2025/01/03 - 2025/01/03
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kasekunさん
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この日はコンスタンティーヌ観光!
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イビスホテルの朝食、、、。コンチネンタルの朝食だとますます食欲がわかない、、、。昨日の350円のローカル飯の方がずっといい!
※IBIS Hotel、、、個人でネット予約すれば1泊1万円程、、、。 -
まず訪れたのは、、、
アミール・アブディルカーデル・モスク。 -
「アルジェリア最大のモスクは首都アルジェではなく、コンスタンティーヌにあります。1986年に建造が始まり、1994年に完成しました。
丸屋根ドームの高さ64メートル、2本のミナレットの高さは107メートルで、15000人が同時に礼拝出来る大きさです。19世紀にフランスの侵略に武装抵抗を指揮したスーフィー思想家で、アルジェリア建国の父と讃えられるアミール・アブディルカーディル・ジャザーイリーから名付けられました。19世紀半ば、フランス支配下で抵抗運動を行ったアミール・アブディル・カーディルは、現在のアルジェリア人にとっての最高の英雄なんですよ。伝統的なイスラーム様式で建てられたモスクは外観だけではなく、内部も繊細なアラベスク模様で装飾されていてとても美しいものです。観光の際には服装に気を付けて、きちんと敬意を払いながら訪れてくださいね。」
ー渓谷と橋の町、コンスタンティーヌのお勧め観光スポット5選!ーより -
このモスクの名の由来となった人物、アブド・アルカーディル、、、アルジェリア人の英雄、、ウィキで調べてみると、、
「アブド・アルカーディル(1808年9月6日 - 1883年5月26日、)は、フランスによるアルジェリアの植民地化に抵抗した人物。アルジェリア民族運動の父とも評価される。、、、」 -
「1808年、アルジェリアのゲトナ村で生まれた。祖父・父親マフィ=エディンの代からのスーフィー教団の指導者であった。1830年よりフランスによるアルジェリア侵略が始まると、フランスに対するジハードを宣言し、16年間の長期にわたる抵抗を続けた。一時はアルジェリアの三分の二を制圧し、軍事・財政面での近代化も図られた。1847年に降伏すると、その後1852年までフランスのポー城に幽閉された。ルイ・ナポレオン政権のもとで釈放され、一時小アジアのブルサにとどまったあと、シリアのダマスクスで暮らした。一部のアルジェリア人は、アブド・アルカーディルの教えを求めて、ダマスクスへと移った。シリアに移った後、アルジェリアの「アラブ王国」化構想を抱いていたナポレオン3世に協力し、1860年にレジオン・ドヌール勲章を授けられた。1883年に死去。」
→16年間のフランスへの闘争の後、ナポレオン3世に協力、、、たしかにフランス皇帝ナポレオン3世はアルジェリアに対しては融和政策を取っていました。(ウィキ「ナポレオン3世」で学習しました、、、、。
ハイチでいうと、フランスからの独立を目指して戦った初代ハイチ皇帝となったジャン=ジャック・デサリーヌ(ジャック1世)みたいな国民的英雄のようです。 -
なぜにフランス皇帝ナポレオン3世に協力したのか?
