2025/05/16 - 2025/05/16
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gianiさん
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今では弱小な平戸ですが、倭寇の拠点として繁栄し、ポルトガルと初めて交易を結んだ等、長崎に劣らない歴史が詰まった街です。今回は貿易面で探検してみます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは、平戸オランダ商館。
秀逸な展示内容でした。 -
平戸の海外交流史
日本の最西端ということもあり古代より遣唐使船が寄港し、9世紀に博多~寧波の航路が確立されると本格化した。 -
中世には倭寇の拠点として重要な位置を占めます。前期は朝鮮半島/中国沿岸部へ赴いて略奪を行う集団だったが、後期は中国(明)人を中心とする海商集団へ変容します。
写真は、平戸の松浦党が掲げた船旗。倭寇は八幡神を信仰し、左に松浦氏の守護神、右に平戸の春日神社の祭神が書かれています。 -
ポルトガルとの貿易(1550)
明の海商王直の手引きで、1550年に貿易目的のポルトガル船が日本に初来航します。
※交易主体でなければ、1549年等に薩摩領へ寄港しています。1543年に種子島に漂着したのは、中国船です。 -
前年に鹿児島へ上陸したザビエルは、平戸へ向かい船員にミサを挙げます。領主松浦隆信の許可の元で布教し、20日間で100名以上に洗礼を施します。
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松浦隆信(1529-99)
キリスト教に不信感を抱いていたこともあり、1561年にポルトガル側と対立し、貿易船は長崎へ寄港することになります。しかし10年間の南蛮貿易で蓄えた富で鉄砲を増やし、戦国大名へと躍進します。 -
歴史背景
16世紀に大航海時代へ突入したスペインとポルトガルは、教皇の執り成しで世界を両者で分割します。喜望峰より東側(東インド)はポルトガル、西側(西インド)はスペイン領とするという内容でした。17世紀を迎える頃に、ようやく英/蘭が本格的に進出し始めます。 -
リーフデ号漂着
1600年にオランダ商船リーフデ号が日本に漂着します。豊臣政権五大老トップの徳川家康は、乗組員のヤン・ヨーステン/ウイリアム・アダムスと謁見し、自身のブレーンに加えます。 -
武装商船
リーフデ号は商船で軍艦ではありませんでしたが、写真の大砲を18門備えていました。 -
朱印船貿易と船長帰国
1604年に朱印船貿易が始まり、家康は船長のクワケルナックに朱印状とオランダ総督宛の親書を持たせて翌1605年に出国します。このとき船長らの出国を支援したのが平戸藩主松浦鎮信でした。松浦氏は西洋との貿易再開を虎視眈々と狙っていました。
※写真は、リーフデ号の模型。 -
日蘭交流(1609?現在)
クワケルナックの帰国は叶わずマレーで戦死しますが、朱印状と親書はパタニ商館を通してオランダ総督の手に渡り、1609年にオランダ使節が日本へ派遣されます。目的地は、松浦鎮信の狙い通り平戸でした! -
朱印状とオランダ商館開設許可(9月20日)
江戸で家康と謁見した使節は、松浦鎮信/三浦按針(ジョン・アダムス)の仲介もあって、オランダ東インド会社宛の朱印状を獲得します。文面の一行目末から見ると、渡海時に何の浦に泊まっても良いと書かれています。
商館は平戸に設置されました。 -
朱印状とイギリス商館
1613年にはイギリス船クローブ号が来日し、英国王の親書を家康に手渡します。英国人である三浦按針の仲介もあり、英国東インド会社にも朱印状(写真)が発行されます。英国も商館を平戸に開設します。 -
家康の死
1616年に貿易推進者の家康が亡くなり秀忠に実権が移ると、朱印船の寄港地は長崎/平戸の2箇所に制限されます。英蘭にはプラスに働き、組織力がものを言わせます。平戸の相対的地位は上がり、長崎は絶対的地位が上がります。 -
平戸のオランダ商館跡には、1610年代の製品が多く発掘されています。
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1621年の平戸図
右上にオランダ国旗を掲げた商館、左上に英国のセントジョージ旗を掲げた商館が描かれています。
英国商館閉館(1623)
イギリスは東南アジア権益を巡ってオランダに敗北の連続で、1623年に平戸の商館は閉じられ、以後再開されることはありませんでした。 -
オランダ目線で見ると、当初の平戸交易の規模は小さかったようです。軍需物資/食料/傭兵の調達先としての役割が大きかったことと、日本向けの商品(生糸等)を十分に調達できなかったことにあります。
1624年には台南に商館を設置して、中国産生糸の仕入れルートを確立します。ところが入港時の関税で浜田弥兵衛と衝突し、1628-33年まで平戸商館が閉鎖されます(タイオワン事件)。事件解決を機に、商館長の江戸参府が始まります。 -
平戸商館の全盛期(1633-40)
1635年には貿易に携わる日本人の出国/帰国が禁止され、朱印船貿易が終了します。島原の乱後の1639年には、ポルトガル船の来航が禁止されます。貿易は、長崎での中国/平戸のオランダが独占します。 -
輸入のメインは生糸/織物で全体の8割を占めますが、白檀/伽羅/沈香/蘇木(写真)といった香木も多く輸入されました。特に希少なものは家康が好んで買い付けて公家や大名といった文化人へ贈り、幕府の強力な外交カードとなりました。中国のパンダ外交ならぬ香木外交です。
