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2025年GW前半、小椋佳さんの八ヶ岳音楽堂LIVEをメインとした、40年振りの長野善光寺~安曇野~松本城から諏訪大社~八ヶ岳音楽堂~甲府、河口湖、忍野八海という旅の3日目前半です。<br /><br />1日目は、長野駅・善光寺・長野県立美術館周辺を歩き、2日目は川中島古戦場、おやきファクトリーから安曇野に向かい、ワサビ園でワサビを食し、国営アルプスあずみの公園でチューリップの花畑を見て、穂高神社に参拝し、松本に到着しました。<br /><br />3日目は、松本城や開智学校から松本市内を散策し、諏訪大社参拝から八ヶ岳の麓のペンション宿泊の予定です。<br /><br />前半は、松本城、開智学校から松本市内散策です。<br /><br />今回は7部作となります。<br />*1日目 長野駅・善光寺参拝 編<br />https://4travel.jp/travelogue/11991784<br />*2日目 川中島古戦場から安曇野 編<br />https://4travel.jp/travelogue/11997844<br />*3日目後半 諏訪大社・八ヶ岳遊々舎 編<br />https://4travel.jp/travelogue/11999106<br />*4日目  平山郁夫美術館・三分一湧水・八ヶ岳音楽堂 編<br />https://4travel.jp/travelogue/11999111<br />*5日目前半 甲府市内散策から信玄餅工場見学 編<br />https://4travel.jp/travelogue/11999130<br />*5日目後半 大石公園・忍野八海 編<br />https://4travel.jp/travelogue/11999134

2025年GW前半の信州・八ヶ岳、甲府・河口湖 旅(3日目前半 松本城・開智学校から市内散策 編)

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2025/04/25 - 2025/04/29

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まつじゅん

まつじゅんさん

この旅行記スケジュールを元に

2025年GW前半、小椋佳さんの八ヶ岳音楽堂LIVEをメインとした、40年振りの長野善光寺~安曇野~松本城から諏訪大社~八ヶ岳音楽堂~甲府、河口湖、忍野八海という旅の3日目前半です。

1日目は、長野駅・善光寺・長野県立美術館周辺を歩き、2日目は川中島古戦場、おやきファクトリーから安曇野に向かい、ワサビ園でワサビを食し、国営アルプスあずみの公園でチューリップの花畑を見て、穂高神社に参拝し、松本に到着しました。

3日目は、松本城や開智学校から松本市内を散策し、諏訪大社参拝から八ヶ岳の麓のペンション宿泊の予定です。

前半は、松本城、開智学校から松本市内散策です。

今回は7部作となります。
*1日目 長野駅・善光寺参拝 編
https://4travel.jp/travelogue/11991784
*2日目 川中島古戦場から安曇野 編
https://4travel.jp/travelogue/11997844
*3日目後半 諏訪大社・八ヶ岳遊々舎 編
https://4travel.jp/travelogue/11999106
*4日目 平山郁夫美術館・三分一湧水・八ヶ岳音楽堂 編
https://4travel.jp/travelogue/11999111
*5日目前半 甲府市内散策から信玄餅工場見学 編
https://4travel.jp/travelogue/11999130
*5日目後半 大石公園・忍野八海 編
https://4travel.jp/travelogue/11999134

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.0
グルメ
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
自家用車 徒歩
  • ホテルをチェックアウトし、バス乗り場を探して少しウロウロしましたが、ホテル前のバスセンターから、松本城・市役所前で下車、太鼓門から松本城公園に入ります。<br /><br />松本城には3つの門があり、本丸庭園に入る「黒門」、「大手門」、そして東に位置する「太鼓門」です。<br />外堀にかかる「鵜首」を渡り、二の門(高麗門)を通ると桝形に出ます。<br /><br />太鼓門は、枡形の一の門で、天守築造後の1595頃に、石川康長によって建造され、1871年11月に旧物破壊の風潮で取り壊され、第2次世界大戦後、松本城国宝保存工事、黒門の復興等を経て1999年3月に、128年振りに復元されたそうです。

    ホテルをチェックアウトし、バス乗り場を探して少しウロウロしましたが、ホテル前のバスセンターから、松本城・市役所前で下車、太鼓門から松本城公園に入ります。

    松本城には3つの門があり、本丸庭園に入る「黒門」、「大手門」、そして東に位置する「太鼓門」です。
    外堀にかかる「鵜首」を渡り、二の門(高麗門)を通ると桝形に出ます。

