2023/02/03 - 2023/02/04
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しにあの旅人さん
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更新記録 2023/09/10:「堀辰雄は畳が好きだった」追加。多恵子の黒いセーターのあと。
堀辰雄が軽井沢の別荘に住んだのは、1937年(昭和12年)川端康成の別荘が最初です。「風立ちぬ」の最終章の舞台となりました。後日取り上げますので、今回はパス。
その後結婚して、多恵子と二人で1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)まで、夏は軽井沢の別荘で過ごしました。最初の3年は借家「借りぐらしの堀辰雄」です。
堀辰雄を研究していた宮崎駿は、ここからアニメ「借りぐらしのアリッエティ」を思いついたのです。
真っか赤なウソです。
一書に曰く、
ジブリが「風立ちぬ」を作ったから、そのお返しで、借りぐらしね。
なるほど。by夫としては、しゃれたつもりなんでしょうけれど・・・
要するに、堀辰雄が、軽井沢を好きになって、やがてはこのあたりに住み着く迄の物語です。
by夫は、よっぽど堀辰雄が好きらしく、まだまだ調べて書いておりますよ。
最早、旅行のブログを越え、学士論文を超え修士くらいにはなっているのではないですかね。
とっくに退屈して、居眠りネコ状態のBy妻。ふあ~ぁ
3軒はその後取り壊され、いまはありません。行ってみましたが、ただの森です。回りに別荘が建っていますので、写真にとるわけにもいきません。だいたいこのあたりということで、勘弁して下さい。
このブログでは同じようなエピソードを、少しずつ内容を膨らませながら繰り返します。
堀辰雄が「美しい村で」で使った手法、遁走曲、フーガを気取ってみました。
基本参考資料は「堀辰雄紀行 軽井沢1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
今回は下記を追加。
「片山廣子全歌集」秋谷美保子編/2012年/現代短歌社
「物語の女-モデルたちの歩いた道」山本茂/講談社/1979年(昭和54年)
投稿日:2023/09/05
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
掘夫妻最初の別荘に行ってきました。正確には別荘があったところ。
軽井沢の森めぐりはいつもそうですが、車で行ったのが大失敗。道路が狭くて穴ぼこだらけで、ヒヤヒヤの連続。おまけにたどり着いたところで、何もないのです。
軽井沢835、別荘番号というそうです。こいつはその別荘が取り壊されるとなくなって、別の別荘に割り当てられます。現在835は欠番みたいです。
1938年(昭和13年)5月8日に入居して、10月19日まで住みました。(室生犀星あて筑摩第8巻315、神西清あて同331) -
出典:堀辰雄文学記念館常設展示図録
1番目の別荘835です。
4番目の別荘と同じ外壁みたいです。杉の樹皮で覆ってあります。
堀辰雄はスイスの山小屋のようだと気に入ったそうです。
一書に曰く、
スイスの山小屋。
そうかなあ。スイス全部を知っているわけではないですが、グリンデルワールドとかの感じでは。こういうタイプの家は見ませんでした。
粗末でも石積みの家だったみたいですけどね。
この家では、厳しいアルプスの冬は越せないと思うんです。
現に、堀夫妻も、ここでは冬は過ごしていません。
まあ、当時の日本人が抱いているスイスのイメージってことですかね。
By妻 -
犀星あて封書(筑摩書簡315)に添えられていた手製地図。
赤丸内の道路右側です。「あそこ(水源地)へ上がってゆく林道の一番はずれに数本の大きな樅の木にかこまれて二軒ばかり外人の別荘がある、その一つです。」 -
「寂しい山奥」と多恵子は書いています。旧軽銀座から約800mですが、とにかく山奥です。現在でも充分に寂しい。二股を右に行きます。
