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談山神社から始まった「あをによし」シリーズもエピローグを迎えました。明日香エリアを駆け足で巡って肌で感じたのは、飛鳥・藤原京の時代は古代史に負けず劣らず謎がひしめいていることです。その要因のひとつは歴史書であるはずの『日本書紀』の記述がすっとぼけていて曖昧なことですが、別の要因は短期間に小さなエリアで数多の政権抗争が勃発したせいではないかと思いました。それ故、明日香はとても半日で回れるスポットではなく、消化不良にならないようにじっくり腰を据えてリベンジしたいと思いました。<br />明日香<後編>は、まず国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」を訪ね、年代の判る現存の仏像では日本最古とされる「飛鳥大仏」が国宝に指定されない理由を探求していきます。また、飛鳥寺から至近距離にある「入鹿の首塚」の謎についても解き明かしたいと思います。<br />その他、「亀石の謎」「橘鰓と聖徳太子の関係」「川原寺の特異性」「朱雀大路の『聖なるライン」』上に築かれた古墳群の秘密」などを暴いていきたいと思います。

あをによし 多武峰~明日香逍遥⑧明日香村(エピローグ:飛鳥寺・亀石・川原寺跡・古墳群)

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2022/11/18 - 2022/11/18

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

談山神社から始まった「あをによし」シリーズもエピローグを迎えました。明日香エリアを駆け足で巡って肌で感じたのは、飛鳥・藤原京の時代は古代史に負けず劣らず謎がひしめいていることです。その要因のひとつは歴史書であるはずの『日本書紀』の記述がすっとぼけていて曖昧なことですが、別の要因は短期間に小さなエリアで数多の政権抗争が勃発したせいではないかと思いました。それ故、明日香はとても半日で回れるスポットではなく、消化不良にならないようにじっくり腰を据えてリベンジしたいと思いました。
明日香<後編>は、まず国内最古の仏教寺院「飛鳥寺」を訪ね、年代の判る現存の仏像では日本最古とされる「飛鳥大仏」が国宝に指定されない理由を探求していきます。また、飛鳥寺から至近距離にある「入鹿の首塚」の謎についても解き明かしたいと思います。
その他、「亀石の謎」「橘鰓と聖徳太子の関係」「川原寺の特異性」「朱雀大路の『聖なるライン」』上に築かれた古墳群の秘密」などを暴いていきたいと思います。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
高速・路線バス 私鉄
  • 飛鳥寺<br />蘇我馬子は政敵の物部守屋を河内で倒し、これにより蘇我馬子は全権力を手中に収めました。しかし、その強大な権力を皇族や豪族、民衆に誇示し、畏服させる必要がありました。その一つの方法として古今東西の権力者が常套手段としてきたものが、人が驚きその力に畏怖する巨大で斬新な建造物の造立でした。それがこの飛鳥寺の立ち位置であり、完成には発願から19年を要しました。

    飛鳥寺
    蘇我馬子は政敵の物部守屋を河内で倒し、これにより蘇我馬子は全権力を手中に収めました。しかし、その強大な権力を皇族や豪族、民衆に誇示し、畏服させる必要がありました。その一つの方法として古今東西の権力者が常套手段としてきたものが、人が驚きその力に畏怖する巨大で斬新な建造物の造立でした。それがこの飛鳥寺の立ち位置であり、完成には発願から19年を要しました。

  • 飛鳥寺 <br />現在は真言宗豊山派の寺院「安居院(あんごいん)」と言い、山号は鳥形山(ちょうけいざん)と言います。<br />『日本書紀』によると、596(推古4)年に建立された、女帝 推古天皇の時代に豪族 蘇我馬子が百済から献じられた仏舎利を納めるために創建した日本初の本格的伽藍配置をした仏教寺院です。往時は現在の20倍もの壮大な寺域を誇る大寺院で、五重塔を中心に東・西・北の3方に金堂を配し、外側には回廊が廻らされ、法興寺や元興寺とも呼ばれました。また、大化改新を成し遂げた中臣鎌足と中大兄皇子が蹴鞠会で最初に出会った場所としても知られています。<br />伽藍造営に当たっては、朝鮮半島から多くの先進技術者が招集され、日本で初めて瓦を製造し、仏堂や塔の建設に関わりました。技術者集団は、その後に豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わり、更にこれらの技術を身に付けた弟子たちが全国津々浦々の寺院造営に関わりました。<br />そして、この寺院を中心に天皇の住居が置かれ、中国や朝鮮との国際交流によって学問や芸術が盛んになり、日本初の首都として120年間、飛鳥文化が栄えました。文明国家・日本の原点とも言える寺院です。

    飛鳥寺
    現在は真言宗豊山派の寺院「安居院(あんごいん)」と言い、山号は鳥形山(ちょうけいざん)と言います。
    『日本書紀』によると、596(推古4)年に建立された、女帝 推古天皇の時代に豪族 蘇我馬子が百済から献じられた仏舎利を納めるために創建した日本初の本格的伽藍配置をした仏教寺院です。往時は現在の20倍もの壮大な寺域を誇る大寺院で、五重塔を中心に東・西・北の3方に金堂を配し、外側には回廊が廻らされ、法興寺や元興寺とも呼ばれました。また、大化改新を成し遂げた中臣鎌足と中大兄皇子が蹴鞠会で最初に出会った場所としても知られています。
    伽藍造営に当たっては、朝鮮半島から多くの先進技術者が招集され、日本で初めて瓦を製造し、仏堂や塔の建設に関わりました。技術者集団は、その後に豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わり、更にこれらの技術を身に付けた弟子たちが全国津々浦々の寺院造営に関わりました。
    そして、この寺院を中心に天皇の住居が置かれ、中国や朝鮮との国際交流によって学問や芸術が盛んになり、日本初の首都として120年間、飛鳥文化が栄えました。文明国家・日本の原点とも言える寺院です。

  • 飛鳥寺 正門<br />この門を潜れば、まさに飛鳥時代へタイムスリップしたような感覚に浸れます!<br />東面するこの門が現在の正門ですが、創建時は南面に正門がありました。<br />切妻造、本瓦葺の薬医門で、右側に潜り戸を設けた袖塀を付けています。<br />手前の「飛鳥大佛」の石碑は1792(寛政4)年に飛鳥寺参拝の道標として置かれました。文字はⅤ字形をした見事な薬研彫りです。その台座には飛鳥寺が創建された時の礎石が用いられています。<br />何故、創建時と同様に南門を正門としなかったのかについては、江戸時代の復興の時には寺院南側に田畑が広がっていたため断念したようです。現在も南門は無く、西側は駐輪場となり、通用口としての門が設置されています。

    飛鳥寺 正門
    この門を潜れば、まさに飛鳥時代へタイムスリップしたような感覚に浸れます!
    東面するこの門が現在の正門ですが、創建時は南面に正門がありました。
    切妻造、本瓦葺の薬医門で、右側に潜り戸を設けた袖塀を付けています。
    手前の「飛鳥大佛」の石碑は1792(寛政4)年に飛鳥寺参拝の道標として置かれました。文字はⅤ字形をした見事な薬研彫りです。その台座には飛鳥寺が創建された時の礎石が用いられています。
    何故、創建時と同様に南門を正門としなかったのかについては、江戸時代の復興の時には寺院南側に田畑が広がっていたため断念したようです。現在も南門は無く、西側は駐輪場となり、通用口としての門が設置されています。

  • 飛鳥寺 本堂<br />かつて金堂が建てられていた位置に現在の本堂が建ち、創建時そのままの場所に飛鳥大仏が安置されています。往時は極彩色の伽藍でしたが、2度の落雷による火災で焼失し、現在の建物は江戸時代の1826(文政9)年に再建された寄棟造、本瓦葺の建物です。正面は向拝のない簡素な造りで、虹梁中備の蟇股や連子窓や格子張りの板唐戸は和様式です。また、正面の中央に小さな鰐口が下げられています。本堂の前にはかつての金堂の姿を偲ばせる礎石が3個残されています。

    飛鳥寺 本堂
    かつて金堂が建てられていた位置に現在の本堂が建ち、創建時そのままの場所に飛鳥大仏が安置されています。往時は極彩色の伽藍でしたが、2度の落雷による火災で焼失し、現在の建物は江戸時代の1826(文政9)年に再建された寄棟造、本瓦葺の建物です。正面は向拝のない簡素な造りで、虹梁中備の蟇股や連子窓や格子張りの板唐戸は和様式です。また、正面の中央に小さな鰐口が下げられています。本堂の前にはかつての金堂の姿を偲ばせる礎石が3個残されています。

  • 飛鳥寺 本堂<br />乙巳の変以降は滅亡した蘇我本宗家の氏寺(法興寺)から官寺的性格を有する寺へと転身し、718(養老2)年に平城京に移設されて元興寺となるまでの間、飛鳥・藤原京時代を代表する仏教教学の中心寺院でした。尚、「法興寺」「元興寺」名の由来は初めて仏教を興した寺と言う意味に因みます。奈良市の奈良町に一部が残る元興寺は、平城遷都の際に飛鳥寺を移したものです。それ故、奈良町の元興寺に対し、飛鳥寺を「本(もと)元興寺」と呼ぶこともあります。	<br />平城京遷都後もその法灯を守った本元興寺でしたが、887(仁和3)年と1196(建久7)年の落雷による火災で伽藍が焼失し、室町時代以降は廃寺同然となり、雨晒しのまま打ち捨てられていたとも伝えます。<br />やがて、江戸時代の1632(寛永9)年に釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を安置する仮の堂宇が建てられ、1681(延宝9)年に僧 秀意が草庵を結んで「安居院」と名付け、そこで釈迦如来坐像の修復作業を行いました。本居宣長も安居院を訪ね、「門などもなく、かりそめなる堂に本尊が安置されているだけ」と書き残しています。やがて1826(文政9)年に大坂の篤志家により旧金堂の跡地に小寺院が再建され「安居院」と称されました。この小寺院が現在の本堂です。<br />これぞ「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」です。翻って今の世は、富裕層がSNS会社を買収して思い通りに操ろうとしたり、自己満足のために宇宙旅行で散財してみたりと寂しい限りです。

