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都営地下鉄三田線春日駅近くの菊坂界隈は、かつて多くの文学者が住んでいました。<br />当時の建造物などはほとんど残っていませんが、そこここに説明板を見かけます。<br />今回は本郷と呼ばれる菊坂付近と、そこからほど近い東京大学構内を散策してきました。<br />東大構内には銅像が沢山あって面白い場所です。<br /><br />

文京区菊坂あたりと東大構内を見て歩き

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2023/09/28 - 2023/09/28

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キャンサー50

キャンサー50さん

都営地下鉄三田線春日駅近くの菊坂界隈は、かつて多くの文学者が住んでいました。
当時の建造物などはほとんど残っていませんが、そこここに説明板を見かけます。
今回は本郷と呼ばれる菊坂付近と、そこからほど近い東京大学構内を散策してきました。
東大構内には銅像が沢山あって面白い場所です。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
同行者
その他
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
私鉄 徒歩
  • 春日駅A6出口から東へ向かい、「菊坂下」交差点を南へ入るとあるのが菊坂です。<br />昔、この辺りに菊畑が広がり、菊の花を作る者が多く住んでいたのが名前の由来です。<br />今は何とはない坂ですが、多くの文人が住んでいたことで有名です。<br /><br />

    春日駅A6出口から東へ向かい、「菊坂下」交差点を南へ入るとあるのが菊坂です。
    昔、この辺りに菊畑が広がり、菊の花を作る者が多く住んでいたのが名前の由来です。
    今は何とはない坂ですが、多くの文人が住んでいたことで有名です。

  • 菊坂と平行してすぐ南に菊坂下道と呼ばれる小路があります。<br />こちらのほうがかつての菊坂の面影を濃く残しているように感じます。<br /><br />

    菊坂と平行してすぐ南に菊坂下道と呼ばれる小路があります。
    こちらのほうがかつての菊坂の面影を濃く残しているように感じます。

  • 菊坂を上りはじめてすぐにあるのが旧伊勢屋質店。<br />樋口一葉が明治23年に近くの旧菊坂街の借家に母と妹と移り住んでから、度々ここに通い、苦しい家計をやりくりしました。<br />一葉が亡くなったときの香典帳に、伊勢屋から香典が届けられたことが記されています。<br />金・土・日には建物内部が一般公開されています。<br /><br />

    菊坂を上りはじめてすぐにあるのが旧伊勢屋質店。
    樋口一葉が明治23年に近くの旧菊坂街の借家に母と妹と移り住んでから、度々ここに通い、苦しい家計をやりくりしました。
    一葉が亡くなったときの香典帳に、伊勢屋から香典が届けられたことが記されています。
    金・土・日には建物内部が一般公開されています。

    旧伊勢屋質店 名所・史跡

  • 菊坂下道の途中のあるのが菊水湯跡地。<br />跡地といっても碑や説明板は無く、集合住宅の角に「菊水」と刻まれた鬼瓦が残っています。<br />菊水湯はこの辺りに下宿する東大生の御用達だったそうですが、2015年に閉業しました。<br /><br />

    菊坂下道の途中のあるのが菊水湯跡地。
    跡地といっても碑や説明板は無く、集合住宅の角に「菊水」と刻まれた鬼瓦が残っています。
    菊水湯はこの辺りに下宿する東大生の御用達だったそうですが、2015年に閉業しました。

  • 菊坂下道をさらに進み、ちいさな路地を折れるとある、樋口一葉菊坂旧居跡。<br />説明板も何もありませんが、レトロな木造家屋の玄関に「ITIYO HOUSE」と書かれているのでそれとわかります。<br /><br />

    菊坂下道をさらに進み、ちいさな路地を折れるとある、樋口一葉菊坂旧居跡。
    説明板も何もありませんが、レトロな木造家屋の玄関に「ITIYO HOUSE」と書かれているのでそれとわかります。

