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《2023.September》あみんちゅぶらり北陸を歩く旅そのI福井小浜~多田寺の風鈴と街歩き前編~<br /><br />早いものでもう9月を迎えた。例年ならば秋の到来を感じさせるような日もあるはずだが、猛暑は留まることなく続いている。昨年から始めた夏=風鈴巡りのテーマの旅だが、昨年は期間延長も行われたイベントも少なくはなく、単発の休みに思い立ったように出発する旅でもそれなりに実績を挙げることができたように記憶している。しかし実際にはともかくコロナ禍が一段落したということから本来のイベント期間で十分な集客を得られたという解釈からだろうか?予定通り8月末日で終了したというイベントが増えたように思う。<br /><br />近場は今年も再訪が叶ったのだが、昨年は知った時期が遅く訪問出来なかった場所への訪問は、上手い具合に連休が当て込めずにズルズルと月日が過ぎて行った結果、令和5年度も終了したと記されているものも少なくなかった。結果として日帰りで行くことが出来る場所をリストアップするが、拝観停止日に被ったりとなかなか上手く行かない。前回訪れた三重県の金井神社もそのひとつである。<br /><br />今日の休みを利用するものも隣接県で考えた。びわ湖箱館山・小浜多田寺・福井朝倉遺跡が候補に上がる。このうち9月20日頃迄と期間が記されていた多田寺が最優先だと考え、行先を決める。昨晩さっさと寝てれば朝もなんとかなったのであるが、起きたのは10時過ぎ。それでも準備をそそくさと済ませ出発することにした。<br /><br />我が街大津から小浜へは80km程の距離で遠くはない。しかし大回りをして倍近い距離を走る高速利用も所要時間は大きく変わらず利用する価値もない。ひたすら一般道を進むルートとなるが、初めての道ではないため安心といえば安心だ。結局昼を過ぎてからの出発となり、いつも通り自宅を出発後に近くのローソンに立ち寄ってひと息つきながらナビを設定して出発する。<br /><br />いつもバスで利用する通勤路から湖岸へと出た後に、西大津バイパス・湖西道路を経て真野ランプで降り、国道477・367号線を走って行き道の駅くつき新本陣で最初の休憩を入れる。平日ではあるが多くの観光客で賑わっていた道の駅であった。<br /><br />暫く国道367号線を走り、若狭街道の国道303号線を走行する。特に飛ばしている走りはしてはいないのだが、予定時刻より早めに到着することができた。高野山真言宗石照山多田寺、奈良時代に第46代孝謙天皇の勅願によって勝行上人が創建したと伝えられている。本尊を納める厨子は寛永11(1634)年に若狭国小浜初代藩主となった酒井忠勝により寄進されたものであり、現在は文化4(1807)年に再建された本堂が残っている。平成27(2015)年には“海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 -”の構成文化財として日本遺産に認定されている。<br /><br />境内には重要文化財である木造薬師如来立像・木造十一面観音菩薩立像・木造菩薩立像が3躯一括指定されている。中でも“木造薬師如来立像”は多田寺の本尊でもあり、平安時代初期の作とされている。像高は192.5cmで本体から台座蓮肉まで通して茅の一木造で薬壺を持たない薬師如来であるといった特徴を持つ。また下半身部分のY字状の衣文の処理は唐招提寺旧講堂薬師如来像や神護寺の薬師如来像などの平安初期彫像に共通する様式である。旧日本三大薬師のひとつとして主に眼病祈願の参拝客が多いことで知られている。伝・日光菩薩と言われる木造十一面観音立像は、頭上に菩薩面を表した十一面観音像であるが、こちらでは薬師如来の脇侍として日光菩薩と称されている。奈良時代末期から平安時代初期の作とされ、像高154cmのカヤの一木造のものである。胸飾や瓔珞(ようらく)を本体と共木から彫出する点や両足部の衣文構成などに奈良時代の作風を伺うことができる物となっている。三体目の木造菩薩立像は薬師如来の脇侍とされており、伝・月光菩薩と呼ばれてはいるものの本来の像名は不明である。こちらも平安時代初期の作と言われており、像高144.2cmのカヤの一木造である。<br /><br />その他にも福井県指定有形文化財として“木造阿弥陀如来坐像3躯”があり、藤原時代の作と言われている。桧材割矧造・彫眼・漆箔が施されており、像高はそれぞれ92.5㎝・91.5㎝・144.5㎝となっている。更には同時期に作られた木造四天王立像4躯があり、像高は持国天121.6cm、増長天119.5cm、広目天118.8cm、多聞天117.4cmとなっている。