2024/11/14 - 2024/11/14
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gianiさん
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2024/11/14
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門司の寒村がいかにして、日本を代表する港へ成長したかを現地の建造物等を通して巡ります。
用語等
下関:赤間/赤間関市/馬関駅等の名称でしたが、文中では現在の名称(下関)で通します。
開港:貿易の法律用語で、輸入/輸出が行える港。江戸時代の長崎、開国後の長崎/横浜/函館/新潟/神戸/+大阪が該当。
貿易の制限には外務省(外国人船員の裁判権)/大蔵省(関税)/農商務省(国内産業の保護)が関係した。
特別貿易港:1883年に隣国との貿易が特別に許可された。朝鮮貿易=博多/下関/厳原、清国貿易=那覇、ウラジオストク貿易=宮津、等。日本人所有船舶に限定。
特別輸出港:1889年に米/麦/麦粉/硫黄/石炭の5品目限定で輸出のみを認められた。門司/下関等9港が指定され、順次拡大。外国船の雇い入れが認められた。
開港外貿易港:1896年に6港、追加で4港が指定。日本人所有船舶限定。
こうした制度は1899年の関税法施行により無効になる。
1899年の開港:陸奥宗光が漕ぎ着けた条約改正(1894)が発効した年と重なる。治外法権/一部の関税権が撤廃されたことにより、外国籍の船舶/船員に日本の法律を適用できるようになり、貿易量(実績)以外の制限が撤廃された。
第1種重要港湾:1907年に関門/横浜/神戸/敦賀港が指定。貿易に関わる最重要港で、国営。第2種(10港)は地方が経営し、国の補助もあり。
- 旅行の満足度
- 5.0
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1880年代半ば(M.20頃)の門司港
古城山(左下の白抜き)の麓に、小さな漁村が広がるのみです。右には、海を仕切った大きな塩田が見られます。過去の栄光の痕跡の見られない姿です。1889年の町村制施行で、江戸時代の田野浦町/田野浦村/楠原村/門司村/小森江村の一町四村がまとまって文字ヶ関村が誕生します。当時は北前船が寄港した田野浦が一番栄えていました。
対岸の下関港は土地が利用し尽くされ、対岸の門司に用地を求めます。下関は1875年には上海航路が開設され、日本有数の港でした。 -
特別輸出港指定と税関の開設
貿易を行うには、税関が必要です。幕末の開国時に長崎「運上所」が開設されたのが始まりで、1872年に税関と改称されます。
九州一帯は長崎税関が管轄し、下関出張所が開設されます。門司で貿易を行うには、下関から職員が出張しました。北九州市旧門司税関 名所・史跡
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特別輸出港:大蔵/農商務省の意向で1889(M22)年に門司を含む9港が指定され、石炭/硫黄/米/麦/麦粉の5品目、かつ輸出のみが特別に許されます。主品目は筑豊産の石炭で、直近の若松は水深が僅か1.5mの悪条件もあり、門司が選ばれました。それと同時に長崎税関門司出張所が開設されます。
※輸出入が自由にできる「開港」は、幕末の条約で指定された長崎/函館/横浜/神戸/新潟の5港。 -
第一船溜竣工(1890)
渋沢栄一らは、1888年に門司港築港会社を設立、翌89年に築港工事を開始して90年に第一船溜(写真)を完成させます。浜は浅いが直ぐに深くなる地形を利用して、埋め立てた工事です。第一船溜竣工を機に、貨物取扱量がうなぎ上りになります。海峡プラザ ショッピングモール
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埋立の際に、第一船溜から半円状に運河(堀川/写真手前)を掘りました。現在の海峡プラザ横です。
第一船溜まりは艀の係留所として、1975年まで機能を果たしました。 -
堀川は昭和初期に埋立てられましたが、鎮西橋跡を示す親柱が残っています。橋に面して日銀跡と出光商会創業の地が建ちます。
https://4travel.jp/travelogue/11950217 -
1930年頃の鎮西橋
堀川に架かる鎮西橋の向こうに、門司税関が写ります。 -
鎮西橋交差点から国道3号線を進むと、老松公園交差点。ここから先は国道2号線です。ここは堀川跡でも、華やかなパートです。
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関門国道トンネル入り口横の道路が、堀川跡です。
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こんな感じで半円状にカーブします。
