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小諸町馬場裏の自宅、書斎でくつろぐ島崎藤村です。膝で甘えているのは満2歳の長女みどりちゃん。<br />佐久に移設された藤村旧宅の書斎に掲げられていた写真です。<br />明治35年(1902年)初秋の撮影ですから、靑木繁たち3人と出会う数ヶ月前。こんな感じの藤村がつたやを訪れたのです。<br />藤村はその後、繁だけを自宅に招いております。坂本繁二郎は呼ばれておりません。<br /><br />2人の小諸滞在の一次資料として、2通の手紙が残っています。詳しくは「青木繁紀行5」をご覧下さい。<br />つるやから青木繁が中之嶽神社社務所の坂本繁二郎に宛てた手紙。以下「靑木書簡」と書きます。<br />もう1通は、坂本繁二郎より伯父、権堂千之助(母の兄、後の坂本夫人の父)に宛てた手紙で、ここでは「坂本絵入り書簡」とします。<br /><br />お馬鹿三人組の一人丸野豊について。<br />くわしいその後の経歴は分かりませんでした。分かったことは下記だけです。<br />生年1880-没年1957。<br />1933年(昭和8年)汎美術協会の設立に参加。<br />1946年(昭和21年)ごろ旧制巣鴨中学の美術教師で、「巣園風物」というスケッチ画集があります。<br />「昭和女子大学の歴史」に「(大学紀要の)題字『學苑』は、丸野豊氏の労により王義之の筆跡中から集字したもの」とあります。この丸野豊かもしれません。確認できませんでした。<br />三人組の一人にされて迷惑かもしれません。<br /><br />使用した基本参考資料は「青木繁紀行4 青木繁旧居、坂本繁二郎生家訪問記」に列挙しました。引用に際しては僭越ながら敬称を略させていただきます。<br /><br />投稿:2022/11/1<br />

青木繁紀行7 小諸、馬場裏藤村宅の寒夜

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2022/10/11 - 2022/10/11

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旅行記グループ 青木繁紀行

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

小諸町馬場裏の自宅、書斎でくつろぐ島崎藤村です。膝で甘えているのは満2歳の長女みどりちゃん。
佐久に移設された藤村旧宅の書斎に掲げられていた写真です。
明治35年(1902年)初秋の撮影ですから、靑木繁たち3人と出会う数ヶ月前。こんな感じの藤村がつたやを訪れたのです。
藤村はその後、繁だけを自宅に招いております。坂本繁二郎は呼ばれておりません。

2人の小諸滞在の一次資料として、2通の手紙が残っています。詳しくは「青木繁紀行5」をご覧下さい。
つるやから青木繁が中之嶽神社社務所の坂本繁二郎に宛てた手紙。以下「靑木書簡」と書きます。
もう1通は、坂本繁二郎より伯父、権堂千之助(母の兄、後の坂本夫人の父)に宛てた手紙で、ここでは「坂本絵入り書簡」とします。

お馬鹿三人組の一人丸野豊について。
くわしいその後の経歴は分かりませんでした。分かったことは下記だけです。
生年1880-没年1957。
1933年(昭和8年)汎美術協会の設立に参加。
1946年(昭和21年)ごろ旧制巣鴨中学の美術教師で、「巣園風物」というスケッチ画集があります。
「昭和女子大学の歴史」に「(大学紀要の)題字『學苑』は、丸野豊氏の労により王義之の筆跡中から集字したもの」とあります。この丸野豊かもしれません。確認できませんでした。
三人組の一人にされて迷惑かもしれません。

使用した基本参考資料は「青木繁紀行4 青木繁旧居、坂本繁二郎生家訪問記」に列挙しました。引用に際しては僭越ながら敬称を略させていただきます。

投稿:2022/11/1

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
  • 明治時代の旅籠つるやです。<br /><br />「坂本絵入り書簡」を再掲します。<br />その出会いは1902年の12月半ば、この手紙が書かれたのは12月18日です。できたてのホヤホヤ、鮮明な記憶です。<br /><br />★幸ひ此の当地の幅きき米国帰りのハイカラーにて、矢張私等の中(ママ)間なる丸山君及び他中学の教師等私等の居る事を聞出し尋ね来たり、又た新体詩にて我国屈指の一人島崎藤村君尋ね来る等にて宿屋の信用厚くなり・・・★<br /><br />私の絵私のこころ<br />▲▼▲▼▲▼▲▼<br /><br />「私の絵私のこころ」は坂本の最晩年の著作です。1969年。亡くなったのは1969年7月14日。そのなかに、<br /><br />★小諸に着いた私が一人で小諸城址で描いていますと、羽織はかまに藤のステッキを持った小学校の先生風の人が近寄ってきて「できますか」と私に声をかけ、しばらく肩越しに写生を見て、静かに立ち去りました。それが島崎藤村だったのです。(中略)ある夜私たちの宿舎に丸山さんが藤村を連れてやって来ました。藤村はこのとき「信州の雲は美しい、とりわけそれが夕焼けに映えるとき、高原の空気の中で変化がきわまりなく、自然の神秘に心をうたれる」などと話されたのを覚えています。このときの藤村は三十歳を出たばかりでした★<br /><br />岩田礼<br />▲▼▲<br /><br />岩田礼(1921-2002)の「坂本繁二郎」は1973年(昭和48)年11月15日の出版。岩田は毎日新聞記者で、久留米支局長時代、昭和44年(1969年)まで5年間いわゆる坂本番、坂本繁二郎担当記者でありました。<br />「坂本繁二郎」は、坂本とのインタビューをまとめたものです。インタビューは昭和43年(1968年)前後と思われます。「私の絵私のこころ」より若干早いようです。<br />岩田は新聞記者であります。録音していたかどうかは分かりませんが、メモは取っていたでしょう。正確にインタビューを再現していると考えられます。1973年の出版ですから、すでに亡くなっていた坂本に対する過度な配慮はありません。<br />1902年12月の藤村との出会いから、66年はたっておりますが、この邂逅を物語る最も正確な資料であると思います。長いですが、全文引用します。<br />まず岩田によると、坂本は靑木のことになると多くを語らなかったそうです。<br /><br />★機嫌をうかがうというか、隙をみつけるというか、ここぞというときに、<br />「先生、青木についてお話ねがいたいのですが・・・」<br />と踏み込むのだが、彼はさっと身をよけるのだ。いままでゆるんでいた顔が、にわかにひきしまるのだ。以降はだんまりである。とりつく島もない。★ (P44)<br /><br />一書に曰く、<br />あ、こういうの、いやですね。<br />自分が主人公だと思っていると、実は、本当は他の人が目的で、自分 は、手段にすぎないとしたら、屈辱ですよね。<br />ほら、男女関係でも、Aちゃんにアプローチしたいんだけれど、色々情報収集のために、Aちゃんの友達にまず近づくなんてことありそう。<br />友達Bさんは、当然怒りますよ。<br />張り飛ばされても仕方ないンじゃないですか。<br />坂本繁二郎は、実に紳士です。<br /><br />青木繁は、若菜集を持って故郷を後にしたかもしれませんが、坂本繁二郎だって、好きだったのですよ。藤村のこと。<br />藤村は、当時の若者に、圧倒的に支持されていたのですから。<br />By妻<br /><br />★<br />彼らは妙義から軽井沢、追分を経て小諸に出た。山中に野宿したり農家の庭先を借りたりの気儘な旅であった・・・。そのくだりで坂本ははじめて口を開いた。それまで私の質問や駄目押しに「あ」とか「ん」とか生返辞ばかりしていたのだが、小諸というところで、ようやく奥深い目に笑みをたたえて言ったのだ。<br />「・・・そこで藤村に会いました」<br />「え! あの小諸なる古城のほとり・・・の島崎藤村にですか」<br />「そうです。その城址で会ったんです」<br />「・・・」<br />「私が一人で写生をしていますと、後ろから『できますか』と声をかけた人がありました。振り向くと羽織袴にステッキをついた先生のような人が立っていました・・・」<br />私はそくぞくした。<br />「それが藤村だったのですね」<br />「ええ・・・そのときは分かりませんでしたが、そのあと宿の鶴屋旅館に丸山晩霞さんが一人の客を連れて来ました。私は驚きました。その人が藤村だったのです。・・・じつは私たちが小諸に行ったのは、その小諸義塾に私たちの先輩、丸山さんがいたからなんです。丸山さんはそのころ小諸義塾の図画教師をしていて、同僚の藤村を私たちに引き合わせたのでした・・・。宿で藤村と語り合いましたが、彼はやさしい目をして、信州の空は美しい、とりわけ夕日に映えるとき、その空の色が高原の空気の中で変化する、このとき自分は自然の神秘に打たれる・・・などと話していきました。それに私も大いに共鳴しました・・・」<br />「そのとき靑木はどうだったんですか」<br />「え?」<br />「青木は、はじめて久留米を出るとき、ただ一冊藤村の若菜集を持って上京したということですが、じっさいに藤村に会って大いに感激したでしょうね」<br />ここぞと私は切りこむのだが、坂本はまたぷいと横を向いた。にこやかな能面は再び冷たく冴えかえるのだった・・・。 <br />★	(P48-49)<br /><br />以上が、私が見つけた坂本と藤村の出会いの一次記録です。<br /><br />河北倫明<br />▲▼▲▼<br /><br />河北倫明「青木繁-悲劇の生涯と芸術」の角川新書版は昭和39年(1964年)の出版ですが、後書きによると、昭和19年(1645年)の「靑木繁-生涯と芸術」をほぼそのまま載録したものです。 <br />二次記録としては一番古いのではないか。<br /><br />★ついで宿料も払わずそこ(中之嶽神社社務所)を立ち、軽井沢、追分などを通って小諸にゆき、本町の鶴屋旅館に泊まった。ここを本拠に付近を写生中、ちょうど小諸義塾に教えていた不同舎の先輩丸山晩霞に会い、一晩、晩霞をはじめ島崎藤村、青年小川某の三人が鶴屋を訪れ、歓談に耽ったという挿話がある。なにか心のふくらむような挿話である。★ (P33-34)<br /><br />「晩霞をはじめ島崎藤村、青年小川某の三人」となっています。「坂本絵入り書簡」にはない三人目がいます。別系統の資料があったのかもしれません。<br />

