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寛永寺

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寛永寺 クチコミ・アクセス・周辺情報

上野・御徒町 観光 満足度ランキング 14位

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江戸城の鬼門鎮護の目的で寛永二年(1625)天海大僧正により創建されました。徳川歴代将軍の祈祷寺と菩提寺を兼ね、全盛期は上野公園のほとんどが寺域で、30余の堂塔伽藍と36の子院を誇っていました。現本堂は、明治12年(1879)天海僧正ゆかりの埼玉県川越喜多院から本地堂を移築したものです。本尊は薬師如来です。清水観音堂、輪王寺門跡、御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門等重要文化財に指定されています。山号は東叡山。

ピックアップ クチコミ

  • 満足度の高いクチコミ

    寛永寺は36の子院からなり、その総本堂が「根本中堂」でした。

    4.5

    「寛永寺」は天台宗の「別格大本山」のお寺で、正式名称は「東叡山寛永寺」です。ちなみに、「東叡山」は「東の比叡山」の意味で、...  続きを読む平安時代に桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖「伝教大師最澄上人」が開いた「比叡山延暦寺」が、京都御所の鬼門に建立されたことにならったものです。また、「寛永寺」は創建時の元号を使っています。かつては元号を冠するには朝廷の許可が必要でした。延暦7年(788年)創建の「延暦寺」を皮切りに、京都の「仁和寺」や鎌倉の「建仁寺」と「建長寺」など、勅許を得た「元号寺」は数えるほどしか残っていません。それでは、ここで「寛永寺」の歴史と概要を紐解いてみると、寛永2年(1625年)に、江戸城の鬼門(東北)にあたる「上野の山」に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、「徳川家康」、「徳川秀忠」、「徳川家光」の3代にわたる将軍から深く信奉され、幕府の指南役として活躍した「慈眼大師天海大僧正」によって建立されました。その総本堂にあたる「根本中堂」は、元禄11年 (1698年)に現在の上野公園内「大噴水」(竹の台噴水)に建立されました。その後、第4代将軍「川家綱」の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。以後は5代将軍「徳川綱吉」、8代将軍「徳川吉宗」、10代将軍「徳川家治」、11代将軍「徳川家斉」、13代将軍「徳川家定」の豪華な霊廟が、次々と造営されました。幕末、最後の15代将軍「徳川慶喜」は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、「寛永寺」で謹慎生活を送りました。江戸城の無血開城までの2カ月間を過ごした「葵の間」には、今でも愛用の品などが残されている。「徳川慶喜」は神道式の葬儀を望んだため、谷中霊園内の寛永寺墓地にある一橋家墓所の隣で永眠しています。そして、東叡山主を皇室(「輪王寺宮」)から迎えたことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。慶応4年年(1868)、「上野戦争」の際に焼失してしまいた。その後、明治12年 (1879年)に「川越喜多院」の本地堂を山内子院の「大慈院」(現在の「寛永寺」)の地に移築し、再建したのが現在の「根本中堂」になります。御本尊は、「伝教大師最澄上人」がみずから彫ったと言われる「薬師瑠璃光如来像」(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしています。また、「東叡山寛永寺」は、かつては、「清水観音堂」、「不忍池辯天堂」、「 五重塔」、「開山堂」、「大仏殿」など36もの子院などを有する大寺院でした。「寛永寺」の境内は「上野公園」の土地を中心に30万5000坪に及び幕府から与えられた寺領は小藩の大名に匹敵する1万5000石を誇りました。 「本堂」内も見学することができます。しかし、秘仏のため「薬師瑠璃光如来像」は拝観することはできませんでしたが、その代わり、堂内には御本尊さんの他に、「日光・月光菩薩像」や「十二神将像や四天王像」など迫力ある仏像が安置され見ごたえ十分でした。パワーをもらったうえに、無料なので得した気分でした。 本堂から出て上を眺めると「瓦」には「寛永寺」の文字が施され、「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。また、門にも「三つ葉葵」が装飾されていました。上野公園から少し歩きますが、途中にも歴史的建造物やモニュメントもありますので、必見の場所です。「根本中堂」の見どころ等の情報は下に箇条書きにしてありますので、合わせてご覧ください。 01_【「寛永寺」の一口メモ】 ⑴ 所在地 〒110-0007 東京都台東区上野公園14  ⑵ 問い合わせ 寛永寺 電話:03-3821-1259 ⑶ 開門時間 9:00〜17:00 ⑷ 本堂の拝観時間 10:00〜16:00 02_【「寛永寺」へのアクセス】 ⑴ 電車を利用した場合 ① JR「上野駅」公園口から徒歩13分1km ② 京成電鉄「京成上野駅」池の端出口から徒歩18分1.4km ③ 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」から徒歩18分1.4km ④ JR「鶯谷駅」北口から徒歩8分650m ⑵ 台東区循環バス「東西めぐりん」を利用した場合 ① [台東区役所] ⇒[永寿総合病院行]≪東西めぐりん≫「寛永寺バス停」下車から徒歩すぐ 03_【「寛永寺根本中堂」の見どころ】 ⑴ 「本堂」(根本中堂) 天台宗の寺院では、比叡山にならって「本堂」を「根本中堂」と呼ぶことがあります。「寛永寺」の「根本中堂」は、以前は上野公園の噴水広場にありましたが、幕末の上野戦争で焼失し、明治時代に現在の場所に再建されました。そして、国の登録有形文化財に指定されている「本堂」(根本中堂)には、国指定重要文化財の「薬師瑠璃光如来像」が安置されており、「寛永寺」の秘仏となっています。「本堂」(根本中堂)の「木鼻」には、「獏」と「獅子」そして「蟇股」には「鶴」が彫刻されていました。また、「瓦」には「寛永寺」の文字が刻まれていました。「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。それもそのはず、「寛永寺」は徳川家の菩提寺なので、徳川家の「家紋」を「寺紋」として使っているからです。 ⑵ 「鐘楼」 「鐘楼」は天和元年(1681年)に建立され、「高さ」が177.2cm、鐘の「口径」は91.8cmの「銅鐘」です。この「鐘楼」は歴史があり、徳川幕府4代将軍「徳川家綱」の1周忌に奉献されたものだそうです。この「鐘」は、もともと「徳川家霊廟」の「鐘楼」に吊るされていましたが、明治時代に「寛永寺根本中堂」に移設されました。そして、「「寛永寺」の除夜の鐘は、境内にある「鐘楼」と、旧境内である上野公園内に残る「時鐘堂」の両方で撞かれます。ちなみに、上野公園にある「上野大仏」の近くある「時鐘堂」は、大晦日以外もいまでも毎日3回時を告げている時の鐘です。 ⑶ 「了翁禅師堂」 「寛永寺根本中堂」の境内には「了翁禅師堂」という「お堂」があります。「了翁禅師」は、江戸時代前期の僧侶で秋田県出身です。貧しい農家に生まれ、11歳の若さで出家し、修行をしながらたくさんの書物を集めていたそうです。