「、、、ジハードを宣言し、不屈の闘争を続けながらもアルカーディル本人には狂信者的な傾向はなく、闘争の対象はあくまでもアルジェリア侵略に対してであった。同時代のヨーロッパ側の複数に及ぶ文献には、捕虜に対して「寛大な心配り、優しい同情」を示し、それぞれの信仰に敬意を持つよう注意していた記述が存在する。、、、」
何が何でもフランス人を追い出してやる!ではなく、あくまでも、フランスの不当なアルジェリア支配に抵抗する、、根は寛大、共生、、そんな考え方の持ち主だったようです。
※世界各地の植民地化を推し進めたナポレオン3世が、アルジェリアにだけは融和政策を取っていたとはちょっと驚き! -
「降伏当時(1847年)のアルジェリア総督は7月王政で即位したルイ=フィリップ1世の子であるオマール公アンリ・ドルレアンであり、アンリ・ドルレアンはアルカーディルらを捕虜としないことを約束した。しかし1848年に二月革命によってフランス第二共和政が成立するとアンリ・ドルレアンは父のルイ=フィリップ1世とともにイギリスに亡命し、後継の共和政権は約束を反故にしてアルカーディルを捕虜とした。最初はアルカーディルとその家族及び25名の支持者をフランスのトゥーロンの砦に移し、次にポー城へ収監し、そして1848年11月からはアンボワーズ城に幽閉した。以降、5年に渡ってアルカーディルは獄中で過ごしたが、幽閉生活と強い湿気などの慣れない気候のために妻と兄弟、そして二人の子供と多数の支持者を病で失った。名声に対するこのアルカーディルの扱いに対し、国内外から度々釈放を求める声があがった。新聞王にして政治家のエミール・デ・ジラルダン、小説家にして政治家のヴィクトル・ユーゴー、後の首相エミール・オリヴィエら著名人に加え、イギリスからは5代ロンドンデリー侯ジョージ・ヴェーン=テンペストを通じてルイ・ナポレオン大統領(後の皇帝ナポレオン3世)に釈放の要望が伝えられていた。またルイ・ナポレオンも個人的にアンボワーズでアルカーディルと面談しており、アルジェリア政策を融和方針に転換した場合にアルカーディルを活用する構想を築きつつあった。」
どうやら、ヨーロッパの著名人にも知られた人物だったようです。異教徒の、しかもフランスに反抗したアルカーディルを釈放せよ!なんて普通ではあり得ません。よっぽど人望ある人物だったようです! -
「1852年、ルイ・ナポレオンのクーデターが成功した。以降、大統領に絶大な権力が集中し、皇帝即位後はナポレオン3世として数々の政策を実行する。この一環である「アラブ王国」構想の実現のため、10月16日にナポレオン3世はアルカーディルを釈放した。ナポレオン3世は後にフランス植民地帝国を推進してイギリスに次ぐ植民地を築き上げるが、一方でアルジェリアに対しては収奪するばかりの統治が反乱を招き、軍事費の増大と植民の失敗を招いていることを理解していた。そのためにアラブ人たちに諸権利(地方議会設立、イスラム法廷復活、イスラム法高等評議会の設置、県議会への被選挙権、申請によるフランス市民権付与)を認め、「知的で誇り高く、好戦的な農耕民」であるアラブ人をフランスの同胞として近代化に導く方針を示していた。ナポレオン3世のアルジェリア政策のブレインはギニア出身でマルセイユで教育を受けたイスラム教徒イスマイル・ウルバンであり、融和政策はサン=シモン社会主義と、長期にわたるアルジェリア視察によって導き出された現実的な結論だった。アルカーディルは対談の後、ナポレオン3世への協力を了解する。アルカーディルは「アルジェリアを混乱させない」との誓約をする代わりに年間10万フランの年金を与えられ、誓約について生涯守り通した。釈放後、アルカーディルはまずトルコのブルサに渡り、1855年にシリアのダマスカスアマラ地区に移り住む。この地でアルカーディルは神学と哲学に専念し、スーフィズムやアラビアの馬に関する論文などを多言語で執筆し、出版した。また大英帝国を代表する冒険家リチャード・フランシス・バートンと妻のイザベル・バートン、ジェーン・ディグビーら著名人と交友関係があり、特にバートン夫妻はその伝記の中においてアルカーディルの神学の知識と語学力を讃えている。」
→ナポレオン3世となら、フランスと共生できる、、きっと彼はそう思ったのでしょうね。 -
