2023/02/03 - 2023/02/04
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しにあの旅人さん
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更新記録
2023/09/01:庭を眺める犀星の写真下、片山広子の歌挿入。
2023/08/15:犀星別荘離れ2枚目のあと、立原道造のエピソード追加。
室生犀星が始めて軽井沢に来たのは、1920年(大正9年)7月でした。つるや旅館に投宿。
以降定宿はつるやとなります。
1931年(昭和6年)8月、旧軽井沢に別荘を建てました。これが現在の室生犀星記念館です。
堀辰雄は1912年(大正12年)室生犀星の知遇を得、以降軽井沢ではつるや、やがて犀星の別荘に入り浸ります。
戦中戦後、犀星一家と堀夫妻は厳しい冬の疎開生活を送りました。
掘が病気療養で動けなくなってから、そして彼が死んだとき、犀星は文学上の師というより、むしろ父親。
基本参考資料は「堀辰雄紀行 軽井沢1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます
投稿日:2023/08/08
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
堀辰雄文学記念館常設展示図録より
軽井沢堀辰雄自作地図です。赤丸は筆者が追加。
上の赤丸「この別荘が僕たちのです(八百三十五番)」
ということは掘夫妻が軽井沢で借りた最初の別荘ですから、1938年(昭和13年)夏ということです。
下の赤丸「朝ちゃんたちのお家です」
室生犀星別荘。「朝ちゃん」とは犀星の娘朝子(随筆家、1923-2002)1938年とすれば15歳です。
堀辰雄が、室生朝子にあげた地図じゃないですかね。
この年、室生犀星夫妻の媒酌で結婚式をあげた掘夫妻は、軽井沢の犀星別荘を一時借りて、軽井沢の住まいを探しました。そして見つけたのが835番の別荘。 -
犀星がこの別荘を建てたのは1931年(昭和6年)です。このころ掘は毎年夏滞軽。投宿したのはつるやでした。
つるやから犀星別荘に来ると、この写真奥の細い道からやってきます。
★掘は家に入ってきても、ちょっと僕に頭を下げてあいさつをするだけで、すぐ十歳くらゐになっていた娘の方に行った。★(「詩人・堀辰雄」筑摩別巻2P217、以下引用元が同じ場合はページ番号だけ)
朝子10歳というと1933年ですから、時期があいます。この年なら6月16日から8月15日滞軽です。「美しい村」を書き始めたのはこの年。 -
犀星記念館は分かりにくい。ショー通りからは別荘地で私道みたいな細い道です。車は入りません。反対側からも細い道で、記念館直前まではやっと車は入りますが、お向かいの別荘の私道でしょう。駐車場どころか、路駐もできません。
一書に曰く、
犀星記念館は、細い小道を、くねくね行ったところにありました。
もちろん車は入れません。
引っ越しとか工事とか、どうしたんだろう?
道は、両脇の高い木々のせいで、小暗く、しっとり苔むしておりました。
夜は、通りたくないなあ。
By妻 -
つるや→ショー通りからくるとこんな感じ。左が犀星記念館です、正面を突き抜けると矢ケ崎川にでます。川を渡ると、川端康成の別荘があった幸福の谷にあがる坂道です。そこで堀辰雄は1937年(昭和12年)12月、「風立ちぬ」の最終章「死の影の谷」を書き上げました。
-
堀辰雄の気分で、つるやからやってきたと思って下さい。
★堀辰雄はいつも軽井沢の僕の家をたづねる前には、通りの垣根から庭の中をすかして見て、きっと、通りから一応娘の名前を呼ぶことにしてゐた。
「あ、さ、ちゃん。あ、さ、ちゃん。」★(P217)
堀辰雄は生粋の江戸弁を話したようです。
★「あ、さ、ちゃん。あ、さ、ちゃん。」
と呼ぶ「あ」と「さ」の発音状態に、純粋な東京弁の「あ」をやや長めに引き「さ」をみじかく言ふ呼びようは、田舎者の僕には発音の美しさが、それをきくたびにことあたらしく感じられた。★(P217、「あ」などは筆者。原文は文字右に強調の点)
★片山ひろ子さんの名いつも平仮名でかいていゐときのように、か、た、や、ま、さんと呼び、かとたの間にみじかいあまったれた時間を置いて、呼んでいた。多恵子夫人をよぶのにたあえこ、たあ、えこと妙にふくらんだ声で呼ぶのとおなじ呼びようだった。★(P218)
