2024/12/28 - 2024/12/30
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kasekunさん
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今回の旅のメインはアルジェリア。なぜアルジェリアにしたかと言えば、、、①夏のインド洋諸国、東アフリカ諸国の旅で年休がもうないから。②なかなか行きにくい所に今行こう!と、コロナで悟ったから、、、。
アルジェリアVISAが一筋縄でいかないことは皆さんの旅行情報で知った。東京在住ならきっと何度でも大使館に行って自力で取ったことだろう。でも地方在住の者には、、、。
もうメティス旅行社頼みでVISAをゲットするしかない。夏の間に見積り(5泊6日のアルジェリアーチュニジア国境越え世界遺産巡りの旅)を立ててもらい、そしてこの冬に実行ということとなった。総額40万円(航空券代別)というブータン旅行以上の見積りに驚愕するわけだが、ゼニハラには変えられない、、、。(ツアー旅行に参加できればいいんだけど、日程が合わないので仕方がない。)
アルジェリアへ飛ぶには?、、、で、思い付いたのが、地中海諸国周遊。幸い、トゥールーズからアルジェに飛ぶ安めの航空券を見つけた。
旅程
(往路)
●千歳→成田→(中国国際航空)→中国北京→フランスパリ→(列車)→フォンテーヌブロー→(列車)→パリ→(夜行列車)→トゥールーズ→(トランサヴィア航空)→アルジェリアアルジェ
●アルジェリア→(陸路)→チュニジア→(海路)→イタリア→(列車・海路)→マルタ→(ライアン航空)→イタリアローマ
(帰路)
●イタリアローマ→(中国国際航空)→中国北京→成田→千歳
航空券は中国国際航空の成田→パリin、ローマout→成田のオープンジョーチケット。(13万円程)
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フランスまでの行程は以下の通り、、、
12月28日
●千歳10時ー成田11時45分
GK102
●成田15時15分ー北京19時 CA926
12月29日
●北京2時40分 CA875
パリ着6時50分
あまり下調べしてませんが、この日の目的は2つ。
①以前の旅行で計画してた世界遺産フォンテーヌブロー宮殿を見に行く!(英王室領土ガーンジー島からパリに戻る予定が悪天候でフェリーの遅延。そのためパリ観光ができずに、、、リベンジです!)
②パリからトゥールーズに列車で向かう!(以前の旅行ではトゥールーズ→パリの列車乗車を計画してたんですが、満席で乗れず、、、モロッコまでの横断達成ならずに終わっちゃいました、、、リベンジです)
なので、トゥールーズまでの夜行列車はネットで前もって予約してました。 -
シャルルドゴール空港駅でフォンテーヌブロー駅までのチケット買おうとマシンの前で四苦八苦してたら、案内係のお姉さんが手伝ってくれました。「フォンテーヌブローまで往復で行きたい!」と言ったら、「それなら1日乗車券がいいわ!」と教えてくれました。1日乗車券は22ユーロ也!
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空港からフォンテーヌブローまでの行き方は、フリーWi-Fiで検索し見つけました。たしか、まずパリ北駅まで行ってそこで乗り換えて、、、。
まあ、マップスミーを頼りに何とか行こう!(行けるものです!)
実際行ったルートは、、、
シャルルドゴール空港駅→パリ北駅→Melun駅→フォンテーヌブロー駅。 -
ここは乗り換え駅のメルン?。フォンテーヌブロー行きの列車を待ちます。
しっかし寒い!駅に暖房をつけようとはしないのでしょうか?日本なら温かい駅舎で待てるのに! -
寒いよー!(まだこの時は鼻水が少し出る程の風邪。)
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さあ、世界遺産のある町フォンテーヌブローへ!
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到着!ここがフォンテーヌブロー駅。幸い雨に当たらずにすみました。
でも、寒いよー! -
さあて行きますか!マップスミー頼りでてくてく世界遺産フォンテーヌブロー宮殿へ向かいます。
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駅からはバスも出てましたが、もちろん自分はてくてく、、、寒いけどマップスミー頼りに街中見ながら行きます!