「1860年、レバノンでイスラム系のドゥルーズ派とキリスト教カトリック系のマロン派の内戦が発生する。両派は共にレバノンの山岳地帯を根拠地としており、19世紀前半から顕著に対立していたが、イギリスがドゥルーズ派に、フランスがマロン派に肩入れを行う形で介入し、度々武力衝突が発生した。中でも1860年に発生した紛争は特に激烈であり、アルカーディルの住むシリアのダマスカスにも暴動として内戦が波及する。当時、ダマスカス市内は完全にドゥルーズ派が優勢であり、また住民もドゥルーズ派ではないがイスラム教徒が大半であったことから、ドゥルーズ派によってキリスト教徒約3,000人が虐殺された。この惨劇が起こる以前、アルカーディルはドゥルーズ派の動きからフランス領事とダマスカス評議会に警告を発していたが、暴動が発生すると自らキリスト教徒の保護に乗り出した。邸宅をキリスト教徒を匿うために開放し、息子やアルカーディルを慕ってダマスカスに来たアルジェリア人らと市街地のキリスト教徒を保護して回った。
暴動の沈静化後にシリアでのアルカーディルの行動が伝えられると、「フランスの敵」から「フランスの友」に転換した最良の実例としてフランスが強く宣伝した意図もあり、世界各国に報道されて激しい反響を巻き起こした。フランスは年金を15万フランに増額するとともにフランスの最高勲章レジオンドヌール勲章を与え、ギリシャからは救世主勲章、トルコからはメディジディー勲章、バチカンからはピウス9世勲章を、エイブラハム・リンカーンからは象牙細工のピストルを、そして暴動を教唆したイギリスからは沈金彫で彩られたショットガンが贈られた。以降、アルカーディルは1864年にフリーメイソンへの招待を受け、1865年にナポレオン3世からの歓待を受けるものの、それ以外はダマスカス移住当初と同じく執筆活動に専念した。」
→キリスト教徒とイスラム教徒との争い、世界史では長年に渡り続いてきた(現在も続いている、、、)わけですが、融和、共生を目指す彼の姿勢が、世界各国から称賛を浴びる結果となったようです。 -
「1870年、ナポレオン3世は普仏戦争の敗戦により廃位され、イギリスに亡命した後に死去する。同時にナポレオン3世が続けていたアルジェリア政策は、彼自身がアルジェリアへ追放した反対者によって覆され、以前の徹底的搾取が再開された。しかし老年期を迎えていたアルカーディルには祖国を救いようもなく、「Rappelàl′intelligent、avisàl′indifférent(知的への呼びかけ、無関心への警告)」を出版することしかできなかった。1883年5月26日、アルカーディルはダマスカスで死を迎える。死後、アルカーディルは生前の希望により、スーフィズムの確立に寄与したダマスカスのイブン・アラビーの墓所近くに埋葬された。しかしアルジェリア独立後の1965年、アルカーディルの遺体はアルジェリアの著名人が多く埋葬されるエル・アリア墓地に移された。この移転に関してはアルカーディルの最後の意向を無視するものであり、現在でも議論の余地がある。、、、パリにある廃兵院にはアルカーディルの肖像絵が飾られ、歴代フランス陸軍将軍と同列に扱われている。」
以上、長々とアルジェリアの国民的英雄の生涯を追ってみました。すると、、、高潔な人物像が浮かびあがってきました。アブドゥ・アルカーディル、、アルジェリア人の国民的英雄、、、、この人物の名を冠した巨大なモスクには、アルジェリア国家が目指す理想、そんな意味が込められているのかもしれません。 -
荘厳なモスクでした。
※この方がコンスタンティーヌからのドライバーさん。メスティア旅行社さんの方の親族だとか。チュニジアのタバルカまでお世話になりました。気のいい方で、片言の英語でも、コミュニケーション取ろうとしてくれました。 -
現在も世界では、キリスト教とイスラム教、ユダヤ教とイスラム教等の宗教間の血なまぐさい対立は存在しています。日本人からすれば不思議でたまりません。
八百万の神々の国日本、お正月には神社に行ってお参りし、お盆にはお寺に行ってお墓参り、結婚式は教会で神父さんに誓い、クリスマスにはみんなでケーキを食ってメリークリスマス!、お葬式にはお坊さん呼んでお経を聞いて、お祭りは神社の御神輿担いでワッショイワッショイ!、、、。ハハハハハ、なんておおらかな国なんでしょう。 -
余談ですが、日本にも宗教が力を持っていた時代がありました。飛鳥・奈良時代~仏教全盛期ですね。あまりにも僧の力が強くなったようで、都は奈良から京都へ、それでも僧の力は衰えず、しまいには僧兵さえも現れる。お坊さんが武器を持って戦う、、、。さらに鎌倉時代には仏教も色々な宗派が誕生し、抗争。戦国時代には、興福寺や延暦寺、さらに一向一揆の本願寺なんて戦国大名さながら。この一大宗教勢力を壊滅させたのが、日本の英雄?織田信長、、延暦寺、石山本願寺を壊滅状態に、、、それ以降、日本の仏教勢力は力を失った。
