2025/05/16 - 2025/05/16
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gianiさん
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伊万里湾に浮かぶ鷹島は、離島感溢れる空気が流れます。
実は2回の元寇を経験し、元寇船が見つかった遺跡銀座です。不便ですが、訪れる価値のある島です。
今回は徒歩で回りましたが、元寇スポットを回るには自動車で佐賀県側から渡橋でアクセスするのが一番です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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今福港から、船で鷹島へ向かいます。
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15分ほどで到着
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元寇ロマンの島です。
鷹島 自然・景勝地
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まずは座学
ガイダンス施設が、秀逸な内容でした。松浦市立埋蔵文化財センター 美術館・博物館
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水中遺跡としては、初めて国の史跡に指定されました。
海底には、元寇時の軍船と積載物が眠っています。
鷹島神崎遺跡の説明は、工事は事前に届出が必要という一言でした。行政の本音がビンビン伝わります。 -
穏やかな景色です
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元寇と言えば、火器に驚いたことで有名ですが、「てつはう」と描写された実物が2001年になって見つかっています。
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モンゴル族の元は皇帝が即位し、幾つかの汗国が従属しました。極東~中欧までが勢力圏でした。世界史上最大の帝国です。そんな帝国が日本へ出兵した事には、以下の4つの複合要因が挙げられます。
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①日本からの支援を当てにしていた南宋の外堀を埋めるため。
②激しく抵抗した高麗を平定したが油断ならないので国力を弱めさせる。
③朝鮮半島で三別抄という抗元軍事組織がしぶとく抵抗していた。
④フビライは相続の掟を破って皇帝に座し、遊牧生活も捨てて国民の覚えが悪く、民衆の目を外へ向ける必要があった。 -
文永の役(1274)
高麗征服をきっかけに実行。総勢40,600名/900隻で攻撃するも、不十分な兵站と暴風雨に遭って失敗。鎌倉幕府は不在地主になっている御家人の長男を西国へ赴任させることで、攻撃に備えます。
弘安の役(1281)
南宋征服をきっかけに実行。総勢142,000名/4,400隻で攻撃するも、主力部隊の到着遅延と暴風雨に遭って失敗。幕府が事前に防塁壁を築き、幕府軍の機動性も大きな要素。 -
モンゴル帝国を築いたチンギスハンは、ヨーロッパまで征服し、属国と中国伝統の朝貢関係を結びます。フビライは元を創設して中国を統一、朝鮮半島を力で朝貢関係とし、日本の服従も要求します。
朝廷と鎌倉幕府は交戦覚悟で拒否し、2回の元寇に勝利するものの御家人に十分な恩賞を与えられず、封建関係に罅が入り崩壊要因となります。 -
文永の役(1274年)
きっかけは、開戦6年前からです。 -
1266年に念願の高麗征服を果たしたフビライは、日本の従属を目論みます。1268年に日本と交流のある高麗人を使者として遣わし、国交を結ぶ(=朝貢関係)よう幕府に要請します。幕府は朝廷に諮りますが、答えはノーでした。
1269,1271,1273年にも使者を遣わしましたが、幕府は返書も持たせずに追い返します。フビライが攻めてくることを予期した幕府は、御家人を西国へ配備します。 -
1274年1月、フビライは高麗の大工30500人を徴用して軍船900隻を建造させます。高麗の国力を摩耗させる狙いもありました。5月末に軍船が完成すると、軍隊を組織し、蒙漢軍2万人/高麗軍5600人/船乗15000名で出発します。
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対馬襲撃
10月5日に対馬西海岸に集結します。対馬の守護代宗助国と手勢80騎が応戦し、助国は小太郎と兵衛次郎に事の次第を大宰府へ報告する任務を与えます。
元軍は民家に火を放ち、子供から年寄りまで住民を無差別に殺害します。宗助国の首と胴は切り離され、島内を引き回しにされます。 -
