カッパドキア旅行記(ブログ) 一覧に戻る
<2007年4月2日><br /><br /> 早くも今回の旅行の半ばに差し掛かりました。昨日お聞きしていた今朝のスケジュールです。6時半モーニングコール、7時から朝食、7時半に荷物出し、8時出発でした。この時間が標準になりました。空は晴れて、上々の天候となりました。<br />今日の予定は、午前中にカッパドキアまで移動し、世界遺産に指定された奇観の見学です。「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として複合世界遺産に指定されています。<br /><br /><早朝の散歩><br /> 今朝も6時前に起きて、6時半から早朝の散歩に出掛けました。昨晩経験済みですから、ホテルを出て左手に出て、緩い坂を登りました。昨晩通ったバスターミナル付近では、何人かの人がバスを待っていて、タクシーも走り始めていました。<br /> 夜景で撮った銀行の前を通り過ぎ、アタチュルクの像がある交差点に出ました。逆光気味でシルエットになりましたが、この像も改めて撮影しておきました。<br /> ここからは左に折れて、緩い坂道を更に登りました。左手にはデパートのような建物があり、地下一階へ下りるエスカレータが見えました。その横の敷地には、掘削途中で中止したような遺跡址らしいものがありました。紀元前からの歴史を持つ古都ですから、少し掘れば、遺跡が見付かるのかも知れません。朝食が始まる7時にはホテルへ戻りました。<br /><br /><アタチュルク廟><br /> 「トルコ建国の父」として敬愛されているケマル・アタチュルクについて先に説明しておきます。全てのお札にその肖像が使われていますから、トルコ旅行では、最初にお世話になる顔の人です。<br /> 今でもトルコでは毎年11月10日9時5分になると、1分間の黙祷が行われます。ケマルが死去した宮殿の全ての時計は9時5分で止められているようです。第二次世界大戦が始まる前の1938年のことでした。<br /> 現在でも愛国心の義務付けが刑法に明記されていて、国旗などの他、「テュルクルク」への侮辱に対する罪を明文化しています。「テュルクルク」とは、トルコ的なるものです。刑罰は、禁固1年から6年とされます。<br /> 現地ガイドのスワウィさんは、最初に「トルコではアタチュルクの悪口を言うことは許されていません」と口にされていました。「一部問題はありますが、、。」と言って、それ以上は話されず、口を閉ざされました。<br /> その名前の由来です。日本の明治維新後、日本では「姓」を持たなかった階層が「姓」を持ちました。同じ改革を、トルコではケマルが行いました。本来、イスラム教徒に「姓」はないようです。アタチュルクは、議会からケマルが敬意を以って贈られた姓で、「トルコの父」という意味です。<br /> ケマルについて、「正しい独裁者」という呼び方があります。確かに彼は合法的な「独裁者」だったようです。暗殺未遂事件の首謀者の死刑命令書に署名した後のことです。国会の場で、「現在の時点においては私がトルコだ!」と演説を締め括ったとされます。しかし、多方面に亘る改革と、実行力が、「建国の父」として、今も敬愛されています。<br /> ケマルの改革のいくつかを紹介します。皮切りの大事業が、「スルタンにしてカリフ」である皇帝制度の廃止でした。1922年11月、「国民の敵」となっていたメフメット六世を退位させ、600年の歴史を持つオスマン王朝を滅亡させました。<br />次に、政教分離と教育です。彼は皇帝制度廃止に続いて、カリフ制度も廃止して、「宗教」と「政治」の分離を実現しました。その後、「国家企業主義」を採って軽工業から産業革命を起こしました。<br />彼は、ヨーロッパに留学生を派遣して人材を育成し、各国を手本に近代的法律を作成させ、全国民に初等教育を義務づけました。自らも地方を回って、教宣活動を行いました。スワウィさんは アラビア文字に替わって、アルファベットによる法律が作られました」と紹介していました。<br /> その他にも、メートル法、太陽暦の採用、そして「服装改革」などを行い、今日まで続いています。ところで、先ほど読んだ4月16日の新聞に、近く行われるトルコの大統領選の記事がありました。イスラム教政党が過半数を握る議会第一党になったことで、政教分離を巡る古くて新しい問題が、再燃しそうな気配があります。<br /> もし、イスラム教を国是とする国になった場合は、アタチュルクの評価も変わる可能性があります。アタチュルク廟の前では車を降りて、記念撮影をしました。この時は、トルコの大統領選の事も知りませんでした。<br /><br /><カッパドキアへの途中に立ち寄った塩湖><br /> カッパドキアへ向かう途中で立ち寄った見学地は、トゥズと呼ばれる塩湖だけです。死海が有名ですが、塩湖は世界各地にあります。