    太鼓門は、枡形の一の門で、天守築造後の1595頃に、石川康長によって建造され、1871年11月に旧物破壊の風潮で取り壊され、第2次世界大戦後、松本城国宝保存工事、黒門の復興等を経て1999年3月に、128年振りに復元されたそうです。

    松本城公園 公園・植物園

  • 堀沿いに歩いて行く、高麗門の手前から堀越しの穂高連峰の山々をバックにした、松本城が綺麗でした。

    イチオシ

    地図を見る

    堀沿いに歩いて行く、高麗門の手前から堀越しの穂高連峰の山々をバックにした、松本城が綺麗でした。

    国宝松本城 名所・史跡

  • 黒門です。<br /><br />本丸への重要な入口で、門の屋根には歴代城主の家紋付きの軒瓦が見られます。<br />最初からあった物ではなく、戦後の天守閣解体修理の際、まだ使える瓦を再利用した空のようです。<br />また、当初の黒門の設計図が無かった為、名古屋城の渡り楼門を参考にしたと言われています。<br /><br />入口では、忍者姿のアルプちゃんと、向井千秋さんが宇宙に持って行った、館林のツツジから発芽し枝分かれさせた宇宙ツツジが迎えてくれました。

    黒門です。

    本丸への重要な入口で、門の屋根には歴代城主の家紋付きの軒瓦が見られます。
    最初からあった物ではなく、戦後の天守閣解体修理の際、まだ使える瓦を再利用した空のようです。
    また、当初の黒門の設計図が無かった為、名古屋城の渡り楼門を参考にしたと言われています。

    入口では、忍者姿のアルプちゃんと、向井千秋さんが宇宙に持って行った、館林のツツジから発芽し枝分かれさせた宇宙ツツジが迎えてくれました。

  • 本丸御殿跡からの松本城です。<br /><br />層塔型5重6階の天守を中心に、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式の天守である。<br /><br />大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓があり、左側の辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍 徳川家光が善光寺への参拝途中に、松本に立ち寄るという事で、松平直政が建てました。<br />赤い欄干を配し、風雅な雰囲気を持つ天守に付属する月見櫓は、家光の善光寺参拝は中止になりましたが唯一遺構として残っています。

    イチオシ

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    本丸御殿跡からの松本城です。

    層塔型5重6階の天守を中心に、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式の天守である。

    大天守は、初重に袴形の石落としを付け、窓は突上窓、破風は2重目南北面と3重目東西面に千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓があり、左側の辰巳附櫓・月見櫓は、第3代将軍 徳川家光が善光寺への参拝途中に、松本に立ち寄るという事で、松平直政が建てました。
    赤い欄干を配し、風雅な雰囲気を持つ天守に付属する月見櫓は、家光の善光寺参拝は中止になりましたが唯一遺構として残っています。

  • 松本城は、戦国時代の1504-1520年の永正年間に、信濃守護家小笠原氏が林城の支城の一つとして築造された深志城が始まりといわれています。<br />ただし、天守の建造年には「天正19年(1591年)」「文禄3年(1594年)」「慶長2年(1597年)」、「慶長20年(1615年)」等いくつもの説がありますが、建造時の姿のままで、現存する五重六階の天守としては日本最古とされています。<br /><br />ただ、1872年には天守が競売にかけられ、解体の危機となったり、天守が傾いたり等、何度も消滅の危機を迎えましたが、市民の力や戦後は進駐軍からも早急な解体調査が必要であるとの勧告もあり、数度の解体修理が実施され、現在もその歴史を伝えています。<br /><br />*2025年11月20日追記:<br />松本市は11月19日、これまで諸説あった国宝・松本城天守の創建時期が、科学調査によって安土桃山時代の末期にあたる1596~97年頃と判明したと発表しました。<br />柱等に使われた樹木の年輪パターンから伐採年を割り出す「年輪年代法」で導き出したとの事です。