<br /><br />加えて小浜市指定文化財としての文化4(1807)に再建された三間×三間の内陣前に三間×一間の礼堂を設けている本堂がある。ご住職の話では争いに巻き込まれた近隣の寺院から仏像が多田寺に集まったことから、歴史ある有り難い仏様に参ることができるようになったとのこと。確かに寺院の規模からすると文化財指定を受けている仏像の数が多いことは気付くが、背景にはそのような理由があったことを知り納得する。その他歴史のある史跡も多々あり、多田満仲念持仏1躯、多田(源)満仲の墓、曾我兄弟・虎御前の墓等が寺院境内に残っている。<br /><br />平安時代の軍事貴族であった多田満仲。源満仲と呼ばれ様に清和源氏の流れを組み、多田源氏・摂津源氏の祖とされる人物である。国司を務めた多田荘に土着したと言われており、その死後も“多田院(多田神社)”に葬られたとの記述が残ってはいるが、この多田荘とは兵庫県川西市に鎮座する多田神社界隈のことを指しており、同名の小浜多田神社には、その由来が記されてはいなかった。<br /><br />また“曾我兄弟の仇討ち”で知られる曾我祐成と時致兄弟、そして曾我祐成の妾であった虎御前の墓もある。鎌倉時代初期の話ではあるが、曾我祐成(兄)は現場で討たれ、弟の時致も仇討ちを遂げた後に捕縛され、梟首となった。仇討ちを遂げた曾我兄弟に対し、源頼朝は不問にしたかったようではあるが、人の手前梟首とせざるを得なかったようだ。元来兄弟共に仇討ちを優先するために妻を娶る気はなかったという。そんな中で兄が虎御前を妾にしたのは弟の勧めだと言われている。妾といえど仲は良かったと言われており、兄弟の死後は落飾し、亡くなるまで墓を守り続けたと言われている。曾我兄弟と虎御前の墓は全国にいくつか存在している。多田神社の由来書にはここにも墓が存在すると記されているが、曾我兄弟や虎御前の生きた証を確認しても、残念ながら多田神社に墓があることは記されてはいない。実際のところ虎御前の足跡は推定の域を超えず、所縁のある無しに関わらず創作されたものであるが、別にそれを明らかにしたとて意味のないことなので、由来書を眺めながら千年もの歴史に浸っていた私であった。<br /><br />歴史ある寺院には見るべきものが多々あるために、早速境内巡りを始めることにした。入山料は400円で社務所にて納めることになっている。訪れた際には他の参拝客も居らず、風鈴の軽やかな音が響いていた。ただこの入山料は本堂をご住職の案内付きで見るための費用であって、境内を見て回るだけならば徴収されてはいない様に見える。というのも“梵鐘”を鳴らして参拝する旨を伝えて納めるシステムであり、気が付かずに参拝を始めるとそのままになってしまうような感じを受けた。私の場合事前に入山料のことは知っていたために、入山料を納めて本堂を案内して頂いた。勿論なぜ多田寺に文化財指定を受けている数々の仏像がいらっしゃる“理由”もその際に知り得たものである。<br /><br />海に面した小さな街小浜。しかし地の利から歴史ある仏様が集まっている“素晴らしいこと”を知ったひと時であった。<br /><br />色々と配管に関することを先に話したが、実は今回の訪問も私の“夏”のテーマのひとつである“風鈴祭り”だと言うことをにブレはない。写真にも映り込んではいるのだが、多田寺には“青色の手作り風鈴”が飾られていることで知られているのである。“小浜ブルー”と観光サイトには表現されているものではあるのだが、また瞬間“あ~っ”と思える程そのままの姿が風に泳いでいるのである。こちらの瑠璃色に輝く風鈴は小浜市福谷にあるガラス工房KEiS庵で作られている。ガラス工芸家の竹田氏の想いの詰まった、若狭おばまの海から生まれたガラスが“OBAMA blue”と呼ばれている。濃いブルーグリーンの色をした風鈴に、音を鳴らすベロを牡蠣の殻を使った同じものがふたつとないものである。千波に多田寺の御本尊である“薬師如来さま”は、瑠璃(青色)の光を放って人々を救われるとされている。そんな繋がりから多田寺での風鈴飾りが行われる様になったという。瑠璃色の風鈴の門を潜りその功徳を頂きつつ御本尊薬師如来に御参拝くださいというものが多田寺の“風鈴祭り”の意図となっている。確かに数で勝負しているという感じは受けることがない。数メートルの風鈴棚に吊るされた“小浜ブルー”の風鈴が風に揺られて心地良い音色を感じながら本堂へ参る様子は行ってみたものだけがわかるものであろう。瑠璃光門と名付けられた風鈴棚も名前に負けず存在感を出している様に感じられる。数とすれば多くはないので、風鈴だけを楽しむのであれば、僅かな時間でこと足りるであろう。