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<2006年1月29日(日)><br /><br /> 今日が、旧正月の元旦です。昨晩遅くまでPnPnちゃんとSnSnちゃんご兄弟と、Ogさんとご一緒に話が弾みましたから、大晦日に相応しい夜更かしになりました?<br /> ここで、旧正月について少し説明をしておきます。現在の日本では旧暦の1月1日である旧正月の風習が次第に廃れ、太陽暦の1月1日が、お正月としての年始行事がされるようになりました。<br /> しかし、旧暦の正月は中国だけでなく、お隣の韓国でも同じように今でも祝われています。<br /> ところで、旧暦の正月、旧正月は毎年日付が変わります。今年2006年は、1月29日が元旦でしたが、昨年は2月9日でした。これから4年間の日本の旧正月は、2007年は2月18日、2008年は2月7日、2009年は1月26日、1010年は2月14日の予定です。<br /> 日本と中国では、旧正月と日付が異なることもあるようです。これは日本との時差の影響により生じるものとされます。(ウィキペディア)<br /><br /><早朝の見送り、一寝入り><br /> 一足先に帰国される皆さん方を、パジャマ姿のお見送りで失礼しました。早朝からチョウさんが愛車のワゴンで迎えに来てくれました。チョウさんのご自宅からは1時間ほどの距離とお聞きしています。多分、昨晩、というより今朝まで大晦日を楽しまれていたことでしょう。これは、昨年の話から創造したことです。<br /> 霧が濃い朝でした。後で、エンちゃんからお聞きした話ですが、空港へ向かう道路も濃い霧で大変だったようです。無事に空港へ到着できるかどうか心配されて、車内は静かだったと、チョウさんからの電話があったようです。結果は、無事に空港到着できました。<br /> お見送りした後は、Ogさん、Enちゃんと話し合って、もう一寝入りすることに決めました。<br /><br /><頂戴した孫文役の写真><br /> 今回の旅行では、S.P.先生から素晴らしいプレゼントを戴きました。以前にEnちゃんやOgさんからお聞きしていましたが、今回、孫文役で主演された映画の写真を見せて戴き貰い、その1枚を戴くことになりました。約20年前の出演とお聞きしました。その写真の裏にはサインも戴きました。頂戴した写真はスキャナーで取り込み、巻末に収録しておきました。<br /> この項目に収録したセピア色の写真は、孫文故居の売店で買い求めた絵葉書の写真です。こちらは、孫文ご本人ですが、S.P.先生の孫文役の写真は、当時の服装やメーキャップでした。1915年の東京での宋慶齢さんとの結婚の時の写真も、そっくりのポーズの写真を見せて頂きました。<br /> S.P.先生が、宋慶齢故居、孫文故居の電話番号も調べて頂きました。その電話番号でEnちゃんが確認されました。元日ですが、開館していることが分かりました。昨年の旧正月の折の、魯迅に因む旧跡の見学に続いて、私にとって願ってもない見学先でした。<br /><br /><宋慶齢故居へ><br /> インターネットで探した宋慶齢故居(コンテンツ・オールド上海)についての記事から紹介しておきます。<br /> 『住居を記念館にするために香山路の家を出た宋慶齢は、東平路15号にある一戸建ての洋館に一時期住んだ。当時は抗日戦争終結間もない頃で、1941年に太平洋戦争が終結し、中国各地にいた米国人・英国人たちが上海に戻ってきたため、東平路の宋慶齢宅も居留民に返すことになった。住居がない彼女にたいし、国民党政府は林森中路の住宅(現・淮海中路1803号)を調達し、宋慶齢はこの家に引越した。この林森中路の家は20世紀初頭にドイツ人商人が建てたものを言われる。(中略)その後、この家は(中略)英国人医師が住居兼診療所として買い取ったが、1914年12月7日に太平洋戦争が勃発し、この英国人医師も日本軍に捕まって収容され、母国へ送還された。(中略)そして、宋慶齢の住居になった。宋慶齢国家名誉主席が逝去された後、この家は上海市重点文物保護単位に指定され、「上海宋慶齢故居」として一般開放されるようになった。敷地面積4千3百平方米、3階建ての洋館の建築面積は7百平米。館内は彼女の生前暮らしたのとほぼ同様に保存してある』<br /> と、記されています。20世紀初頭にドイツ人商人が建築されたものが起源のようです。<br /> 3m以上はあろうかという、高い塀が故居を取り囲んでいました。その入口近くの塀をくり貫いて、チケット売り場の窓口がありました。門を潜った左側の詰め所では、兵士が警備に当たっていました。歴史的に重要な史跡ですし、貴重な展示物も数多くありますから、警護が固められているのでしょう。<br /> 入館した右手の建物の前に宋慶齢の白い坐像がありました。記念撮影をした後、その記念館の見学をしました。外部の撮影は許可されていましたが、内部の展示物などは撮影禁止でした。<br /> 宋慶齢に因む展示物が、数多くありました。写真、文書、生活用品等々でした。あたかも、中国の歴史が縮小して展示されているような密度の濃い品々でした。コピーやレプリカではなく、実物展示の迫力です。<br /> 1915年に、日本に亡命中の孫文と、東京で結婚されたとされますが、その時の誓約書も現物が残っていました。