2024/04/15 - 2024/04/15
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たびたびさん
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”以前から気になっていたことをいくつか寄せ詰めたらこうなったという旅”の第二段。二日目は、安土に移動して、近江六角氏の居城だった「観音寺城」を訪ねます。
さて、観音寺城跡は標高432mの観音山の頂上付近。事前の調べでは桑實寺経由で登るのがベストのよう。安土駅から歩きましたが、麓まででもまあまあ遠くて、登り始めてからでも1時間くらいは十分かかったように思います。ただ、山頂付近に石垣跡が少し残っているくらいで、そこからだといい眺めとかも望めません。せっかく苦労して登っても、スカッとする気分を味わえるという城跡ではないですね。その後、早々に観音正寺の方に抜けると視界が開けました。
ちなみに、観音寺城は、宇多源氏の一流である近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、その由緒の正しさもあって日本百名城の一つ。ただ、この近江守護というのがちょっとややこしい。というのも、近江源氏佐々木氏の嫡流は六角氏。承久の乱でも鎌倉幕府軍として活躍した佐々木信綱(近江国守護)の死後、近江は四分割されるのですが、三男、泰綱が嫡流で、ここから六角氏を名乗ります。一方で、四男、氏信を祖とするのが京極氏。本来は庶流ですが、直接鎌倉幕府に使える身分だったために、庶流であっても抑えが効かないという関係でした。応仁の乱においても、京極氏11代、京極持清は東軍に付き、西軍に付いた六角氏12代、六角高頼の観音寺城を落とし、京極氏が近江守護に任じられるという結果に。ただ、六角氏はこれで滅びたわけではなく、六角氏の一族は引き続き南近江を支配。北近江の京極氏と南近江の六角氏という構図は続きます。その後、京極氏は内紛もあり、浅井氏の台頭を許すことになりますが、浅井長政が織田信長に敗れると、京極高次・高知兄弟は信長に仕え、京極家を再興。乱世を生き延び、若狭国主、丹後国主へ。一方の六角氏ですが、15代、六角義賢は三好長慶や浅井長政との抗争で弱体化したところに信長の上洛軍を迎えると観音寺城を無血開城し逃亡。名門、六角氏はこれをもって歴史の舞台から姿を消しました。観音寺城跡は、こうした佐々木氏、六角氏のことを思うととても感慨深い場所。城跡としてはイマイチでも、その価値には関係ないことだと思います。
そして、さらに蛇足ですが、六角氏の滅亡は、二人の人物の運命を変えているので紹介します。一人は蒲生氏郷。氏郷の父、賢秀は日野城を預かる六角氏の重臣だったのですが、六角氏の滅亡で孤立すると信長に降り、氏郷を人質として差し出します。その後、氏郷は信長に気に入られ、娘婿に迎えられるという展開。本能寺の変の信長亡き後、もしかしたら娘婿の氏郷にも後継者のチャンスがあったかもしれませんが、秀吉の命で会津92万石に封じられるととても悔しがったという話もあります。もう一人は、三井高安。三井家の始祖は松阪の三井高利とされますが、その二代前の人物。この三井高安は六角氏の重臣で蒲生賢秀の同僚。鯰江城を預かっていたのですが、三重に逃れ商家に転じるとそれが三井家につながったというのです。蒲生氏郷も商才があったと言われる武将。日野では今でもそれが語り草となっていて、三井高安もその系譜なのかも。近江商人、日野商人という血筋の凄さを感じる物語だと思います。
(この辺りは関連する旅行記があるので参考まで(https://4travel.jp/travelogue/11456656)(https://4travel.jp/travelogue/11456654))
そんなことへの思いもあって、これまでもやもやしていた観音寺城。けっこうきつい山登りになりましたが、これで課題が一つ解消。すっきりできたと思います。ちなみに、全然狙っていたわけではないですが、これで日本百名城のうち98を制覇したことになりました。松前城は北前船の江差を優先した時に諦めているので、残りは三島の山中城。またどこかで機会をもうける必要があるかなあと気になってきたところです。それから、セットで回った観音正寺も西国三十三所の第32番札所。西国三十三所の中でも最大の難所でしたから、これも残りわずかがぐっと楽になったような気がします。
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早朝、京都の宿から安土駅に到着。
安土町観光案内所は、安土駅の北側を降りたところ。建物の一階です。観音寺城跡への登り方とかネットの情報は分かりにくくて、事前にここに電話をして情報をいただきました。今日はいよいよ本番です。 -
こちらは、安土町観光案内所の目の前、ロータリーに建つ織田信長公像です。
安土は安土城があって織田信長の地元なのですが、そもそも安土駅の周辺も全然賑やかではないし、この像もそういう意味ではあるというだけで、像の出来も含めてあんまり勢いは感じないかな。ちょっと微妙な存在です。 -
さっそく観音寺城に歩いて向かいます。安土城からレンタサイクルというのも考えたのですが、山登りして経路によってはもとに戻れないことも考えられますからね。
戦国大名、六角氏の居城であった観音寺城跡があるのは、この標高432mの繖山(きぬがさやま)。通称が観音寺山で、頂上には西国観音巡礼第32番札所の観音正寺もあります。
ところで、広島だと武田山が標高410m。それを思うと簡単ではないですね。 -
それに、安土駅から山のふもとまででもけっこう遠い。
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レンタサイクルの方がよかったかなあ。ちょっと後悔です。
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しかし、なんとかふもとに到着。