勿論御本尊様をはじめとする文化財に指定される程の仏様が数多くいらっしゃる場所故に、ちょっと時間を割いて行ってみる価値は多分にあると思われる。<br /><br />順路を守らず進みがちな私ではあるので、通常よりもは滞在時間が殖えるのが当たり前ではあるのだが、それでも1時間半程の時間で風鈴をはじめ境内を満喫することが出来た。<br /><br />尚多田寺の開門時間は9:00~16:00となっているので、閉門時間まで滞在していたことになる。また少なからず雪が降る場所故に冬季12月~2月の期間は参拝するのに予約が必要となっている。風鈴の時期には関係ないが、冬場の参拝には注意が必要である。<br /><br />まあそんなこんなで多田寺を満喫し、車に戻って出発する。目指したのはマーメイドテラス“人魚の像”である。多田寺を後にして15分程で到着する。小浜市小浜日吉の海岸通り沿いにあるテラスには、結構な台数が停められる駐車場が完備していた。<br /><br />随分と前のように感じるのだが、NHKの朝の連ドラ“ちりとてちん”の舞台となった街のひとつが小浜の街であった。それに因みドラマのロケ場所となった場所の紹介がなされていた。<br /><br />小浜の人魚伝説は、人魚の肉を食べて800年間生きたという八百比丘尼の伝説に因んでいる。マーメイドテラスには2体の人魚の像が設置されており、そこからは海に沈む夕日も観賞できるほか、小浜公園方面へ向かって海岸沿いに遊歩道も整備されている。周辺が海釣りの場所としても知られており、訪れた日も釣りを楽しんでいる方々を見ることが出来た。またマーメイドテラスという呼称は一点を指し示すものではなく、もう一ヶ所マーメイドテラスと呼ばれる場所がある。それが海沿いの遊歩道の両端のひとつで小浜公園近くに位置する場所である。公称と言えるのかはわからないが、人魚の像がある場所をマーメイドテラス“人魚の像”、対してもう片方をマーメイドテラス“翼のテラス”と呼ばれているようだ。翼のテラスは後程行くので割愛するが、中々のネーミングだと思うことが出来る。さすがにまだ火の入時刻には間があるので長時間の滞在はできないが、また機会があれば是非とも訪れたい場所であった。<br /><br />再び車に戻り出発する。小浜公園を一旦通り越しそのまま海沿いに走ると、離合が厳しい細い道となり、その途中に駐車場らしき広場を見つけて車を停める。Google mapで見つけた“駆逐艦榎慰霊碑”である。<br /><br />駆逐艦榎は実戦経験のないままに沈没した艇の一隻でもある。竣工は昭和20(1945)年3月31日で舞鶴海軍工廠で建造された後呉に回航され、高間完少将隷下の訓練部隊“第十一水雷戦隊”に編入された。艦長は若松武次郎大尉。5月になり瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴に到着するも、鎮守府から“空襲の際に刺激となる”との理由により舞鶴以外の場所へ移動するよう要請を受け、6月下旬に小浜湾に移動することとなった。6月26日昼過ぎに小浜湾内の錨地に入泊した際に触雷、後部弾薬庫が爆発し乗員36名が死亡、負傷者は小浜中学校に収容された。<br /><br />その後湾内に姉妹艦初梅にて救助・曳航されるが、初梅も爆撃を受けて損傷し、榎は右舷に32゚傾斜した状態で艦尾を着底。艦橋の一部を水面に露出した状態で擱座した。そのままの姿で敗戦を迎えた榎は、9月30日に駆逐艦籍から除籍された。<br /><br />戦後を迎え昭和23(1948)年に三菱七尾造船所が解体作業が始まり、翌7月には解体が完了した。竣工後87日間での喪失は日本駆逐艦中最も短命であった。<br /><br />昭和56(1981)年6月に着底海面を見下ろすこの場所に生存者の手により慰霊碑が設置され現在に至っている。慰霊碑建立の折に“榎の木”が植えられ、慰霊碑を風雨から守るかの如く育っていた。<br /><br />最も短命であった駆逐艦という“悲劇的”“不名誉”な艦歴を持つ榎。敗戦間近に突貫で建造された駆逐艦は、やはり端折られた部分も多く、触雷で弾薬庫が爆発し、多くの兵士が亡くなり艦も修理できなかった。材料も時間的な余裕もなかった状況下で建造された駆逐艦榎。その運命は竣工時に定められていたのかも知れない。そんな思いにかられながら現地で見つけた“戦跡”に頭を下げるのであった。<br /><br />その他にも地蔵様が建立されていたが、海難事故が多いのであろうか?建立意図はわからなかった。榎の木と駆逐艦榎の慰霊碑をカメラに収めて出発することにした。次は小浜公園、マーメイドテラス“翼のテラス”等がある場所になるが、一旦通り過ぎた場所故にすぐに到着する。<br /><br />  《続く》