    松本城は、戦国時代の1504-1520年の永正年間に、信濃守護家小笠原氏が林城の支城の一つとして築造された深志城が始まりといわれています。
    ただし、天守の建造年には「天正19年(1591年)」「文禄3年(1594年)」「慶長2年(1597年)」、「慶長20年(1615年)」等いくつもの説がありますが、建造時の姿のままで、現存する五重六階の天守としては日本最古とされています。

    ただ、1872年には天守が競売にかけられ、解体の危機となったり、天守が傾いたり等、何度も消滅の危機を迎えましたが、市民の力や戦後は進駐軍からも早急な解体調査が必要であるとの勧告もあり、数度の解体修理が実施され、現在もその歴史を伝えています。

    *2025年11月20日追記:
    松本市は11月19日、これまで諸説あった国宝・松本城天守の創建時期が、科学調査によって安土桃山時代の末期にあたる1596~97年頃と判明したと発表しました。
    柱等に使われた樹木の年輪パターンから伐採年を割り出す「年輪年代法」で導き出したとの事です。

  • 内部には戸田家の宝物や、火縄銃や兵装品の赤羽コレクション等の歴史資料が展示されています。<br /><br />天守閣への登城は、狭くて勾配がきつい階段利用となり、私達も「今回が限度だね」と話しながら上って行きました。<br /><br />登城の待ち時間が表示されているのが不思議でしたが、混雑して時間が掛かるのが分る気がしました。

    内部には戸田家の宝物や、火縄銃や兵装品の赤羽コレクション等の歴史資料が展示されています。

    天守閣への登城は、狭くて勾配がきつい階段利用となり、私達も「今回が限度だね」と話しながら上って行きました。

    登城の待ち時間が表示されているのが不思議でしたが、混雑して時間が掛かるのが分る気がしました。

  • かぶら懸魚と呼ばれる、懸魚の芯材や、元の鯱等、構造や鯱真木等、大修理で見つかった構造材が興味深かったです。

    かぶら懸魚と呼ばれる、懸魚の芯材や、元の鯱等、構造や鯱真木等、大修理で見つかった構造材が興味深かったです。

  • 「松本城天守」の名称で、大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓が、1952年33月29日、国宝に指定されています。

    「松本城天守」の名称で、大天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓が、1952年33月29日、国宝に指定されています。

  • 松本城を見学し、黒門から西回りで松本城公園を進みます。<br /><br />松本城や彦根城等、国宝に指定されているといる城には、「国宝」という枕詞が付くのですね。<br />*姫路城は世界遺産という枕詞が付いていました。<br /><br />

    松本城を見学し、黒門から西回りで松本城公園を進みます。

    松本城や彦根城等、国宝に指定されているといる城には、「国宝」という枕詞が付くのですね。
    *姫路城は世界遺産という枕詞が付いていました。

  • 松本城を出て、開智学校に向かう途中に、松本神社を発見。<br />お詣りしていきましょう。<br /><br />境内の脇にあった、松本城下町湧水群のひとつである、松本神社前井戸かありました。<br />暘谷水神様が祀られています。

    松本城を出て、開智学校に向かう途中に、松本神社を発見。
    お詣りしていきましょう。

    境内の脇にあった、松本城下町湧水群のひとつである、松本神社前井戸かありました。
    暘谷水神様が祀られています。

    松本神社前井戸 名所・史跡

  • 松本神社は、松本城の北隣に鎮座していて、地元では五社と呼ばれているそうです。<br />これは、松本領主の戸田光重が伯父の永兼を祀るため、1636年に転封されていた明石城に新宮を設けたのが最初とされ、1797年に遠祖一色兵部少輔(片宮)と戸田宗光(今宮、今宮八幡宮)が合祀され、1831年松平康長(洪武)と正室松姫(淑愼)が合祀され、5柱を祀る事から呼ばれているようです。<br /><br />1953年に、五社と境内にあった若宮八幡宮が合祀され、名称を松本神社に改められたそうです。

    松本神社は、松本城の北隣に鎮座していて、地元では五社と呼ばれているそうです。
    これは、松本領主の戸田光重が伯父の永兼を祀るため、1636年に転封されていた明石城に新宮を設けたのが最初とされ、1797年に遠祖一色兵部少輔(片宮)と戸田宗光(今宮、今宮八幡宮)が合祀され、1831年松平康長(洪武)と正室松姫(淑愼)が合祀され、5柱を祀る事から呼ばれているようです。

