2025/05/17 - 2025/05/17
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gianiさん
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2025/05/17
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2005年に平戸市へ編入された生月島は、平戸島沖に浮かぶ全長10kmの島です。1990年代初頭まで、かくれキリシタンのコミュニティが存在した民俗研究の聖地です。公共交通を駆使して島内のキリシタン史跡と展示資料を巡ります。
用語
潜伏キリシタン:幕府の禁教体制下で信仰を実践するために、表向きは神道/仏教徒として生活しつつも、秘かにキリシタンの信仰を実践した人たち。個人での実践継承は不可能で、指導者と組織の存在が不可欠。
かくれキリシタン:幕末の鎖国終了/明治6年の禁教高札撤廃後、宣教師が潜伏キリシタンに接触してカトリック復帰を促すも、応じずに先祖伝来の信仰に固執した人たち。長崎県と天草諸島(熊本県)に分布します。
- 旅行の満足度
- 5.0
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平戸市の交通の中心地である平戸桟橋バス停から、生月バスに乗って生月町博物館島の館へ向かいます。現金払いのみです。
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平戸島と生月島を結ぶ全長980mの生月大橋を渡ってすぐの道の駅で下車。
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生月(いきつき)町博物館島の館の展示を観ます。
旧生月町は、2010年に平戸市に編入されます。
平戸市/生月町のキリシタン史を学びます。
平戸島は九州の570m沖に浮かぶ全長32kmの島で、平戸大橋で九州と繋がります。
生月(いきつき)島は平戸島沖800mに浮かぶ全長10kmの島で、2005年に平戸市に編入、生月大橋で平戸島と繋がります。 -
日本にキリスト教をもたらしたザビエルは1550年に平戸に2ヶ月滞在し、200名に洗礼を施します。鹿児島に次ぐ日本で2番目の布教地です。
1553年にカーゴ神父が平戸に教会を設立、松浦隆信重臣(一族)の籠手田安経/一部勘解由も入信します。 -
1558年には、ヴィレラ神父が籠手田領(度島/生月島南部/平戸島西岸)で布教し、領民を一斉改宗させます。日本最初の一斉改宗エリアです。
1661年には、アルメイダ修道士が籠手田領内に教会を建設し、1664年には平戸にも教会が建ちます。
1565年にはカブラル神父が一部領(生月島北部/平戸島西岸)で領民を一斉改宗させます。 -
篤信な領主の下で、キリシタン信仰は維持されました。しかし1599年に松浦隆信が亡くなると、跡を継いだ鎮信は家臣全員に法要参列を強制します。
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信仰上参列できない籠手田/一部氏は、信徒600名を率いて長崎へ亡命します。籠手田/一部領では寺院が再興され、教会が破却されます。平戸勤務の籠手田氏に代わって現地で統治に当たっていたガスパル西玄可は罷免され、島内の信徒を信仰面で指導しますが、1609年に藩主に処刑されます。
幕府や他藩では1612-14年にかけて禁教令が出され、教会や布教がNGとなります。元和の大殉教(1622)に呼応して、平戸藩ではカミロ神父が焼罪(やいざ)で処刑されます。神父を支援した信徒は、中江ノ島で処刑されます。 -
1638年に島原天草の乱が鎮圧されるとポルトガル船の来航が禁止され、宣教師の密入国ができなくなります。密告/五人組/寺請制度/絵踏み/宗門改め制度等で、全国民を監視するシステムを構築します。
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潜伏キリシタン
厳しい弾圧の中で信仰を守るべく、潜伏キリシタンとなります。表面的に神道/仏教の習慣を守りつつ(信仰合同)、宣教師が伝えたカトリックと融合する様式を築き上げます。弾圧以外にも、宣教師が日本から消滅したことと日本人宗教指導者が育たなかったことが背景にあります。
※宣教師が布教した中南米/アフリカでも、カトリックと先住民の宗教が混在した信仰が現在も続いています。 -
天下泰平の18世紀になると、幕藩体制に逆らう行動を取らない限りキリシタンの信仰を黙認する世の中に変わります。生月島では捕鯨が盛んになり、西日本全体と関わる活発な経済活動がキリシタン共同体を維持する基盤となります。