壱岐襲撃
10月14日に壱岐の北西部へ上陸し、守護代の平景隆とその軍勢100騎が応戦するも叶わず、樋詰城で自害します。島民は、男性は殺され、女性は生け捕りにされて掌に穴を開けられて船縁に結び付けられました。 -
博多襲撃
10月19日には博多湾に侵入します。少弐景資率いる九州御家人が対峙します。まず今津から上陸し、姪浜/百道と進行します。翌日には百道からも上陸し、赤坂付近で激戦が繰り広げられました。 -
戦闘は博多中心部へ移り、元の主力2万人が息の浜へ上陸すると、幕府軍も主力3000騎で迎え撃ちます。櫛田神社/筥崎宮/博多の町が炎に包まれます。少弐景資が放った矢は、元軍の副司令官劉副亨を射落とします。
水城方面へ退却し、翌朝博多へ出陣すると、元軍は跡形なく消え去っていました。予想外の厳しい戦いと補給の問題で撤退したと思われます。さらに暴風雨に遭って多くの損害を被ります。 -
弘安の役(1281年)
1279年に南宋を征服したこともあり、142000名/4400艘という巨大な軍団で攻め込みました。 -
文永の役の翌年(1275年)、フビライは日本へ服従を促す使者を遣わします。長門国(山口県)に上陸すると、大宰府/鎌倉へと送られ、竜の口(鎌倉の処刑場)で一行5名は処刑されます。
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敵国降伏祈願
朝廷は元が再び攻めてくることは必至と考え、亀山上皇は石清水八幡宮へ敵国降伏を祈願します。文永の役で焼失した筥崎宮の再建も命じ、34個の礎石の下に納める「敵国降伏」の宸筆を記します。 -
元寇厭禳(えんじよう)祈願
1275年に後宇田上皇は、内大臣師継を公卿勅使として伊勢神宮へ派遣し、元寇厭禳祈願をします。公卿勅使による祈願は国難の際に行われ、1268/1271年にも行われています。 -
防塁壁
鎌倉幕府は1276年3月より、博多湾沿岸の防衛を強化するために今津~香椎にかけて全長20kmほどの石塁を構築します。実務は九州の御家人が行い、各国ごとに割り当てられた区画があり、それぞれの個性が出ました。
元は1279年に南宋を滅ぼし、中国は遂に統一を果たします。 -
日本再遠征
1280年にフビライは軍議を開き、日本遠征軍は朝鮮半島から出発する東路軍(蒙古軍/高麗軍)と揚子江河口部から出発する江南軍(旧南宋軍)の2軍で行うことが決まります。
1281年に東路軍(戦闘員2.5万/船員1.7万)と江南軍(総員10万)合計14万2000人の部隊が日本を目指します。占領時のために鋤鍬(農具)/籾種/日用品も携行します。 -
弘安の役(1281)
5月に出発した東路軍は対馬/壱岐を蹂躙して、軍の一部を長門国へ上陸させます。しかし日本軍に包囲されて全滅します。本隊は博多湾に入るも、防塁壁に阻まれ沖合に停泊します。日本軍は小舟で夜襲します。翌朝志賀島に上陸して海の中道を通って博多へ向かいますが、日本軍の激しい抵抗に遭い江南軍先鋒隊との合流地点である壱岐へ退却します。 -
薩摩/筑前/肥前/肥後の混成軍は、船隊を編成して東路軍を追撃し、6/29に壱岐の瀬戸浦付近で江南軍先鋒隊/東路軍と4日間にわたる白兵戦を繰り広げます。元に大きな損害を与えますが、西国御家人を統括する鎮西奉行少弐資能を始めとする多くの御家人が戦死しました。
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神風吹く
7/2に壱岐を離れた東路軍は、遅れていた江南軍主隊と合流するため平戸島へ向かい、戦隊が揃います。7/27に船団は鷹島近海へ移動し、日本軍との戦闘が発生します。
7/30夜半に北西の風が吹き始め、翌閏7/1には大風で船団は壊滅します。記録によると、11万人が命を失いました。 -
これらの絵画は、矢田一嘯(1859-1913)の作品で、鎮西身延山本佛寺(日蓮宗)が所蔵しています。日蓮は大陸の最新情報を仕入れるチャンネルを持ち、元の使節派遣/2回の襲撃を予告しました。一部の人たちは、これを預言とみなしています。
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弘安の役の動き
少弐景資が、島北部の龍面庵跡に本陣を敷きました。宮地嶽史跡公園 公園・植物園
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遺跡と発掘物に目を移します。
鷹島海底遺跡に指定された範囲の面積は1.5平方kmで、鷹島の南岸に相当します。埋蔵文化財センターのある神崎(こうざき)地区の35haは発掘物の質/量共に遺跡の中枢で、史跡鷹島神崎遺跡となっています。 -
元寇時代の印章がみつかる(1974)
鷹島沖で元の船団が神風によって沈んだという言い伝えと一致するように、古くから地元漁師は、壺/刀剣/碇石を引き揚げ個人的に保管していました。しかし言い伝えが史実である証拠としては、弱いものでした。