    1953年に、五社と境内にあった若宮八幡宮が合祀され、名称を松本神社に改められたそうです。

    松本神社 寺・神社・教会

  • 松本神社から北に向かうと、モダンな松本市立開智小学校越しに、開智学校が見えてきました。<br /><br />1963年に、開智小学校と田町小学校が統合されて設立された学校で、旧開智学校校舎は、この地で1963年3月31日まで統合前の開智小学校の校舎として、約90年間使用され、1964年にかけて現在の場所へ移築・復元したものです。<br /><br />1964年に新校舎が完成、1998年7月に現在の校舎に建て替えられました。<br /><br />周辺には松本市旧司祭館(右下)や、松本市中央図書館(左下)があります。

    松本神社から北に向かうと、モダンな松本市立開智小学校越しに、開智学校が見えてきました。

    1963年に、開智小学校と田町小学校が統合されて設立された学校で、旧開智学校校舎は、この地で1963年3月31日まで統合前の開智小学校の校舎として、約90年間使用され、1964年にかけて現在の場所へ移築・復元したものです。

    1964年に新校舎が完成、1998年7月に現在の校舎に建て替えられました。

    周辺には松本市旧司祭館(右下)や、松本市中央図書館(左下)があります。

  • 旧開智小学校校舎です。<br /><br />2019年9月に、近代学校建築としては日本初の国宝指定となる、擬洋風建築の校舎です。

    旧開智小学校校舎です。

    2019年9月に、近代学校建築としては日本初の国宝指定となる、擬洋風建築の校舎です。

    国宝 旧開智学校 名所・史跡

  • 1876年に完成した旧開智学校は、地元の大工棟梁 立石清重氏の設計で、擬洋風建築の代表と言われています。<br /><br />文明開化の時代を象徴する、洋風とも和風とも言えない不思議な建築で「擬洋風建築」と呼ばれています。<br /><br />1964年に移築・復元されたもので、耐震対策と防災設備が2021年6月~2024年11月の期間行われ、博物館として公開されています。

    1876年に完成した旧開智学校は、地元の大工棟梁 立石清重氏の設計で、擬洋風建築の代表と言われています。

    文明開化の時代を象徴する、洋風とも和風とも言えない不思議な建築で「擬洋風建築」と呼ばれています。

    1964年に移築・復元されたもので、耐震対策と防災設備が2021年6月~2024年11月の期間行われ、博物館として公開されています。

  • 文明開化の真っただ中、西洋文明を取り込もうという流れがあり、建築にも洋風が求められるようになったようです。<br /><br />ただ、当時は大工さん達は洋風建築を見る機会も殆ど無く、都会へ行って情報を集め、培った技術と材料を駆使して、西洋風を表現しようと努力して、和風と洋風が混ざり合い、新しいものとして生まれたのが、擬洋風建築です。<br />日本人がどのように洋風建築を取り入れていったのか、文化的にも深い意義があると評価され、国宝に指定されました。

    文明開化の真っただ中、西洋文明を取り込もうという流れがあり、建築にも洋風が求められるようになったようです。

    ただ、当時は大工さん達は洋風建築を見る機会も殆ど無く、都会へ行って情報を集め、培った技術と材料を駆使して、西洋風を表現しようと努力して、和風と洋風が混ざり合い、新しいものとして生まれたのが、擬洋風建築です。
    日本人がどのように洋風建築を取り入れていったのか、文化的にも深い意義があると評価され、国宝に指定されました。

  • 擬洋風が凝縮されている正面は、龍の彫刻や瑞雲、唐破風、そして瓦屋根という和風の要素と、バルコニーや縦長の窓、天使の彫刻、八角塔等、洋風の要素が配置されています。<br /><br />外観は、白い部分だけではなく、下部や四隅の灰色の石積みのように見える部分も漆喰塗りとなっています。<br />漆喰塗という、日本の伝統の技術を用いて、何とか西洋らしく見せようとした努力がうかがえます。

    擬洋風が凝縮されている正面は、龍の彫刻や瑞雲、唐破風、そして瓦屋根という和風の要素と、バルコニーや縦長の窓、天使の彫刻、八角塔等、洋風の要素が配置されています。

    外観は、白い部分だけではなく、下部や四隅の灰色の石積みのように見える部分も漆喰塗りとなっています。
    漆喰塗という、日本の伝統の技術を用いて、何とか西洋らしく見せようとした努力がうかがえます。

