2024/06/03 - 2024/06/03
1353位(同エリア2323件中)
ポールさん
この旅行記のスケジュール
2024/06/03
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荒神谷遺跡
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加茂岩倉遺跡
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西谷墳墓群
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出雲地方の弥生時代遺跡である、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、西谷墳墓群を見学しました。
以下、遺跡からの出土物である銅鐸等について、その概略を押さえておきたいと思います。(諸説あります。)
紀元前400~300年頃、大陸から青銅器の鋳造技術が伝わり、遺物が西日本を中心に出土していますが、その分布には地域的な特徴が見られます。
「銅鐸」の出土状況から、弥生時代後期、「四国・中国地方~近畿地方~東海地方」に、銅鐸祭祀を通じて国々の緩やかな連合体が形成されていたと考えられています。
銅鐸は、元々は鐘として音を鳴らすために使われていたようですが、1世紀末頃には大型化が進み、音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化したとされており、これは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開と呼ばれています。
銅鐸の表面には、様々な絵が描かれていることもあり、水田に生きる動物や農耕に関連した場面が多いことから、豊作を祈る祭りの道具として使われていたのだと考えられています。
3世紀、各国により女王卑弥呼が共立された頃までには銅鐸祭祀は終わり、銅鐸は埋納されたと考えられています。
「銅剣」は、元々は武器として伝わってきましたが、やはり祭りなどの道具として使われるようになり、主に瀬戸内海中部を中心とした地域から、発見されています。「銅矛」は、木の棒の先に取り付けて使いますが、これも武器としてではなく、祭りなどの道具として使われたと考えられており、九州北部から瀬戸内海にかけて、多く出土しています。
なお、荒神谷遺跡及び加茂岩倉遺跡に埋納された銅鐸は古い形式の「聞く銅鐸」であり、また、2世紀後半には西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓が出現していることから、出雲では他の地方に先立って銅鐸等による祭祀が終了したのかもしれません。
旅の全体日程は以下のとおりです。
1日目:新神戸駅→備中松山城→米子(米子泊)
2日目:レンタカーで、月山富田城、足立美術館(米子泊)
3日目:松江城と城下町、茶室(出雲市泊)
4日目:レンタカーで、古代出雲の遺跡巡り(出雲市泊)
5日目:レンタカーで、奥出雲たたら製鉄の歴史巡り、出雲空港→羽田空港
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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レンタカーで、荒神谷遺跡にやって来ました。
荒神谷博物館のガイドの方に、丁寧に説明していただくことができました。 -
荒神谷遺跡は1983年に発見され、遺跡の南側に『三宝荒神』が祀られていることから荒神谷遺跡と命名されました。
翌1984年、谷あいの斜面を発掘調査したところ、国内最多の358本の銅剣が出土しました。銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面でした。
翌年にはその地点からわずか7m離れた場所から銅鐸と銅矛が出土しました。銅鐸6個と銅矛16本の組合わせは、これまでに例のないものでした。銅鐸は国内最古型式のものが含まれ、銅矛には北部九州で出土する銅矛にみられる綾杉状の文様がありました。
総数380個もの青銅器が出土した荒神谷遺跡の名は全国に衝撃を与えました。 -
遺跡が見えてきました。
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高架木道から見学できるようになっています。
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発掘現場が再現され、出土物のレプリカが展示されています。
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358本の銅剣の発掘再現です。
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銅鐸6個、銅矛16本の発掘再現です。
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2,000~3,000年前の種子から発芽したハスです。
毎年、レンコンを収穫するそうです。 -
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博物館には、発掘された青銅器(銅剣・銅鐸・銅矛)のレプリカが展示されています。(出土した青銅器は、すべて国宝に指定されており、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本は、島根県立古代出雲歴史博物館で収蔵展示されています。)
また、荒神谷青銅器の埋納状況の実寸大ジオラマなど、様々な展示物により荒神谷遺跡について学習することができます。 -
358本の銅剣が出土した際の写真です。
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銅鐸6個と銅矛16本が出土した際の写真です。