    明治時代の旅籠つるやです。

    「坂本絵入り書簡」を再掲します。
    その出会いは1902年の12月半ば、この手紙が書かれたのは12月18日です。できたてのホヤホヤ、鮮明な記憶です。

    ★幸ひ此の当地の幅きき米国帰りのハイカラーにて、矢張私等の中(ママ)間なる丸山君及び他中学の教師等私等の居る事を聞出し尋ね来たり、又た新体詩にて我国屈指の一人島崎藤村君尋ね来る等にて宿屋の信用厚くなり・・・★

    私の絵私のこころ
    ▲▼▲▼▲▼▲▼

    「私の絵私のこころ」は坂本の最晩年の著作です。1969年。亡くなったのは1969年7月14日。そのなかに、

    ★小諸に着いた私が一人で小諸城址で描いていますと、羽織はかまに藤のステッキを持った小学校の先生風の人が近寄ってきて「できますか」と私に声をかけ、しばらく肩越しに写生を見て、静かに立ち去りました。それが島崎藤村だったのです。(中略)ある夜私たちの宿舎に丸山さんが藤村を連れてやって来ました。藤村はこのとき「信州の雲は美しい、とりわけそれが夕焼けに映えるとき、高原の空気の中で変化がきわまりなく、自然の神秘に心をうたれる」などと話されたのを覚えています。このときの藤村は三十歳を出たばかりでした★

    岩田礼
    ▲▼▲

    岩田礼(1921-2002)の「坂本繁二郎」は1973年(昭和48)年11月15日の出版。岩田は毎日新聞記者で、久留米支局長時代、昭和44年(1969年)まで5年間いわゆる坂本番、坂本繁二郎担当記者でありました。
    「坂本繁二郎」は、坂本とのインタビューをまとめたものです。インタビューは昭和43年(1968年)前後と思われます。「私の絵私のこころ」より若干早いようです。
    岩田は新聞記者であります。録音していたかどうかは分かりませんが、メモは取っていたでしょう。正確にインタビューを再現していると考えられます。1973年の出版ですから、すでに亡くなっていた坂本に対する過度な配慮はありません。
    1902年12月の藤村との出会いから、66年はたっておりますが、この邂逅を物語る最も正確な資料であると思います。長いですが、全文引用します。
    まず岩田によると、坂本は靑木のことになると多くを語らなかったそうです。

    ★機嫌をうかがうというか、隙をみつけるというか、ここぞというときに、
    「先生、青木についてお話ねがいたいのですが・・・」
    と踏み込むのだが、彼はさっと身をよけるのだ。いままでゆるんでいた顔が、にわかにひきしまるのだ。以降はだんまりである。とりつく島もない。★ (P44)

    一書に曰く、
    あ、こういうの、いやですね。
    自分が主人公だと思っていると、実は、本当は他の人が目的で、自分 は、手段にすぎないとしたら、屈辱ですよね。
    ほら、男女関係でも、Aちゃんにアプローチしたいんだけれど、色々情報収集のために、Aちゃんの友達にまず近づくなんてことありそう。
    友達Bさんは、当然怒りますよ。
    張り飛ばされても仕方ないンじゃないですか。
    坂本繁二郎は、実に紳士です。

    青木繁は、若菜集を持って故郷を後にしたかもしれませんが、坂本繁二郎だって、好きだったのですよ。藤村のこと。
    藤村は、当時の若者に、圧倒的に支持されていたのですから。
    By妻