仲人との3者連名の契約書のようなものです。3枚にそれぞれ署名、捺印し、1通づつを保有した内、宋慶齢さんが保管しておいた分でしょう。<br /> 履物の上にビニルのカバーを付けた上で、室内の見学もできました。国内外の要人が訪れたと言う歴史の重たさを肌で感じる見学でした。毛沢東、スターリン、金日成からの贈り物や、記念写真等がありました。歴史的評価はおくとしても、歴史の現場に立ち会ったような感慨が湧く見学でした。<br /><br /><孫文故居へ><br /> 同じように、インターネットで探した孫文故居(コンテンツ・オールド上海)についての記事から紹介しておきます。<br /> 『1918年、上海旧フランス租界の莫利哀路(現・香山路7号)の住宅が孫文・宋慶齢夫妻に送られ、この家が彼らの上海での住居になった。1925年3月12日に孫中山が北京で没した時も宋慶齢はこの家にいた。1946年、国民党が孫中山逝去21周年を記念し、香山路の住宅を「国文記念館」にすることを決定。宋慶齢も引越しに同意し、夫と共に長年住んだ家を離れた。1949年以降、国文記念館は孫文故居と改名し、一般開放されている』<br /> と、記されています。前後しますが、孫文についても略歴などを紹介しておきます。<br /> 『1866?1925 近代中国のブルジョワ民主主義革命の推進者、政治家。字は徳明。号は逸仙・中山。中山樵・高野長雄の日本名をも使用。広東省香山県(現中山県)生まれ。1878年、兄孫眉を頼ってハワイに渡り教育を受ける。一時帰郷し、1883年以降香港で医学などを学ぶ。(中略)日本・アメリカを経て、1896年ロンドンで清国公使館に捕えられたが、香港時代の旧師カントリーなどの助けで釈放され、(中略)1897年来日。(中略)武昌で辛亥革命勃発。アメリカで革命宣伝活動中であったが、イギリス・フランスなどで引き続き活動後帰国。1912年南京で中華民国臨時大総統に就任。北方の袁世凱政権と交渉の結果譲位。(中略)1915年宋慶齢と結婚。同年袁の帝制復活に反対して雲南で挙兵した護国軍の第三革命に呼応。1919年中国国民党結成。(中略)労働者・農民に注目し国民党改組により国共合作を進め、1924年中国国民党第1回全国代表大会を開催し、いわゆる「連ソ・容共・扶助労農」の政策を確立。1925年北京で病没』<br /> かなりの部分を割愛しましたが、まさに波乱万丈の生涯でした。孫文の死後、国民党と共産党は分裂し、三民主義は別の解釈が与えられることとなりました。<br /> 国民党は『三民主義』に儒教的解釈を加えて反共理論的内容を与え、一方、毛沢東は『新民主主義論』(1940)の中で、『三民主義』は提唱する新民主主義と、基本的には一致すると述べました。<br /> 毛沢東によれば、植民地、半植民地、半封建的性格をもつ中国における革命は新民主主義革命と社会主義革命の2つの段階を経るとされます。新民主主義革命は、基本的にはブルジョワ民主主義革命ですが、プロレタリア階級の指導のもとに広範な統一戦線によって推進され、帝国主義、封建主義の支配を覆すことを目的とする点で、古典的なブルジョワ民主主義革命とは異なると解釈されます。また、新民主主義革命の結果誕生する共和国は、社会主義共和国への過渡的な形態とされます。新民主主義とはこのような新民主主義革命の結果生まれる政治・経済・文化の総体を表す言葉と定義されます。<br /> 話を故居見学の方に戻します。チケット売り場は、故居の向かいにある別棟でした。ここでも、履物の上にビニルのカバーを付けて、建物内部の見学が出来ました。宋慶齢故居では2階は立ち入り禁止でしたが、こちらでは、見学コースに入っていました。<br />内部はちょっとしたアンチークの館と言うほど、当時のままに居宅が整備、保存されていました。略歴のところで紹介しましたように、1880年代に、香港で医学を学んだ経歴があり、その手術道具も、中身が分かるように展示されていました。リベットでタンクが造られたボイラ設備も残されていて、建物自体の見学も見応えがありました。<br /> ある程度人数がまとまったところで、女性のベテランガイドさんが案内をしてくれました。Enちゃんの通訳付きですから、分かり易く見学できました。入口近くにお土産店がありましたから、孫文とオールド上海に関する絵葉書を買い求めました。<br /> S.P.先生に見せて戴いた孫文役の写真とそっくりのシーンや、メーキャップ、衣装などに興味深いものがありました。<br /><br /><地下のお店での昼食><br /> 2つの故居を見学したところで、昼の時間になりました。孫文故居の前にもレストランがありましたが、残念ながら閉館日でした。それで、中心街まで出ての昼食となりました。<br /> 軽い食事の方が良かったので、喫茶店風の店を探しましたが、元日でお休みでした。結局、飛び込みで入ったお店は、ビルの地下の大衆店でした。それぞれに写真を見ながら注文しましたが、私は焼きソバにしました。青島ビールとツマミの品も頼みましたから、軽くない、お腹一杯の食事になってしまいました。<br /> このお店では、食事以上にお客さんの仕草や、家族風景で楽しませて頂きました。私達が美味しく食べたり、飲んだりしていたためでしょうか?