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レンタカーで移動しました。
最寄りの駐車場から加茂岩倉遺跡のガイダンス施設までは、約550mの上り坂です。 -
1996年10月14日、荒神谷遺跡から約3kmの雲南市加茂町岩倉の農道工事現場より、弥生時代中期から後期と思われる大量の銅鐸が出土し、1ヵ所の出土としてはこれまで全国最多の39個が確認されました。
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ガイダンス施設です。美しい建築です。
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ここで、遺跡についてのレクチャーを受けることができます。
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同じ鋳型で造られた銅鐸のことを「同笵銅鐸」といいます。
加茂岩倉銅鐸では、15組26個の同笵関係が明らかになりました。つまり、39個の銅鐸のうち26個の銅鐸に何らかの同笵関係が認められたことになります。 -
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大きな銅鐸の内側に小さな銅鐸を収めることを「入れ子」といいます。
このように銅鐸を「入れ子」にして埋納した例は、これまでにもいくつか知られていましたが、これらはいずれも出土後の聞き取りによって確認されたものでした。
これに対して加茂岩倉銅鐸は「入れ子」による銅鐸埋納を発掘調査で確認したはじめての例となりました。加茂岩倉銅鐸には「入れ子」状態のままで見つかった銅鐸のほか、土や錆の付着状況によって「入れ子」関係を推定できるものもあり、計15組の「入れ子」関係が判明しています。 -
ガイダンス施設から見た遺跡(発掘場所)です。
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発見が重機での作業中だったことがよく分かります。
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更にレンタカーを約15km走らせて、「西谷墳墓群」へやって来ました。
西谷墳墓群は、弥生時代後期から奈良時代にかけて西谷の丘に造られた多くの墓で、墳丘を持つものだけでも27基あります。
長い年月の間にさまざまな種類の墓が造られましたが、弥生時代後期~終末期の6基の四隅突出型墳丘墓は権力者たちの墓で、中でも特に巨大な規模を持つ3号墓(2世紀後半)、2号墓(2世紀末頃)、4号墓(2世紀末頃?)、9号墓(3世紀前半)は、出雲を支配した王たちの墓と考えられています。
墳丘はどれも斜面が貼石でおおわれ、裾まわりにも石敷きや石列がめぐっており、弥生時代としては全国トップクラスの壮大な王墓です。
古墳時代になると、前半には「古墳」が、終わりごろには「横穴墓」が造られました。
奈良時代にも横穴墓への埋葬が行われたほか、「火葬墓」も造られました。 -
3号墓です。
西谷の丘に造られた最初の王墓で、突出部を含めた規模は約52m×42m、高さ4.5m、裾まわりの石列は2列です。
発掘調査により、鉄剣やガラス勾玉、吉備系、北陸系のものを含む大量の土器などが発見されました。 -
調査結果をもとに復元した王の姿や葬儀の様子のジオラマが、出雲弥生の森博物館に展示されています。
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左が男王の墓、右が女王の墓です。
2人が夫婦だったかどうかは不明ですが、埋葬状況から、共同で統治していたのではないかとされています。 -
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男王が埋葬されていた場所です。
葬儀の際に設置されたと思われる上屋の柱の下部が復元されています。 -
ガラス管玉20個と鉄剣が出土しました。
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女王が埋葬されていた場所です。
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碧玉製管玉及び小玉、垂玉、管玉、勾玉などのガラス製品が大量に出土しました。
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副葬品の中でも有名な、青い大きなガラス製勾玉(耳飾り)です。
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出雲弥生の森博物館に展示されている、装飾品を身に着けた男王と女王を想像した姿です。
女王の耳飾りは、青いガラス製勾玉です。 -
2号墓です。
3号墓の次の代の王墓で、突出部を含めた規模は約46m×29m、高さ3.5m、裾まわりの石列は2列です。
ガラス腕輪や、葬儀に使用した土器(吉備系のものを含む)などが発見されています。 -
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当時の外観が復元され、内部は展示室になっています。
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出雲弥生の森博物館です。
3号墓での王の葬儀のジオラマが目を引きますが、その他にも、弥生時代から古墳時代にかけての出雲地方の出土遺物や再現模型など、かなり充実した展示でした。
これらについて、学芸員の方に丁寧に説明していただきました。 -
夕食は、ホテル近くの「洋風居酒屋Chaka」を予約しておきました。
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馬刺しです。
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