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なぜフォンテーヌブロー宮殿が見たかったかと言えば、フランス皇帝ナポレオンと深い関係があったからなのです。ナポレオンといっても、自分が興味を持ってるのは1世の方ではなく3世の方。この方、実は日本の歴史にも影響を及ぼしたわけなのです。
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https://www.google.com/urlsa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://www.fr.embjapan.go.jp/files/100545617.pdf&ved=2ahUKEwiilLbF9f6KAxXOla8BHcTXOIQFnoECBIQAQ&usg=AOvVaw0742Z8Sv_Ei77erC2ghc6T
この資料より抜粋!
「1858 年に日仏修好通商条約が締結され、日本とフランスは正式に交易を開始することになりました。しかし、日本ではヨーロッパ諸国との交易に反対する勢力が強く、実際に交易を始められる状況にありませんでした。そこで、江戸幕府は、交易の開始を遅らせることを申し入れるために、1862 年にヨーロッパに初めて使節団を派遣しました。使節団の一行は、フランスではナポレオン三世に謁見しました。フォンテーヌブロー城が所蔵する家茂からの贈呈品の多くは、この時に使節団がもたらしたものです。」 -
「家茂とナポレオン三世の関係は、この後も続きます。当時のフランスは、生糸によるファッション産業を第一の輸出産業としていましたが、19 世紀後半に蚕の伝染病が蔓延し、ヨーロッパ全土で蚕が全滅しました。ナポレオン三世は、第二 代 駐 日 公 使 で あ っ た ロ ッ シ ュ 全 権 公 使 を日本へ派遣しました。1865 年、ロッシュから説明を聞いた家茂は、ヨーロッパの窮状を救うために蚕の輸出禁止を解き、ナポレオン三世宛てに一万五千箱の蚕卵紙を贈ることを決めました。二回に分けて、計三万箱が贈られました。ナポレオン三世は、蚕の返礼品として 25 頭の馬を家茂に送り、1867 年に日本に到着しました。しかし、その前年に 20 歳の若さでこの世を去った家茂は、それらの馬を目にすることはできませんでした。フランスは、日本の蚕のおかげで養蚕業が再興し、ファッション産業で飛躍的に発展して経済的に大国となりました。一方、日本は蚕の輸出と引き換えに、フランスから派遣された軍事顧問団と、横須賀製鉄所や富岡製糸場 の技術者によって、近代化を推し進めることとなりました。
家茂とナポレオン三世によって始まった日本とフランスの 160 年以上に及ぶ外交関係の歴史は、現代に受け継がれています。そして、両国の関係は今も深化して発展しています。」 -
要は日本とフランスとの交流は幕末の14代将軍徳川家茂とフォンテーヌブロー宮殿に拠点を置いていたナポレオン3世との交流から始まったというわけです。
ナポレオン3世。ウィキでは、
「ナポレオン3世(仏: Napoléon III, 1808年4月20日 - 1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年 - 1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年 - 1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(Charles Louis-Napoléon Bonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る前は一般にルイ・ナポレオンと呼ばれていた。」だそうです。
1848年から1870年の22年間、フランスを統治していた人物。ちょうどその頃の日本は幕末に当たり、開国か攘夷かで揉めていた時期になります。そして日本は開国にふみきり、江戸幕府は終焉を向かえ、1868年明治維新となるわけです。フランスは幕府を支持し、ライバルのイギリスは薩摩・長州を支持します。最後の将軍徳川慶喜公の軍服姿の写真がありますが、あれはナポレオン3世からの贈り物のようです。もしかして、フランスは日本の植民地化を狙っていたのかもしれません。日本の内乱をきっかけに、フランスから武器を購入させ借金付けにし、そして、、、。西欧の植民地化の常套手段ですね。
しかし、将軍慶喜公は大政奉還という形で、江戸城無血開城という形でことをおさめます。その後の戊辰戦争は幕府の積極的な支持もなく、終焉。明治政府が日本を統治することになるのです。 -
宮殿に行く近道は、このフォンテーヌブローの森の中を通る道のようです。
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とうとう入り口に着きました。
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入り口近くにある門。時間はたっぷりあるのでゆっくり見学です。
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どうやら江戸城と同じように、堀で囲まれているようです。
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こんな感じです。(奥の方がさっきの入り口。)
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ここが世界遺産フォンテーヌブロー宮殿。
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広大な敷地の中にある壮観な宮殿!
