東山・祇園・北白川旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2022年1月25日(火)1時前、2時半からの東山でのイベントに参加するので、少し早く出掛けて近くで昼食を取る。京阪電車の清水五条駅から川端通の1本東の古宮川通を5分足らず北に歩いたところにある「京風情の溢れる宮川町に佇む大人のごはんや」蜃氣楼。芸舞妓さんの行き交う花街にある町屋を改造した食堂で、店内の雰囲気もいいし、1100円のお得ランチは素晴らしい。美味しかった。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7129471687122794&amp;type=3<br /><br />食事を終えてから宮川町を北に歩く。宮川町は八坂神社の門前の「祗園甲部」「祗園東」、鴨川の西側、四条通の北側の「先斗町」、北野天満宮近くの「上七軒」と並ぶ京都五花街の一つで、鴨川の東側、四条通の南側の宮川町通(川端通の1本東)の概ね団栗通から柿町通の間。<br /><br />京都の花街は江戸時代から続く、歌舞、音曲のたぐいを専門とする芸妓、舞妓がお茶屋の座敷でお客様に芸を楽しんでもらう場所で、花柳界とも云われている。宮川町は安土桃山から江戸時代に掛けての出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まった。秀吉が方広寺、伏見城を築いたことにより、大和大路はにわかに人の往来が増え、その街道沿いに町並みが出来始めた。<br /><br />当時の宮川町地区は広大な鴨川の河原であったと見られている。鴨川の四条より南は、毎年祇園社の神輿洗いが行なわれていたので、宮川と呼ばれ、この川筋に出来たのが宮川町。現在も「宮川筋○○丁目」と呼ばれているのは、河原に発展した「筋・通路」であったためとされている。1666年に宮川町通りが開通、1670年に鴨川護岸の石積みが完成し、宮川町の町並みが整い、また当時の歌舞伎の流行と相まって茶屋町として発展して来た。<br /><br />当初は遊女が接待をしたり、若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の陰間が接待をしていた花街で、売色衆道専業の陰間茶屋も集まった。その後は江戸の3大改革による度重なる風俗取締りで、若衆歌舞伎や陰間茶屋も打撃を受けた。それでも明治以降も1958年(昭和33年)の売春防止法施行までは遊廓で、今でもその時代の建物が残っている。<br /><br />現在は芸妓一筋の花街で、毎年春には「京おどり」が上演される。舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上と多い。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、それ以降30年ほど前までは楳茂都流であったが現在は若柳流が主流。<br /><br />1873年(明治6年)に、「女紅」と呼ばれた女性の手仕事(裁縫・手芸など)の教育を中心とする女学校であった女紅場の前身、婦女職工引立会社が設立。1896年(明治29年)にその女紅場の教習の場として使用されていた教場を改築して歌舞練場が造られた。<br /><br />1916年(大正5年)には新歌舞練場を建設し、披露の「温習会」を開催。そして1950年(昭和25年)に第1回の「京おどり」が開催され、以後春の年中行事として観覧者を楽しませている。1970年には歌舞練場の大改築を行い、客席が桟敷席から椅子席となり、現在の外観となった。<br /><br />これまでこの通りを歩いたことなかったが、偶然かいつものことなのかは分からないが、舞妓さんを見掛ける。確かに雰囲気を感じさせる通り。夜にこの町をふらつくような身分にはなれなかったなあ~<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9608692405867364&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />宮川町などこの日訪れたところは京都市東山区になる。東山区については下記の旅行記に書いた。<br />https://4travel.jp/travelogue/11814857<br /><br />京都市に付いては今さらと云う気もするが、京都府の府庁所在地。794年の平安京遷都から1869年(明治2年)まで千年以上日本の首都だった町。まあ、京都人の中には遷都の儀が行われてないので、行われたのは遷都でなく奠都(てんと:新たな都を定めること)で、未だに日本の首都であると主張する方もいるけどね・・・<br /><br />京都盆地を中心とした町で市内を賀茂川(鴨川)、桂川、宇治川などが流れる。日本の政令指定都市および百万都市では唯一、盆地に位置している。滋賀県の県庁所在地である大津市に隣接しており、大津市は京都市の衛星都市・ベッドタウンとしての性格を持つ。<br /><br />現在の市域は京都盆地(旧葛野郡・愛宕郡・紀伊郡)を大きく超えて、旧宇治郡(伏見、山科)、旧乙訓郡(久我、羽束師、淀、久世、大枝、大原野)、旧久世郡(淀)、旧綴喜郡(淀)、旧桑田郡(京北、広河原)まで広がっている。約830平方㎞あり、京都府で一番大きく、京都府全体の約1/5を占めるが、森林が市域の4分の3を覆っている。