2022/08/29 - 2022/08/29
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しにあの旅人さん
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1902年(明治35年)11月、青木繁は、坂本繁二郎、丸野豊と3人で妙義山にスケッチ旅行に行きました。
これが貧乏旅行以下のとんでもない旅でした。若ければ何でも許されると思っているだろう、お前ら、と言いたくなる。3人とも20歳でした。
妙義神社、中之嶽神社で、不届きお馬鹿トリオの旅をたどりました。
それにしても、天狗に手を出すとは!
よくもまあ、無事で・・・
投稿日:2022/10/8
使用した参考資料は「青木繁紀行4 青木繁旧居、坂本繁二郎生家訪問記」に列挙しました。引用に際しては僭越ながら敬称を略させていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
出典:青木繁全集
まずメンバー。
東京美術学校西洋科時代、明治34,5年頃の青木繁です。ちょうどこの旅行のころです。見るからに生意気そうな顔をしております。
もう1枚。 -
出典同じ。
明治37年6月ですから、2年後22才頃です。
どこで読んだか思い出せないのですが、青木繁と挨拶すると、声は上から降ってくる。
日本人はお辞儀をするので、声は下から上がってくるはずですが、ふんぞり返っているから、上から声がしたそうです。
いかにもそういう感じ。
「坂本繁二郎文集」の「追想記」の末尾に、
★そして君(青木繁)は常に空ばかり眺めて歩いた、その仰向いた頭の角度の非常なことは有名で、後ろから声をかけた方が早いとまで言われていた。★
同じ事を言っているのです。
一書に曰く、
なんで、こんなに突っ張っていたのだろう?
反抗期だったのでしょうね。
坂本繁二郎と一緒の小学校時代は、にこにこしていたそうだから、本来の性格ではなかったのではないでしょうかね。
いつから、こんな性格になったのでしょうか。
田舎から、東京に、たったひとり、お金もなく出てきて、寂しかったのでしょうか。つらかったのでしょうか。
頑張って突っ張っている顔です。
By妻 -
出典同じ。
丸野豊。
1枚上の青木と同じ写真より。20歳とは思えない。 -
これが全体の写真です。赤丸が丸野、緑丸は青木。
2人の名誉のためにいうと、美術学校の学生は、皆さん自分より偉いモノはおらんという顔をしております。
「日本の西洋画は、おれがやらんでだれがやるのだ」とみんなマジに思っていた。
それは半分くらい正しかった。 -
出典:青木坂本展および坂本繁二郎文集。
1901年4月、久留米より上京直前の坂本繁二郎。妙義旅行の1年前です。19才。上の2人に比べると、いい面構えですが、常識的。 -
出典:青木坂本展。
1906年、24才。妙義から4年後の坂本。あまり変わっておりません。童顔だったようです。
一書に曰く、
この人は、本当に誠実な人柄の良さを、そのまま顔に現していますね。
素直な子供で、素直な青年だったに違いありません。
貧しかったにしても、お金の計算は、母親がして、彼自身は直面していなかったのでないでしょうか。
愛に護られていた。
素直でいられる、実直でいられる幸せですね。
By妻 -
出典:青木坂本展。
妙義スケッチ旅行の一次資料として、2通の手紙が残っています。
上は信州小諸の旅籠つるやから靑木繁が中之嶽神社社務所の坂本繁二郎に宛てた手紙。以下「靑木書簡」と書きます。
宛名は「上野国北甘楽郡小坂村中ノ岳社務所」となっています。「群馬県」の呼称は1876年(明治9年)には用いられていました。「上野国」は青木が気取ったのか、当時はまだ旧国名が普通だったのか、不明。
現在「武蔵国荏原郡世田谷区・・・」で手紙は着きますかね。