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旧門司1丁目交差点を越えると倉庫街で、運河沿いだった面影が残ります。
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第二船溜(1897)
第一船溜の東側を埋め立てた東海岸に隣接します。こちらは現在も漁船等が現役で使用しています。先端の三井倉庫の建物が名残でしょうか。 -
第二船溜まりの手前、貨物線路に掛かる橋桁が堀川を渡る名残です。
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半円状の堀川の内側地区は東海岸で、渋沢栄一が創業した澁澤倉庫もいい感じで営業しています。
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鉄道建設
特別輸出港指定の前年に九州鉄道の鉄道敷設免許が交付(写真)され、1891年には佐賀/玉名~門司(現在の門司港駅)が開通します。当時の九州四大都市(長崎/熊本/鹿児島/福岡)を結ぶ鉄道網です。1892年には筑豊炭田とも鉄道と結ばれ、門司は九州の物産の集結地となります。 -
門司伸張に合わせて、九州鉄道は本社を門司へ移します(写真)。1907年の国営化を経てJR九州初期まで、九州鉄道総局/本社として機能します。鉄道の中心は博多ではなく、門司でした。現在は、現在博物館として鉄道関連の展示がなされます。
※本州側の鉄道が下関まで到達したのは、1901年になってからです。九州鉄道記念館 美術館・博物館
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余談ですが、日本で最初に鉄道が走行したのは九州です。
1854年に佐賀藩の役所内で、アルコールを燃料とするミニチュアが走りました(写真)。
本物の蒸気機関車が人を乗せて走ったのは、1865年の長崎グラバー邸です。
※初の国産蒸気船を航行させたのも佐賀藩です。 -
海運/商社の進出
1889年の特別輸入港指定で海運/商社が本格的に進出し、1891年には大阪商船(現商船三井)92年には三菱系の日本郵船が出張所を開設します。いずれも下関支店からの進出です。写真は1927年築の旧日本郵船門司支店。門司郵船ビル (旧日本郵船門司支店) 名所・史跡
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三井門司支店(現三井物産)/三菱門司支店(現三菱商事)等、財閥の商社部門も次々と進出します。港の運営に欠かせない倉庫業も発達します。写真は、1917年築の旧大阪商船門司支店。八角形のタワーは、灯台の役割も果たしました。建築当時は海に面していました。
北九州市旧大阪商船 美術館・博物館
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写真は、門司港駅前の旧三井物産門司支店ビル(1937)。その後国鉄九州総局/JR九州が入りました。
JR九州第一庁舎 (旧三井物産門司支店) 名所・史跡
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1899年
1899(M32)年に、日本銀行西部支店(下関)が門司に移転します。大阪に次ぐ歴史を持つ支店で、当時はほかに函館と名古屋に支店があるだけでした。現在は、URの住宅が建ちます。関税自主権の部分回復により国際競争に耐えうる輸出品目が増え、活性の下地が整います。 -
日銀移転に伴い、多くの会社が下関から門司へ支店を移し、門司と下関の地位は完全に逆転します。写真は、鎮西橋に鎮座する西部支店。
※1964年に北九州支店として小倉へ移転します。 -
九州の金融センター
当時の都銀は日銀への依存度が高かったので、コバンザメのように次々と門司へ支店を開設します。写真は1934年竣工の旧横浜正金銀行(→東京銀行→東京三菱→MUFG)門司支店で、外国為替の専門銀行という立ち位置からも門司の重要性が伝わるかと思います。日銀が空襲被害に遭うと、正金が日銀仮店舗として機能しました。北九州銀行門司支店(旧横浜正金銀行門司支店) 名所・史跡
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有数の貨物港へ
1899(M32)年は門司にとって歴史的な年です。まず、貨物取扱量が横浜/神戸に次ぐ実績が評価され、関税自主権の部分回復/領事裁判権(治外法権)の撤廃に伴う「開港」指定をうけ、自由に輸入もできるようになります。新たに全国6番目の門司税関が設立され、北部九州/山口を管轄します。文字ヶ関村は門司町を経て市制が施行されます。
写真は2代目門司税関。北九州市旧門司税関 名所・史跡
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大正期の地図
海岸沿いに、左から西海岸と鉄道省門司駅、第一船溜まり、東海岸、第二船溜まりと続きます。半円状の堀川もはっきりと描かれています。 -
