2025/05/25 - 2025/05/25
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gianiさん
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城下町と武家町に囲まれた江向地区は、土地事情も悪く洪水に一番弱いエリアのために、開発が遅れていました。用水路「藍場川」の開削で、人家が目につき始めます。
幕末には、藩校明倫館が移転して明治維新の原動力となります。現在も官公庁エリアが大きな部分を占めますが、歴史と情緒のあるエリアを歩くと萩の一面が見えてきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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江向地区の歴史
萩の城と町が築かれたのは、標高の高い砂丘地でした。その南側は標高が低くて水はけが悪いので、深田と呼ばれる湿地/沼地でした。大雨による出水時に、遊水地として機能することが期待されます。
1687年に砂丘の南縁に新堀川が開削されると湿地の排水が進み、深田は農耕地(水田/蓮田)へと変化していきます。非常時の遊水地としての保険は残ります。 -
1744年には、大溝と呼ばれる藍場川が開削され、排水が促進されます。
砂丘と橋本川の自然堤防地に挟まれた後背湿地は、城下町から見て新堀川の向かいを意味する「江向」と呼ばれるようになります。
※洪水から解放されたのは、1975年に阿武川上流にダムができてからです。 -
江向の開発
城下町の拡大に伴い、公用地も不足し、1719年に開校した藩校明倫館は広い新キャンパスを求めて湿地の江向に移転させます。その際は湿地にシダを敷き、その上に菊ヶ浜(砂丘)から運んだ土砂を被せて用地を造成します。こうして1849年に巨大キャンパスが始動します。 -
1849年の絵図を見ると新堀川向かいは田地で、明倫館が浮いた存在になっています。
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1849年の絵図を土地利用図に変換すると、江向は緑色の農耕地/農家一色です。その中にほぼ正方形の明倫館が公用地として浮いた存在になっています。
阿武川の三角州(松本川/橋本川)に挟まれた部分は、中世から川島庄と呼ばれ、江戸時代は新堀川より南側が該当します。町奉行の管轄(=城下町扱い)ではなく、当島宰判の管轄でした(=農村扱い)。長州藩は長門国を7つの宰判(行政区)に分割し、代官をトップとする地方自治体制を敷きました。諸藩の郡代に相当します。 -
1960年の空中写真を見ても、江向は島状に田地となっているのが見て取れます。
続いて、長州藩の行政史を辿ります。 -
新田開発
関ヶ原を境に公称120万石から29万石への大リストラを経験し、家臣を養うために他藩以上に苦労します。新田開発により1763年の検地では89万石まで増えます。収入を増やす一方で倹約(支出を減らす)を奨励する二本立てでした。
※諸藩も2倍程は増えています。 -
年貢米は、1.1倍の枡で計測し、正規の1割増しで徴収(搾取)する阿漕なことも行われました。
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宝暦改革
7代藩主毛利重就(しげたか)は長府支藩から養子入りしたこともあり、既存勢力にとらわれない大胆な改革を行います。士農撫育を標榜した撫育方を設置します。1763年の検地では89万石を計上しましたが、帳簿外の公地(藩直轄地)4万石を資金源として、有事に備えた特別会計を捻出します。資金を投資して防長四白(綿/塩/紙/蝋)と呼ばれる商品作物の栽培を奨励し、撫育方の財源を増やします。撫育方の資金で瀬戸崎(長門市)/室積(光市)/中関(防府市)/下関の港を四白の積出港とすべく整備して、北前船の寄港を誘致します。 -
天保改革
幕府の改革は大失敗でしたが、13代藩主毛利敬親(たかちか 在1837-64)が行った藩政改革は明治維新まで続きました。身分を問わず家臣の意見を訊き、越荷方を本格稼働して新たな資金源を創出します。村田清風が登用され、改革を実行しました。アヘン戦争後に国防を重視し始め、1849年に藩校明倫館を拡張します。 -