辰雄の江戸弁はそれだけで十分おもしろいので、後日彼の下町時代を尋ねるときに改めて取り上げることにいたします。 -
記念館に入ります。
引き続き堀辰雄の気分でいきましょう。アクセスは徒歩、自転車だけ。 by しにあの旅人さん室生犀星記念館 名所・史跡
-
庭に入って左が母屋です。
1931年(昭和6年)の建築です。5月1日付け堀辰雄宛絵はがきは大森の自宅から、7月16日付け封書が軽井沢1133つまりできたばかりの犀星別荘から出ています。この間に落成したということです。
この年の堀辰雄は8月中旬来軽、8月29日から10月7日までつるやに滞在して「快復期」を書きました。詳しくは「オルガンロック登攀記」の最後にまとめておきました。 -
一書に曰く、
家は、板塀に囲まれて、60年くらい前の世田谷みたい。
いえ、きっと日本中こんなだった。
こぶりで、あんな著名文学者のおうちとは思えない。
しかも二つもある。
どちらも小さい。
最初は、母屋だけだったようですよ。
そのうち、木戸を入って正面の、岩の上の高くこぢんまりとした離れを茶室として建てたらしい。
庭は、これが犀星のお好みだったのか、苔むした岩ゴロゴロの日本庭園。
なるほど!この感性で、堀多恵子夫人に、あれこれアドバイスしたのね。
多恵子夫人は、無視はしなかったみたいだけれど、従わなかったので、
「堀君も、君には手を焼いただろう」なんて言われています。
入ると、すでに多数の観光客。
そして、記念館の人らしき人が、「苔を踏まないでください」
と繰り返していました。
見学者は、次々来るし、説明もしなくてはいけないので、彼は結構忙しい。
見学者の中には、一緒に写真を。なんていう人もいて。
その繁忙の合間に、「苔を、、、」
でした。
苔を踏んで、近道しようとする者多数。
こら!これだけ育てるのに、何年かかると思っているのだ?
と、思わず心のうちで叫ぶ教養あふれるby妻。
教養?いつから?なんて聞かないでくださいね。
by夫じゃないんだから、親父ギャグは言いたくない。
やがて潮が引くように、見学者たちがいなくなり、ふと気づくと、あの説明していた人もいなくなってしまいました。
ということで、こんな静かな写真が撮れました。
By妻 -
できたてホヤホヤの犀星山荘の玄関に掘が犀星を訪ねたか、記録はありません。しかし犀星一家の滞軽の時期と重なれば、必ず顔を出したはずです。
多恵子によれば「室生さんは7月の上旬に軽井沢に来られ、9月の末に東京に戻られるのをならわしとされておられた。」(掘辰雄の周辺・室生犀星P20)
1932年(昭和7年)は7月末-9月3日滞軽。(筑摩書簡神西清宛てはがき122,123)
この年10月発表の随筆「エトランジェ」の文中日付が事実とすると、来軽は7月23日です。
神西清宛122だと、仕事のためだれにも連絡せずに軽井沢に来て、14,5日に一時帰京しています。
8月15日付け犀星山荘発新小梅の掘宛の絵はがきだと、
★先日おたのみしたのは栗饅頭の間違ひです。若しあの近所に行ったらあそこから送ってほしいと思ひます。25もあれば澤山、これは小生奮発ものですから御懸念なきよう。子供が6人あつまり仕事のまわりでワイワイ云って大変なり。★(筑摩来簡37)
帰京する堀辰雄になにかお菓子を頼んで、間違えたので訂正している。多分辰雄は自分で持ってきたのではないか。
確実に何度か別荘に来ています。 -
子供が6人集まりとあります。長女朝子は1923年生まれで9歳、次男(長男は夭折)朝巳は26年生まれで6歳、犀星の子供は2人だけですから、友人の子供たちが集まっていたのですかね。栗饅頭25個は犀星夫妻では食べきれないので、子供たち用か。
文豪室生犀星も6人の子供に囲まれて仕事にならなかった模様。
創作に苦吟する犀星のまわりで6人が飛び回っている風景を想像して下さい。 -
母屋から少し離れて、茶室みたい。
-
記念館内の案内板には説明がありませんでした。
-
奥の一間と合わせて、犀星の仕事部屋みたいな感じ。
-
1933年(昭和8年)は前述のように、掘は6月16日から8月15日滞軽です。「詩人・堀辰雄」だと、に別荘に入り浸っている。
床の間があるので客間です。しかし辰雄は犀星宅にくると、とみ子夫人や子供たちのところに行っちゃうようで、この部屋には縁がなかったかも。 -
縁側で、自ら設計した庭を眺める犀星の図、だそうです。