<br /> トルコ東部のヴァン湖に次いで2番目に大きなこの湖は、琵琶湖の3倍ほどの大きさです。200?300年前までは海だったようです。冬は雨が溜まって水深2m程になるようです。<br />今は冬が終って間もない次期ですから、水量は減っていたものの、真っ白ではなく、赤茶けた感じの色でした。吹曝しでしたから、風を冷たく感じました。早々に戻ってきました。<br /><br /><カッパドキア到着、洞窟レストランでの昼食><br /> 塩湖の見学を終えたところで、カッパドキアへ向けてひた走りです。アンカラからの中間点は過ぎていました。昼頃にはカッパドキアの奇岩が見え始め、一寸した集落を過ぎてから、やや坂を登ったところで洞窟レストランに到着しました。<br /> カッパドキアの名物は、密封した焼物に入れて仕上げられた料理でした。その封を切って、料理を取り出すパフォーマンスが、目の前でありました。カッパドキアワインに良く合う料理に舌鼓を打ちました。<br /><br /><最初のカッパドキア見学><br /> 最初にカッパドキアについて説明しておきます。カッパドキアは、標高千メートルを超えるアナトリア高原中央部に、100キロ平方近くに亘って岩石地帯が広がる台地です。キノコや煙突のような形の奇岩が林立し、自然が造り出した芸術作品です。この不思議な風景は、長年の火山活動で柔らかい地層と硬い地層が重なり、侵食されて生み出されました。<br /> 洞窟での昼食の後最初に見学したのは、ウチヒサル城と呼ばれる山が見える場所でした。ウチヒサル村は、カッパドキア地方で最も高いところに位置します。村の中央に大きな凝灰岩の岩の要塞が聳えていて、岩をくり抜いた住居が、遠くからでも見ることができました。カッパドキアを象徴する景観の一つです。今も住居として使われているようです。<br /><br /><ギョメレ屋外博物館><br /> カッパドキアでは、4世紀頃から多くのキリスト教徒たちが共同生活を営んでいましたが、ギョメレはその中心となった地です。イスラム教徒の迫害を逃れた信者たちは9世紀頃から次々と洞窟教会や修道院などを造り始め、10世紀のビザンチン時代初期には400以上の教会があったといわれます。現在は、約30の教会が集まるギョメレの谷を博物館として保存・公開しています。見所の多い、洞窟教会でした。<br /> 7世紀頃のものから、教会の建設が盛んだった11世紀頃までのものが見学できます。大小の教会は、鮮やかなフレスコ画などで装飾され、それらの絵は「カッパドキア様式」ともいわれる芸術性の高いものです。<br /> バジル教会は、ギョメレ野外博物館の入口から歩いて最初の教会です。11世紀頃に建設されました。教会の祭壇を囲む四方の壁に残されているフレスコ画である、「キリストの肖像画」、「聖母マリアと幼少のキリスト」、「馬に乗った聖テオドーレ」、「馬に乗って大蛇と戦う聖ジョージと聖デメトリウス」の4点は、多少傷みが目立ちますが、顔の表情などはなんとか見てとることができます。<br /> バルバラ教会は、11世紀頃に建造されました。内部は十字型に広がり、2本の円柱、アーチ型の天井、ドームなどで構成され、石壁一面に、神話の動物などの模様が赤い塗料で描かれています。<br /> 十字架は、偶像が禁止されていた時代にキリストの象徴として描かれたもので、東側の壁には「キリストの肖像」、北側には「馬に乗って大蛇と戦う聖ジョージと聖テオドラ」、西側には「聖バーバラの肖像」の絵が残っています。<br /> ヘビの教会は、入口を入って左側の壁に、聖ジョージと聖テオドールの2人の聖人がヘビを退治しているフレスコ画が描かれているのが名前の由来です。そのすぐ側には、十字架を手にしたコンスタンティヌス大帝とその母ヘレンの絵、入口右側には、もと美しい女性だったが神にお願いして男性に変えてもらったという伝説が残っている聖オノフィラスが描かれています。<br /> 暗闇の教会は、4本の柱に支えられた岩窟教会で、13世紀に造られました。小さな窓しかなく、内部に光があまり差さないため、フレスコ画の保存状態が良い教会です。また、この内部の薄暗さが、教会の名の由来と言われています。本堂の前にある控えの間には「キリストの昇天」と「使徒たちの祝福」のフレスコ画、丸天井にはキリストの一生を表す絵が残っています。<br /><br /><隊商の宿、キャラバンサライ><br /> カッパドキアの奇岩の見学の合間に、シルクロード時代の隊商の宿、キャラバンサライを見学しました。<br />セルジュク朝時代の商業で、最も重要な3要素は交通路、キャラバンサライ、宿(ハン)とされます。セルジュク朝は、9世紀から10世紀末に栄えたサーマン朝に仕えた、トルコ傭兵隊長セルジュクの子孫が東部イランのホラサン地方で独立したのがセルジュク朝です。11世紀の半ば頃から12世紀の中頃まで、1世紀余りを支配した王朝です。<br /> その頃、長旅の際にはキャラバンサライには、疲れを癒すため宿泊することができました。