越荷方
北前船のが日本海を越えて瀬戸内海へ入る地点に位置する下関港で、積荷を預かったり(倉庫業)資金を貸し付けたり(金融業)積荷を委託販売したりして資金を増やしました。
藩の一般会計は大赤字でしたが、撫育方と越荷方からの資金は潤沢で、倒幕運動を賄いました。 -
倹約も努め、敬親も写真の質素な綿の着物を着用しました。
家臣の意見をよく聞くだけでなく実行させたので、「そうせい(そうしなさい)侯」と呼ばれました。 -
村田清風は、1813年に江戸を訪れた際に平和ボケした人々を目にして嘆いた心境を歌に残しています。西洋と日本の格差を痛感し、海防を重視しました。吉田松陰以前に、明治維新の風土は育まれていました。
以上が、萩博物館の展示です。 -
テキストや藩士の発言を見ると、朱子学一辺倒ではなく様々な知識人の思想を柔軟に取り入れたことが分かります。
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黒船来航(1853)で、長州藩も本格的な幕末の渦に巻き込まれます。
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日本最大の千石船の全長は30m未満、一方鉄の装甲と蒸気機関で自走するポーハタン号のは全長80m以上。ペリーは東インド艦隊を組むにあたり、海軍の最新艦をぶつけて日本人にインパクトを与えることを意図していたことが手記等で明らかになっています。
長州藩士の多くは江戸湾の警備を幕府から割り当てられ、緊張を目の当たりにすることができました。 -
近代兵器には、上質の鉄鋼が不可欠です。反射炉を建造して自前調達を目指しました。この書簡は、史跡指定の萩反射炉が試作品であること、本命を建造するも途中で中止に追い込まれたことが分かります。
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西洋型軍艦も、2隻建造します。
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1863年5月に攘夷決行で異国船を撃払うも、翌月に米艦隊が長州艦隊を一撃/仏艦隊に下関砲台を占拠されます。敗戦の報を訊いた萩の住民は菊ヶ浜に砲台を造営して防衛に臨みます。その際、防衛の対極に位置する町人/武家の妻たちまでが工事に参加したので「女台場」と呼ばれます。尋常でない危機感を感じさせる出来事です。
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1864年4月に毛利敬親は、日々変化する情勢に機敏に対応すべく、僻地の萩から山陽道に近い山口へ移ります。城も何もできていない状態での移動で、本気度を感じます。その後禁門の変/第一次長州征討の懲罰の一環として10月には萩へ戻って蟄居します。ところが4か月後には、山口へ移動しました。
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欧米列強の軍事攻撃を経験して攘夷は不可能であることを悟った藩士は、敗因は銃砲性能の次元の違いであることを認識し、講和を結び洋式銃/砲を導入します。当時はアメリカ南北戦争の真っ最中で、火器は日進月歩/長足の進化を遂げていました。戊辰戦争中、南北戦争初期に最新式だった兵器で武装した幕府軍は、リアルに最新式兵器で武装した官軍に敗北します。
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いざ明倫館へ突入。
南面の真ん中に位置する南門(1848年築)が正門に当たります。藩主だけが出入りできる普段は開かずの門で、表御門と呼ばれます。明倫館遺構南門 名所・史跡
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正門を潜ると、右側に2つの石碑が。
左は1741年製で、創立の経緯を6代藩主宗広の命で記したもの。
右は1849年製で、13代藩主敬親が新明倫館開校を記念したもの。旧萩藩校明倫館 名所・史跡
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参考までに、1719年から130年間機能した旧明倫館跡の写真。旧三の丸に位置し、940坪(0.3ha)の敷地でした.
