2023/02/03 - 2023/02/04
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しにあの旅人さん
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軽井沢別荘暮らしの続きです。
1941年(昭和16年)には別荘1412を買いました。
この家は2008年(平成20年)に軽井沢塩沢の軽井沢高原文庫に移築され、公開されています。堀辰雄ムードあふれるロマンティックな山荘。ただし、寒かったでしょうね。掘夫妻も冬は住んでおりません。
基本参考資料は「堀辰雄紀行 軽井沢1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
引用は原則として★ ★で挟みます。
投稿日:2023/10/17
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
まずどこにあったか。
ハウス・ゾンネンシャインというドイツ人経営のホテルの近くであることは分かっています。グーグルマップにも「ハウス・ゾンネンシャイン跡」としてのっています。
だいたいこんな感じです。 -
例によってなにも残っていないので、だいたいこんなところ、と思って下さい。
目印は旧軽銀座の観光会館と室生犀星記念館。
「堀辰雄の道(フーガの道)」と書いてあります。だれがつけた名前か知りませんが、このあたりは「美しい村」や「雉子日記」に出てきますので、それをイメージしたものでありましょう。 -
近くに矢ヶ崎川にそって「サナトリウムレーン」というのもあります。これも「美しい村」由来です。
旧軽銀座から徒歩1kmくらい離れていますので、観光シーズンでも静かないい散歩道です。 -
堀辰雄文学記念館常設展示図録より。
掘夫妻が買った当時の別荘1412です。周囲の森は現在よりはるかに疎らです。背後に丘が見えますが、現在はまるっきり森に埋没しています。
300坪の芝生の庭のある家でした。芝生は日当たりの良い庭でないと育ちません。現在のような鬱蒼とした木立に覆われ、苔が敷きつめられた庭ではなかったのです。
軽井沢でも信濃追分でも、森は現在より明るく、もっとからっとしていたと思われます。
この家はアメリカ人が所有していました。帰国することになったので、川端康成を通じて、買わないかと話がありました。3000円と康成への手紙にあります。康成の紹介で創元社に借金を申し込みました。(筑摩書簡412、413)
この借金申し込みはうまくいきませんでした。最終的には多恵子が母から受け継いだ遺産で支払いました。母静は前年12月7日に他界しておりました。
それでも450円不足、川端康成が貸してくれました。家は辰雄が多恵子名義で登記しました。
以上「山ぼうしの咲く庭で」P171、「来し方の記」P37より。
多恵子によれば、家のお値段は3500円です。多恵子の手記の方が、話がもちこまれたいきさつなどが詳しく、おそらく3500円でしょう。単純計算で現在の1400万円くらいだそうです。
★サナトリウムの奥の方の、ぼろ屋だが芝生の庭だけちょっと綺麗なのが取り柄だ。★
(筑摩書簡425)
と神西清あての手紙に書いてるくらいで、ぼろ屋ではあったみたい。
7月には別荘暮らしを始めました。「借りぐらしの堀辰雄」はお終いです。この年は9月末まで滞軽。最初のお客は神西清一家でありました。(同431,440) -
高原文庫の別荘1412です。
掘夫妻は、冬は杉並の多恵子の実家に住み、この別荘には、信濃追分の油屋隣の家に疎開する1944年(昭和19年)9月まで、4年続けて初夏から秋をすごしました。
多恵子によると結婚後15年間で10軒の家に暮らしましたが、この4年間はおとなしく2軒の家に住みました。両方とも持ち家でしたから、引っ越しなし。
引っ越し名人を自任する多恵子も、名人芸を発揮する必要がありませんでした。
この時期堀辰雄は健康にも恵まれ、「菜穗子」「更級日記」「曠野」「大和路」「信濃路」「ふるさとびと」など、代表作を発表しました。
信濃追分移住後、人に貸していましたが、荒れてしまいました。辰雄没後、画家の深沢省三・紅子夫妻が借り、手を入れ、別荘として住んでいました。大切に使っていましたが、崩壊寸前の状態になり、多恵子が土地を売却したとき、建物だけ軽井沢高原文庫に寄付し、移築されました。
以上「山麓の四季・私たちの家・家」より。