隣の大村藩領では生活が困難になったキリシタン共同体は未開の地へ集団移住し、平戸島も移住先の一つでした。 -
信仰を維持する母体…「慈悲の会」/「信心会」
信仰は、個々が組織されることで(コミュニティ)維持継承されました。イエズス会は布教時に、教会のある村落毎に「慈悲の会」と呼ばれる組織を作りました。慈悲の会では、慈悲役という役職(任期制)が複数人に割り当てられました。慈悲役は信者/教会の世話、冠婚葬祭/洗礼を執り行いました。慈悲の会は、数軒毎に「小組」と呼ばれる下部組織に分かれていました。
もう一つの形態は「信心会」で、1580年代以降に誕生します。特定の聖人を信心し、慈善事業などを行います。自然発生的組織で、任意加入というのが特徴です。禁令で教会が棄却されると総員加入となり、慈悲の会と同じ役割を果たすようになります。 -
信者の分布
早くも1599年に宣教師が駆逐され信徒が迫害された現平戸市域は、信心組を母体とする信仰集団が禁教時代に維持されました。
一方、浦上/外海は宣教師の布教拠点長崎に近く、1642年まで宣教師がいたこともあり、教会組織直系の「慈悲の組」を母体とする信仰集団が維持されます。教義面でもより洗練されています。江戸時代は概ね大村藩領となり、人口抑制生活の影響を受けて五島藩域に集団移住します。平戸島へも無切手で移住(逃亡)します。 -
補足
耕地面積拡大に伴う17世紀の人口増加が日本全国で見られましたが、山地の多い大村藩領は漁業/農業で人口を賄えず、1796年には次男三男の分家/30歳未満の男性の結婚が禁止されるに及びます。大村藩は五島藩と交渉し、1797年に五島列島への108名の入植が実現します。それとは別に、特に耕作地が少なかった外海地区では95名が平戸島へ無許可で逃亡しました。藩外への移住は、潜伏キリシタンが信仰を維持する手段の一つでした↓
https://4travel.jp/travelogue/11828847 -
潜伏の終わり
最期の宣教者が殉教して以来、バチカンとのかかわりが200年以上断絶した異常な環境は終息へと向かいます。1858年に鎖国政策が終わることで1864年に長崎の外人居留地に教会(大浦天主堂)が建ちます。浦上地区の潜伏キリシタンが、プティジャン神父に信仰告白します(1865「信徒発見」)。バチカンは、パリ外国宣教会を通して司祭を派遣し、潜伏キリシタンと接触を図ります。
※18世紀にイエズス会はヨーロッパ諸国の政府と対立し、1773年に政治的判断で教皇によって禁止され1814年に復興しました。バチカンは、幕末に日本布教の任務をパリ外国宣教に割り当て、機会をうかがっていました。 -
1873年(明治6年)に禁教令が解除されると、潜伏キリシタンのカトリック復帰を目指してペール神父が平戸市域にも派遣されますが、生月島の信徒の多くは神棚/仏壇を捨てることの違和感から復帰を拒み、「かくれキリシタン」として独特の信仰を継続します。平戸島東岸へ移住した外海移住者は概ねカトリックに復帰しています。
写真は慶応4年3月に新政府(太政官)が出したキリシタン禁制の高札。明治政府は神道を国教とし、潜伏キリシタンを迫害しましたが、岩倉使節団が条約改正を求めて欧米を歴訪した際に、浦上四番崩れのキリシタンへの虐待を各国で抗議され、1873年に高札撤廃にいたります。 -
かくれキリシタンは農林水産業従事者が圧倒的で、高度成長期に過疎化が社会問題化すると継承者が減少し、1988年に組織立って活動するのは生月島のみ、1990年代半ばには激減で組織が崩壊します。彼らの信仰は、自治体や研究者が儀式等を映像に残すことで現在に伝わります。
続いて、生月島のかくれキリシタンに特化して掘り下げます。 -
聖水信仰
洗礼等に使うために聖職者が聖別すると、聖水になります。またルルドの泉のように聖水が自然に湧き出る「奇跡」も存在するとされます。平戸島と生月島の間に浮かぶ中江ノ島(写真)にも聖水が湧き、飲むと難病が治る等の奇跡が起きたとされます。1560年にフェルナンデス修道士、1564年にルイス・フロイス神父の書簡を見ると、平戸で聖水信仰が盛んだったことが分かります。 -
聖地となった中江ノ島
処刑されたカミロ神父を支援(宿提供/渡航手引き)したとして、1622年にジュワン坂本左衛門/ダミヤン出口らが中江ノ島で処刑されます。1624年には彼らの親族も中江ノ島で処刑されます。聖水の地には「殉教の地」という要素が加わり、生月島の信徒にとって中江ノ島は聖地となります。
1645年に平戸藩士熊澤作右衛門をトップとした検挙/処刑を最期に、激しい迫害は終息します。生き残った信者は独自の信仰を実践する方法を模索するようになります。 -
