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《2023.September》あみんちゅぶらり北陸を歩く旅そのⅡ福井小浜~小浜街歩き後編~<br /><br />駆逐艦榎慰霊碑から500m程戻った場所にある小浜公園、その駐車場に車を停める。ヘタレは先にしんどいことを済ませたい性分なので山登りから始めることにする。小浜公園は小浜市が運営する都市公園で、顕彰碑や歌碑等小浜出身者に纏わる碑が建立されている。登山口に建てられた碑に刻まれていた“殉難第六潜水艇長佐久間海軍大尉之像入口”の文字を見つけ、歩き始める。佐久間勉氏は明治12(1879)年9月13日に現在の若狭町にあたる福井県三方郡八村に生まれ、福井県立小浜尋常中学校・攻玉社を経て海軍兵学校29期入学する。明治34(1901)年12月海軍兵学校卒業。兵学校の同期には後に首相となる米内光政氏や、連合艦隊長官高橋三吉氏等がいる。巡洋艦乗務で日露戦争に従軍した後は水雷畑を歩き、明治39(1906)年に日本海軍最初の第六潜水艇隊副長を勤めた後明治41(1908)年に艇長に昇格した。明治43 (1910)年に山口県新湊沖で半潜航訓練中に艇が沈没し、2日後に引き上げられるも佐久間艇長以下14名の乗組員全員が殉職した。佐久間大尉の遺書や殉死した13名の乗組員が全て持ち場を離れていないことが発表されると大きな反響を呼び、殉職した乗組員14名全員の海軍公葬が海軍基地で執り行われた他、佐久間大尉の葬儀が郷里の前川神社で村葬として執行されている。軍神として国内では長らく“修身”の教科書に“沈勇”と題して掲載されていた他にも夏目漱石が事故の同年に発表した“文芸とヒロイツク”において佐久間の遺書とその死について言及している。<br /><br />戦後軍人を奉ることはなくなったが、今日でも佐久間の命日には出身地の福井県で遺徳顕彰祭が行われており、海上自衛隊音楽隊による演奏等が行われている。僅か30歳の艇長がここまで腹積もりをして殉死したことは、当時ではかなりの出来事であったろうと考える。軍人というだけで毛嫌いする者も少なくはないようだが、最後迄諦めない“気持ち”は今の若者には必要とされる“精神”のようにも思えてならない。実際のところ佐久間艇長の出身は小浜ではないために、ここに銅像を建立するのはどうかと思うところもあるが、ある青年将校が駆け抜けた“海”を見下ろす場所としては最適だったのかも知れないとふと思った私であった。<br /><br />その他にも小浜出身の早逝した女性歌人山川登美子の歌碑や同じく小浜出身の考古学者上田三平の顕彰碑等が建立されている小浜公園内の小山を登り、頂上で佐久間艇長像と出会い、そこから眺めた小浜湾の美しい景色に感動し、得意な下り坂をてくてく歩いて駐車場に戻って来た私であった。<br /><br />車を停めたまま海側へと歩く。白鳥のモニュメントはマーメイドテラス(つばさのテラス)である。つばさのテラスのネーミング通りの場所に思わず口元が緩んでしまった。この場所は先に訪れたマーメイドテラス迄海岸沿いに歩くことが出来る郵便物になっているものであった。歩いても良かったのだが、やはりヘタレは無理をしない。という訳で遊歩道両端のマーメイドテラスに立ち寄った“だけ”で終わらせた私であった。<br /><br />車に戻り少し戻ること数分でやって来たのは八幡神社。創立年代不詳ではあるが“続日本紀”によると神護景雲4 (770)年8月庚寅朔日・若狭国目従七位下伊勢朝臣諸人・内舎人大初位下佐伯宿禰老を勅使として、若狭彦神八幡神宮に鹿毛馬1疋を奉らしむと書かれている。第46代孝謙天皇の治世に創建したらしい八幡神社。長く歴史上に名が出てこなかったが、室町時代になって若狭国の守護だった一色詮範が大鳥居を再建し、神殿を造営している。しかし大鳥居は数年で倒壊し、再建されている。また大永年間には多宝塔供養の勧進状が現存している。その後も守護職であった武田信豊が太刀一振を奉納し、大鳥居を再建するなど歴代の国主も篤い尊敬を寄せている。しかし永禄2(1559)年に起こった松永久秀の乱によって社殿は炎上し、由緒記等多くの文書が焼失している。安土桃山時代になり領主となった丹羽長秀が禁制を下した。その後も代々の国主もこれに従った。