    樋口一葉菊坂旧居跡 名所・史跡

  • ふるい家屋に挟まれた路地の石段は、今でも着物姿の樋口一葉が下りてきそうな風情です。<br /><br />

    ふるい家屋に挟まれた路地の石段は、今でも着物姿の樋口一葉が下りてきそうな風情です。

    樋口一葉菊坂旧居跡 名所・史跡

  • 「ITIYO HOUSE」の前にある井戸は、樋口一葉も誓ったとされる井戸で、一葉の井戸として現存しています。<br />

    「ITIYO HOUSE」の前にある井戸は、樋口一葉も誓ったとされる井戸で、一葉の井戸として現存しています。

    樋口一葉旧居跡の井戸 名所・史跡

  • さきほどの路地の石段を上った先の鎧坂の途中にある「金田一京助・春彦の旧居跡」。<br />言語学者金田一京助は昭和17年(1942)から東大で教鞭を執っていますから、通いやすいこの付近に住んでいたと思われます。<br />息子金田一晴彦はこの地の生まれです。<br />ちなみに春彦も国学者、その息子秀穂も言語学者です。<br />血は争えません。<br /><br />

    さきほどの路地の石段を上った先の鎧坂の途中にある「金田一京助・春彦の旧居跡」。
    言語学者金田一京助は昭和17年(1942)から東大で教鞭を執っていますから、通いやすいこの付近に住んでいたと思われます。
    息子金田一晴彦はこの地の生まれです。
    ちなみに春彦も国学者、その息子秀穂も言語学者です。
    血は争えません。

  • 鎧坂と平行して東側に通るのが炭団坂です。<br />炭団などを商売する者は多かったのが名前の由来。<br />近くに坪内逍遥が住んでいました。<br /><br />

    鎧坂と平行して東側に通るのが炭団坂です。
    炭団などを商売する者は多かったのが名前の由来。
    近くに坪内逍遥が住んでいました。

    炭団坂 名所・史跡

  • 炭団坂の坂上にある「坪内逍遥旧居跡」。<br />坪内逍遥は明治17年から3年間ここに住み、「小説神髄」を著しました。<br /><br />

    炭団坂の坂上にある「坪内逍遥旧居跡」。
    坪内逍遥は明治17年から3年間ここに住み、「小説神髄」を著しました。

    坪内逍遥旧居跡 名所・史跡

  • 炭団坂を下って菊坂下道の戻るとすぐにある「宮沢賢治旧居跡」。<br />宮沢賢治が大正10年(1921)に上京後、住んだ二軒長屋の跡です。<br />案内板の右手の建物2階に住んでいたとありましたが、その建物は現代のもので、往時を偲ばせるものではありません。<br /><br />

    炭団坂を下って菊坂下道の戻るとすぐにある「宮沢賢治旧居跡」。
    宮沢賢治が大正10年(1921)に上京後、住んだ二軒長屋の跡です。
    案内板の右手の建物2階に住んでいたとありましたが、その建物は現代のもので、往時を偲ばせるものではありません。

    宮沢賢治旧居跡 名所・史跡

  • 菊坂下道を東へ向かい、突き当りを左折したところの坂を本妙寺坂といい、その途中に「本妙寺跡」があります。<br />その説明によると、本妙寺は寛永13年(1636)にこの地に移ってきた、法華宗の大寺院です。<br />明暦3年(1657)び振袖火事の火元といわれています。<br />また、ここは私立女子美術学校菊坂校舎の跡でもあります。<br /><br />

    菊坂下道を東へ向かい、突き当りを左折したところの坂を本妙寺坂といい、その途中に「本妙寺跡」があります。
    その説明によると、本妙寺は寛永13年(1636)にこの地に移ってきた、法華宗の大寺院です。
    明暦3年(1657)び振袖火事の火元といわれています。
    また、ここは私立女子美術学校菊坂校舎の跡でもあります。

  • 「本妙寺跡」の隣にあった「第四(本妙寺)校跡」。<br />明治3年(1870)に東京に開設された6つの小学校の一つで、これらは日本で最初の公立小学校です。<br /><br />

    「本妙寺跡」の隣にあった「第四(本妙寺)校跡」。
    明治3年(1870)に東京に開設された6つの小学校の一つで、これらは日本で最初の公立小学校です。

  • 「第四(本妙寺)校跡」のすぐ上のマンションの入口にあったのが「近代文学発祥の地」碑。<br />樋口一葉、石川啄木、坪内逍遥など、本郷近隣に住んだ文人たちの名が刻まれています。<br /><br />

    「第四(本妙寺)校跡」のすぐ上のマンションの入口にあったのが「近代文学発祥の地」碑。
    樋口一葉、石川啄木、坪内逍遥など、本郷近隣に住んだ文人たちの名が刻まれています。

  • 「近代文学発祥の地」碑の脇のあった句碑。<br />「蔵のうちに はるかくれ行 ころもがえ」 樋口一葉。<br />24歳で早逝したのがあまりにもったいない文才です。<br /><br />