そして、江戸幕府の力を持ってしても鎮圧に苦労した島原の乱(天草一揆)。このキリスト教徒の反乱をきっかけに、幕府はポルトガルとの交易を禁止する。
何でもアリの日本人の宗教観、根本は八百万の神々を祀る神道にあると考えられますが、世界的に見れば、異質なんですよね。 -
しかも、日本では人さえも神様になる。織田信長は「建勲」として建勲神社に祀られ、豊臣秀吉は「豊国大明神」として豊国神社に祀られ、徳川家康は「東照大権現」として東照宮に祀られている。菅原道真は学問の神様として「天満宮」に祀られている。さらには亡くなった人は皆「仏様」。
キリスト教徒のいう「God創造主」、イスラム教徒のいう「アッラー唯一絶対神」、日本語訳ではどれも「神」と訳されるけど、元々日本人にはそんな概念はなかった。神としか訳せなかったのでしょうね。 -
さらに余談、、、。靖国神社。中国人、韓国人は靖国神社に対して、、、。「あそこにはA級戦犯となり死刑にされた東條英機ら7人(◯板垣征四郎◯木村兵太郎◯土肥原賢二◯武藤章◯松井石根(B級)、そして◯広田弘毅)らが祀られている!」そんな負のイメージを持っているようですが、、、、。そして、そこには遺体或いは遺骨があると考えられているようですが、、、、そんな物ありません。日本人の宗教観、わからないでしょうね。
あっちの方はメッカか? -
モスクに来るとどうしても入りたくなっちゃいます。でも、異教徒が入ってもいいのか?そんな心が生じ、ついつい周りの人に確認しちゃいます!
今日は昨日のガイドさんに、ドライバーさんが付いてますので、堂々と入りました。 -
そうそう、日本にもモスクがあるとは、、、最近知った。地元北海道にも、札幌マスジド(札幌市北区北14条西4丁目1-29)、小樽にはアルヌールマスジド(北海道小樽市稲穂5-4-27)があるらしい。(江別にも)
※日本最大のモスク、東京ジャーミイ(、、、今度東京に立ちよった時には行ってみよう! -
アミール・アブディルカーデル・モスク。
「アブド・アルカーディル」アルジェリアの英雄、、、覚えておこう! -
次は、、、名物コンスタンティーヌの橋!朝はもやがかかりパッとしない。後でまたとのこと、、、。シディ・ムシード橋か?
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シディ・ムシード橋
「コンスタンティーヌの橋の中で一番高い所にあり、一際目を引くのがシディ・ムシード橋です。フランス統治下時代の1912年に架けられた吊り橋で、高さ175m・全長160m・幅6m。1903年に計画が始まりましたが、設計上の問題が多く難航します。そこで当時ヨーロッパで有名だったフランス人の吊り橋技師に設計を依頼し、1912年にようやく完成しました。1929年にその座を明け渡すまでは、当世界一の高さを誇ったんですよ。
現在は、修復工事をしても寿命は100年とされていたので、2000年に新しい物に付け替えられました。橋の上からの眺めは素晴らしく、コンスタンティーヌの町を一望できます。橋の下には天然のトンネルがあり、下から眺めるのもおすすめ。コンスタンティーヌのおすすめ観光スポットではありますが、残念なことに飛び降り自殺にも人気を博してしまいました。そして「自殺橋」という地元での異名を取ってしまう曰くつきでもありますよ。」
ー渓谷と橋の町、コンスタンティーヌのお勧め観光スポット5選!ーより -
よく見えんな。
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戦没者記念碑(Monument aux Morts)!
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ふと見たら、小鳥さんが、、、寝てる!オーイ捕まえられて食べられちゃうぞー!目を覗きこんだら、、、ホントに寝てる!
アルジェリア、、平和な国なんですね。 -
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次は、、メラー・スリマーヌ橋(Mellah Slimane Bridge)?
たくさん橋があるんで、どれがどれだかわからん! -
橋から眺めた渓谷!