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他には皮革類も多く輸入されました。台湾経由でシャム(現タイ)の鹿革/鮫皮(実際は鮫ではなエイ)がもたらされます。
鮫皮(写真)は、見た目も良く握ったときも滑らないので、刀剣の柄や鞘の装飾に用いられました。 -
主な輸出品は、石見などで産出する銀でした。
ほかには、南蛮漆器(写真)が西洋の上流階級に好まれました。黒漆塗地に蒔絵/螺鈿(らでん)が施されたカマボコ型の洋櫃です。 -
西洋の科学や知識も重宝されました。書物や地球儀/地図のような形で、あるいは会話の中で伝来しました。写真は、1627年に平戸伝来の外科全書。
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将軍に献上するために平戸で鋳造された臼砲
武装商船のメンテナンス施設で製造されたものです。幕府は武家政権ということもあり、軍事技術は重宝されました。 -
大型倉庫の建造
交易の拡大により、平戸商館は商品保管庫を拡大すべく、1637/39年に大型の石造倉庫を建造します。1639年築のものは長さ46m/幅13m/高さ7mと平戸最大の建築物でした。 -
10棟以上の建物が連なりましたが、1639年築の倉庫が博物館として再現されています。
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ところが、1637年の島原天草の乱を機に、幕府の対外政策の硬化が進行します。
1639年に外国人取締令が発令され、在留オランダ人の妻子の滞在が禁止され32名がブレダ号で出国します。商館員は単身赴任を強いられます。平戸の女性との婚姻で生まれた子供たちにとっては悲劇で、写真はジャカルタから母方の実家へ送ったメッセージ。日本こいしや…と文面が始まります。こうした文書は、ジャカラタ文と呼ばれます。1660年代に文通が許されるようになりました。 -
平戸貿易の終了
1640年に、幕府は石造倉庫の破壊を命じます。僅か1年の使用でした。同時に、出島からポルトガル商館が追放されます。翌41年に平戸から長崎出島への移転を一方的に命じられます。 -
平戸とオランダ商館
城下のオランダ商館だけでなく、川内の艦隊基地/古舘の製材所/黒子島の見張り小屋/横島のロープ工場・墓地・放牧地など、あちこちに施設を持ちました。また外出も自由で、日本人との結婚も珍しくありませんでした。出島での隔離(鎖国)政策とは大違いです。 -
出島でのオランダ貿易
交易の決済手段は銀でした。幕府は銀の流出を止めるべく1668に銀の輸出を禁止します。それでも銅/金の流出を抑えられず、1715年に年間貿易額と貿易船数を制限します。生糸輸入を抑えるべく国産化に取り組み、成功します。
1799年いっぱいで東インド会社は解散し、植民地運営と貿易は政府の手へ移ります。1858年の日蘭修好通商条約に伴い、出島貿易(鎖国)は終了します。 -
平戸での貿易終了後も、91年間の貿易キャリアで伝来したものは残ります。例えば、ポルトガル系の菓子をアレンジしたものが平戸藩にも伝わります。鎖国後も、長崎に近い地理的条件と、松浦氏が持つノウハウを活かして様々なものが平戸に伝わります。
次に、幕府(政府)と同じステージで交渉する東インド会社とは何ものなのか、観ていきます。 -
連合東インド会社(VOC)
スペイン/ポルトガルから香辛料を買い付けられなくなったことと1600年誕生の英東インド会社に対抗すべく、国内に林立した貿易会社を1602年に統合して誕生した特許会社。政府に莫大な特許料を支払う代わりに、東インド管内では軍事/外交権を与えられました。重商主義政策の産物で、政府主導ではなく民間が自発的に組織した会社です。
※新大陸等を管轄する西インド会社(1621-76)も存在しました。 -
組織
最高経営会議である17人会が取り仕切り、顧問弁護士がサポートしました。
17人会の下には各地域を代表する取締役(59名)が6つの委員会を構成し、合計76名が経営に携わりました。株式はアムステルダムが半分を占めましたが、取締役で過半数を占めないように配慮されました。世界初の株式会社と言われます。 -
背景
オランダは農工資源に恵まれず、交易によって繫栄しました。スペインの領土でしたが1585年に独立宣言し、スペインと交戦中でした。香辛料貿易を独占していたスペインから直接買い付けられなくなり、独自の仕入れルート確立が求められ、アジア等へ航海を乗り出します。
※当時ポルトガルはスペインに併合されていたので、リスボンのマーケットも出禁でした。 -
支店網(赤丸)
東インド管内に商館を設置して、商圏を作ります。商館は現地営業所に相当します。1597年にオランダ船がアジアに初めて到達したバンテンが最初の商館になります(1603)。商館が増えると、それらを統括する東インド政庁/総督をバンテンに設置します(1609)。 -
支店網の拡大
1603年には、マレー半島中部のパタニ(パタニ王国 現タイ)に商館を開設します。古くから華僑が進出し、1516年にポルトガルが、VOC進出期は英/日(朱印船)も進出します。
リーフデ号乗組員機関の際、平戸から向かったのがパタニです。日本との関係と、直近の商館という点で最適の渡航先でした。 -
1604年には、台湾沖の澎湖諸島へ進出します。貿易は行わず、対中国の貿易船の商品の積み替え/食料品の供給を行いました。いわゆる中継点です。