-
暗いです。森が深いので、こんな感じです。
-
多恵子は建物の片側は深い谷だと書いていますが、道路の反対側も谷です。尾根筋にあるということになります。
2022年10月は車で行きました。前述のようにとめる場所もなく、すごすごと退散。2023年2月は歩きです。堀夫妻が住んだのは初夏から秋ですが、冬の雪景色の写真で恐縮です。 -
この坂を登った右あたりでした。雪は凍っていて、By妻おっかなびっくり。
-
一書に曰く、
冬の軽井沢、絶対お勧めです。
しーんと澄み切った空気のなか、時々、遠くの方で枝から雪が落ちる音がしたり。
滑りそうになって、足下を見ると、ウサギの足跡があったり。
まだ新しいぞ。今朝だな。なんていっぱしに言ってみたりして、楽しかったです。
もちろん、もう少し大きな動物の足跡もたくさんありました。
By妻 -
現在は別の別荘が建っていて、写真はとれません。
道、林の感じはこんなものだったでしょう。 -
♪
-
★その山荘の片側は深い谷で、大きな樹木が生い茂り、夜になると夜鷹が飛び交い、なんとも不気味な声で、けたたましく鳴き渡っていった。★(来し方の記P17)
-
♪
-
♪♪
-
♪♪♪
-
一書に曰く、
堀辰雄は、東京は下町育ちでしたから、こんなに人里離れたところが、新しい世界のように思えたのではないですか。
寂しい気持ちより快かったのでしょう。
堀辰雄は、あの浅草寺にほど近いところで育っております。
日本情緒に美を見いだす作家も数ある中で、彼は、欧米に魅力を感じた文学者でした。
ヨーロッパに似ているというだけで、彼には喜びだったのでしょう。
By妻 -
辰雄は谷を降りて、暖炉で燃やす枯れ木を集めました。
多恵子はかなり不安だったようです。新婚家庭の新米主婦です。
「おへっつい」で教えられた通りに御飯を炊いたらうまくいったと母親に手紙を書いています。
御飯など炊いたことはなかったのです。
「山ぼうしの咲く庭で」のインタビューアー堀井正子のコメントで、多恵子はこのとき御飯が炊けなかったことが分かります。(P168)
とん女を出て、子爵令嬢の英語家庭教師とか、外国人向け高級ホテルのレセプションで働いていた人ですからね。
炭を俵で買ったけれど、高いのか安いのか分からない。砂糖、醤油、油などもビクビクしながら買っていた感じ。
自分ながら「なんと頼りない主婦なのだろう」と言っています。
しかし辰雄が元気で手伝いをよくしてくれました。焼きおにぎりなどは辰雄が作りました。ただし焼くときに二つに割れたそうです。
★つるやで貰った大根を油揚げと一っしょに煮たんですが、なかなか柔らかにならないので悲しくなって終にメソメソ。きっと早くお醤油を入れたからなのでしょうね。★(母宛手紙)
以上「来し方の記・軽井沢での新婚生活」より。
一書に曰く、
男はいいよねえ。
堀辰雄は、憧れの軽井沢で、朝からドイツ文学やらフランス文学やら読んで、読書に疲れたら、庭に出て、この空気はドイツみたいとか想像していたのでしょう。
けれど、生きるということは、おなかもすくし、体も汚れるし
だれが料理するのでしょう。だれが洗濯するのでしょう。
ご自分は、ドイツだかフランスだか、欧米に浸っておいででしょうが、女房はたいへん。ご飯を、プープー火吹き竹かなんかでへっついで焚いたりしたんじゃないですかね。
大根の煮た具合が悪いってのが、大学出た女性の悩み。
旦那の方は、う~ん、作者ナントカは、ドイツ文学の中ではいかなる位置を占めるのか、、、とか悩んでるときに。
不公平だよねー。
私は、大学出た女性は大根煮かなくていいと言いたいのではなくて、男だって煮けよ。といいたいのですよ。念のため。
でも堀辰雄さん、さすがというのか。
学識豊かな奥様を、おろそかにはなさらなかったようで、おにぎりなんかつくってる。
ままごとみたい。
新婚だものね。
By妻 -
辰雄は山小屋が自慢で、友人知人、来ないか来ないかと押し売りしています。
その甲斐あってか、千客万来でした。
立原道造、室生犀星一家、萩原朔太郎夫妻と葉子、折口信夫、片山廣子。