    彼らは妙義から軽井沢、追分を経て小諸に出た。山中に野宿したり農家の庭先を借りたりの気儘な旅であった・・・。そのくだりで坂本ははじめて口を開いた。それまで私の質問や駄目押しに「あ」とか「ん」とか生返辞ばかりしていたのだが、小諸というところで、ようやく奥深い目に笑みをたたえて言ったのだ。
    「・・・そこで藤村に会いました」
    「え! あの小諸なる古城のほとり・・・の島崎藤村にですか」
    「そうです。その城址で会ったんです」
    「・・・」
    「私が一人で写生をしていますと、後ろから『できますか』と声をかけた人がありました。振り向くと羽織袴にステッキをついた先生のような人が立っていました・・・」
    私はそくぞくした。
    「それが藤村だったのですね」
    「ええ・・・そのときは分かりませんでしたが、そのあと宿の鶴屋旅館に丸山晩霞さんが一人の客を連れて来ました。私は驚きました。その人が藤村だったのです。・・・じつは私たちが小諸に行ったのは、その小諸義塾に私たちの先輩、丸山さんがいたからなんです。丸山さんはそのころ小諸義塾の図画教師をしていて、同僚の藤村を私たちに引き合わせたのでした・・・。宿で藤村と語り合いましたが、彼はやさしい目をして、信州の空は美しい、とりわけ夕日に映えるとき、その空の色が高原の空気の中で変化する、このとき自分は自然の神秘に打たれる・・・などと話していきました。それに私も大いに共鳴しました・・・」
    「そのとき靑木はどうだったんですか」
    「え?」
    「青木は、はじめて久留米を出るとき、ただ一冊藤村の若菜集を持って上京したということですが、じっさいに藤村に会って大いに感激したでしょうね」
    ここぞと私は切りこむのだが、坂本はまたぷいと横を向いた。にこやかな能面は再び冷たく冴えかえるのだった・・・。 
    ★ (P48-49)

    以上が、私が見つけた坂本と藤村の出会いの一次記録です。

    河北倫明
    ▲▼▲▼

    河北倫明「青木繁-悲劇の生涯と芸術」の角川新書版は昭和39年(1964年)の出版ですが、後書きによると、昭和19年(1645年)の「靑木繁-生涯と芸術」をほぼそのまま載録したものです。 
    二次記録としては一番古いのではないか。

    ★ついで宿料も払わずそこ(中之嶽神社社務所)を立ち、軽井沢、追分などを通って小諸にゆき、本町の鶴屋旅館に泊まった。ここを本拠に付近を写生中、ちょうど小諸義塾に教えていた不同舎の先輩丸山晩霞に会い、一晩、晩霞をはじめ島崎藤村、青年小川某の三人が鶴屋を訪れ、歓談に耽ったという挿話がある。なにか心のふくらむような挿話である。★ (P33-34)

    「晩霞をはじめ島崎藤村、青年小川某の三人」となっています。「坂本絵入り書簡」にはない三人目がいます。別系統の資料があったのかもしれません。

  • 藤村は1872年生まれですからこのとき30歳、1897年に「若菜集」を発表して、「新体詩にて我が国屈指の一人」でありました。<br /><br />これはBy妻がまだうら若きころそろえた、「名著復刻全集・近代文学館」日本近代文学館編集/昭和45年(1970年)の1冊です。<br />明治30年の若菜集初版を、奥付まで正確に復刻したものです。<br />

    藤村は1872年生まれですからこのとき30歳、1897年に「若菜集」を発表して、「新体詩にて我が国屈指の一人」でありました。

    これはBy妻がまだうら若きころそろえた、「名著復刻全集・近代文学館」日本近代文学館編集/昭和45年(1970年)の1冊です。
    明治30年の若菜集初版を、奥付まで正確に復刻したものです。

  • なぜか赤インクの序文と目次8ページ、本文196ページ、奥付広告18ページ、220ページ。

    なぜか赤インクの序文と目次8ページ、本文196ページ、奥付広告18ページ、220ページ。

  • 冒頭「おえふ」<br />活字が傾いて組まれている。現代なら校正ミスです。<br />そこまで、律儀に再現しています。<br />

    冒頭「おえふ」
    活字が傾いて組まれている。現代なら校正ミスです。
    そこまで、律儀に再現しています。

  • 有名な「初恋」

    有名な「初恋」

  • 奥付。<br /><br />今日でいうB6、12.8cm×18.2cm、厚さ1cmくらいのコンパクトサイズです。<br />女学生がたもとにしのばせたらかわいい。<br />25銭です。当時の実質購買力で高いのか安いのか、見当つきません。<br /><br />正宗得三郎(洋画家、正宗白鳥の実弟)の回顧、久留米を出て上京するとき、<br /><br />★(青木繁は)16歳の時(原文ママ、本当は18歳)若菜集1冊持って馬関海峡を渡った・・・★<br /><br />その若菜集です。<br />発行当時、明治日本の青年男女に熱狂的に読まれました。<br />後年藤村自身が「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ」と書いたように、和歌でもなく、俳句でもなく、漢詩でもない、全く新しい日本語の詩でした。<br />その著者藤村と語り合った?木繁の感激は、想像に余りあるものがあります。<br />私たちの世代で言うと、1960年ごろ20歳の若者が、大江健三郎あるいは石原慎太郎と一晩語り明かしたとして、そのときの感動を想像したらいいかもしれません。<br />私は21の頃、遠藤周作と会ったことがあります。むちゃくちゃ興奮した記憶があります。なにを話したか、全く覚えていません。<br />藤村との出会いは、12月4日から11日の間のできごとのようです。<br /><br />青木自身は、この歴史的な邂逅になにも文章を残しておりません。<br /><br />一書に曰く、<br />何で、青木繁は、藤村について、なにも印象を書き残していないのだろう?不思議です。<br />傲岸不遜な青木繁は、憧れの藤村は、「たいしたことね~や。」<br />と、見くびったのか。<br />それとも、あまりに感動しすぎて、言葉にもならなかったのでしょうか。<br />上京のとき、若菜集だけを持ってきたそうですから、よっぽどすきだったらしいし。<br /><br />それともそれとも、何か書いたけれど、それは、今残っていないだけかもしれません。<br />う~む。これが、真実だったんじゃないですか。<br />見くびったにしろ、大感激だったにしろ、青木繁が、何に言わないはずはありませんよ。<br />福岡生まれの高倉健は、無口ということになっておりますが、実は、それは営業用だそうです。<br />九州の男がしゃべらんはずはなか。<br />さだまさし、武田鉄矢、南こうせつ、タモリ、男かどうかは別として美輪明宏。<br />By妻<br /><br />小諸滞在に関係するのは、「うたかた集」にわずか短歌1首、<br /><br />★駕籠の手に八里駄馬に三里して浅間の裾野草津への路★ (85)<br /><br />小諸から浅間を左に回って、草津温泉まで54kmほどのルートがあります。これのことでしょうね。<br />

    奥付。

    今日でいうB6、12.8cm×18.2cm、厚さ1cmくらいのコンパクトサイズです。
    女学生がたもとにしのばせたらかわいい。
    25銭です。当時の実質購買力で高いのか安いのか、見当つきません。

    正宗得三郎(洋画家、正宗白鳥の実弟)の回顧、久留米を出て上京するとき、

    ★(青木繁は)16歳の時(原文ママ、本当は18歳)若菜集1冊持って馬関海峡を渡った・・・★

    その若菜集です。
    発行当時、明治日本の青年男女に熱狂的に読まれました。
    後年藤村自身が「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ」と書いたように、和歌でもなく、俳句でもなく、漢詩でもない、全く新しい日本語の詩でした。
    その著者藤村と語り合った?木繁の感激は、想像に余りあるものがあります。
    私たちの世代で言うと、1960年ごろ20歳の若者が、大江健三郎あるいは石原慎太郎と一晩語り明かしたとして、そのときの感動を想像したらいいかもしれません。
    私は21の頃、遠藤周作と会ったことがあります。むちゃくちゃ興奮した記憶があります。なにを話したか、全く覚えていません。
    藤村との出会いは、12月4日から11日の間のできごとのようです。