そして、諸国を巡るうちに霊薬の処方を夢に見たことから、不忍池付近の薬屋で「錦袋円(きんたいえん)」と命名した薬を売ります。その利益で「了翁禅師」は、難民救済や「不忍池」に経堂を建てて文庫を創設し、さらには「寛永寺」の境内に「勧学寮」と「文庫」を建立しました。何とこれが日本で最初に一般公開された「図書館」と言われています。 ⑷ 二つの大きな「鬼瓦」 「寛永寺根本中堂」の境内には、大きな「鬼瓦」が二つありました。どうやらこの「鬼瓦」は、もともと「寛永寺」の「旧本坊表門」と「根本中堂」の鬼瓦据えられていたものらしいです。特に、向かって右側にある「鬼瓦」は、現在「黒門」と通称される国の指定重要文化財である「寛永寺旧本坊表門」に据えられていたものです。「旧本坊表門」は、寛永元年(1624年)に「天海大僧正」により建てられたもので、歴代の「輪王寺宮」が住んだ場所の門として知られていました。昭和12年(1937年)に、現在の「東京国立博物館」の地から「両大師堂」の隣に移築されています。 ① 「旧本坊表門」の「鬼瓦」 ② 「根本中堂」の鬼瓦 ⑸ 「銅燈籠」 大きな「銅燈籠」が2基ありますが、残念ながら。記銘が見当たりません。元はどこにあったのか所在は不明です。 ⑹ 「石燈籠」 大きな「銅燈籠」ばかりでなく、「社務所」の前には大きな「石燈籠」が1基のみあります。この「石燈籠」は南部重直盛岡藩主が奉献したものです。「石燈籠」には、「奉献石燈籠両基 武州東叡山 大猷院殿尊前 慶安四年辛卯歳十二月廿日 従五位下南部山城守源重直」と刻まれていました。 ⑺ 「水盤」 「水盤」は元禄11年銘がきされています。コケが薄らと外側を覆い歴史を感じます。 ⑻ 「慈海僧正墓」(都旧跡) 「慈海僧正墓」は「寛永寺根本中堂」に向かって右側にあります。「了翁禅師堂」に比べると、「学頭」の割には小さく、質素なものです。「慈海僧正」は、「寛永寺一山」を統括する「東叡山凌雲院」の4代目の学頭でした。「慈海僧正」は、「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻などの著作があります。聖観世音菩薩像である墓石は、当初「凌雲院」境内墓地にありましたが、東京文化会館の建設のため「寛永寺」に移築されました。 ⑼「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟」 「慈海僧正墓」の隣には、「墓」と「尾形乾山」を讃える「顕彰碑の写し」があります。「尾形乾山」は江戸時代を代表する画家であった「尾形光琳」の弟で、絵師や陶芸家として活躍した人物です。入谷に開いた入谷窯の作品は「入谷乾山」として高く評価されています。光琳を敬慕する江戸時代後期の絵師の「酒井抱一」の手によって探り当てられ、この「乾山深省蹟」顕彰碑が建てられたといわれています。 ⑽ 「上野戦争碑記」 ひときわ大きく、誰の眼にもとまるのが「上野戦争碑記」です。幕末の明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した「彰義隊」と「明治政府軍」との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる「阿部弘蔵」が、「上野戦争」の経緯を記したものです。寛永寺はこの上野戦争で被災し、明治時代初期に敷地の大部分は上野公園となりました。 ⑾ 「虫塚」 「虫塚」は、伊勢長島藩主であった増山雪斎が写生に使った昆虫の慰霊のために建てた碑です。「増山雪斎」は、江戸の文人「大田南畝」や大坂の豪商「木村兼葭堂」など広く文人墨客と交流を持ち、写実的な画法で多くの花鳥画を描きました。中でも虫類写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」は、指定有形文化財として指定されています。その昆虫も碑を建ててもらえるとは幸せですよね。   閉じる