1974年に貝堀り中に偶然発見された印鑑は、元の国字パスパ文字が刻まれ、1277年と時期も一致しました。元寇700年とも重なり、多くのメディアが取り上げました。 -
1980年に初めて学術調査が行われ、多くの収穫を得ます。学術調査は何度も行われ、2001年には鉄砲と呼ばれる炸裂弾が完全な状態で見つかります。リアルタイムの証言や絵画で目にしたものの威力とメカニズムも解明されました。
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2011年には沈没船が発見され、遂に言い伝えが史実であることが証明されます。翌2012年に、国の史跡に指定されます。
2015年には2号沈没船、2024年には3号船が発見されます。 -
日用品
戦場へ持ち込んだため、高価なものはありません。
陶磁器:船内で食器として使用されました。中国製/一部朝鮮製
壺:食料品の保存に用いられました。
これらは土が数メートル覆っていたために、良い状態で発見されます。 -
一方、漁師が網に掛かって得たものは、貝などがこびりついています。これらが学術調査のきっかけとなりました。
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鉄兜
海底で700年以上沈んでいたために錆膨れし(酸化)、鉄分はほぼ溶解しています(水和)。X線CTスキャンによって復元されたものを見ると、日本のものとは材質も形も違います。 -
鉄刀
日本刀とは違い、刃先が四角になっています。
矢束
モンゴル軍は短い矢を使い、矢筒に入れていたものの鏃が砂と一緒に錆びて固まった状態で発見されました。 -
銅製品
鉄と比べて原型をとどめています。
多くの宋銭が見つかっています。写真は976-1157年にかけて鋳造されたものです。 -
帯金具/飾金具
帯を締めるバックルなどが見つかっています。兵士は軽装で機動力に優れました。 -
匙は、朝鮮半島の食文化を反映しています。鋲や凝った装飾のボタンがあります。
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木製品
船体部品などが発掘されます。 -
木像は信仰対象、木製印には漢字が彫られています。
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漆製品
多くの櫛が見つかっていますが、蚤/虱対策に櫛を当てました。漆器も出ています。弓など様々な製品に使用されました。 -
石製品
石臼は直径50cmほどでした。
碇石は、木が主材の碇にクロスする形で結び付けて重量を出しました。 -
元の使用した碇
木製の錨軸に石を縄で括り付け、海底に刺す部分も木製で挟み板で固定しました。
※碇の表記:学術的には木偏が正しいですが、定形外なのと、ひらがな表記すると読みづらいので碇/錨を使用します。「碇石」は、正しい表現です。 -
発見時の海底の様子。
上は矢束、下が碇石です -
展示されているのは二石分離型木製いかりのもので、一石型木製いかり(写真左)もあります。縄で結ばず、基軸の穴に差し込みました。
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石弾
玄武岩製で、直径8-15cm/重さ0.8-3kg。投石器で敵へ向けて発射します。 -
大陸では都市に城壁が築かれたために、紀元前から使用された武器です。他には鉄砲も投石器で発射しました。投石器は回回砲と呼ばれ、南宋征服時には襄陽の城壁を破るのに活躍しました。
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鉄砲(てつはう)
発音は、てつほうorてっぽう。直径15cmの陶器製爆弾です。
ちなみに背後の蒙古襲来絵詞は、2021年に国宝指定されています。 -
使用前の発掘物をX線撮影したことで鋳鉄片/陶片が詰め込まれてることが分かりました。導火線に点火し、爆発すると鉄片陶片が飛散して殺傷能力を発揮します。単に、音/光/煙で驚かすだけのものではないことが解明されました。
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竹崎季長が鉄砲と呼んでいるので、鉄製のものもあったのかもしれません。
個人的には、鉄片を包んだ砲弾だから鉄砲かと思います。 -
牡鹿と牝鹿を彫りこんだもので、皇帝が高貴な人物へ授けた特別なものです。
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鬣も精巧に再現されています。
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1号沈没船