丹羽氏の後に領主となった浅野長政の子長継・族臣家次らが朝鮮出陣を前に一族の武運を祈り神殿を造営する。この時の神官渡辺氏は浅野家の長の家を賜わり、渡辺左近長良と名乗ったと言われている。<br /><br />その後社地が城郭に接近していたために社を後瀬山の北麓に遷したが、慶長年間に若狭小浜藩初代藩主京極高次が旧知に復している。二代藩主京極忠高が松江藩に加増転封された後は酒井忠勝が藩主となり、正保元(1644)年に拝殿を造営した。その後も酒井家による庇護を受け、加えて元文年間以降から幕末にかけて町内の氏子がそれぞれの職業の守護神として、酒屋が松尾社、桶屋が彦狭智社等をを奉斎している。明治期には菊の御紋章を勅許され神紋を“菊花に対い鳩”と定め、明治9年には郷社、同15年には県社に列格した。<br /><br />近代になっても氏子崇敬者の信仰益々篤く、20年毎に屋根葺替・社殿修築を伴う式年大祭が厳修され続けている。<br />例大祭には小浜市の無形文化財指定を受けている“八幡神社ほ放生会”が執行され、大太鼓・神楽・山車・神輿の他に、酒井忠勝の前領地である武州川越から伝えられた獅子舞も奉納されている。これは若狭地方最大の祭礼であり、平成御大典記念の事業としては花崗岩の狛犬一対が新調された。また昭和24(1949)年に倒壊した絵馬殿も御大典記念として復興再建されて現在に至っている。<br /><br />小浜いち歴史のある神社ではあるが、夕方のこの時間では参拝客も居らずひっそりとしている。私自身も拝殿・摂社・末社それぞれに参った後早々に後にして次の目的地を目指すことにした。<br /><br />歩きで移動すること僅か数分で到着したのは空印寺。曹洞宗の寺院であるが、境内には城主酒井氏一族の墓が並んでいる。創建は室町時代末期に若狭の守護であった武田元光が居城として後瀬山城を築いた際に守護館を当時長源寺のあった城の山麓に移した。この敷地内に現在の空印寺は建立されることとなる。水堀を廻らせた堅固な若狭守護館は戦国時代以降も麓の城として利用され、若狭を領地とした丹羽長秀や豊臣秀吉の親族である浅野長政や木下勝俊等も平時はこの地に住んでいた。<br /><br />その後関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭国主となった京極高次が同館の主となった。高次没後は息子の京極忠高が旧地を京極高次の牌所とし泰雲寺を建立したが、京極家は寛永11(1634)年に松江に転封となる。その後城主となった酒井家の菩提寺として、初代藩主酒井忠勝によって父である酒井忠利の遺骨を移し“健康寺”と称された後、二代藩主忠直が忠勝の七回忌法要を行うに当たり寛文8(1688)年に伽藍を増築し空印寺となった。この“空印”というのは忠勝の法号である。<br /><br />本堂の裏手の墓地に酒井家の墓が立ち並んでいる。訪れた時間が遅かったこともあり、個々の墓に参った訳ではなく、入口からその並びを見たに過ぎないが、如何にも武家の墓らしく整然と墓石が並んでいることは見て取れた。<br /><br />また空印寺の境内には“八百比丘尼”伝説に於ける“入定洞穴”が存在する。荒礪命(あれとのみこと・膳臣(かしわでのおみ)の祖と言われる佐白米命(さしろめのみこと)の子で若狭国造の祖の末流である当国勢村高橋長者の姫であった八百比丘尼は、第37代斉明天皇の治世であった白雉5(654)に誕生し、肌は白玉のように容顔美麗で智徳万人に優れていた人物であった。そのため世の人は神仏の再来と崇めていたが、齢16歳の頃に龍王が白髪の翁となって現れ、人魚の肉を与えたという。これを食した姫は不思議なことに幾百歳を経ても16歳の時の容顔から変わることがなかった。しかし長生きをすることが必ずしも良い訳でもなく、120歳にして髪を剃り諸国を巡遊しつつ50・100年と止住しながら所々で堂社を修造、また道路を開き、橋梁を架け、五穀樹木の繁殖を教え、また尊皇奉仏、五常の道を授けたとされている。それにより諸国の旧蹟のある所は勿論広く尊崇を集めた姫ではあったが、第100代後花園天皇の治世であった宝徳元(1449)年に京都の定水庵で教化を止め、生国の若狭に帰って来た。そして後瀬山山中の神明社の近くに庵を結び住んでいたが、齢800歳にしてここ後瀬山麓空印寺境内の大巌窟で入定したと言われている。