<br /><br />人口は約145万人で、大きな爆撃を受けなかったためか戦中・戦後の人口の急減・急増がなく、特に1970年代から大きく変わっていない。戦後すぐには東京市・大阪市に次いで全国3位だったが、大きな変動がないので、現在は全国で9番目となっている。ただし、昼間人口では川崎市と神戸市を上回っている。<br /><br />京都府最大の都市で、府の人口の約57%を占める。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、東京23区を一つの都市として考えない場合は全国で京都市のみ。都市圏としては、京都府・滋賀県などに広がる京都都市圏および京滋の中核であるとともに、大阪市を中心とした京阪神(近畿)大都市圏の一角を担う。都市雇用圏の基準では、京都都市圏の人口は280万人で京都府より多く、東京都市圏、大阪都市圏、名古屋都市圏に次ぐ日本第4位の規模となっている。<br /><br />京都市は11の行政区より構成される。京都市設置当初は上京区・下京区の2区だったが、度々の分区や合併を経て1976年に現在の11区が揃った。現在の市域になったのは2005年で京北町を合併し右京区に編入した。<br /><br />京都(京)が歴史に登場するのは794年の平安遷都。長岡京から桓武天皇により造営された。鎌倉時代にも京都には天皇が居を構えており、日本の中心であることは変わらなかった。その立場は室町、戦国、安土桃山、さらに江戸時代も変わらなかった。<br /><br />京都(京)と云う名だが、東アジアでは古来、「天子の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗の諱(忌み名:いみな)である「師」の文字を避けて京都(けいと)と云うようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。<br /><br />日本でも飛鳥京や恭仁京などが「京都」とも呼ばれたが、今の京都がそう呼ばれたのは平安時代末期で、「京」や「京師」も併用されが、次第に「京の都」、「京」、「京都」が平安京を指すための固有名詞のようになり定着していった。東京は西の京都に対して江戸を改称した名前(1968年)。<br /><br />明治に入り、東京奠都により一時は江戸時代中期には37万人を越えた人口が24万人を切ったが、第一回京都博覧会の開催や琵琶湖疏水建設などによって復興を遂げる。明治末期からは道路拡築、市電敷設、第二疏水開削、上水道整備が行われ、昭和初期に伏見市など周辺市町村を編入し、人口は100万人を超える。第2次大戦では5回空襲は受けたが、大規模空襲は受けることなく終戦を迎えた。<br /><br />京都市の発足は1889年(明治22年)。上述のように当初は 上京区と下京区の2区で、面積はわずか30平方㎞、現在の広さの3.5%程度だった。その後周辺地域を編入し、1929年(昭和4年)に左京区、東山区、中京区が成立、その2年後に伏見区と右京区が設置される。戦後になり1955年(昭和30年)に南区と北区を、1976年に山科区と西京区を分区して現在の11区となった。<br /><br />古くから都市生活者向けの商工業が発達し、江戸時代には全国に製品を出荷する工業都市となる一方、数々の技術者を各地の藩の要請に従って派遣していた。その伝統は現在も伝統工芸として残るのみならず、京セラや島津製作所、オムロン、ニデック(日本電産)など先端技術を持つ企業をはじめ、任天堂やワコールなど業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つとなっている。大阪発祥の多くの企業は本社を東京に移しているが、京都発祥の企業の多くは今も京都に本社を置いているところが多いのは、なんか「らしい」。<br /><br />戦災被害を免れた神社仏閣、古い史跡、町並みが数多く存在し、宗教・貴族・武家・庶民などの様々な歴史的文化や祭りが残る。国内外の観光客が訪れる観光都市として国際観光文化都市に指定されており、2023年には文化庁が東京から移転された。<br /><br />旧市街地を中心に建物の高さ規制や広告表示の制限がなされ、古い街並みが保全されている。さらに、旧帝国大学の京都大学をはじめとする多数の大学が集積し、国内外から学生や研究者が集まる日本有数の学生街・学園都市ともなっている。私もそのうちの一つに通ったが、今はその学部は滋賀県に移っているのがちょっと寂しい。<br /><br />そう云えば、就職も京都本社の企業で、40年弱お世話になったが、京都市内の事務所に勤務してたのは1/3余りだった。<br /><br />京都市内中心部で特徴的なことの一つは、一般的に住所は通りの交差と方向によって表されること。基本的に碁盤の目状に東西南北に道が通っているからこそ出来る技だね。上ル(あがる)/下ル(さがる)/東入(ひがしいる)/西入(にしいる)と云う呼び方は他の都市では聞いたことがない。<br /><br />世界遺産の町であり、観光地を上げるとキリがないので省略。また、京都市を舞台にした小説や映画、ドラマ、音楽、漫画なども山ほどあるので省略。さらに京都市関連の著名人もたくさんいるので、各区の紹介の時に触れるのみとする。<br /><br /><br />と云うことで、京都ゑびす神社に向かうが、続く