動物達も十分に休んで、また旅を続けました。セルジュク王朝の時代のキャラバンサライの起源は、「リバット」と呼ばれる建物でした。<br /> 以前は軍事目的で建てられた小さなこの建物は、その後に拡張され、もっと大規模に建設が始まりました。そして、信仰目的と旅人の宿泊所として使われるようになりました。<br /> 特にセルジュク朝のスルタンのクルチアスラン二世とアラディン・ケイクバト1世の時代にキャラバンサライ建設が増やされ、路線の信頼性は政府により保障されました。旅で被害に遭うアッシリア人の損害は、時の政府によって保障されました。すなわち旅における保険システムです。このシステムが機能し、国内と海外貿易が発展していきました。<br /> このようにして経済面から強カなセルジュク人は政治面においても強くなりました。キャラバンサライは定着外国人との区別をつけず、全ての人に3日問の食料を与えました。靴の修理、貧しい人々への新しい靴の提供もあり、病人は治療され、動物の世話もされ、必要に応じて蹄鉄も打ち付けられました。<br /> 信仰礼拝は通常中庭の中央で見られる「キヨスクメスジド」((離れの礼拝所)と呼ばれる所で行なわれました。一般的に中庭中央に位置するキヨスクメスジドは、キャラバンサライの最も重要な場所でした。<br /> アーチ形の台上にある中庭の辺りの部屋は宿、倉庫、ハマム(トルコ風呂)、トイレから構成されています。この部屋の暖は火鉢、もしくは、かまど等で、明かりはろうそくと灯油ランプ等で確保されていました。そして医者、僧、宿の主人、保存食料役人、獣医、馬の伝達屋、蹄鉄エ、コックから構成されるキャラバンサライの主達が任務に当たっていました。<br />見学したキャラバンサライは、壁や敷石なども新しいものでした。この地方で採れる石材を、切り出して使っていました。古い石材も所々に混じっていましたから、元々あった場所に再建されたか、大掛かりな修復を加えたもののようでした。<br />キャラバンサライは、1日分の旅の距離に当たる30?40km間隔で建設されていました。隊商のルートは、アン夕ルヤ?コンヤ?アクサライ?カイセリ、エルズルム?デブリズを通り、トゥルクメ二ス夕ンへ、更に黒海沿岸からアマスヤートカット?シヴァス?マラティア?ディアルバクルからイラクまで延びていました。<br /><br /><再びカッパドキア><br /> カッパドキアは、アナトリア高原中部に100キロ平方近くに亘って広がる台地ですから、見所は各所にあります。次の見学地ですが、ガイドさんの説明を聞き漏らしましたので、良く分かりません。旅行計画書と照らし合わせて、バラの岩当たりと推測しました。<br /> そう言えば、夕陽で染まる話をガイドさんがされていたような気がします。しかし、確かではありません。消去法でいけば、これ以外では鳩の谷が残るだけです。その鳩の谷は、岩に穿った住居の出入口が多数見えるはずですから、こちらでもないようです。<br /> 名前はともかく、この場所には、見下ろす谷には果樹の花が沢山咲いていました。山が侵食されて、堆積した粒子が土となっているようでした。見渡す限り、この光景が続いていました。<br /> この名所を見晴らす場所には、休憩所もありました。2005年の愛知万博の際も実演されていた、硬いアイスクリームがこのお店の自慢の品のようでした。長くてがっしりした金属のスプーンでアイスクリームの金属容器を叩いて、上手にリズムを執っていました。写真編をご覧下さい。<br /><br /><ホテルでの夕食><br /> カッパドキアで宿泊したホテルでの夕食は、民族楽器を使った演奏付でした。料理の方は、バイキング方式で、品数が揃っていました。飲み物に白ワインのグラスと、赤のハーフボトルを注文しましたから、最初は白ワインに会いそうな品を選びました。野菜類を主体に15種類ほどです。残さないよう、量を少なくしました。<br /> 次が赤ワインに合いそうな料理の番です。こちらも余り重たくならないよう、12、3種類を選びました。大き目の鶏肉や、ステーキ類もありましたが、それは遠慮しました。写真編に、これらの料理をアップしておきましたので、ご覧下さい。味付けも全く問題がありませんでした。濃い味が好きな方は、塩や胡椒等で自由に調整できました。<br /><br /><br />  アタチュルク廟で<br /> 岡の上赤き国旗は静まりてトルコの国父廟にいませり<br /><br />  塩湖で<br /> 人浮ぶ死海誕生今に見る内陸に在り塩の湖<br /><br />  ギョメレ屋外博物館で<br /> 岩山を自在に穿つ洞窟に鮮に残る聖像見たり<br /><br />  キャラバンサライで<br /> 隊商の駱駝も共に休みしし宿守りたる高き石塀<br /><br />*(ウィキペディア、るるぶワールドガイド・イスタンブール・トルコ)を参照しました。