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アンボン(1605)
東ティモールとパプア島の間に位置するアンボン島は1526年にポルトガルが占拠し、砦などを築いていました。1609年にポルトガルを追放して占拠します。1623年にアンボイア事件が勃発します。
平戸からは大勢の日本人がVOCに雇われて各商館へ渡航し、アンボイア事件もVOCの日本人傭兵が関係しています。 -
テルナテ(1607)
先に進出していたスペインを駆逐し、オラニエ要塞を建設。アンボンの北方に位置。 -
アユタヤ(1608)
タイ王国の前身アユタヤ王国の首都。バンコクより50kmほど離れています。日本へ輸入された皮革類/香木は、専らアユタヤ商館が仕入れました。 -
アユタヤは中国とインドの中間点に位置し、重要な貿易拠点でした。オランダ以外にポルトガル/イギリス/日本人等の外国人街が形成されます。
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平戸(1609)
VOC内では、早いうちに商館が建設されます。 -
パリアカッタ(1609)
チェンマイ(旧マドラス)近郊に位置し、現地のマハラジャから商館設置の認可を得る。1616年にオランダ領コロマンデルの首府となる。1690年にナーガパッティナムへ移転/撤退。 -
スラト(1616)
ムンバイの北方200kmに位置。インドのアラビア海側の拠点。 -
バタビア(1619)
現ジャカルタのコタ地区。バンテン王国の内紛に付け込み占領。以降、東インド会社の現地統括地となり、総督府/政庁はバンテンから移転する。
19世紀に高地のウェルトフレーデン地区を開発し、現在も行政の中心となっている。 -
平戸を含む各商館は、統括するバタビアの指令によって統一的に運用されていきます。
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ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(1587-1629)
東インド会社第4代総督。軍人としても優秀で、英勢力を東南アジアから撤退させます。1623年にバタビア城塞を築き、マタラム王国の攻撃を退けるインフラとなりました。 -
バタビア港の様子
西洋帆船の他に、オランダ国旗を掲げるジャンク船も見られます。各地のオランダ商館は、西洋船だけでなく現地の船を建造/使用することも多かったようです。 -
モカ(1621)
紅海出口の交通の要所。18世紀になるとコーヒー豆が積み出されます。 -
バンダ(1621)
アンボンの南に位置するVOC直轄地。バンダ諸島は当時世界唯一のナツメグ産地で、金銀に次ぐ価値を持ちました。クーン総督が島民14000名を虐殺した経緯も。 -
ガムロン(1623)
ペルシャ湾に面したロケーションです。 -
タイオワン(1624-61)
現台南市安平地区、台湾の語源となる。明は、統治下にあった澎湖諸島からのオランダ撤退を求め、当時宗主権の及んでいなかった台湾に商館を設置し、中国貿易の拠点とします。 -
タイオワンには城塞ゼーランディア城が築かれます。1661年に明の再興を掲げる鄭成功が落城させて台湾を支配しますが、1679年に清国の支配が及びます。
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トンキン(1637)
現在のハノイで、日本向け生糸の仕入れのために、開拓。後にレロイ王朝と通商を結び、1637年に商館設置。 -
ゴール(1640)
コロンボの南120kmに位置。1505年以降ポルトガルの拠点だったが、1640年に現地王朝への軍事支援で追放。傀儡政権を樹立し1663年に城塞を築くも、1796年にイギリスに奪取される。 -
マラッカ(1641)
1511年にポルトガル人が進出、1641年に追放。マラッカ海峡に面する要衝。1824年に英へ譲渡。 -
バスラ(1645)
ペルシャ湾の最奥部に位置。現地の工場を借り受け、貿易拠点としました。 -
ケープ(1652)
喜望峰(アフリカ最南端)に面し、本国とバタビアを結ぶ中継基地として建設。1815年に正式に英植民地となる。 -
コロンボ(1656)
コロンブスをポルトガル語にした名称。1517年にポルトガルが進出、1656年に追放し、オランダ領セイロンの首府となります。1802年に英領。 -
フーグリ(1656)
カルカッタに隣接、1576年にポルトガルが進出、1656年に追放。1825年に英へ譲渡。 -
コチ(1663)
1503年にポルトガルが進出、1663年に追放。香辛料貿易の中継点。 -
オランダと西洋は香辛料を求めて東インドへ進出しました。香辛料買付の際の決済手段は銀オンリーだったために、支払代金を得るべく各商館の仕入商品を東インド管内で売り捌いて利益を出し、受取代金として銀を獲得します。
※日本のように本国から銀を持ち出すのは冨の流出であり国力が低下するので、銀を現地調達して決済/余りは本国へ持ち帰ることで富を蓄積しました。
追記:家康の頃まで日本最大の金銀産出国でしたが、貿易の決済手段として大量流出し、貨幣経済の規模拡大に供給が追い付かなかったので、改鋳の度に金貨(小判等)銀貨等に大量の金属を混ぜて、純度/信用共に低い通貨が出回りました。 -
現地通貨