    青木自身は、この歴史的な邂逅になにも文章を残しておりません。

    一書に曰く、
    何で、青木繁は、藤村について、なにも印象を書き残していないのだろう?不思議です。
    傲岸不遜な青木繁は、憧れの藤村は、「たいしたことね~や。」
    と、見くびったのか。
    それとも、あまりに感動しすぎて、言葉にもならなかったのでしょうか。
    上京のとき、若菜集だけを持ってきたそうですから、よっぽどすきだったらしいし。

    それともそれとも、何か書いたけれど、それは、今残っていないだけかもしれません。
    う~む。これが、真実だったんじゃないですか。
    見くびったにしろ、大感激だったにしろ、青木繁が、何に言わないはずはありませんよ。
    福岡生まれの高倉健は、無口ということになっておりますが、実は、それは営業用だそうです。
    九州の男がしゃべらんはずはなか。
    さだまさし、武田鉄矢、南こうせつ、タモリ、男かどうかは別として美輪明宏。
    By妻

    小諸滞在に関係するのは、「うたかた集」にわずか短歌1首、

    ★駕籠の手に八里駄馬に三里して浅間の裾野草津への路★ (85)

    小諸から浅間を左に回って、草津温泉まで54kmほどのルートがあります。これのことでしょうね。

  • 出典:木坂本展カタログ。<br />「小諸宿外」という木のスケッチです。馬が描いてある。<br /><br />★信濃なる佐久の平に残る雪野守が背戸に李花さく★<br /><br />というのもありますが、スモモは初夏の花で、季節があいません。木はこのとき以外信州に旅行した形跡はないのですが。<br /><br />★山やどりゐだくむ我のいたづきて絵まだ了へぬに秋の逝くかな★<br /><br />「山に籠もって努力したけれど、絵も完成しないのに秋が終わる」と解釈すると、何となく小諸っぽい。<br />小諸は盆地です。でも小諸で暮らした藤村は「千曲川のスケッチ」で「七年も山の上で暮した」と言っています。住んでみると、山という感じなのかもしれません。<br />

    出典:木坂本展カタログ。
    「小諸宿外」という木のスケッチです。馬が描いてある。

    ★信濃なる佐久の平に残る雪野守が背戸に李花さく★

    というのもありますが、スモモは初夏の花で、季節があいません。木はこのとき以外信州に旅行した形跡はないのですが。

    ★山やどりゐだくむ我のいたづきて絵まだ了へぬに秋の逝くかな★

    「山に籠もって努力したけれど、絵も完成しないのに秋が終わる」と解釈すると、何となく小諸っぽい。
    小諸は盆地です。でも小諸で暮らした藤村は「千曲川のスケッチ」で「七年も山の上で暮した」と言っています。住んでみると、山という感じなのかもしれません。

  • 「青木繁のデッサン」梅野記念絵画館/2015年より。<br />「信州風景」と題されていますが、詳細は不明です。小諸滞在中の作品でありましょう。<br />

    「青木繁のデッサン」梅野記念絵画館/2015年より。
    「信州風景」と題されていますが、詳細は不明です。小諸滞在中の作品でありましょう。

  • 藤村がずいぶん気楽に会いに来てくれたと思いました。<br />現地に行ってみて分かりました。近いのです。<br /><br />つるやは藤村が住んでいた家から歩いて2,3分です。<br />勤め先の小諸義塾からでも7,8分。<br />つるやの並びに、藤村が原稿用紙を買っていた大和屋がありました。<br />藤村が「千曲川のスケッチ」に書いた一膳飯屋の揚羽屋もすぐ近く。<br />全部ご近所です。藤村のホームグラウンド。<br />

    藤村がずいぶん気楽に会いに来てくれたと思いました。
    現地に行ってみて分かりました。近いのです。

    つるやは藤村が住んでいた家から歩いて2,3分です。
    勤め先の小諸義塾からでも7,8分。
    つるやの並びに、藤村が原稿用紙を買っていた大和屋がありました。
    藤村が「千曲川のスケッチ」に書いた一膳飯屋の揚羽屋もすぐ近く。
    全部ご近所です。藤村のホームグラウンド。

  • 藤村の家があったところに、「藤村奮栖地」の石碑と説明板があります。

    藤村の家があったところに、「藤村奮栖地」の石碑と説明板があります。

  • 藤村の旧居そのものは佐久に移築されて現存しております。

    藤村の旧居そのものは佐久に移築されて現存しております。

  • 藤村御用達の原稿用紙を売っていた大和屋紙店。現在も紙店で、藤村の原稿用紙はまだ売っています。詳しくは次回の小諸散歩。<br />つるやの道路挟んですぐ右です。<br />

    藤村御用達の原稿用紙を売っていた大和屋紙店。現在も紙店で、藤村の原稿用紙はまだ売っています。詳しくは次回の小諸散歩。
    つるやの道路挟んですぐ右です。

  • 一膳飯屋揚羽屋。ここも次回。

    一膳飯屋揚羽屋。ここも次回。

  • 小諸駅を跨線橋で越えて、エレベータを降りると目の前に、「小諸義塾跡」の記念碑があります。

    小諸駅を跨線橋で越えて、エレベータを降りると目の前に、「小諸義塾跡」の記念碑があります。

  • 道路挟んで小諸義塾記念館があります。義塾の本館を移築復元したものです。<br />かつてはこの建物が義塾跡に建っていたのであります。<br />

    道路挟んで小諸義塾記念館があります。義塾の本館を移築復元したものです。
    かつてはこの建物が義塾跡に建っていたのであります。

  • 小諸義塾記念館パンフより。<br />義塾は本館を中心として4棟の校舎がありました。左が本館です。<br />ここには、3人が絵を学んだ不同舎の先輩、丸山晩霞が絵の教師として勤めておりました。藤村の同僚です。<br />藤村は、授業のあと、ここから晩霞とつるやにむかったのかもしれません。徒歩7,8分です。<br /><br />一書に曰く、<br />明治からずっと、日本は、諸外国に追いつき追い越せ、ガンバレガンバレと走って来たのです。<br />時流に乗った人、乗り損ねた人、お金持ちはお金持ち流に、貧しいものは貧しいなりに、上を目指して、がんばったのです。<br />何が「上」か考えもしないで。<br />昨日とは違う明日。貧しさからの脱却。食べるに困らない生活。モノを沢山持てること。知識を得ること。Etc.<br /><br />森鴎外は、小説の中で、洋食の食べ方、ナイフ、フォークの使い方なぞを、さりげなく書いております。<br />読者に教えているのですね。<br />国費留学生ですもんね。<br />なんとか国民に還元しないといけないと思っていたのかしらん。<br /><br />みんなで勉強しよう。上を目指そう。<br />若い時代でした。<br />そういう時代の、小諸義塾でした。<br />先生も生徒も、熱っぽかったですね。<br />By妻<br />

    小諸義塾記念館パンフより。
    義塾は本館を中心として4棟の校舎がありました。左が本館です。
    ここには、3人が絵を学んだ不同舎の先輩、丸山晩霞が絵の教師として勤めておりました。藤村の同僚です。
    藤村は、授業のあと、ここから晩霞とつるやにむかったのかもしれません。徒歩7,8分です。

    一書に曰く、
    明治からずっと、日本は、諸外国に追いつき追い越せ、ガンバレガンバレと走って来たのです。
    時流に乗った人、乗り損ねた人、お金持ちはお金持ち流に、貧しいものは貧しいなりに、上を目指して、がんばったのです。
    何が「上」か考えもしないで。
    昨日とは違う明日。貧しさからの脱却。食べるに困らない生活。モノを沢山持てること。知識を得ること。Etc.