《2023.September》あみんちゅぶらり北陸を歩く旅そのI福井小浜~多田寺の風鈴と街歩き前編~

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《2023.September》あみんちゅぶらり北陸を歩く旅そのI福井小浜~多田寺の風鈴と街歩き前編~

早いものでもう9月を迎えた。例年ならば秋の到来を感じさせるような日もあるはずだが、猛暑は留まることなく続いている。昨年から始めた夏=風鈴巡りのテーマの旅だが、昨年は期間延長も行われたイベントも少なくはなく、単発の休みに思い立ったように出発する旅でもそれなりに実績を挙げることができたように記憶している。しかし実際にはともかくコロナ禍が一段落したということから本来のイベント期間で十分な集客を得られたという解釈からだろうか?予定通り8月末日で終了したというイベントが増えたように思う。

近場は今年も再訪が叶ったのだが、昨年は知った時期が遅く訪問出来なかった場所への訪問は、上手い具合に連休が当て込めずにズルズルと月日が過ぎて行った結果、令和5年度も終了したと記されているものも少なくなかった。結果として日帰りで行くことが出来る場所をリストアップするが、拝観停止日に被ったりとなかなか上手く行かない。前回訪れた三重県の金井神社もそのひとつである。

今日の休みを利用するものも隣接県で考えた。びわ湖箱館山・小浜多田寺・福井朝倉遺跡が候補に上がる。このうち9月20日頃迄と期間が記されていた多田寺が最優先だと考え、行先を決める。昨晩さっさと寝てれば朝もなんとかなったのであるが、起きたのは10時過ぎ。それでも準備をそそくさと済ませ出発することにした。

我が街大津から小浜へは80km程の距離で遠くはない。しかし大回りをして倍近い距離を走る高速利用も所要時間は大きく変わらず利用する価値もない。ひたすら一般道を進むルートとなるが、初めての道ではないため安心といえば安心だ。結局昼を過ぎてからの出発となり、いつも通り自宅を出発後に近くのローソンに立ち寄ってひと息つきながらナビを設定して出発する。