川端康成は、「木曽路を回って鎌倉へ帰る」と挨拶に来ました。(「山の家にて・山日記その二」P57、後述)
一書に曰く、
千客万来って、堀辰雄さん、よっぽど嬉しかったんだねえ。
おいでおいで、みんなおいで。
多恵子夫人も外国育ちだから、お客さまは慣れていたでしょうし、みんなでわいわい話すのが楽しかったのでしょう。
心許せる友人、それぞれ豊かな知識と教養あふれる人々との夜は、どんなに楽しくこころに残るものだったことでしょう。
「これだよ、これ。これがしたくて、この山小屋にしたんだよ。」
なんて、堀辰雄はほくそ笑んだでしょうね。
By妻
この夏は雨が多く、片山廣子が来た日も雨でした。「河出書房版『雉子日記』巻末記」によると6月です。(筑摩第4巻P219)
★夫人は雨の日に来られた。暖炉に薪を燃やし、しばしの語らいを楽しんだ。その日、夫人は歌を詠んで下さった。
風まじり雨降る林に杉皮の家ぬれてゐたり君の家なるや
フランスの新聞を細かく裂きて堀辰雄暖炉の火をもす
むすめらしくほそき姿のわかづまは黒き毛糸の上着をきたり★(堀辰雄の周辺・片山廣子P224)
多恵子は3首の歌を書いていますが、片山廣子は、
★昭和13年6月軽井沢愛宕の奥に堀辰雄氏を訪ふ★
として7首を残しました。他の4首は、
★
栗鼠なりしや雨ひかり降る前庭をはしり過ぎたる小さきものは
雨つゆの降りかかりたる木の間くぐり来て君が屋の庭に栗鼠のはしる見たり
そらおほう木の葉に雨のあたるおと樅(もみ)の木肌を流れ落ちる水
大き炉にまる薪の火が燃えおこり全山の樹樹あめの音を立つ
★(片山廣子全歌集P90)
「フランスの新聞」というのがいかにも堀辰雄です。船便ですから、何ヶ月遅れでしょうか。
「樅(もみ)の木肌を流れ落ちる水」の樅って、犀星あて封書(筑摩書簡315)にあった「数本の大きな樅の木」のことですね。「そらおほう」大きさだった。
辰雄は谷から枯れ木を拾ってきましたが「まる薪」というから結構太い薪も持ってきたようです。薪ストーブ仲間で、割らない薪、「ズボ」というやつです。
ここで「黒いセーター」に注目。
多恵子が辰雄に買って貰ったものは「着物が一枚と帯が一本とハンドバッグ、それに黒いセーターだけ」だそうです。堀辰雄の生き方は「身軽に生きよう」だからものを買わない。本以外。(山ぼうしの咲く庭でP174) -
出典:堀辰雄生誕百年
1942年(昭和17年)の掘夫妻です。場所は4番目の別荘1412。ひょっとして、「黒き毛糸の上着」って、これじゃないでしょうか。
4年前に買ってもらってまだ着ているのは、かわいそう。でも、掘一家はとにかく引っ越しに次ぐ引っ越しで、ほんとうに持ち物は少なかったようです。
「むすめらしくほそき姿のわかづま」4年前もこんな感じだったのでしょう。
若い頃の多恵子の写真はほとんどが着物姿で、洋装は珍しい。
晩年、お年を召してからの多恵子の写真は、堀辰雄文学記念館常設展示図録に何枚か載っています。若い頃と比べるとかなりふっくらされています。
写真を並べて見せろ、という声もあるかと思いますが、それは武士の情け。
一書に曰く、
堀辰雄も、あんまり妻にプレゼントしない人だったのですね、人生短かったからね。
わがby夫は、人生長いですが、買ってくれませんね。
オルガンロック登攀記で目立ったブランドバッグは、結婚してすぐに、突然買ってくれました。なんだったんだろう?
以来50年、なし!
あのブランドは、もとは馬具やのものですからね、丈夫で長持ちしております。
旅行の時に重宝しておりますよ。
ジェーン・バーキンじゃないけれど、踏んでも蹴ってもびくともしません。
By妻
堀辰雄は畳が好きだった
▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼
立原道造は2回この別荘を訪れています。
1回目は6月、ちょうど辰雄の父親が倒れて、看病に一時帰京している間でした。このとき青鉛筆、ドイツ語でベランダに落書きをしました。
“Wenn ich ware ein Vogel!”