    「近代文学発祥の地」碑の脇のあった句碑。
    「蔵のうちに はるかくれ行 ころもがえ」 樋口一葉。
    24歳で早逝したのがあまりにもったいない文才です。

  • 対になっていた句碑。<br />「生きのびて 又夏草の 目に沁みる」 徳田秋声<br />秋声が大病から再起した時に詠んだ句です。<br /><br />

    対になっていた句碑。
    「生きのびて 又夏草の 目に沁みる」 徳田秋声
    秋声が大病から再起した時に詠んだ句です。

  • 「近代文学発祥の地」碑かた小路を少し左にはいったところにある「菊富士ホテル跡」碑。<br />菊富士ホテルはかつてこの地にあったホテルで、大正3年(1914)に創業し、昭和19年(1944)に営業終了、翌年東京大空襲で焼失しました。<br />多くの著名人が宿泊しており、碑の横には主な宿泊者の名前が刻まれています。<br />石川淳、尾崎士郎、坂口安吾、谷崎潤一郎などなど、豪華絢爛なラインナップです。<br /><br />

    「近代文学発祥の地」碑かた小路を少し左にはいったところにある「菊富士ホテル跡」碑。
    菊富士ホテルはかつてこの地にあったホテルで、大正3年(1914)に創業し、昭和19年(1944)に営業終了、翌年東京大空襲で焼失しました。
    多くの著名人が宿泊しており、碑の横には主な宿泊者の名前が刻まれています。
    石川淳、尾崎士郎、坂口安吾、谷崎潤一郎などなど、豪華絢爛なラインナップです。

    菊富士ホテル跡 名所・史跡

  • 一旦、南へ向かい春日通りに出る手前にある「文京ふるさと歴史館」。<br />弥生時代からの文京区の歴史を学べますが、ここでも明治以降の文人たちの足跡に目が行きます。<br /><br />

    一旦、南へ向かい春日通りに出る手前にある「文京ふるさと歴史館」。
    弥生時代からの文京区の歴史を学べますが、ここでも明治以降の文人たちの足跡に目が行きます。

    文京ふるさと歴史館 美術館・博物館

  • 春日通りを東に向かい、中山道ぶつかる「本郷三丁目」交差点角にある「かねやす」。<br />江戸時代、兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨き粉を売り出し、これが大評判になり多くの客が押し寄せたそうです。<br />享保15年の大火の教訓で、江戸町奉行は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は瓦葺を許しました。<br />江戸の街並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中山道は板や藁葺の家が続きました。<br />この境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目立っていたそうです。<br />店に脇の「本郷もかねやすまでは江戸の内」という川柳はこういった風景を指しています。<br />ちなみに「かねやす」は雑貨店になっていたのですが、これも閉店してしまっています。<br />「かねやす}は樋口一葉の日記にも登場します。<br /><br />

    春日通りを東に向かい、中山道ぶつかる「本郷三丁目」交差点角にある「かねやす」。
    江戸時代、兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨き粉を売り出し、これが大評判になり多くの客が押し寄せたそうです。
    享保15年の大火の教訓で、江戸町奉行は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は瓦葺を許しました。
    江戸の街並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中山道は板や藁葺の家が続きました。
    この境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目立っていたそうです。
    店に脇の「本郷もかねやすまでは江戸の内」という川柳はこういった風景を指しています。
    ちなみに「かねやす」は雑貨店になっていたのですが、これも閉店してしまっています。
    「かねやす}は樋口一葉の日記にも登場します。

    かねやす 名所・史跡

  • 菊坂の北にあり、東大へ向かう途中にある新坂。<br />かつてこの辺りは高等下宿が多く、石川啄木、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など文人が多く住みました。<br /><br />

    菊坂の北にあり、東大へ向かう途中にある新坂。
    かつてこの辺りは高等下宿が多く、石川啄木、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など文人が多く住みました。

  • 新坂にある蓋平館別館跡。<br />明治41年から石川啄木が移り住んだ場所です。<br />3階の3畳半の室に入ったが、「富士が見える、富士が見える」と喜んだといいます。<br />説明板の脇に石碑があり、啄木の有名な短歌が刻まれています。<br />「東海の 小島の磯の 白砂に 我泣き濡れて 蟹とたはむる」<br /><br /><br />