後から見えた方は、こちらを指差しながらメニューを決めたり、違ったものが出てきた場合は、家族で揉め事になっていました。<br /><br /><東湖賓館でアフタヌーンティ><br /> 食事の後、ホテルでのアフタヌーンティを楽しもうと言うことになりました。最初は、花園飯店が候補に上がりましたが、昼食の場所から、余りに近過ぎましたので、更に西の方角へ歩きました。お昼に少し食べ過ぎたためです。それで、Enちゃんが予め調べていた東湖賓館に向かうことになりました。<br /> 東湖賓館については、帰国後、Enちゃんからお借りした中国旅行雑誌「CHAI(チャイ)」の2006年3月号から紹介しておきます。東湖賓館についての特集記事がありました。<br /> 『かつて「杜公館」と呼ばれたこのホテルは、オールドシャンハイを影で支配したシャンハイマフィアの老大(ボス)・杜月笙に贈られた邸宅だった。(中略)1988年、杜月笙は現在の上海浦東新区に生まれた。当時はスラム街だった。(中略)アヘン密売や賭博の元締めの秘密結社「青幇」の陳世昌と知り合い、メンバーとなる。そこで頭角を現し、黄金栄、張杜月笙嘯と並ぶ暗黒外のビッグスリーとなった。(中略)1927年、蒋介石の革命を援助したことで、政界、軍閥にも顔を利かせるようになった。上海市議員、国民党軍少将などとして表舞台に、(中略)フランス租界に入りこむことにも成功し、(中略)1930年代、国民党政府は  「航空奨券」と呼ばれる宝くじを発行、杜は、その裏情報を同士の金延■に流し、金は多大の財産を手に入れる。そのお礼として金が杜に贈ったのが、現在の「東湖賓館」だった』<br /> と記されています。建設費用は30万ドルだったとされます。更に、<br /> 『抗日戦争終結後、国民党軍がこの邸宅を占用し、その後はアメリカ新聞処に60万ドルで売り渡され、後に、アメリカ領事館としても利用された。杜は、この新居で1日も生活することのないまま、1951年、香港で63年の生涯を終えた』<br /> その後、1982年に杜公館は「東湖賓館』と改名、江沢民、朱鎔基など歴代の国家指導者、クリントン大統領を始めとする各国元首も宿泊した、歴史ある建物です。一般開放されたのは、最近のことのようです。その時期は、特集記事にも載っていませんでした。<br /> 夕食までには、時間がありましたから、ゆっくりと1階のレストランでアフタヌーンティを楽しみました。窓の外に見える庭園の眺めも落ち着いた雰囲気でした。少し軋む板張りの床が、歴史の重たさを体感させてくれました。チャイに掲載されていた写真を紹介しておきます。<br /><br /><鼈料理の夕食><br /> 東湖賓館でのアフタヌーンティを楽しんだ後、Enちゃんがお父さんのS.P.先生と約束されていた鼈料理のお店へと、タクシーで向かいました。S.P.先生は、既にお友達と利用されたことがあり、鼈料理が美味しいからと、お誘いを受けていました。<br /> お約束の時間よりは、少し早く着きましたが、S.P.先生たちも早くお店に見えましたから、殆ど待ち時間はありませんでした。昨年もEnちゃんからお聞きしたことがありましたが、メニューを決めるのに、最低30分は使うので、早めに来店するのが、マナーのようです。<br /> 鼈のメインディッシュは既に決めてありましたから、その他のメニュー選択です。Enちゃんが教えてくれたことでは、『先日オーナーの友達と一緒に美味しい鼈料理をご馳走になったので、その時と同じように美味しい料理を作ってください』と係りの方に、冗談を交えて話されていたようです。<br /> 飲み物は、最初に青島ビール、そのあとは上海老酒の石牢門にしました。1939年の年代が入ったブラックラベルです。中国料理には紹興酒が良くあいますが、この石牢門のブラックラベルは、特に好きになった紹興酒です。<br /> さて、その鼈料理ですが、少し小振りではありますが、なんと一人1匹ずつ皿に乗って運ばれてきました。透明のビニルの手袋付きです。これを左手にはめて、手掴みです。大きな蟹を食べるときの要領です。S.P.先生から、甲羅の部分を折って、この中に入っている白くて細い髄を食べるように、髄の現物を見せて教えて貰いました。<br /> 料理方法の詳しいとことは分かりませんが、蒸しに焼きが加わった手間が掛かる調理のようでした。タレの味も丁度良く、残すところは殆どありません。S.P.先生に教えて戴いた髄だけでなく、甲羅の周りのゼラチン状の部分も残さず平らげました。<br /> 値段のことを書いてしまうと、ツアー旅行社の方にも申し訳ないですから、伏せておきます。黒ラベルの紹興酒だけでも100元(約1400円)近くしますのに、信じられないようなお値段でした。このお店では、全てS.P.先生に美味しいディナーをご馳走になってしまいました。改めてお礼を申し上げます。有難うございました。帰りに、Ogさんのカメラをお借りして、生簀の魚の写真を撮っておきました。<br /><br />  宋慶齢故居<br /> 鬱蒼と古木の囲う庭園にセピア写真の主人重ねる<br /><br />  孫文故居<br /> 暖き日の射す故居の藤の椅子孫文座せる温りのあり<br /><br />  鼈料理の店<br /> 手掴で食する鼈味深く会話途絶える暫の間

