2023/02/03 - 2023/02/04
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しにあの旅人さん
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掘夫妻は1938年(昭和13年)から41年まで夏は軽井沢の別荘ですごしましたが、冬は多くありません。辰雄一人がつるやで仕事をしたくらい。写真でたどれるエピソードは少ないのです。
やっとふたつ見つけました。室生犀星がからむお話しでした。
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2023/11/02
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
2023年2月、土曜日の11時すぎです。旧軽銀座は閑散としております。午後になって少しは増えたかなという感じでした。
観光会館で聞いたところ、夏に比べるとあいているお店は半分以下。週末はそれでももう少し賑わうそうです。この日は最高気温マイナス2度、まあ、そぞろ歩きにふさわしい温度ではありません。
一書に曰く、
軽井沢はただ通り過ぎたことが何回かあります。 そのたびに、なにやらザワっと来るものがあります。
あの気持ちはなんなのでしょう?
銀座や新宿や、渋谷には、そういう感情を抱いたことはありません。
ですから、人通りが多いから腹立たしいということでもないらしい。
通りの並んでいる、あれこれのおしゃれブランド店に対してでもないらしい。
そして、スイスの山の町の郵便局みたいな観光会館には、ほれぼれなんですが。
たぶん、軽井沢の林に囲まれた静けさと、ブランド店とその店目当てのお嬢さんたちが、ミスマッチなんだと、無意識に感じているのかなあ。
By妻 -
旧軽銀座のほぼ中央にある観光協会です。
調べ物がありました。 -
室生犀星旧居にあったこの写真。
犀星別荘にたむろした文豪たち。
中央眼鏡が犀星。右上が河上徹太郎。犀星左が堀辰雄。掘の左下が川端康成、若か!
となりが板垣直子(文芸評論家、1896-1977) 右端が板垣鷹穂(たかほ、美術評論家、二人は夫婦です。1894-1966) -
この写真の常夜灯がどこにあるか調べたかったのです。
観光協会で写真を見せて聞いてみましたが、分かりませんでした。あるとすれば諏訪神社か神宮寺であろう、とのことでした。
一書に曰く、
仲間が集まって、何かをして、その後ご飯を食べて、飲み会になってというのは、昔も今もあることでしょう。
昔は、そういうとき、年長者とか世話焼きさんの家でやったものでした。
現在は、お店でするのが普通みたいですね。
共働きが当たり前の時代ですから、料理から、お酒の準備、家の掃除、そして終わっってからの後始末。無理ですよね。
それに飲み会の最中も、お酒が入ったら、本性を出しちゃう人もいて、もめることもあるかもしれない。
そんなあれやこれやを全部整理して、最後は皆さんにご機嫌さんで帰ってもらわないといけない。
大変なことですよ。
きっと、室生犀星夫人は、それをしたんでしょうね。
犀星は、座敷でどんと座って動きゃしなかったのでは。
子供達もフル回転で手伝わされるんだろうし、堀夫妻なんかは親しいから、多恵子さんも勝手口から入ってきて、
「あ、私、ホウレンソウゆがきますね。」とかになるんだろうし、
立原道造なんか宴会の最中に、
「お皿下げますねー。もっていくものないですかぁ」
なんて顔出して
「つまみぐいしないの!」
なんて言われて。
その挙句みんなでとうとう雑魚寝して、その翌朝の写真ですよ。これ。
うそです。by妻の妄想ですが、たぶん似たようなことはあったでしょうね。
犀星夫人は、肝っ玉母さんみたいだものね。
By妻 -
諏訪神社にやってきました。
-
ここは最初から予定に入っていました。
-
まず常夜灯をさがしてみました。こんな小さなものではないし。
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まわりをぐるっと回ってみて、結局ありませんでした。残念。
-
もう一つのお目当ては、あった!