クチコミ・評判 8ページ目

141~160件(全323件中)

  • 寛永寺

    • 4.0
    • 旅行時期:2018/08(約7年前)
    • 0

    8月の休日、一人で上野公園及び上野駅周辺を散策しました。上野公園の中を隅から隅まで見て回りました。西郷隆盛の像を見てそのま...  続きを読むま進むと寛永寺があったので入りました。徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するために江戸城の鬼門である上野の台地に建立したそうです。  閉じる

    投稿日:2018/08/08

  • 重要文化財がたくさんあります。

    • 4.5
    • 旅行時期:2018/06(約8年前)
    • 0

    かつては上野公園の辺りまで境内だったそうですが、上野戦争で戦禍に巻き込まれて多くの史跡を損失してしまいました。ただ、今でも...  続きを読む現存している見どころはたくさんあります。根本中堂、書院、旧本坊表門、清水観音堂などで、その多くは重要文化財に指定されています。徳川家の霊廟は見られませんが、それでも喧騒と隔絶された空間には威厳が漂っています。  閉じる

    投稿日:2018/08/18

  • 光琳の弟の墓があった

    • 3.0
    • 旅行時期:2018/06(約8年前)
    • 0

    現在は移設された尾形光琳の弟は陶芸家でかって寛永寺に墓所があったといいます。墓を複数ある人・全国にある人かなり様々ですが、...  続きを読む別に二つ存在しても良いようにおもわれるのですが?いずれにせよ、墓が関西でなく江戸にあったと言うことが驚きでした。  閉じる

    投稿日:2018/06/10

  • 実践の高僧

    • 3.0
    • 旅行時期:2018/06(約8年前)
    • 0

    寛永寺本堂近くに幾つかの説明板がありなかでも小さなお堂のなかにありました。説明板によると江戸時代前半に活躍した実践派の高僧...  続きを読むとのこと、“薬屋を営み難民救済を行い尚かつ図書館をつくったとあります。” 激しい変動のあった寛永寺にあって何か印象に残る記念碑でした。  閉じる

    投稿日:2018/06/10

  • 幸運の門

    • 3.5
    • 旅行時期:2018/06(約8年前)
    • 0

    歴史書を見て書けば話が早いのですが、何となく消化不良をおこしそうでいけない。
    幕末動乱で焼け残った正門が博物館の正門とし...  続きを読むて再使用され、震災で博物館を失って現在の場所に移築。そして戦災にも生き延びています。難しいことを言わず『幸運の門』として世界的に売り出したらどうでしょう? 品格があります。  閉じる

    投稿日:2018/06/09

  • 大きい物です

    • 3.5
    • 旅行時期:2018/06(約8年前)
    • 0

    名古屋城の鯱も近くで見ると想像を遙かに超えた大きさがある物でした。この鬼瓦もそうでした。そしてそれを載せる建築物の規模が想...  続きを読む定できる物です。この記念物は寛永寺鐘突堂近くにあります。赤門はよく知られていますが、黒門はちょっと前まで巨匠落語家をさす名称でした。  閉じる

    投稿日:2018/06/06

  • 今も広大

    • 3.5
    • 旅行時期:2018/06(約8年前)
    • 0

    芸術大学の裏手にあります、地図では距離を感じますが歩くと近いのが上野でしょう。かっては不忍池までが寛永寺の所有地で官営寺?...  続きを読む 幕末の戦闘で燃えた映像はその後の空襲を予言するほどのものでした、かっての大寺院に比べるも無く普通の寺域ですがよく見ると不動産的にはまだまだ往時の力を持っているようです?  閉じる

    投稿日:2018/06/06

  • 両大師に移築された黒門

    • 4.0
    • 旅行時期:2018/05(約8年前)
    • 0

    現在東京国立博物館があるところに寛永寺の本坊がありましたが、上野戦争で焼失し、表門のみ戦火を免れました。その後焼け跡に帝国...  続きを読む博物館が建設され表門は正門として使用されました。更に関東大震災で博物館が倒壊し、現在の東博本館を改築する際に、表門は現在の両大師境内に移築されました。
    数々の災難を乗り越えてきた寛永寺旧本坊表門は、重厚で見るものを圧倒する存在感があって良かったです。  閉じる

    投稿日:2018/05/21

  • 寛永寺のかつての隆盛が伝わる門

    • 3.0
    • 旅行時期:2018/04(約8年前)
    • 0

    現寛永寺の葬儀会場である輪王殿の門のようになってしまいもったいなく感じますが、もともとは現在、東京国立博物館の敷地となって...  続きを読むいる寛永寺の本坊にありました。東博の前身である「文部省博物館」が開館する際に正門として使われた歴史もあります。黒漆塗りの大きな薬医門で、大変風格があります。その黒漆の上には、弁柄で朱に染まった肉厚の菊紋と菊飾が映えていました。寛永寺のかつての隆盛が伝わってくる門でした。また、寛永寺は上野戦争で主戦場となったため、門扉には小さな弾痕や砲弾の大きな貫通痕が残っています。南千住の圓通寺に残る上野の黒門ほど弾痕の数は多くはありませんが、この門前で戦闘が行われていたことを改めて実感できます。左右にある潜門は、普段正面から向かって左側だけ開いていますが、たまに右側も空いていることがあります。  閉じる