もう1通は、坂本繁二郎より伯父、権堂千之助(母の兄、後の坂本夫人の父)に宛てた手紙で、ここでは「坂本絵入り書簡」とします。
これは「青木繁・坂本繁二郎とその友」の著者竹藤寛が解読し、全文がP214-P219に掲載されています。竹籐による発見が1965年(昭和44年)と遅かったので、河北倫明などの青木繁研究専門家の著書に反映されていないようです。 -
竹籐寛が、妙義山・小諸旅行のスケジュールをまとめております。
1902年(明治35年)11月10日東京発、11日中之嶽神社社務所着。
大宮まで汽車、それから中之嶽神社まで歩いたと、松永伍一が書いています(「青木繁愛と放浪」P83、ほかに河北倫明)。途中磯部温泉で1泊しているので、現代の徒歩コースで磯部温泉まででも約93km。
無理じゃないかな。
おそるべき地理オンチ、地図オンチのBy妻が、「行けッこないじゃん!」と言いました。このあたり、今回走りましたので、By妻でも分かる。
上野~高崎の鉄道は1884年(明治17年)には開通しております。
いくら貧乏な3人でも、大宮~高崎間の切符はケチらないでしょう。 -
青木繁妙義山スケッチ行より「車中風景」
青木坂本展カタログより。
「山に入らむ。 秋幾十里 朝はるる」という讃があります。
当時の信越本線は、ボックス席ではなく、ベンチ席だったのか。
「青木繁伝」だと、10日上野から汽車で高崎に昼頃着、以降17kmを徒歩で磯部温泉、翌日妙義神社経由中之嶽神社着まで15.7kmです。行ける。
渡辺洋によると、
★温泉(でゆ)の香や落葉一村三十戸★
★落葉枯葉峯の磯部の浴場(おゆ)どころ★
★稍寒(しょうかん)の浴(ゆ)の宿たつ星明かり★
という俳句が繁にあるので、磯部温泉泊は間違いない。
磯部温泉は、今は立派な温泉町ですが、120年前は30戸の寒村だったんだ!
磯部温泉に提案、12月10日に、青木繁投宿120年祭をやりましょう! -
彼らが知っていたかどうか。
磯部温泉は地図の温泉マーク、いわゆる逆さクラゲ発祥の地です。
一書に曰く、
この看板のそばに、足湯がありまして、そこに、二人のサイクリストが、のんびり足を温めておりました。
ふたり一緒の旅なのか、ひとり旅がここで遭遇して、情報交換しているのか、楽しげにおしゃべりしている様子。
あ~青春だなあ。
青木繁たち三人組も、わくわくしながら旅行したに違いありません。
By妻 -
1661年に起源をもつ、そんな古いものだとは知らなかった
-
妙義神社鳥居です。昭和49年(1974年)の造営ですから、3人のころはありません。
星を見ながら5時半頃に磯部温泉を出ると、9.2kmですからゆっくり行っても3時間、8時すぎには妙義神社に着くはずです。
でも、どうかな? -
青木坂本展カタログより。
青木繁「汗の妙義山スケッチ行」
スケッチブック見開き1ページです。この写真は青木繁関連の資料に時々出てきます。白黒鉛筆書きだと思っていました。彩色だったのだ! -
彼らの絵は「坂本絵入り書簡」にもありました。
3人組はこういう格好で旅行をしていたのです。相当の重装備。
この書簡によると、左から「小ちょびん」繁二郎、「ひげ」豊、「せー高ぽっぽ」繁。かれらはあだ名で、お互いにこう呼び合っていたらしい。
「ナントカぽっぽ」という言い方は「XXポッポ」とXXが有名私立学校の名前で聞いたことがあると、福岡生まれのBy妻が申しております。
「小ちょびん」は分からないそうです。
坂本の絵では右に犬が吠えている。
吠える犬の気持ち、分かる。
あやしい3人組です。
久留米弁丸出しでしゃべりながら歩いていた。明治の群馬の田舎です。久留米弁など聞いたことある人はまずいない。
一書に曰く、
三人の、旅行が楽しくて楽しくてという気持ちが、この絵に表れておりますね。
あだ名までつけあって、ちょっとウキウキしすぎ。
しっかし、こんな漫画を描いても、さすが!