2007春、トルコ旅行記1(5/15):4月2日:アンカラ、市内見学、カッパドキアへ

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2007/03/30 - 2007/04/05

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<2007年4月2日>

 早くも今回の旅行の半ばに差し掛かりました。昨日お聞きしていた今朝のスケジュールです。6時半モーニングコール、7時から朝食、7時半に荷物出し、8時出発でした。この時間が標準になりました。空は晴れて、上々の天候となりました。
今日の予定は、午前中にカッパドキアまで移動し、世界遺産に指定された奇観の見学です。「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として複合世界遺産に指定されています。

<早朝の散歩>
 今朝も6時前に起きて、6時半から早朝の散歩に出掛けました。昨晩経験済みですから、ホテルを出て左手に出て、緩い坂を登りました。昨晩通ったバスターミナル付近では、何人かの人がバスを待っていて、タクシーも走り始めていました。
 夜景で撮った銀行の前を通り過ぎ、アタチュルクの像がある交差点に出ました。逆光気味でシルエットになりましたが、この像も改めて撮影しておきました。
 ここからは左に折れて、緩い坂道を更に登りました。左手にはデパートのような建物があり、地下一階へ下りるエスカレータが見えました。その横の敷地には、掘削途中で中止したような遺跡址らしいものがありました。紀元前からの歴史を持つ古都ですから、少し掘れば、遺跡が見付かるのかも知れません。朝食が始まる7時にはホテルへ戻りました。

<アタチュルク廟>
 「トルコ建国の父」として敬愛されているケマル・アタチュルクについて先に説明しておきます。全てのお札にその肖像が使われていますから、トルコ旅行では、最初にお世話になる顔の人です。
 今でもトルコでは毎年11月10日9時5分になると、1分間の黙祷が行われます。ケマルが死去した宮殿の全ての時計は9時5分で止められているようです。第二次世界大戦が始まる前の1938年のことでした。
 現在でも愛国心の義務付けが刑法に明記されていて、国旗などの他、「テュルクルク」への侮辱に対する罪を明文化しています。「テュルクルク」とは、トルコ的なるものです。刑罰は、禁固1年から6年とされます。
 現地ガイドのスワウィさんは、最初に「トルコではアタチュルクの悪口を言うことは許されていません」と口にされていました。「一部問題はありますが、、。」と言って、それ以上は話されず、口を閉ざされました。
 その名前の由来です。日本の明治維新後、日本では「姓」を持たなかった階層が「姓」を持ちました。同じ改革を、トルコではケマルが行いました。本来、イスラム教徒に「姓」はないようです。アタチュルクは、議会からケマルが敬意を以って贈られた姓で、「トルコの父」という意味です。
 ケマルについて、「正しい独裁者」という呼び方があります。確かに彼は合法的な「独裁者」だったようです。暗殺未遂事件の首謀者の死刑命令書に署名した後のことです。国会の場で、「現在の時点においては私がトルコだ!」と演説を締め括ったとされます。しかし、多方面に亘る改革と、実行力が、「建国の父」として、今も敬愛されています。
 ケマルの改革のいくつかを紹介します。皮切りの大事業が、「スルタンにしてカリフ」である皇帝制度の廃止でした。1922年11月、「国民の敵」となっていたメフメット六世を退位させ、600年の歴史を持つオスマン王朝を滅亡させました。
次に、政教分離と教育です。彼は皇帝制度廃止に続いて、カリフ制度も廃止して、「宗教」と「政治」の分離を実現しました。その後、「国家企業主義」を採って軽工業から産業革命を起こしました。
彼は、ヨーロッパに留学生を派遣して人材を育成し、各国を手本に近代的法律を作成させ、全国民に初等教育を義務づけました。自らも地方を回って、教宣活動を行いました。スワウィさんは アラビア文字に替わって、アルファベットによる法律が作られました」と紹介していました。
 その他にも、メートル法、太陽暦の採用、そして「服装改革」などを行い、今日まで続いています。ところで、先ほど読んだ4月16日の新聞に、近く行われるトルコの大統領選の記事がありました。イスラム教政党が過半数を握る議会第一党になったことで、政教分離を巡る古くて新しい問題が、再燃しそうな気配があります。
 もし、イスラム教を国是とする国になった場合は、アタチュルクの評価も変わる可能性があります。アタチュルク廟の前では車を降りて、記念撮影をしました。この時は、トルコの大統領選の事も知りませんでした。