VOCは造鋳権を持ち、1726年に管内で通用する少額の取引の際に便利な硬貨を発行しました。17世紀に香辛料の価格は下落し、英東インド会社は木綿/茶へシフトしますが、VOCは遅れをとります。VOC解散後、19世紀に列強内で植民地整理が行われ、インドネシア独立まで続きます。 -
平戸商館は、現在の市街地の端に位置しました。座学を終えて、これから現地を探検します。
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桟橋に付属するバスセンターから西へ1分ほど歩くと、
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左側にオランダ塀坂の階段が分岐します。その手前(赤線)に門番小屋がありました。ここを越えると商館の敷地です。
その先には、1612年築/39年改築の住居が建っていました(青線)。画角の右側は石塀が海岸線に沿って続きます。左側の通路を通って奥へ向かいます。 -
住居の説明
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1612年築住居跡の境界線が、破線状に埋め込まれたブロックでマーキングされています。右側は、オランダ井戸です。
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オランダ井戸は、西洋のレンガ積を応用したものです。深さ8mで、海の真ん前ですが真水が出ます。
オランダ井戸 名所・史跡
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後ろを振り返ると、こんな景色。
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鳥居の先には、水門と青石造階段があります。
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VOC時代の埠頭の石造階段が残り、背後には水門が存在しました。
オランダ埠頭 名所・史跡
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湾を挟んで、平戸城が見えます。
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オランダ井戸の先は、崖に沿って1610年代の建物跡/1637年築の石造倉庫/1639年築の石造倉庫が並びました。1639年築倉庫の再現はオリジナルの場所ではなく、1637/39築倉庫の間を跨ぐように建っています。
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1637年築造倉庫
長さ29m高さ7m幅11mの耐火石造建築。長さ46mの1639年築造倉庫と併せると、75m以上の長さになり、壮観の一言だったのでしょう。 -
道路と空き地部分の一部にかけての土地は1610年頃に造成され、1618年築/37年改築の住居が海に面して建っていました。
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出島移転後には、平戸藩御船手方(船の漕ぎ手)の屋敷が建ちました。コの字型の石塀内は、池などが配される庭園でした。1848年の絵図にも描かれています。
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石造倉庫の背後には、1633年の敷地拡張時に築かれた石塀が。ほぼ垂直に積まれ、少しでも土地を広く使いたいという意思が込められています。
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砂岩板石
崖の土留として使用された物が8枚見つかっています。 -
石造倉庫の形状が分かるキャラクター
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幅の中央部に柱を配置するのが、この年代の特徴。1階に11本、2階に10本あります。角材は一辺48cmで、ド級です。平戸商館の本気度が分かるディティールです。
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この倉庫は、長さ60cm幅30cm厚さ15cm重量60kgの砂岩ブロックを2万枚使用しています。その下はアンケルで、壁石と梁を結び付ける健在で、鉄製40kg。銀117貫を掛けて建築。
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屋根瓦は国産で、純和風です。
正面には1639年竣工VOCというプレートが埋め込まれました。幕府は、これに難癖をつけ、西暦はキリストが生まれた年を基準にしていると言って、倉庫を破棄する口実としました。平戸オランダ商館1639年築造倉庫(復元) 名所・史跡
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倉庫前の石の展示は、商館を1610年代に拡張した際の石垣(海岸線跡)です。1630年代の拡張時に現在の海岸線となりました。
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倉庫の先は、1640年築造の護岸石垣です。
その上には、1643年に平戸藩が設置した石灯篭が建ちます。平戸港の夜間の安全を担いました。常燈の鼻 名所・史跡