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入れなかったら残念なことになってしまうので、ここは事前にネットでチケット購入。
購入先は
https://www.chateaudefontainebleau.fr/en/
たしか12ユーロ。 -
入場はできたんですが、荷物はロッカーにとのこと。どうやってカギかけるの?周囲を見てもわからず、、、。ロッカーの扉の裏側に閉め方が書かれてました。
どこに荷物を入れたか忘れちゃうんで、パチリ! -
まずはナポレオン1世博物館。
ついに来たか!、、、心はウキウキです! -
ご存知、フランス皇帝ナポレオン1世!こっちはカッコいい!
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これもフランス皇帝ナポレオン1世!
こっちはなんだか腹の出てるおじさん? -
これは?きっとナポレオン1世ですね。ずいぶんかっこよく描かれてますね。
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そして、、、この方が、フランス皇帝ナポレオン3世!ナポレオン1世の甥っ子に当たります。
(ナポレオン1世の弟、ホラント王ルイ・ボナパルト(ローデウェイク1世)の子) -
たくさんの絵が飾られてます。
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寝室。
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今回は日本語のオーディオガイドは申し込みしなかったので、解説見て回ってます。
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写真は自由に撮っていいみたいです。
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フォンテーヌブロー宮殿
「フォンテーヌブロー宮殿、仏:Château de Fontainebleau)はセーヌ=エ=マルヌ県フォンテーヌブローにある、フランスで最も大きな宮殿。フォンテーヌブロー城(城館) (Château de
Fontainebleau) とも呼ばれる。「フォンテンブロー宮殿」とも表記する。宮殿の現在の姿は多くのフランス王による築城の結実であり、基本的な建築構造はフランソワ1世(ヴァロワ朝第9代のフランス王(在位:1515年 - 1547年)による。」ウィキより -
フォンテーヌブロー宮殿で生まれた王は、、、
●フィリップ4世(在位:1285年 - 1314年)
●アンリ3世、ヴァロワ朝最後のフランス王(在位:1574年 - 1589年)
●ルイ13世、ブルボン朝第2代のフランス国王(在位:1610年5月14日 - 1643年5月14日)
そして、、、
●フォンテーヌブロー宮殿で退位したのが、ナポレオン1世。1814年4月6日、退位。
「10年も経ないうちに皇帝ナポレオン・ボナパルトは、ブルボン朝におけるヴェルサイユ宮殿同様、フォンテーヌブロー宮殿を自分の権威の象徴にしようとしている。しかしナポレオンは1814年、親衛隊に別れを告げて亡命生活に入ることになった。玉石の敷かれた入り口を広げて四輪馬車が通れるようにするなど、ナポレオンは宮殿を大幅に改築した。現在の観光客が目にする宮殿は、この当時の姿が中心である。フォンテーヌブローの宮殿は、彼の甥ナポレオン3世によるフランス第二帝政の舞台ともなった。」 -
ナポレオン1世、、、この方はフランス人にとってはもしかしてモンゴルのチンギスハーンみたいな存在なのかも?