    森鴎外は、小説の中で、洋食の食べ方、ナイフ、フォークの使い方なぞを、さりげなく書いております。
    読者に教えているのですね。
    国費留学生ですもんね。
    なんとか国民に還元しないといけないと思っていたのかしらん。

    みんなで勉強しよう。上を目指そう。
    若い時代でした。
    そういう時代の、小諸義塾でした。
    先生も生徒も、熱っぽかったですね。
    By妻

  • 小諸義塾跡から車で15分くらい、約10kmのところに、東御(とうみ)市丸山晩霞記念館があります。晩霞はここ、当時の禰津村の出身で、自宅兼アトリエは現在の記念館近くにあり、週に2度小諸義塾に図画を教えに通っておりました。<br />記念館で、晩霞の年表を見ていたら、おもしろい1行がありました。<br />

    小諸義塾跡から車で15分くらい、約10kmのところに、東御(とうみ)市丸山晩霞記念館があります。晩霞はここ、当時の禰津村の出身で、自宅兼アトリエは現在の記念館近くにあり、週に2度小諸義塾に図画を教えに通っておりました。
    記念館で、晩霞の年表を見ていたら、おもしろい1行がありました。

  • 「(1902年)11月、?木繁、坂本繁二郎、丸野豊が禰津村の画室を訪れる」とあります。<br />「青木繁伝」には同じような描写があるのですが、根拠が書いてありませんでした。<br />ちょうどキュレーターさんがいましたので、この記述の出所を聞いてみました。<br />年表の作者にわざわざ電話して調べて下さいました。<br /><br />晩霞の弟子に小山周次がおります。水彩画家、1885年-1967年。<br />小山の著書「水彩画家 丸山晩霞」(昭和17年/1932年)によれば、<br /><br />★当時まだ無名の美術学生に過ぎなかった青木繁や二科のS氏外一名が信州へ写生旅行に来て小諸駅前の松屋旅館に滞在中無一文になって宿屋の支払いに窮し三人の中一人を宿屋に残し置き交替に先生(丸山)の画室に金策に押掛けて来たことなどもあった。★<br /><br />繁たちは晩霞にお金を借りに来ていたんだ!<br />▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▲<br /><br />小川は明治35年(1902年)春から、内弟子つまり住み込みの書生兼画学生として、晩霞の家におりました。青木たちが晩霞邸に押し掛けて来たとき17歳。記憶は正確でありましょう。<br />この文章が発表された昭和17年(1932年)では繁はすでに世にありません。夭折の天才として評価されるのは戦後のことです。借金の言い出しっぺを繁にしても問題はない。<br />繁二郎はフランス帰り、すでに画壇に確固たる地位を占めておりました。「二科のS氏」と一応名を伏せているのは、借金に来たとは言いにくい。<br />「交替に先生の画室に金策に押掛けて来た」つまり金策に来たのは一度ではなかった。<br />「小諸駅前の松屋旅館」は「つるや」の間違いです。<br /><br />小川によれば、晩霞の住居は<br /><br />★玄関一坪、台所一坪、湯殿一坪、食堂三畳、書生部屋三畳、居間六畳、客間、書斎四畳半、画室九坪、それに廊下と縁側が付いた平屋造であった★<br /><br />晩霞はアメリカ滞在中に日本の風景を描いた水彩画を売って、かなりもうけておりました。九坪、30平米のアトリエつきの住まいを建てております。<br />それでも挽霞はお金を貸さなかった。融通していれば青木達は雪隠紙つまりトイレットペーパーも買えないほど困窮することはなかった。<br />未来のある青年を甘やかしてはいけないという、晩霞の愛の鞭、ということにいたしましょう。<br />万策尽きた繁二郎は、万が一のためにかくして置いた有り金をはたいて、中之嶽神社に戻る信越本線の切符を買ったのです。<br />繁なら切符のことなど考えない。繁二郎なら最後の切符代は別に用意しておく。<br /><br />一書に曰く、<br />「交替に先生の画室に金策に押し掛けて来た」<br />何度も何度も来たことは事実ですが、これも色々解釈できます。<br />1,晩霞が貸さなかったから交替で、説得に来た。<br />2,ひとりに貸したら、また違うのが、「自分にも貸してくれ。」と言ってきた。<br /><br />晩霞は、貸さなかっただろうか。<br />そんな人だったのだろうか。<br />そんな人が、後輩が来ましたよ。と藤村を三人に紹介したりするだろうか。<br />それに、三人が、一つ財布で旅をしたわけではないでしょう。<br />最終的には、坂本繁二郎が、三人分を支払ったようですが、これは、最後の旅籠代金だけだったのではないですかね。<br />と考えると、晩霞は、三人に、充分ではないながら、いくらかづつは渡したのではないでしょうかね。<br />By妻<br />

    「(1902年)11月、?木繁、坂本繁二郎、丸野豊が禰津村の画室を訪れる」とあります。
    「青木繁伝」には同じような描写があるのですが、根拠が書いてありませんでした。
    ちょうどキュレーターさんがいましたので、この記述の出所を聞いてみました。
    年表の作者にわざわざ電話して調べて下さいました。

    晩霞の弟子に小山周次がおります。水彩画家、1885年-1967年。
    小山の著書「水彩画家 丸山晩霞」(昭和17年/1932年)によれば、

    ★当時まだ無名の美術学生に過ぎなかった青木繁や二科のS氏外一名が信州へ写生旅行に来て小諸駅前の松屋旅館に滞在中無一文になって宿屋の支払いに窮し三人の中一人を宿屋に残し置き交替に先生(丸山)の画室に金策に押掛けて来たことなどもあった。★

    繁たちは晩霞にお金を借りに来ていたんだ!
    ▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▲

    小川は明治35年(1902年)春から、内弟子つまり住み込みの書生兼画学生として、晩霞の家におりました。青木たちが晩霞邸に押し掛けて来たとき17歳。記憶は正確でありましょう。
    この文章が発表された昭和17年(1932年)では繁はすでに世にありません。夭折の天才として評価されるのは戦後のことです。借金の言い出しっぺを繁にしても問題はない。
    繁二郎はフランス帰り、すでに画壇に確固たる地位を占めておりました。「二科のS氏」と一応名を伏せているのは、借金に来たとは言いにくい。
    「交替に先生の画室に金策に押掛けて来た」つまり金策に来たのは一度ではなかった。
    「小諸駅前の松屋旅館」は「つるや」の間違いです。