これが現在高原文庫の裏に公開されている、かつての1412です。 -
軽井沢高原文庫
▲▼▲▼▲▼▲
2022年10月、行ってきました。高原文庫本館です。軽井沢由来の文学資料などを展示する特設展示会場です。軽井沢高原文庫、開館要確認、駐車場問題なし。 by しにあの旅人さん軽井沢高原文庫 美術館・博物館
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「展示入れ替えのため休館」だって。ホームページには書いてなかった。
ピンポンしたら、担当者が出て来られて、移築別荘3軒は見学できるとのこと。 -
野上弥生子別荘書斎。
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鬼女山房というのだそうです。
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私がニタニヤしながら写真をとっていたら、By妻がくるっと振り向いて「鬼女が鬼女見ていると思っているんでしょう?」
どうして分かるんだろう。 -
有島武郎別荘浄月庵。
軽井沢三笠から1989年(平成元年)移築。
1923年(大正12年)武郎が雑誌記者波多野秋子と心中した別荘です。 -
立原道造詩碑「のちのおもひに」より。
-
中村真一郎詩碑
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透明アクリル板の向こうにクマザサ、表面に建物が写っています。
「夏の樹」全文。 -
本題に戻ります。別荘1412。
日当たりが悪く、芝生の庭の再現は無理でしょう。
雰囲気はでています。 -
この別荘は、前から辰雄が欲しがっていた山小屋でした。
-
1412の展示写真より。
★その庭の真ん中にアカシアの大木があり、その下に丸木造りのベンチがあった。★
ひょっとして、これ?
パリの地下鉄ホームには、こんなふうな寄りかかるだけのベンチもどきがあります。なんでそんなものがここにあるのだろう。 -
★家は外が杉皮で★
-
★内側がアンペラという家だ★
(以上3引用「来し方の記」P36)
アンペラというのはゴザの一種だと思いますが、現在は一部は板張りです。 -
奥の壁がアンペラなのかもしれません。ゴザのようなものを貼って、木枠で押さえてある。
いずれにしても壁は薄く、冬は住めなかったでしょう。
最初の別荘835を堀辰雄はスイスの山小屋のようだと言っております。1412もおそらく同じ理由で好きなのでしょうが、彼は山小屋の現物を知りません。
山小屋ではありませんが、私たちがパリ郊外で住んでいた家は外壁の厚さが40cmありました。現代のコンクリートブロックではない、1930年代に建てられた石積みの古い家です。ヨーロッパの冬はこのくらいの壁の厚さがないと暮らせません。 -
天井がありません。屋根裏直接です。これは寒かったですよ。
マイナス15度になる軽井沢の冬は、この家では過ごせるはずがありません。
掘夫妻は、冬は杉並に戻っておりました。納得です。 -
暖炉がありました。燃やした跡があります。
-
秋も遅くまでここにいたようですから、おおいに役にたったでありましょう。よく燃えた暖炉だったそうです。(高原の四季P169)
-
土管をつなげた煙突らしい。
屋根を抜く部分、これはおそらくオリジナルではないでしょう。これだと長い間には熱が周囲の木材に伝わって、低温炭化現象というのがおこります。木がじわじわと炭になって、ある日突然燃え出すのです。平たい石に煙突の径に穴を開けた、眼鏡石というのを屋根に取り付けていたはずです。 -
「え、まじ! ここまで再現しているのか!」
By妻を呼びます。
「例のはしごがあるよ」 -
★あそこの家、屋根裏があって、まっすぐなはしごが掛かっているんです。取りはずせるはしごですけどね。そのはしごの真ん中に私が登って、下に旦那がいて渡してくれて、布団を上にあげたんです。★
(山ぼうしの咲く庭でP159)
「うっそー!はしごまでもってきたんだ。この家の復元、信用できるわね」By妻。
私もBy妻もこのエピソードが非常に印象的だったのです。
普通ならダンナがはしごに登って、女房が下からおずおずと差し出す荷物を放り上げる。ところが、逆。
堀家はこのように、多恵子が全部がんばって、所帯を切り回していたのです。
もっとも、彼女は高い所に登るのが好きだったようです。モンペをはいて防火演習で屋根に登るとか、栗の木に登って実を落とすとか。 -