フランスは、ナポレオン1世の時、ヨーロッパ最大の覇権国となり、現在のイタリア、オランダ、オーストリア、ドイツ、ポーランド、スペインを影響下に置く絶頂期を向かえた。(その後、ロシア遠征で失敗し退位に追い込まれたが) -
そしてナポレオン3世は、、、ウィキより、、、
「一方で彼が外交面でフランスに残した最大の物は植民地であった。前任であるルイ・フィリップ王はイギリスとの対立を嫌がってアルジェリア以外の植民地政策にはそれほど関心を持たなかったが、ナポレオン3世はアフリカやアジアの国々を「文明化」する使命感に燃えており、積極的な帝国主義・植民地政策に乗りだした。第二帝政においてフランスはその植民地を3倍にも拡張させている。植民地は普仏戦争の敗北によっても奪われることはなく、フランスからの報復に備えたビスマルク体制においては、欧州内でのフランス孤立化と引き換えにフランスの対外植民地積極主義は放置・黙認されたため、第三共和政下においてフランスの植民地政策は更に加速され、大英帝国に次ぐ植民地大国フランス植民地帝国の繁栄につながっていく。」
フランス領西アフリカは、、、
「サハラ砂漠以南アフリカ(いわゆる「黒アフリカ」)ではナポレオン3世が1854年にセネガル総督に任じたルイ・フェデルブの指揮の下、フランス軍が現地の小王国を次々と征服していき、後のフランス領西アフリカの基礎を固めていた。
サハラ砂漠以南のアフリカ植民地に対しては第二帝政期にも融和政策は取られなかった。そこではフェデルブ総督の主導により、この後フランスが長きにわたってアフリカで行う植民地統治の手法が確立された。それはアフリカ先住民の民族分布を無視して恣意的な行政区分を作り、総督に絶対的権限を与えて中央集権的に支配し、アフリカ先住民を「従属民」に分類して法律の保護対象外とし、「先住民局」が先住民を恣意的に強制労働徴用・投獄するというものであった。フランス政府がこの「先住民局」制度を廃止するのはやっと1946年になってのことであった。」
訪問したマリ、ブルキナファソはこんな歴史があったようです。
昨年夏訪れたマダガスカルは、、、
「当時マダガスカル島はメリナ王国が統治していた。1861年にメリナ王に即位したラダマ2世は英仏との関係悪化を恐れ、鎖国体制を破棄して、英仏と自由貿易を開始させた。また信教・布教の自由も認め、ヨーロッパ人宣教師団を呼び戻した。
この頃のフランスは東アジア植民地化に忙しかったため、マダガスカルに対してはそれほど軍事的野心を露わにしていなかったが、それでもナポレオン3世はジョゼフ・ランベールを通じてメリナ王国ラダマ2世をうまく誘導して不平等条約締結とマダガスカル島の資源開発のため国土を自由使用する権利の獲得にこぎつけた。この権利に基づきランベールは「マダガスカル会社」の創設の準備を開始した。
しかし1863年5月にラダマ2世が暗殺され、ライニライアリブニが宰相として実権を握るようになると、メリナ王国は国土自由使用権撤回の外交交渉に乗り出した。マダガスカル島におけるフランスの膨張を恐れたイギリスもメリナ王国を支持した結果、ナポレオン3世も譲歩を余儀なくされ、賠償金120万フラン支払いを条件にマダガスカル会社創設中止を認めた。」
植民地化はその後の第三共和制になってからだそうだが、この時点で不平等条約が締結されている。 -
アジアの清国は、、、
「1856年10月にイギリスがアロー号事件を口実に清へ出兵を開始すると、ナポレオン3世も清の江西省でフランス人宣教師が殺害された事件を口実として清への出兵を開始し、英仏は協力してアロー戦争を遂行することになった。広東や天津を占領して北進する英仏軍を前に北京陥落を恐れた清政府は、一時しのぎのつもりで1858年に不平等条約である天津条約の締結に応じ、一時終戦したが、英仏軍が撤収するや清政府はこの条約の批准を拒否して発砲したため、1860年に英仏軍が攻撃を再開し、今度こそ北京は陥落した。清は更に不利な内容の北京条約を締結することを余儀なくされた。アロー戦争はアヘン戦争と並んで清の半植民地化を決定づけた戦争となった。」
ベトナムは、、、
「並行して清周辺地域も続々とフランスの支配下・影響下に組み込んでいった。1856年には阮朝(ベトナム)に対して不平等条約締結に応じるよう要求したが、阮朝が拒否したため、スペイン人宣教師死刑を口実として1857年よりベトナム侵攻を開始し、1862年には阮朝に不平等条約サイゴン条約を結ばせてベトナム植民地化に先鞭をつけた。さらに1867年にはコーチシナ(ベトナム南部のこと。ただし語源となった交趾は、もとは中華文明圏に属するベトナム北部を指す呼称であった)へ侵攻し、同地をフランス領に併合した。」