路面電車の営業(1911-1985)
九州軌道が鎮西橋~大蔵(旧八幡市)を開通させたのを機に、1914年には門司~折尾間の縦断ルートが営業を開始します。戦争中の合併で西鉄北九州市内線となり、旧門司市域は1985年に廃止、2000年の黒崎~折尾間の廃止で全廃。出光美術館付近に、1940年製の100型車が展示されています。 -
軍都(1894-1945)
筑豊炭田の上質な石炭を背景に海軍船舶の石炭貯蔵地としてはじまり、日清戦争(1894-95)では広島に次ぐ兵站地として、陸軍の物資が大陸や台湾へ輸送されます。日露戦争でも重要度は増し、梶ヶ鼻~文字ヶ関公園へかけて1896年に陸軍の兵器修理工場が建設、1916年に小倉へ移転するまで機能しました。ノーフォーク広場 公園・植物園
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堀川に面した地区にも、1896年に陸軍工廠の兵器保管庫等が建設され、小倉へ移転後は公園として整備されます。一方で第二次世界大戦中は連合軍の捕虜収容所になるなど、小倉に及ばずとも終戦まで軍事色は消えませんでした。
老松公園 公園・植物園
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老松公園の横には、1918年の米騒動がきっかけで公設市場が誕生します。1948年より中央市場となっています。
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門司城址のある古城山には、陸軍が1888年に建設した古城山砲台があり、下関の火の山砲台(1889)と併せて、関門海峡に睨みを効かします。
とはいえ、兵器等の進歩に伴い時代遅れとなり、1931年に除籍されます。和布刈公園 公園・植物園
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こんな感じで、堡塁の倉庫も残っています。
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麓へ下りる山道には、軍事境界線を示す石標も残っています。
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検疫
長崎発のコレラ流行に伴い1878年に横浜/神戸に消毒所が設置されたのをきっかけに、1885(M18)年に下関消毒所が開設され、後に門司検疫所となります。日清戦争の死因の9割がコレラ/赤痢ということもあり、兵站基地の門司で疫病を食い止めるのは重要課題で、日露戦争の際には大きな成果を上げます。関門は表裏一体で、隔離施設は下関の彦島にありました。 -
写真は、門司検疫所が小倉発祥の東洋陶器(現TOTO)に発注したロゴ入りの特注ティーセット。
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通信
電信/電話も重要になり、門司郵便局から電話室が独立し、1924年に竣工します。モダンで現代も通用するデサインと実用性でした。門司電気通信レトロ館 名所・史跡
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電信は1872年に東京~横浜が開通し、1880年の地図を見ると長崎経由で上海およびウラジオストク、対馬経由で朝鮮半島と繋がっています。本州へは関門海峡の地下ケーブルで繋がりました。
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電話は1890年に東京~横浜が開通し、加入者は197件でした。門司~福岡が開通したのは1900年で、市内に160件近い加入者がいました。
続いて工業です。国道3号線沿いの工場群です。 -
セメント工業
石炭輸出一辺倒だった門司港も、20世紀に入ると様々な工業が興り、官営八幡製鉄所の原料窓口としても機能します。
最初に興ったのは、セメント工業です。1893年に浅野セメントが門司工場を竣工し、1980年まで(当時は日本セメント)操業します。現在は広大な空き地になっています(近似スポットを入力)。平尾台等の後背地は有数の石灰石鉱山です。
※石灰石は製鉄に不可欠な原料でもあります。やきとりひろ グルメ・レストラン
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近代水道の整備
R3沿いの小森江バス停から風師山を目指して15分ほど歩くと、 -
1911(M44)年に給水を開始した小森江浄水場跡
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直近の動機は、小倉師団の明治天皇巡視が控えていたことでした。潜在的には、20世紀に入って国際都市として水道の整備は急務で、軍都は例外なく安全な水源確保が重要視されます。