-
鳥居の両側にならぶ小さな道祖神です。
1938年(昭和13年)結婚式をあげたあと、4月末から室生犀星の好意で犀星の別荘を借りて、軽井沢に住まいをさがしました。
多恵子によれば、そのとき、
★この道祖神の前で私たちは足を止めた。私(多恵子)は室生さんはこれがお好きなのだと聞かされたことを今も覚えている。★(山麓の四季・道の辺の石仏P120)
これがその「旧軽井沢にある諏訪神社の鳥居の両側に立つ道祖神」です。
室生犀星は庭に屋敷神や道祖神を配置していました。こういう道端の石仏が好きだったようです。 -
鳥居内側から見て左、
-
右です。
住むところもなくて結婚しちゃうのですから、二人ともいい度胸です。掘辰雄は、自分が作品を書けばお金は入ってくると楽観的だったようです。多恵子は、これもまたこわい物知らずのお嬢さんでした。
1938年(昭和13年)の4月末から5月初め、二人はここに立って、道祖神などを余裕で眺めていたというわけです。 -
常夜灯もう一つの候補地神宮寺。
ちいさなお寺でしたから、一目で分かりました。ありません。
By妻はのんびり絵馬などを見ております。 -
二見橋を渡ってすぐ左、矢ヶ崎川にそって坂を300mくらいあがると、「室生犀星の詩碑」があります。
1961年(昭和36年)7月に完成したものです。
この詩碑建立のいきさつが変わっていて、生前犀星が自分で建てました。詩碑などというものは、本人没後、ゆかりの町などが観光目的で立てるものです。
犀星は「市井のまつりごとや、他人に迷惑をかける寄付行為で自分の文学碑を建てたくない」と思ったそうです。(私の文学碑)
土地の購入、建設費、デザイン、全部犀星もちでした。
文学賞の賞金を当てたそうです。
「私の文学碑」は新潮社版室生犀星全集にも収録されていません。引用は「室生犀星と軽井沢」P23室生犀星文学碑(長野県軽井沢町) 名所・史跡
-
詩碑の説明文を書き起こします。詩は碑文と同様に改行しました。
★「かげろうふの日記遺文」で野間文学賞を受賞した記念として、昭和36年の夏に碑面の詩の選択・設計・建設費などいっさいを自分の手で処理し建立されました。この碑に刻まれているのは犀星の詩業のほぼ中期を代表する作品です。「氷の美しさを題材にした詩を選んだのは、冬になるといっさいが凍る軽井沢だということを考慮してかもしれないが、しかし、この詩の氷は作者の審美的感覚の表象であり、同時にひとりの生活者の人生的覚悟を表明した者ものである。」
我は張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す。
★ -
道ばたの目立たない案内。
-
川のほとりの細長い敷地の奥に石像のようなものが。
-
1937年(昭和12年)満州旅行の時買ってきた俑人(中国で墳墓に埋葬された人形のようなもの)です。
-
大森の自宅に安置しておりました。1体をここに運び、前年10月亡くなった妻とみ子の遺骨を分骨し、根元に埋めました。
犀星がここに詩碑を建てたのは、本当はこれが目的だったと、私は思います。
一書に曰く、
犀星というひとは、かなり偏った人だったみたいです。
思い込みが激しく、がんこで。
とっても人格円満というのではなかったようです。
細かいことで、いろんな人ともめごとというほどのことでもないけれど、周囲の人に気を遣わせることを起こしています。
その分正直だったし、誠のひとでした。
誤解されやすいひとだったのかな。
そういう犀星を、よく理解し、彼の足りないところを補い包んだのが犀星夫人でした。
By妻
多恵子によれば、犀星は堀の墓を多恵子が多磨墓地に造ったのが不満でした。
★「堀君の墓をこんなところに作って、堀君泣いているよ。なぜ追分の泉洞寺につくらないんだ」って。「あんなところ、寂しくて嫌ですよ」って私いったの。「第一、泉洞寺につくったら、毎日行かなきゃいけない。たいへんですからね」って。そうしたら先生、「毎日行きゃあいいじゃないか。わしはしょっちゅう、あそこへ行くよ」なんておっしゃってね。★(やまぼうしの咲く庭でP224)
「あそこ」とは、とみ子の眠る矢ヶ崎川ほとり。
