵な所。やっぱりドイツは全てが素晴らしい。嬉しくて夕食は近くのレストランでシュニッツェル。
     宿泊はユーゲント・ツーリスト・ホテル JTH。町の中心に一際高くそびえているビルの中にあり、1泊30DM。‘日本人は来ますか?’と尋ねたら‘あなたが初めてです!’
     そうかここは‘地球の歩き方’には載っていなかったのだ。

    * 2回目の訪問記を含む戦後の独ポ国境問題はこちらへ 
       http://4travel.jp/travelogue/10926082

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