    飛鳥寺 本堂
    乙巳の変以降は滅亡した蘇我本宗家の氏寺(法興寺)から官寺的性格を有する寺へと転身し、718(養老2)年に平城京に移設されて元興寺となるまでの間、飛鳥・藤原京時代を代表する仏教教学の中心寺院でした。尚、「法興寺」「元興寺」名の由来は初めて仏教を興した寺と言う意味に因みます。奈良市の奈良町に一部が残る元興寺は、平城遷都の際に飛鳥寺を移したものです。それ故、奈良町の元興寺に対し、飛鳥寺を「本(もと)元興寺」と呼ぶこともあります。
    平城京遷都後もその法灯を守った本元興寺でしたが、887(仁和3)年と1196(建久7)年の落雷による火災で伽藍が焼失し、室町時代以降は廃寺同然となり、雨晒しのまま打ち捨てられていたとも伝えます。
    やがて、江戸時代の1632(寛永9)年に釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を安置する仮の堂宇が建てられ、1681(延宝9)年に僧 秀意が草庵を結んで「安居院」と名付け、そこで釈迦如来坐像の修復作業を行いました。本居宣長も安居院を訪ね、「門などもなく、かりそめなる堂に本尊が安置されているだけ」と書き残しています。やがて1826(文政9)年に大坂の篤志家により旧金堂の跡地に小寺院が再建され「安居院」と称されました。この小寺院が現在の本堂です。
    これぞ「ノブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)」です。翻って今の世は、富裕層がSNS会社を買収して思い通りに操ろうとしたり、自己満足のために宇宙旅行で散財してみたりと寂しい限りです。

  • 飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)<br />ここは三脚やフラッシュを用いなければ全て写真撮影OKです。<br />609年、蘇我馬子の発願により、飛鳥時代を代表する仏師であり日本初の僧侶である徳斉法師(とくさいほうし)となった鞍作止利(くらつくりのとり:鞍作鳥)が618年に完成させました。法隆寺金堂釈迦三尊像(国宝)を制作した司馬鞍首止利と同一人物と見るのが定説です。<br />通称「飛鳥大仏」と呼ばれ、年代の判る現存の仏像では日本最古です。高さ2.75m、銅15t、メッキ用黄金30kgを用いて造られました。建立当時は光背が付けられ、釈迦三尊仏(脇侍:文殊・普賢菩薩)を構成していたそうです。現在は鍍金メッキは剥げ落ちて漆黒の肌をしていますが、面長でアーモンド形の目元に法隆寺 釈迦三尊と共通した飛鳥彫刻の特色が見られます。また、口元に僅かながら微笑みを浮かべておられますが、この微笑みは古代ギリシアのアルカイックスマイルと称されるものであり、司馬鞍首止利の専売特許です。更には、「畏れることはないよ」と引き上げた右手の施無畏印が大きくて力強い印象です。

    飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
    ここは三脚やフラッシュを用いなければ全て写真撮影OKです。
    609年、蘇我馬子の発願により、飛鳥時代を代表する仏師であり日本初の僧侶である徳斉法師(とくさいほうし)となった鞍作止利(くらつくりのとり:鞍作鳥)が618年に完成させました。法隆寺金堂釈迦三尊像(国宝)を制作した司馬鞍首止利と同一人物と見るのが定説です。
    通称「飛鳥大仏」と呼ばれ、年代の判る現存の仏像では日本最古です。高さ2.75m、銅15t、メッキ用黄金30kgを用いて造られました。建立当時は光背が付けられ、釈迦三尊仏(脇侍:文殊・普賢菩薩)を構成していたそうです。現在は鍍金メッキは剥げ落ちて漆黒の肌をしていますが、面長でアーモンド形の目元に法隆寺 釈迦三尊と共通した飛鳥彫刻の特色が見られます。また、口元に僅かながら微笑みを浮かべておられますが、この微笑みは古代ギリシアのアルカイックスマイルと称されるものであり、司馬鞍首止利の専売特許です。更には、「畏れることはないよ」と引き上げた右手の施無畏印が大きくて力強い印象です。

  • 飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)<br />飛鳥大仏は、『日本書紀』や『元興寺縁起』に記されているように、鞍作止利作の仏像ですが、鎌倉時代の1196(建久7)年の火災で大きく破損し、その後に補修されており、顔の一部や左耳、右手の中央の指3本だけが創建当時のままだそうです。因みに、脚部は銅の上に粘土で衣文を作り、左手は木製になっています。<br />花崗岩の台座は当初からのもので、左右に脇侍を立てた「柄穴(ほぞあな)」も残されています。法隆寺釈伽三尊と比ベて費用が数倍する本格的な丈六(じょうろく)像を造った往時の蘇我氏の権力が偲ばれます。<br />因みに、本居宣長は『菅笠日記』に「げにいとふるめかしく、たふとく見ゆ」との一文を残しています。

    飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
    飛鳥大仏は、『日本書紀』や『元興寺縁起』に記されているように、鞍作止利作の仏像ですが、鎌倉時代の1196(建久7)年の火災で大きく破損し、その後に補修されており、顔の一部や左耳、右手の中央の指3本だけが創建当時のままだそうです。因みに、脚部は銅の上に粘土で衣文を作り、左手は木製になっています。
    花崗岩の台座は当初からのもので、左右に脇侍を立てた「柄穴(ほぞあな)」も残されています。法隆寺釈伽三尊と比ベて費用が数倍する本格的な丈六(じょうろく)像を造った往時の蘇我氏の権力が偲ばれます。
    因みに、本居宣長は『菅笠日記』に「げにいとふるめかしく、たふとく見ゆ」との一文を残しています。

  • 飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)<br />飛鳥大仏の特徴は顔の向きが僅かに右向きであることです。住職曰く、「聖徳太子が生まれた橘寺の方角を向いている」とのことです。橘寺は太子が祖父 欽明天皇の別宮「橘の宮」を寺院に改めたのが始まりと伝わります。太子が橘寺周辺で誕生したことは否めず、さもありなんの説ですが諸説紛々です。<br />別の説では、飛鳥寺金堂と安居院本堂では南北軸がズレていると言うものです。安居院本堂が建てられたのは江戸時代後期で飛鳥寺金堂が失われて600年も経ており、当初の金堂の様子は不詳でした。そこへ大仏を覆うように本堂を建てたため、元々の金堂と本堂の南北軸がズレたと言うのです。しかしそれであれば、大仏そのものの角度が振れるだけで、顔だけが降れる理由にはなりません。また、大仏の台座は、発掘調査の結果、創建時から継続して同じ位置にあるそうですから、覆屋の軸はズレたとしても大仏の軸はズレていないはずです。<br />もう一つは、大仏を修復した際に技術が拙いためにズレてしまったとの説です。これを否定する根拠はありませんが、当方なら、すでに目標となる五重塔が失われていたことから「修復した僧 秀意が聖徳太子に忖度して意図的に顔を右に傾けて橘寺に向けた」と考えます。この方が俄然ロマンがありますもの…。

    飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
    飛鳥大仏の特徴は顔の向きが僅かに右向きであることです。住職曰く、「聖徳太子が生まれた橘寺の方角を向いている」とのことです。橘寺は太子が祖父 欽明天皇の別宮「橘の宮」を寺院に改めたのが始まりと伝わります。太子が橘寺周辺で誕生したことは否めず、さもありなんの説ですが諸説紛々です。
    別の説では、飛鳥寺金堂と安居院本堂では南北軸がズレていると言うものです。安居院本堂が建てられたのは江戸時代後期で飛鳥寺金堂が失われて600年も経ており、当初の金堂の様子は不詳でした。そこへ大仏を覆うように本堂を建てたため、元々の金堂と本堂の南北軸がズレたと言うのです。しかしそれであれば、大仏そのものの角度が振れるだけで、顔だけが降れる理由にはなりません。また、大仏の台座は、発掘調査の結果、創建時から継続して同じ位置にあるそうですから、覆屋の軸はズレたとしても大仏の軸はズレていないはずです。
    もう一つは、大仏を修復した際に技術が拙いためにズレてしまったとの説です。これを否定する根拠はありませんが、当方なら、すでに目標となる五重塔が失われていたことから「修復した僧 秀意が聖徳太子に忖度して意図的に顔を右に傾けて橘寺に向けた」と考えます。この方が俄然ロマンがありますもの…。

  • 飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)<br />誰もが不思議に思うのは、飛鳥大仏は「国宝」ではなく「重文」である点です。<br />火災を経て雨晒しになった不遇な時代があり、補修を繰り返しているために飛鳥時代の制作部分がほとんど残されていないのが理由で国宝に指定されていないようです。<br />しかし、2012年に早稲田大学の研究チームが飛鳥大仏に蛍光X線分析及びX線回折分析を実施したところ、従来、補修されたと言われていた箇所の金属成分にも際立った差異がなく、仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いとの発表がなされています。また、2016年には大阪大学や東京都文化財研究所などが更なる調査を行い、「顔はほぼ創建時のオリジナル」、「鎌倉時代の火災で溶けた部材を再利用して鋳造し直された」と見られています。<br />実は、飛鳥大仏は「国宝」だった時期があります。1940(昭和15)年に国宝に指定されましたが、1950年の文化財保護法施行時、改めて国宝が選び直されましたが、飛鳥大仏は額や右手3本の指、左耳など以外は後世に作り直されたものとの通説により選から漏れて重文に甘んじました。仮に頭部だけがオリジナルであるにせよ、旧山田寺の仏頭(興福寺蔵)のように頭だけの仏像ですら国宝指定された例もあります。仏像の要である顔がほぼオリジナルと判った意義は多大であり、国宝指定の有力候補になっているそうです。

    飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
    誰もが不思議に思うのは、飛鳥大仏は「国宝」ではなく「重文」である点です。
    火災を経て雨晒しになった不遇な時代があり、補修を繰り返しているために飛鳥時代の制作部分がほとんど残されていないのが理由で国宝に指定されていないようです。
    しかし、2012年に早稲田大学の研究チームが飛鳥大仏に蛍光X線分析及びX線回折分析を実施したところ、従来、補修されたと言われていた箇所の金属成分にも際立った差異がなく、仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いとの発表がなされています。また、2016年には大阪大学や東京都文化財研究所などが更なる調査を行い、「顔はほぼ創建時のオリジナル」、「鎌倉時代の火災で溶けた部材を再利用して鋳造し直された」と見られています。
    実は、飛鳥大仏は「国宝」だった時期があります。1940(昭和15)年に国宝に指定されましたが、1950年の文化財保護法施行時、改めて国宝が選び直されましたが、飛鳥大仏は額や右手3本の指、左耳など以外は後世に作り直されたものとの通説により選から漏れて重文に甘んじました。仮に頭部だけがオリジナルであるにせよ、旧山田寺の仏頭(興福寺蔵)のように頭だけの仏像ですら国宝指定された例もあります。仏像の要である顔がほぼオリジナルと判った意義は多大であり、国宝指定の有力候補になっているそうです。

  • 飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)<br />住職の解説によると、顔を向かって右から見た時と左から見た時では表情が微妙に違って見えるそうです。<br />向って左側から見るとやさしい慈悲の表情をされています。<br />右側からは、口角が下がり、少し険しそうな表情にも見えます。<br />杏仁形の特徴的な目元の形状がそう思わせるのかもしれません、煩悩の多い当方にはその違いが正直よく判りませんでした。<br />皆さんにはどのように見えるでしょうか?