毎日とみ子に会いに行きたかったのです。
多恵子の憎まれ口に「堀君も君には手を焼いただろうな」と、いつものように思ったにちがいない。
★先生はお散歩がてら、(文学碑)によくいらっしゃたんです。あそこに俑人が立っていますね。あの下におばさまのお骨が少し分骨してあったんです。今は立派なお墓が金沢にできましたから、そちらへみなもっていかれたみたいですけど。★
一書に曰く、
室生犀星は、自分が亡き妻に抱く気持ちは、世の人だれもが抱く感情である。
その気持ちは、自分がするように表現するのが、「常識」と思っていたのですね。
犀星は、堀辰雄が大好きで、その奥さんも大好きでした。
多恵子夫人が誠心誠意、堀辰雄に愛を注いだことも、十分すぎるほど理解しておりました。
だったら、自分が自分の愛する妻にするようにするべきではないか。
という三段論法だったのでしょう。
ははは、ここいらあたりが、頑固者。思い込み激しいと言われる典型的日本のおやじですな。
もはやいとしい。
そして、堀辰雄もその妻も、そう信じられるに値する人たちだったのです。
By妻 -
翌年3月26日、犀星も永眠しました。肺がんでした。
大森に残った石像1体もここに移しました。根元に犀星の遺骨も分骨されたといわれています。
私は、犀星は夫婦そろってここに眠りたかった、と思うのです。 -
石室のような休憩場所とベンチがあって、吹雪の日などでもお参りできます。犀星らしい気の使い方です。
-
矢ヶ崎川は凍っておりました。
-
ちょうどこの方向、川の向こう300mくらいに、堀辰雄の最初の別荘がありました。犀星が好意で貸してくれた別荘をベースに、夫妻で探した山小屋です。
犀星は多くの人々と死に別れました。
1922年(大正11年)長男豹太郎1才で死去。
軽井沢の別荘を犀星は「こほろぎの箱」と呼んでおりました。(新潮社版室生犀星全集第8巻「泥雀の歌。十八、子供の死」P165、166、国会図書館デジタルコレクション89-90コマ)
住民は親こほろぎ2匹、子こほろぎ2匹。
★親こほろぎの友達である堀辰雄という姫こほろぎも、毎年ホテルで若い羽をすりあわせて、小さい歌をつくる稽古をしていた。立原道造といふせいのたかい脚の長いコドモこほろぎは、姫こほろぎが好きでいつも後を逐うていた。芥川という王様こほろぎがこの土地にやって来たのは震災の前の年と、後の十三年とであった。★
王様こほろぎは1927年(昭和2年)自殺
1939年(昭和14年)コドモこほろぎ死去、
1942年(昭和17年)親友かつ悪友萩原朔太郎
1944年(昭和19年)ノブスケとあだ名した詩人津村信夫
1953年(昭和28年)姫こほろぎ
1959年(昭和34年)妻とみ子
「市井のまつりごと」で死後故郷に、彼の意向に関係なく、立派なお墓が作られることは、犀星は予期していたでありましょう。しかしそういう特別扱いが嫌いだったのです。
本音は、愛する人々と縁の深い軽井沢に眠りたいと、犀星は願っていた。
矢ヶ崎川のほとりのこの一角は、事実上犀星のお墓であると、私は思っています。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- kummingさん 2023/11/09 07:28:09
- 文豪サロン
- しにあさんby妻さん、おはようございます♪
以前にも同じ事を書いたと記憶していますが、軽井沢には学生の頃に一度、松本在住だった娘と一緒に一度、行ったきり。学生時代から数十年後の2度目訪問の際に、旧軽井沢がかなり変貌を遂げていたのに驚いたのを覚えています。星野リゾートとかアウトレットとか、やたら都会化(*_*)その昔、 東京の避暑地だった頃ははまだひなびた佇まいだった。by 妻さんが感じていらっしゃる違和感、何となく分かるような…。
犀星の家にたむろした文筆家たちのそうそうたるかおぶれ、いわゆる文豪サロン?犀星と川端康成以外、作品を読んだこともなく、その人となりを想像することも叶わないのですが、それは楽しく盛り上がったことでしょうね、犀星夫妻にしろ堀辰雄夫妻にしろ、自然と周りに人が集まってくるような魅力ある方々だったのでは?