犀星自慢の苔庭。
片山広子の一首。「野に住みて」より(P122)
★
苔庭
軽井沢の町にちかき室生犀星氏の庭にて
洞庭の湖(うみ)かたどりし苔庭にゆれ映える日を見ていましけり
★ -
犀星は自分で庭の刈り込みなどをしていました。「それを他人に見られることが苦痛であり、手伝ってもらうことも気が重かった」そうです。
堀辰雄はここに来ても、一度も手伝いませんでした。黙って邪魔にならないように見ているだけ。掘に見られることも苦痛でしたが、掘はそれに気がつかなかった。
辰っちゃん、案外鈍い。
「原稿を書く時より、もっと労力がいる疲れを彼は知らない。」(筑摩別巻2P359)
犀星捨て台詞。それでも掘を叱る気にならなかったそうです。それが掘の人柄だった、と犀星は言いたいわけ。 -
辰雄は、縁側にでも坐って、ぼーっと眺めていたのでしょうか。
矢野綾子
▲▼▲▼
★きのうこっちに来ました。君はもう来ているかと思ったらまだ来てゐないんですね 室生さんはもう来てゐます 霧のような雨がふって寒い位だ はやく来ませんか 僕は23日迄こちらにいます。★
1934年(昭和9年)7月13日付け矢野綾子宛て絵はがき。
「風立ちぬ」節子のモデルとなった矢野綾子です。綾子宛て最初の手紙です。(筑摩書簡152)
この年掘は7月12日-23日滞軽。その後10月3日まで信濃追分油屋に滞在。
矢野綾子は8月14日くらいから9月17日くらいまで滞軽。
掘は軽井沢まで綾子に会いに行ったでありましょう。
2人で犀星山荘を訪ねたか、この流れだと、行ったでしょうね。
2人の軌跡です。
1933年(昭和8年)7月:軽井沢で知り合う。
1934年(昭和9年)9月:婚約
1935年(昭和10年)7月:富士見の高原療養所に綾子に付き添って入院
同12月6日:矢野綾子死去。
1935年(昭和10年)の夏は矢野綾子に付き添い富士見の高原療養所にいましたので、滞軽なし。
1936年(昭和11年)
7月16日-26日くらいまで滞軽、つるやに投宿。その後27日からは信濃追分油屋に移住。
宿屋に泊まるというより、一室に本など持ち込んで住み着いたので、移住といったほうがいいでしょう。
室生犀星の隣り村に住んだせいでしょうか、往来の記録は残っていません。
1937年(昭和12年)
7月、加藤多惠との出会いを迎えます。
8月24日、信濃追分より軽井沢へ行っています。
前年亡くなった矢野綾子の妹良子(よしこ)が信濃追分に来ました。良子はこの年小学校6年生(12歳)綾子、良子の父矢野透は、犀星の友人でした。
8月24日付け立原道造宛はがき。
★矢野のヨッチャン来たり四五日こちらにゐてきのう軽井沢へいった 朝ちゃん(室生朝子)のところに一週間ばかりとまってゆくといってゐる けふ僕も軽井沢へゆく。★(筑摩書簡242)
一書に曰く、
綾子と書いて、りょうこ、良子と書いて、よしこ と読むのです。
なんかこんがらがりそう。
良子さんとは、堀夫妻は、ずっと親しいお付き合いをしています。
良子さんはともかく、多恵子さんとしては、言ってみれば、前妻さんの妹と後妻さんの関係ですが、多恵子さんはおおらかだったのでしょうね。
この朝子さんは、「杏っこ」の人で、ご自身もエッセイストで、by妻もよく彼女の文章を拝読しました。
By妻
この夏、加藤多惠(のちの掘多恵子)が信濃追分油屋に滞在したのは7月末から8月末まで。すぐ2人は親しくなりました。このあたりは「堀辰雄紀行5」でしつこく跡を追いましたので繰り返しません。
その間に掘は3,4回多恵子を犀星に会わせています。
朝子はともかく、朝巳が「あれ、たっちゃん、おととしのおねえさんと違うね」とか言って、犀星にぶたれた、という話はない、と思います。
★辰雄はいやがる私を無理に室生さんのお宅につれてゆきました。室生さんの朝子さんは、その頃、おかっぱのかわいいお嬢さんで、女学校の一年生か二年生だったのでしょう、私は離れで夏休みの宿題をさせられたりしました。私は三、四回は辰雄にひっぱられて室生家に行ったでしょうか、しかし先生や奥さまのことはあまり記憶に残っていません。★(来し方の記P79-80)
朝子は14歳くらいです。東京女子大英文科出の多恵子に宿題をやってもらって、大満足だったはず。朝子と多恵子は堀辰雄の死後も友人であり、犀星晩年の東京散歩のおとも(介護?警護?)でありました。 -
「離れで夏休みの宿題をさせられた」という離れとは、これかな?