1942年(昭和17年)に大工を入れて作った本棚が左みたい。辰雄が硝子戸のある本棚がほしかったそうです。本棚と言うより家の一部を改造したようです。
5月から2ヵ月もかかっているので、右のタンスも一緒に作ったのではないか。(来し方の記P101、筑摩第8巻497、502) -
展示ケースの向こうに一応全景。本棚は予習不足で、気がつきませんでした。もうちょっとまともな写真をとっておけばよかった。
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この別荘で一番素敵なのは、ベランダ。
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掘夫妻も、きっとこれが気に入ったのでしょう。
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ぐるっと一周しました。
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ほぼ同じ角度です。
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「堀辰雄生誕百年」に載っていた写真です。1942年(昭和17年)ごろだそうです。
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籐椅子も同じ。
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高原文庫は何から何まで、ここに移築したのですね。感謝です。
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1942年(昭和17年)のことのようです。
★ある朝、私が起き抜けにヴェランダの戸を開けますと、いつも其所に出しっ放しにしてある主人愛用の寝椅子に知らない人が気持ちよさそうに寝ているので私はびっくりしました。★
(来し方の記P103)
京都の臼井書房の主人臼井でした。朝早く軽井沢駅からここにたどり着いたときは、家の中が静まりかえっていたので、寝椅子で休んでいるうちに寝てしまったのでした。
知らない出版社が堀辰雄の本を是非だしたいと、いきなり訪ねてくることもあったようです。
1938年(昭和13年)の夏、多恵子と二人で翻訳したユゼニイ・ド・ゲランの日記を出させることにしました。
なにかの用で一時帰京中の多恵子にあてた封書です。句点なしは原文ママ。
多恵子は秘書さんも兼ねていたのです。
★京都の臼井書房から僕の本の製本見本を送ってよこした まだ出すとも何んともいってゐないのに気の早い奴だ 小説はことわる その代わりユゼニイ・ド・ゲランの日記でよければ出してやろうかと考えてゐる (中略)印税は半分おまえにやるよ 百枚くらいという注文だから、いままで訳した文だけで丁度よかろう (もってきてもらう資料の細かいリストがあって) 以上たいへん面倒だらうが取揃えてくれ(印税は山分けだからな)★
(筑摩書簡502)
しかし、熱心な本屋だったのに、この本は出版されませんでした。戦争のせいですね。幻の堀辰雄・多恵子共著です。多恵子さん印税半分もらいそこねた。 -
信濃追分に移った後もこの家を物置に使っていたようです。
「玄関の横っちょの小さい窓」というからこれでしょうね。
1945年(昭和20年)まだ戦争中、多恵子が1412にものを取りに行ったとき、鍵を忘れて、この窓から入って中からものを出していた。鍵がかかっていてもあくのだそうです。そこをお巡りさんに見つかりました。
★そのころのお巡りさんは怖いんですよ。自分の家だって言っても聞きゃあしない。★
多恵子さんはかなり喧嘩ぱやい人で、しかもお巡りさんがだいきらい。「自分の家なのになんか文句あるの!」くらい言って、お巡りさんにくってかかったんじゃないかと。このころ30才、大柄でしたから迫力あったでしょう。
この場合ややお巡りさんに分があるようです。空き家の窓から人が出入りしていたら、疑うのも無理はない。
結局無罪放免にはなったようです。
(以上「山ぼうしの咲く庭で」P163)
どうやってもぐりこんだのだろう。頭から入って、お尻をベランダに出してもぞもぞしている多恵子さんを想像してみてください。 -
高原文庫1412展示写真より。