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ここから、まずは、桑實寺に向かいます。桑實寺は、山の中腹。事前の調べでは安土町観光案内所はじめ観音寺城跡に登るのには桑實寺を経由するのが一番いいとの情報が大半でしたからね。
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イチオシ
ふもとの集落から寺に向かっては、長い石段が続いていて、
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確かに、これも情報の通り。
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まもなく、山門が見えてきましたが、
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これは序の口。
いろんな要素があって生き延びてきた寺なんだと思います by たびたびさん桑實寺 寺・神社・教会
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気が遠くなりそうな石段が続いて、
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まだまだ
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まだまだ。
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確かこのお堂が桑實寺までの中間地点だったはず。
気合を入れ直してまた先へ。 -
がんばれ
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がんばれ
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気持ちがくじけそうになりながら、上り続けます。
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この道は観音寺城跡への近道ですから、それを信じてがんばるしかありませんね。
と、これが桑實寺ですか。 -
イチオシ
本堂の構え。なかなか立派なものですねえ。
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そうこうしていると、お寺の方がやってこられて、拝観料を支払います。
境内を抜けるための交通料みたいなことかと思いますが、ここまでの石段を管理してもらっていることを考えれば当然なのかなと思います。 -
では中も見ますかと声をかけられて、本堂の中へ。
寺の創建は白鳳6年(677年)。天智天皇の勅願寺として、藤原鎌足の長男、定恵和尚が開山とか。現在の本堂は南北朝の頃のもの。間口7間、奥行き8間の入母屋つくり檜皮葺の建物は、折り上げと二重の小組格天井。外観から見る堂々とした構えだけでなく、内部も最上級の格式を備えた意匠となっていてとても驚きました。
つまり、安土にあっては、桑實寺の歴史からすると、安土城や観音寺城なんか実は目ではない。始まりは天武天皇に建立が許可された三井寺のもうひとつ前の時代ですからね。また、六角氏が観音寺城を居城としていた時代ですが、天文元年(1532年)、室町幕府12代将軍足利義晴がここに仮の幕府を設けたということ。その頃でも寺には相応の位置づけがあったのでしょう。いろんな必然や偶然、幸運もあって生き延びてきた寺なんだと思います。 -
お話を聞きながら、休憩もできてまた少し元気回復。
ここからは後半戦。改めて、気合を入れてがんばりますよ~ -
道はもう立派な石段ではなくて、古びた山の道。
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ところどころ崩れかけた場所もありますが、
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これならまあまあ。迷うことはないですね。
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八丁の道しるべ。
まだ微妙ですけどね。 -
気を抜かずに
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先へ先へ。
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石垣が見えて、
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これが城跡ですね。
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イチオシ
ちょっとしたスペースがあって、石垣がちょろっと。
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ほかには何もありませんが、ここに来ただけで十分達成感はありますよ~
六角氏のことを思うととても感慨深い場所 by たびたびさん観音寺城跡 名所・史跡
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ここは本丸ですが、この標識によれば太夫殿井戸、池田丸、大石垣とほかにも見どころがあるようです。事前の情報でも大石垣はあったなあとか思い出しましたが、もうあんまり元気は残っていない。
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ということで、観音正寺の方に向かいます。
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すんなり、裏手の方に出てきました。
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本丸の場所と違って、ここからは視界が広がって、下界の平野が見えています。