犬が吠えているのも、その声が聞こえそう。
大荷物をしょって、もしかしたら、何日もお風呂にも入らず、洗濯もしていない服で、臭かったのかもしれませんね。
By妻
いくら若いとはいえ、妙義神社までずっと上りです。
この荷物だと、もっと時間がかかったかもしれません。
右の讃は、竹籐の解読によると、
★可憐意気将挫尚余路三里/あわれむべし意気まさにくじけ、尚あますところ三里の路★
残りでも3里(12km)ある長距離というと、11日の磯部温泉発、妙義神社経由中之嶽神社着までの15.7kmですね。歩き出してすぐへたっております。ダメじゃん。
それでもかれらは、妙義神社に着いて、本殿に詣でています。 -
するとこれを上ったのです。
誰かさんみたいに、女坂をゆっくり上がるなんてことはしない。競い合って駆け上ったでありましょう。 -
唐門。
-
唐門内側。
-
唐門、本殿は宝暦6年(1756年)の建立ですから、3人が見たものと同じです。
ここで、とんでもないことを彼らはしでかします。
青木繁伝によると、本殿の後ろに天狗社があると気づいたのは、丸野豊らしい。 -
現在の天狗社です。
-
本殿後ろに組み込まれた小さなお社です。
ここに2面の天狗の面が納められております。 -
むかって右に赤い天狗の面。
-
左にカラス天狗の面が安置されております。
「坂本絵入り書簡」によると、
★(妙義神社本殿)此処のうしろに天宮(ママ、狗)をまつりあり 其顔色の物すごき事、中々見事の作にて、遂に御神だけに御願申し引外した故に 其神罰にて斯様の苦敷目に遭ふであろうと(以下略)★
「御神だけにお願い申し、引き外した」
お願いすると一見低姿勢ですが、要するに天狗のお面を盗んじゃった。
「青木書簡」では、青木は中之嶽神社社務所2階を引き払う仕事を繁二郎に依頼して、
★残留の諸品、カンバス、天狗の仮面(床の間の上の額面の裏にあり)、書物(中略)東京へ御持ちかえり願上候。★ (P213)
つまり持ち出したのは靑木ということです。
「その神罰にて」と坂本が言うように、このあと小諸で、無銭旅行がばれて、旅籠から追い出されそうになること2回。
そりゃそうです。その程度の神罰でよかったね。 -
すぐ近くにこんなものが。
120年前の教訓でしょうか。
天狗のお面は少なくとも2代目です。
一書に曰く、
坂道だって、崖道だって、若い三人には、楽しかった。
この妙義山という山は、特異な姿の山です。
絵心のない私でさえ、印象に残るのですから、この三人組が興奮しないはずはありません。
大興奮。
嬉しくて、楽しくて、、、
あ~あ、調子に乗りすぎました。
ツッパリ青年は、考え無しに、ついつい。
だめですよ。
坂本繁二郎は、ハラハラしたでしょうね。
困ったなあ。
でも、空気読む人だから、この楽しい雰囲気を壊せない。
つらいところだったのではないでしょうか。
楽しい旅に、ちょっと陰が射した瞬間です。
でも、まだ楽しい。
浮かれております。
By妻 -
中之嶽神社には、お馬鹿トリオは11月11日に到着。
27日まで滞在しておりました。
その社務所が現存するか、神社の宮司さんに電話で聞きました。
宮司さんによれば、青木繁たちが滞在したことはまちがいない。
現在の社務所の同じ場所に古い社務所があり、それだった。 -
これですね。
記録とか、記念品のような物は残っていないか、お伺いしましたが、残念ながらなにもなし。
120年前ですから、しょうがないか。
一書に曰く、
私どもは、ここには、最近二回行きましたが、二回とも、この社務所はしまっておりました。コロナだからでしょう。
それにしても、三人組がここに滞在したのに、それについて、なにも触れていません。
宿泊したばかりか、宿賃踏み倒しを企て、最終的には値切って支払ったなんて、結構おもしろいエピソードがあるのに。
完全無視でした。
まだ、怒っているのかしら。
その三人の若者の内、ふたりは、日本画壇に名を成したのですよ。
すごいですよね。すごくないですか。
宿賃のエピソードも、今となっては笑い話。
若かったのね。調子こいたのね。
にしてあげてくださいよ。
わたしが、ごめんなさいしますから。
By妻
3人は社務所2階に本拠を構え、毎日山中でスケッチをしました。
「坂本絵入り書簡」によると、周囲に人家はなく、1里(4km)ほど下った妙義町に20戸ほどの集落があるのみ。