2006新年、中国旅行記8(10/16):1月29日(1):上海、宋慶齢故居、孫文故居

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2006/01/27 - 2006/01/30

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旅人のくまさん

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<2006年1月29日(日)>

 今日が、旧正月の元旦です。昨晩遅くまでPnPnちゃんとSnSnちゃんご兄弟と、Ogさんとご一緒に話が弾みましたから、大晦日に相応しい夜更かしになりました?
 ここで、旧正月について少し説明をしておきます。現在の日本では旧暦の1月1日である旧正月の風習が次第に廃れ、太陽暦の1月1日が、お正月としての年始行事がされるようになりました。
 しかし、旧暦の正月は中国だけでなく、お隣の韓国でも同じように今でも祝われています。
 ところで、旧暦の正月、旧正月は毎年日付が変わります。今年2006年は、1月29日が元旦でしたが、昨年は2月9日でした。これから4年間の日本の旧正月は、2007年は2月18日、2008年は2月7日、2009年は1月26日、1010年は2月14日の予定です。
 日本と中国では、旧正月と日付が異なることもあるようです。これは日本との時差の影響により生じるものとされます。(ウィキペディア)

<早朝の見送り、一寝入り>
 一足先に帰国される皆さん方を、パジャマ姿のお見送りで失礼しました。早朝からチョウさんが愛車のワゴンで迎えに来てくれました。チョウさんのご自宅からは1時間ほどの距離とお聞きしています。多分、昨晩、というより今朝まで大晦日を楽しまれていたことでしょう。これは、昨年の話から創造したことです。
 霧が濃い朝でした。後で、エンちゃんからお聞きした話ですが、空港へ向かう道路も濃い霧で大変だったようです。無事に空港へ到着できるかどうか心配されて、車内は静かだったと、チョウさんからの電話があったようです。結果は、無事に空港到着できました。
 お見送りした後は、Ogさん、Enちゃんと話し合って、もう一寝入りすることに決めました。

<頂戴した孫文役の写真>
 今回の旅行では、S.P.先生から素晴らしいプレゼントを戴きました。以前にEnちゃんやOgさんからお聞きしていましたが、今回、孫文役で主演された映画の写真を見せて戴き貰い、その1枚を戴くことになりました。約20年前の出演とお聞きしました。その写真の裏にはサインも戴きました。頂戴した写真はスキャナーで取り込み、巻末に収録しておきました。
 この項目に収録したセピア色の写真は、孫文故居の売店で買い求めた絵葉書の写真です。こちらは、孫文ご本人ですが、S.P.先生の孫文役の写真は、当時の服装やメーキャップでした。1915年の東京での宋慶齢さんとの結婚の時の写真も、そっくりのポーズの写真を見せて頂きました。
 S.P.先生が、宋慶齢故居、孫文故居の電話番号も調べて頂きました。その電話番号でEnちゃんが確認されました。元日ですが、開館していることが分かりました。昨年の旧正月の折の、魯迅に因む旧跡の見学に続いて、私にとって願ってもない見学先でした。