    飛鳥寺 本尊 飛鳥大仏(釈迦如来坐像)
    住職の解説によると、顔を向かって右から見た時と左から見た時では表情が微妙に違って見えるそうです。
    向って左側から見るとやさしい慈悲の表情をされています。
    右側からは、口角が下がり、少し険しそうな表情にも見えます。
    杏仁形の特徴的な目元の形状がそう思わせるのかもしれません、煩悩の多い当方にはその違いが正直よく判りませんでした。
    皆さんにはどのように見えるでしょうか?

  • 飛鳥寺 阿弥陀如来坐像(木造・藤原時代)<br />鍍金は肌の部分がほぼ剥がれており、地の木部がむき出しになっていますが、均整のとれた姿と薄眼を開けた姿が何とも言い難い雰囲気を醸しています。 <br />挙身光(二重円光)がある金色の舟形光背を背負い、印相は最上階位の弥陀定印(上品上生印)を結びます。<br />堂々とした量感、写実的な丸顔で親しみやすい顔立ちは藤原時代の特色をよく伝えています。

    飛鳥寺 阿弥陀如来坐像(木造・藤原時代)
    鍍金は肌の部分がほぼ剥がれており、地の木部がむき出しになっていますが、均整のとれた姿と薄眼を開けた姿が何とも言い難い雰囲気を醸しています。
    挙身光(二重円光)がある金色の舟形光背を背負い、印相は最上階位の弥陀定印(上品上生印)を結びます。
    堂々とした量感、写実的な丸顔で親しみやすい顔立ちは藤原時代の特色をよく伝えています。

  • 飛鳥寺 聖徳太子孝養像(木造・室町時代)<br />唐破風の厨子に鎮座しています。<br />聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気回復を願う姿と伝わります。<br />聖徳太子は現在の橘寺周辺で生まれました。その後、太子は学問に励み飛鳥寺の大仏に誓い、「十七条憲法」を示されたと伝えられています。<br />飛鳥寺へは聖徳太子の師である恵慈(高句麗の僧侶)や慧聡(百済の僧侶)が入り、仏教を広めたことで知られています。

    飛鳥寺 聖徳太子孝養像(木造・室町時代)
    唐破風の厨子に鎮座しています。
    聖徳太子が16歳の時、父である用明天皇の病気回復を願う姿と伝わります。
    聖徳太子は現在の橘寺周辺で生まれました。その後、太子は学問に励み飛鳥寺の大仏に誓い、「十七条憲法」を示されたと伝えられています。
    飛鳥寺へは聖徳太子の師である恵慈(高句麗の僧侶)や慧聡(百済の僧侶)が入り、仏教を広めたことで知られています。

  • 飛鳥寺 日本最古の仏舎利<br />「推古天皇元年(593)正月15日埋納。鎌倉時代(1197年)掘出シ舎利容器ニ移ス」と書かれてあります。鎌倉時代の建久8年に掘出され、この舎利容器に納められたようです。<br />『日本書記』には、「飛鳥寺建立のため、577年11月、百済王(威徳王)が技術者を日本に送り、588年に仏舎利を送った」と記されています。こうしたことから、飛鳥寺のモデルは百済(ベクチェ)の王興寺である可能性が高いとされます。百済滅亡後、廃墟と化した王興寺は、百済第27代 威徳(ウィドク)王(在位554~598)が、先立った王子の冥福を祈るために建てた寺院であり、577年に創建されました。

    飛鳥寺 日本最古の仏舎利
    「推古天皇元年(593)正月15日埋納。鎌倉時代(1197年)掘出シ舎利容器ニ移ス」と書かれてあります。鎌倉時代の建久8年に掘出され、この舎利容器に納められたようです。
    『日本書記』には、「飛鳥寺建立のため、577年11月、百済王(威徳王)が技術者を日本に送り、588年に仏舎利を送った」と記されています。こうしたことから、飛鳥寺のモデルは百済(ベクチェ)の王興寺である可能性が高いとされます。百済滅亡後、廃墟と化した王興寺は、百済第27代 威徳(ウィドク)王(在位554~598)が、先立った王子の冥福を祈るために建てた寺院であり、577年に創建されました。

  • 飛鳥寺 本堂 中庭<br />道標や石塔のある本堂の中庭です。<br />左手前が南北朝時代作の飛鳥寺形石燈籠です。「日本の燈籠」に選ばれている極めて清楚な形で、完璧に保存されています。裏面に「飛鳥寺」の刻銘があります。<br />石燈籠は日本への仏教の伝来と共にもたらされました。現在は埋め戻されて見ることはできませんが、飛鳥寺の発掘調査の際、金堂跡前で石燈籠の基壇が1基分発見されています。これが日本最古の石燈籠と言われています。因みに、現存する最古の石燈籠は奈良 当麻寺金堂前の奈良時代前期のものとされています。

    飛鳥寺 本堂 中庭
    道標や石塔のある本堂の中庭です。
    左手前が南北朝時代作の飛鳥寺形石燈籠です。「日本の燈籠」に選ばれている極めて清楚な形で、完璧に保存されています。裏面に「飛鳥寺」の刻銘があります。
    石燈籠は日本への仏教の伝来と共にもたらされました。現在は埋め戻されて見ることはできませんが、飛鳥寺の発掘調査の際、金堂跡前で石燈籠の基壇が1基分発見されています。これが日本最古の石燈籠と言われています。因みに、現存する最古の石燈籠は奈良 当麻寺金堂前の奈良時代前期のものとされています。

  • 飛鳥寺 本堂 中庭<br />中庭を挟んで、正面の建物は庫裡南面です。<br />庫裏は1681(天和元)年創建、1990年に修復されています。<br />中央の室町時代造立の宝篋印塔は、基礎部に小さな格狭間があり、傍には2体の1石2仏が安置されています。<br />その右隣りは奈良時代造立の道標です。<br />上に半肉彫りの千手観音像、下に「法界」の刻銘があります。

    飛鳥寺 本堂 中庭
    中庭を挟んで、正面の建物は庫裡南面です。
    庫裏は1681(天和元)年創建、1990年に修復されています。
    中央の室町時代造立の宝篋印塔は、基礎部に小さな格狭間があり、傍には2体の1石2仏が安置されています。
    その右隣りは奈良時代造立の道標です。
    上に半肉彫りの千手観音像、下に「法界」の刻銘があります。

  • 飛鳥寺 木造勢至菩薩(藤原時代)<br />

    飛鳥寺 木造勢至菩薩(藤原時代)

  • 飛鳥寺 木造不動明王(室町時代)<br />

    飛鳥寺 木造不動明王(室町時代)

  • 飛鳥寺 木造大黒天(鎌倉時代)

    飛鳥寺 木造大黒天(鎌倉時代)

  • 飛鳥寺 思惟殿<br />露盤宝珠を載せた宝形造、桟瓦葺で、創建時からの建物ではなく、1826年の復興以降に造営された建物です。<br />本尊には聖観世音菩薩を祀り、新西国三十三箇所第9番札所でもあります。

    飛鳥寺 思惟殿
    露盤宝珠を載せた宝形造、桟瓦葺で、創建時からの建物ではなく、1826年の復興以降に造営された建物です。
    本尊には聖観世音菩薩を祀り、新西国三十三箇所第9番札所でもあります。

  • 飛鳥寺 思惟殿<br />左側面と背面には平成時代作の絵馬が掲げられています。<br />因みに「思惟」とは、仏教において心を集中させて考えを巡らせること、深く考えることを意味する言葉です。<br />

    飛鳥寺 思惟殿
    左側面と背面には平成時代作の絵馬が掲げられています。
    因みに「思惟」とは、仏教において心を集中させて考えを巡らせること、深く考えることを意味する言葉です。

  • 飛鳥寺 鐘楼<br />切妻造、本瓦葺、袴腰付きの鐘楼は1745(延享2)年に建立されました。当初は本堂の横に建てられましたが、境内の荘厳を保つことを目的に1941(昭和16)年に現在の思惟殿の南側へ移築されました。<br />梵鐘は太平洋戦争の際に供出されましたが、先代住職 沙門雨宝が再造を発願し、1958(昭和33)年に新鋳されました。意匠は比叡山延暦寺や成田山新勝寺、広島平和の鐘を手がけた香取正彦氏が担い、撞座と竜頭が垂直方向となる古式様式が採用されました。製作は富山県高岡市金屋町にある老子次右衛門造所が担いました。鐘の音は理学博士 青木一郎氏が担い、1分20秒に至る余韻を残し、「昭和の名鐘」と呼ばれています。<br />「上は有頂天より、下は奈落の底まで、響けよかしと念じて一度」と書かれています。

    飛鳥寺 鐘楼
    切妻造、本瓦葺、袴腰付きの鐘楼は1745(延享2)年に建立されました。当初は本堂の横に建てられましたが、境内の荘厳を保つことを目的に1941(昭和16)年に現在の思惟殿の南側へ移築されました。
    梵鐘は太平洋戦争の際に供出されましたが、先代住職 沙門雨宝が再造を発願し、1958(昭和33)年に新鋳されました。意匠は比叡山延暦寺や成田山新勝寺、広島平和の鐘を手がけた香取正彦氏が担い、撞座と竜頭が垂直方向となる古式様式が採用されました。製作は富山県高岡市金屋町にある老子次右衛門造所が担いました。鐘の音は理学博士 青木一郎氏が担い、1分20秒に至る余韻を残し、「昭和の名鐘」と呼ばれています。
    「上は有頂天より、下は奈落の底まで、響けよかしと念じて一度」と書かれています。