★大底毎日帰途は日没後にて、屡々野猿に出逢ひ候★
青木繁の短歌草稿「うたかた集」の1首、
★暮れぬれば絵の具を収め帰る路月なき谷を猿の声する★ (85)
これが対応します。 -
駐車場の端から見た妙義山。
-
「青木坂本展」より。
「麓より妙義山を望む」という題です。
角度は上の写真とだいたい会っている。
坂本によれば近くに社務所以外人家はなかった。当時の中之嶽神社そのものではないかと思うのですが。 -
ありがたそうなお名前がついた岩でしたが、記録し忘れ。
-
★降って中天に屹立(きつりつ)する奇岩怪石送迎に遑(いとま)なく候★
なるほど。
このとき妙義山は紅葉の真っ最中で、坂本はこれを、
★爛々焔の如く嶺谷きらいなく漫延し、夜燈火なくとも窈窕(ようちょう)の小径自由に通るべく★
と表現しております。「羊腸の小径」は箱根の山ですが、窈窕、しとやかで美しい小路は知りませんでした。
坂本の最終学歴は高等小学校、現在の中学2年生に相当します。今も昔もフツーのちゅうぼうがこれを書けるか。坂本は絵以外でも独学で勉強していたと思います。 -
青木繁「山上のスケッチ」靑木坂本展より。
「尺牘」にある蒲原隼男(有明)「蠱惑的画家」中のエピソードです。(P150)
有明の伝聞でして、出典は明らかではありません。
★どこかの山の中で、青木君が大きな巌の頂点遍に上って居る。その時青木君の友人たちはその巌の下に居たが、青木君はすましこんで、上から下を見下ろして、自分は如来であるが、君達は如来を繞る羅漢の格であるといったそうだ。★
有明自身が言うように、これがウソかホントか分かりません。しかし青木なら言いそう。
上述の「逝ける青木君」にこんな文章があります。
★妙義に登山したとき、夕日に染まった錦鶏山の頭を望んで、君が大声に「エヒョウ」と叫んだのが木魂に響いたとき、自分は写生の手を止めて只わけもなく胸を躍らした。★
これが該当するのかな。追悼文ですから、「自分は如来である云々」は書きにくい。 -
こんな岩のてっぺんに立った靑木繁ではないか。
なお繁は、絵がうまく描けたとき、大いに食ったとき、要するにいい気持ちになったとき、「ポヽンのポン、ポンゝゝ」と手をたたいて踊ったそうです。
坂本はこれを見て「君を尊敬せずには居られなかった。」と書いていますが、これをなんで尊敬するの?
ふだんから賑やかな人だったようです。(P61)
河北倫明「青木繁」に、高島宇朗(靑木の友人)の文章からの引用で、
★例の、ひとりで、手を打ち叩き、室内を踊りまわる。★ (P93)
とあります。おめでたい席で、青木は上機嫌でした。「例の」ですから、よくやったということです。
「ポヽンのポン、ポンゝゝ」は久留米ではなにか意味があるのかな。盆踊りの一節とか。
一書に曰く、
青木繁という人は、愉快な暢気な人だったのでしょうね。
本来は。
この人に、お金を持たせたかった!
明日の食い扶持の心配なしで、思う存分描かせたかったですね。
それとも食うに困らないと「ポヽンのポン、ポンゝゝ」ばっかりやっていたのかもしれない。やはりIfは存在しませんね。
By妻
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この旅行記へのコメント (5)
-
- 前日光さん 2022/10/21 22:46:21
- 青春時代の真ん中は。。。♪
- 道に迷っているばかりーーー♪
その前に「青春時代が 夢なんて 後からほのぼの思うものーー♪」
とありますが、げに青春というものは、振り返れば恥ずかしいことばかりですね。
こんばんは、しにあさん&by妻さん。
やっぱり青木・坂本の展覧会には行けませんでした。
つくづく山奥に逼塞したものだと思います。
さて、妙義山はやっぱり奇怪な山容ですね。
あの不気味な感じは、何なのでしょうか?
富士の麓で育つのと、妙義山を眺めながら成長するのとでは、自ずとその思考回路が異なってくるのは優に想像できます。
朔太郎が妙義山を眺めていたかどうかはわかりませんが、あの一連の不気味な詩の世界とどうしても繋がってしまいます。
話が逸れました。
おバカ三人組の妙義スケッチ旅行でしたね。
ただでさえ不気味感漂う妙義神社の天狗の面を盗むとは!