<カッパドキアへの途中に立ち寄った塩湖>
 カッパドキアへ向かう途中で立ち寄った見学地は、トゥズと呼ばれる塩湖だけです。死海が有名ですが、塩湖は世界各地にあります。
 トルコ東部のヴァン湖に次いで2番目に大きなこの湖は、琵琶湖の3倍ほどの大きさです。200?300年前までは海だったようです。冬は雨が溜まって水深2m程になるようです。
今は冬が終って間もない次期ですから、水量は減っていたものの、真っ白ではなく、赤茶けた感じの色でした。吹曝しでしたから、風を冷たく感じました。早々に戻ってきました。

<カッパドキア到着、洞窟レストランでの昼食>
 塩湖の見学を終えたところで、カッパドキアへ向けてひた走りです。アンカラからの中間点は過ぎていました。昼頃にはカッパドキアの奇岩が見え始め、一寸した集落を過ぎてから、やや坂を登ったところで洞窟レストランに到着しました。
 カッパドキアの名物は、密封した焼物に入れて仕上げられた料理でした。その封を切って、料理を取り出すパフォーマンスが、目の前でありました。カッパドキアワインに良く合う料理に舌鼓を打ちました。

<最初のカッパドキア見学>
 最初にカッパドキアについて説明しておきます。カッパドキアは、標高千メートルを超えるアナトリア高原中央部に、100キロ平方近くに亘って岩石地帯が広がる台地です。キノコや煙突のような形の奇岩が林立し、自然が造り出した芸術作品です。この不思議な風景は、長年の火山活動で柔らかい地層と硬い地層が重なり、侵食されて生み出されました。
 洞窟での昼食の後最初に見学したのは、ウチヒサル城と呼ばれる山が見える場所でした。ウチヒサル村は、カッパドキア地方で最も高いところに位置します。村の中央に大きな凝灰岩の岩の要塞が聳えていて、岩をくり抜いた住居が、遠くからでも見ることができました。カッパドキアを象徴する景観の一つです。今も住居として使われているようです。

<ギョメレ屋外博物館>
 カッパドキアでは、4世紀頃から多くのキリスト教徒たちが共同生活を営んでいましたが、ギョメレはその中心となった地です。イスラム教徒の迫害を逃れた信者たちは9世紀頃から次々と洞窟教会や修道院などを造り始め、10世紀のビザンチン時代初期には400以上の教会があったといわれます。現在は、約30の教会が集まるギョメレの谷を博物館として保存・公開しています。見所の多い、洞窟教会でした。
 7世紀頃のものから、教会の建設が盛んだった11世紀頃までのものが見学できます。大小の教会は、鮮やかなフレスコ画などで装飾され、それらの絵は「カッパドキア様式」ともいわれる芸術性の高いものです。
 バジル教会は、ギョメレ野外博物館の入口から歩いて最初の教会です。11世紀頃に建設されました。教会の祭壇を囲む四方の壁に残されているフレスコ画である、「キリストの肖像画」、「聖母マリアと幼少のキリスト」、「馬に乗った聖テオドーレ」、「馬に乗って大蛇と戦う聖ジョージと聖デメトリウス」の4点は、多少傷みが目立ちますが、顔の表情などはなんとか見てとることができます。
 バルバラ教会は、11世紀頃に建造されました。内部は十字型に広がり、2本の円柱、アーチ型の天井、ドームなどで構成され、石壁一面に、神話の動物などの模様が赤い塗料で描かれています。
 十字架は、偶像が禁止されていた時代にキリストの象徴として描かれたもので、東側の壁には「キリストの肖像」、北側には「馬に乗って大蛇と戦う聖ジョージと聖テオドラ」、西側には「聖バーバラの肖像」の絵が残っています。
 ヘビの教会は、入口を入って左側の壁に、聖ジョージと聖テオドールの2人の聖人がヘビを退治しているフレスコ画が描かれているのが名前の由来です。そのすぐ側には、十字架を手にしたコンスタンティヌス大帝とその母ヘレンの絵、入口右側には、もと美しい女性だったが神にお願いして男性に変えてもらったという伝説が残っている聖オノフィラスが描かれています。
 暗闇の教会は、4本の柱に支えられた岩窟教会で、13世紀に造られました。小さな窓しかなく、内部に光があまり差さないため、フレスコ画の保存状態が良い教会です。また、この内部の薄暗さが、教会の名の由来と言われています。本堂の前にある控えの間には「キリストの昇天」と「使徒たちの祝福」のフレスコ画、丸天井にはキリストの一生を表す絵が残っています。