    投稿日:2020/03/08

  • 上野戦争をくぐり抜けた旧本坊表門

    • 4.0
    • 旅行時期:2018/04(約8年前)
    • 0

    寛永寺は徳川将軍家の菩提寺で上野公園の北側にありましたが、本来の本坊は現在の東京国立博物館の敷地にあったそうです。幕末に、...  続きを読む有名は彰義隊による上野戦争で寛永寺は焼失してしまい、本坊表門だけ奇跡的に残り、現在の輪王殿の前に残されています。とても歴史を感じさせる重厚感のある門でした。  閉じる

    投稿日:2018/05/27

  • 徳川家の菩提寺の一つ

    • 4.0
    • 旅行時期:2018/04(約8年前)
    • 0

    上野にある天台宗の別格大本山東叡山寛永寺を訪れました。寛永2年(1625)に天海大僧正によって徳川家の安泰と江戸庶民の平安...  続きを読むを祈る道場として創建された寺院です。寛永寺は、芝の増上寺と同様に徳川家の菩提寺にもなっており、6人の将軍が祀られています。意外と参詣者はおらず、増上寺とは違っていました。  閉じる

    投稿日:2018/05/27

  • 今は両大使の敷地にあります。

    • 3.5
    • 旅行時期:2018/04(約8年前)
    • 0

    この門は上野戦争で焼け残った門です。本坊は現在の国立東京博物館の敷地にあったのです。その国立東京博物館の表門として使われた...  続きを読む時代がありましたが博物館の改築に伴って現在の地に移転しました。通りからは門へは行かないのですが両大師の敷地からだと行けます。大きさや迫力はすごいです。  閉じる

    投稿日:2018/04/23

  • 清水寺のミニコピー 清水観音堂

    • 4.0
    • 旅行時期:2018/03(約8年前)
    • 0

    徳川ゆかりのお寺。
    ミニ清水の舞台のような清水観音堂は、寛永寺の観音堂として建立されました。

    3月下旬外から見ると...  続きを読む桜に囲まれ、また松の枝を丸くし月をかたどった「月の松」の存在感も際立っていました。丸くするのに3年半かかったそうです。  閉じる

    投稿日:2018/05/29

  • 上野のある天台宗の寺院です。

    • 4.0
    • 旅行時期:2018/03(約8年前)
    • 0

    この寛永寺は今は上野公園の一角にあります。かつては上野公園自体寛永寺の敷地です。その名残に上野東照宮や清水観音堂などが残っ...  続きを読むています。寛永寺は17世紀前半に江戸城の鬼門にあたる上野台地に徳川家の安泰と人々の平穏を祈願して建立されたのです。今の寛永寺もその境内に歴史的な遺産がいくつか見られます。建物だけでも歴史的な価値を感じます。また静かな環境が安らぎを感じます。  閉じる

    投稿日:2018/04/04

  • いろんな桜が楽しめる

    • 4.5
    • 旅行時期:2018/03(約8年前)
    • 3

    上野公園では桜が花盛り。
    勿論、公園内の寛永寺でも。
    でも寛永寺の桜は、種類が豊富で、時期をずらして楽しめるのがポイン...  続きを読むト。
    ソメイヨシノは今がピークだが、これからは枝垂れ桜のつぼみが膨らむ頃。

    暫くは季節の花である桜を楽しめそうだ。
      閉じる

    投稿日:2018/03/30

  • 江戸城無血開城の場

    • 4.5
    • 旅行時期:2018/03(約8年前)
    • 0

    鶯谷から陸橋を超えて上野の森に向かう途中で立ち寄りました。官軍(新政府軍)がここに陣取り、江戸城に圧力をかけた場として有名...  続きを読むですが、なるほど軍隊が集結するには十分の広さ、沿革を読むと昔はもっと広かったのだとか。入り口の紅白の枝垂れ梅が満開でいい匂いを振りまいていました。  閉じる