いやはや青春とは、愚かで且つ愛おしいものであります。
人生の、ほんの短い一瞬、刹那に輝く永遠のひととき…ですねぇ
傲慢、尊大、青木は「山月記」の李徴のようなイメージもありますね。
こういう人は、確かに長生きできないんだろうなと。
お金があってもなくても、青木は青木の生き方しかできなかったのでしょうね。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/10/22 12:56:58
- Re: 青春時代の真ん中は。。。♪
- 「いやはや青春とは、愚かで且つ愛おしいものであります。
人生の、ほんの短い一瞬、刹那に輝く永遠のひととき…ですねぇ」
おっしゃる通りです。
これを書いているときは、繁二郎の手紙に写真を合わせるのに手一杯で、そんなこと考える余裕がありませんでした。
青木繁は、ほんの短い一瞬が燃え尽きると同時に死んでしまいましたから、あとからしみじみ思うこともなかったのです。苦しいことばかり、かわいそう。
坂本繁二郎は、この旅行を思い出すことはあったでしょうが、それがしみじみ懐かしいものであったか、資料を調べていくと、そうでもなかったみたいです。
これが次回のテーマとなります。
信州旅行の帰りに朔太郎記念館まで行こうと思ったのですが、スケジュール的に無理でした。いつか行ってみたい。
妙義山がどう見えるか、調べてみたいと思います。
堀辰雄文学記念館で、「堀辰雄と萩原朔太郎」という特別展をやっていました。2人の付き合いは深かったようです。もっとちゃんとみてくればよかった。
中島敦、読み直してみようかなと思いました。
「こういう人は、確かに長生きできないんだろうなと。
お金があってもなくても、青木は青木の生き方しかできなかったのでしょうね。」
そうでしょうね。
日本には向いていなかったみたい。
繁自身がパリに行くという妄想を語っていますが、もし結核ではなく、後援者が現れてパリに行ったら、繁は日本に帰って来なかったのではないか。藤田嗣治の先駆者になったのではないかと想像しています。
ああいう自分勝手で尊大な性格でも、独創的な絵を描いていれば、フランスやイタリアなら受け入れる余地はあったかもしれません。
-
- mistralさん 2022/10/10 20:20:26
- お馬鹿な三人の行軍。
- しにあの旅人さん
こんばんは。
ご無沙汰しております。
個人的事情で忙しく過ごしておりました (現在も進行中です。)
「青木繁紀行 若さと馬鹿さの妙義スケッチ紀行」
ほのぼのとした気分になる旅行記でした。
お馬鹿な三人のスケッチ旅行、天狗さまのお面まで盗み出してしまい
東京へ戻る際には、隠し持っていたお面を持ち帰るよう依頼までした青木繁。
それでも、そんな三人組を見つめるしにあさんご夫妻の眼差しには
なんとなくこころあたたかいものを感じるのはわたしだけ?
布良から始まった青木繁紀行、ずっと取材を続けていると、なにやら
愛情を感じるようになってくるのでしょうか。
三人の行軍の姿のスケッチを青木ともうひと方で残されてましたね。
小ちょびん ひげ せー高ぽっぽ と愛称も可愛らしいし
さすがの画家さん!くたびれはてた様子で歩く様が、いかにも、と笑えます。
才能溢れると自負していそうな若者芸術家たち
貧乏だったゆえ?こんな青春時代を送ってきたゆえ?
後に才能が開花していく時を迎えるのかと思ったのでした。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2022/10/10 20:29:00
- Re: お馬鹿な三人の行軍。
- 小諸です。青木繁の続きです。携帯で長い文章書けないので、詳細後日。
小諸ってそば屋は昼しかやってないのですよ。名物おしぼり食べたかったのに。
- しにあの旅人さん からの返信 2022/10/15 07:52:54
- Re: お馬鹿な三人の行軍。
- 無事帰ってきました。
昼しかやっていない小諸のそば屋さん、小諸だけではなく、信濃追分でも同じでした。さすがに軽井沢ではやっているようでしたが、このあたろでは、夜いっぱいやって、〆にそばということはないようです。信州おしぼりソバは食べそこねました。
そもそも小諸、信濃追分では、行ってみると今日はお休みという食べ物屋さんはザラにありました。
青木繁ども3人ですが、妙義、この後の軽井沢、小諸までのおバカ旅行は、見ていてホホエマシイですみます。青春しているな、という感じ。若い連中、3人よるとついつい羽目を外すということは、若干身に覚えなくはない。
この後小諸までは書き上げてあったのですが、今回の旅行で、思ってもみなかった新資料が出てきて、全面書き直しです。
島崎藤村や冬子夫人まで出てきてもらって、例によって無いこと無いこと並べます。楽しい旅行記にする予定、ご期待ください。
坂本繁二郎は後年文化勲章をもらうくらいで、確かに才能が生前高く評価されました。しかし青木繁は、生前の絶頂は房州布良。あとは持ち前の高慢、自信過剰で自滅していきます。
夭折の天才ということになったのは戦後です。28で北九州放浪の末死んでいます。最後の2、3年はあまりに惨めでうんざりするくらい。
福田たねとの芳賀町五行橋の別れでやめちゃおうかなと思っています。
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