門司の水は赤道を越えても腐らないということで、海運業界で高い評価を受けました。 -
現在は公園として整備されています。
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浄水場/貯水池跡から門司市街(小森江地区)を見下ろすと、こんな感じです。豊富な水をバックに、1911年以降、鈴木商店の食品コンビナートが形成されます。東側から順に紹介していくと、
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旧日本冶金門司工場
第一次世界大戦中に欧米諸国が非鉄金属の禁輸措置を講じ、電球のフィラメント素材を国産化するために起業された非鉄金属起業。第二次大戦後、東邦金属となり現在に至ります。
以下の工場群は、1923年に門司市に編入された旧大里村域に立地します。大里は官営製鉄所建設最終候補地まで行きましたが八幡村に敗れます。しかし、鈴木商店を誘致することで、大きく繁栄します。 -
神戸製鋼所門司工場
1917年竣工、現在は系列の神鋼リードミックになっています。これらは、現社名からも鈴木商店がルーツだとはっきりとわかります。
神鋼の前を辿ると、日露戦争時はロシア兵の捕虜収容所として1906年まで使用されていました。大久保ベーカリー グルメ・レストラン
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続いて、海に面したR199沿いへ。
ニッカウヰスキーの看板が。 -
旧大里酒精製造所
1914年に設立され、食品コンビナートから酵母の餌となる糖蜜等を調達して、焼酎を製造。朝鮮半島や大陸へ輸出しました。協和発酵を経てアサヒHDの一員となります。 -
旧大里製粉
1911年に竣工、1919年に合併して日本製粉、1997年閉鎖。1915年建築の倉庫部分は、ニッカウヰスキーの倉庫として使用されています。関税定率法で輸入小麦に関税を掛けて、国産小麦の競争力が増したことが背景にあります。 -
国道沿いには、説明プレートも付いています。
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現在の関門ロジスティックの場所には、先述の日本冶金(当時は日本金属)大里精練所が建っていました。現在の敷地は、当時の神戸製鋼所内です。
ちなみに、この手前の舟入には、関門鉄道トンネルが走っています。 -
関門製糖
1903(M36)年操業開始と、鈴木商店の大里食品コンビナートで最古かつ中核となる工場。1895年に割譲された台湾から甘蔗(サトウキビ)の移入が始まったのがきっかけです。1907年に大日本製糖へ売却され、現在はDM三井製糖HDの傘下で九州で最大のシェアを誇ります。ばら印(大日本明治製糖)/すずらん印(日本甜菜製糖)の受託生産を行っています。小森江駅 駅
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現役工場ですが、凄い風格。
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国道を挟んで海側の倉庫群もアレンジして現役活用。
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旧門司税関大里仮置場詰所
倉庫の先には、蔦に覆われた税関の出張所。輸入品には関税を掛けるのが原則ですが、輸入原料の課税を保留にしたまま(=無課税)加工輸出できる保税施設でした。関門製糖は、保税工場の先駆けとされます。 -
門司往還大里宿の西構口には、ひときわ印象的な建築物が。
1913(T2)年竣工の旧帝国麦酒醸造棟です。鈴木商店の大里コンビナートで最大の工場施設です。原料の大半を占める水が良質であることが鍵です。門司赤煉瓦プレイス 名所・史跡
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旧事務棟は、1910年竣工の八幡製鉄所鉱滓煉瓦工場産の鉱滓煉瓦を使用して渋い風合いです。
門司麦酒煉瓦館 美術館・博物館
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内部は、創業からの歩みを伝える資料室になっています。
帝国麦酒はサクラビールのブランドを中心に展開し、第一次世界大戦中にヨーロッパからの輸出が途絶えたアジアアフリカ市場にもマーケットを拡大、北米にも進出しました。 -
当時の姿、倉庫棟は海に面し、埠頭から原料仕入/製品出荷を行いました。
鈴木商店倒産後の社名は桜麦酒となり、戦争中に札幌/恵比寿と合併し、戦後はアサヒと分割してサッポロビール門司工場として操業、2000年に日田の新九州工場に役目を譲っています。 -
余談ですが、瓶ビール全盛期の1983年に、新日鉄が(鉄鋼需要拡大のために)スチール缶のビール愛飲活動を展開し、グループ7万人と北九州市を巻き込む一大キャンペーンになりました。