聖地と聖水信仰
聖職者不在の中、洗礼などの秘事に必要とされる聖水をどうやって手に入れるかは大問題です。中江ノ島で汲んだ水は奇跡の水なので、聖水であるということで解決を試みます。聖水は小分けにされ、聖水の入った容器(お水瓶)を各家庭で祀ることが行われました。生月島独自の信仰です。写真は江戸期の聖水保存容器で、特に手前左の2本が17世紀中頃(独自の信仰を実践する方法を模索した時期)のもので、いずれも山田集落のものです。奥左/手前中の2本は壱部集落のもので、1700年頃のものです。聖水をお水瓶で保存する行為は、山田で始まったと思われます。 -
聖水信仰の理由付け
壱部集落には、洗礼者ヨハネがお水瓶を持ち、背後に中江ノ島が描かれた聖画があります。中江ノ島は、「サンジュワン様(ポルトガル語で洗礼者聖ヨハネ)」とも呼ばれます。洗礼には聖職者によって聖別された聖水が必要ですが、聖職者不在の中でも洗礼に使える本物の聖水があることをこの絵は意味しています。
また物品の出どころと年代から、この論理付けが山田で考え出され、壱部、島全体へ広がったことが分かります。
※浸礼者(バプテスト)のヨハネは、ヨルダン川でイエスに浸礼を施した人物です。中江ノ島で処刑されたジョアン(ヨハネ)坂本が、浸礼者ヨハネに転化したと想像できます。 -
お水取り
各津元の聖水が少なくなると、臨時で船を出して中江ノ島へ赴きます。壁面から染み出る水を、茅の葉を通して一升瓶に汲みます。御爺役らがオラショを唱えることで魂入れを行い、水は聖水(お水)となります。写真は、堺目の津元。 -
こちらは、山田の津元。島は聖地なので、土足と不信者の侵入は禁止されています。
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生月島の信仰組織
生月島では、大字ごとに「御爺」と呼ばれる役がいます。組織最上位に位置し、洗礼/葬儀を行える唯一の役職です。御爺役が複数人いる大字もあります。儀式上の清さを保つために、女性と交わらない/洗濯は別に行うといった生活を送ります。
信心組を起源とする数十軒単位(字/小字に対応)の「垣内」「津元」が組織の中枢を担い、御神体を祀る家を津元/宿、家主を親父役/番役と呼びます。写真は親父役が儀式で着用する着物。
垣内/津元には数軒単位で組織された下部組織「小組」「コンバンヤ」に分かれ、各小組(コンパイヤ)は「み弟子/役中」と呼ばれる組頭が取り仕切ります。小組では「お札様」が御神体として祀られます。儀式の多くは津元単位で行われ、親父役と各組の役中が参加します。
サンジョアン様(中江ノ島)を頂点とする諸聖地(島内の殉教の地)も多く存在します。 -
お掛け絵
親父役宅は教会のような役割を果たし、祭壇と聖像に対応するものとして御神体のお掛け絵が飾られます。聖書や聖人を題材としたもので、周囲に信仰を隠すために普段は箱等に仕舞って保管しておきます。経年等で劣化すると、新しく描き替えます(お洗濯)。長い禁教期間に教義が失われ、本来誰/何を描いたものなのか(潜伏キリシタンにとって)わからなくなり単に男神/女神/殉教者として信仰されました。写真でも、壱部の洗礼者ヨハネは、髷を結って江戸時代の町人風情で描かれています。 -
御神体となるお掛け絵のモチーフは、聖母子/キリストが多いです。1587年の豊臣政権によるバレテン(宣教師)追放令で宣教師が安全な生月島へ一時避難に伴い、島内にセミナリオ(小神学校)が設立され、その際に聖画が大量生産されたことが背景です。
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オラショ(もんじゃもんじゃ)
ラテン語で唱える祈祷文(ラテン語oratio)で、行事で欠かせないコンテンツです。生月島では16世紀に信者が覚えた30ほどのオラショが存在し、男性信者は全て暗唱することが求められます。メロディの付いた唄オラショもあります。山田地区では、17世紀の殉教者に対して唱える日本語の唄オラショも存在します。キリシタンにとってオラショは、信者が唱えることで神と繋がり、自分たちの思いや願いを天に伝えるためのものです。 -
お札様
ドメニコ修道会の娯楽に由来し、親札と十五玄義を書いた札(合計16枚)で構成されます。男札と女札の2セットがあります。コンパイヤ毎に集まって袋の中の札を探って引き、札の吉凶で運勢を占います。親札を引くと大吉です。 -
オテンペンシャ
46本の縄を束ね、一方を括って手で持てるようにします。家祓い/野祓い行事の際に、魔物/穢れを祓うために使用します。その際には、ミジリメンというオラショが唱えられます。悔悛を意味するポルトガル語のpenitenciaが語源で、元々はキリスト受難の時期に行う苦行の際に用いられた鞭だと思われます。 -