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イチオシ
これが観音正寺の本堂です。寺は、推古天皇13年(605年)、聖徳太子が自ら刻んだ千手観音を祀ったのが始まりと伝わる西国三十三所第32番札所。桑實寺の歴史より古いことになるのですが、その辺りはどうでしょう。聖徳太子ゆかりの寺はたくさんあるし、天智天皇の勅願寺という桑實寺の由緒の方がかなり具体的なように思いますけどね。
現在の千手観音坐像は仏師、松本明慶の作 by たびたびさん観音正寺 寺・神社・教会
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本堂の向かって右手を回り込むと
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山肌を石が埋め尽くす豪快な景色。ユニークな庭園です。
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ところで、かつての本尊、千手観音立像は平成5年の火事で焼失してしまい、
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新しく作られた現在の千手観音坐像は仏師、松本明慶の作。ぎろりとした目の巨大な木造の仏さまですが、あちこち丸みのある形状はどうかすると玩具とか木工製品を思わせるような印象もあって、ちょっと奇抜。松本明慶は慶派の流れ汲んでオーソドックスな像を作るイメージがありますが、この奇抜さはどこから来たのでしょうか。仏師は依頼人の意向を受けて作るだけ。そういう意味では依頼人であるお寺から少し解説が欲しいくらいに思います。
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本堂から入り口に向かって帰ります。
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境内に石の道が通っていて、ここはそれなりに平地があります。
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下界を眺めて、
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ここが入口入ってすぐのエリア。
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イチオシ
山門はなくて、仁王像が立っているだけの入口です。
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そんなに古いものではないと思いますが、
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なかなかに勇ましい。これも観音正寺のシンボルのひとつだと思います。
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もう一度桑實寺経由で帰るつもりでしたが、せっかくなので、観音正寺の参道も確認してみましょう。
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こちらも石段が続きます。
ただ、さっきいた参詣の人たちはこの石段を上がってきたのかなあ。そんな感じではなかったですね。後でもう一度確認すると観音正寺へはこの表参道のほかに、裏林道というのがあって、それを車で上がった駐車場からだと坂道で10分くらいだとか。
観音寺城跡へもこのルートならかなり簡単。ちょっと邪道のような気もしますが、なくはないですね。事前の情報収集で少し混乱したのはそういうことだったのかとやっと分かりました。 -
途中、表参道の石段から分かれてアスファルトの道へ。
これでやれやれと思ったのですが、この道は山すそをぐるりと回って元に戻るコース。けっこう遠くて、なかなか到着しない。結局、トータルすると桑實寺経由の方が正解だったと思います。 -
最後の方に来て、これは国の史跡、瓢箪山古墳。
滋賀県では最大規模の墳丘長134m。古墳時代前期、4世紀中葉に作られた前方後円墳です。古墳の上には階段で上れますが、滋賀県では最大規模 by たびたびさん瓢箪山古墳 名所・史跡
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全景はよくわかりませんね。
なお、多数の副葬品が見つかっていて、鏡や鉄製の武器などです。 -
瓢箪山古墳から、今朝の桑實寺への上り口を過ぎて、今度は文芸の郷へ。
こちらは、音楽ホール、総合体育館、信長の館、レストランなどで構成される一帯です。近江風土記の丘と隣りあわせというか一体になっているような感じ by たびたびさん文芸の郷 公園・植物園
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近江風土記の丘も隣りあわせで、安土の一大文化ゾーン。安土駅の周辺は寂しいですが、こうした施設はかなりお金をかけていますね。
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イチオシ
さらに進んだ近江風土記の丘は、自然に恵まれた広大な敷地。敷地の中には安土城はじめ県内の主要遺跡も紹介する安土城考古博物館を中心に、芝生の広場ほかの野外展示としては、旧宮地家住宅、旧安土巡査駐在所、旧柳原学校校舎の3棟の建造物です。
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芝生の広場の
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一角にある旧宮地家住宅は、滋賀県長浜市国友町にあった江戸時代の小型住宅で国の重要文化財。藁ぶき屋根の四方はほとんど分厚い土壁で覆われていて、ちょっと妙な感じだし、窓がないので中は真っ暗じゃないかなあと心配になります。