「もしぼくが小鳥ならば」という意味だそうです。
2回目は夏でした。2回とも最後の恋人、水戸部アサイと一緒でした。(木の十字架)
「物語の女-モデルたちの歩いた道」山本茂(講談社/1979年/昭和54年)には毎日新聞記者山本茂による、晩年の水戸部アサイへのインタビューがのっています。
★短かきに過ぎし愛の日々、水戸部アサイ―立原道造「優しき歌」★
アサイは1995年(平成7年)76才で亡くなっているそうで、インタビュー時60才くらいです。
1回目のとき、ホテルから鍵を借りて中に入っています。
すると、2階の辰雄の書斎に畳が2畳ほど敷いてあり、道造は「ああ、やっぱり堀さんも畳がないとダメなのかなあ」と言いました。
昼寝でもしていたのですかね。ロッキングチェアーでギコギコやっていた、というなら堀辰雄のイメージ。畳で大の字で昼寝、というのは、意外や意外。道造でなくてもびっくりします。
でもこのエピソード、堀辰雄への親近感がぐっと増しました。
アサイはインタビュー時、2度目の結婚で自分の子2人を含め6人の子の母でした。男の子は母の秘められたロマンスを探り出し、日記に「びっくりした」と書いたそうです。
そりゃそうですね、自分の母が立原道造の恋人だった!!!
しかし夫も子供たちもそれに触れることなく、アサイは幸せな晩年を過ごしたそうです。 -
多恵子の主婦稼業の先生は室生犀星夫人、とみ子でした。
「キャベツの芯は捨てずにぬか漬けにするように」から始まり、
★魚は一匹で買い、自分で三枚におろし、半身はサシミにして辰ちゃんに、あとの半身は煮るか焼くかして辰ちゃんに、骨やあらはすまし汁にして辰ちゃんにという仰せだった。★(堀辰雄の周辺・室生犀星P15)
これ、完全に姑モードに入っています。
多恵子は何を食べるのか。
もし辰雄が息子で、嫁さんに言ったら、えらいことになります。昭和13年だからいいのかなあ、現代なら嫁さん荷物まとめて実家に帰っちゃうでしょう。
★それほど犀星夫妻は辰雄のことを思っておられた。室生犀星は師ではあるが、むしろ父親のような気持ちを持って接してくださったと私はおもっている。★ -
ここでの生活を書いた随筆が「山の家にて」(1938年/昭和13年、筑摩第3巻)
暖炉がありました。夏でも焚いていたようです。裏の谷から自分で拾ってきた小枝を燃していた。
わが家の暖房は薪ストーブでした。この手の話にはちーと詳しいのですが、薪ストーブ以前の古い暖炉だと、直径10cm長さ35cmくらいの薪で1晩10本は必要です。小枝程度では相当寒かったでしょうね。
なお、現在の効率のいい鋳物の薪ストーブは、1970年代の石油危機のあと造られたものです。薪ストーブは、火を長持ちさせる、なるべく薪を燃やさないように工夫されています。
★九月三日
ゆうべ二時頃、杉皮ばかりの天井裏で、なにかごそごそ物音がするので、思はず目を覚ました。★(山の家にて・山日記その一、P52)
なんだと思います?
堀辰雄はヘビが大嫌いでした。
散歩の途中で子供たちが蛇、蛇と騒いでいたので帰ってきたり(筑摩書簡375)
油屋の主人が追分には蛇がいないと言ったのに、いた。俺を騙したと本気で怒ったり(来し方の記P86)
恩地孝四郎宅の写真集を見ていたら蛇が出てきた。「忽ち蒼然として巻を閉じた。蛇ぎらいの掘さんだったのにうっかりした。あとで夫人にきいたのだが、帰来熱が出たとのこと。」(恩地孝四郎「白い手紙」筑摩別巻2P237)
天井裏で蛇が脱皮したのです!