    小川によれば、晩霞の住居は

    ★玄関一坪、台所一坪、湯殿一坪、食堂三畳、書生部屋三畳、居間六畳、客間、書斎四畳半、画室九坪、それに廊下と縁側が付いた平屋造であった★

    晩霞はアメリカ滞在中に日本の風景を描いた水彩画を売って、かなりもうけておりました。九坪、30平米のアトリエつきの住まいを建てております。
    それでも挽霞はお金を貸さなかった。融通していれば青木達は雪隠紙つまりトイレットペーパーも買えないほど困窮することはなかった。
    未来のある青年を甘やかしてはいけないという、晩霞の愛の鞭、ということにいたしましょう。
    万策尽きた繁二郎は、万が一のためにかくして置いた有り金をはたいて、中之嶽神社に戻る信越本線の切符を買ったのです。
    繁なら切符のことなど考えない。繁二郎なら最後の切符代は別に用意しておく。

    一書に曰く、
    「交替に先生の画室に金策に押し掛けて来た」
    何度も何度も来たことは事実ですが、これも色々解釈できます。
    1,晩霞が貸さなかったから交替で、説得に来た。
    2,ひとりに貸したら、また違うのが、「自分にも貸してくれ。」と言ってきた。

    晩霞は、貸さなかっただろうか。
    そんな人だったのだろうか。
    そんな人が、後輩が来ましたよ。と藤村を三人に紹介したりするだろうか。
    それに、三人が、一つ財布で旅をしたわけではないでしょう。
    最終的には、坂本繁二郎が、三人分を支払ったようですが、これは、最後の旅籠代金だけだったのではないですかね。
    と考えると、晩霞は、三人に、充分ではないながら、いくらかづつは渡したのではないでしょうかね。
    By妻

  • 藤村の「千曲川のスケッチ」の奥書にこんな一文があります。<br /><br />★到頭、わたしは七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。★<br /><br />藤村は青木繁を自宅に呼んでいる。<br />坂本繁二郎は藤村の自宅に呼ばれたとは書いていない。<br />坂本は12月11日には小諸を出ています。それ以降、藤村が靑木だけを自宅に招いたとすれば、辻褄はあいます。<br />

    藤村の「千曲川のスケッチ」の奥書にこんな一文があります。

    ★到頭、わたしは七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。★

    藤村は青木繁を自宅に呼んでいる。
    坂本繁二郎は藤村の自宅に呼ばれたとは書いていない。
    坂本は12月11日には小諸を出ています。それ以降、藤村が靑木だけを自宅に招いたとすれば、辻褄はあいます。

  • 島崎藤村旧宅パンフより。<br />小諸の藤村住居は、大正9年に佐久市に移築され、さらに昭和49年(1974年)に現在の貞寺境内に移築されました。<br />

    島崎藤村旧宅パンフより。
    小諸の藤村住居は、大正9年に佐久市に移築され、さらに昭和49年(1974年)に現在の貞寺境内に移築されました。

  • 一書に曰く、<br />藤村旧宅は、お寺に上る途中にありました。<br />木々の中に移築されています。<br />周囲の地面は、湿気が多いので、苔だらけです。<br />小諸の、この家があった場所は、昔は分からないですが、今は、スカッと太陽が当たる広場です。雰囲気違いすぎます。<br />By妻<br />

    一書に曰く、
    藤村旧宅は、お寺に上る途中にありました。
    木々の中に移築されています。
    周囲の地面は、湿気が多いので、苔だらけです。
    小諸の、この家があった場所は、昔は分からないですが、今は、スカッと太陽が当たる広場です。雰囲気違いすぎます。
    By妻

  • 12月後半小諸は冷えます。<br />藤村は「青木君、まず体を温めたまえ」とか言って、囲炉裏端に繁を招いたのではないか。<br />奥の青いプラバケツはなかったことにして下さい。<br />

    12月後半小諸は冷えます。
    藤村は「青木君、まず体を温めたまえ」とか言って、囲炉裏端に繁を招いたのではないか。
    奥の青いプラバケツはなかったことにして下さい。

  • 暖かい日であれば、北の縁側を通って書斎に通されたかもしれません。<br />藤村は北に面する書斎を好んだそうです。<br />

    暖かい日であれば、北の縁側を通って書斎に通されたかもしれません。
    藤村は北に面する書斎を好んだそうです。

  • 南に面する10畳と奥の8畳。<br />「お客様ですから、邪魔してはいけません」とか冬子夫人に言われて、子供2人はこの部屋でおとなしくしていたのではないかと。<br />藤村と繁がここで何を話したか、今となっては知るすべもありません。<br />しかし「青木君、僕は君に期待しているよ」と藤村が言ったのは間違いない。<br /><br />「千曲川のスケッチ」は1911年(明治44年)6月号-9月号に「中学世界」に連載され、1912年12月に刊行されました。<br />この奥書がいつ「千曲川のスケッチ」に加えられたものかは分かりませんでしたが、1912年以降であることは確実です。青木繁の死は1911年(明治44年)3月25日ですから、藤村はその死を知っております。<br />藤村には、繁一人が強烈な印象を与えた。<br />藤村が自宅に招いたのは「小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君」<br />いずれも日本文化史に名を残した人物です。繁をこれらの人物と同格に扱っています。<br />藤村が死んだのは1943年(昭和18年)、繁が夭折の画家として高く評価されたのは戦後のことですから、藤村は非常に早い時期に繁の才能を見抜いていたのです。<br />同様に繁を同時代に高く評価していたのは、漱石、有明、泡鳴、杢太郎、そして意外にも竹久夢二。<br /><br />ここで思い出すのは、岩田礼が坂本に、藤村にあったときの青木の様子を聞いたときの坂本の反応。<br />「ここぞと私は切りこむのだが、坂本はまたぷいと横を向いた。にこやかな能面は再び冷たく冴えかえるのだった・・・。」<br />青木のことです、後日坂本にあったとき、「おれは藤村の家に呼ばれたぜ。藤村はおれに期待しているってさ」などと言ったら、こういう反応になるのではないか。<br />あるいは、後年坂本が「千曲川のスケッチ」奥書を読んだか。結果は同じです。自分は呼ばれていない・・・<br /><br />河北倫明も松本清張も、坂本繁二郎が青木繁に強烈なコンプレックスをもっていたと書いております。<br />小諸の寒夜、馬場裏の藤村宅でのできごとが、そのコンプレックスの一因かもしれません。<br /><br />一書に曰く、<br />この状況なら坂本繁二郎が、青木繁に強い憤りを抱いたとしても、無理はない。<br />自分は、食うや食わずで、走れメロスの気持ちで、妙義まで帰り、汗をかきかき、値段交渉。しかも、金持ち相手ではなく、向こうも貧しい人で、泣いて頼むのを値切ったのですから、つらかったでしょう。<br />それでも、友達のためと、頑張ったと信じていたら、実は、青木繁だけが、憧れの藤村さんにお呼ばれ。良い思いしていたなんて。<br />あんまりではないですか!<br />裏切られ感、がっかり感、半端なかったでしょう。<br />よくののしらなかったことだ。<br />坂本繁二郎は、紳士です。<br />By妻<br /><br />青木、余裕こいてる<br />▲▼▲▼▲▼▲▼▲<br /><br />「青木書簡」の最後、<br /><br />★来年1月4、5日には間違いなく帰京処理致すべく候★<br /><br />つるやに人質になっているにしては、帰京の日を「間違いなく」予定しております。<br />坂本が必死に金策しているわりには、ノンキなものです。<br />まったくの想像ですが、11日に繁二郎が中之嶽に発ったあと、繁は藤村自宅に呼ばれた。そこで後援者のメドがついたのではないか。<br /><br />「千曲川のスケッチ」によると、小諸は、<br /><br />★名士先生を歓迎する会は実に多い。あたかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。(中略)旅の書家なぞが困って来れば、相応に旅費を持たせて立たせるという風だ。★<br /><br />繁は大家には程遠いですが、小諸義塾の丸山晩霞の後輩であり、「若菜集」の藤村が自宅に呼ぶほどであれば、なんとかしてやろうと名のり出る名士がいても不思議はない。<br />たとえば肖像画や風景画を描き上げる、それには20日かかる。すると1月5日には小諸を立って帰京できる。<br /><br />私のもっているのは「千曲川のスケッチ」電子版です。青木繁で全文検索をかけてヒットするのは、この奥書だけ。坂本繁二郎、丸野豊では結果はゼロです。<br />藤村の主要作品の検索でも結果は同じ。<br />