左から中村真一郎、森達郎、ひとりおいて堀辰雄、中里恒子、掘多恵子、野村澄子、吉川夏苗。
別荘の庭で、七輪ですき焼きを食べているの図。1941年(昭和16年)ごろ。
ここにはいろいろな人達が来て、多恵子はてんてこ舞いだったそうです。
志賀直哉、室生犀星、川端康成、大家は近くに別荘をもっていたので、散歩の途中に寄りました。
若い連中では、野村英夫、森達郎、中村真一郎、福永武彦、中里恒子など。
森達郎の父が近くにもっていた別荘は「ベア・ハウス(熊の家)」とよばれ、悪童どもが泊まり込み、定員オーバーだと1412に来ていました。逆もまたあり。
このころまでに多恵子の料理の腕はあがり、カボチャの肉詰め、鶏の丸焼きなどが得意でした。福永武彦が大好きで、うまい、うまいと汗をふきふき食べていました。(堀辰雄の周辺・福永武彦P168)
数年前、ご飯もろくに炊けず、大根の煮物が柔らかくならず泣きべそをかいていた頃とは大違いです。
おから饅頭のレシピ
▲▼▲▼▲▼▲▼▲
食べ物の話のついで。
堀辰雄紀行6で出てきた多恵子のおから饅頭、レシピが分かりました。
ずっとあと、戦中戦後の食べ物のない時代の話です。
★ぶらりと現れる中村(真一郎)さんは、陽の当たる縁に腰を下ろして辰雄と話をし、私の作った「おからとねぎを油でいためたものを芯にした」あわれなおまんじゅうを食べて帰って行くこともあった。★
(堀辰雄の周辺・中村P161、「 」は筆者)
室生犀星一家とのつきあいは続いておりました。
堀辰雄の手紙には朝子に替わって朝巳がよく登場します。朝巳は1926年うまれですから、このころ15くらい。辰雄の別荘に入り浸っていたようです。弟みたい。
★きのふ朝巳は自分の家に引き上げた。ゐればうるさいし、ゐなければさびしい。★(東京に用事で戻った多恵子あて筑摩書簡502)
★また朝巳がきてゐるので賑やかだ★(同506)
★朝巳が毎朝魚徳から魚を買ってきてくれる。朝子は29日くる。★(同508)
自転車
▲▼▲
当時の軽井沢では、みなさん自転車に乗ったようです。
私たちを悩ましたあの狭い小径、車がまだ普及していなかった時代、自転車を念頭に道幅を決めたのでしょう。
引っ越してすぐ、たぶん6月、多恵子が自転車から落ちて泥まみれになりました。頭も打ったみたい。(佐藤恒子あて筑摩書簡430)
1412で自転車の話題初出です。
川端康成も自転車に乗りました。小柄な人でした。
堀辰雄がどこかで、子供用の自転車だと言ったので、それが通説になったそうです。
しかし川端夫人によれば、婦人用だそうです。(堀辰雄の周辺・川端康成P45)
なお室生犀星は自転車に乗れなかったらしい。
川端夫妻、堀夫妻は自転車を連ねて遠出をしたそうです。
探鳥会にも行きました。案内はなんと、中西悟堂。日本野鳥の会会長です。当時35才くらい。贅沢な探鳥会です。
福永武彦が堀家に出入りするようになったのは1415の別荘の頃です。連れてきたのは中村真一郎。
二人そろって多恵子の自転車で練習を始めました。
ぶきっちょな中村が猛練習のカイあり先に乗れるようになり、福永は諦めました。
★そのとき一番ひどい目に逢ったのは、僕の妻の自転車だったらう。二人のおかげで、すっかりハンドルが曲がり、ペダルが踏みにくくなってしまったと言って、こぼしてゐた。(まあ、けちなことはいふな。)★
(“Ein Zwei Drei” 1944年(昭和19年)筑摩第4巻P154)
後年戦中戦後、多恵子は自転車で、信濃追分から軽井沢の犀星宅まで、何度も往復しています。同じ自転車じゃないよね~~~
行きはほぼ下りですが、帰りはとくに沓掛(現在の中軽井沢)からはずっと登りです。ハンドルが曲がった自転車ではしんどい。
(堀辰雄の周辺・福永武彦P169)
1941年(昭和16年)、42年ごろではないでしょうか。
堀辰雄の気力、体力がもっとも充実していたころです。
1944年(昭和19年)6月から8月が最後の1412暮らしでした。
戦争が激しくなり、堀夫妻はこの年2月に見つけておいた信濃追分油屋隣の家に疎開しました。
8月31日付の野村英夫当てのはがきは1412より。次の川端康成あての絵はがき9月9日付は信濃追分発。
このあと堀夫妻は東京に戻ることも、軽井沢1412に戻ることもありませんでした。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2023/10/21 17:54:22
- 本当に同じ角度ですね!(^^)!