書斎の天井裏には首のほうの抜け殻が残っているので、辰雄は書斎を一時的に広間に移したのでした。
抜け殻を引っ張って半分にしたのは多恵子。彼女は蛇が恐くないらしい。
一書に曰く、
冬の軽井沢は、蛇嫌いの人には最適です。
だって、あんなに草木が茂っているのですから。、普段はきっといます。
私どもも、あちらこちら旅しましたが、「マムシ注意」の看板は、どこにもありました。
あいつ、いえいえ、おにょろさまは、日本全国いづこにもおいであそばしますよ。
いますよね。きっと。
蛇が平気という人は、結構います。
by夫の母親、私の姑さんが、蛇が平気でした。
結婚してしばらくしたある年、ふと、私に言ったのです。
「ガレージの屋根裏にね。蛇がいるのよ。もう、ずっと住んでるの。」って。
「嫌よねえ。」って、全然嫌そうでもなくいいましたよ。
ガレージに近づかなくなった私をみて、
「あら、言わなきゃよかった?」だって。
多恵子夫人は勇敢だったのねえ。
By妻 -
裏に大きな栗の木がありました。多恵子は木に登って枝を揺すぶりました。すると栗の実が落ちてきます。それを拾うのが辰雄。(山日記その2、筑摩第3巻P57)
普通こういう場面では夫が木に登るのですが、堀家では逆。
後年戦争が激しくなって、防空演習で屋根に登るのは多恵子でした。
信濃追分の家でネズミが出たとき、天井裏に登ってネズミ退治したのも多恵子。
辰雄の健康がそれを許さなかったのは事実ですが、どうも多恵子は高い所に登るのが好きだったみたいです。
身軽な人だったのですね。おてんば、ともいいます。
栗の実のときは、辰雄もはしゃぎすぎて1週間寝込みました。
拾いすぎた栗は川端康成にあげたそうです。
この1週間が大変なことになりました。予定していた仕事ができなくなり、あてにしていた原稿料が入らなくなったのです。そのお金で軽井沢を引き上げる予定だったのです。さあ、大変。
そのとき川端康成が200円を貸してくれたのでした。
後日返しに行ったら、康成は忘れていたそうです。(葉鶏頭P191)
辰雄はお金の計算がアバウトな人でした。この話だと、多恵子もいい勝負です。 -
この山小屋を舞台にした作品にもう一つ「巣立ち」(1939年/昭和14年、筑摩第2巻P221)があります。分類では小説です。多恵子をモデルにした数少ない作品の一つです。
フィクションではありますが、主人公ともいうべき小鳥、アカハラは随筆「山の家にて」にも出てきます。ある程度堀夫妻の山小屋生活を反映させたものでしょう。
堀が、新婚早々の多恵子をどう見ていたか、感じとれる作品です。病弱な夫に寄り添い、しかし好奇心旺盛な新妻です。無愛想な靴屋にムカッとしたり、ちょっと喧嘩ぱやかったらしい。
別荘835を借りたのは「彼」が気に入ったから。「自分の方の都合は譲歩して」と「彼女」に言わせています。(P228)
まあ、寂しい山の中ですからね、多恵子があまり気が進まなかったのは、辰雄も知っていたということです。
長雨で家に閉じ込められると、
★子供の頃聞き慣れた支那語の唄がとぎれとぎれになって聞こえてくるなどと女房が不意に言い出したりするので・・・★(山の家にて・雨後、筑摩第3巻P50)
神経衰弱だと辰雄も言っております。
多恵子は10才まで香港で育ちました。子守さんは中国人でした。
秋になり友人も軽井沢を離れ、堀も「かげろうの日記」に集中し出すと、多恵子はすることがなくなりました。
そのとき二人で「ユウジニイ・ド・ゲランの日記」を翻訳しました。多恵子が英語版から下訳をし、辰雄がフランス語原書を読んで手をいれました。
英語版は辰雄が芥川竜之介の蔵書から借り、フランス語原書は河盛好藏が貸してくれました。このとき堀は河盛とまだ面識がありませんでした。(堀辰雄の周辺・河盛好藏P203、「ユウジニイ・ド・ゲラン日記ノオトII」筑摩第4巻P192)
この仕事は「文体」という雑誌に連載されました。
この翻訳は1942年(昭和17年)に出版される企画がありましたが、実現しませんでした。後述します。
多恵子は「私に勉強を続けさせようと意図だった」と言っております。(返事の来ない手紙P22)
当時卒業生年30人という、東京女子大英文科卒の多恵子の能力を無駄にさせたくない、ということでしょう。
多恵子のノイローゼ対策という一面もあったのではないかと思います。
夫婦で支え合う、壺坂霊験記のようなお話です。
まことに古くて、通じるかな。
一書に曰く、
多恵子夫人は、大根も煮れば、英語も翻訳する。
栗の木にも登るんですよ。
なんだか令和の、テニスラケット抱えた、英文学科の女子大生みたいです。
あ、令和の女子大生は、大根は煮ないわ。
この時の二人はイキイキして、希望にあふれて、いじらしいほど幸福に輝いていました。
By妻
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この旅行記へのコメント (7)
-
- 前日光さん 2023/09/08 14:41:01
- 黒いセーター
- 多恵子さんは木登りも平気だったようですね!