お札様の表面
上が親札
下3列が3つのモチーフ
聖画/鞭/お札といった信仰用具自体を信仰対象になった経緯は、1591年に教皇グレゴリウス14世による大赦(聖具を所有し祈ることで贖罪が与えられる)が大きく関係しています。 -
裏面
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参考:マリア十五玄義図
聖母マリアをめぐる15の神の教えという意味で、受胎告知に始まる「喜び」/キリス ト受難を描く「苦しみ」/キリスト復活とマリア昇天までの「栄光」の各5場面から成ります。各場面に対応する15のオラショ(祈祷文)がを唱えながら崇拝しました。 -
お水瓶
中江ノ島島で採取した聖水を保存しておく高さ20cmほどの鶴首の陶器製の瓶で、丸めた紙で蓋をしています。使用時は、イズッポと呼ばれる木の枝を口に差し、お祓いをする際にイズッポで振り掛けて清めます。聖水は継ぎ足さなくても減ることはなく、むしろ増えるとされています。各家庭に配布されました。
最近ではペットボトルも使用されます。 -
おまぶり
和紙を切って作る十字架で、健康のお守りとして人間や牛に飲み込ませる、家の柱に貼る、集落境や牧野に納めて魔除けとして使用されます。 -
祠(オコクラ)
禁教下では信仰を実践する姿を人々に見られないように、日常では信仰用具を箱に納めましたが、次第に木製の祠(オコクラ 写真)に納められるようになります。 -
納戸神
禁教下では祠を納戸に収納しておきました。納戸は土間から一番遠い家の最奥部にあり、窓もありません。行事の際には信仰用具(御神体)を出して、写真のように飾って秘かに執り行いました。昭和40年代になると、トレンドの2階建てに改築時に神様を足で踏む(2階へ行く)ことは失礼に値する、賑やかな座敷に祀った方が神様も喜ばれると壱部種子津元の親父役川崎氏が考えたのが始まりです。 -
行事
人生儀礼/年間行事に大別されます。
お授け
洗礼のことで、(慈悲役の流れを汲む)御爺役が潜伏時代から伝わる日本語の文句を唱えながら水でヘコ子(受洗者)の額を洗い、聖水をイズッポで振り掛けます。受洗者にはヘコ親が立てられました。禁教以降は布教(新規信者獲得)は行われず、禁教撤廃後も親から子へ継承されるのみです。乳児ではなく、10歳頃に施します。 -
風離し(写真)
死者は悪い風邪に罹ったと考えられ、風離しの養生を行います。3人が遺体の周りに正座し、ミジリメンを63回唱えて聖水とオテンペシャで遺体を祓い、煎り大豆を四方に撒きます。その後「道均し」を行います。
戻し
最も重要な儀式で、死者のアニマ(魂)をパライゾ(天国)へ送ります。遺体を蝋燭でかざしながらオラショを唱えます。 -
墓制
遺体は中江ノ島の方向を正面にして埋葬します。年忌にはオラショを唱えます。
禁教前は寝官に仰向けに埋葬しましたが、禁教以降は総じて座棺(桶)に変わります。墓標は禁教前は長方形/半円形(かまぼこ型)でしたが、石を長方形に敷き詰める/長方形に積み重ねるスタイルになります。 -
潜伏キリシタンが直面した信仰面での諸問題
檀家制度で、すべての領民は仏教徒であることが強制されました。それゆえ表向きは仏教徒であることを装いながら、秘かに信仰を実践する必要がありました。僧侶による葬儀も必須でした。
定期的に行われる絵踏み行為(写真)/宗門改め(口頭で信仰を否認する)は、信仰を否定(棄教)することを意味します。
いずれも重大な逸脱で破門される内容ですが、彼らは毎回悔恨の祈りを捧げることで帳尻を合わせようとしました。 -
純粋な信仰心を示した信徒はカトリックの教義に従い、信仰合同/信仰の否認/信仰対象への侮辱行為を行えず殉教を選びました。それ以外の人々は信仰面で妥協することで生き延びます。聖職者から直接教わる機会がなかった世代以降は、教義に対する理解が極端に浅いことも大きく関係します。特に生月島では、信仰合同に対する罪の意識がありませんでした。
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信仰合同
潜伏/かくれキリシタンは一般に、檀那寺/布教前から続く民俗信仰を取り込みますが、早くに聖職者がいなくなった生月島では、氏神(神道)/荒神(天台宗)/弘法大師(真言宗)/死霊様(ホウニン)等、様々な信仰を抵抗なく受け入れた点が特徴です。
写真では、屋内だけでも左から順に弘法大師/仏壇(檀那寺)/納戸神(キリシタン)/神棚(神道)が並びます。 -
潜伏/かくれキリシタンの家屋
入口で、まず目につくのが荒神(天台宗)の神棚です。役人に踏み込まれたときに、仏教徒であることをアピールするためです。土間を上がると、仏壇(旦那寺の宗派)/弘法大師(真言宗)を祀る棚。平戸は山岳信仰に伴う真言宗が盛んで、生月島内で八十八霊場巡りができます。