カンボジアは、、、
「胡椒とシナモンが豊富で、かつメコン川確保に重要な位置にあるカンボジア王国の支配権も狙った。当時のカンボジアは阮朝の宗主権下に置かれており、阮朝の強権的な同化政策を受けていた。カンボジア人の阮朝への反発が強まっていた中、フランスは1863年に国王ノロドムに署名させて同国をフランス保護国に組み込むことに成功した。イギリスに先んじて清に通じる通商路を作ろうと1866年から1868年にかけてメコン川遠征を行わせたが、メコン川から清へ入ることはできないことが判明し、以降フランスは戦略を紅河獲得に転換させ、第三共和政がトンキン支配を狙うようになっていく。」
タイは、、、
「シャム(タイ)にもイギリス・アメリカに続く形で不平等条約を締結させたが、これはシャムに旧来の政治体制を破棄して西欧型近代国家へ転換する決意を固めさせるきっかけになり、またフランスとの対立激化を恐れたイギリスが同地を緩衝地帯にすることを望み、フランスのタイ分割案を牽制したこともあって、タイは日本と並んで数少ない植民地化をまぬがれた有色人国家となった。」
そう、アジアでの独立国って、ナポレオン3世統治期、日本、タイ、(中国、朝鮮)ぐらい。インド、東南アジアはほぼ西欧の植民地となっていた。
そして日本は、、、
「日本を貿易の拠点と看做し、幕末の日本にも進出した。1858年徳川幕府との間に不平等条約日仏修好通商条約を締結したが、ここでは英仏の協調は崩れ、フランスは徳川幕府、イギリスは薩長を支持して対立した。結局幕府は明治維新で倒れ、明治政府は対等外交を志向したため、幕府を通じて日本に影響力を行使しようとした目論見は潰えた。」
朝鮮は、、、
「鎖国体制に固執する李氏朝鮮に対してはフランス人宣教師死刑を口実に1866年に戦争を仕掛けたが(丙寅洋擾)、持久戦に持ち込まれ、撤退を余儀なくされた。・・・」
ニューカレドニアは、、、
「太平洋では、ニュージーランドを併合したイギリスへの対抗、またオーストラリアとの貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年にニューカレドニアを併合している。この際に先住民と戦闘になったが、結局フランス軍が勝利している。ナポレオン3世はこの島を政治犯(とりわけ社会主義者)の流刑地として使用した。現在ニューカレドニアに住む白人はほとんどがその子孫である。」 -
一通り見終わって、改めてフォンテーヌブロー宮殿。ここを拠点にボナパルト家のフランス興亡が繰り広げられた、、、、もう1つのブルボン家のベルサイユ宮殿もいつか見に行きたい。
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フォンテーヌブロー駅からパリへは、偶然にもすぐに乗車できました。パリリヨン駅へ向かう列車でした。マップスミーで確認したら、今夜の列車の乗車駅オーストリッツ駅はリヨン駅のすぐそこでした。ラッキー!
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ここはパリリヨン駅付近。セーヌ川?が流れてます。
寒いです。風邪引いてるジジイにはこたえます。 -
リヨン駅から対岸にあるすぐ近くの今夜の列車が出るオーストリッツ駅?までてくてく。電光掲示板で今夜の列車のプラットホームを確認し、いざ出発!
22時13分発Paris Austerlitz
翌日7時着Toulouse Matabiau
※オーストリッツ駅周辺は店屋がほとんどない。リヨン駅に戻ってたしかなんか飯を食った気が
、、既に忘れてます、あ、思い出しました。このフランスの駅、暖房がないんです。日本なら駅に入れば暖房のある所で待たせてくれるのに!仕方がないので、近くのコンビニに、、、。といっても、入り口上部からエアコンの温風が出てるだけです。それでも、冷たい外気にさらされてるよりはましです。
フランスの駅はマジ暖房ないんですね。きっと風邪が悪化したのはこのせいだと思ってます。
※もう1つ思い出しました。中国経由にするとライターは取り上げられてしまいます。たしか、この駅でタバコ吸いにスモーキングエリアに行っておじさんからライター借りようとしたら、「あげるよ!」と。ありがたいありがたい!帰りまで大事に使わせてもらいました。(帰りの中国でまた取り上げられてしまいました。)
フランスよ、駅には暖房つけてよ。ジジイからのお願いです! -
今回は寝台にしました。安いシート席もあったんですが、歳をとると少し贅沢しちゃいます。前回の反省から前もってネット予約!日本で簡単に予約できますね。総額97ユーロ!