    新坂にある蓋平館別館跡。
    明治41年から石川啄木が移り住んだ場所です。
    3階の3畳半の室に入ったが、「富士が見える、富士が見える」と喜んだといいます。
    説明板の脇に石碑があり、啄木の有名な短歌が刻まれています。
    「東海の 小島の磯の 白砂に 我泣き濡れて 蟹とたはむる」


    蓋平館別荘跡 名所・史跡

  • 同じ新坂にある徳田秋声の旧宅。<br />秋声は、金沢から上京後、現在の文京区内で居を代えましたが、明治38年から没するまでこの地に住みました。<br /><br />

    同じ新坂にある徳田秋声の旧宅。
    秋声は、金沢から上京後、現在の文京区内で居を代えましたが、明治38年から没するまでこの地に住みました。

    徳田秋声旧宅 名所・史跡

  • 東大赤門前にある法真寺。<br />樋口一葉の一家は明治9年にこの法真寺の隣に居を移し、一葉は9歳まで5年間住みました。<br />この時代が樋口家では最も安定した時でした。<br />死の直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんでいます。<br /><br />

    東大赤門前にある法真寺。
    樋口一葉の一家は明治9年にこの法真寺の隣に居を移し、一葉は9歳まで5年間住みました。
    この時代が樋口家では最も安定した時でした。
    死の直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんでいます。

    法真寺 寺・神社・教会

  • 法真寺の門柱には、この寺の記述がある一葉の短編小説「ゆく雲」の一節が掲げられています。<br />

    法真寺の門柱には、この寺の記述がある一葉の短編小説「ゆく雲」の一節が掲げられています。

    法真寺 寺・神社・教会

  • 寺の境内にあった一葉の像です。<br />

    寺の境内にあった一葉の像です。

    法真寺 寺・神社・教会

  • 有名な東京大学赤門です。<br />文政10年(1827)、加賀藩13代藩主前田斉泰が、11代将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えた際に建立された御守殿門です。<br />国の重要文化財です。<br /><br />

    有名な東京大学赤門です。
    文政10年(1827)、加賀藩13代藩主前田斉泰が、11代将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えた際に建立された御守殿門です。
    国の重要文化財です。

    旧加賀屋敷御守殿門(赤門) 名所・史跡

  • 東大正門から入ると正面に続くイチョウ並木が見事です。

    東大正門から入ると正面に続くイチョウ並木が見事です。

    東京大学 名所・史跡

  • イチョウ並木の先にある安田講堂。<br />1960年代の学生運動の舞台として名を馳せました。<br />国の登録有形文化財です。<br /><br />

    イチョウ並木の先にある安田講堂。
    1960年代の学生運動の舞台として名を馳せました。
    国の登録有形文化財です。

    東京大学 名所・史跡

  • 安田講堂向かって右手にある三四郎池。<br />東大本郷キャンパスは、江戸時代には加賀藩上屋敷だった地で、三四郎池もかつての大名庭園「育徳園」の一部です。<br />正式名は育徳園心字池ですが、漱石の小説の影響で三四郎池と通称されるようになりました。<br /><br />

    安田講堂向かって右手にある三四郎池。
    東大本郷キャンパスは、江戸時代には加賀藩上屋敷だった地で、三四郎池もかつての大名庭園「育徳園」の一部です。
    正式名は育徳園心字池ですが、漱石の小説の影響で三四郎池と通称されるようになりました。

    東京大学 名所・史跡

  • イチョウ並木、安田講堂、三四郎池と、東大本郷キャンパス内で外せないスポットを巡ったのち、いよいよ銅像巡りに入りました。<br />順不同でご紹介します。<br />まず、古市公威(1854~1934)像。<br />日本の学者、工学博士にて帝国大学工科大学初代学長です。<br /><br />

    イチョウ並木、安田講堂、三四郎池と、東大本郷キャンパス内で外せないスポットを巡ったのち、いよいよ銅像巡りに入りました。
    順不同でご紹介します。
    まず、古市公威(1854~1934)像。
    日本の学者、工学博士にて帝国大学工科大学初代学長です。

    東京大学 名所・史跡

  • ジョサイア・コンドル(1852~1920)像。<br />イギリスの建築家です。<br />明治10年に工部大学校(現・東京大学工学部)の造家学(建築学)教師として来日して西洋建築学を教えました。<br />日本近代建築界の父と呼ばれています。<br /><br />

    ジョサイア・コンドル(1852~1920)像。
    イギリスの建築家です。
    明治10年に工部大学校(現・東京大学工学部)の造家学(建築学)教師として来日して西洋建築学を教えました。
    日本近代建築界の父と呼ばれています。