座敷には、氏神の神棚があります。右奥の納戸は人目に触れない秘密の空間で、キリシタンの信仰にまつわるものが収納されています。
※迫害が激しかった17世紀は、信仰対象を陶器に入れて地中に埋めて隠していました。 -
家屋を再現したスペース。
写真は、昭和初期の行事の様子で、御爺役/親父役/役中が揃ってオラショを唱えています。他の地域では、警戒のために無言か小声で唱えました。 -
1967年に撮影された生月島のよくある光景。
手前の母屋は、軒下のみが瓦葺きです。真ん中の納屋、奥の牛舎も皆茅葺屋根で、牛舎の壁は石積です。 -
カトリック由来の年中行事
御産待ち/ご誕生(クリスマスイブ/クリスマス:旧暦11/19,20)、悲しみの入り/上がり(灰の水曜日:旧暦12/16,2/3)、お弔い(諸聖人の祝日)などが行われます。例えば御産待ちでは、出産を控えた妊婦がお参りに来ます。 -
かくれキリシタン独自の年中行事
各行事には酒食が伴い、互いに集まり合うことに地域社会から警戒感を持たれないような配慮(カムフラージュ)がなされます。
元日には、津元を司る親父役宅にある「御前様(主要な御神体≒聖画)参詣」が行われます。各組が御前様へ供える鏡餅を持参して親父役宅を訪れます。
1/2には、鏡餅を切って聖水で清めたものを再び配る「餅均し」が行われます。
1/4には、親父役が津元の各家庭を訪問して家屋や井戸を聖水とオテンペシャで清める「家祓い」が行われます。屋内に貼るオマブリも配ります。 -
独自の行事(農業系)
山野を祓う「野立」(1/6)には、放牧地を祓う野祓い/池に住む魔物(カッパ)を祓うことが含まれます。麦祈祷(4月頃)/田祈祷(5月中旬頃)/風止め願立て(9月上旬頃)等も行われます。 -
おなわり(3月)
山田や元触では津元が輪番制で、数年に一度の交代時は婚礼を模して盛大な移動が行われます。その際は御前様(御神体)も祠に納めて神輿台に載せて担がれて移動します。
※一部は世襲制、堺目は1980年頃から3つの津元が1つのお堂に合祀しています。 -
島内の殉教者の命日行事
1/16のダンジク様の命日に参詣します。ほかにはジビリア様(8/28)/エステワン様(12/19)/ジワン様(12/20)等があります。これらは津元/組とは別組織の講が組織されて信心します。 -
生月島かくれキリシタンの信仰まとめ
宣教師から教わった祈祷文と儀礼が16世紀の姿で継承されていますが、行為の本来の意義は失われ、意味は分からないが行為をする/聖人が島の殉教者に摺り替わっているのが現状です。教義的側面よりも儀礼的側面が重視されます。
他宗教との融合に抵抗がなく、仏教/神道/民俗信仰が共存する社会です。それゆえ、地域社会から孤立することなく共存しました。年間行事は、盆/正月/祇園様/節句といった神道/仏教等の教えに由来するものの方が多いです。 -
現状
捕鯨/土木技術(出稼ぎ労働)等の潤沢な経済的基盤をバックに、出費の多い信仰実践(酒食の伴う30以上の年中行事)を維持できたことが挙げられます。信仰合同への抵抗感が薄くカトリックへ復帰せずに信仰を実践しましたが、構成員の大半が農業従事者ゆえに高度成長期に信者が減少するも日本最期のコミュニティを維持しましたが、1990年代には組織が解体され、信仰は個人レベルで断片的に実践する高齢者が残るのみです。民俗文化財的観点から自治体/学界が、活字/映像等で祭具/行事/祈祷文等を保存しています。
参考までに1988年には、4つの大字で御爺役8名/御番役19名/67組/310世帯/信者は各世帯で平均1名です。オラショを唱えられる男性信者も全体の数割です。 -
では、現地へ赴きます。
平戸発のバス終点の加勢川入口で下車。平日8本(休日6本)です。
現住所は壱部です。北端の御崎までは、平日3本(休日2本)です。
近くの谷地(地点を特定できず)には、種子津元が旧暦10/8-11に命日を祝う「茶屋のジサンバサン」の命日を祝うの屋敷跡があり、現在バクチノキが植わっています。老夫婦は茶屋に化けた役人に家の中の御神体が見つかり、処刑されました。 -
一部桟橋で下車。平日8本(休日6本)です。平成までかくれキリシタンコミュニティが存続した4地区の一つ「在壱部」の中心です。
現住所は平戸市壱部浦です。北部の中心で、海岸沿いに旧町役場まで市街地を構成します。くつろぎの宿 山屋旅館 宿・ホテル
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海岸段丘に位置する公園。未登録スポットなので、グーグルマップで壱部浦北児童遊園と検索してください↓
