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鳥羽離宮跡公園

公園・植物園

伏見

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鳥羽離宮跡公園 https://4travel.jp/dm_shisetsu/11329365

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施設情報

施設名
鳥羽離宮跡公園
住所
  • 京都府京都市伏見区中島御所ノ内町
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 公園・植物園
  1. 観光・遊ぶ
  2. 名所・史跡
登録者
鳥阿絵図 さん

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

クチコミ(12件)

伏見 観光 満足度ランキング 68位
3.31
アクセス:
3.00
駐車場がなく、最寄駅からも距離があります。 by アップ59さん
人混みの少なさ:
3.50
バリアフリー:
2.63
見ごたえ:
3.25
  • 鳥羽離宮跡公園

    • 3.0
    • 旅行時期:2022/07(約2年前)
    • 0

    京都市の南側にあり、一見すると子供たちが遊ぶ普通の公園です。広い公園の一角に鳥羽伏見の戦いに関する石碑なども建っていますが...  続きを読む、周囲の草が多かったり、あまり手入れされていない様子だったためあまり目立ちませんでした。  閉じる

    投稿日:2022/08/22

  • 鳥羽離宮跡公園は、城南宮近くの国道1号線から少し入った場所にあります。公園には鳥羽離宮南殿跡の説明板がありました。鳥羽離宮...  続きを読むは平安時代後期に白河上皇の院政開始の象徴として造営された建物です。白河・鳥羽・後白河、三代にわたって院政の拠点として栄えました。また城南宮も鳥羽離宮の鎮守として大いに栄えました。跡地が現在、グラウンドとして整備されていて広大な公園になっていました。公園内には鳥羽伏見の戦いの碑なども残っていました。  閉じる

    投稿日:2023/04/05

  • 院政の舞台となった鳥羽離宮

    • 4.0
    • 旅行時期:2022/03(約2年前)
    • 0

    院政の舞台となった鳥羽離宮のあった場所は、現在、グラウンドが整備された広大な公園になっています。城南宮からも歩いて行けるの...  続きを読むで、城南宮観光と合わせて訪れる人が多いと思いますが、公園内には鳥羽伏見の戦いの碑などが残っています。  閉じる

    投稿日:2022/03/08

  • 院政の舞台

    • 3.0
    • 旅行時期:2021/01(約3年前)
    • 0

     現代は全くその面影はないが、院政時代は御所に比べられるほどの巨大な建造物があったという。鳥羽は桂川と鴨川が合流する水運上...  続きを読むの要衝だったほか、狩りをする好適地としても知られ、貴族の別荘地として栄えた。そこに政治の実権である院政が行われたのだから、このエリアは相当な磁力を持ったことだろう。隣接する城南宮も離宮の一部にしか過ぎないというから広大さがうかがい知れる。院政終了後は廃れてしまい、南北朝の動乱で焼失。その後は歴史の表舞台に登場することはなく、幕末に鳥羽伏見の戦いがあったぐらいだ。現在は発掘調査が行われ、城南宮の西側エリアが都市公園として市民に公開されている。  閉じる

    投稿日:2021/02/08

  • 「院政」の中心地

    • 3.0
    • 旅行時期:2019/12(約4年前)
    • 0

    京都市営バス「城南宮」で下車し、徒歩で3分くらいです。城南宮を参拝し、おせきもちを食べバスの時間まで散策して見つけました。...  続きを読む広い公園で説明板に離宮跡とのこと。院政の中心地であったことを知りました。また園内の築山の付近には「鳥羽伏見の戦い」の碑が立っていました。  閉じる

    投稿日:2019/12/18

  • 歴史上重要な場所

    • 4.0
    • 旅行時期:2019/10(約5年前)
    • 0

    城南宮周辺は、平安時代後期、白河上皇によって鳥羽離宮が築かれた地。
    白河・鳥羽・後白河上皇が三代にわたって院政を行ったと...  続きを読むころです。
    跡地の一部は史跡公園として広場が整備されています。
    公園の一角にある「秋の山」は、鳥羽離宮の築山の跡と伝えられます。
    また、このあたりは鳥羽・伏見の戦いが始まった場所でもあります。
    城南宮からは道路を隔てて徒歩5分位で行けます、お参りのついでに訪れてみて下さい。
       閉じる

    投稿日:2020/02/14

  • 白河上皇が建てた離宮跡

    • 3.0
    • 旅行時期:2019/03(約5年前)
    • 2

    平安時代後期に白河上皇が建てた離宮が鳥羽離宮。
    今のこのあたりの姿からは想像もできませんが、鳥羽、つまろ鳥の羽という字が...  続きを読む当てられた通り、水鳥が遊ぶ水辺であったのだろうと想像はしていましたが復元イラストをみてちょっとびっくり。
    当時の優雅さが偲ばれます。  閉じる