1931年(昭和6年)にはなかったようです。1937年(昭和12年)までには建てられたということです。
1938年(昭和13年)掘夫妻は軽井沢に家を借りることにしました。犀星は、この別荘に泊まって物件を探すように辰雄に勧めました。4月28日発のはがきで「家が見つかるまで寛くりつかいたまえ。」と書いています。(筑摩来簡79)
4月24日ごろ軽井沢に向かったようです。(神西清あて筑摩書簡314) -
母屋か離れか、掘夫妻がどちらを使ったか書いてありませんが、ボランティアの解説員さんによると、お客は離れに泊めたそうです。こちらではないかな。
このはがきで「君のはがきは何時も忙しげな字をかくが、忙しくないようにかきなさい」と辰雄は叱られています。父親宛だけではなく、犀星あての手紙でも乱暴な字だったようです。
別荘の管理も頼まれています。「不二雄さんに垣なおしと掃除を頼んで下さい」
「不二雄さん」とはつるやの主人。犀星山荘の管理はつるやの仕事だったことがわかります。
「室生犀星と軽井沢」によれば、
★立原(道造)も、その死を看取ってもらうことになる女性を連れて現れ、ひと時を離れで休んで、軽井沢の駅へ戻っていった。★(P17)
この離れでありましょう。
犀星の粋な計らいでありました。
一緒の女性は水戸部アサイ。2人は1938年夏、堀辰雄の最初の別荘835に来ております。その帰りでありましょうか。
堀の「木の十字架」によれば、このときの立原はもうすっかり衰弱して、旧軽銀座からの800mの登りで息も絶え絶えでした。帰りも同じ、アサイに見守られて、この離れで息の休まるのをまったのではないか。
苦しくとも、2人だけの楽しい一時であったらいいな。
翌年3月、立原は夭折しました。 -
「垣なおし」と書いています。現在は板塀ですが、オリジナルは芝垣だったのです。
一書に曰く、
あー、やっぱり犀星が住んでたままではないのですね。
苔も、こんなではなかったのかも。
子供がいるのに、苔庭なんて無理じゃないかなあ。 -
犀星記念館展示より。
そういえば「通りの垣根から庭の中をすかして見て、きっと、通りから一応娘の名前を呼ぶことにしてゐた。」と言っています。(上述「詩人・堀辰雄」)
辰雄は山の中の別荘が気に入り、5月8日に引っ越しました。これが軽井沢最初の別荘835です。(犀星あて筑摩書簡315)
このあとも「裏石垣やりなおし」「植木屋の手配」(筑摩別巻1来簡81)をつるやに頼めとか、遅れているので催促しろとか、いろいろ辰雄さんに言ってきます。(同84)
釈迢空(折口信夫)の夏の別荘を探せという指示もきました。
掘夫妻、一生懸命いいつけ通りやりました。
堀辰雄は対面での交渉ごとが苦手な人だったようで、新妻多恵子の出番だったのではないか。高級ホテルのフロントで働いた経験のある多恵子です。
掘夫妻は1939年(昭和14年)、1940年(昭和15年)も軽井沢に別荘を借りて、夏を過ごしました。1941年(昭和16年)別荘を購入、1943年(昭和19年)まで夏はここに住みました。
これは、改めて堀辰雄の軽井沢別荘巡りで取り上げることにします。
一書に曰く、
堀夫妻は、結構な頻度で引っ越ししています。
多恵子さんの書いたものによると、
布団袋に、布団を入れて、鍋釜、茶碗を放り込んで、また布団を上に詰めて、布団袋をぎゅうっと締めたら、終了。
だそうです。
我が家も、最近引っ越しました。
生活規模縮小のためです。
引っ越し準備中、何度多恵子夫人の、この言葉を思い出したことでしょうか!