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%A3%B1%E9%83%A8%E6%B5%A6%E5%8C%97%E5%85%90%E7%AB%A5%E9%81%8A%E5%9C%92/@33.39573,129.4331944,17z/data=!3m1!4b1!4m6!3m5!1s0x356afbc1b975d463:0x9b509be07a5af487!8m2!3d33.39573!4d129.4357693!16s%2Fg%2F11qg1k7y9l?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDgyNS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D -
実は、地名の由来でもある一部氏の屋敷跡です。
1557年にカーゴ神父から洗礼を受けた一部勘解由(かげゆ)の本拠地です。松浦隆信一族の籠手田(こてた)安昌の次男で、生月島北半分を領地とする一部氏に養子入りして松浦氏の権力基盤を強化しました。 -
園内には石碑も。
洗礼名はドン・ジョアン勘解由で、高潔武勇な人柄もあって1665年に領民を一斉改宗させます。信仰面での妥協(仏式葬儀参列)を拒み、1599年に領主の座を捨てて領民と共に長崎へ出奔。命日の8/29(旧暦)は、かくれキリシタン祝日の「お屋敷様」。 -
屋敷跡は「お屋敷山」「お屋敷様」と呼ばれ、聖地とみなされました。写真は昭和初期の姿で、1967年に児童遊園として整備されました。
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禁教が解除されると、お堂が立てられました。
台座には、元旧キリシタン…二十人の霊…という文字が見えます。 -
壱部の隠れキリシタンの唄オラショ「グルリヨーザ」は、グレゴリオ聖歌の一つ「栄えある聖母よ」と歌詞/メロディが一致することが学術的に確認されました。
※1563年のトリエント公会議で、ミサでグレゴリオ聖歌が使用されないことが決まったので、16世紀半ばの信仰形態が保存継承されていた点でも興味深いです。生月島 自然・景勝地
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壱部は、18世紀に日本有数の捕鯨網元益冨家の屋敷があり、経済的繁栄を享受しました。自らの漁域だけでなく、最盛期は択捉島まで鯨組へ組員を応援派遣しました。
益冨家住宅 名所・史跡
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生月小学校正門側(写真)の対角にある入口付近には、脇の森にアントー様と呼ばれる祠があります(おまわりさんに訊ねたが、場所が分からないと回答)。アントニオ庄平
という有徳の殉教者を葬った場所とされます。現住所は里免で、平成までコミュニティが残ったかくれキリシタン4集落の一つ「堺目」に含まれます。里免には、4集落の一つ「元触」も含まれます。 -
焼山が見えてきました。
1599年の松浦領禁教時に殉教者の死体が焼かれたことが名前の由来です。 -
自治体公式の案内表示があります。グーグルマップで目印がないので、案内表示の座標を記します↓
https://www.google.com/maps/place/33%C2%B023'32.2%22N+129%C2%B025'49.6%22E/@33.3920761,129.4311693,18z/data=!4m4!3m3!8m2!3d33.3922778!4d129.4304444?hl=ja&entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDgyNS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D -
石碑と案内板は草の中
前出の籠手田(こてた)安昌の長男である籠手田安経(1532-82)の領地です。安昌/安経親子は松浦氏の家臣筆頭で、キリシタンでもありました。ドン・アントニオ安経は1661年に日本で初めて領地で一斉改宗を行った領主で、同年に焼山付近に堺目教会が建てられます。1587年の秀吉による伴天連追放令時には宣教師の避難所になり、堺目教会にはセミナリョ(神学校)の移転しました。息子の安一(ドン・ジェロニモ)は、1599年に領主の座を捨てて長崎へ出奔します。 -
教会跡には堺目の3つの津元が合同で建てたお堂で1943年に設立、1983年改築。改築時には3つの津元を1つに、19の組を8つにまとめて合理化を図りましたが、結果的に組織が弱体化します。お堂は、里の上川津元にもあります。旧町役場のある宮田バス停から山を登ります。