<隊商の宿、キャラバンサライ>
 カッパドキアの奇岩の見学の合間に、シルクロード時代の隊商の宿、キャラバンサライを見学しました。
セルジュク朝時代の商業で、最も重要な3要素は交通路、キャラバンサライ、宿(ハン)とされます。セルジュク朝は、9世紀から10世紀末に栄えたサーマン朝に仕えた、トルコ傭兵隊長セルジュクの子孫が東部イランのホラサン地方で独立したのがセルジュク朝です。11世紀の半ば頃から12世紀の中頃まで、1世紀余りを支配した王朝です。
 その頃、長旅の際にはキャラバンサライには、疲れを癒すため宿泊することができました。動物達も十分に休んで、また旅を続けました。セルジュク王朝の時代のキャラバンサライの起源は、「リバット」と呼ばれる建物でした。
 以前は軍事目的で建てられた小さなこの建物は、その後に拡張され、もっと大規模に建設が始まりました。そして、信仰目的と旅人の宿泊所として使われるようになりました。
 特にセルジュク朝のスルタンのクルチアスラン二世とアラディン・ケイクバト1世の時代にキャラバンサライ建設が増やされ、路線の信頼性は政府により保障されました。旅で被害に遭うアッシリア人の損害は、時の政府によって保障されました。すなわち旅における保険システムです。このシステムが機能し、国内と海外貿易が発展していきました。
 このようにして経済面から強カなセルジュク人は政治面においても強くなりました。キャラバンサライは定着外国人との区別をつけず、全ての人に3日問の食料を与えました。靴の修理、貧しい人々への新しい靴の提供もあり、病人は治療され、動物の世話もされ、必要に応じて蹄鉄も打ち付けられました。
 信仰礼拝は通常中庭の中央で見られる「キヨスクメスジド」((離れの礼拝所)と呼ばれる所で行なわれました。一般的に中庭中央に位置するキヨスクメスジドは、キャラバンサライの最も重要な場所でした。
 アーチ形の台上にある中庭の辺りの部屋は宿、倉庫、ハマム(トルコ風呂)、トイレから構成されています。この部屋の暖は火鉢、もしくは、かまど等で、明かりはろうそくと灯油ランプ等で確保されていました。そして医者、僧、宿の主人、保存食料役人、獣医、馬の伝達屋、蹄鉄エ、コックから構成されるキャラバンサライの主達が任務に当たっていました。
見学したキャラバンサライは、壁や敷石なども新しいものでした。この地方で採れる石材を、切り出して使っていました。古い石材も所々に混じっていましたから、元々あった場所に再建されたか、大掛かりな修復を加えたもののようでした。
キャラバンサライは、1日分の旅の距離に当たる30?40km間隔で建設されていました。隊商のルートは、アン夕ルヤ?コンヤ?アクサライ?カイセリ、エルズルム?デブリズを通り、トゥルクメ二ス夕ンへ、更に黒海沿岸からアマスヤートカット?シヴァス?マラティア?ディアルバクルからイラクまで延びていました。

<再びカッパドキア>
 カッパドキアは、アナトリア高原中部に100キロ平方近くに亘って広がる台地ですから、見所は各所にあります。次の見学地ですが、ガイドさんの説明を聞き漏らしましたので、良く分かりません。旅行計画書と照らし合わせて、バラの岩当たりと推測しました。
 そう言えば、夕陽で染まる話をガイドさんがされていたような気がします。しかし、確かではありません。消去法でいけば、これ以外では鳩の谷が残るだけです。その鳩の谷は、岩に穿った住居の出入口が多数見えるはずですから、こちらでもないようです。
 名前はともかく、この場所には、見下ろす谷には果樹の花が沢山咲いていました。山が侵食されて、堆積した粒子が土となっているようでした。見渡す限り、この光景が続いていました。
 この名所を見晴らす場所には、休憩所もありました。2005年の愛知万博の際も実演されていた、硬いアイスクリームがこのお店の自慢の品のようでした。長くてがっしりした金属のスプーンでアイスクリームの金属容器を叩いて、上手にリズムを執っていました。写真編をご覧下さい。

<ホテルでの夕食>
 カッパドキアで宿泊したホテルでの夕食は、民族楽器を使った演奏付でした。料理の方は、バイキング方式で、品数が揃っていました。飲み物に白ワインのグラスと、赤のハーフボトルを注文しましたから、最初は白ワインに会いそうな品を選びました。野菜類を主体に15種類ほどです。残さないよう、量を少なくしました。
 次が赤ワインに合いそうな料理の番です。こちらも余り重たくならないよう、12、3種類を選びました。大き目の鶏肉や、ステーキ類もありましたが、それは遠慮しました。写真編に、これらの料理をアップしておきましたので、ご覧下さい。味付けも全く問題がありませんでした。濃い味が好きな方は、塩や胡椒等で自由に調整できました。