<宋慶齢故居へ>
 インターネットで探した宋慶齢故居(コンテンツ・オールド上海)についての記事から紹介しておきます。
 『住居を記念館にするために香山路の家を出た宋慶齢は、東平路15号にある一戸建ての洋館に一時期住んだ。当時は抗日戦争終結間もない頃で、1941年に太平洋戦争が終結し、中国各地にいた米国人・英国人たちが上海に戻ってきたため、東平路の宋慶齢宅も居留民に返すことになった。住居がない彼女にたいし、国民党政府は林森中路の住宅(現・淮海中路1803号)を調達し、宋慶齢はこの家に引越した。この林森中路の家は20世紀初頭にドイツ人商人が建てたものを言われる。(中略)その後、この家は(中略)英国人医師が住居兼診療所として買い取ったが、1914年12月7日に太平洋戦争が勃発し、この英国人医師も日本軍に捕まって収容され、母国へ送還された。(中略)そして、宋慶齢の住居になった。宋慶齢国家名誉主席が逝去された後、この家は上海市重点文物保護単位に指定され、「上海宋慶齢故居」として一般開放されるようになった。敷地面積4千3百平方米、3階建ての洋館の建築面積は7百平米。館内は彼女の生前暮らしたのとほぼ同様に保存してある』
 と、記されています。20世紀初頭にドイツ人商人が建築されたものが起源のようです。
 3m以上はあろうかという、高い塀が故居を取り囲んでいました。その入口近くの塀をくり貫いて、チケット売り場の窓口がありました。門を潜った左側の詰め所では、兵士が警備に当たっていました。歴史的に重要な史跡ですし、貴重な展示物も数多くありますから、警護が固められているのでしょう。
 入館した右手の建物の前に宋慶齢の白い坐像がありました。記念撮影をした後、その記念館の見学をしました。外部の撮影は許可されていましたが、内部の展示物などは撮影禁止でした。
 宋慶齢に因む展示物が、数多くありました。写真、文書、生活用品等々でした。あたかも、中国の歴史が縮小して展示されているような密度の濃い品々でした。コピーやレプリカではなく、実物展示の迫力です。
 1915年に、日本に亡命中の孫文と、東京で結婚されたとされますが、その時の誓約書も現物が残っていました。仲人との3者連名の契約書のようなものです。3枚にそれぞれ署名、捺印し、1通づつを保有した内、宋慶齢さんが保管しておいた分でしょう。
 履物の上にビニルのカバーを付けた上で、室内の見学もできました。国内外の要人が訪れたと言う歴史の重たさを肌で感じる見学でした。毛沢東、スターリン、金日成からの贈り物や、記念写真等がありました。歴史的評価はおくとしても、歴史の現場に立ち会ったような感慨が湧く見学でした。

<孫文故居へ>
 同じように、インターネットで探した孫文故居(コンテンツ・オールド上海)についての記事から紹介しておきます。
 『1918年、上海旧フランス租界の莫利哀路(現・香山路7号)の住宅が孫文・宋慶齢夫妻に送られ、この家が彼らの上海での住居になった。1925年3月12日に孫中山が北京で没した時も宋慶齢はこの家にいた。1946年、国民党が孫中山逝去21周年を記念し、香山路の住宅を「国文記念館」にすることを決定。宋慶齢も引越しに同意し、夫と共に長年住んだ家を離れた。1949年以降、国文記念館は孫文故居と改名し、一般開放されている』
 と、記されています。前後しますが、孫文についても略歴などを紹介しておきます。
 『1866?1925 近代中国のブルジョワ民主主義革命の推進者、政治家。字は徳明。号は逸仙・中山。中山樵・高野長雄の日本名をも使用。広東省香山県(現中山県)生まれ。1878年、兄孫眉を頼ってハワイに渡り教育を受ける。一時帰郷し、1883年以降香港で医学などを学ぶ。(中略)日本・アメリカを経て、1896年ロンドンで清国公使館に捕えられたが、香港時代の旧師カントリーなどの助けで釈放され、(中略)1897年来日。(中略)武昌で辛亥革命勃発。アメリカで革命宣伝活動中であったが、イギリス・フランスなどで引き続き活動後帰国。1912年南京で中華民国臨時大総統に就任。北方の袁世凱政権と交渉の結果譲位。(中略)1915年宋慶齢と結婚。同年袁の帝制復活に反対して雲南で挙兵した護国軍の第三革命に呼応。1919年中国国民党結成。(中略)労働者・農民に注目し国民党改組により国共合作を進め、1924年中国国民党第1回全国代表大会を開催し、いわゆる「連ソ・容共・扶助労農」の政策を確立。1925年北京で病没』
 かなりの部分を割愛しましたが、まさに波乱万丈の生涯でした。孫文の死後、国民党と共産党は分裂し、三民主義は別の解釈が与えられることとなりました。
 国民党は『三民主義』に儒教的解釈を加えて反共理論的内容を与え、一方、毛沢東は『新民主主義論』(1940)の中で、『三民主義』は提唱する新民主主義と、基本的には一致すると述べました。
 毛沢東によれば、植民地、半植民地、半封建的性格をもつ中国における革命は新民主主義革命と社会主義革命の2つの段階を経るとされます。新民主主義革命は、基本的にはブルジョワ民主主義革命ですが、プロレタリア階級の指導のもとに広範な統一戦線によって推進され、帝国主義、封建主義の支配を覆すことを目的とする点で、古典的なブルジョワ民主主義革命とは異なると解釈されます。また、新民主主義革命の結果誕生する共和国は、社会主義共和国への過渡的な形態とされます。新民主主義とはこのような新民主主義革命の結果生まれる政治・経済・文化の総体を表す言葉と定義されます。
 話を故居見学の方に戻します。チケット売り場は、故居の向かいにある別棟でした。ここでも、履物の上にビニルのカバーを付けて、建物内部の見学が出来ました。宋慶齢故居では2階は立ち入り禁止でしたが、こちらでは、見学コースに入っていました。
内部はちょっとしたアンチークの館と言うほど、当時のままに居宅が整備、保存されていました。略歴のところで紹介しましたように、1880年代に、香港で医学を学んだ経歴があり、その手術道具も、中身が分かるように展示されていました。リベットでタンクが造られたボイラ設備も残されていて、建物自体の見学も見応えがありました。
 ある程度人数がまとまったところで、女性のベテランガイドさんが案内をしてくれました。Enちゃんの通訳付きですから、分かり易く見学できました。入口近くにお土産店がありましたから、孫文とオールド上海に関する絵葉書を買い求めました。
 S.P.先生に見せて戴いた孫文役の写真とそっくりのシーンや、メーキャップ、衣装などに興味深いものがありました。