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この先のエレベーターで上に行けば、美味しいトラディショナルのレストランがあるんだとか。(ただし昼3時オープンだとか、、、)観光終了後、連れてってもらい、行き方を教えてもらいました。
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次はもう1人、フランスに立ち向かっていったオスマントルコ時代のベイ(地方総督)、アフマド・ベイの宮殿へ。
「ベイ宮殿はまたの名をアハメド・ベイ宮殿とも言い、オスマントルコ帝国時代に、この地の知事であったアハメド・ベイが作らせた宮殿です。1825年から10年かけて、1835年に完成しました。ところが完成した2年後には、フランス軍に占領されてしまい、たった2年しか住むことができなかったんですよ。さらにフランス軍の司令官がこの宮殿を本拠地にしてしまい、皮肉な運命を辿りました。
ベイ宮殿はオスマントルコ様式で作られた、なんととも贅沢な宮殿です。地中海沿岸から運ばせた大理石でできた柱、杉の木の色とりどりのアラベスク模様の窓、121の部屋とモロッコスタイルのバスルームなど、見ごたえがあります。現在博物館として見学できるので、コンスタンティーヌで観光をするなら外せないスポットです。」
ー渓谷と橋の町、コンスタンティーヌのお勧め観光スポット5選!ーより
「アフメド・ベイ」(1784 年頃 – 1850 年頃)は、1826 年から 1848 年まで統治したアルジェ摂政におけるコンスタンティノスの最後のベイであった。彼はモハメド・メナメンニ・ベイ・ベン・カーンの後継者でした。国家元首として、彼は地元住民を率いてフランス占領軍に対する激しい抵抗を行った。 その地位が空いたため、1833年に彼はアルジェリアの指導者および亡命者の称号を採用したが、これは他のどの国からも認められなかった。 1837 年、コンスタンティヌスは激しい包囲の末、フランス軍に占領されました。彼はオーレス山脈に後退し、1848年に降伏するまで、まだ彼に忠誠を誓っている部族との低強度の紛争を続けた。」
ウィキ「Ahmed Bey ben Mohamed Chérif」より -
「1826 年にコンスタンティンのベイに任命された彼は、モハメド・アリの改革に基づいてこの地域の近代化を開始しました。彼は何よりもまずコンスタンティヌスの政治と軍事を改革しようとした。彼は必要な機械をすべて備えたアルジェリア初の近代的な製造施設を設立し、外国の専門家を招待しました。彼はカビルとアラブの部族から徴兵された数千人全員からなる近代的な軍事師団を設立した。彼は州の政治組織を改革し、州の行政のために新しい宮殿を建設した。 1830年にフランス人がアルジェに侵攻し、都市を占領した。 1830年の降伏でアルジェのデイリクは解散し、フランスはアルジェ3県の3人の総督に降伏を要求する書簡を送った。西側のベイリク総督のみが降伏し、ティッテリのアフメド・ベイとムスタファ・ブメズラグ・ベイは条約を承認せずに抵抗を続け、デイリクを回復しフランス占領地を解放するジハードを宣言した。彼は亡命中のアルジェの新たなデイ・パシャであると宣言したムスタファと対立するようになったが、1830年11月にフランス遠征によって首都が占領された後、ムスタファは降伏を余儀なくされた。ブメズラグは旧デイリクの唯一の生き残りであり、イデオロギーの相違をめぐって新興首長アブデルカデルのライバルとなった。アブデルカデルはアルジェリアに独立した近代イスラム国家を樹立したいと考えていた一方、アハメド・ベイは古いオスマン帝国のデイリクを復活させたいと考えていた。 1832年にフランス人がアンナバを占領した。彼は自分自身をこう宣言した。
アルジェの住民からの「民衆の要請」と彼が呼んだものを受けて、1833年にアルジェのデイ・パシャ。」 -
「彼は引き続きコンスタンティヌスの防衛を組織し、フランス軍とのいくつかの戦いを指揮しました。
彼は 1836 年にクローゼル元帥に対して大勝利を収めました。 1837年にコンスタンティヌスがフランス軍に包囲されたとき、アハメッド・ベイはなんとか脱出し、オーレス山脈で抵抗を組織した。 1842年、彼はカビル族への支援を期待してオウルド・ナセル族を結集し、アイン・ロメルの野営地に近づいた。 1842年8月25日、フランスの将軍ジャン=ルネ・シレーグはアムーシャの地、すなわちセティフの北にある村に入り、2000から3000のカビルの集まりに出会ったが、彼を止めることはできなかった。 9月10日、将軍はジベル・ボウ・タレブの麓でハッジ・アハメッド・ベイの騎兵隊を破り、テルの部族に対する彼の影響力を破壊することに成功した。」 -
「アハメッドは 1850 年 8 月 30 日に 65 歳で亡くなりました。本人の希望により、アルジェのカスバにあるアルジェのシディ・アブデル・ラーマンのモスク近くのターリビア墓地に埋葬された。彼の大理石の霊廟の上にはターバンが巻かれています。」
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そうそう、たしかここら辺で地元のおじいちゃんにガイドさんが話しかけられ、ずっと立ち話。後から聞いたら、このおじいちゃん、アフマド・ベイの子孫なんだとか、、、。
アルジェリアも御先祖様を大切にしているようです、、、 -
コンスタンティーヌは、フランスのアルジェリア支配に抵抗した町、そう位置付けられているのかもしれません。
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オレンジが生ってる!1個取って食べてみたいけど、怒られるかな?