人々は名付けて八百比丘尼、または八百姫とも寿長(ながす)の尼とも、また椿を特に愛し入定したので玉椿の尼とも呼んでいたとされている。入定後祈願する者あれば必ず不思議の霊験があったことから、古より都鄙遠近老若男女がこの霊地へ参詣し、福徳寿命を願い、諸病平癒を祈り、その霊助を蒙る者が多かったため、今に至るまで参信祈願は絶えることがないとされている。小浜の伝承にはマーメイド伝説があるために、強ち“作り話”のひと言では片付けられないようにも思える。確かに“不死身”というものは人間の究極の欲望かも知れないが、古墳時代から室町時代迄生きたとすれば、戦い方も大きく変わりその無常みたいなものを感じていたに違いないと思われる。昭和の生まれの私が、西暦3000年にこの世に生きていたならば・・・等ということは考えられないし、考えたくもない。洞穴の入口から内部を見ながらそんな考えにふと浸ってしまった私であった。<br /><br />辺りも暗くなり始めたので車へと戻り帰路に着く。とにかく神社仏閣では禁煙が多いので、一息ついて一服できる場所ということで、ファミリーマート小浜伏原店に立ち寄って飲み物とタバコを購入してやっと一息つくことが出来た。再び走り出し、向かった先はPLANT-2上中店のガソリンスタンド。この界隈では“格安ガソリンスタンド”として知られており、いつも旅先で安いガソリンスタンドを見付けて給油している私としては“欠かすことのできない”場所のひとつでもある。ただ現金であろうとクレジットであろうと変わらないガソリン価格は170円/L。いくらmoveクンが少食とは言え、それなりの距離を走る“仕事”をしてもらうならば食事もしてもらわなければならない。お腹いっぱいになったmoveクンにお疲れ様の意味も込めてお風呂に入って頂くことにする。出掛けるたびに車を洗っているので“綺麗好き”と誤解されることが多いのだが、実は私は掃除のできない人であり、部屋は常に“ゴミ屋敷”化している。しかし汚れた車には乗りたくはないので、ちょい乗りしかしなくともあまりに車が汚れていると洗車をする。手洗いするならば大変だが、洗車機をかけるだけならば数百円で済む。それを期待してはるもまーさんも勿体ぶって車を貸す。多分冬場になれば目的が“風鈴”から“イルミネーション”に変わるため、高速の利用を考えればNOTEクンよりmoveクンの方がおサイフには優しいので、利用もmoveクンに頑張って貰うことが増えるだろう。ただまーさんは自分ではガソリンすら入れない人なので、序に・・・という理由で行かされる。世の中不公平だといつも思う私である。<br /><br />moveクンのお風呂も済んだので店舗にも立ち寄ることにした。このPLANT-2は私は初訪問なのだが、亡くなった母は私以外の家族とは良く来ていたようだ。確かに安いといえば安い。ただあまり時間を費やすと帰る時間が遅くなるので一通り見るだけの予定ではあったが、丁度寿命を迎えたMOONSTARのスニーカーに良く似た物を見つけたので購入する。脚力が落ちて来ているのでスニーカーは軽いが一番!そう思っている私には最適の一品だった。<br /><br />その他にもいくつか買い物をして車に戻り南淡海を目指すことにする。国道303号線を今津迄走り、その後国道161号線を南下する。一部バイパス化はされてはいるが、安曇川の近辺は相変わらず変わってはいない。いつもならば道の駅等に立ち寄るが、今回はそれもなく湖西道路に入り、道の駅妹子の郷で一息入れる。<br /><br />ちょっと疲れたのでのんびりしていたら1時間も滞在してしまったが再び走り出し、一旦京都に入ってから国道1号線を走り大津入りする。そして夜間は無料で利用できる石山寺門前駐車場迄車を走らせ、荷物の整理やゴミを纏めたりしてからラストランに挑む。そんなことは家についてからやれば良いだろうと言われるかも知れないが、住宅地でエンジンを掛けたままにするのが意外に響くためにそのようにしているのだ。<br /><br />その後本当のラストランに挑み自宅に到着する。11時間半で189.3km走った今回の小浜風鈴祭りの旅は無事に終了する。あと一回くらいは風鈴旅をしたいな~と思いながら、明日から始まる“仕事”を恨めしく思った私であった。<br /><br />  《終わり》