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1610年代の石造階段と海岸線、その先は30年代に埋立てた部分の護岸石垣。その上には、商務助手の住宅が並びました。
これらは1988年に端を発する発掘調査によって明らかになりました。
続いて、オランダ塀坂を上ります。 -
普通の石垣です。
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登っていくと、オリジナルの姿が。
高さ2m幅70cm長さ30mで、防犯と火災対策を兼ねていました。漆喰で塗り固めています。 -
倉庫の背後の崖上には、2007年の発掘で確認された武家屋敷の跡が玉石で示されます。2012年の発掘で見つかった第8代商館長フランソワ・カロンの邸宅跡は11.5m四方で、切り石で示されています。
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手前には見張り小屋のあった黒子島、奥にはロープ工場/放牧地のあった横島が見えます。
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崎方公園には、ザビエルが平戸を3回訪れたことを思い出させる記念碑も。来訪400年を記念して、1949年に設置。
フランシスコ・ザビエル記念碑 名所・史跡
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山頂には、三浦按針の墓とされるものもあります。
三浦按針の墓 名所・史跡
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250石取の旗本に加えられましたが、本人は帰国を望んでいました。イギリス行の船に委ねた手紙(1611)には、祖国へ残した妻子に自分が生きていることを伝えてほしいという切実な願いが記されています。
崎方公園 公園・植物園
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坂を下ります。
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平戸商館前を通る県道154号線を進みます。500年以上目抜き通りです。
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5分ほど進むと、ポルトガル船入港の地の石碑が。
16世紀は、海岸線が駐車場の辺りまで迫り、宮の前と呼ばれる場所が港でした。1550年にポルトガル船が初来航します。 -
向かいには、宮の前事件を説明する掲示が。1661年に平戸商人とポルトガル商人の間でトラブルが発生し、刃傷沙汰になりポルトガル船来航が禁止されます。
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一筋裏の大ソテツ通りには、川崎屋にあった大ソテツが移植されています。
界隈には川崎屋助右衛門/半田五右衛門/伊藤謀等の貿易商が軒を並べて、平戸一番の賑わいを見せていた所でした。大ソテツ 自然・景勝地
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そのまま進むと、王直の屋敷跡があります。1541年にここに腰を据えて貿易を行った倭寇の頭目です。ポルトガル船を平戸へ手引きしました。1560年に明で処刑されます。
屋敷跡は、1563年にポルトガルと和解した松浦隆信が、天門寺(サンタマリア教会)建立を許可しています。王直屋敷 天門寺跡 名所・史跡
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県道に戻ると、十八親和銀行に英国商館跡の碑が建ちます。
李旦の邸宅を間借りしました(後に買取)。李旦は王直の配下で、朱印船貿易を行うなど倭寇の頭目として活躍しました。彼の跡を継ぐのが鄭芝龍(鄭成功の父)です。イギリス商館遺跡碑 名所・史跡
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イギリス商館(1613-23)
本館を中心に、通りを挟んで両側に倉庫が並び、庭園/藷畑/果樹園もありました。果樹園には、イチジク/桃/梨/ブドウ/オレンジ/みかん/きんかん/レモンの木が植えられ、他にも観賞用の花も植えられました。 -
三浦按針は1613年の英国商館立ち上げを援助し、平戸に移り住み、1620年にここで死去します。
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さらに進むと、按針の館なる掲示が。
中立の立場を保つため、英商館には住まず、木田弥治右衛門宅を借りて住みました。按針の館 名所・史跡
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現在は、1502年創業の蔦屋となっています。カスドースなど平戸伝来の南蛮菓子を作っていきました。
次は、平戸生まれの中国人海商にして中国史上の大物鄭成功のスポットを訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11996907平戸蔦屋 グルメ・レストラン
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