    東京大学 名所・史跡

  • チャールズ・ウェスト(1847~1908)像。<br />アイルランドの機械工学者、海軍建築家です。<br />1882年に大日本帝国の明治政府にお雇い外国人として雇われ、東京帝国大学工科大学の前身である工部大学校に赴任、1908年に死去するまで、機械工学と造船学の教授を務めました。<br /><br />

    チャールズ・ウェスト(1847~1908)像。
    アイルランドの機械工学者、海軍建築家です。
    1882年に大日本帝国の明治政府にお雇い外国人として雇われ、東京帝国大学工科大学の前身である工部大学校に赴任、1908年に死去するまで、機械工学と造船学の教授を務めました。

    東京大学 名所・史跡

  • 三好晋三郎(1857~1910)像。<br />日本の造船学者であり、明治期の日本の造船技術確立と技術教育に尽力しました。<br />工部大学校(現・東京大学工学部)の教授として造船学を担当し、造船技術者の教育に当たりました。<br /><br />

    三好晋三郎(1857~1910)像。
    日本の造船学者であり、明治期の日本の造船技術確立と技術教育に尽力しました。
    工部大学校(現・東京大学工学部)の教授として造船学を担当し、造船技術者の教育に当たりました。

    東京大学 名所・史跡

  • 濱尾新(1849~1925)像。<br />明治時代から大正時代にかけての日本の文部官僚、政治家です。<br />1893年、帝国大学第3代総長となりました。<br /><br />

    濱尾新(1849~1925)像。
    明治時代から大正時代にかけての日本の文部官僚、政治家です。
    1893年、帝国大学第3代総長となりました。

    東京大学 名所・史跡

  • 山川健次郎(1854~1931)像。<br />日本の物理学者、教育者です。<br />東京帝国大学総長の在任期間の合計11年11か月は、歴代総長の最長在任期間です。<br /><br />

    山川健次郎(1854~1931)像。
    日本の物理学者、教育者です。
    東京帝国大学総長の在任期間の合計11年11か月は、歴代総長の最長在任期間です。

    東京大学 名所・史跡

  • 青山胤通(1859~1917)像。<br />日本の医学者(専門は内科学)、医学博士です。<br />東京帝国大学医科大学長、伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)所長等を歴任しました。<br /><br />

    青山胤通(1859~1917)像。
    日本の医学者(専門は内科学)、医学博士です。
    東京帝国大学医科大学長、伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)所長等を歴任しました。

    東京大学 名所・史跡

  • 佐藤三吉(1857~1943)像。<br />日本の外科医、医学博士、貴族院議員です。<br />東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、日本近代医学の創生期に活躍しました。<br /><br />

    佐藤三吉(1857~1943)像。
    日本の外科医、医学博士、貴族院議員です。
    東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、日本近代医学の創生期に活躍しました。

    東京大学 名所・史跡

  • エドワード・ダイヴァース像。<br />イギリスの化学者です。<br />1873年に日本政府により来日、文部省工学寮及び工部大学校(現在の東京大学工学部)で無機化学の教鞭を執り、研究を行いました。<br />イギリスへの帰国時に、化学の近代化に貢献したことにより、東京帝国大学の名誉教授に採用されました。<br /><br />

    エドワード・ダイヴァース像。
    イギリスの化学者です。
    1873年に日本政府により来日、文部省工学寮及び工部大学校(現在の東京大学工学部)で無機化学の教鞭を執り、研究を行いました。
    イギリスへの帰国時に、化学の近代化に貢献したことにより、東京帝国大学の名誉教授に採用されました。

    東京大学 名所・史跡

  • エルウィン・フォン・ベルツ(1849~1913)とユリウス・カール・スクリバ像。<br />エルウィン・フォン・ベルツはドイツ帝国の医師です。<br />東京帝国大学医科大学の前身となる東京医学校に着任すると、病理学、生理学、薬物学、内科学、産婦人科学、精神医学などを担当しました。<br />27年に渡り明治期の日本医学界に近代西洋医学を教え、医学発展と基礎を築きました。<br />ユリウス・カール・スクリバ(1848~1905)はドイツの外科医です。<br />明治期のお雇い外国人で、東京帝国大学で外科、皮膚科、眼科、婦人科を教え、日本における西洋医学の発展に重要な貢献をしました。<br /><br />