<地下のお店での昼食>
 2つの故居を見学したところで、昼の時間になりました。孫文故居の前にもレストランがありましたが、残念ながら閉館日でした。それで、中心街まで出ての昼食となりました。
 軽い食事の方が良かったので、喫茶店風の店を探しましたが、元日でお休みでした。結局、飛び込みで入ったお店は、ビルの地下の大衆店でした。それぞれに写真を見ながら注文しましたが、私は焼きソバにしました。青島ビールとツマミの品も頼みましたから、軽くない、お腹一杯の食事になってしまいました。
 このお店では、食事以上にお客さんの仕草や、家族風景で楽しませて頂きました。私達が美味しく食べたり、飲んだりしていたためでしょうか?後から見えた方は、こちらを指差しながらメニューを決めたり、違ったものが出てきた場合は、家族で揉め事になっていました。

<東湖賓館でアフタヌーンティ>
 食事の後、ホテルでのアフタヌーンティを楽しもうと言うことになりました。最初は、花園飯店が候補に上がりましたが、昼食の場所から、余りに近過ぎましたので、更に西の方角へ歩きました。お昼に少し食べ過ぎたためです。それで、Enちゃんが予め調べていた東湖賓館に向かうことになりました。
 東湖賓館については、帰国後、Enちゃんからお借りした中国旅行雑誌「CHAI(チャイ)」の2006年3月号から紹介しておきます。東湖賓館についての特集記事がありました。
 『かつて「杜公館」と呼ばれたこのホテルは、オールドシャンハイを影で支配したシャンハイマフィアの老大(ボス)・杜月笙に贈られた邸宅だった。(中略)1988年、杜月笙は現在の上海浦東新区に生まれた。当時はスラム街だった。(中略)アヘン密売や賭博の元締めの秘密結社「青幇」の陳世昌と知り合い、メンバーとなる。そこで頭角を現し、黄金栄、張杜月笙嘯と並ぶ暗黒外のビッグスリーとなった。(中略)1927年、蒋介石の革命を援助したことで、政界、軍閥にも顔を利かせるようになった。上海市議員、国民党軍少将などとして表舞台に、(中略)フランス租界に入りこむことにも成功し、(中略)1930年代、国民党政府は  「航空奨券」と呼ばれる宝くじを発行、杜は、その裏情報を同士の金延■に流し、金は多大の財産を手に入れる。そのお礼として金が杜に贈ったのが、現在の「東湖賓館」だった』
 と記されています。建設費用は30万ドルだったとされます。更に、
 『抗日戦争終結後、国民党軍がこの邸宅を占用し、その後はアメリカ新聞処に60万ドルで売り渡され、後に、アメリカ領事館としても利用された。杜は、この新居で1日も生活することのないまま、1951年、香港で63年の生涯を終えた』
 その後、1982年に杜公館は「東湖賓館』と改名、江沢民、朱鎔基など歴代の国家指導者、クリントン大統領を始めとする各国元首も宿泊した、歴史ある建物です。一般開放されたのは、最近のことのようです。その時期は、特集記事にも載っていませんでした。
 夕食までには、時間がありましたから、ゆっくりと1階のレストランでアフタヌーンティを楽しみました。窓の外に見える庭園の眺めも落ち着いた雰囲気でした。少し軋む板張りの床が、歴史の重たさを体感させてくれました。チャイに掲載されていた写真を紹介しておきます。