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倉庫棟と組合棟は、キッチンカーや地元商店が入るおしゃれな箱に。門司駅前の一等地は売却して、タワーマンションetc.が建ちます。
門司赤煉瓦プレイス - 赤煉瓦交流館 名所・史跡
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山寄りの戸上神社は、鈴木商店系列の寄進であふれています。
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台湾航路
門司港は、横浜や神戸と比べて台湾に近く、台北外港の基隆との航路が確立されます。1903年にバナナの叩き売りが始まったのも門司港です。バナナは未熟な状態で出荷されましたが、船中で黄色く熟成したものは日持ちがしないので、安売り処分したものです。バナナの叩き売り発祥の地 名所・史跡
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写真は1960年に封切された植木等主演の映画作品。門司のバナナの叩き売りが全国に広く知られていたことの証です。門司港駅から横浜正金銀行にかけて路上に数十もの露店が一斉に叩き売りをして風物詩となりました。
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ハイカラな街
門司港には最新の舶来品が流れ込み、何でも揃う九州で最もハイカラな街でした。1922年にアインシュタインが福岡市内に宿泊した際に、福岡市内にベーカリーがなかったためにホテルが門司までパンを買いに行ったという逸話も残ります。
1885年に横浜港の船舶納入業者として創業した明治屋も、1909(M42)年に小売店舗を構えました。現在も海上事業(船舶納入)/工業製品販売(船舶部品)事業部の営業所を門司に置いています。 -
鎮西橋公園には、明治屋のレリーフと説明書きが記念として保存されています。
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本州/九州の中継点
神戸から西へ伸張する山陽鉄道が下関に到達した1901(M34)年に、関門連絡船(1901-64)が営業を開始します。1914年に門司港駅改札横に地下へ通じるスロープが設けられ、専用桟橋まで続く関門連絡船通路が建設されました。現在は、シャッターが下ろされています。
下関~門司間は、全航路のうち最大の需要を生み出します。 -
新しい駅舎
1914(T3)にルネサンス様式の美しい駅舎が竣工し、新しい玄関口となります。木造で、国の重文指定を受けています。新駅舎建設に伴い、駅舎は現在のトヨタレンタカー営業所付近から200mほど移動しました。上の写真の連絡通路も、新駅舎のものです。門司港駅 駅
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九州鉄道記念館には、開業当時(1891~1914)の鉄道起点が保存されています。
ゼロマイル グルメ・レストラン
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鉄道貨物は、現在の小森江駅付近に建設された貨物専用桟橋に乗り入れました。現在は桟橋も埋立てられ、梶原倉庫付近でR199がカーブしているのが引き込み線の名残となっています。
1911年には日本初の艀によるフェリー輸送(貨車が線路を敷いた船内にそのまま入線し、積み替えの必要がない)が実施され、1919年にはエンジン付き貨物船によるフェリー輸送に切り替わっています。 -
埠頭の整備
1897年までに整備された2つの船溜まりは大型船舶の接岸には程遠い施設で、沖合に停泊した船舶から艀を介して港湾荷役を行っているのが現状でした。それで1916-20年に掛けて東海岸埠頭、1919-31年に掛けて西海岸埠頭の造成工事が国費(大蔵省負担)で行われ1万トン級7隻が係留できるようになります。
写真は1919(T8)年発行の市街図で、東海岸埠頭は税関倉庫に沿って3つの桟橋が海に突き出ています。西側は関門汽船/商船会社/郵便局/水上(警察)署/市営/鉄道省関門連絡船の6つの桟橋が描かれていますが、西海岸埠頭造成工事(赤線)で埋立てられる計画が描かれています。 -
航路の拡大と豪華船の寄港
1921年に日本郵船が欧州航路に投入した箱根丸(写真)が門司に寄港し、1万トンクラスの船が接岸できることが証明され、門司航路は全盛期を迎えます。台湾/中国/欧米/豪州行の船が次々に入港し、横浜/神戸と並ぶ窓口となります。また西洋のVIPを意識した一等船室を持つ花形船が入港することで華やかさも添えました。 -
こちらは日本郵船が1930年に欧州航路へ投入した照国丸(1万2千t)の1等船室。モデルの女性はアングロサクソン系です。ちなみに三等船室の写真は、日本人がモデル出演しています。
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門司税関1号上屋(1929)