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もう1つ時間を費やすために、モザイクの博物館訪れた気がするけど、、、違ったか?
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モザイクはお腹いっぱいだったので、2枚だけ写真撮影!
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天気が良くなってきたので再びブリッジへ。(別の場所)
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エミール・ジョナ橋(Pont d'El-Kantara)?
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水が豊富にありますね。
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古代ローマ時代に建設された石橋。
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綺麗な水が、、、。
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コンスタンティーヌは橋と渓谷のある素敵な町でした。
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これにてコンスタンティーヌ観光終了!
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夕方になってから、ガイドさんに教えてもらった人気のレストランへてくてく歩いて行ってみました。具合もそれほどひどくはなく、食欲も出てきたので、、、。が、ガルダイアで行った絨毯引きのレストランを想像してたんですが、、、違いました。
まあ、アルジェリアっていう趣はありましたけど、、、。 -
で、頼んだのはこれ、、、。タジン鍋にしようか迷いましたが、このそれぞれ違うお肉の煮物?に、、、。美味でした。(ガルダイアで食べたのがやっぱり自分の中ではアルジェリア料理第1位!) お値段、飲み物あわせて3000円くらいだったかな?
※追記;メモを発見!
「夜6時、お勧めのレストランに行ってアルジェリアの飯を食う。メニューを見ても想像できないので、ためしに写真はあるかときいたら、スマホでメニューの写真を見せてくれた。言ってみるものだ。
で、3種の肉(チキン、羊、ミンチボール)の煮物と、レモネードを頼んで食べ、、。夕食終了。味は、、、薄い塩味、、、もっと旨味成分を生かせばおいしくなるのになあ?やっぱり日本食が世界1だな!2600ディナール!」ということで、2600円程でした。 -
お店の中はこんな感じ。絨毯敷きの方が趣あるのに、、、。
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レストランの外を眺めたら、お昼に行ったあのブリッジが下の方に、、、。
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ここがコンスタンティーヌの人気のレストラン!イビスホテルからならまっすぐ坂の方へ登って、そのまま歩くこと20分程度でたどり着きます。
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だんだん食欲も回復してきました。明日がアルジェリア最後なので、気になってたアルジェリアのピザ食ってみました。ピザ屋さん、ハンバーガー屋さんは至る所にあるんです。
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頼んだのはこれ。ちょうど200ディナールコイン2枚で買えました。(400円程、闇両替なら300円) ベジタブルピザ!これで300円、日本なら超お得ですね!
以上、これでコンスタンティーヌ滞在は終了!
明日は、、、実は個人的にはこの旅1番のメイン、アルジェリア鉄道乗車!アルジェリアとチュニジアとの国境近くの町アンナバまで行きます。出発は朝3時。寝坊しないようスマホのアラーム2重3重に設定してから寝ました。
※前日ガイドさんに「鉄道でなくて、専用車で行った方が早く着くし楽チンだよ!専用車に変えましょうか?」と提案されたけど、「アイ ラブ トレイン!」、、、もちろん断りました。
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