2011年に発見、中国船独特の構造が見られます。海底を写したものです。竜骨の長さは12m、よって全長は20mほどあったと推定されます。 -
2号船
2015年に発見。船らしい輪郭が見えます。いずれも引き揚げることができなかったので、保護して埋め戻しています。フナクイムシの被害に遭わないよう、無酸素状態にします。 -
予算と技術があれば、写真のように引き揚げて展示できました。
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ガイダンス施設横の保存施設へ移動します。
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2号線の隔壁板を3枚引き揚げます。船の横の力を受け止める大事なパーツです。
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5mある実物は、大きすぎて全体を把握できないほどです。
脱塩/脱アルカリ措置を施した後、乾燥による収縮で変形しないようPEGを含ませ保存処置します(最近はトレハロース)。脱塩/脱アルカリは、対象物質によって薬品を変えます。 -
3号船
2024年の調査で確認されました。 -
明らかに船だとわかります。引揚は行っていません。
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元の軍船には、船尾に碇(木偏に定)が備え付けてありました。
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碇を上下するための滑車も装備されていました。
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滑車と碇を実物大で再現した写真
(韓国木浦の国立海洋遺産研究所) -
元寇船引き揚げ3号碇
先端部分と碇石(2石分離型)が展示されています。
碇石は、左右併せて340kgほどです。 -
引揚部分が茶色で表現されています。
1994年に発見/引揚され、脱塩処理(3年間)/PEG前処理(1年)/PEG含侵処理(10年)/真空冷凍乾燥処置を経て、ようやく2011年に公開されます。 -
発見時の状態
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写真に写っていた挟み板の部分
とにかく大きいです。 -
海底に埋まっていた時の状況
1994年に確認された部分に該当します。
碇はすべて南を向いており、強い南風を受けて難破したことが分かります。 -
展示されていない史料は、こんな感じで保存されています。
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3号碇は、かなり大きかったみたいです。写真に納まりきれません。全長7m
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1号碇
鷹島遺跡で見つかっている中では、唯一の一石型の木製いかりです。1994年に発見後、予算不足のために現地を保存、クラウドファンディングを経て2022年に引き揚げました。石の部分は230cm。 -
木の部分は、現在含侵処理中です。トレハロースを使用することで、処理期間がかなり短縮されます。他の行程も、技術革新か段取向上か大幅に短縮されています。
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処理機械
太陽熱で溶液の温度を上げる等、エコみたいです。
保存過程を見学できる点で、卓越した施設でした。 -
その他発掘物
鎌倉時代後期~室町時代にかけて100年ほどの期間に空白が発生しています。
このことは、鷹島の壮絶な戦いで島民が全滅したという言い伝えと合致します。 -
元の鎧(模造品)
胴の前面内側には鉄札を張り、鋲留めしています。袖の部分はなく、騎馬戦をルーツとする構造です。 -
鎖鎧(模造品)
チンギスハンのペルシャ遠征で伝来したと言われています。 -
鷹島は、阿翁石というブランドの玄武岩が産出します。室町時代に元寇の戦士らを慰霊するために石碑を立てたのが始まりと言われます。
では、野外を歩いてみます。 -
こんな光景の県道を1.5kmほど東進すると、
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県道沿いに大きな石碑が
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兵次郎の墓
対馬の守護代宗助国は、敗北を悟ると家臣二名に事の次第を大宰府へ報告するよう兵次郎らに命じます。使命を果たすと、少弐景資の旗下で博多戦に参加します(文永の役)。
弘安の役では鷹島へ赴き、戦死します。眼下の祈りヶ浜は、島民の最終避難地でもありました。 -
今も献花が途絶えません。