上の地図で、沖合に税関設備計画と書かれていた構築物。国営鉄道の線路の外側を埋め立てた用地に建設されます。全長130m。奥には2号上屋が現存し、手前には1927年築の門司税関庁舎(3代目)が建っていました(1979年に4代目の合同庁舎へ改築) 。 -
入口には旅具検査場と書かれ、国際航路用の施設であることが分かります。国際航路は大連航路の就航数がダントツだったので、大連航路上屋と呼ばれるようになります。
旧大連航路上屋 名所・史跡
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2階通路
一等船室利用者は、2階からボーディングブリッジを通して直接乗船できました。1932年の満州国建国と同時に大連航路(阪神~門司~大連)が開設され、月に10往復が設定されました。 -
上屋のすぐ横に赤いペンキが塗られた繋船柱が残り、当時はここが岸壁だったことが分かります。
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当時の様子
満洲の玄関口となった門司は、大正/昭和初期にかけて大いに栄えます。上屋の真横に船が乗り付けています。 -
1989年の再開発で上屋前の岸壁が埋立てられ、沖合に水深12mの新1号/2号岸壁が竣工します。こちらは、5万t級のクルーズ船が接岸できます。
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左は大阪商船の南米航路
門司からカルフォルニア/パナマ運河を経由してブラジルへ寄港し、ケープタウン/シンガポールを経由して世界を一周する壮大な航路です。
右の日本郵船のポスターも、東洋色を出して欧米航路を売り出しています。 -
門司の全盛期
1920年代から満洲とのパイプができた30年代にかけてが門司の全盛期でした。1930(S5)年に竣工した旧門司市役所の建設費はスケールの割に破格で、当時の潤沢な資金を彷彿とさせます。現在も門司区役所庁舎として現役です。 -
戦争の痕跡
満州事変以降は軍事色が濃くなり、大連上屋からは200万人を超える兵士が大陸へ出征しました。門司港出征の碑 名所・史跡
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出航はいつも華やかですが、皆軍服を着ている姿が異様です。
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門司港からは、100万頭を超える農耕馬が軍馬として戦地へ送り込まれました。彼らにとって、二度と本土の土を踏めないことを意味していました。出征軍馬の水飲み場として知られる水道には、門司市畜産組合馬水飲場と刻まれています。
ちなみに連合国側は、馬ではなく自動車で用を足していました。出征軍馬の水飲み場 名所・史跡
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関門鉄道トンネル工事(1936-44)
関門連絡船の輸送力が限界に達するのが目に見えていたので、防衛問題を考慮し橋ではなく海底トンネルを通すことになり、1942(S17)年に下り線/1944(S19)年に上り線が開通します。国内で初めてシールド工法が成功した工事です。写真のようなシールドマシンを使用する巨大プロジェクトです。 -
小森江駅前の駐車場内に、関門トンネル下り線門司方立坑(深度24m)が残っています。現在はコンクリートで蓋をされています。トンネル出口から610mの距離に位置し、1937年1月7日着工。
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直径7mのシールドマシンおよび全長12mのエアロックを地下へ入れるために、カマボコ状の細長い坑になっています。
下り線は1937年に着工し、1942年に開通。 -
帽子状に蓋をされたのは、関門トンネル上り線門司方第一立坑です。入口から560m地点です。圧気工法の基点で、1942年4月13日着工。
上り線は1940年に着工し、下り線が完成して労働力を割けるようになった1942年に本格化、開通は1944年。 -
トンネル延長が3400m弱であることと20‰の勾配を考慮して、最初から電化されました。EF10型電気機関車に防錆加工を施して従事します。関門トンネルは、シェアの4割を占める筑豊産の石炭を全国へ分配する生命線として機能します。EF10は、九州鉄道記念館に展示されています。
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関門国道トンネル
1937年に調査を開始し、鉄道トンネルと同じ1939年に試掘坑道が開通しますが、条件の厳しい早戸の瀬ルートということもあり工事は遅れ、1945(S20)年6/7月の門司大空襲で立坑が甚大な被害を受け工事は中断されます。 -