《2023.September》あみんちゅぶらり北陸を歩く旅そのⅡ福井~小浜の街歩き編~

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2023/09/13 - 2023/09/13

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《2023.September》あみんちゅぶらり北陸を歩く旅そのⅡ福井小浜~小浜街歩き後編~

駆逐艦榎慰霊碑から500m程戻った場所にある小浜公園、その駐車場に車を停める。ヘタレは先にしんどいことを済ませたい性分なので山登りから始めることにする。小浜公園は小浜市が運営する都市公園で、顕彰碑や歌碑等小浜出身者に纏わる碑が建立されている。登山口に建てられた碑に刻まれていた“殉難第六潜水艇長佐久間海軍大尉之像入口”の文字を見つけ、歩き始める。佐久間勉氏は明治12(1879)年9月13日に現在の若狭町にあたる福井県三方郡八村に生まれ、福井県立小浜尋常中学校・攻玉社を経て海軍兵学校29期入学する。明治34(1901)年12月海軍兵学校卒業。兵学校の同期には後に首相となる米内光政氏や、連合艦隊長官高橋三吉氏等がいる。巡洋艦乗務で日露戦争に従軍した後は水雷畑を歩き、明治39(1906)年に日本海軍最初の第六潜水艇隊副長を勤めた後明治41(1908)年に艇長に昇格した。明治43 (1910)年に山口県新湊沖で半潜航訓練中に艇が沈没し、2日後に引き上げられるも佐久間艇長以下14名の乗組員全員が殉職した。佐久間大尉の遺書や殉死した13名の乗組員が全て持ち場を離れていないことが発表されると大きな反響を呼び、殉職した乗組員14名全員の海軍公葬が海軍基地で執り行われた他、佐久間大尉の葬儀が郷里の前川神社で村葬として執行されている。軍神として国内では長らく“修身”の教科書に“沈勇”と題して掲載されていた他にも夏目漱石が事故の同年に発表した“文芸とヒロイツク”において佐久間の遺書とその死について言及している。

戦後軍人を奉ることはなくなったが、今日でも佐久間の命日には出身地の福井県で遺徳顕彰祭が行われており、海上自衛隊音楽隊による演奏等が行われている。僅か30歳の艇長がここまで腹積もりをして殉死したことは、当時ではかなりの出来事であったろうと考える。軍人というだけで毛嫌いする者も少なくはないようだが、最後迄諦めない“気持ち”は今の若者には必要とされる“精神”のようにも思えてならない。実際のところ佐久間艇長の出身は小浜ではないために、ここに銅像を建立するのはどうかと思うところもあるが、ある青年将校が駆け抜けた“海”を見下ろす場所としては最適だったのかも知れないとふと思った私であった。

その他にも小浜出身の早逝した女性歌人山川登美子の歌碑や同じく小浜出身の考古学者上田三平の顕彰碑等が建立されている小浜公園内の小山を登り、頂上で佐久間艇長像と出会い、そこから眺めた小浜湾の美しい景色に感動し、得意な下り坂をてくてく歩いて駐車場に戻って来た私であった。

車を停めたまま海側へと歩く。白鳥のモニュメントはマーメイドテラス(つばさのテラス)である。つばさのテラスのネーミング通りの場所に思わず口元が緩んでしまった。この場所は先に訪れたマーメイドテラス迄海岸沿いに歩くことが出来る郵便物になっているものであった。歩いても良かったのだが、やはりヘタレは無理をしない。という訳で遊歩道両端のマーメイドテラスに立ち寄った“だけ”で終わらせた私であった。

車に戻り少し戻ること数分でやって来たのは八幡神社。創立年代不詳ではあるが“続日本紀”によると神護景雲4 (770)年8月庚寅朔日・若狭国目従七位下伊勢朝臣諸人・内舎人大初位下佐伯宿禰老を勅使として、若狭彦神八幡神宮に鹿毛馬1疋を奉らしむと書かれている。第46代孝謙天皇の治世に創建したらしい八幡神社。長く歴史上に名が出てこなかったが、室町時代になって若狭国の守護だった一色詮範が大鳥居を再建し、神殿を造営している。しかし大鳥居は数年で倒壊し、再建されている。また大永年間には多宝塔供養の勧進状が現存している。その後も守護職であった武田信豊が太刀一振を奉納し、大鳥居を再建するなど歴代の国主も篤い尊敬を寄せている。しかし永禄2(1559)年に起こった松永久秀の乱によって社殿は炎上し、由緒記等多くの文書が焼失している。安土桃山時代になり領主となった丹羽長秀が禁制を下した。その後も代々の国主もこれに従った。丹羽氏の後に領主となった浅野長政の子長継・族臣家次らが朝鮮出陣を前に一族の武運を祈り神殿を造営する。この時の神官渡辺氏は浅野家の長の家を賜わり、渡辺左近長良と名乗ったと言われている。