  • 飛鳥寺 レトロなポスト<br />色は赤ではないのですが、懐かしい形のポストです。<br />今も現役です。<br />

    飛鳥寺 レトロなポスト
    色は赤ではないのですが、懐かしい形のポストです。
    今も現役です。

  • 飛鳥寺 万葉池<br />万葉池畔には3体の光背石仏があり、向かって左側から宝剣と羂索を持つ南無大聖不動明王、未開蓮を持つ南無観世音菩薩、三鈷杵を持つ南無大師遍照金剛(弘法大師)と並んでいます。<br />南無大聖不動明王は良縁成就や夫婦円満、南無観世音菩薩は商売繁盛、南無大師遍照金剛は学業成就のご利益があります。<br />水を掛けて祈願すれば願いが叶うそうです。

    飛鳥寺 万葉池
    万葉池畔には3体の光背石仏があり、向かって左側から宝剣と羂索を持つ南無大聖不動明王、未開蓮を持つ南無観世音菩薩、三鈷杵を持つ南無大師遍照金剛(弘法大師)と並んでいます。
    南無大聖不動明王は良縁成就や夫婦円満、南無観世音菩薩は商売繁盛、南無大師遍照金剛は学業成就のご利益があります。
    水を掛けて祈願すれば願いが叶うそうです。

  • 入鹿の首塚<br />蘇我入鹿の首塚は飛鳥寺の西門から約100mほど西方にポツンと佇みます。<br />花崗岩製で高さ150cm程、火輪(笠石)は軒厚で四隅を直線で切り、球形水輪などは鎌倉時代の形式をした五輪塔です。入鹿は645(皇極4)年6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって暗殺されました(乙巳の変)。伝承によると、中大兄皇子が刎ねた生首は、怨霊と化して、飛鳥板蓋宮から約600mm離れたこの地まで飛んできたそうです。その祟りを鎮めるために首塚を建てたと伝えます。<br />ただし諸説あり、生首は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を目指したとか、この首塚のすぐ先にある蘇我氏の館を目指したといったものもあります。<br />因みに、五輪塔は蘇我入鹿・蝦夷の館があった甘樫丘を背に建てられています。

    入鹿の首塚
    蘇我入鹿の首塚は飛鳥寺の西門から約100mほど西方にポツンと佇みます。
    花崗岩製で高さ150cm程、火輪(笠石)は軒厚で四隅を直線で切り、球形水輪などは鎌倉時代の形式をした五輪塔です。入鹿は645(皇極4)年6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって暗殺されました(乙巳の変)。伝承によると、中大兄皇子が刎ねた生首は、怨霊と化して、飛鳥板蓋宮から約600mm離れたこの地まで飛んできたそうです。その祟りを鎮めるために首塚を建てたと伝えます。
    ただし諸説あり、生首は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を目指したとか、この首塚のすぐ先にある蘇我氏の館を目指したといったものもあります。
    因みに、五輪塔は蘇我入鹿・蝦夷の館があった甘樫丘を背に建てられています。

  • 入鹿の首塚<br />五輪塔は鎌倉時代末期~南北朝時代の造立とされますが詳細については不明です。<br />初見史料は1751年(寛延4)の『飛鳥古跡考』であり、そこに「蘇我入鹿大臣石塔」と記されたため「入鹿の首塚」が通説となっています。しかし、調べてみると別の説もあります。<br />『日本書紀』は飛鳥寺西側の「槻(つき)の木の広場」を歴史の重要な舞台として描き、中臣鎌足と中大兄皇子が蹴鞠会で出会った場所、また、異境の人々をもてなす供宴の場とも記しています。しかし、近年の発掘調査では槻の木の痕跡は何処にも見つかりませんでした。この調査結果を踏まえて、槻の木には神が宿ると神聖視されていたことから、何らかの理由で槻の木が失われた後、「槻の木の供養のため」に木が生えていた場所に五輪塔を建立したと推論されています。<br />また、首塚が入鹿暗殺の現場だとの説もあります。蘇我入鹿は、飛鳥板蓋宮から甘樫丘にある館へ帰る途中、この場所で暗殺されたと言います。確かに飛鳥板蓋宮で暗殺されたというストーリーには破綻が見られます。三韓(新羅・百済・高句麗)からの使者が天皇に謁見している宮中において、しかも王族の中大兄皇子が首を刎ねるのは如何なものでしょう。一方、入鹿暗殺を終えた中大兄皇子等は飛鳥寺に陣を構えて甘樫丘の蘇我蝦夷と対峙しました。ここで暗殺が行われたとすれば、彼等の鬼畜ぶりが窺えます。<br />更には、高句麗と百済から来日して飛鳥寺に閑居した恵慈・恵聡の供養塔とも伝えます。北方には朝鮮半島から渡来した人たちが故郷を思い眺めた真神原(まかみのはら)が広がっています。『万葉集』では柿本野人麻呂が「明日香の 真神原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし わご大君の」と詠っています。<br />飛鳥の歴史ロマンは尽きませんね!

    入鹿の首塚
    五輪塔は鎌倉時代末期~南北朝時代の造立とされますが詳細については不明です。
    初見史料は1751年(寛延4)の『飛鳥古跡考』であり、そこに「蘇我入鹿大臣石塔」と記されたため「入鹿の首塚」が通説となっています。しかし、調べてみると別の説もあります。
    『日本書紀』は飛鳥寺西側の「槻(つき)の木の広場」を歴史の重要な舞台として描き、中臣鎌足と中大兄皇子が蹴鞠会で出会った場所、また、異境の人々をもてなす供宴の場とも記しています。しかし、近年の発掘調査では槻の木の痕跡は何処にも見つかりませんでした。この調査結果を踏まえて、槻の木には神が宿ると神聖視されていたことから、何らかの理由で槻の木が失われた後、「槻の木の供養のため」に木が生えていた場所に五輪塔を建立したと推論されています。
    また、首塚が入鹿暗殺の現場だとの説もあります。蘇我入鹿は、飛鳥板蓋宮から甘樫丘にある館へ帰る途中、この場所で暗殺されたと言います。確かに飛鳥板蓋宮で暗殺されたというストーリーには破綻が見られます。三韓(新羅・百済・高句麗)からの使者が天皇に謁見している宮中において、しかも王族の中大兄皇子が首を刎ねるのは如何なものでしょう。一方、入鹿暗殺を終えた中大兄皇子等は飛鳥寺に陣を構えて甘樫丘の蘇我蝦夷と対峙しました。ここで暗殺が行われたとすれば、彼等の鬼畜ぶりが窺えます。
    更には、高句麗と百済から来日して飛鳥寺に閑居した恵慈・恵聡の供養塔とも伝えます。北方には朝鮮半島から渡来した人たちが故郷を思い眺めた真神原(まかみのはら)が広がっています。『万葉集』では柿本野人麻呂が「明日香の 真神原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし わご大君の」と詠っています。
    飛鳥の歴史ロマンは尽きませんね!

  • 飛鳥寺を後にして次の目的地「亀石」へ向かいます。鬱積したストレスをリセットし、かつての飛鳥・藤原京の賑わいぶりに思いを馳せながら黙々と歩を進めます。<br />画像は高取城跡のある高取山や竜門岳方面の峰々が重畳する眺望です。手前の左方向に伸びる尾根の先が多武峰に当たります。<br />明日香村は平坦なように見えますが結構アンジュレーションに富んでおり、サイクリングで巡る際は電動自転車が重宝するかと思います。

    飛鳥寺を後にして次の目的地「亀石」へ向かいます。鬱積したストレスをリセットし、かつての飛鳥・藤原京の賑わいぶりに思いを馳せながら黙々と歩を進めます。
    画像は高取城跡のある高取山や竜門岳方面の峰々が重畳する眺望です。手前の左方向に伸びる尾根の先が多武峰に当たります。
    明日香村は平坦なように見えますが結構アンジュレーションに富んでおり、サイクリングで巡る際は電動自転車が重宝するかと思います。

  • 亀石<br />高市郡明日香村川原にある石造物です。益田岩船や酒船石と並び、明日香を代表する謎の石造物のひとつです。亀が微笑んだような漫画チックな表情が愛らしく、「亀石」と名付けられています。花崗岩の巨石は、長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8mあり、重さ推定40tとされます。<br />この画像のアングルではただの巨石にしか見えませんが…。

    亀石
    高市郡明日香村川原にある石造物です。益田岩船や酒船石と並び、明日香を代表する謎の石造物のひとつです。亀が微笑んだような漫画チックな表情が愛らしく、「亀石」と名付けられています。花崗岩の巨石は、長さ3.6m、幅2.1m、高さ1.8mあり、重さ推定40tとされます。
    この画像のアングルではただの巨石にしか見えませんが…。

  • 亀石<br />少しアングルを変えると亀の顔らしきものが浮かび上がってきます。<br />この亀石には恐ろしい伝説も残されています。<br />大和盆地一帯が湖だった頃、対岸の当麻の蛇と川原の鯰の喧嘩で蛇が勝ち、当麻に水を吸い取られて干上がってしまい、湖に棲んでいた亀は全滅してしまった。その後、亀を哀れに思った村人達は「亀石」を造って供養したと言います。<br />因みに、亀石は最初は真北の方角を向いていたそうですが、次に東を向き、現在は南西を向いています。そしてこれが西を向いて当麻を睨みつけた時、大和国一帯が泥の海に沈むと伝えられています。<br />実際に、古代には地すべりで大和川が堰止められ、亀の背地区からかなり上流まで湖水状になっていたことが調査で判明しているそうです。

    亀石
    少しアングルを変えると亀の顔らしきものが浮かび上がってきます。
    この亀石には恐ろしい伝説も残されています。
    大和盆地一帯が湖だった頃、対岸の当麻の蛇と川原の鯰の喧嘩で蛇が勝ち、当麻に水を吸い取られて干上がってしまい、湖に棲んでいた亀は全滅してしまった。その後、亀を哀れに思った村人達は「亀石」を造って供養したと言います。
    因みに、亀石は最初は真北の方角を向いていたそうですが、次に東を向き、現在は南西を向いています。そしてこれが西を向いて当麻を睨みつけた時、大和国一帯が泥の海に沈むと伝えられています。
    実際に、古代には地すべりで大和川が堰止められ、亀の背地区からかなり上流まで湖水状になっていたことが調査で判明しているそうです。