    投稿日:2018/03/09

  • 重厚感のある門

    • 3.5
    • 旅行時期:2017/12(約8年前)
    • 0

    上野駅北側の寛永寺境内で日本学士院近くにある。平日、数人が見ていた。お勧めの点は、江戸時代、寛永寺は大きな力を有し現在の上...  続きを読む野公園に多くの伽藍を有していたこと、慶応4年(1868)の上野戦争のためことごとく焼失し、表門のみが戦火を免れたこと、明治時代、表門は帝国博物館の表門として使われたが本館の改築に伴い表門は現在地に移建されたこと、門は切妻造り本瓦葺の潜門のつく薬医門で重厚感な雰囲気が漂い立派であること、門や説明板を見ながら江戸時代の寛永寺の様子を楽しく想像できること、駅から徒歩で行けることである。  閉じる

    投稿日:2018/02/28

  • 広い境内を有する天台宗のお寺

    • 3.5
    • 旅行時期:2017/12(約8年前)
    • 0

    鶯谷駅西側の道路沿いにある天台宗のお寺。歩道横に山門がありその先に大きな根本中堂が立っている。週末午後、かなりの参拝者がい...  続きを読むた。お勧めの点は、寛永2年(1625)に創建されて以来多くの人々から敬拝されていること、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺として隆盛したこと、参拝すれば願い事が叶うかもしれないこと、根本中堂は大きく立派な造作であること、境内は幕末上野戦争後、縮小されたらしいが今でも大変広く、徳川綱吉霊廟勅額門、了翁禅師塔碑、鐘楼等があること、木々も多く参拝後境内を歩いていると心癒されること、近くに五重塔もあり併せて訪問するのもいいかもしれないこと、駅から徒歩で行けることである。  閉じる

    投稿日:2018/02/20

  • 尾形光琳の弟

    • 3.0
    • 旅行時期:2017/12(約8年前)
    • 0

    鶯谷駅西側の寛永寺内にこちらの墓碑等がある。墓碑等は一般的な形状である。お勧めの点は、尾形乾山は琳派の創始者、画家・尾形光...  続きを読む琳の弟で寛文3年(1663)京都で生まれたこと、深省、逃禅、習静堂等の別号があること、画業や書・茶に通じ特に作陶は有名でその作品は「入谷乾山」と呼ばれたこと、寛保3年(1743)八十一歳で没し下谷坂本の善養寺に葬られたこと、その後彼の足跡が無くなることを惜しむ有志が、昭和7年この墓碑等を復元建立したこと、墓碑や説明板を見ながら尾形乾山が活躍した当時の様子を楽しく想像できること、墓碑を建立した有志達の尾形乾山に対する深い愛情を強く感じられることである。  閉じる

    投稿日:2018/02/19

  • 東叡山凌雲院の学頭の4代目

    • 3.0
    • 旅行時期:2017/12(約8年前)
    • 0

    鶯谷駅西側の寛永寺内にある。参拝客の数人がこちらの慈海僧正のお墓を見ていた。お勧めの点は、慈海僧正は目黒不動、比叡山西塔宝...  続きを読む園院、川越仙波の喜多院を経て寛永寺の門主・輪王寺宮の名代を勤める東叡山凌雲院の学頭の4代目となったこと、お墓は当初凌雲院境内墓地にあったがその後こちらに移築されたこと、お墓は像が美しく刻まれていること、境内には旧本坊表門や根本中堂の鬼瓦、了翁禅師塔碑などもあり併せて見るのもいいかもしれないこと、駅から徒歩で行けることである。  閉じる

    投稿日:2018/01/25

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基本情報(地図・住所・アクセス)

施設名
寛永寺
住所
  • 東京都台東区上野桜木1丁目14-11
電話番号
03-3821-4440
アクセス
鴬谷駅から徒歩で10分
その他
創建年代: 1624年~1644年
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 寺・神社・教会

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

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