その後社地が城郭に接近していたために社を後瀬山の北麓に遷したが、慶長年間に若狭小浜藩初代藩主京極高次が旧知に復している。二代藩主京極忠高が松江藩に加増転封された後は酒井忠勝が藩主となり、正保元(1644)年に拝殿を造営した。その後も酒井家による庇護を受け、加えて元文年間以降から幕末にかけて町内の氏子がそれぞれの職業の守護神として、酒屋が松尾社、桶屋が彦狭智社等をを奉斎している。明治期には菊の御紋章を勅許され神紋を“菊花に対い鳩”と定め、明治9年には郷社、同15年には県社に列格した。

近代になっても氏子崇敬者の信仰益々篤く、20年毎に屋根葺替・社殿修築を伴う式年大祭が厳修され続けている。
例大祭には小浜市の無形文化財指定を受けている“八幡神社ほ放生会”が執行され、大太鼓・神楽・山車・神輿の他に、酒井忠勝の前領地である武州川越から伝えられた獅子舞も奉納されている。これは若狭地方最大の祭礼であり、平成御大典記念の事業としては花崗岩の狛犬一対が新調された。また昭和24(1949)年に倒壊した絵馬殿も御大典記念として復興再建されて現在に至っている。

小浜いち歴史のある神社ではあるが、夕方のこの時間では参拝客も居らずひっそりとしている。私自身も拝殿・摂社・末社それぞれに参った後早々に後にして次の目的地を目指すことにした。

歩きで移動すること僅か数分で到着したのは空印寺。曹洞宗の寺院であるが、境内には城主酒井氏一族の墓が並んでいる。創建は室町時代末期に若狭の守護であった武田元光が居城として後瀬山城を築いた際に守護館を当時長源寺のあった城の山麓に移した。この敷地内に現在の空印寺は建立されることとなる。水堀を廻らせた堅固な若狭守護館は戦国時代以降も麓の城として利用され、若狭を領地とした丹羽長秀や豊臣秀吉の親族である浅野長政や木下勝俊等も平時はこの地に住んでいた。

その後関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭国主となった京極高次が同館の主となった。高次没後は息子の京極忠高が旧地を京極高次の牌所とし泰雲寺を建立したが、京極家は寛永11(1634)年に松江に転封となる。その後城主となった酒井家の菩提寺として、初代藩主酒井忠勝によって父である酒井忠利の遺骨を移し“健康寺”と称された後、二代藩主忠直が忠勝の七回忌法要を行うに当たり寛文8(1688)年に伽藍を増築し空印寺となった。この“空印”というのは忠勝の法号である。

本堂の裏手の墓地に酒井家の墓が立ち並んでいる。訪れた時間が遅かったこともあり、個々の墓に参った訳ではなく、入口からその並びを見たに過ぎないが、如何にも武家の墓らしく整然と墓石が並んでいることは見て取れた。

また空印寺の境内には“八百比丘尼”伝説に於ける“入定洞穴”が存在する。荒礪命(あれとのみこと・膳臣(かしわでのおみ)の祖と言われる佐白米命(さしろめのみこと)の子で若狭国造の祖の末流である当国勢村高橋長者の姫であった八百比丘尼は、第37代斉明天皇の治世であった白雉5(654)に誕生し、肌は白玉のように容顔美麗で智徳万人に優れていた人物であった。そのため世の人は神仏の再来と崇めていたが、齢16歳の頃に龍王が白髪の翁となって現れ、人魚の肉を与えたという。これを食した姫は不思議なことに幾百歳を経ても16歳の時の容顔から変わることがなかった。しかし長生きをすることが必ずしも良い訳でもなく、120歳にして髪を剃り諸国を巡遊しつつ50・100年と止住しながら所々で堂社を修造、また道路を開き、橋梁を架け、五穀樹木の繁殖を教え、また尊皇奉仏、五常の道を授けたとされている。それにより諸国の旧蹟のある所は勿論広く尊崇を集めた姫ではあったが、第100代後花園天皇の治世であった宝徳元(1449)年に京都の定水庵で教化を止め、生国の若狭に帰って来た。そして後瀬山山中の神明社の近くに庵を結び住んでいたが、齢800歳にしてここ後瀬山麓空印寺境内の大巌窟で入定したと言われている。人々は名付けて八百比丘尼、または八百姫とも寿長(ながす)の尼とも、また椿を特に愛し入定したので玉椿の尼とも呼んでいたとされている。入定後祈願する者あれば必ず不思議の霊験があったことから、古より都鄙遠近老若男女がこの霊地へ参詣し、福徳寿命を願い、諸病平癒を祈り、その霊助を蒙る者が多かったため、今に至るまで参信祈願は絶えることがないとされている。小浜の伝承にはマーメイド伝説があるために、強ち“作り話”のひと言では片付けられないようにも思える。確かに“不死身”というものは人間の究極の欲望かも知れないが、古墳時代から室町時代迄生きたとすれば、戦い方も大きく変わりその無常みたいなものを感じていたに違いないと思われる。昭和の生まれの私が、西暦3000年にこの世に生きていたならば・・・等ということは考えられないし、考えたくもない。洞穴の入口から内部を見ながらそんな考えにふと浸ってしまった私であった。