<鼈料理の夕食>
 東湖賓館でのアフタヌーンティを楽しんだ後、Enちゃんがお父さんのS.P.先生と約束されていた鼈料理のお店へと、タクシーで向かいました。S.P.先生は、既にお友達と利用されたことがあり、鼈料理が美味しいからと、お誘いを受けていました。
 お約束の時間よりは、少し早く着きましたが、S.P.先生たちも早くお店に見えましたから、殆ど待ち時間はありませんでした。昨年もEnちゃんからお聞きしたことがありましたが、メニューを決めるのに、最低30分は使うので、早めに来店するのが、マナーのようです。
 鼈のメインディッシュは既に決めてありましたから、その他のメニュー選択です。Enちゃんが教えてくれたことでは、『先日オーナーの友達と一緒に美味しい鼈料理をご馳走になったので、その時と同じように美味しい料理を作ってください』と係りの方に、冗談を交えて話されていたようです。
 飲み物は、最初に青島ビール、そのあとは上海老酒の石牢門にしました。1939年の年代が入ったブラックラベルです。中国料理には紹興酒が良くあいますが、この石牢門のブラックラベルは、特に好きになった紹興酒です。
 さて、その鼈料理ですが、少し小振りではありますが、なんと一人1匹ずつ皿に乗って運ばれてきました。透明のビニルの手袋付きです。これを左手にはめて、手掴みです。大きな蟹を食べるときの要領です。S.P.先生から、甲羅の部分を折って、この中に入っている白くて細い髄を食べるように、髄の現物を見せて教えて貰いました。
 料理方法の詳しいとことは分かりませんが、蒸しに焼きが加わった手間が掛かる調理のようでした。タレの味も丁度良く、残すところは殆どありません。S.P.先生に教えて戴いた髄だけでなく、甲羅の周りのゼラチン状の部分も残さず平らげました。
 値段のことを書いてしまうと、ツアー旅行社の方にも申し訳ないですから、伏せておきます。黒ラベルの紹興酒だけでも100元(約1400円)近くしますのに、信じられないようなお値段でした。このお店では、全てS.P.先生に美味しいディナーをご馳走になってしまいました。改めてお礼を申し上げます。有難うございました。帰りに、Ogさんのカメラをお借りして、生簀の魚の写真を撮っておきました。

  宋慶齢故居
 鬱蒼と古木の囲う庭園にセピア写真の主人重ねる

  孫文故居
 暖き日の射す故居の藤の椅子孫文座せる温りのあり

  鼈料理の店
 手掴で食する鼈味深く会話途絶える暫の間

  • 朝早く、1日早く帰国されるHdさんとSdさんご夫妻達をお見送りしました。その後、一寝入りです。タクシーで出かけました。街の正月飾りです。

    朝早く、1日早く帰国されるHdさんとSdさんご夫妻達をお見送りしました。その後、一寝入りです。タクシーで出かけました。街の正月飾りです。

  • 日本では赤色のポストですが、上海では濃い緑色のポストでした。日本の1世代前のポストとイメージが似ています。

    日本では赤色のポストですが、上海では濃い緑色のポストでした。日本の1世代前のポストとイメージが似ています。

  • 1月29日の日曜日、元旦の朝です。宋慶齢夫人の旧居見学にやってきました。S.P.先生が電話番号を調べられて、開館していることを確認済でした。

    1月29日の日曜日、元旦の朝です。宋慶齢夫人の旧居見学にやってきました。S.P.先生が電話番号を調べられて、開館していることを確認済でした。

  • 史跡にも指定されている「上海宋慶齢故居」です。有名な三姉妹のお一人です。孫文夫人としても、名誉主席を贈られたことでも高名な方でした。

    史跡にも指定されている「上海宋慶齢故居」です。有名な三姉妹のお一人です。孫文夫人としても、名誉主席を贈られたことでも高名な方でした。

  • 入場して右手の宋慶齢の坐像です。文化大革命では、蒋介石の義姉のために攻撃されました。その後、死の2週間前、名誉主席が贈られました。

    入場して右手の宋慶齢の坐像です。文化大革命では、蒋介石の義姉のために攻撃されました。その後、死の2週間前、名誉主席が贈られました。

  • 邸内を散策されるOgさんと、Enちゃんです。ご自宅を出発する前に、S.P.先生が孫文役で主役を務められた写真等を拝見してきました。

    邸内を散策されるOgさんと、Enちゃんです。ご自宅を出発する前に、S.P.先生が孫文役で主役を務められた写真等を拝見してきました。

  • 宋慶齢は、中央政府の要職にあった時も、公務以外では故郷の上海で過ごすことが多かったと紹介されていました。邸内に生える楠の古木です。

    宋慶齢は、中央政府の要職にあった時も、公務以外では故郷の上海で過ごすことが多かったと紹介されていました。邸内に生える楠の古木です。

  • 海外からの要人をもてなしたとされる庭園です。Ogさんは持参された1眼レフタイプのデジカメで、カメラアングルを模索中です。

    海外からの要人をもてなしたとされる庭園です。Ogさんは持参された1眼レフタイプのデジカメで、カメラアングルを模索中です。

  • この写真は、そのデジカメで撮られたOgさんの写真です。私のデジカメに比べると広角になっていましたから、左側を少しカットして載せました。

    この写真は、そのデジカメで撮られたOgさんの写真です。私のデジカメに比べると広角になっていましたから、左側を少しカットして載せました。

  • 同じ場所ですが、こちらは私のコンパクトデジカメでの撮影です。少し時間を置くと、やっと1枚が撮れる状態になりました。

    同じ場所ですが、こちらは私のコンパクトデジカメでの撮影です。少し時間を置くと、やっと1枚が撮れる状態になりました。

  • 花園、ガーデンン説明看板です。広さが2200平方、樹齢百年の楠に樹のことなどが記されています。宋慶麗さんがこの庭を散歩し、海外の賓客をお茶でもてなされたことも記されています。