夫婦の形は様々、ですが、あの世に行っても側にいたい、と思うほど現世での結びつきが深い関係。巷では、「主人の家のお墓には入りたくない」妻が増えているらしい。我が家は次男なので、その懸念はない、のですが、樹木葬にしようかな~、と私、納骨堂に永代供養で良いんじゃ?など夫婦で話すようになりました。そういうお年頃(笑)目下旦那実家の墓仕舞い課題で、孫世代ではどこに(3兄弟)お仏壇を?など懸案山積みです。
堀辰雄シリーズ、まだまだ深掘りされそうな勢い、読んだ事ないままコメントする限界を感じるこの頃。一冊読んでみる→古代史で沼落ち「させられた」あの二の舞は絶対阻止!の初心忘るべからず、と自分に喝を入れ、今日もムリやりコメント捏造、でございますm(._.)m
- しにあの旅人さん からの返信 2023/11/09 13:04:05
- Re: 文豪サロン
- 堀辰雄シリーズ深堀りはとりあえずあと1本。おしまいかもしれません。
By妻も飽きたと言っております。私も同感。追分シリーズは今年の1月からですから、11ヶ月、そりゃ飽きます。
でも1年くらいしたら捲土重来、またやらかすつもり。
次のシリーズ目下準備中です。
だ~れも行ったことのない埼玉、群馬の神社とか、森の中の石碑とか。なるたけ読者の負担が少ないように書きます。
やはりどこのお家でもお墓の話で盛り上がって(盛り下がって)いるみたいですね。我が家は一人息子、嫁さんも一人娘ですから、彼らは2軒のお墓を引き継ぐことになるのです。し~らない。
夏の軽井沢は流行最先端(らしい、詳しくないので)のお嬢さんでいっぱいでした。
星のリゾートって、あのめちゃ高いホテルですよね。軽井沢アウトレットもよく4とらのブログに出てくる。
ボンビーな年寄りは来るなと言われているみたいで、不愉快。
そのてん冬はほぼ無人なので快適ですよ。
何のために行くかという問題はありますが。
-
- 前日光さん 2023/11/07 23:56:27
- せつなき思ひを愛す
- こんばんは、しにあさん&by妻さん
なるほど、犀星は頑固そうですよね。
そして、多恵子に対しては世話焼きオジサン
犀星は産みの母に一度も会えず、さびしい少年時代を犀川のほとりで、ハートのクイーンが表紙の白秋の「思ひで」に読み耽っていました。
肉親の縁薄い少年時代、それ故堀夫妻には自分が得られなかったものを、過剰なほど注いだのではないでしょうか?
それははた迷惑なこともあったかもしれませんが、辰雄も多恵子も、犀星の気持ちを素直に受け入れているように私には思えます。
犀星が、自分に心の平安をもたらしてくれた妻を愛し、ずっと傍にいられる場所に分骨したという話、しみじみとしますね。
その詩碑に書かれた詩「せつなき思ひを愛す」ですが、教科書に載っていたか、あるいは授業で自分が教えたのか曖昧ですが、「張りつめたる氷を愛す」という犀星の言葉の重みに背筋が伸びたことを思い出しました。
なにやら容易ならざるものが伝わってくるのです。
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す。
心の中に荒涼たるものを抱えるがゆえに、堀夫妻はその氷を氷解してくれるような存在だったのかもしれません。
昭和2年の芥川の自殺に始まり、犀星は親交のあった多くの人々を見送った後、亡くなったのですねぇ。
でも彼の死を多恵子さんが見送ってくれた、これは犀星にとって唯一の救いになったかもしれません。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/11/08 13:24:13
- Re: せつなき思ひを愛す
- 「ふるさとは」の詩ですが、堀多恵子の文章を読むと、犀星は故郷金沢を、遠くからでも、本当は好きではなかったと思います。
啄木みたいに石をもて追われたわけではないらしいですが、若い頃の金沢にはろくな思い出がなかったからですかね。
作家として名をなしてからは金沢に帰ると、手のひら返しで講演会だの歓迎会だのがまっていました。
そういうのが煩わしかったみたいです。
苦労人ですからそんなことを表立っては言いませんが、多恵子には本心を明かしていたのでしょう。
寒風吹き抜ける軽井沢の駅で、駅長に駅長室を勧められても、ガンとしてホームに残ったそうです。多恵子も付き合ったらしいけれど「駅長室に行ってくれないかな」と思ったでしょうね。