中心に孔子廟があり、外周を武術関係の建物が囲みました。藩校としては12番目の古さで、水戸の弘道館等と並んで、三大藩校の一つと評価されました。 -
観徳門(1849)
敷地内にある孔子聖廟の正門
表御門をまっすぐ進むと万歳橋が架かり、孔子を祀る聖廟が建ちます。南門/万歳橋/観徳門/聖廟が一直線に配列されます。観徳門 (旧萩藩校明倫館) 名所・史跡
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参考までに、現在は萩城本丸跡に移設された万歳橋。
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観徳門を中心に、聖廟エリアは石の柵で正方形に囲まれていました。観徳門の左方向に聖賢堂が建ちました。孔子祭で使用する祭器などが保管されました。
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孔子廟の内部は、こんな感じ。
孔子と四賢人の木主(仏教の位牌に相当)が安置されています。明倫館内の御神体のような存在で、火災発生時は、まず木主を安全な場所へ移すことが最優先されました。
木主の揮毫は林大学頭(第11代)で、林羅山を祖とする林家(りんけ)は、幕府の昌平坂学問所のトップを世襲します。彼の唱えた儒教(朱子学)は親よりも主君への忠義を重んじ、士農工商制度を肯定したので、江戸幕府は官学として採用し、諸藩の藩校では朱子学を学びました。 -
藩政期の校内模式図
5haの敷地の約7割以上は、建築物で占められます。2割は身体訓練の場です。 -
敷地の西側(左側)は、巨大な市営駐車場となっています。その手前に観光案内所が写っています。
萩観光案内所 名所・史跡
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敷地の東側(右側)には、1935年に市立明倫館小学校の木造校舎が4棟建てられ、2014年に移転するまで現役でした。
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廊下
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教室
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砲術は各藩に流派があり、天下泰平の世も伝承されましたが、安土桃山時代で銃砲の進化が止まり、世界レベルでは完全な時代遅れになっていました。
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購入した最新兵器を使用/維持するにも、ましてや素早く国産化するには、数学/理科の基礎知識が必要です。藩校では、そうした根底となる科学理論/技術の基礎教育を身に着ける場となりました。
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小学校校舎の先(東端)には、有備館が建ちます。槍や剣術の稽古を行う道場で、高杉晋作らも通いました。一流の藩校だけあって、他国の武者も試合できたそうで、久坂玄瑞に武市半平太の手紙を渡すために萩を訪れた坂本龍馬も、ここで試合をしたそうです。
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南側の土間54畳は、槍の稽古場。
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柱に残る刀傷。
真剣も使ったみたいです。北側39畳は、剣術用の板の間。 -
西側は畳が敷かれ、藩主が剣術/槍術を閲覧できるようになっていました。
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便所も付属していました。
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上から見た有備館
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孔子聖廟の奥には、水練池があり、水中騎馬/遊泳術が行われました。東西39.5m南北15.5m深さ1.5m。
その北側に写るのは、移転した明倫小学校で、当時は射撃演習場となっていました。枠外右側は開発されず、蓮池と記載されます。遊水地として機能しました。 -
明倫館の図面に、現存する建造物とオリジナルの位置がプロットされています。
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萩城下街割原標石
R191を挟んで明倫館の向かいにある市民館に残っていました。オリジナルは道路上で、北西に10m移動させています。城下町建設の際の基準点が江向というのが意外でした。
※市民会館ではなく市民館です。萩城下街割原標石 名所・史跡
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標高が低くて水はけが悪いこともあり、現在の明倫館周辺は市役所等の公用地の塊となっています。写真右下に、原標石のあった場所が正方形で遺っています。
萩市民館 名所・史跡
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この通りは江戸時代の文献にも登場し、米屋町筋と記載されています。
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杉孫七郎旧宅地
明倫館で学び、秋田県令を務めた後は宮中で仕えました。萩市民館の南縁に面します。 -
明倫館の右隣は、中央公園。だだっ広いです。清末支藩の屋敷跡も含まれる土地割です。江向でも、とりわけ標高の低いエリアです。
萩市中央公園 公園・植物園
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久坂玄瑞進撃の像が立ちます。生家はすぐそばです。
久坂玄瑞進撃像 (萩市中央公園内) 名所・史跡
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進撃の像付近の新堀川