  • 亀石<br />明日香には亀石の他、酒船石や二面石、猿石、益田岩船、須弥山石、石人像、古代の子孫繁栄や農耕信仰の対象ともされる「マラ石」など20体ほどの石造物が散見されますが、誰が何の目的で造ったのかは謎に包まれたままです。<br />「亀石」と呼ばれますが、実際の亀の顔とはかけ離れており、見ようによっては蛙に近いかもしれません。しかし、「野中寺旧伽藍跡」の塔舎利心礎に同様のレリーフ加工がなされていたことから、「亀」との説が有力です。顔部分の仕上げは丁寧ですが、甲羅などは自然石の岩肌を顕わにしています。ただし、後部の一部にはこのように甲羅を思わせる仕上げも見られます。<br />建造時期や目的については不詳であり、次に挙げるように諸説紛々です。<br />1.川原寺の所領の四隅を示す石標のひとつ。(通説)<br />弘福寺(川原寺)の古文書に「字亀石垣内」と記されており、川原寺の寺域の境界を示す石標ではないかという説。<br />2.未完の猿石像という古墳に関連する遺物説。(門脇禎二の説)<br />3.647(大化3)年、新羅の金春秋王子が外交使節として来朝時、歓迎用に新羅渡来の石工により造形して設置し、この周囲で舞楽を披露した。<br />4.仏教伝来以前の土着信仰を現わす神像。<br />5.斉明天皇の時代に伝説上の生物「グリフィン」像を造ろうとしたが、乙巳の変で蘇我氏が滅亡し、加工途中で放棄され、そのままとなっている。(松本清張の説)<br />因みに、グリフォンは鷲の翼と上半身を持ち、下半身はライオンとされます。

    亀石
    明日香には亀石の他、酒船石や二面石、猿石、益田岩船、須弥山石、石人像、古代の子孫繁栄や農耕信仰の対象ともされる「マラ石」など20体ほどの石造物が散見されますが、誰が何の目的で造ったのかは謎に包まれたままです。
    「亀石」と呼ばれますが、実際の亀の顔とはかけ離れており、見ようによっては蛙に近いかもしれません。しかし、「野中寺旧伽藍跡」の塔舎利心礎に同様のレリーフ加工がなされていたことから、「亀」との説が有力です。顔部分の仕上げは丁寧ですが、甲羅などは自然石の岩肌を顕わにしています。ただし、後部の一部にはこのように甲羅を思わせる仕上げも見られます。
    建造時期や目的については不詳であり、次に挙げるように諸説紛々です。
    1.川原寺の所領の四隅を示す石標のひとつ。(通説)
    弘福寺(川原寺)の古文書に「字亀石垣内」と記されており、川原寺の寺域の境界を示す石標ではないかという説。
    2.未完の猿石像という古墳に関連する遺物説。(門脇禎二の説)
    3.647(大化3)年、新羅の金春秋王子が外交使節として来朝時、歓迎用に新羅渡来の石工により造形して設置し、この周囲で舞楽を披露した。
    4.仏教伝来以前の土着信仰を現わす神像。
    5.斉明天皇の時代に伝説上の生物「グリフィン」像を造ろうとしたが、乙巳の変で蘇我氏が滅亡し、加工途中で放棄され、そのままとなっている。(松本清張の説)
    因みに、グリフォンは鷲の翼と上半身を持ち、下半身はライオンとされます。

  • 「聖徳皇太子御誕生所」の石碑<br />橘寺への参道入口となる辺りに、「聖徳皇太子御誕生所」の石碑があります。石碑と言うか、立派過ぎて石造門柱のようです。右側には「下馬」と刻んであります。参道は一部が石畳となり、周囲にはのどかな田園風景が広がります。橘寺周辺は、古来「太子生誕の地」と伝わります。<br />余談ですが、最近の教科書には「聖徳太子」は登場しないそうです。厩戸王や厩戸皇子と名を変えたからです。その背景には、イエス・キリストの如く馬小屋で生まれ、10人の話を一度に聞いて理解したという逸話が「盛られた」聖徳太子と「実在」した厩戸王を同一人物とは認められないという理由からです。確かに、「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆」などの偉業を一人で成したとすれば伝説の人物としか言いようがありません。<br />一方、厩戸王については、「憲法十七条」や「冠位十二階」に関与したという証拠はないそうです。<br />こうした伝説の聖徳太子が生まれた理由は、壬申の乱で勝利して新天皇となった天武天皇が、天智天皇の権威が失墜していたのを目の当たりにし、「天皇中心の中央集権律令国家」を目指したためです。そこで天皇は厩戸王に着目しました。彼と同時代に実行された数々の施策を誇大評価し、それらの偉業に関与したという「聖徳太子」をでっちあげたのです。ライバルの有力豪族に対し、神代から続く自らの血統の優秀性と国の統治者であるという正統性を再認識させるのが目的とされます。

    「聖徳皇太子御誕生所」の石碑
    橘寺への参道入口となる辺りに、「聖徳皇太子御誕生所」の石碑があります。石碑と言うか、立派過ぎて石造門柱のようです。右側には「下馬」と刻んであります。参道は一部が石畳となり、周囲にはのどかな田園風景が広がります。橘寺周辺は、古来「太子生誕の地」と伝わります。
    余談ですが、最近の教科書には「聖徳太子」は登場しないそうです。厩戸王や厩戸皇子と名を変えたからです。その背景には、イエス・キリストの如く馬小屋で生まれ、10人の話を一度に聞いて理解したという逸話が「盛られた」聖徳太子と「実在」した厩戸王を同一人物とは認められないという理由からです。確かに、「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆」などの偉業を一人で成したとすれば伝説の人物としか言いようがありません。
    一方、厩戸王については、「憲法十七条」や「冠位十二階」に関与したという証拠はないそうです。
    こうした伝説の聖徳太子が生まれた理由は、壬申の乱で勝利して新天皇となった天武天皇が、天智天皇の権威が失墜していたのを目の当たりにし、「天皇中心の中央集権律令国家」を目指したためです。そこで天皇は厩戸王に着目しました。彼と同時代に実行された数々の施策を誇大評価し、それらの偉業に関与したという「聖徳太子」をでっちあげたのです。ライバルの有力豪族に対し、神代から続く自らの血統の優秀性と国の統治者であるという正統性を再認識させるのが目的とされます。

  • 橘寺<br />高市郡明日香村橘にある天台宗寺院「橘寺」は正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と言います。木造 聖徳太子の勝鬘経講讃像(室町時代・重文)を本尊に祀ります。<br />この寺院の前身は欽明天皇の別宮「橘の宮」であり、寺伝には572年に橘の宮で天皇の孫 聖徳太子が生誕したと記されています。606年、太子が推古天皇の命で『勝鬘経(しょうまんきょう)』の講義をされた折、その素晴らしさに天から蓮の花弁が舞い降り、千の仏頭が現れて光明を放ち、太子の冠が日・月・星の光を放ちました。これに驚いた天皇の命で、太子が橘の宮を改造して寺院を創建し、橘樹寺(たちばなのきてら)と命名しました。<br />「聖徳太子建立七大寺」の一つに数えられ、創建以降、皇族・貴族の庇護を受けて四天王寺式の伽藍が完成し、8世紀頃には66の堂塔坊舎が並び立つ大寺院寺となりました。<br />しかし、1148(久安4)年には落雷で五重塔が焼失(60年後に再建)、1506(永正3)年には多武峰の僧兵の焼き討ちに遭うなどして次第に衰退し、江戸時代には僧舎が1棟残るだけの有様だったそうです。1864(元治元)年に太子殿を本堂として再興し、現在に至ります。<br />因みに、現在は法隆寺が所蔵する「玉虫厨子」は当初はこの橘寺にあったと言います。

    橘寺
    高市郡明日香村橘にある天台宗寺院「橘寺」は正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と言います。木造 聖徳太子の勝鬘経講讃像(室町時代・重文)を本尊に祀ります。
    この寺院の前身は欽明天皇の別宮「橘の宮」であり、寺伝には572年に橘の宮で天皇の孫 聖徳太子が生誕したと記されています。606年、太子が推古天皇の命で『勝鬘経(しょうまんきょう)』の講義をされた折、その素晴らしさに天から蓮の花弁が舞い降り、千の仏頭が現れて光明を放ち、太子の冠が日・月・星の光を放ちました。これに驚いた天皇の命で、太子が橘の宮を改造して寺院を創建し、橘樹寺(たちばなのきてら)と命名しました。
    「聖徳太子建立七大寺」の一つに数えられ、創建以降、皇族・貴族の庇護を受けて四天王寺式の伽藍が完成し、8世紀頃には66の堂塔坊舎が並び立つ大寺院寺となりました。
    しかし、1148(久安4)年には落雷で五重塔が焼失(60年後に再建)、1506(永正3)年には多武峰の僧兵の焼き討ちに遭うなどして次第に衰退し、江戸時代には僧舎が1棟残るだけの有様だったそうです。1864(元治元)年に太子殿を本堂として再興し、現在に至ります。
    因みに、現在は法隆寺が所蔵する「玉虫厨子」は当初はこの橘寺にあったと言います。

  • 橘寺 西門<br />「橘寺」の名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った、「橘の木」をこの地に植えたという伝説に由来します。<br />「その道中、間守は老人が娘に叱られ、泣いているところに出くわした。実は娘は老人の母親でした。若くして老けたのは、不老長寿の木の実を食べなかったからだと言う。これを聞いた間守はその木をもらって帰国したが、天皇は既に崩御されていた。悲しんだ間守は、持ち帰った木を墓前に捧げ、その場で絶食して殉死しました。間守の死後、景行天皇は彼の遺志を受け継ぎ、持ち帰った木(橘)をこの地に植え、この地を橘と呼ぶようになった。」。<br />因みに、この時に黒砂糖も持ち帰り、共に薬として使ったことから、後に蜜柑・薬・薬・菓子の祖神として崇められるようになりました。このため、お菓子屋さんに屋号「橘屋」が多く見られます。