それに天井裏で蛇が脱皮しても、おそらくは辰雄ほどは慌てず騒がずだったことでしょう。
夫婦のどちらかが苦手なものがあれば、その場合は、片方が必要に迫られてその対処に当たらなければなりませんよね?
そうして多恵子さんは、逞しくなっていったのでしょうか?
辰雄は、本以外はものをもたなかったようで、妻に対しても贈り物などはしなかったのですね?
でも西洋への憧れがあったなら、西洋人はよくお互いに贈り物をしあったりするというイメージが、私にはあるのですが。
そこのところは、西洋風ではなかったようですね。
お嬢様育ちの多恵子さんが、大根の煮物をする姿を想像して、さぞ大変だったろうなと
思います。
それまでの華々しいキャリアを捨てても尽くす価値が、辰雄にはあったのでしょうか?
あの腺病質風の外見は私も好みですが、栗の実を取るために木に登ったり、防空演習で屋根に登ったり、ネズミ退治のために天井裏に登ったりと。。。多恵子さんは普通に考えると大変だったろうなと。。。
黒いセーターを着た多恵子さんは、痩せていらっしゃいますね。
黒いセーターは、お気に入りだったのかもしれませんよ。
お嬢様育ちの多恵子さんが、病気で寝込む辰雄のために、いろいろと工夫をして看病に当たっていたということは、いくつかの旅行記でお見かけしましたが、彼女は辰雄と暮らすことで、ずいぶん成長したのだろうなと思います。
ま、片方が病弱な場合、もう一方が頑張らざるをえないのですが、それにしても酷寒の軽井沢で、それも戦争中によく乗り切ったものだと感心してしまいます。
犀星夫人の、姑としか思えないアドバイスも素直に受け入れ。。。多恵子さんはよくやりましたよね?
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/09/10 17:50:50
- Re: 黒いセーター
- 堀多恵子という人は、一言で言うと、おてんば、ノル人だったみたいです。花笠音頭を踊ったり、高い所に登るのが好きだとか。戦争中、なんと警官に2度も喧嘩を売っています。
明るい人だったらしい。それが神西清などの友人、犀星、康成などに好かれたんでしょうね。辰雄死後、みんなでよってたかってその後の多恵子がやっていけるように助けています。自分の本の収入もありましたが、堀の作品の全集が5回も出ているし、文庫本は今に至るまで売れています。現記念館に、今は常設展示館になっている白い家を建てたり、その後追分駅の近くに別の家を建てたり、お金に困った形跡はありません。
黒いセーターの多恵子さん、すっきりしています。27,8のはずです。当時としては背の高い人だったそうですが、そんなふうに見えます。最初の恋人で「聖家族」のモデル片山総子、「風立ちぬ」の矢野綾子も大柄だったらしい。たっちゃんの好みですね。
黒いセーターは片山広子にほめられたし、お気に入りだったかも。
この写真の後、水戸部アサイのエピソード追加しました。
大根の煮物に泣きベソかくなど、母親にいろいろ愚痴っています。その手紙を静さんはぜ全部とってあったのです。いま、どこにあるのだろう。養女さんがもっているかも。出版してくれないかな。
-
- 前日光さん 2023/09/08 14:05:08
- 線状降水帯が、大網白里付近にあるようですが。。。
- こんにちは、しにあさん&by妻さん
この旅行記へのコメントの前に、まず台風の影響は如何に?と思っております。
猛暑が一時的に収まっていますが、今度は台風、と最近の日本列島は油断も隙もありませんね。
まずは、何事もなく台風が通過することを願うばかりです(お互いに)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/09/08 16:26:40
- Re: 線状降水帯が、大網白里付近にあるようですが。。。
- お見舞いありがとうございます。
雨終わりました。我が家に影響はありませんが、図書館に頼んだ本が着いたので取りに行こうとしたら、あちこち道路が冠水しているから、明日にしたほうがいい。
すごい雨ではありました。
-
- kummingさん 2023/09/06 18:48:12
- ♪ と ♪♪ と ♪♪♪
- いつまでも残暑が続きますが、新居で迎えられた初めての夏はいかがお過ごしでしたでしょうか?
堀辰雄氏は、こういう枯木立と落ち葉だけの裏寂しい冬景色、を見てヨーロッパを想っていた?という事ですか、それと同じ景色を前にしにあさんの心持ちが ♪ ♪♪ ♪♪♪ 以心伝心⁉︎
by妻さん解説のジブリが「風立ちぬ」を作ったから、そのお返しで~、のくだり、意味がわかりませんm(._.)m ダジャレなんですか?