京都 東山 宮川町(Miyagawa-cho,Higashiyama,Kyoto,Japan)

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2022/01/25 - 2022/01/25

6557位(同エリア6671件中)

旅行記グループ 建仁寺イベント

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ちふゆ

ちふゆさん

2022年1月25日(火)1時前、2時半からの東山でのイベントに参加するので、少し早く出掛けて近くで昼食を取る。京阪電車の清水五条駅から川端通の1本東の古宮川通を5分足らず北に歩いたところにある「京風情の溢れる宮川町に佇む大人のごはんや」蜃氣楼。芸舞妓さんの行き交う花街にある町屋を改造した食堂で、店内の雰囲気もいいし、1100円のお得ランチは素晴らしい。美味しかった。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7129471687122794&type=3

食事を終えてから宮川町を北に歩く。宮川町は八坂神社の門前の「祗園甲部」「祗園東」、鴨川の西側、四条通の北側の「先斗町」、北野天満宮近くの「上七軒」と並ぶ京都五花街の一つで、鴨川の東側、四条通の南側の宮川町通(川端通の1本東)の概ね団栗通から柿町通の間。

京都の花街は江戸時代から続く、歌舞、音曲のたぐいを専門とする芸妓、舞妓がお茶屋の座敷でお客様に芸を楽しんでもらう場所で、花柳界とも云われている。宮川町は安土桃山から江戸時代に掛けての出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まった。秀吉が方広寺、伏見城を築いたことにより、大和大路はにわかに人の往来が増え、その街道沿いに町並みが出来始めた。

当時の宮川町地区は広大な鴨川の河原であったと見られている。鴨川の四条より南は、毎年祇園社の神輿洗いが行なわれていたので、宮川と呼ばれ、この川筋に出来たのが宮川町。現在も「宮川筋○○丁目」と呼ばれているのは、河原に発展した「筋・通路」であったためとされている。1666年に宮川町通りが開通、1670年に鴨川護岸の石積みが完成し、宮川町の町並みが整い、また当時の歌舞伎の流行と相まって茶屋町として発展して来た。

当初は遊女が接待をしたり、若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の陰間が接待をしていた花街で、売色衆道専業の陰間茶屋も集まった。その後は江戸の3大改革による度重なる風俗取締りで、若衆歌舞伎や陰間茶屋も打撃を受けた。それでも明治以降も1958年(昭和33年)の売春防止法施行までは遊廓で、今でもその時代の建物が残っている。

現在は芸妓一筋の花街で、毎年春には「京おどり」が上演される。舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上と多い。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、それ以降30年ほど前までは楳茂都流であったが現在は若柳流が主流。

1873年(明治6年)に、「女紅」と呼ばれた女性の手仕事(裁縫・手芸など)の教育を中心とする女学校であった女紅場の前身、婦女職工引立会社が設立。1896年(明治29年)にその女紅場の教習の場として使用されていた教場を改築して歌舞練場が造られた。

1916年(大正5年)には新歌舞練場を建設し、披露の「温習会」を開催。そして1950年(昭和25年)に第1回の「京おどり」が開催され、以後春の年中行事として観覧者を楽しませている。1970年には歌舞練場の大改築を行い、客席が桟敷席から椅子席となり、現在の外観となった。

これまでこの通りを歩いたことなかったが、偶然かいつものことなのかは分からないが、舞妓さんを見掛ける。確かに雰囲気を感じさせる通り。夜にこの町をふらつくような身分にはなれなかったなあ~
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.9608692405867364&type=1&l=223fe1adec

宮川町などこの日訪れたところは京都市東山区になる。東山区については下記の旅行記に書いた。
https://4travel.jp/travelogue/11814857

京都市に付いては今さらと云う気もするが、京都府の府庁所在地。794年の平安京遷都から1869年(明治2年)まで千年以上日本の首都だった町。まあ、京都人の中には遷都の儀が行われてないので、行われたのは遷都でなく奠都(てんと:新たな都を定めること)で、未だに日本の首都であると主張する方もいるけどね・・・

京都盆地を中心とした町で市内を賀茂川(鴨川)、桂川、宇治川などが流れる。日本の政令指定都市および百万都市では唯一、盆地に位置している。滋賀県の県庁所在地である大津市に隣接しており、大津市は京都市の衛星都市・ベッドタウンとしての性格を持つ。

現在の市域は京都盆地(旧葛野郡・愛宕郡・紀伊郡)を大きく超えて、旧宇治郡(伏見、山科)、旧乙訓郡(久我、羽束師、淀、久世、大枝、大原野)、旧久世郡(淀)、旧綴喜郡(淀)、旧桑田郡(京北、広河原)まで広がっている。約830平方㎞あり、京都府で一番大きく、京都府全体の約1/5を占めるが、森林が市域の4分の3を覆っている。