門司港駅の転落(1942)
関門トンネル開通で門司駅は門司港駅へ、関門トンネル出口に位置する大里駅は門司駅へ改称されます。門司港駅は、盲腸線の行き止まり駅と化します。これが門司の衰退のはじまりです。 -
戦災
1945年6月29日/7月2日の空襲は、とりわけ甚大な被害をもたらします。空襲対策として、門司港駅も壁を黒く塗られました。その姿は1955年の時点(写真)にも鮮明に残っています。門司税関庁舎等も、迷彩が施されました。
関門海峡には、連合国が日本近海に敷設した機雷総数の4割以上が集中的に敷設され、関門海峡の航行は事実上不可能になります。 -
貿易の衰退
近海の制海権を失い、内外航路はほとんど用を為さなくなります。国際航路に投入された大型船の殆どが海上で撃沈され、一部の船舶は空母などの軍艦に改造されました。こうした受難は、横浜/神戸などでも同じ状況でした。1943年には税関(大蔵省)もなくなり、運輸逓信省海運局の管轄となります。 -
復員窓口
戦後、海外の戦線から兵士たちの復員が始まります。門司は、博多/舞鶴/敦賀などと共に大勢の復員兵が日本の土を踏んだ土地となります。門司港駅にある水飲み場は、安堵の思いで喉を潤したことから「帰り水」と呼ばれます。帰り水 (JR門司港駅) 名所・史跡
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世界平和パゴダ
門司港から出征し東南アジア戦線で犠牲になった将兵を弔うために、ビルマより僧侶を招いて1958年に開山しました。門司から出征した200万人のうち18万人以上が戦死し、ビルマでは餓死が最多でした。
門司港を見下ろせる古城山に位置し、ミャンマー仏教会公認の日本唯一の寺院です。 -
遅れる戦後復興
1945年3月27日以降、沖縄戦に備えて関門海峡に機雷が投下され、1949年に安全宣言が出されるまで貿易は停止していました。関門海峡の安全が確保できない状況で、関門鉄道トンネルは重要な役割を果たしました。
主力だった対中貿易も、ココムやチンコムによる規制で冷戦中は大きな制約を受け続けました。 -
米軍による港湾設備の接収(1945-72)
国内の様々な施設が、連合国軍の接収対象となりました。民間施設は早めに返還されましたが、国有財産の返還は遅れました。朝鮮戦争が勃発すると、門司は戦線に最も近い港ということで、大連航路上屋(写真)等が接収され軍事補給基地となります。門司港は国費で整備された(国有財産扱い)ことが大きく災いし、大連1号上屋(写真)と隣接する1号/2号岸壁が返還されたのは1972年のことでした。国内が朝鮮特需に沸く中、門司港は東海岸埠頭の僅かなインフラが使用できたのみで、恩恵を受け損ね大いに出遅れました。 -
田野浦の開発
門司市は港湾開発を国に丸投げしていたわけではなく、門司港の裏側に位置する田野浦を開発します。門司築港株式会社と共に門司港~外浜までトンネル掘削(写真)を含む貨物引込線工事を市営事業として1928年に開業します。
門司築港は、日ノ出町経由で1923年に路面電車を田ノ浦まで開業します(1936年廃止)。
※1888年創立の門司港築港株式会社とは別組織です。 -
現在は貨物輸送は終了し、観光列車が走っています。2.8キロポスト付近の車庫で線路が途絶えています。
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旧農林省米穀倉庫(1928-94)
米穀法に準拠して全国10か所に建設されたものの一つ。通常は穀倉地帯に建設されましたが、門司は北九州市域で唯一米騒動(1918)が勃発した経緯が大きく関係しています。田野浦の歴史的アイコンです。 -
1994年に役目を終え、現在は映画撮影などで使用されています。門司築港が埋立てた土地に建ちます。向かいには、青果取扱施設(通称バナナセンター)が建ちます。
西海岸埠頭の大半は1952年に返還されましたが、門司市は田野浦港修築を国に申請し、1957(S32)年にセメント/バナナ専用埠頭が供用開始されます。1971(S46)年には、田野浦新開に神戸以西で初のコンテナ埠頭ターミナルが完成します。現在は中古車整備/輸送がメインのエリアです。お菓子製作 Voila グルメ・レストラン
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太刀浦コンテナターミナル(1980-)
1929-41年にかけて田野浦より先の沿岸が門司市に編入され、市域(現門司区)が確定します。田野浦に隣接する太刀浦は平家ゆかりの土地ですが、1980(S55)に太刀浦第1コンテナターミナル、1988年に第二ターミナルが供用開始します。時代のトレンドはコンテナ輸送でした。東西融和もあり、中韓/東南アジア航路がメインでした。 -
新門司港(1990-)