  アタチュルク廟で
 岡の上赤き国旗は静まりてトルコの国父廟にいませり

  塩湖で
 人浮ぶ死海誕生今に見る内陸に在り塩の湖

  ギョメレ屋外博物館で
 岩山を自在に穿つ洞窟に鮮に残る聖像見たり

  キャラバンサライで
 隊商の駱駝も共に休みしし宿守りたる高き石塀

*(ウィキペディア、るるぶワールドガイド・イスタンブール・トルコ)を参照しました。

同行者
一人旅
交通手段
観光バス
  • 左手に広がっている広場は、バスの駐車場でした。タクシーもこちらに入ってきましたので、注意しながら前に進みました。

    左手に広がっている広場は、バスの駐車場でした。タクシーもこちらに入ってきましたので、注意しながら前に進みました。

  • 歩いている内に、大分明るくなってきました。しかし、7時前ですから、通りを歩く人や、車もまだ疎らでした。ホテルからは、緩やかな上り坂でした。

    歩いている内に、大分明るくなってきました。しかし、7時前ですから、通りを歩く人や、車もまだ疎らでした。ホテルからは、緩やかな上り坂でした。

  • 昨晩はピンボケ写真でしたが、今朝はシルエットだけのアタチュルク像になりました。第1次大戦と、その後の建国に活躍された方です。

    昨晩はピンボケ写真でしたが、今朝はシルエットだけのアタチュルク像になりました。第1次大戦と、その後の建国に活躍された方です。

  • 朝の散策では、一番大きいビルでした。すっきりとした外観は、オフィスビルのような感じがしました。しかし、実際はデパートだったようです。

    朝の散策では、一番大きいビルでした。すっきりとした外観は、オフィスビルのような感じがしました。しかし、実際はデパートだったようです。

  • デパートらしいビルの1階部分です。地下に続くエスカレーターがありました。その手前には展示用の新車がありました。

    デパートらしいビルの1階部分です。地下に続くエスカレーターがありました。その手前には展示用の新車がありました。

  • 勝手な推測ですが、新しいビル建設のために掘削したら、古い遺跡が出てきて、そのまま保存されている現場のように見えました。

    勝手な推測ですが、新しいビル建設のために掘削したら、古い遺跡が出てきて、そのまま保存されている現場のように見えました。

  • アンカラ市内で揃って見学したのは、このアタチュルク廟だけです。朝の混み合う時間でしたが、車を停めて貰って、下車しての見学でした。

    アンカラ市内で揃って見学したのは、このアタチュルク廟だけです。朝の混み合う時間でしたが、車を停めて貰って、下車しての見学でした。

  • アタチュルク廟をバックに皆さんの記念撮影です。左のお二人は、元気一杯で明るいKiさんとYaさんです。お世話様になりました。

    アタチュルク廟をバックに皆さんの記念撮影です。左のお二人は、元気一杯で明るいKiさんとYaさんです。お世話様になりました。

  • アタチュルク廟前のバスストップです。左手からやって来るバスを待つ皆さん達です。首都アンカラは歴史の町ですが、今回は通過地となりました。

    アタチュルク廟前のバスストップです。左手からやって来るバスを待つ皆さん達です。首都アンカラは歴史の町ですが、今回は通過地となりました。

  • アンカラからカッパドキアへ向かう途中での、郊外の景色です。次第と緑が少なくなり、赤茶けた感じの大地へと景色が変わってきました。

    アンカラからカッパドキアへ向かう途中での、郊外の景色です。次第と緑が少なくなり、赤茶けた感じの大地へと景色が変わってきました。

  • アンカラからカッパドキアへ向かう途中で唯一立ち寄った観光地が塩湖でした。トゥズと呼ばれ、冬には琵琶湖の3倍ほどの大きさを持つ湖です。

    アンカラからカッパドキアへ向かう途中で唯一立ち寄った観光地が塩湖でした。トゥズと呼ばれ、冬には琵琶湖の3倍ほどの大きさを持つ湖です。

  • トゥズ湖は、200〜300年前までは海だったようです。夏季にはその面積が狭まり、塩が浮き出てきます。この日、風を少し冷たく感じました。

    トゥズ湖は、200〜300年前までは海だったようです。夏季にはその面積が狭まり、塩が浮き出てきます。この日、風を少し冷たく感じました。

  • 塩が浮き出てくる時期には早いようですが、間違いなく塩の結晶が見られました。もっと干上がった夏季には、真っ白な景色となりそうです。

    塩が浮き出てくる時期には早いようですが、間違いなく塩の結晶が見られました。もっと干上がった夏季には、真っ白な景色となりそうです。

  • 同行の皆さん方も、風が冷たい中を塩湖の見学です。結晶になった塩を、つま先で削ってみては、本物か確認されていました。

    同行の皆さん方も、風が冷たい中を塩湖の見学です。結晶になった塩を、つま先で削ってみては、本物か確認されていました。

  • 歩いて塩湖の沖まで歩いたところで、振り返っての一枚です。一面茶色ですが、所々に白い塩が顔を見せていました。夏には景色が一変しそうです。