購入先は
https://www.sncf-connect.com/en-en/ -
この夜行列車です。一昨年の夏、本当なら逆方向(トゥールーズからパリへ)で向かう予定でしたが、満席で切符が購入できず。時間もないので、このトゥールーズから帰国便のベルリンへ急遽航空券を購入し飛びました。
リベンジ果たせました。 -
日付は12月30日。
トゥールーズに到着!まだ朝の7時頃なので暗いです。 -
朝食は駅の中に入ってるお店で。コーヒーが体を暖めてくれます。
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朝のトゥールーズ!2年前にも来たはずですが覚えてない。フランスの南だから少しは暖かいのかな?と、アルジェ行きの航空機が出発するまで時間もあるので、観光しようかなと考えてましたが、、、暗い、サムーい寒い!観光はやめました。
でもこれで、日本からモロッコのマラケシュまでの陸路海路横断達成! -
もう寒すぎるので、駅隣にあったバスターミナル見つけ、空港に向かいます。空港まで9ユーロ!(キャッシュが使えました!)
写真はありませんが、たしかに2年前にもこの空港に来た記憶が少しずつ思い出されてきました。(あの時はベルリンへ)
今回は、もう1つフランスの重要な植民地であったアルジェリアの首都アルジェへ。
「フランス植民地の中でも最も主要な存在が北アフリカのアルジェリアである。アルジェリアは16世紀にオスマン=トルコ帝国に征服されたが、1830年にはフランス軍が侵攻してきてトルコ軍を追い払い、以降アルジェリアはフランスの植民地となっていた。
フランス人はアルジェリアに入植した頃から先住民に土地所有を認めず、入植者の土地確保のために先住民から土地を奪ってきた。1848年革命以来植民地住民に認められていたフランス本国の議会への選挙権もアルジェリア先住民には認められなかった。
「権威帝政」時代のナポレオン3世もそうした従来からのアルジェリア政策を踏襲し、ヨーロッパ人入植と先住民の強制退去を推し進めた。しかし「自由帝政」に移行後のナポレオン3世はうちつづくアルジェリア部族民の反乱を抑えるべく、融和政策に転換した。1863年には元老院令によってアルジェリア先住民の土地所有を認め、囲い込み政策を中止させた。
1865年にはナポレオン3世自らアルジェリアを訪問し、「フランスはアルジェリアの民族を抹殺するために来たわけではない。私は貴方達をトルコの支配から解放し、福祉の向上を図り、文明の恩恵を受けられるようにし、また参政権を与えてやりたいのだ」と先住民に呼びかけた。その宣言通り、議会を有する町村を設置して先住民の地方政治参加を促した(アルジェリア先住民の伝統的な部族制度を解体させるためでもあるが。1866年には廃止されていたイスラム法廷の復活を許し、併せてイスラム法解釈のための「イスラム法高等評議会」の設置も許可した。1870年6月には先住民の県議会議員選挙への出馬も認めた。)1865年には元老院令によってアルジェリア先住民を「市民権のないフランス国籍者」としつつ、申請して審査を通ればフランス市民になることができる。
こうしたナポレオン3世の融和政策は「アラブ王国」政策と呼ばれた。ナポレオン3世は「アラブ王国」政策について「この偉大な事業が完成したなら、フランスの栄光はチュニスからユーフラテス川まで響き渡り、東洋の大半の地域においてフランスの覇権は確固なものとなろう」と語った。
しかしフランス人アルジェリア入植者たちは先住民を徹底的に搾取することを望んでおり、ナポレオン3世の「アラブ王国」政策に強く反発した。そのため入植者たちは帝政に反対する共和主義者・民主主義者となっていき、1870年の第二帝政崩壊を歓喜を持って迎えた。民主主義の時代になったのだから、植民地においても「国民の意思」が最優先で尊重されるべきと考えられるようになっていった。こうして第三共和政のアルジェリア政策は融和政策を放棄して、ひたすら植民地化(フランス人入植者の土地確保、先住民から土地収奪、先住民の民族性抹殺、イスラム教信仰の破壊、徹底的搾取)を推進するというフランス人入植者たちの希望に沿った物になっていくのである。」ウィキより、、、
アルジェリア、いったいどんな国なんでしょう?
●TO7338便 トゥールーズ発13時30分ーアルジェ着15時05分
フランス旅行、冬は寒すぎる!お勧めしません。
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