    南に面する10畳と奥の8畳。
    「お客様ですから、邪魔してはいけません」とか冬子夫人に言われて、子供2人はこの部屋でおとなしくしていたのではないかと。
    藤村と繁がここで何を話したか、今となっては知るすべもありません。
    しかし「青木君、僕は君に期待しているよ」と藤村が言ったのは間違いない。

    「千曲川のスケッチ」は1911年(明治44年)6月号-9月号に「中学世界」に連載され、1912年12月に刊行されました。
    この奥書がいつ「千曲川のスケッチ」に加えられたものかは分かりませんでしたが、1912年以降であることは確実です。青木繁の死は1911年(明治44年)3月25日ですから、藤村はその死を知っております。
    藤村には、繁一人が強烈な印象を与えた。
    藤村が自宅に招いたのは「小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君」
    いずれも日本文化史に名を残した人物です。繁をこれらの人物と同格に扱っています。
    藤村が死んだのは1943年(昭和18年)、繁が夭折の画家として高く評価されたのは戦後のことですから、藤村は非常に早い時期に繁の才能を見抜いていたのです。
    同様に繁を同時代に高く評価していたのは、漱石、有明、泡鳴、杢太郎、そして意外にも竹久夢二。

    ここで思い出すのは、岩田礼が坂本に、藤村にあったときの青木の様子を聞いたときの坂本の反応。
    「ここぞと私は切りこむのだが、坂本はまたぷいと横を向いた。にこやかな能面は再び冷たく冴えかえるのだった・・・。」
    青木のことです、後日坂本にあったとき、「おれは藤村の家に呼ばれたぜ。藤村はおれに期待しているってさ」などと言ったら、こういう反応になるのではないか。
    あるいは、後年坂本が「千曲川のスケッチ」奥書を読んだか。結果は同じです。自分は呼ばれていない・・・

    河北倫明も松本清張も、坂本繁二郎が青木繁に強烈なコンプレックスをもっていたと書いております。
    小諸の寒夜、馬場裏の藤村宅でのできごとが、そのコンプレックスの一因かもしれません。

    一書に曰く、
    この状況なら坂本繁二郎が、青木繁に強い憤りを抱いたとしても、無理はない。
    自分は、食うや食わずで、走れメロスの気持ちで、妙義まで帰り、汗をかきかき、値段交渉。しかも、金持ち相手ではなく、向こうも貧しい人で、泣いて頼むのを値切ったのですから、つらかったでしょう。
    それでも、友達のためと、頑張ったと信じていたら、実は、青木繁だけが、憧れの藤村さんにお呼ばれ。良い思いしていたなんて。
    あんまりではないですか!
    裏切られ感、がっかり感、半端なかったでしょう。
    よくののしらなかったことだ。
    坂本繁二郎は、紳士です。
    By妻

    青木、余裕こいてる
    ▲▼▲▼▲▼▲▼▲

    「青木書簡」の最後、

    ★来年1月4、5日には間違いなく帰京処理致すべく候★

    つるやに人質になっているにしては、帰京の日を「間違いなく」予定しております。
    坂本が必死に金策しているわりには、ノンキなものです。
    まったくの想像ですが、11日に繁二郎が中之嶽に発ったあと、繁は藤村自宅に呼ばれた。そこで後援者のメドがついたのではないか。

    「千曲川のスケッチ」によると、小諸は、

    ★名士先生を歓迎する会は実に多い。あたかも昔の御関所のように、そういう人達の素通りを許さないという形だ。(中略)旅の書家なぞが困って来れば、相応に旅費を持たせて立たせるという風だ。★

    繁は大家には程遠いですが、小諸義塾の丸山晩霞の後輩であり、「若菜集」の藤村が自宅に呼ぶほどであれば、なんとかしてやろうと名のり出る名士がいても不思議はない。
    たとえば肖像画や風景画を描き上げる、それには20日かかる。すると1月5日には小諸を立って帰京できる。

    私のもっているのは「千曲川のスケッチ」電子版です。青木繁で全文検索をかけてヒットするのは、この奥書だけ。坂本繁二郎、丸野豊では結果はゼロです。
    藤村の主要作品の検索でも結果は同じ。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • 前日光さん 2022/11/25 16:44:17
    そりゃあ、ヘソも曲がりますよ(^^;)
    お久しぶりです!
    しにあさん&by妻さん
    毎日妙に暖かい日が続いて、変な気分です。

    27日から出雲旅に出かけますが、向こうも27,28日はまぁまぁの天気みたい。
    29日は雨のようですが、この日帰ってくるので雨が降ってもいいかなんて思っています。
    自動給餌機があるとはいえ、梵ちゃんを残して行くのは気がかりなので、出発日は遅め、帰りは早めに帰る予定です。
    今回はここに行く!という目的に重心をおかず、ただ出雲の空気を吸いに行く旅になりそうです。
    奥出雲で、津山から駆けつけてくれるpoemyさんと合流、三人で気の向くままに遊ぶ予定です。

    さて、藤村に呼ばれた繁と、繁らのために金策に走り回っていた藤村に呼ばれなかった繁二郎!
    なんてこった( ̄△ ̄)
    繁二郎とて、当時の藤村と話したかったことは間違いなし!
    それなのに、なぜ繁だけがイイ思いをするのだ(`_´)
    いったいに自分は、いつも損な役回りをさせられているような気がする。。。
    僻んで言う訳ではないが(いや、大いに僻んでいる!)繁はいつも誰かに助けられる役回りだ。しかもそれがあたかも最初から決まっているかのような、当然といったあの態度はどうだ!
    ああ、天才とは、ああいうものなのか!
    だから天才なのか!いや、天才だから、ああいう結果になるのか。。。
    大いにジレンマに襲われる繁二郎。

    実際に彼は繁に対して、そういう思いやイライラを表に出していたのだろうか?
    いざ繁と対面すると、つい愛想笑いをしてしまったのだろうか?
    そんな自分にホトホト嫌気がさしながら。。