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内部は、こんな感じです。
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更に山を登ると、
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幸四郎様の看板が
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溜池の横に
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幸四郎様と呼ばれる祠が。位置情報のリンクを入れます↓
https://www.google.com/maps/place/33%C2%B023'32.2%22N+129%C2%B025'49.6%22E/@33.3916431,129.4251456,19z/data=!4m4!3m3!8m2!3d33.3922778!4d129.4304444?hl=ja&entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDgyNS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D -
洗礼名パブロー幸四郎で、元々は役人として堺目の信者を捕縛しに来ましたが、急に目が見えなくなり、信者の助けで視力を回復し入信、幸四郎山と呼ばれる現地で殉教の死を遂げました。写真は昭和初期の現在地です。
※パブロー(パウロ)の逸話は、使徒行伝8章にあるパウロの改宗のエピソードをそのまま盗用しています。 -
海を見下ろすと中江ノ島が小さく見えます。
中江ノ島 自然・景勝地
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市立生月病院の横で、バス通りの県道に合流します。
ここは島の南北を分ける峠です。 -
ガスパル様の看板が
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ガスパル様
領主籠手田安一に代わって現地で統治に当たっていた代官西玄可の洗礼名がガスパルで、1599年に籠手田/一部氏の出奔後は島内の信徒を信仰面で指導しますが、1609年に捕まり処刑されます。殉教地は1563年にトレス神父が十字架を立てたことから、クルス(十字架)の辻と呼ばれ、訛って黒瀬の辻となります。殉教地ガスパル様(クルスの丘公園) 公園・植物園
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バス通りから天満神社(禁教前の教会跡)方面へ逸れると、井上氏の墓地が。
ガスパル西玄可が1599年に罷免された後に代官を継いだ家系で、井上信貞はガスパルの処刑を担当します。西玄可とは友人かつ両家は姻戚関係もあるので、棄教を勧めますが叶いませんでした。クルスの辻の前での処刑を希望した西の願いを叶えます。 -
墓碑
位置情報を入れておきます↓
https://www.google.com/maps/@33.3691887,129.4263447,19z?hl=ja&entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDgyNS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D -
その先には、カトリック山田教会が。
1878年にカトリックに復帰した22名が1880年に仮聖堂を献堂、現在は1912年に鉄川与助が設計したロマネスク様式の歴史的建造物です。
ちなみに壱部教会は1879年にカトリックに復帰した信徒が1884年に建設、現在は1964年改築の建物、山田教会から神父が巡回します。山田カトリック教会 寺・神社・教会
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礼拝中で、中は入れませんでした。
カトリック復帰は、かくれキリシタンと神道/仏教界の反対を伴い、14か条の村八分条項を作るも、警察署の介入で阻止。差別は大正期まで続きます。 -
創建時のファサード
1970年の増築で鐘楼等の付いた現在の姿となっています。
写真を撮影した田北耕也(1896-1994)は日本のかくれキリシタン研究の先駆けで、この旅行記の昭和初期の写真は、全て彼が撮影しました。 -