    花園、ガーデンン説明看板です。広さが2200平方、樹齢百年の楠に樹のことなどが記されています。宋慶麗さんがこの庭を散歩し、海外の賓客をお茶でもてなされたことも記されています。

  • 要人の邸宅としては、それほど広くない西洋風の庭です。かつては、この庭にテーブルを出して、アフタヌーンティを楽しまれたようです。

    要人の邸宅としては、それほど広くない西洋風の庭です。かつては、この庭にテーブルを出して、アフタヌーンティを楽しまれたようです。

  • 宋慶麗の故居訪問は、宋慶麗さんの坐像のアップで締め括ります。花で囲まれていました。

    宋慶麗の故居訪問は、宋慶麗さんの坐像のアップで締め括ります。花で囲まれていました。

  • この辺りには、歴史的な建造物が残されているようです。それだけに、文化大革命の時には、大きな被害があったようです。落書もあったようです。

    この辺りには、歴史的な建造物が残されているようです。それだけに、文化大革命の時には、大きな被害があったようです。落書もあったようです。

  • オールド上海を象徴するようなクラシックなビルです。被写体として面白いので、何枚か撮影しました。

    オールド上海を象徴するようなクラシックなビルです。被写体として面白いので、何枚か撮影しました。

  • 三叉路の角に立っていた、オールド上海を髣髴させる茶色の建物です。おそらく、第二次大戦前に建築されたものでしょう。次の見学地は孫文の故居です。

    三叉路の角に立っていた、オールド上海を髣髴させる茶色の建物です。おそらく、第二次大戦前に建築されたものでしょう。次の見学地は孫文の故居です。

  • 私のデジカメが電池切れになってきましたから、この当たりからの写真は、Ogさんから提供して戴きました。オールド上海を思わせる建物のアップです。

    私のデジカメが電池切れになってきましたから、この当たりからの写真は、Ogさんから提供して戴きました。オールド上海を思わせる建物のアップです。

  • プラタナスの並木道です。暖かい上海でも、旧正月ともなれば、落葉が終って、幹の白さが目立ちます。元日の午前中ですから、車を余り見ません。

    プラタナスの並木道です。暖かい上海でも、旧正月ともなれば、落葉が終って、幹の白さが目立ちます。元日の午前中ですから、車を余り見ません。

  • 大雑把な位置は調べてありましたから、宋慶麗の故居から、見当を付けて孫文故居まで歩きました。

    大雑把な位置は調べてありましたから、宋慶麗の故居から、見当を付けて孫文故居まで歩きました。

  • プラタナスの並木道を暫く歩いて、孫文の故居を目指しました。こちらも、元旦に開館していることが確認してありました。

    プラタナスの並木道を暫く歩いて、孫文の故居を目指しました。こちらも、元旦に開館していることが確認してありました。

  • 孫文の故居に到着しました。白壁にオレンジ屋根の瀟洒な感じの外観です。その玄関横に、かつてのこの家の主人、孫文の坐像がありました。

    孫文の故居に到着しました。白壁にオレンジ屋根の瀟洒な感じの外観です。その玄関横に、かつてのこの家の主人、孫文の坐像がありました。

  • 同じ孫文の故居ですが、今度は縦長での撮影です。他にも故居を見学の人達がいました。

    同じ孫文の故居ですが、今度は縦長での撮影です。他にも故居を見学の人達がいました。

  • 「孫中山」の名前が刻まれた銅像のアップです。「中山」の号は、日本亡命中、明治天皇の母の生家の「中山家(華族)」に因む命名とされます。

    「孫中山」の名前が刻まれた銅像のアップです。「中山」の号は、日本亡命中、明治天皇の母の生家の「中山家(華族)」に因む命名とされます。

  • 宋慶齢の故居と同じように、芝生だけのシンプルな庭園です。隅に、僅かに庭石が配されているだけです。それでも歴史の重たさは十分です。

    宋慶齢の故居と同じように、芝生だけのシンプルな庭園です。隅に、僅かに庭石が配されているだけです。それでも歴史の重たさは十分です。

  • 芝生の庭の隅に配置されていた石のアップです。控えめで、潅木の間に、小さな石が配置されているだけでした。

    芝生の庭の隅に配置されていた石のアップです。控えめで、潅木の間に、小さな石が配置されているだけでした。

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2006新年、中国旅行記8

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