    投稿日:2019/04/28

  • 秋の山

    • 2.5
    • 旅行時期:2016/03(約8年前)
    • 0

    名前の通り鳥羽離宮の跡です。一見わかりにくい、バスから降りても、離宮公園とはわからず、それが原因で道に迷ってしまいました。...  続きを読む「城南宮道」バス停からすぐの階段を下りて、右手です。秋の山の上に鳥羽伏見の戦い跡石碑が建ってます。旧幕府軍と薩摩軍の戦いでした。  閉じる

    投稿日:2016/03/23

  • 白河法皇や鳥羽上皇が院政を行った場所

    • 4.0
    • 旅行時期:2015/01(約9年前)
    • 0

    鳥羽離宮跡公園は、城南宮から歩いてすぐ。もう日が暮れていましたが、中に入ることができました。なかなかに広い公園です。ここは...  続きを読む鳥羽伏見の戦いの戦場ともなったようですが、元々の鳥羽離宮というのは、白河法皇や鳥羽上皇が院政を行った場所。白河法皇は、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという人物で、思いのままに政治を行います。平清盛は、その白河法皇のご落胤と噂されていたようですが、平家物語では白河法皇を中心とする系譜が複雑に絡み合い、争いの火種となって行きます。  閉じる

    投稿日:2015/02/10

  • 石碑が残っています

    • 2.0
    • 旅行時期:2013/10(約11年前)
    • 0

    鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇と鳥羽上皇がたてた大規模な離宮で、後白河上皇もこの地で院政を行っていた舞台です。また、鳥...  続きを読む羽伏見の戦いもこの地であり、園内には戦闘図などもありました。離宮の跡といっても現在は石碑が残る程度で、園内は整備され、池や遊具などがある公園となっていました。  閉じる

    投稿日:2013/10/06

  • 離宮跡

    • 3.5
    • 旅行時期:2013/07(約11年前)
    • 0

    京都南インターチェンジ付近に、かつては広がっていたという鳥羽離宮。
    その鳥羽離宮の西の一角に位置した場所にあるのが、鳥羽...  続きを読む離宮跡公園だ。
    残念ながら平安の世に栄えたそれらの建造物などは残されていないが、発掘された跡が公園となっている。  閉じる

    投稿日:2013/09/02

  • 鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所で鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(...  続きを読むじょうなんりきゅう)とも呼ばれ、京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近にあり南殿・泉殿・北殿・馬場殿・東殿・田中殿などからなっていた。
    鳥羽は、平安京の南約3kmにあり、鴨川と桂川の合流地点で山陽道も通る交通の要衝だった。平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能を持ち、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名だった。このため鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び市が立ち都市として発達していた。
    11世紀、院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上し白河上皇は南殿、東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重の塔を中心とした安楽寿院を造営した。12世紀の鳥羽上皇の代にも泉殿など増設され院政期には鳥羽は経済、物流の拠点としてだけではなく、政治の中心地でもあった。
    伏見区中島御所ノ内町にある鳥羽離宮公園(鳥羽離宮跡)は鳥羽離宮の西端に当る南殿があった場所と考えられている。南殿は最も早く造営された御所で、西南から東にかけて寝殿・小寝殿その他の建物が池を前にして配置されていた。1963−1965年にかけて発掘調査が行われ、後に南殿跡(現鳥羽離宮跡公園他)は国の史跡に指定されているが豪華な離宮のおもかげはほとんど残っていない。
    鳥羽離宮公園の付近一帯は幕末の鳥羽伏見の戦いの古戦場跡となった場所でもある。慶応三年(1867)十月、将軍徳川慶喜の大政奉還後も、薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らはあくまで武力による倒幕を計り、十二月の王政復古の大号令を発令、幕府の事実上の廃絶が決定されその後も薩摩藩の挑発行動が続いたことから、大阪城にいた徳川慶喜はついに幕府の強硬派の意見に従って薩摩を討つため上洛を決意し幕府軍は鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。
    明治元年(1868)正月三日の夕方、鳥羽街道を北上した幕府軍1万5千と、これを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍6千は、現在の離宮公園から西北、小枝橋付近で激突これが鳥羽伏見の戦いの発端となった戦闘だった。秋の山には薩摩軍の大砲が配置されていて、最初の砲撃が行われた。
    現在、離宮公園には、秋の山の頂上付近に明治四十五年(1912)に建てられた「鳥羽伏見戦跡碑」があり、また平成十年(1998)に建てられた「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」の石碑や戦いの戦闘図等が設けられている。

      閉じる

    投稿日:2013/02/18

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