本当に、夫婦二人なら、布団に、鍋釜、茶碗二個、小皿二枚で、生活できるのに。
何だろうね。この荷物。
捨てろ、捨てろ。と、by夫は、言いっぱなし。
なのに、わたくしby妻は、ほら、「雀のお宿」のばあさまですから。
しかも、大きいつづらからお化けが出るなら、「興行できるぞっ。」
ってタイプだから。
道具を捨てるのは、死ぬほどつらかったです。
多恵子夫人という人は、思い切りのいい人なのですねえ。
By妻
戦争が激しくなり、掘夫妻は1944年(昭和19年)9月信濃追分油屋の隣りに借りた家に疎開しました。 -
2023年2月、だれもいない犀星記念館に行ってきました。
冬は閉館されています。 -
雪はたいしたことありませんでしたが、寒い。
-
駐輪場も空っぽでした。そもそもこの季節、軽井沢を自転車で走ろうなどという物好きはおりません。
-
庭には透明ビニールシートが敷き詰められていました。苔を保護するためです。犀星が愛した苔です。
室生犀星は1944年(昭和19年)一家をあげて軽井沢のこの別荘に疎開。 -
★軽井沢で冬を過ごされた時、おおきな立派な室を造って、冬期間の野菜を寒さで凍みさせないように十分貯蔵された。追分には室は造ったかと尋ねられ、窓の下にみかん箱くらいのがあると答えると、もう一つ造っておかなければならないと言われた。★(堀辰雄の周辺・室生犀星P19)
冬の軽井沢、追分の疎開生活は厳しいものでした。
一書に曰く
疎開生活は、つらかったと、私の母も、ことあるごとに申しておりました。
姑は、私が知っている限り、サツマイモは食べませんでした。
戦中戦後に、一生分食べたからだそうです。
そういう物資のない時代、病人を抱えた多恵子夫人の苦労は、いかばかりだったか。
食べられるものは全て、辰雄に食べさせて、自身は、おからのまんじゅうなぞを食べていたそうです。
おからまんじゅう、想像もできません。
窒息しそう。
By妻
1945年(昭和20年)2月4日堀辰雄より矢野透あて(筑摩書簡760)
★凍みた大根やキャベツや馬鈴薯などが唯一の食料で、氷のついたままの菜漬けを何よりに好物として、日々を過ごしています。★
多恵子が室で保存していた野菜でしょうか。 -
★朝子さんも毎日雪の中で薪にいぶり責めになったり漬物の氷を金槌で割ったりしながら働いてゐるようです。★(同筑摩書簡760)
-
★それはまだ戦争時分だからたえ子は自転車で軽井沢にやって来て、パンとか菓子とか魚とかをやみで購い入れ、私の家で持参の弁当をつかって午後も寒くならない間に戻って行った。★
多恵子が軽井沢に来るのは月に1、2度。そのたびに辰雄の病状を逐一犀星に伝えていました。
逆に多恵子が来ないと、辰雄の容体が悪いのではないかと、息子の朝巳が自転車で信濃追分まで様子を見に行く。多恵子は辰雄の喀血のあとで手が離せない。
朝子と朝巳が多恵子のかわりに買い物をしたのでした。
「わが愛する詩人の伝記・堀辰雄」より。文学上の師というより、父親です。
同じ事を多恵子から見ると、
★戦後辰雄が追分で病の床に伏すようになってからは、軽井沢に疎開しておられた室生家で苦労して集められた食料品を分けて頂きに、私は自転車で出かけて行き、病人の様子を報告したりしていた。そのころからだんだん室生さんと親しく話が出来るようになった。★(堀辰雄の周辺・室生犀星P15)
一書に曰く、
多恵子夫人は、有能なひとです。
海外帰国子女で、高給取りだった等の過去を、すっぱり捨てて、田舎のお百姓さんのおかみさん同様の大活躍です。
うろ覚えですが、たしか、美人で有名な朔太郎の妹は、夫のお葬式に、台所に隠れてしまったのではなかったですかね。
役に立たない人間です。
堀辰雄は、この妹か、どの妹か、朔太郎の美人の妹と面識があるのです。
堀辰雄は、人間を見る目があったのだなあ。
By妻 -
最後の来軽
▲▼▲▼▲
とみ子夫人は1938年(昭和13年)11月に脳溢血に倒れ、体の自由を失っていました。
1946年(昭和21年)4月ごろのようです。「来し方の記」によると、脳溢血の予後を養っていた室生夫人を掘夫妻でお見舞いに行っています。汽車で軽井沢までゆき、駅からは木炭で走るバスがあって、本町通りまではそのバスに乗りました。
11月からは辰雄は寝たきりになりますから、堀辰雄最後の来軽です。
犀星と辰雄が顔を合わせたのも、これが最後となります。