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同上
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満行寺
山門は慶長年間(1595-1615)、本堂は1721年再建の古い建築物。満行寺 寺・神社・教会
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本堂は、1676年建立。
平安寺 寺・神社・教会
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天保の改革を促進した村田清風の別宅。藩政に携わった1820-45年にかけて居住。長屋門は当時のものです。
村田清風別宅跡 名所・史跡
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佐久間佐兵衛旧宅
禁門の変では福原越後に従うも、野山獄で処刑。享年32歳。佐久間佐兵衛旧宅地 名所・史跡
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柴田家門生誕の地
田中義一首相の竹馬の友で、第三次桂内閣で文部大臣を務めました。 -
その隣は、久坂玄瑞誕生地。
松下村塾の双頭で、禁門の変で自害。久坂玄瑞誕生地 名所・史跡
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R191が藍場川を渡る光景
先に写るのは浦上記念館山口県立萩美術館 浦上記念館 美術館・博物館
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藍場川がR191を渡った先には水車跡場があり、櫨の実を突いて蜜蝋(防長四白の一つ)を取り出しました。萩商高沿いに水車筋を進むと藍場川は左へ折れます。
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船まわし跡/藍玉座跡
川幅が広くなっているのは船まわし跡で、ここで川船の向きを変えました。川沿いの夏ミカン栽培用の土壁は幕末の藍玉座跡で、藍場川の名称の由来となっています。藍は染料として価値が高い商品で、藍の葉を発酵させて藍玉を作ります。発酵前に藍の葉に水を打って湿らせる必要から、水の得やすい場所に立地します。 -
藍場川を遡ると
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中村雪樹旧宅地
明倫館で学び、初代明倫小学校校長/初代萩町町長を歴任します。 -
一筋北へ寄り道すると、伊藤博文ら長州ファイブをイギリスへ密出国(留学)させた周布政之助生家跡が。石碑等は無く、黒い塀が目印です。
藍場川沿いへ戻ります。 -
井上剣花坊生誕地
近代の川柳を復興改革した人物です。井上剣花坊誕生地 名所・史跡
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川幅も広いです
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日章舎跡
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クランクしながら遡ると
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旧萩往還と交差します。
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長防臣民合議書印刷所跡
民衆に至境戦争の大義を説くために「長防臣民合議書」を36万部印刷しました。 -
廣澤兵助真臣生誕地
四境戦争で勝海舟と厳島で休戦交渉に当たりました。木戸孝允と並ぶ存在でしたが、1871年に暗殺されます。 -
住所と言い、電話番号と言い、歴史を感じさせます。
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元来た道を進むと、
藍場川 自然・景勝地
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近くには山縣有朋誕生地があります。
山縣有朋誕生地 名所・史跡
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一番情緒のあるエリアでは、川へ下りるハトバ、船を通すために道路よりも高い橋などが残ります。
旧湯川家屋敷 名所・史跡
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屋内のハトバも素敵です。
この先で藍場川は阿武川に合流します。 -
萩往還を進み、藍場川の一筋南で曲がる角にある歴史的町屋。
実は当島宰判の勘場(代官所)跡でした。 -
川に沿って西進します。
自然堤防なので後背湿地よりも1mほど標高が高く、武家屋敷が並びました。 -
渡辺高蔵旧宅
近代造船で貢献した人物、松下村塾門下生で最も長生きしました。地位や名誉に執着しない生き方をしました。武家屋敷を買い取っています。渡辺蒿蔵旧宅 名所・史跡
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萩自動車学校の敷地は、1766年に南園御殿と呼ばれる藩主別邸が建ちました。1836年に毛利敬親はここで申年の大水を経験し、土手が決壊して避難しました。城下の7割が浸水した惨事でした。
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川沿いの2本の黒松が目印です。
敷地には薬園が設けられ、幕末には医学所(初代好生館 現公会堂)、製薬所、舎密局(せいみきょく 理化学研究所)などが置かれ、写真やガラス製造などが行われました。 -
おまけ
明倫館の展示から団八車台。公家などが使っていた和製扇風機。動力は人力です。
次は、平安古地区を訪れます↓
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