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イチオシ
旧柳原学校校舎は、高島市新旭町にあった小学校で、明治9年築。
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手がけたのは地元の大工、清水吉平。西洋の建築様式をできうる限り学んで活かしたようですが、太鼓をつるした塔屋やバルコニーを付けたり、かなりがんばった感あり。安土桃山時代の教会もこんなだったかもしれません。
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イチオシ
旧安土巡査駐在所は、近江風土記の丘の一番奥。蒲生郡安土町大字下豊浦にあった明治18年築の常楽寺交番所。五角形平面の総2階建てに下屋が少しくっつく形。白漆喰壁と切り石のハーモニーがハッとするようなとても美しい意匠です。
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そして、これがメインの安土城考古博物館。
安土城考古博物館 美術館・博物館
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でも、様子が変だなあと思ったら、この日は休館日。ありゃりゃ。楽しみにしていたのに、これは大失敗。ただ、事前の調べはとにかくいろいろあるので、こうしたことは仕方がない。それに、こんなのも含めてそれが旅。切り替えていきましょう。
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イチオシ
結局、信長の館も休館。
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つまり、全滅ですね。
文芸の郷の中では一番大きな建物、意匠としてはバロック建築みたいな文芸セミナリヨも -
パイプオルガンがあるクラシック専用の音楽ホールのようですが、外観のみです。
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隣りのあづちマリエートはスポーツ複合施設。どれも大きくて、こんな大きなハコモノを作る安土って何なのかなあとちょっと違和感もなくはないです。
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イチオシ
では、この辺で切り上げます。
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安土駅に戻る途中、
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昼飯は、囲炉裏料理わへ。食堂が何軒か入った長屋ビルの端っこです。
文芸の郷の時間が無くなったので、お昼にはちょうどよかったかな。 -
中に入ると中央に囲炉裏が切ってあって、そこがカウンターみたいになっています。日替わりランチのもろこ天ぷらをいただきましたが、ご飯は小さなお釜で炊いてあるし、
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食後は抹茶の選択もできるし、この値段にしてはかなり手をかけた感があって、人気の理由は明らかですね。雰囲気とコスパのよさで女性のグループの利用が多いようです。
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取りあえず、安土駅に帰ってきましたが、まだ時間は早い。ここから、改めて、レンタサイクルを利用することにします。
安土駅前レンタサイクルたかしまは、安土駅の北側すぐ。レンタサイクルのお店は二軒。こちらは休みの日でしたが、自分で勝手に乗って、お金も払っておいてくださいというシステムだったので利用しました。柔軟な対応で助かりました。 -
さっそく向かったのは、安土城跡。
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城なび館は、安土城への上り口のすぐ手前にあるガイダンス施設。ちょっとしたショップと安土城の案内所で、奥の展示室は有料です。安土城の正面から本丸にほとんど一直線で登っていく石段。本当にそんな作りだったのか尋ねたら、そうだったかもしれないしそうでないかもしれないみたいな説明。信長が常識を次々と撃ち破っていったというのはその通りですから、この石段もそれを考えれば真実の一部は語っていると理解したいと思います。
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周辺には整備した石垣。
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低い石垣はどういう理解をしたらいいんでしょうね。
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で、これが安土城跡の入り口。
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お目当ては総見寺だったんですが、見れるのは日曜日だけだとか。いやいや、ここも嫌われてしまいましたね。
ところで、総見寺は、安土城跡に建つ織田信長を開基とする臨済宗妙心寺派の寺。逆に、この安土城跡の全体を管理しているのはこの総見寺という関係なんだとか。そして、安土城は上り口から有料ですが、この寺の中に入るのはまた別料金がかかるというシステムです。いずれにしても、出直すことにしましょう。 -
では、ほかを回りますよ~
セミナリヨ跡は安土城の外堀沿いに整備された公園にそれを示す石柱が立っていました。
ここは、天正9年(1581年)、イタリア人宣教師オルガンチノによって創建された目本最初のキリシタン神学校の跡地。織田信長の肝いりで、三階建の豪壮な建物が建っていたよう。しかし、本能寺の変の後、明智の軍勢により、安土城とともに廃墟となりました。 -