    歩いて塩湖の沖まで歩いたところで、振り返っての一枚です。一面茶色ですが、所々に白い塩が顔を見せていました。夏には景色が一変しそうです。

  • 見学の後に立ち寄ったお土産店です。この塩湖の近くで採れる材料ではないでしょうが、色々なアクセサリー類が並んでいました。

    見学の後に立ち寄ったお土産店です。この塩湖の近くで採れる材料ではないでしょうが、色々なアクセサリー類が並んでいました。

  • カッパドキアへの到着です。バスの中からの写真です。この後、面白い景色が期待できそうな赤い山並みが、眼前に広がっていました。

    カッパドキアへの到着です。バスの中からの写真です。この後、面白い景色が期待できそうな赤い山並みが、眼前に広がっていました。

  • ガイドのスワウィさんが、昼食の洞窟レストランはもうすぐですよと教えてくれた、バスの中での撮影です。今まで目にした事がない風景でした。

    ガイドのスワウィさんが、昼食の洞窟レストランはもうすぐですよと教えてくれた、バスの中での撮影です。今まで目にした事がない風景でした。

  • 洞窟レストランへの到着です。ここからは、バスを降りての撮影です。少し大きな岩山には、例外なく、穴が開けられていました。

    洞窟レストランへの到着です。ここからは、バスを降りての撮影です。少し大きな岩山には、例外なく、穴が開けられていました。

  • 洞窟レストイランへ向かって少し上り坂になっていました。その坂の途中の岩山です。やはりこの山にも穴が穿たれていました。

    洞窟レストイランへ向かって少し上り坂になっていました。その坂の途中の岩山です。やはりこの山にも穴が穿たれていました。

  • スワウィさんが説明してくれた名物料理の登場です。封印された赤色の陶器の壷が、台の上に披露されました。これから、その開封です。

    スワウィさんが説明してくれた名物料理の登場です。封印された赤色の陶器の壷が、台の上に披露されました。これから、その開封です。

  • 開封された後、熱々の料理が四角い容器の上に注がれました。美味しさをこの壷の中に封じ込めておいた、と言った雰囲気です。

    開封された後、熱々の料理が四角い容器の上に注がれました。美味しさをこの壷の中に封じ込めておいた、と言った雰囲気です。

  • 食事中の写真は割愛しました。壷から出された熱々の特製料理は美味でした。ワインと一緒に戴きました。ここから食事の後の休憩時間です。

    食事中の写真は割愛しました。壷から出された熱々の特製料理は美味でした。ワインと一緒に戴きました。ここから食事の後の休憩時間です。

  • 洞窟レストランは、高台の中にありましたから見晴らしが利きました。眼前には、幾重にも重なった山並みが続いていました。

    洞窟レストランは、高台の中にありましたから見晴らしが利きました。眼前には、幾重にも重なった山並みが続いていました。

  • 洞窟レストランの上に展望台がありました。その上からの眺望です。この時、杏か桜かは判断が付きませんでしたが、春爛漫の花盛りでした。

    洞窟レストランの上に展望台がありました。その上からの眺望です。この時、杏か桜かは判断が付きませんでしたが、春爛漫の花盛りでした。

  • 寄り添うような二つの岩山です。頂上付近と、低い場所に穴が穿かれていました。今は使われていないようでしたが、実用に使われていたようです。

    寄り添うような二つの岩山です。頂上付近と、低い場所に穴が穿かれていました。今は使われていないようでしたが、実用に使われていたようです。

  • 昼食の洞窟レストランにお別れを告げて、いよいよカッパドキア見学の始まりです。この名勝地の名前は分かりませんでした。

    昼食の洞窟レストランにお別れを告げて、いよいよカッパドキア見学の始まりです。この名勝地の名前は分かりませんでした。

  • 中央の近景は、いくつもの壷を枝に飾った樹です。あちらこちらで見掛けました。その壷は、この地の名産品です。侵食で出来た谷のようです。

    中央の近景は、いくつもの壷を枝に飾った樹です。あちらこちらで見掛けました。その壷は、この地の名産品です。侵食で出来た谷のようです。

  • 所々に雪が積もっていました。千m程の海抜を持つ内陸部のカッパドキアでは、4月の雪は珍しくないようです。左手は、無数の住居が見える山です。

    所々に雪が積もっていました。千m程の海抜を持つ内陸部のカッパドキアでは、4月の雪は珍しくないようです。左手は、無数の住居が見える山です。

  • 観光用のラクダがいました。ラクダは砂漠地帯の乾燥にも強く、雪が降るこの地でも元気なようです。乗るための脚立が用意されていました。

    観光用のラクダがいました。ラクダは砂漠地帯の乾燥にも強く、雪が降るこの地でも元気なようです。乗るための脚立が用意されていました。

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2007春、トルコ旅行記1

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