    橘寺 西門
    「橘寺」の名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守(たじまもり)が持ち帰った、「橘の木」をこの地に植えたという伝説に由来します。
    「その道中、間守は老人が娘に叱られ、泣いているところに出くわした。実は娘は老人の母親でした。若くして老けたのは、不老長寿の木の実を食べなかったからだと言う。これを聞いた間守はその木をもらって帰国したが、天皇は既に崩御されていた。悲しんだ間守は、持ち帰った木を墓前に捧げ、その場で絶食して殉死しました。間守の死後、景行天皇は彼の遺志を受け継ぎ、持ち帰った木(橘)をこの地に植え、この地を橘と呼ぶようになった。」。
    因みに、この時に黒砂糖も持ち帰り、共に薬として使ったことから、後に蜜柑・薬・薬・菓子の祖神として崇められるようになりました。このため、お菓子屋さんに屋号「橘屋」が多く見られます。

  • 橘寺<br />社伝では、この寺の前身であった欽明天皇の別宮「橘の宮」で聖徳太子が生まれたとしていますが、太子の出生地については諸説紛々です。太子が推古天皇の下で活躍した「飛鳥」や太子が前半生を過ごした「磐余(いわれ)」、「軽」、そして「葛城」説など複数の候補地が挙げられています。<br />太子は、橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ:後の用明天皇)とその異母妹 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生まれました。『日本書紀』では、皇女が「宮中」の見回りをしている時に厩の戸に触れて急に産気づき、太子を安産したと記しています。しかし、「宮中」とあるだけで、往時の天皇である敏達天皇、つまり聖徳太子の伯父の王宮なのか別の宮なのかは判りません。<br />1つ目の候補地は、古代の都「磐余地域」です。<br />桜井市中部~橿原市南東部の池尻付近までの一帯に当たります。推古天皇が飛鳥(明日香村)に遷る前の5~6世紀、つまり聖徳太子が生まれた頃の政治の中心地は飛鳥の少し北東にある磐余地域でした。太子の父も磐余の「池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)」で即位して用明天皇となりました。また、太子自身もこの宮の南にある上宮で育ちました。実は、『日本書紀』は太子の出生地を「池辺双槻宮」とイメージして書かれていたとの解釈もあります。

    橘寺
    社伝では、この寺の前身であった欽明天皇の別宮「橘の宮」で聖徳太子が生まれたとしていますが、太子の出生地については諸説紛々です。太子が推古天皇の下で活躍した「飛鳥」や太子が前半生を過ごした「磐余(いわれ)」、「軽」、そして「葛城」説など複数の候補地が挙げられています。
    太子は、橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ:後の用明天皇)とその異母妹 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生まれました。『日本書紀』では、皇女が「宮中」の見回りをしている時に厩の戸に触れて急に産気づき、太子を安産したと記しています。しかし、「宮中」とあるだけで、往時の天皇である敏達天皇、つまり聖徳太子の伯父の王宮なのか別の宮なのかは判りません。
    1つ目の候補地は、古代の都「磐余地域」です。
    桜井市中部~橿原市南東部の池尻付近までの一帯に当たります。推古天皇が飛鳥(明日香村)に遷る前の5~6世紀、つまり聖徳太子が生まれた頃の政治の中心地は飛鳥の少し北東にある磐余地域でした。太子の父も磐余の「池辺双槻宮(いけべのなみつきのみや)」で即位して用明天皇となりました。また、太子自身もこの宮の南にある上宮で育ちました。実は、『日本書紀』は太子の出生地を「池辺双槻宮」とイメージして書かれていたとの解釈もあります。

  • 橘寺<br />県道155線を挟んで橘寺の北に位置する川原寺跡から撮影した橘寺の全景です。<br />右後方に見える小山は橘寺の山号でもある仏頭山です。同寺院の寺域でもあります。<br /><br />2つ目の候補地は、「飛鳥地域」です。<br />飛鳥地域は、6世紀後半に推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)を造営した後、約100年に亘って代々の宮が築かれました。飛鳥には父 橘豊日皇子の名と同じ橘という地名があり、祖父 欽明天皇の別宮「橘の宮」が存在していたことから、太子の出生候補地のひとつとなっています。また、橘寺の東南には太子の本名とされる「厩戸」という古い地名があったとも伝わり、太子との関りを思わせます。ただし、この地名は鎌倉時代のもので、飛鳥時代に存在したかどうかは不明です。<br />一方、飛鳥は豪族 蘇我氏の本拠地でもありました。『上宮聖徳法王帝説』を根拠とした、穴穂部間人皇女が実母(小姉君)の実家、つまり叔父に当たる蘇我馬子の邸宅で出産し、その「馬子」屋敷が転じて「厩戸」と名付けられたとの説もあります。この件については、梅原猛著『飛鳥とは何か』では「飛鳥の寺のうちでもっとも分からない寺は、橘寺であろう。橘寺は正史と寺伝とが大きく食い違う寺である」と述べています。

    橘寺
    県道155線を挟んで橘寺の北に位置する川原寺跡から撮影した橘寺の全景です。
    右後方に見える小山は橘寺の山号でもある仏頭山です。同寺院の寺域でもあります。

    2つ目の候補地は、「飛鳥地域」です。
    飛鳥地域は、6世紀後半に推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)を造営した後、約100年に亘って代々の宮が築かれました。飛鳥には父 橘豊日皇子の名と同じ橘という地名があり、祖父 欽明天皇の別宮「橘の宮」が存在していたことから、太子の出生候補地のひとつとなっています。また、橘寺の東南には太子の本名とされる「厩戸」という古い地名があったとも伝わり、太子との関りを思わせます。ただし、この地名は鎌倉時代のもので、飛鳥時代に存在したかどうかは不明です。
    一方、飛鳥は豪族 蘇我氏の本拠地でもありました。『上宮聖徳法王帝説』を根拠とした、穴穂部間人皇女が実母(小姉君)の実家、つまり叔父に当たる蘇我馬子の邸宅で出産し、その「馬子」屋敷が転じて「厩戸」と名付けられたとの説もあります。この件については、梅原猛著『飛鳥とは何か』では「飛鳥の寺のうちでもっとも分からない寺は、橘寺であろう。橘寺は正史と寺伝とが大きく食い違う寺である」と述べています。

  • 川原寺(かわらでら)跡<br />手前から南大門礎石、中門礎石、その右奥に塔基壇跡が見られます。<br /><br />大安寺や元興寺と共に「日本3大寺」のひとつである川原寺は高市郡明日香村川原にあった仏教寺院です。また、飛鳥寺や薬師寺、大官大寺と並んで「飛鳥の4大寺」に数えられた大寺院でもありした。現在、川原寺跡は国の史跡に指定され、中金堂跡には真言宗豊山派仏陀山弘福寺(ぐふくじ)が建てられています。<br />7世紀中期のこの地には飛鳥板蓋宮が火災に遭ったために女帝 斉明天皇が仮住まいとして営んだ川原宮があり、斉明天皇の崩御後、その子の天智天皇の時代に川原寺に改造されたと伝えます。<br />その後、九条兼実の日記『玉葉』には平安時代末期の1191(建久2)年に焼失したと記されています。鎌倉時代に再興されたもののかつての勢いを取り戻すことはく、室町時代末期には雷火によって再度焼失し、それ以降は再建されずに廃寺同然となったと伝えます。やがて江戸時代中期に中金堂跡に弘福寺が建立されて法燈を継承しています。

    川原寺(かわらでら)跡
    手前から南大門礎石、中門礎石、その右奥に塔基壇跡が見られます。

    大安寺や元興寺と共に「日本3大寺」のひとつである川原寺は高市郡明日香村川原にあった仏教寺院です。また、飛鳥寺や薬師寺、大官大寺と並んで「飛鳥の4大寺」に数えられた大寺院でもありした。現在、川原寺跡は国の史跡に指定され、中金堂跡には真言宗豊山派仏陀山弘福寺(ぐふくじ)が建てられています。
    7世紀中期のこの地には飛鳥板蓋宮が火災に遭ったために女帝 斉明天皇が仮住まいとして営んだ川原宮があり、斉明天皇の崩御後、その子の天智天皇の時代に川原寺に改造されたと伝えます。
    その後、九条兼実の日記『玉葉』には平安時代末期の1191(建久2)年に焼失したと記されています。鎌倉時代に再興されたもののかつての勢いを取り戻すことはく、室町時代末期には雷火によって再度焼失し、それ以降は再建されずに廃寺同然となったと伝えます。やがて江戸時代中期に中金堂跡に弘福寺が建立されて法燈を継承しています。

  • 川原寺跡<br />由緒等については『日本書紀』などの歴史書や風土記への記載もなく、「謎の大寺」という別名があるほどです。また、室町時代末期に廃寺同然となったために寺伝も残されておらず、創建目的や発願者などを知る術がなく、往時の大寺院としては謎めいた存在です。<br />その理由は、この藤原京から平城京へ遷都された際に「飛鳥の4大寺」で唯一この川原寺だけが飛鳥に留まったことと、関係があるのかもしれません。理由が知りたいところですが、今の所、この答えはどの研究者からも発せられていません。<br />一方、平城京に移設されなかったことも大いなる謎です。この疑問に対しては、網干善教・NHK取材班共著『謎の大寺 飛鳥 川原寺』に興味深い記述があります。<br />「川原寺が平城遷都に際し、どうして平城京に移建されなかったのか、その謎を解く手がかりがある。飛鳥四大寺の中で、川原寺は異質の寺であったのだ。インド仏教の影響を強く受け、それゆえに斉明、天武両帝の庇護を受け飛鳥仏教に独特の地歩を築いた。インド石窟寺院と見まがう異様な金堂。伎楽団、瑠璃の礎石。外国に向かって開かれた寺として大きな役割を果たした。山田寺や虚空蔵寺などの氏寺にも影響力を持った。それが天武天皇の宗教政策にも叶っていたからである。しかし川原寺は、その異端であることによって凋落の時を迎える。すでに仏教はこの時代になると日本化の傾向をたどるようになる。飛鳥の諸大寺は平城への遷都を許されたが、川原寺はあまりに日本仏教の中で異質であり、人々の信を失いはじめていたのだ。かくして川原寺は飛鳥に残る。」。一理あるかもしれません。