とみ子夫人は完全にマヒしたわけではないようです。下記文面より快復してきているような印象です。
1948年(昭和23年)4月には辰雄に手紙を出しています。口述筆記ではなく、一部漢字を避けるなどしており、自筆と思われます。
「辰ちゃんのとこへ行って本の話などするといいんですが、私もいけないしあなたもこれないしね。」
「お手紙をかかう思ってもやはり脳溢けつ(原文ママ)は九分どほりなほりかけでもやはり残っている方が一分一厘でどうにもなりません。どうしたらいいでせうか。一生涯なほらないかもしれませんね。」
2番目のフレーズは封筒の裏に記入と脚注。自筆ですね。
「持参」とありますので、朝子か朝巳が軽井沢よりもってきたものでありましょうか。(筑摩来簡287)
1938年(昭和13年)掘夫妻が軽井沢の最初の別荘を借りたとき、新米主婦多恵子にいろいろ教えてくれたとみ子夫人です。
一書に曰く、
とみ子夫人については、この堀辰雄を追いかける旅では、脇役も脇役で、あまりでてきませんでした。
わずかに、多恵子さんに、家事を教えたとか、それも
魚は、ここは刺身にして「たっちゃんに。」
ここは煮付けにして「たっちゃんに。」とか。
または、キャベツの芯は漬物にしなさい。
とか、鬼姑さながら。
それ以外は、あまり印象のない人でした。
ところが、矢ケ崎川の畔に、犀星の記念碑があります。
道から少し下がったところで、観光客は気がつかないかもしれないところです。
記念碑は、ちょっと、朝鮮半島の夫婦神みたいな男女の像です。
そういう夫婦像は、犀星がえらんだそうですが、そこに犀星の妻への尊敬、感謝、愛情。そして誠が現れてました。
この夫にして、この妻あり。この妻にして、この夫あり。
わたしは、記念碑を読んで、涙したのは初めてです。
犀星の誠実さ、親切さは、若い堀辰雄にしては恐縮のいたりだったのですね。
辰雄も誠実なればこその恐縮だった。
話は逸れますが、こういう辰雄が、養父をそれと知りつつ下僕のように扱うでしょうか?
知らなかった説の傍証になりませんかね。
とにかく堀辰雄という人は、師にも友人にも、親にも妻にも恵まれた人だったことは、どんなへそまがりでも認めざるを得ない事実です。
幸せなひとです。
By妻
疎開は1948年(昭和23年)2月まで続いたようです。
3月1日の大森自宅からのはがきで、「三年振りで家にもどり炬たつにあたってゐると、信州は寒い。」と辰雄に書いています。
ほかの資料ですと、犀星の帰京は1949年(昭和24年)9月となっていますので、1年半は東京と軽井沢の二重生活だったのでしょう。
犀星、辰雄を見舞わず
▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼
犀星の「わが愛する詩人の伝記・堀辰雄」によると、犀星は辰雄の晩年8年間、一度も信濃追分の掘辰雄を訪れておりません。油屋横の家も、新築した家も、辰雄生前は知らなかったのです。
現地では室生犀星が堀辰雄のマネジャーみたいで、東京では神西清が代理店のような感じ。
堀辰雄に会いたい出版社は、この二人に紹介をたのんで来ました。
★たえ子は東京から雑誌社の方が見えても、追分には寄らないよう言ってください、お仕事のことや人に会うと亢奮して発熱するから、お宅でくい止めてくれといわれた。私はそこで雑誌社の人や本屋さんには、堀の処に寄らないように頼んで言った。★
多恵子は犀星にも見舞いに来てくれるなと言いました。
★私は久しく行かないから近い内にお訪ねしますと、たえ子が来たときに言おうものなら、それこそ、たすけてくれといわんばかりになり、たえ子はほんとに入らっしゃらないでください、お構いも出来ないのに、堀のことなら、あれ出せ、これ出せ、お茶をもっと濃くいれなさいなどと気を揉むにきまっていますから、後で疲れて熱を出すようなことになります。★
多恵子は堀辰雄の看護卒(看護兵)とみずから任じておりました。(筑摩別巻2P186)
家の周りに夫を守る城壁を築いたのです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 前日光さん 2023/08/22 23:15:34
- 犀星記念館というので。。。
- てっきり金沢の犀川縁にある、あの「犀星記念館」かと思ってしまいました。
軽井沢から、いきなり金沢に飛んだのかと思いましたが、そうでしたか。
軽井沢にも「室生犀星記念館」があったのですね?