  • 正面の車寄せには、擬洋風が凝縮されています。<br /><br />八角の太鼓楼と寺にあるようなアーチ窓、青竜の上に雲が沸き、その上に2体のエンジェルが「開智学校」の旗を掲げています。<br /><br />この正面玄関は来賓用で、児童の出入口は右側、現在の入場口となっている場所にあったようです。

    正面の車寄せには、擬洋風が凝縮されています。

    八角の太鼓楼と寺にあるようなアーチ窓、青竜の上に雲が沸き、その上に2体のエンジェルが「開智学校」の旗を掲げています。

    この正面玄関は来賓用で、児童の出入口は右側、現在の入場口となっている場所にあったようです。

  • 扉には、框の中に桟を組み、その間に薄板や連子をはめた桟唐戸や、ペンキで一度塗りつぶした上に木目を描く「木目塗り」の技法等、手間ひまかけた造作が施されています。<br /><br />回り階段の丸柱は、市内の全久院で使用されていたもので、階段のお手本が無かった為か、幅が狭く、角度も急なため危険という事で、昭和の頃には立ち入り禁止になっていたそうです。

    扉には、框の中に桟を組み、その間に薄板や連子をはめた桟唐戸や、ペンキで一度塗りつぶした上に木目を描く「木目塗り」の技法等、手間ひまかけた造作が施されています。

    回り階段の丸柱は、市内の全久院で使用されていたもので、階段のお手本が無かった為か、幅が狭く、角度も急なため危険という事で、昭和の頃には立ち入り禁止になっていたそうです。

  • 開智学校から、市立博物館などを横目にテクテク歩いて、女鳥羽川にかかる、千歳橋に来ました。<br /><br />松本城は、内堀・外堀・総掘りに囲まれ、更に南の総掘りの外を流れる「女鳥羽川」も敵からの侵入を防ぐ、という大きな役割を果たしていました。<br /><br />武家以外は、大手橋を渡ることは許されていなかったので、庶民は、本町~中町~東町と女鳥羽川を迂回して善光寺街道を取っていたそうです。

    開智学校から、市立博物館などを横目にテクテク歩いて、女鳥羽川にかかる、千歳橋に来ました。

    松本城は、内堀・外堀・総掘りに囲まれ、更に南の総掘りの外を流れる「女鳥羽川」も敵からの侵入を防ぐ、という大きな役割を果たしていました。

    武家以外は、大手橋を渡ることは許されていなかったので、庶民は、本町~中町~東町と女鳥羽川を迂回して善光寺街道を取っていたそうです。

  • ここから、なわて通りから中町通りの散策に向かいますが、その前に、なわて通りの入口に、四柱神社が鎮座していたので、参拝しました。<br /><br />祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神で、神社の名称は、4柱の神が祀られている事からのようです。<br /><br />1879年、現在地に社殿が造営されました。<br />旧社格は村社で、現在は別表神社となっています。

    ここから、なわて通りから中町通りの散策に向かいますが、その前に、なわて通りの入口に、四柱神社が鎮座していたので、参拝しました。

    祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神で、神社の名称は、4柱の神が祀られている事からのようです。

    1879年、現在地に社殿が造営されました。
    旧社格は村社で、現在は別表神社となっています。

    四柱神社 寺・神社・教会

  • なわて通りは、カエル推しです。<br /><br />昔、女鳥羽川には清流にしか生息しない「カジカガエル」が沢山いたそうです。<br />現在、その姿は無いのですが、復活と街おこしをかけて、なわて通りを「カエルの街」としているようです。<br /><br />通りには「カエル大明神」を奉り、パワースポットとして多くの人が訪れているそうで、街のあちらこちらに、カエルの石像があります。

    なわて通りは、カエル推しです。

    昔、女鳥羽川には清流にしか生息しない「カジカガエル」が沢山いたそうです。
    現在、その姿は無いのですが、復活と街おこしをかけて、なわて通りを「カエルの街」としているようです。