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近所は、マグロの養殖地があります。栽培というそうです。もう少し進むと、本土(佐賀県)と繋がる鷹島肥前大橋が架かります。
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旧鷹島町の中心部は丘の上に有り、標高80mほどを維持しています。アジフライで有名なお店もあります。
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供養の元
元軍の兵士の首を吊るした場所と言われ、明治維新までは罪人の斬首の場でした。 -
旧町役場現支所。
周りに営業している商店がありません。 -
島内で、ちょこちょこ見かける謎の看板。JTのキャッチコピーをそのまま手書き。
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わき道にそれると、小学校跡が。
現在は、埋蔵文化財センター周辺に文教施設が集約されています。 -
棚田の間に
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共同墓地があります。
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その中に対馬小太郎の墓があります。
小次郎と同じく、対馬襲来の報を大宰府へ伝え、文永の役を少弐景資の旗下で戦います。弘安の役では鷹島へ援軍に赴き、重傷を負って自刃します。遺言に従い、対馬の見える丘に埋葬されました。対馬小太郎の墓 名所・史跡
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望郷の念を誘う光景です。
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道路を挟んで向かい側には、刀の元の六地蔵が。
弘安の役で、元の捕虜を斬首した場所とされます。
戦争では、お互いに残酷なことをしています。 -
六地蔵に赤土が塗られています。
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昔から子どもの病気の快復を祈願する習慣があり、治癒すると赤土を塗る風習が続いています。
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葉タバコ生産が、町の産業の一角を担います。
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殿が浦港が見えてきました。
ここからは、ひたすら下り坂。 -
船唐津港の方には、江戸時代に引揚られた高麗の仏像や、文永の役で鶏の鳴き声で敵兵に見つかって殺された七名を弔った開田の七人塚などがあります。開田地区では鶏を飼わないという形で、現在まで記憶が残ります。
牧の岳史跡公園 公園・植物園
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フェリーターミナルに到着。
船が出る15分前に切符売り場の窓口が開きます。 -
本土と橋が架かってからは、フェリー輸送は行っていません。新聞は、朝7時台の便で届きます。連絡船が立ち寄る3つの港の中で、最も本数が多いのが殿の浦港です。
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途中飛島へ寄ります。
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小さな共同体です。
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今福港へ到着
背後には、松浦党の歴史と関係のあるぎぎが浜が映ります。今福駅 駅
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松浦市はアジフライの聖地として、アピールを続けています。
今福のお店では、店長が釣り船で一本釣りした鯵のフライと刺身両方を味わえます。 -
見かけは、鯵と無縁のお店です。
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しばらく歩くと佐賀県へ突入
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福島(長崎県)への航路のある浦ノ崎港は佐賀県というロケーションです。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11984252福島口駅 駅
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