高速道路に直結し、九州各地への物流に適した新門司港が休養を開始します(図:緑円)。工業団地も隣接し、関東/関西を結ぶフェリーは、すべてこちらに寄港します。市域外の北九州空港とも連携します。周囲の港湾施設は北九州港として一元的に管理され、外洋に面したひびきコンテナターミナル(図:矢印)は水深15mを確保するなど、旧門司市域の地位は相対的に低下しています。
図の赤丸は田野浦、青丸は太刀浦。 -
関門国道トンネル開通(1958)
主権を回復した1952年に工事が再開し、1958(S33)年に開通します。門司市街を結ぶルートとして、緩やかに下降する門司市にとっては明るい話題でした。かわいいフグですが、毎日27000台の自動車を飲み込む大食漢です。 -
国際航路
冷戦下のココム等の中共対策等で大きな制約を受ける門司港ですが、戦後も欧米航路は細々と続いていました。写真は大阪商船保有1959年就航のしかご丸。ニューヨーク航路に使用されました。1万t未満です。台湾や東南アジアが貿易の中心となります。一方で海外の安価で良質な石炭が輸入され、エネルギー革命と併せて門司にとって負の要素となります。 -
北九州市の誕生(1963)
筑豊炭と製鉄所に大きく依存していた若松/八幡/戸畑/小倉/門司の5市は危機感を共有し、前代未聞の対等合併を実現させ、九州初の政令指定都市かつ100万人都市が誕生します。新たに北九州市門司区としてスタートします。
しかし1973年開通の関門橋(日間通行量約4万台)や新幹線は門司を素通りします。海陸の輸送手段の変化と併せて1980年代以降、大里コンビナートの工場群も相次いで閉鎖されます。 -
バブル期の再開発計画
土地神話に基づくバブル期に、門司港駅前の再開発が計画され、第一船溜まりの埋立が決定します。駅周辺の古い建物は風前の灯でした。 -
門司港レトロ事業(1987-)
旧三井倶楽部は三井幹部のための社交施設で、三井物産門司支店長社宅が隣接していました。戦後に旧国鉄の手に渡り1987年に清算事業の一環で解体が決まりました。
行政は文化価値の高い物件を譲り受け、駅前に移築保存することとしました。一転して、古い建築群にはレトロという付加価値を与え、観光資源となりました。アインシュタインも宿泊した由緒ある施設です。旧門司三井倶楽部 名所・史跡
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焼カレー
レトロは有形物にとどまらず、バナナの叩き売り(1995)や焼カレーといった文化も含まれます。こちらは安価且つ美味のお店こがねむし グルメ・レストラン
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チーズカレー
なぜか焼カレーを頼みませんでした。カレーは、船員を通して広まったハイカラ料理の代表、今やゆるぎない国民食です。焼カレーは、真ん中に生卵を落としてチーズを振り掛けオーブンで焼くのがオーソドックスです。 -
こちらはハヤシライス。
じつは船員を通して広まったハッシュドビーフの洋食版ハヤシライス(丸善の林氏が名称のルーツ)も、重要アイコンです。 -
繁栄から取り残されたことを観光資源として用いつつも、門司の人口はピーク時の15.5万人から9万人へ減少中です。人口減少と高齢化を鑑みて、門司港駅周辺に行政/商業施設を集約する令和の再開発計画が進行しましたが、旧門司駅の遺跡などが発掘され、保存と開発の狭間で揺れ続けています。
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おまけ
レトロばかりが強調されますが、和の要素も色濃く残ります。
こちらは門司を代表する料亭三宜楼の百畳間。実際は64畳ですが。三宜楼 名所・史跡
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電話が貴重な時代に回線2本を契約していました。財界/文化人が多く訪れました。
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錦町公民館(1937年築)
料亭と不可分な芸者のお披露目などを行った検番として建設されました。 -
現在は移転した中華料理店
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料亭の建つ山沿いに置屋や上流階級の住居が軒を連ねました。路地は散歩道として地元に推薦されています。
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さりげなく現役営業中なのも乙です。
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堀川跡(国道2号線沿い)には、1899年築の酒屋跡も。和風商家建築でありながら、壁や倉庫は赤レンガ造り等の和洋折衷が心憎いです。
岩田家住宅 名所・史跡
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おしまい
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