いいね!してから、だいぶ時間が経ってしまいましたが、なにしろこの7月、8月は暑い上に忙しくて、なかなかコメントが書けませんでした!
市の芸術祭、県の芸術祭、同人誌の編集(いちおう編集長なんです(>_<)等々、その間に法事や娘たちとの那須旅行などが入って、こんなに慌ただしい夏はありませんでした。
なんといっても、この暑さ、いつまで続くのでしょう(◎_◎;)
止まない雨はないのと同じで、終わらない夏もないだろうとは思うのですが。
本当に夏は嫌だなと再認識しました。
金沢の「犀星記念館」は、犀川のほとりにあり、犀星が生後まもなく預けられた「雨宝院」という寺も、近くにありました。
生母とは一度も会えなかった犀星は、そういう思いを堀夫妻(わけても多恵子夫人)に注いだのでしょうか?
私が訪れた金沢は、三月末でほぼ毎日雨が降っていました。
そのせいか犀星少年が、犀川のほとりで白秋の「おもひで」に読み耽りながら、さびしい少年時代を送っていたという姿が想像されました。
後に口うるさいほど、堀夫妻や多恵子夫人の世話を焼くことになろうとは、ちょっと結びつかないくらいです。
軽井沢の「犀星記念館」への道は、本当に狭そうですね!
あの写真の道の先に、記念館があるなどとは想像できません。
犀星によく似た娘さんの朝子さんも、この旅行記では、まだ10歳ぐらいの少女だったのですね。
私は犀星と朔太郎との交流は知っていましたが、犀星がここまで堀夫妻と親しかったとは思ってもいませんでした。
確かに「堀辰雄記念館」への並木道は、片側が犀星が指示した木でしたし、展示品の中には彼らの交流が感じられるものもあったのですが、どうしても結びつかないのです。
犀星って、親との縁が薄い自分の境遇を、堀夫妻の面倒を見ることで、肉親の情のようなものとして変換していたのでしょうか?
珍しい(私にとっては)、軽井沢の「犀星記念館」のご紹介、ありがとうございました<m(__)m>
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/08/23 10:35:03
- Re: 犀星記念館というので。。。
- あいかわらずの暑さです。体重コントロールで散歩は必須、朝4時起き5時出発で散歩に行っています。血圧測定などですぐに出られないのが悲しい話です。7時以降は外に出ません。
なんとか生き延びねばと思っています。
金沢の犀星記念館も行ってみたい。金沢には「金沢湯桶夢二館」というのもあるので、行ってみたい優先度高いのです。家持さんも近くだし。
「夢二夢の跡」というシリーズを考えています。
犀星の長男は生後1年で夭折しています。堀辰雄が犀星の前に現れたとき、死んだ子の成長した姿を堀に見たという話を、どこかで読みました。当時の堀は頭脳明晰な一高生、大変な美青年だったそうです。まだ結核に罹患していなくて、水泳が得意なスポーツマン。死んだ子もこういう青年に育っただろうと、犀星が思ったとしたら、その後の辰雄ひいきが分かります。
長女朝子は、結婚がうまくいかなくて家に帰ってきたのはご存じの通り。「杏っ子」です。堀夫妻を見て、朝子もこんな夫婦だったらいいのに、と思ったんじゃないですかね。
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