敷地には、1987年に列聖(聖人認定)されたトマス西(1590-1634)の記念碑が。ガスパル西の次男で、1620年にマニラに渡り、24年にドメニコ会士、26年に司祭に叙階、禁教下の九州に潜入するも34年に逮捕、長崎の西坂の丘で逆さ吊りにされて殉教。兄と母は父と共に殉教、弟のミカエルもトマスと同年に殉教。
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大氣圏 グルメ・レストラン
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平戸藩内で最期のキリシタン摘発(1645)の際に、山田/舘浦地区の大勢の信徒を白浜で処刑し、浜は地で赤く染まりました。人々は集落の端に遺体を葬り、塚を立て松も植えました。現在は住宅地になっています。遺体の数があまりにも多かったので千人塚と呼ばれます。
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島の館へ行かずに直進すると、ダンジク様です。
生月町博物館 島の館 美術館・博物館
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ダンジク様
キリシタン狩りの追及を逃れて隠れたものの、幼い娘が海岸で遊んでいるところを船に乗った役人に見つかり、親子3名が処刑されました。だんじく様 名所・史跡
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島の館で展示されていた聖画:本来のルールとの相違点をコメントしますが、純粋に絵心を堪能してみて下さい。なかなか味があります。
無原罪の御宿り:マリアは原罪から解放されているというカトリック独自の教義の事で、マリアが母アンナによって受胎した時点を描いたものです。星の冠を戴いて三日月の上に足が載るのがお約束ですが、頭は十字架で、足は太陽と月の上に載っています。足元には、仏教の五色の彩雲。そして日本人の顔と衣装。乳房丸出しも反則。極めつけは、マリアは胎児なのに既にイエスが誕生して抱かれていること。種子津元。 -
同上、種子津元。
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同上、山田集落正和6津元
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同上
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聖母の被昇天
マリアは聖霊の力で死後すぐに肉体と霊魂を伴って昇天したというカトリック独自の教義。石棺から昇天するのがルールだが、足元の三日月からして無原罪の御宿りと混同している部分が。そして幼子イエスを抱いたまま昇天もありえない。マリアは天女と江戸時代の髪結をミックス。天使はオジサン顔ばかり。 -
ダンジク様 舘浦ダンジク講の御神体
処刑された家族を描いていますが、父親の後ろの後光は仏か菩薩を連想させます。 -
受胎告知、舘浦黒田家
大天使ガブリエルが処女マリアに懐妊を伝える場面。通常は描かれない天上のデウス(Deus:ラテン語で神の意味)も描かれています。懐妊なのに、既にイエスが誕生して左腕に抱かれているのが傑作。受胎告知をモチーフにしたものは、島内で唯一です。 -
大天使ミカエルと洗礼者ヨハネ 壱部
お水瓶(洗礼:生を司る)と大きな剣(死を司る)から、生と死の聖人をモチーフにしている解釈。 -
洗礼者ヨハネ 壱部
椿は、斬首を意味するアイコン。米俵を持っているのは、稲の受粉期と実の成長期に強風が吹かないように、中江ノ島へお祈りに行く壱部の行事と関係しています。 -
洗礼者ヨハネ 壱部岳の下津元
椿が斬首を表し、洗礼者ヨハネとわかる。太陽と月、町人風に髷を結った姿等、突っ込みどころは無限。 -
おまけ
島の館の前のバス停近くには、絶品ミルクセーキを出すお店があります。 -
泊った民宿の女将から、トライしなさいと推された逸品です。
こんなクラシックな機械で作ります。 -
卵のテイストが心憎いです。
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子どもたちは、テイクアウトでかき氷と今川焼を買っていく子が多かったです。
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ぜひ、お試しあれ。
次は、平戸島のかくれキリシタン集落を歴訪します↓
https://4travel.jp/travelogue/12000874
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