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鳥羽離宮跡公園 施設情報・クチコミに戻る

上皇の御所で鳥羽伏見の戦いの古戦場跡にもなった鳥羽離宮跡公園

  • 4.0
  • 旅行時期:2011/09(約13年前)
さすらいおじさんさん

by さすらいおじさんさん(男性)

伏見 クチコミ:48件

鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所で鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれ、京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近にあり南殿・泉殿・北殿・馬場殿・東殿・田中殿などからなっていた。
鳥羽は、平安京の南約3kmにあり、鴨川と桂川の合流地点で山陽道も通る交通の要衝だった。平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能を持ち、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名だった。このため鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び市が立ち都市として発達していた。
11世紀、院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上し白河上皇は南殿、東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重の塔を中心とした安楽寿院を造営した。12世紀の鳥羽上皇の代にも泉殿など増設され院政期には鳥羽は経済、物流の拠点としてだけではなく、政治の中心地でもあった。
伏見区中島御所ノ内町にある鳥羽離宮公園(鳥羽離宮跡)は鳥羽離宮の西端に当る南殿があった場所と考えられている。南殿は最も早く造営された御所で、西南から東にかけて寝殿・小寝殿その他の建物が池を前にして配置されていた。1963−1965年にかけて発掘調査が行われ、後に南殿跡(現鳥羽離宮跡公園他)は国の史跡に指定されているが豪華な離宮のおもかげはほとんど残っていない。
鳥羽離宮公園の付近一帯は幕末の鳥羽伏見の戦いの古戦場跡となった場所でもある。慶応三年(1867)十月、将軍徳川慶喜の大政奉還後も、薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らはあくまで武力による倒幕を計り、十二月の王政復古の大号令を発令、幕府の事実上の廃絶が決定されその後も薩摩藩の挑発行動が続いたことから、大阪城にいた徳川慶喜はついに幕府の強硬派の意見に従って薩摩を討つため上洛を決意し幕府軍は鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。
明治元年(1868)正月三日の夕方、鳥羽街道を北上した幕府軍1万5千と、これを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍6千は、現在の離宮公園から西北、小枝橋付近で激突これが鳥羽伏見の戦いの発端となった戦闘だった。秋の山には薩摩軍の大砲が配置されていて、最初の砲撃が行われた。
現在、離宮公園には、秋の山の頂上付近に明治四十五年(1912)に建てられた「鳥羽伏見戦跡碑」があり、また平成十年(1998)に建てられた「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」の石碑や戦いの戦闘図等が設けられている。

施設の満足度

4.0

アクセス:
3.5
人混みの少なさ:
4.0
見ごたえ:
3.5

クチコミ投稿日:2013/02/18

いいね!:3

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