いつもバスで利用する通勤路から湖岸へと出た後に、西大津バイパス・湖西道路を経て真野ランプで降り、国道477・367号線を走って行き道の駅くつき新本陣で最初の休憩を入れる。平日ではあるが多くの観光客で賑わっていた道の駅であった。

暫く国道367号線を走り、若狭街道の国道303号線を走行する。特に飛ばしている走りはしてはいないのだが、予定時刻より早めに到着することができた。高野山真言宗石照山多田寺、奈良時代に第46代孝謙天皇の勅願によって勝行上人が創建したと伝えられている。本尊を納める厨子は寛永11(1634)年に若狭国小浜初代藩主となった酒井忠勝により寄進されたものであり、現在は文化4(1807)年に再建された本堂が残っている。平成27(2015)年には“海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 - 御食国(みけつくに)若狭と鯖街道 -”の構成文化財として日本遺産に認定されている。

境内には重要文化財である木造薬師如来立像・木造十一面観音菩薩立像・木造菩薩立像が3躯一括指定されている。中でも“木造薬師如来立像”は多田寺の本尊でもあり、平安時代初期の作とされている。像高は192.5cmで本体から台座蓮肉まで通して茅の一木造で薬壺を持たない薬師如来であるといった特徴を持つ。また下半身部分のY字状の衣文の処理は唐招提寺旧講堂薬師如来像や神護寺の薬師如来像などの平安初期彫像に共通する様式である。旧日本三大薬師のひとつとして主に眼病祈願の参拝客が多いことで知られている。伝・日光菩薩と言われる木造十一面観音立像は、頭上に菩薩面を表した十一面観音像であるが、こちらでは薬師如来の脇侍として日光菩薩と称されている。奈良時代末期から平安時代初期の作とされ、像高154cmのカヤの一木造のものである。胸飾や瓔珞(ようらく)を本体と共木から彫出する点や両足部の衣文構成などに奈良時代の作風を伺うことができる物となっている。三体目の木造菩薩立像は薬師如来の脇侍とされており、伝・月光菩薩と呼ばれてはいるものの本来の像名は不明である。こちらも平安時代初期の作と言われており、像高144.2cmのカヤの一木造である。

その他にも福井県指定有形文化財として“木造阿弥陀如来坐像3躯”があり、藤原時代の作と言われている。桧材割矧造・彫眼・漆箔が施されており、像高はそれぞれ92.5㎝・91.5㎝・144.5㎝となっている。更には同時期に作られた木造四天王立像4躯があり、像高は持国天121.6cm、増長天119.5cm、広目天118.8cm、多聞天117.4cmとなっている。

加えて小浜市指定文化財としての文化4(1807)に再建された三間×三間の内陣前に三間×一間の礼堂を設けている本堂がある。ご住職の話では争いに巻き込まれた近隣の寺院から仏像が多田寺に集まったことから、歴史ある有り難い仏様に参ることができるようになったとのこと。確かに寺院の規模からすると文化財指定を受けている仏像の数が多いことは気付くが、背景にはそのような理由があったことを知り納得する。その他歴史のある史跡も多々あり、多田満仲念持仏1躯、多田(源)満仲の墓、曾我兄弟・虎御前の墓等が寺院境内に残っている。

平安時代の軍事貴族であった多田満仲。源満仲と呼ばれ様に清和源氏の流れを組み、多田源氏・摂津源氏の祖とされる人物である。国司を務めた多田荘に土着したと言われており、その死後も“多田院(多田神社)”に葬られたとの記述が残ってはいるが、この多田荘とは兵庫県川西市に鎮座する多田神社界隈のことを指しており、同名の小浜多田神社には、その由来が記されてはいなかった。