    川原寺跡
    由緒等については『日本書紀』などの歴史書や風土記への記載もなく、「謎の大寺」という別名があるほどです。また、室町時代末期に廃寺同然となったために寺伝も残されておらず、創建目的や発願者などを知る術がなく、往時の大寺院としては謎めいた存在です。
    その理由は、この藤原京から平城京へ遷都された際に「飛鳥の4大寺」で唯一この川原寺だけが飛鳥に留まったことと、関係があるのかもしれません。理由が知りたいところですが、今の所、この答えはどの研究者からも発せられていません。
    一方、平城京に移設されなかったことも大いなる謎です。この疑問に対しては、網干善教・NHK取材班共著『謎の大寺 飛鳥 川原寺』に興味深い記述があります。
    「川原寺が平城遷都に際し、どうして平城京に移建されなかったのか、その謎を解く手がかりがある。飛鳥四大寺の中で、川原寺は異質の寺であったのだ。インド仏教の影響を強く受け、それゆえに斉明、天武両帝の庇護を受け飛鳥仏教に独特の地歩を築いた。インド石窟寺院と見まがう異様な金堂。伎楽団、瑠璃の礎石。外国に向かって開かれた寺として大きな役割を果たした。山田寺や虚空蔵寺などの氏寺にも影響力を持った。それが天武天皇の宗教政策にも叶っていたからである。しかし川原寺は、その異端であることによって凋落の時を迎える。すでに仏教はこの時代になると日本化の傾向をたどるようになる。飛鳥の諸大寺は平城への遷都を許されたが、川原寺はあまりに日本仏教の中で異質であり、人々の信を失いはじめていたのだ。かくして川原寺は飛鳥に残る。」。一理あるかもしれません。

  • 川原寺跡 庚申(こうしん)塔<br />川原寺寺領の南西角に庚申塔があります。中国伝来の道教に由来する「庚申信仰」に基づいて建てられた石塔です。<br />人体には三尸(さんし)虫が潜み、庚申(かのえさる)日には寝ている間に三尸虫が閻魔大王にその人の日頃の行いを報告すると言います。罪状次第では寿命が縮まるとされ、それ故この日は身を慎み、虫が抜け出さないように徹夜をしました。これを3年間(18回)続けた記念に建立したのが「庚申塔」です。<br />しかし、明治時代になると庚申信仰は迷信であるとされ、政府によって多くの庚申塔が破壊、撤去されました。現在見られる、そうした撤去を逞しく免れたものと言えます。

    川原寺跡 庚申(こうしん)塔
    川原寺寺領の南西角に庚申塔があります。中国伝来の道教に由来する「庚申信仰」に基づいて建てられた石塔です。
    人体には三尸(さんし)虫が潜み、庚申(かのえさる)日には寝ている間に三尸虫が閻魔大王にその人の日頃の行いを報告すると言います。罪状次第では寿命が縮まるとされ、それ故この日は身を慎み、虫が抜け出さないように徹夜をしました。これを3年間(18回)続けた記念に建立したのが「庚申塔」です。
    しかし、明治時代になると庚申信仰は迷信であるとされ、政府によって多くの庚申塔が破壊、撤去されました。現在見られる、そうした撤去を逞しく免れたものと言えます。

  • 菖蒲池古墳<br />この古墳も謎に満ちています。<br />ここが一般道からの入口になります。<br />鉄製の梯子段を登ります。

    菖蒲池古墳
    この古墳も謎に満ちています。
    ここが一般道からの入口になります。
    鉄製の梯子段を登ります。

  • 菖蒲池古墳<br />橿原市の南東部、明日香村との境界線付近にあり、「飛鳥・奈良の宮都とその関連資産群」の構成要素の一つとして世界遺産暫定リストに記載されています。<br />一辺約30mの二段築盛の方墳に全長6m以上と推定される両袖式横穴式石室を構成し、石と石の隙間は漆喰で埋められています。玄室内には凝灰岩をくり抜いた、棟飾りを持つ優美な2基の家形石棺が南北に並び、両基とも内側の全面に布を張って漆を塗っています。これが菖蒲池古墳が合葬墓と言われる所以です。<br />石棺は精巧な造りで、全国的にも特異なものだそうです。尚、かつては石室は露出していたそうですが、現在は2重の覆い屋根で囲われています。入口から石室を覗き込むことができます。

    菖蒲池古墳
    橿原市の南東部、明日香村との境界線付近にあり、「飛鳥・奈良の宮都とその関連資産群」の構成要素の一つとして世界遺産暫定リストに記載されています。
    一辺約30mの二段築盛の方墳に全長6m以上と推定される両袖式横穴式石室を構成し、石と石の隙間は漆喰で埋められています。玄室内には凝灰岩をくり抜いた、棟飾りを持つ優美な2基の家形石棺が南北に並び、両基とも内側の全面に布を張って漆を塗っています。これが菖蒲池古墳が合葬墓と言われる所以です。
    石棺は精巧な造りで、全国的にも特異なものだそうです。尚、かつては石室は露出していたそうですが、現在は2重の覆い屋根で囲われています。入口から石室を覗き込むことができます。

  • 菖蒲池古墳<br />出土した土器等から古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀中頃の築造と推定されています。被葬者は明らかでなく、皇族の墓とする説の他、蘇我氏の墓とする説があります。<br />近年、菖蒲池古墳の東方で小山田古墳が発見されたことにより、議論が再燃しています。その中で蘇我蝦夷・入鹿親子が葬られたと『日本書紀』に記された今来(いまき)の「双墓(大陵・小陵)」の小陵を菖蒲池古墳に充てる説や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったとする説など激論が交わされています。<br />一方、小山田古墳は舒明天皇の初葬陵と見るとしても、菖蒲池古墳は小陵ではないとの説もあります。<br />その他、蘇我倉山田石川麻呂等の名が挙げられることもあります。このように蘇我氏の名が挙げられる背景には、蘇我氏の館のあった甘樫丘と目と鼻の先の位置に所在することが要因です。

    菖蒲池古墳
    出土した土器等から古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀中頃の築造と推定されています。被葬者は明らかでなく、皇族の墓とする説の他、蘇我氏の墓とする説があります。
    近年、菖蒲池古墳の東方で小山田古墳が発見されたことにより、議論が再燃しています。その中で蘇我蝦夷・入鹿親子が葬られたと『日本書紀』に記された今来(いまき)の「双墓(大陵・小陵)」の小陵を菖蒲池古墳に充てる説や、その両者を菖蒲池古墳に葬ったとする説など激論が交わされています。
    一方、小山田古墳は舒明天皇の初葬陵と見るとしても、菖蒲池古墳は小陵ではないとの説もあります。
    その他、蘇我倉山田石川麻呂等の名が挙げられることもあります。このように蘇我氏の名が挙げられる背景には、蘇我氏の館のあった甘樫丘と目と鼻の先の位置に所在することが要因です。

  • 菖蒲池古墳<br />この古墳はいわゆる「聖なるライン」と呼ばれる雀大路の延長線上に位置しています。<br />「聖なるライン」とは、藤原京の朱雀大路を真っ直ぐ南に延長したライン上に、天武持統天皇陵や天武天皇の孫である文武天皇陵(中尾山古墳)、キトラ古墳、高松塚古墳など、天武朝の皇族に関係する7~8世紀の古墳が点在しています。箸墓古墳の謎を深める「太陽の道」にも似ており、何か意図的なものを感じさせます。因みに、「聖なるライン」に着目したのは、元橿原考古学研究所所長 岸俊男氏だそうです。<br />何らかの意図があったとする説です。7世紀中頃に築かれた菖蒲池古墳もこのライン上にあります。<br />また、2010年の調査では、菖蒲池古墳の墳丘が改変され始めたのは、築造から100年も経たない藤原宮の頃だったことが判明しています。通常ならば、このように記憶が定かなうちに貴人の墓を崩すことはないため、ここにも何らかの秘密が隠されているとされます。

    菖蒲池古墳
    この古墳はいわゆる「聖なるライン」と呼ばれる雀大路の延長線上に位置しています。
    「聖なるライン」とは、藤原京の朱雀大路を真っ直ぐ南に延長したライン上に、天武持統天皇陵や天武天皇の孫である文武天皇陵(中尾山古墳)、キトラ古墳、高松塚古墳など、天武朝の皇族に関係する7~8世紀の古墳が点在しています。箸墓古墳の謎を深める「太陽の道」にも似ており、何か意図的なものを感じさせます。因みに、「聖なるライン」に着目したのは、元橿原考古学研究所所長 岸俊男氏だそうです。
    何らかの意図があったとする説です。7世紀中頃に築かれた菖蒲池古墳もこのライン上にあります。
    また、2010年の調査では、菖蒲池古墳の墳丘が改変され始めたのは、築造から100年も経たない藤原宮の頃だったことが判明しています。通常ならば、このように記憶が定かなうちに貴人の墓を崩すことはないため、ここにも何らかの秘密が隠されているとされます。

  • 五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地)<br />全長約310mの規模は全国6番目、県下最大規模の前方後円墳で、6世紀後半の造営と考えられています。大和王権最後の王墓でもあり、規模が大き過ぎて全体像がつかめず、円墳と見られていた時代もあり、それ故、前方後円墳であるにも拘わらず「丸山」古墳と命名されています。前方後円墳と認識されたのは、昭和30年代に撮影された航空写真を見た時だそうです。<br />一方、横穴式石室の全長は28.4mもあり、国内最大規模を誇ります。両袖式の石室で、玄室の平面形は奥壁が幅広くなる羽子板状となっています。また、菖蒲池古墳と同様に玄室には2基の家形石棺が安置されています。こうした形式が往時流行ったのでしょうか?

    五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地)
    全長約310mの規模は全国6番目、県下最大規模の前方後円墳で、6世紀後半の造営と考えられています。大和王権最後の王墓でもあり、規模が大き過ぎて全体像がつかめず、円墳と見られていた時代もあり、それ故、前方後円墳であるにも拘わらず「丸山」古墳と命名されています。前方後円墳と認識されたのは、昭和30年代に撮影された航空写真を見た時だそうです。
    一方、横穴式石室の全長は28.4mもあり、国内最大規模を誇ります。両袖式の石室で、玄室の平面形は奥壁が幅広くなる羽子板状となっています。また、菖蒲池古墳と同様に玄室には2基の家形石棺が安置されています。こうした形式が往時流行ったのでしょうか?