    エルウィン・フォン・ベルツ(1849~1913)とユリウス・カール・スクリバ像。
    エルウィン・フォン・ベルツはドイツ帝国の医師です。
    東京帝国大学医科大学の前身となる東京医学校に着任すると、病理学、生理学、薬物学、内科学、産婦人科学、精神医学などを担当しました。
    27年に渡り明治期の日本医学界に近代西洋医学を教え、医学発展と基礎を築きました。
    ユリウス・カール・スクリバ(1848~1905)はドイツの外科医です。
    明治期のお雇い外国人で、東京帝国大学で外科、皮膚科、眼科、婦人科を教え、日本における西洋医学の発展に重要な貢献をしました。

    東京大学 名所・史跡

  • ドクトル・レオポルド・ミュルレル(1824~1893)像。<br />プロイセン王国・ドイツ帝国の陸軍軍医、外科医です。<br />お雇い外国人として来日し、近代日本の医学教育制度を整備しました。<br />東大が出来る前に来日、帰国しているので、東大との関係は無いかと思われ、ちょっと毛色の違う銅像です。<br /><br />

    ドクトル・レオポルド・ミュルレル(1824~1893)像。
    プロイセン王国・ドイツ帝国の陸軍軍医、外科医です。
    お雇い外国人として来日し、近代日本の医学教育制度を整備しました。
    東大が出来る前に来日、帰国しているので、東大との関係は無いかと思われ、ちょっと毛色の違う銅像です。

    東京大学 名所・史跡

  • 下山順一郎(1853~1912)像。<br />明治時代の日本の薬学者です。<br />第一大学区医学校(現:東京大学)製薬学科の第1回生として首席で卒業しました。<br />薬学博士第1号であり、日本薬剤師会第2代会長、私立薬学校(現東京薬科大学)初代校長です。<br /><br />

    下山順一郎(1853~1912)像。
    明治時代の日本の薬学者です。
    第一大学区医学校(現:東京大学)製薬学科の第1回生として首席で卒業しました。
    薬学博士第1号であり、日本薬剤師会第2代会長、私立薬学校(現東京薬科大学)初代校長です。

    東京大学 名所・史跡

  • 隈川宗雄(1858~1918)像。<br />日本の医学者です。<br />東京帝国大学医科大学教授に就任し、医化学講座を担当、医学博士の学位を得、後に帝国学士院会員に選ばれました。<br />大正6年(1917)から医科大学長を務めました。<br /><br />

    隈川宗雄(1858~1918)像。
    日本の医学者です。
    東京帝国大学医科大学教授に就任し、医化学講座を担当、医学博士の学位を得、後に帝国学士院会員に選ばれました。
    大正6年(1917)から医科大学長を務めました。

    東京大学 名所・史跡

  • 銅像ではないですが、構内で見つけた「加州大聖寺藩上屋敷址」碑。<br />大聖寺藩は、加賀藩から分封された藩です。<br /><br />

    銅像ではないですが、構内で見つけた「加州大聖寺藩上屋敷址」碑。
    大聖寺藩は、加賀藩から分封された藩です。

    東京大学 名所・史跡

  • 東大本郷キャンパスに隣接する東大弥生キャンパス。<br />その正門、農正門です。<br /><br />

    東大本郷キャンパスに隣接する東大弥生キャンパス。
    その正門、農正門です。

    東京大学 名所・史跡

  • 農正門を入ってすぐ左手にある「上野英三郎博士とハチ公」像。<br />上野英三郎博士は、駒場にある帝国大学(今の東京大学)農学部の先生でした。 <br />ハチはその愛犬。<br />駒場の農学部への通勤や渋谷駅からの出張にはいつも送り迎えさせていました。<br />博士は大学構内で急死するのですが、それからハチは死ぬまでの10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の姿を探し求めました。<br />像は博士の生前、博士が長期出張から渋谷駅に戻った時、改札口でハチとじゃれあっている姿です。<br /><br />

    農正門を入ってすぐ左手にある「上野英三郎博士とハチ公」像。
    上野英三郎博士は、駒場にある帝国大学(今の東京大学)農学部の先生でした。
    ハチはその愛犬。
    駒場の農学部への通勤や渋谷駅からの出張にはいつも送り迎えさせていました。
    博士は大学構内で急死するのですが、それからハチは死ぬまでの10年間、朝夕に渋谷駅に通い、博士の姿を探し求めました。
    像は博士の生前、博士が長期出張から渋谷駅に戻った時、改札口でハチとじゃれあっている姿です。

    東京大学 名所・史跡

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