また“曾我兄弟の仇討ち”で知られる曾我祐成と時致兄弟、そして曾我祐成の妾であった虎御前の墓もある。鎌倉時代初期の話ではあるが、曾我祐成(兄)は現場で討たれ、弟の時致も仇討ちを遂げた後に捕縛され、梟首となった。仇討ちを遂げた曾我兄弟に対し、源頼朝は不問にしたかったようではあるが、人の手前梟首とせざるを得なかったようだ。元来兄弟共に仇討ちを優先するために妻を娶る気はなかったという。そんな中で兄が虎御前を妾にしたのは弟の勧めだと言われている。妾といえど仲は良かったと言われており、兄弟の死後は落飾し、亡くなるまで墓を守り続けたと言われている。曾我兄弟と虎御前の墓は全国にいくつか存在している。多田神社の由来書にはここにも墓が存在すると記されているが、曾我兄弟や虎御前の生きた証を確認しても、残念ながら多田神社に墓があることは記されてはいない。実際のところ虎御前の足跡は推定の域を超えず、所縁のある無しに関わらず創作されたものであるが、別にそれを明らかにしたとて意味のないことなので、由来書を眺めながら千年もの歴史に浸っていた私であった。

歴史ある寺院には見るべきものが多々あるために、早速境内巡りを始めることにした。入山料は400円で社務所にて納めることになっている。訪れた際には他の参拝客も居らず、風鈴の軽やかな音が響いていた。ただこの入山料は本堂をご住職の案内付きで見るための費用であって、境内を見て回るだけならば徴収されてはいない様に見える。というのも“梵鐘”を鳴らして参拝する旨を伝えて納めるシステムであり、気が付かずに参拝を始めるとそのままになってしまうような感じを受けた。私の場合事前に入山料のことは知っていたために、入山料を納めて本堂を案内して頂いた。勿論なぜ多田寺に文化財指定を受けている数々の仏像がいらっしゃる“理由”もその際に知り得たものである。

海に面した小さな街小浜。しかし地の利から歴史ある仏様が集まっている“素晴らしいこと”を知ったひと時であった。

色々と配管に関することを先に話したが、実は今回の訪問も私の“夏”のテーマのひとつである“風鈴祭り”だと言うことをにブレはない。写真にも映り込んではいるのだが、多田寺には“青色の手作り風鈴”が飾られていることで知られているのである。“小浜ブルー”と観光サイトには表現されているものではあるのだが、また瞬間“あ~っ”と思える程そのままの姿が風に泳いでいるのである。こちらの瑠璃色に輝く風鈴は小浜市福谷にあるガラス工房KEiS庵で作られている。ガラス工芸家の竹田氏の想いの詰まった、若狭おばまの海から生まれたガラスが“OBAMA blue”と呼ばれている。濃いブルーグリーンの色をした風鈴に、音を鳴らすベロを牡蠣の殻を使った同じものがふたつとないものである。千波に多田寺の御本尊である“薬師如来さま”は、瑠璃(青色)の光を放って人々を救われるとされている。そんな繋がりから多田寺での風鈴飾りが行われる様になったという。瑠璃色の風鈴の門を潜りその功徳を頂きつつ御本尊薬師如来に御参拝くださいというものが多田寺の“風鈴祭り”の意図となっている。確かに数で勝負しているという感じは受けることがない。数メートルの風鈴棚に吊るされた“小浜ブルー”の風鈴が風に揺られて心地良い音色を感じながら本堂へ参る様子は行ってみたものだけがわかるものであろう。瑠璃光門と名付けられた風鈴棚も名前に負けず存在感を出している様に感じられる。数とすれば多くはないので、風鈴だけを楽しむのであれば、僅かな時間でこと足りるであろう。勿論御本尊様をはじめとする文化財に指定される程の仏様が数多くいらっしゃる場所故に、ちょっと時間を割いて行ってみる価値は多分にあると思われる。

順路を守らず進みがちな私ではあるので、通常よりもは滞在時間が殖えるのが当たり前ではあるのだが、それでも1時間半程の時間で風鈴をはじめ境内を満喫することが出来た。

尚多田寺の開門時間は9:00~16:00となっているので、閉門時間まで滞在していたことになる。また少なからず雪が降る場所故に冬季12月~2月の期間は参拝するのに予約が必要となっている。風鈴の時期には関係ないが、冬場の参拝には注意が必要である。