  • 五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地)<br />見学路と書かれていたので、条件反射的にかすかなトレースを頼りに後円部に登ってみましたが、頂部は宮内庁の管轄で鉄策が張り巡らされています。<br /><br />明治政府が大阪造幣寮に招聘したウィリアム・ガウランド(日本アルプスの命名者、日本考古学の父)は丸山古墳を「日本最大のドルメン(dolmen=横穴式石室)」と称賛しています。尚、出土品の多くは大英博物館が所蔵しています。<br />ガウランドの実測図は、丸山古墳の石室や石室奥壁が、他の横穴式石室型古墳でよく見られるような後円部中心の位置からズレていました。測定ミスと思われていましたが、再調査によりガウランドの実測値が正しかったことが判ったそうです。<br />石室が中心からズレた原因は、丸山古墳が造られた6世紀後半という時期には、巨大な墳丘内部に巨石で大きな石室や長い羨道を造ることが技術的に難しくなっていたからと考えられるそうです。

    五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地)
    見学路と書かれていたので、条件反射的にかすかなトレースを頼りに後円部に登ってみましたが、頂部は宮内庁の管轄で鉄策が張り巡らされています。

    明治政府が大阪造幣寮に招聘したウィリアム・ガウランド(日本アルプスの命名者、日本考古学の父)は丸山古墳を「日本最大のドルメン(dolmen=横穴式石室)」と称賛しています。尚、出土品の多くは大英博物館が所蔵しています。
    ガウランドの実測図は、丸山古墳の石室や石室奥壁が、他の横穴式石室型古墳でよく見られるような後円部中心の位置からズレていました。測定ミスと思われていましたが、再調査によりガウランドの実測値が正しかったことが判ったそうです。
    石室が中心からズレた原因は、丸山古墳が造られた6世紀後半という時期には、巨大な墳丘内部に巨石で大きな石室や長い羨道を造ることが技術的に難しくなっていたからと考えられるそうです。

  • 五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地)<br />被葬者については定かではありません。かつては宮内庁により後円部墳頂は第40代 天武天皇・第41代 持統天皇の合同墓とされてきましたが、1880(明治13)年に発見された鎌倉時代の天武陵盗掘事件の調書『阿不幾乃山陵記(あふきのさんりょうき)』から、それらは野口王墓(明日香村)に治定され、丸山古墳は被葬者不明の「畝傍陵墓参考地」に格下げとなりました。<br />古墳の築造時期や石棺の様子などから、被葬者は欽明天皇とその妃の堅塩媛(そがのきたしひめ)、蘇我稲目、宣化天皇、推古天皇と息子 竹田皇子(初葬墓)など諸説あります。その論拠は、『記紀』の記述をはじめとする各種史料や考古学的成果、地名など多岐に亘ります。また、その多くは平田梅山古墳との関係の中で論じられていますが、調査不能の陵墓ですから机上の空論に留まるのが宿命です。<br />因みに、近年の発掘調査により、明日香村の都塚古墳が蘇我稲目の墓である可能性が高まっています。

    五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地)
    被葬者については定かではありません。かつては宮内庁により後円部墳頂は第40代 天武天皇・第41代 持統天皇の合同墓とされてきましたが、1880(明治13)年に発見された鎌倉時代の天武陵盗掘事件の調書『阿不幾乃山陵記(あふきのさんりょうき)』から、それらは野口王墓(明日香村)に治定され、丸山古墳は被葬者不明の「畝傍陵墓参考地」に格下げとなりました。
    古墳の築造時期や石棺の様子などから、被葬者は欽明天皇とその妃の堅塩媛(そがのきたしひめ)、蘇我稲目、宣化天皇、推古天皇と息子 竹田皇子(初葬墓)など諸説あります。その論拠は、『記紀』の記述をはじめとする各種史料や考古学的成果、地名など多岐に亘ります。また、その多くは平田梅山古墳との関係の中で論じられていますが、調査不能の陵墓ですから机上の空論に留まるのが宿命です。
    因みに、近年の発掘調査により、明日香村の都塚古墳が蘇我稲目の墓である可能性が高まっています。

  • 五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地)<br />1991年に偶然玄室の入口が開いているのを子どもが発見し、その父親が撮った写真がマスコミに流出し大騒動となりました。しかしそのおかげで、石舞台古墳の規模を上回る、国内最大の横穴式石室であることが判りました。羨道部の石材は、後半分は玄室と同じ飛鳥石に対し、前半分は同じ花崗岩でも種類が異なり石積みも雑です。これは追葬時に羨道部が改修された可能性を示唆するものと往時の新聞記事は伝えています。<br />最大の謎は、玄室内には石棺が2基安置されているのですが、新しい石棺(7世紀前半)が奥にあり、古い石棺(6世紀後半)が手前に置かれていることです。活発な議論が交わされていますが、結論は未だに出ていません。

    五条野丸山古墳(畝傍陵墓参考地)
    1991年に偶然玄室の入口が開いているのを子どもが発見し、その父親が撮った写真がマスコミに流出し大騒動となりました。しかしそのおかげで、石舞台古墳の規模を上回る、国内最大の横穴式石室であることが判りました。羨道部の石材は、後半分は玄室と同じ飛鳥石に対し、前半分は同じ花崗岩でも種類が異なり石積みも雑です。これは追葬時に羨道部が改修された可能性を示唆するものと往時の新聞記事は伝えています。
    最大の謎は、玄室内には石棺が2基安置されているのですが、新しい石棺(7世紀前半)が奥にあり、古い石棺(6世紀後半)が手前に置かれていることです。活発な議論が交わされていますが、結論は未だに出ていません。

  • 近畿日本鉄道「橿原神宮前」駅 (中央口)<br />15:00にゴールとなる近鉄「橿原神宮前」駅に到着です。五条野丸山古墳の方墳部を眺めながら歩いているうちに、ニュートンの運動の第一法則「慣性の法則」よろしく、ほぼ惰性でここまで辿り着きました。奈良交通バス停「多武峰」出発が8:30でしたので、6時間半の散策でした。<br />皇紀2600年に当たる1940(昭和15)年に竣工した中央口駅舎はこのようにユニークなデザインです。設計者は戦前~戦後にかけて数多の作品を遺した村野藤吾氏です。大和地方の民家特有の大和棟をモチーフにした作品ですが、大和棟を知らなければ駅名のイメージから神社仏閣を彷彿とさせるフォルムです。急勾配と緩勾配の屋根の重なり合いや遠近感を創生する軒下の列柱は、村野氏らしい構造美を魅せ、ドイツ新古典主義建築の真骨頂が炸裂しています。インパクトのある屋根は、銅版葺や瓦葺、スレート葺など素材を違え、緩慢にならないよう変化を持たせています。<br />村野氏は、モダニズムの中に表現主義を導入し、人間的で豊かな空間を創出した建築家です。丹下健三氏と双璧をなすと評されましたが、それは東大卒の官の丹下氏と早稲田卒の民の村野氏という対比と共に、モダニズムを異なる方向性のデザインでチャレンジした2人の立ち位置の違いでもありました。因みに、村野氏のパトロンの筆頭が近鉄だったこともあり、数多の近鉄関連施設を手掛けています。<br />代表作には日生劇場をはじめ世界平和記念聖堂、大丸(現 大丸松坂屋百貨店)、高島屋、大阪商船(現 商船三井)、川崎造船所(現 川崎重工業)、初代新歌舞伎座、宇部市民館などの作品があります。

    近畿日本鉄道「橿原神宮前」駅 (中央口)
    15:00にゴールとなる近鉄「橿原神宮前」駅に到着です。五条野丸山古墳の方墳部を眺めながら歩いているうちに、ニュートンの運動の第一法則「慣性の法則」よろしく、ほぼ惰性でここまで辿り着きました。奈良交通バス停「多武峰」出発が8:30でしたので、6時間半の散策でした。
    皇紀2600年に当たる1940(昭和15)年に竣工した中央口駅舎はこのようにユニークなデザインです。設計者は戦前~戦後にかけて数多の作品を遺した村野藤吾氏です。大和地方の民家特有の大和棟をモチーフにした作品ですが、大和棟を知らなければ駅名のイメージから神社仏閣を彷彿とさせるフォルムです。急勾配と緩勾配の屋根の重なり合いや遠近感を創生する軒下の列柱は、村野氏らしい構造美を魅せ、ドイツ新古典主義建築の真骨頂が炸裂しています。インパクトのある屋根は、銅版葺や瓦葺、スレート葺など素材を違え、緩慢にならないよう変化を持たせています。
    村野氏は、モダニズムの中に表現主義を導入し、人間的で豊かな空間を創出した建築家です。丹下健三氏と双璧をなすと評されましたが、それは東大卒の官の丹下氏と早稲田卒の民の村野氏という対比と共に、モダニズムを異なる方向性のデザインでチャレンジした2人の立ち位置の違いでもありました。因みに、村野氏のパトロンの筆頭が近鉄だったこともあり、数多の近鉄関連施設を手掛けています。
    代表作には日生劇場をはじめ世界平和記念聖堂、大丸(現 大丸松坂屋百貨店)、高島屋、大阪商船(現 商船三井)、川崎造船所(現 川崎重工業)、初代新歌舞伎座、宇部市民館などの作品があります。

  • 万歩計<br />我が家に到着して万歩計を確認したところ、3のゾロ目でした。おかげで翌日は筋肉痛でロボットのようなぎこちない身動きしかとれませんでした。皆さんはくれぐれもご無理をなさらないように!<br />余談ですが、大学生の時、ワンダーフォーゲル部の春合宿で足摺岬から室戸岬まで300Kmを10日間でロード・ワンデリングしたことがあります。それもテントやホエーブス(コンロ)をはじめ自炊用具一式など25Kg近いリュックサックを背負ってです。足裏にできたマメをケアするのが就寝前の日課でした。今思えば若気の至り以外何物でもありませんが、社会人になってからではできない貴重な体験だったと実感しております。こうした「おバカ」ができるのは学生の特権ですね!<br /><br />最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

    万歩計
    我が家に到着して万歩計を確認したところ、3のゾロ目でした。おかげで翌日は筋肉痛でロボットのようなぎこちない身動きしかとれませんでした。皆さんはくれぐれもご無理をなさらないように!
    余談ですが、大学生の時、ワンダーフォーゲル部の春合宿で足摺岬から室戸岬まで300Kmを10日間でロード・ワンデリングしたことがあります。それもテントやホエーブス(コンロ)をはじめ自炊用具一式など25Kg近いリュックサックを背負ってです。足裏にできたマメをケアするのが就寝前の日課でした。今思えば若気の至り以外何物でもありませんが、社会人になってからではできない貴重な体験だったと実感しております。こうした「おバカ」ができるのは学生の特権ですね!

    最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。

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