人口は約145万人で、大きな爆撃を受けなかったためか戦中・戦後の人口の急減・急増がなく、特に1970年代から大きく変わっていない。戦後すぐには東京市・大阪市に次いで全国3位だったが、大きな変動がないので、現在は全国で9番目となっている。ただし、昼間人口では川崎市と神戸市を上回っている。

京都府最大の都市で、府の人口の約57%を占める。都道府県全体の人口の過半数を占める都市は、東京23区を一つの都市として考えない場合は全国で京都市のみ。都市圏としては、京都府・滋賀県などに広がる京都都市圏および京滋の中核であるとともに、大阪市を中心とした京阪神(近畿)大都市圏の一角を担う。都市雇用圏の基準では、京都都市圏の人口は280万人で京都府より多く、東京都市圏、大阪都市圏、名古屋都市圏に次ぐ日本第4位の規模となっている。

京都市は11の行政区より構成される。京都市設置当初は上京区・下京区の2区だったが、度々の分区や合併を経て1976年に現在の11区が揃った。現在の市域になったのは2005年で京北町を合併し右京区に編入した。

京都(京)が歴史に登場するのは794年の平安遷都。長岡京から桓武天皇により造営された。鎌倉時代にも京都には天皇が居を構えており、日本の中心であることは変わらなかった。その立場は室町、戦国、安土桃山、さらに江戸時代も変わらなかった。

京都(京)と云う名だが、東アジアでは古来、「天子の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京、京師(けいし)が多く使用されていた。西晋時代に世宗の諱(忌み名:いみな)である「師」の文字を避けて京都(けいと)と云うようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。

日本でも飛鳥京や恭仁京などが「京都」とも呼ばれたが、今の京都がそう呼ばれたのは平安時代末期で、「京」や「京師」も併用されが、次第に「京の都」、「京」、「京都」が平安京を指すための固有名詞のようになり定着していった。東京は西の京都に対して江戸を改称した名前(1968年)。

明治に入り、東京奠都により一時は江戸時代中期には37万人を越えた人口が24万人を切ったが、第一回京都博覧会の開催や琵琶湖疏水建設などによって復興を遂げる。明治末期からは道路拡築、市電敷設、第二疏水開削、上水道整備が行われ、昭和初期に伏見市など周辺市町村を編入し、人口は100万人を超える。第2次大戦では5回空襲は受けたが、大規模空襲は受けることなく終戦を迎えた。

京都市の発足は1889年(明治22年)。上述のように当初は 上京区と下京区の2区で、面積はわずか30平方㎞、現在の広さの3.5%程度だった。その後周辺地域を編入し、1929年(昭和4年)に左京区、東山区、中京区が成立、その2年後に伏見区と右京区が設置される。戦後になり1955年(昭和30年)に南区と北区を、1976年に山科区と西京区を分区して現在の11区となった。

古くから都市生活者向けの商工業が発達し、江戸時代には全国に製品を出荷する工業都市となる一方、数々の技術者を各地の藩の要請に従って派遣していた。その伝統は現在も伝統工芸として残るのみならず、京セラや島津製作所、オムロン、ニデック(日本電産)など先端技術を持つ企業をはじめ、任天堂やワコールなど業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つとなっている。大阪発祥の多くの企業は本社を東京に移しているが、京都発祥の企業の多くは今も京都に本社を置いているところが多いのは、なんか「らしい」。

戦災被害を免れた神社仏閣、古い史跡、町並みが数多く存在し、宗教・貴族・武家・庶民などの様々な歴史的文化や祭りが残る。国内外の観光客が訪れる観光都市として国際観光文化都市に指定されており、2023年には文化庁が東京から移転された。

旧市街地を中心に建物の高さ規制や広告表示の制限がなされ、古い街並みが保全されている。さらに、旧帝国大学の京都大学をはじめとする多数の大学が集積し、国内外から学生や研究者が集まる日本有数の学生街・学園都市ともなっている。私もそのうちの一つに通ったが、今はその学部は滋賀県に移っているのがちょっと寂しい。

そう云えば、就職も京都本社の企業で、40年弱お世話になったが、京都市内の事務所に勤務してたのは1/3余りだった。

京都市内中心部で特徴的なことの一つは、一般的に住所は通りの交差と方向によって表されること。基本的に碁盤の目状に東西南北に道が通っているからこそ出来る技だね。上ル(あがる)/下ル(さがる)/東入(ひがしいる)/西入(にしいる)と云う呼び方は他の都市では聞いたことがない。

世界遺産の町であり、観光地を上げるとキリがないので省略。また、京都市を舞台にした小説や映画、ドラマ、音楽、漫画なども山ほどあるので省略。さらに京都市関連の著名人もたくさんいるので、各区の紹介の時に触れるのみとする。


と云うことで、京都ゑびす神社に向かうが、続く

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