辺りも暗くなり始めたので車へと戻り帰路に着く。とにかく神社仏閣では禁煙が多いので、一息ついて一服できる場所ということで、ファミリーマート小浜伏原店に立ち寄って飲み物とタバコを購入してやっと一息つくことが出来た。再び走り出し、向かった先はPLANT-2上中店のガソリンスタンド。この界隈では“格安ガソリンスタンド”として知られており、いつも旅先で安いガソリンスタンドを見付けて給油している私としては“欠かすことのできない”場所のひとつでもある。ただ現金であろうとクレジットであろうと変わらないガソリン価格は170円/L。いくらmoveクンが少食とは言え、それなりの距離を走る“仕事”をしてもらうならば食事もしてもらわなければならない。お腹いっぱいになったmoveクンにお疲れ様の意味も込めてお風呂に入って頂くことにする。出掛けるたびに車を洗っているので“綺麗好き”と誤解されることが多いのだが、実は私は掃除のできない人であり、部屋は常に“ゴミ屋敷”化している。しかし汚れた車には乗りたくはないので、ちょい乗りしかしなくともあまりに車が汚れていると洗車をする。手洗いするならば大変だが、洗車機をかけるだけならば数百円で済む。それを期待してはるもまーさんも勿体ぶって車を貸す。多分冬場になれば目的が“風鈴”から“イルミネーション”に変わるため、高速の利用を考えればNOTEクンよりmoveクンの方がおサイフには優しいので、利用もmoveクンに頑張って貰うことが増えるだろう。ただまーさんは自分ではガソリンすら入れない人なので、序に・・・という理由で行かされる。世の中不公平だといつも思う私である。

moveクンのお風呂も済んだので店舗にも立ち寄ることにした。このPLANT-2は私は初訪問なのだが、亡くなった母は私以外の家族とは良く来ていたようだ。確かに安いといえば安い。ただあまり時間を費やすと帰る時間が遅くなるので一通り見るだけの予定ではあったが、丁度寿命を迎えたMOONSTARのスニーカーに良く似た物を見つけたので購入する。脚力が落ちて来ているのでスニーカーは軽いが一番!そう思っている私には最適の一品だった。

その他にもいくつか買い物をして車に戻り南淡海を目指すことにする。国道303号線を今津迄走り、その後国道161号線を南下する。一部バイパス化はされてはいるが、安曇川の近辺は相変わらず変わってはいない。いつもならば道の駅等に立ち寄るが、今回はそれもなく湖西道路に入り、道の駅妹子の郷で一息入れる。

ちょっと疲れたのでのんびりしていたら1時間も滞在してしまったが再び走り出し、一旦京都に入ってから国道1号線を走り大津入りする。そして夜間は無料で利用できる石山寺門前駐車場迄車を走らせ、荷物の整理やゴミを纏めたりしてからラストランに挑む。そんなことは家についてからやれば良いだろうと言われるかも知れないが、住宅地でエンジンを掛けたままにするのが意外に響くためにそのようにしているのだ。

その後本当のラストランに挑み自宅に到着する。11時間半で189.3km走った今回の小浜風鈴祭りの旅は無事に終了する。あと一回くらいは風鈴旅をしたいな~と思いながら、明日から始まる“仕事”を恨めしく思った私であった。

  《終わり》

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
グルメ
5.0
ショッピング
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
自家用車 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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