好きな作家の軌跡を追うby夫を評してのby妻さん曰く「もはや旅ブログ、学士論文の枠を超えた」熱意→執念とさえ思えるほど。好きな作家の生い立ちとか交友関係を読み漁る事はありますが、住んでいた処や所縁の地を訪ねた事はありません。あ、ミュージシャンの元住まい、には行った事あり。
生活感のない2人のおままごとのような新婚生活、結婚後も霞を食べて生きる文学者たる夫、と、お嬢さま育ちでインテリの妻。生活のベースを妻が担うことになったみたいですが、そういう夫婦間の役割分担って、いつ決まるんでしょうね。
最近、夫の定年後、夫婦で過ごす時間が激増した友人たちにしろ、我が家にしろ、夫婦には色んな形態があるんだな~、と、そこそこでの居心地の良い関係に落ち着いているように思えます。
4tr内でも、「1人旅派」の認知度が高まってるみたい(Q&Aで一人旅擁護論がいっぱい)ですが、私は、放っておかれるのが居心地が良い♪タイプなので、気ままが1番優先されます。しにあさん宅のように、嗜好が似ていて食卓でも盛り上がる!というような、誰かと共有する楽しさ、を知らないので、1人遊び→1人で楽しむ、で満足してます。
あれ、何の話をしていたんだ?
私も蛇は苦手、散歩道に太いロープが落ちていて、遠目にソレが動くのが見えた(°_°)以来、その道を通ったことはありません。
着物一枚、帯一本、バッグと黒いセーターだけしか買ってもらえなかった多恵子夫人、私も結婚◯年記念に買ってもらったピアノだけ、しかも中古(-。-; だったので、こんなんだったら、実家のピアノ運べば良かった!(←思っただけで口にせず)
堀辰雄夫妻のお話→我が身の来し方を思い出してしまいまして、脈絡ないコメントでm(._.)m
壺坂霊験記って⁇
- しにあの旅人さん からの返信 2023/09/06 20:47:45
- Re: ♪ と ♪♪ と ♪♪♪
- 壺坂霊験記。
「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ~」の冒頭名調子で知られる浪曲の名作。盲目の沢市と妻お里の物語です。そのあと「ころは6月なかのころ、夏とはいえど堅い仲・・・」と続いたとおもいます。堀夫妻にぴったり。
そーか、kummingさんでも通じないのか。
今を去ること55年前、某大企業に就職した私メは、事業部長に同期3人と赤坂の料亭にお招き頂きました。料亭なるものに脚を踏み入れたのは生涯これが最初で最後。
高度成長の末期、大企業といえども学校出を確保するのがむずかしかった時代です。精一杯の歓迎のあらわれでありました。
そこで部長がうなったのは、広沢虎造のナントカというナニワブシ、そのときの愕然とした思い、今でも覚えています。
当時、ビートルズさえ「軽薄な」と蔑み、ジョルジュ・ブラッサンス、ジュリエット・グレコ、ダミア、アマリア・ロドリゲスなどを背伸びして、必死に口ずさんでいた私ですよ。
それから幾星霜、忘れ去られる浪曲の立場に自分が立つとは、感慨無量であります。
「風立ちぬ」と「借りぐらしなんちゃら」気にしないでください。単なるノリです。
「あ、ミュージシャンの元住まい、には行った事あり。」まったく同じです。聖地巡礼です。時を超えて、追っかける人物に肉薄する、これぞ縦の旅の醍醐味です。これがなくて、なんぞ旅ぞ!
入場料かかりません。
ヘビは、野の道を歩くとき、By妻の先を監視し、ヘビをみつけると生死に関わらず「右を見ない。道路左直進」と警告を発します。じゃないと、警察が来るくらいの悲鳴を上げます。うるわしい夫婦愛です。
と言うわけで、我が家では2人旅が必須です。
なにやら文章の論理的接続が不明瞭ですが、とにかくそういうわけです。
- しにあの旅人さん からの返信 2023/09/10 18:14:27
- Re: ♪ と ♪♪ と ♪♪♪
- 立原道造最後の恋人、水戸部アサイのエピソード追加しました。この人は最後長崎で幸せな人生を終えたそうです。
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