まあそんなこんなで多田寺を満喫し、車に戻って出発する。目指したのはマーメイドテラス“人魚の像”である。多田寺を後にして15分程で到着する。小浜市小浜日吉の海岸通り沿いにあるテラスには、結構な台数が停められる駐車場が完備していた。

随分と前のように感じるのだが、NHKの朝の連ドラ“ちりとてちん”の舞台となった街のひとつが小浜の街であった。それに因みドラマのロケ場所となった場所の紹介がなされていた。

小浜の人魚伝説は、人魚の肉を食べて800年間生きたという八百比丘尼の伝説に因んでいる。マーメイドテラスには2体の人魚の像が設置されており、そこからは海に沈む夕日も観賞できるほか、小浜公園方面へ向かって海岸沿いに遊歩道も整備されている。周辺が海釣りの場所としても知られており、訪れた日も釣りを楽しんでいる方々を見ることが出来た。またマーメイドテラスという呼称は一点を指し示すものではなく、もう一ヶ所マーメイドテラスと呼ばれる場所がある。それが海沿いの遊歩道の両端のひとつで小浜公園近くに位置する場所である。公称と言えるのかはわからないが、人魚の像がある場所をマーメイドテラス“人魚の像”、対してもう片方をマーメイドテラス“翼のテラス”と呼ばれているようだ。翼のテラスは後程行くので割愛するが、中々のネーミングだと思うことが出来る。さすがにまだ火の入時刻には間があるので長時間の滞在はできないが、また機会があれば是非とも訪れたい場所であった。

再び車に戻り出発する。小浜公園を一旦通り越しそのまま海沿いに走ると、離合が厳しい細い道となり、その途中に駐車場らしき広場を見つけて車を停める。Google mapで見つけた“駆逐艦榎慰霊碑”である。

駆逐艦榎は実戦経験のないままに沈没した艇の一隻でもある。竣工は昭和20(1945)年3月31日で舞鶴海軍工廠で建造された後呉に回航され、高間完少将隷下の訓練部隊“第十一水雷戦隊”に編入された。艦長は若松武次郎大尉。5月になり瀬戸内海への機雷投下を避けて日本海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴に到着するも、鎮守府から“空襲の際に刺激となる”との理由により舞鶴以外の場所へ移動するよう要請を受け、6月下旬に小浜湾に移動することとなった。6月26日昼過ぎに小浜湾内の錨地に入泊した際に触雷、後部弾薬庫が爆発し乗員36名が死亡、負傷者は小浜中学校に収容された。

その後湾内に姉妹艦初梅にて救助・曳航されるが、初梅も爆撃を受けて損傷し、榎は右舷に32゚傾斜した状態で艦尾を着底。艦橋の一部を水面に露出した状態で擱座した。そのままの姿で敗戦を迎えた榎は、9月30日に駆逐艦籍から除籍された。

戦後を迎え昭和23(1948)年に三菱七尾造船所が解体作業が始まり、翌7月には解体が完了した。竣工後87日間での喪失は日本駆逐艦中最も短命であった。

昭和56(1981)年6月に着底海面を見下ろすこの場所に生存者の手により慰霊碑が設置され現在に至っている。慰霊碑建立の折に“榎の木”が植えられ、慰霊碑を風雨から守るかの如く育っていた。

最も短命であった駆逐艦という“悲劇的”“不名誉”な艦歴を持つ榎。敗戦間近に突貫で建造された駆逐艦は、やはり端折られた部分も多く、触雷で弾薬庫が爆発し、多くの兵士が亡くなり艦も修理できなかった。材料も時間的な余裕もなかった状況下で建造された駆逐艦榎。その運命は竣工時に定められていたのかも知れない。そんな思いにかられながら現地で見つけた“戦跡”に頭を下げるのであった。

その他にも地蔵様が建立されていたが、海難事故が多いのであろうか?建立意図はわからなかった。榎の木と駆逐艦榎の慰霊碑をカメラに収めて出発することにした。次は小浜公園、マーメイドテラス“翼のテラス”等がある場所になるが、一旦通り過ぎた場所故にすぐに到着する。

  《続く》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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