    天才タイプが、周囲を引っかき回すというのは、あるあるですが、引っかき回される周囲の者はたまりません。
    でも、神様は天才を愛しているなぁと思いますね。
    天才は、それなりに苦しいのでしょうかねぇ?
    好き勝手やってるようにしかみえないのですが。。。
    だんだん終わらなくなってきそうなので、この辺でやめときますが、繁が「若菜集」一冊かかえて上京したっていうのは、天才あるある、カッコ良すぎです!
    藤村でなくても、読んで話して見たくなりますね(^-^)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/11/26 06:16:52
    Re: そりゃあ、ヘソも曲がりますよ(^^;)
    出雲2泊3日ですね。旅行記お待ちします。
    我が家ではもっか野良猫家猫化作戦を実施中です。2匹のうち女の子は成功、男の子は家にいつきません。やっと夜に帰ってくる状態。

    「千曲川のスケッチ」奥書の件は、今まで河北倫明や清張などの専門家も気がつかなかったらしい。繁二郎の繁へのコンプレックスを説明できる重要なファクターじゃないかと思っています。
    前日光さんの繁二郎の心理描写、間違いないと思います。

    青木繁シリーズはとりあえずここでお休み。この後は出産間近の福田たねとの2度目の房総旅行、その後の横須賀旅行をフォローしてみようと思っています。
    専門の研究者にも手付かずの時代みたいです。芳賀につながります。
    このあたりから、繁二郎のサポートもなくなり、青木繁の破綻が始まリます。青春の早すぎた破綻ということですね。結局青木繁って、繁二郎のサポートがなくなると、グダグダになるみたいです。

    最近、公開されている資料を組み合わせて読むと、意外な事実が浮かび上がってくるケースに出会っています。それを現地旅行で裏付けて、旅行記に仕上げようというコンタンです。
    丸山晩霞への金策みたいに、現地に行ってみて初めて見つけた事実もあります。やはり旅行は楽しい。行ってみる、やはり旅ですね。

    出雲27日っていうと、明日じゃないですか。鬼か蛇か、スサノウ、八岐大蛇か、何がおみやげのブログか、楽しみです。
    お気をつけていってらっしゃい。
  • kummingさん 2022/11/02 08:54:44
    お茶会のご案内♪
    急に寒くなり、しにあさん家におかれましては、毎年恒例の薪割り?の季節到来、と言った処でしょうか。

    もし、自分の親友が私不在の際に、私が崇拝する人の家に招待され親交を深めた!と、その親友本人から聞かされた、または、後年崇拝するその人の著作や他の誰かの著作でその事実を知ったとしたら? 手に胸を当てて想像してみました。

    まず、その機会を逸した事を悔しく思い、その時その場に居なかった自分を恨み、運のなさを嘆く。これは、そこに残っていたら自分も招かれていたはず、という楽観論に基づきますが。

    この事が原因で親友との仲にわだかまりが出来て、以後疎遠になるか?というと、もし疎遠になるとしたら、それはきっかけにはなったでしょうが、元々親友との間に何か違和感があったからで、この事だけが理由ではない、気がします。

    世間に認められるずっと前に、そうそうたる方々にその天才を見抜かれていた青木繁、坂本繁二郎もまた、青木の才能を誰よりも早く認めていた一人で、しかも親い関係だった。人は圧倒的に優位な相手ではなく、自分との差異が定かでないどんぐりの背比べ、的存在に嫉妬する、と言います。世に認められ地位を得た後も、青木繁の存在(たとえ亡くなったとしても)が、超え難い存在として心深くあったのでは? 逆に、青木が逝ってしまったからこそ、手に負えない事になってしまった、とも思えます。

    うら若き乙女by妻さん所有の「名著復刻全集・近代文学館『若菜集』」、青木が上京時に唯一携えていたという『若菜集』、未読です。和歌でも俳句でも漢詩でもない全く新しい日本語の詩、との事。

    高校時代、志賀直哉、武者小路実篤、漱石、川端、など所謂日本文学で気に入った作家の作品をガーッと一気読みしていた時期があります。残念ながら、好きだった、という以外の記憶が殆どない(;o;)一体、何をどう読んでいたんだか?島崎藤村も一連のその中にあり、音楽好き、でもオペラ、ミュージカル除く、と同様に、文学好き、でも詩、歌、俳句のぞく、なので、藤村が何か文体的に革新的だったような事、日本の家という制度についての著作があったような事(これすらあやしい)しか覚えていません。

    発行当時若者に熱狂的に迎えられ、若手の芸術家たちにそれほど崇拝されていた、というのは初耳でした。

    「2人の繁、ふたつの旅」久留米市立美術館にて開催チケットを入手、とお知らせしましたが、先週末の日曜日に「お茶を楽しむ会 4月30日 11:00~14:00 青木繁旧居」というイベント開催♪ 予約不要参加無料、という告知に、駐車場に何台停められるのか、心配していました。予約制にしてくれた方が良かった! と言いながら、別件用事で行けませんでした。

    今年は生誕140年という事で、青木繁絡みのイベント目白押しのジモテイ情報♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/11/02 11:35:05
    Re: お茶会のご案内♪
    薪集めは今年は不作でして、まだ1回も出動していません。4冬分もあるので、あまりガツガツしておりません。薪大尽、薪貧乏と薪ストーブ仲間で言います。今のところ薪大尽なので、鷹揚に構えております。

    坂本繁二郎の心理分析お見事です。
    繁二郎は、妙義小諸旅行の段階では、繁との実力差をはっきり知っていたと思われます。河北倫明や松本清張も主張する通説です。
    しかしいずれにしても修行中、追い越してやる、追い越せるという自信はあった。
    ドングリの背比べだと彼は思っていたはず。
    だから藤村に繁だけが呼ばれたのは運が悪かったとその段階では思えたでしょう。
    しかし後年、「海の幸」以降はそんなこと言えなくなったのではないか。誰よりも繁の才能を評価していた繁二郎ですから、後になればなるほど、
    「青木繁の存在(たとえ亡くなったとしても)が、超え難い存在として心深くあったのでは? 逆に、青木が逝ってしまったからこそ、手に負えない事になってしまった」
    ということになります。おっしゃる通り。
    晩年、繁との関係を話したがらないというのは、これで説明できます。

    青木繁140年祭ですか。坂本繁二郎140年でもあるのですが、こちらの方は何かありますか。
    お馬鹿3人組の丸野豊は本当に何もわかりませんでした。画家としては大成しなかったようです。昭和17年の段階で、小山周次に「他一名」と書かれているくらいで、このころでも絵描きとしては無名であったらしい。
    生年は1880年という説もあります。明善校の青木繁のクラスメイトですから80年ということはないと思うのですが。
    先輩ですよ。

    青木繁旧居でお茶会、さすが地元。
    予約不要というけれど、座敷8畳、広縁合わせたって、大した人数入ると思えませんが。

    青木繁の妻、福田たねの生地栃木県芳賀町の取材まで済ませましたが、ここの旅行記、あまり気が乗りません。青木繁を世に残した梅野満男とたね、厳密にはその子福田蘭堂との間に後年絵の所属で争いが起こるのですが、たね、蘭堂の言い分がどうみても理不尽で、不愉快なのです。今回は次の番外編小諸散歩でおしまいです。
    梅野満男は久留米出身で、私財で青木作品を収集し、石橋美術館(今は久留米市美術館かな)に引き継いだ人物です。
    どういうわけか、その息子隆が小諸の近くの東御市に美術館を開き、石橋美術館に渡さなかった、繁のデッサン50点ほどを所蔵しています。行ってきました。そのうちブログにしようかと思っています。

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