特別扱いされるとおへそを曲げる人だったそうです。
犀星って、長生きして、成功した啄木なのかも。渋民村には今は啄木記念館があるそうですが、そんなもの作るなら生前なんとかしてくれたらよかったのに、と本人は思ったんじゃないかと。
自費で生前、どうみてもお墓と見える詩碑を作っちゃうなんて、犀星はかなり屈折しています。詩碑なら石像はいりません。初めから2体おけるスペースを用意してある。
軽井沢においでになる機会があれば、ぜひ詩碑をご覧になってください。犀星の怨念のようなものが漂っています。
朝子はご存知の通り不幸な結婚をしました。とんでもないモト夫だったようです。
犀星は、辰雄と多恵子夫婦に、ある種の憧憬を感じていたのかもしれません。死別はしましたが、完璧な夫婦だと思ったのかも。娘と比べると分からないでもない。
辰雄の死後の多恵子への思い入れは、娘以上です。
おっしゃる通り、多恵子に見送られたのは、犀星にとって幸せだったでしょうね。
-
- mistralさん 2023/11/07 10:49:13
- 夫婦の在り方
- しにあの旅人さん
コメントをご無沙汰しておりました。
お変わりなくお過ごしのことと想います。
新居での日々にもすっかりお慣れになったことでしょう。
今度も畑はお持ちで作物を育てておられるのでしょうか。
しっとりとした素敵な旅行記を拝見しました。
表紙お写真、まばらに積る雪の中に、ひっそりと佇む石像が2体
いかにもどなたかとのご縁が感じられるようなその佇まい
やがて読み進んでいきますと、犀星が満州旅行の折買って帰った俑人
2体とのこと。
1体の俑人を移設し、先に亡くなられた奥さまの遺骨を分骨して埋め
後にはもう1体の根本には犀星自身の遺骨の一部も埋葬されていた。
犀星自身のこの土地に対する強い想いが感じられますね。
そんな想いが伝わってくるような石像でした。
奥さまをずっと、近くで感じられながら暮らされたかったのでしょうね。
犀星ご夫妻の関係性は、ほかの夫婦全てに当てはまることと思い
そのことを堀辰雄夫人にも問われた、とのコメントに、思わずニンマリでした。
夫と妻側の想いの違い、
ここまで夫に想い続けられる妻はどんなにか幸せなことか、
それとももういい加減にして自立してと自分だったら思うのかしら、など
想ったことでした。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2023/11/07 13:33:29
- Re: 夫婦の在り方
- 今回の家の庭は蚤の額ほどの庭。そもそも畑と庭のメンテナができなくなっての引っ越しでした。
ただ、ダイコン、白菜、キャベツなどの基本野菜を買うという習慣がなかったので、お値段が高いのとおいしくないのに驚いています。
軽井沢にいらっしゃる機会があれば、犀星詩碑はお勧めです。ここは犀星の事実上のお墓であると、しみじみわかると思います。
妻とみ子を分骨したのは間違いありません。
犀星自身は厳密には分からないのです。というのは遺骨の埋葬というのは簡単な話ではなく、いろいろ面倒くさい。
やったとしたら娘の朝子か多恵子でしょうが、表だって言える話ではありません。
でも間違いなく、どこかに犀星の遺骨も分骨されていると思います。そういう雰囲気です。
とみ子さんは昭和13年以降脳梗塞で下半身が不自由になるのですが、座布団を車椅子代わりにして、家の中を元気に動き回っていたと多恵子が書いています。
とみ子の堀辰雄への手紙でも、陽気で前向きだったみたい。
そんな妻を最後まで犀星は熱愛していたようです。
トシとって愛妻に死なれると、残された夫の寿命は半年と言われています。
どうやら犀星もそれに該当するみたい。
逆の場合はそうでもないみたい。田辺聖子はダンナ、カモカおおっちゃんが死んだ時「野獣が野に放たれたようだ」と言いました。そんなもんですかね。
ちょっとがっかり。
多恵子も辰雄の死後、貨客船で世界一周したり、リルケの墓参りにドイツに行ったり、堀辰雄の語り部以外でも、半世紀元気に生きました。
この夫婦は、二人合算するとやりたいことを全部やったようです。堀辰雄もリルケのお墓にはさぞ行きたかったでしょう。
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