- しにあさん&by妻さん、こんばんは。
籐椅子でくつろぐ辰雄と黒いセーターの多恵子さん、昭和17年も今も変わらないですね!
こういうことを発見すると、うれしくなりますね!
それが何か?という種類の方々には、理解できないことでしょうが、私などはそういうことを発見するとワクワクします。
「聖地巡礼」などと言って、今どきの若い人だってアニメの聖地に通い詰めだったりしますよね。
文学に関する場所を訪れて喜んでいる私だって、やってることは「聖地巡礼」で、アニメオタクさんと一緒です。
「鬼女山房」とby妻さんの後ろ姿、そのコメントには爆笑しました( *´艸`)
昭和20年、多恵子さんが山荘の小さな小窓から自宅山房に入り込んだエピソード、笑えますね!
<どうやってもぐりこんだのだろう。頭から入って、お尻をベランダに出してもぞもぞしている多恵子さんを想像してみてください。
→想像しました(>_<)
多恵子のプチ冒険ですね!
でも木登りしたり、布団を屋根裏に上げたり。。。多恵子さんの行動力について前の旅行記で拝読していますので、あまり驚きません。
多恵子さんは自転車も乗りこなす近代女性、福永武彦氏はちょっと情けないですが、作風を考えれば頷けますね。
軽井沢と自転車は、歴史が深いのですね!
まさに「辰っちゃんたちの幸せな夏」でしたねぇ(*^^*)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/10/22 07:10:43
- Re: 本当に同じ角度ですね!(^^)!
- 多恵子さんは自転車を乗りこなしました。
実は自動車も運転したのですよ。年代はずーとあとです。
免許を取ったのは辰男死後10年以上、お年は50代。中古を4台乗って、最後はワーゲンの新車でした。
運転は好きでしたが、うまくはなかったみたい。高崎あたりのディーラーから信濃追分への回送では、親戚の若い男の子に運転してもらっています。
メカオンチ。新車のエンジンがかからなくて、ディーラーに相談したら、課長さんと整備士が見にきました。課長さんがキイを回したら一発でかかった。多分極めて初歩的な操作ミスですね。
理由は説明されてもわからなかったようです。
しかしこの課長さん、多分堀辰雄のファンで、堀夫人からの依頼というので、必要もないのについてきたのではないかなあ。普通、整備士一人で十分です。
このエピソード、どっかで使おうと思ったのですが、使い場所がなくオクラ入りです。
ベランダ、やはり同じ角度ですよね。
こうまで巡礼の現場が特定できるのは珍しい。
堀辰雄オタクの醍醐味で、やったあ~~という感じ。
多恵子は晩年、貨客船に乗って、何ヶ月もかけて世界一周もしています。甲板でリュートの練習をしていたとか。
ヨーロッパ旅行もしていて、夫がいけなかったリルケのお墓参りなどもしている。
結局堀辰雄は、多恵子と一体では思うこと全部やったということです。
写真はありませんが「多恵子のその後」などというのはブログになりますかね。また4とら事務局から怒られるかな。堀多恵子の伝記は書いてみたいと思いますが。
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