    通りには「カエル大明神」を奉り、パワースポットとして多くの人が訪れているそうで、街のあちらこちらに、カエルの石像があります。

    なわて通り 名所・史跡

  • 一ツ橋を渡り、中町通りに向かいます。<br /><br />ランチの場所を探しますが、コレと言ったお店が無く、信州松本で琉球料理?という感覚で、こちらで軽く頂く事にしました。<br /><br />おばぁの味 城(GUSUKU)で、ソーキそばと白馬豚のカツカレーを頂きました。<br />スパイしカレーと優しい味わいの琉球そば、美味しかったです。<br /><br />夜は琉球居酒屋との事で、美味しそうな泡盛の瓶が並んでいました。

    一ツ橋を渡り、中町通りに向かいます。

    ランチの場所を探しますが、コレと言ったお店が無く、信州松本で琉球料理?という感覚で、こちらで軽く頂く事にしました。

    おばぁの味 城(GUSUKU)で、ソーキそばと白馬豚のカツカレーを頂きました。
    スパイしカレーと優しい味わいの琉球そば、美味しかったです。

    夜は琉球居酒屋との事で、美味しそうな泡盛の瓶が並んでいました。

  • 蔵のある町中町という事で、風情のある街並みが続いています。<br /><br />その中に「はかり資料館」があり、面白そうだという事で入館です。<br />展示も面白かったですが、第3展示室の「旧三松屋蔵屋敷」は、旧開智学校校舎を設計・施工した、立石清重棟梁が手がけたもので、外壁は漆喰壁保護のため、取外しができる下見板で覆われ、三角形の破風には、唐草模様の木彫レリーフ、使用している材料も、ガラスやトタン等、当時の高級部材を使う等、細部まで拘った造りとなっていました。

    蔵のある町中町という事で、風情のある街並みが続いています。

    その中に「はかり資料館」があり、面白そうだという事で入館です。
    展示も面白かったですが、第3展示室の「旧三松屋蔵屋敷」は、旧開智学校校舎を設計・施工した、立石清重棟梁が手がけたもので、外壁は漆喰壁保護のため、取外しができる下見板で覆われ、三角形の破風には、唐草模様の木彫レリーフ、使用している材料も、ガラスやトタン等、当時の高級部材を使う等、細部まで拘った造りとなっていました。

    中町通り 名所・史跡

  • この建物は、1902年創業の中南信地方の度量衝器の需要を一手に担っていた「竹内度量衝店」です。<br />1986年の店じまいにより、松本市の手により1989年8月に「松本市はかり資料館」として開館しました。<br /><br />館内には、数多くの「測る」、「計る」、「量る」道具が展示されていて、ものさしと定規の違いという、この齢になって目鱗の学びもあり、面白かったです。

    この建物は、1902年創業の中南信地方の度量衝器の需要を一手に担っていた「竹内度量衝店」です。
    1986年の店じまいにより、松本市の手により1989年8月に「松本市はかり資料館」として開館しました。

    館内には、数多くの「測る」、「計る」、「量る」道具が展示されていて、ものさしと定規の違いという、この齢になって目鱗の学びもあり、面白かったです。

    松本市はかり資料館 美術館・博物館

  • こちらは「中町・蔵シック館」。<br />宮村町にあった造り酒屋「大禮酒造」の母屋・土蔵・離れの3棟を移築し、1994年に開館した松本市の施設です。<br /><br />土間上部の吹き抜けは、豪快な梁組で座敷等も昔のままに復元されているようです。<br /><br />レンタルスペースでは手作りアクセサリー等が販売されていて、奥様可愛い雑貨をっ物色していました。<br /><br />14時近くになったので、今日はCafeタイムは無しで、急いで駅前の駐車場に戻り、八ヶ岳に向かいます。<br /><br />3日目前半はこれまで、まだまだ旅は続きます。

    こちらは「中町・蔵シック館」。
    宮村町にあった造り酒屋「大禮酒造」の母屋・土蔵・離れの3棟を移築し、1994年に開館した松本市の施設です。

    土間上部の吹き抜けは、豪快な梁組で座敷等も昔のままに復元されているようです。

    レンタルスペースでは手作りアクセサリー等が販売されていて、奥様可愛い雑貨をっ物色していました。

    14時近くになったので、今日はCafeタイムは無しで、急いで駅前の駐車場に戻り、八ヶ岳に向かいます。

    3日目前半はこれまで、まだまだ旅は続きます。

    中町蔵の会館 名所・史跡

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