西の湖は、安土城の西側。一見、びわ湖の一部のように見えますが、これはびわ湖の内湖。びわ湖最大の内湖だそうです。湖のぎりぎりまで市街地が迫っているようなところもありますが、たぶん、それは内湖だから。びわ湖だと高波が押し寄せたりする被害もあるようですからね。
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安土駅にも近い安土の市街地に戻って、これは北川湧水。安土は湖東平野のほぼ中央というのですが、鈴鹿山系を源流とする愛知川が作った扇状地の上。この湧水は、その愛知川の伏流水なのだとか。
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滔々と湧き出していて、気持ちの良い流れ。石囲いの水路も地元で大事にされてきたことの証です。
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少し移動して、これは梅の川。
織田信長の家臣、武井夕庵が、難波から求めてきた珍茶をここの水でいれたところ、織田信長が非常に喜び、その後の茶の湯には常に使用したと伝えられる信長ゆかりの名水。 -
さっきの北川湧水のようにはさらさらと流れていないので、今はもう使えるかどうかも不明です。
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梅の川から、今度は浄厳院。六角氏の菩提寺として建てられた慈恩寺の跡に、織田信長が近江と伊賀国の浄土宗総本山として建てた寺です。
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楼門形式の仁王門から本堂、観音堂他、今でもなかなかの構えですね。
裏門から入りましたが -
これが正面。
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仁王像も
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ちょっといい感じです。
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なお、本堂の建物は、近江八幡多賀村にあった興隆寺阿弥陀堂を移築したもの。室町時代中期末期の和様建築で国の重要文化財。手早く移築で済ませるとかは、信長の合理性もちょっと感じます。
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そして、安土では沙沙貴神社の方がもっと有名かな。
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古来、沙沙貴氏の氏神だったところに、宇多源氏の源成頼がこの地に土着、この地のササキから佐々木氏と称するようになって、沙沙貴と佐々木が融合していくという流れ。最後は沙沙貴神社に宇多源氏の祖である敦実親王とその父、宇多天皇を合祀することで佐々木氏の氏神ともなったということ。佐々木の発祥地であるという由縁です。
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茅葺の総門から
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拝殿、
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本殿と一風変わった雰囲気ですが、
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拝殿のこの内部なんかも手の込んだ造りはさすが。佐々木六角氏から始まって、京極氏に、朽木氏や黒田氏とか錚々たる末裔がいるので、まあ、当然かもしれません。
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もうひとつ旧伊庭家住宅は、拝観日が限られているようで、外観のみ。
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詳しい説明板もありまして、建物は、大正2年、建築家ヴォーリズ氏の設計によるチューダ様式の洋風木造建築。発注者は住友の総理事、伊庭貞剛。洋風の外観に和風を巧みに取り入れたヴォーリズ初期の作品だそうです。玄関周りの落ち着いた雰囲気は京都の街家風なんですけどね。
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安土駅に隣接する安土城郭資料館もお休みでした。
ここまでくると、やっぱりリベンジが必要ですね~ -
安土駅から、大阪駅に戻ってきました。
晩飯は、踊るうどん 梅田店で、 -
肉マイタケ天うどん。柔らかいけど讃岐うどんみたいにコシがあるし舌触りもいいという私の好きなタイプのうどん。マイタケのてんぷらもしっかりした存在感があって、なにげにこれがウリのようですね。昔、この辺りにはがくれという名店ががあったのですが、ちょっとうどんのタイプが似ているよう。
そんな話をしたら、御主人が実は。。そのはがくれに惚れて自分もうどん屋を始めたのだとか。へ~、それはそれは。はがくれの大将はうんちくがすごくてちょっとうるさいくらいの人でしたが、懐かしい。この味をこれからも守っていただきたいと思います。 -
今日の宿は、ファーストキャビン西梅田。大阪駅から国道2号線を西に進んだ先。分かりやすい道なのですが、それなりに離れているのでけっこう歩きます。
カプセルホテルよりはましかなという選択でしたが、最近はカプセルホテルもきれいだったり広かったりとよくなってきているので、以前のような優位性は感じなくなってきたような。その分、距離の方が気になったように思います。
明日からの三・四・五日目は和泉と河内長野、太子町。京都から滋賀に回りましたが、あとは大阪の三日間。最後まで体力が持つように願います。
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