2018/09/09 - 2018/09/09
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しにあの旅人さん
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更新記録 2022/8/21 初投稿日記入、靑木繁、福田たね、坂本繁二郎、森田恒友の写真入れ替え。所属グループ名変更
旧題:七十路夫婦 青木繁を訪ねる 上・小谷家
初投稿日:2018/10/17
青木繁(1882-1911)
明治時代、日本洋画界に超新星のように突然現れ、強烈な光芒を放ち、8年後、わずか28才で夭折した画家です。
1904年夏、青木は千葉県館山市に近い布良(めら)に滞在し、最高傑作のひとつ「海の幸」を描き上げました。
青木が滞在したのは地元の有力者である小谷喜録邸。小谷家は青木が滞在したころと同じ状態で近年まで残されていました。さすがに建設後100年以上たっていたので、これ以上の維持が難しくなってきました。2014年から修復が開始され、2016年に完成しました。
私たちが訪れたのは、青木が滞在したころとほぼ同じように修復された小谷家です。
御当主小谷福哲さんが丁寧に案内してくださいました。
なお文中小谷家平面図、4枚の絵手紙は、NPO法人・青木繁「海の幸」会のホームページより許可をいただいてコピーいたしました。ご厚意感謝いたします。以降「海の幸」会と略記させていただきます。
「海の幸」と「わだつみのいろこの宮」の写真はウィキメディア・コモンズより。著作者は1911年に亡くなっているので、この著作物は、著作権の保護期間が著作者の没後100年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
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明治37年(1904年)7月、青木繁は東京美術学校を卒業後、親友坂本繁二郎 森田恒友、そして恋人福田たねと、内房館山から南へ9キロの布良を訪れました。3里12キロを歩いてきたそうです。
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50数年後、たねがこのときの旅行を回想して描いたものです。
霊岸島で館山へ行く船を待ちながら、かき氷を食べています。右よりフクダ、サカモト。アオキ、モリタ、とあります。
最初は柏谷旅館に泊まっていましたが、すぐにお金がなくなりました。初めから金がなかったのか、最初の数日で飲めや歌えやで使い尽くしたか、多分両方ではないでしょうか。
地元の有力者小谷喜録さん(こたにきろく)は男気のある人で、以前よりこの地を訪れる、いわゆる文人墨客の面倒を見てきました。古き良き日本の地方におられた、旅の芸術家を愛される名士でありました。
喜録さんは青木たち4人を自宅客間に滞在させることにしました。 -
修復なった小谷家です。
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「海の幸」会ホームページより。
修復後の平面図です。
右二間、「オクフタマ」前室6畳、後室8畳が青木たちに提供されました。 -
客間8畳。立派な部屋です。
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反対側から。
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6畳
写真でお分かりのように、立派な部屋で、この家で一番いい2部屋です。
私たちは、この家はこのとき空き家で、喜録さんご夫妻は別の家に住んでおられたと思っていました。
ところが、福哲さんのお話によると、この建物に同居されていたのです。これは予想もできないことでした。
10才と6才の娘と4人で、納戸を寝室にしていました。むかしの日本では納戸を寝室にすることは普通だったそうですが、一番いい部屋を客に一月半もただで使わせて、居間は共用でした。
そもそも玄関から居間を通らないと、客間に行けない構造でした。 -
玄関から見た居間8畳です。
そして部屋を提供しただけではなく、食事も面倒見ていました。 -
板の間前室です。
-
板の間後室。ここで食事していました。
向かって左に台所に行く出口がありました。
現在でも地方の、特に房総の農家住宅では珍しくありませんが、台所、風呂など水を使う部屋は母屋から離して作りました。 -
パネルより。小谷喜録さんはこういう方でした。
来ていたのはどういう人物か。 -
青木繁(1882-1911)
1906年ごろ。 -
福田たね。(1985-1967)洋画家
このころ19才。入籍はしておりませんでしたが、青木繁の妻で、子供は作曲家・福田蘭童。青木繁と離別後、再婚。夫はたねが絵を描くことを好まなかったので、夫の死後画家としての活動を再開しました。
数多くの青木作品のモデルです。 -
坂本繁二郎(1982ー1969) 1906年ごろ。
日本の洋画を代表する巨匠の一人。1969年文化勲章受章。
青木と同じ年、同じ久留米生まれ。青木の親友でした。 -
森田恒友(1881ー1933) 1906年ごろ。
ウィキペディアによれば「南画の伝統を近代絵画に蘇らせた画家の一人」
青木は、この3人と小谷家でどのように生活していたのでしょう。
青木たち4人がこの家でおとなしく暮らしていたとは思えません。飲んで騒ぐこともあったでしょう。終日客間2部屋に閉じこもって絵を描いていたこともあった。不気味ですね。
福哲氏は、ひいおじいさんの娘ですから大叔母になるゆきさん(当時6才)から以下のことを直接聞いたことがあるそうです。「親からはお客さんの部屋に近づくなと言われていた。でもある日、障子の隙間から覗いたら、女の人が裸で絵を描いてもらっていた」
福田たねをモデルにして、ヌードデッサンをしていたのですね。
こういうのが家の中にいたのです。近づくなといわれても隣の居間を通らないと外に出られないのです。
小谷喜録さんの度量の広さには、こころから感心します。少なくとも私には絶対がまんできない。 -
客間8畳にある「海の幸」原寸大複製です。
この部屋で描いたものです。 -
(ウィキメディア・コモンズ)
青木のデビュー作かつ最高傑作といわれております。
「青木繁「海の幸」について」(溝口七生著 小谷家で入手)によれば、
相浜あるいは布良の浜で、坂本繁二郎が出会った大漁の水揚をベースに、青木はこの作品を構想しました。たね、坂本、森田恒友を助手にこき使って、制作をしたとのことです(坂本繁二郎の回想)
顔が見える2列3組のうち中央の2名は奥が坂本、手前が森田、3列目奥はたねがモデルと言われております。
漁師たちは全裸ですが、これは誇張ではないと私は思います。
布良の北、九十九里浜では、港がなかったので、昭和40年(1960年)ころまで、男も女も裸で浜から海への船の出し入れをしておりました。小関与四郎の写真集「九十九里浜」にはカラー写真で、その記録が残っております。衣服を着けていると濡れた体が乾かないのだそうです。
20世紀初頭の布良の浜でも同様にこうして裸で獲物の水揚げをしていたと考えます。
もうひとつこれが誇張、創作ではない理由は、獲物がサメであることです。布良は当時マグロ延縄漁で有名でした 白い袋がぶら下がっているようなサメより、獲物をマグロにしたほうが、絵も豪快になるのではないですか。なぜマグロにしなかったか。夏は、マグロは獲れないのです。実際に水揚げされたのはサメ、青木は忠実にそれを描写しました。 -
客間6畳に置かれている「わだつみのいろこの宮」原寸大複製。
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(ウィキメディア・コモンズ)
この作品の発表は1907年ですが、このときの布良の滞在中に着想を得たと言われています。
左側の女性が豊玉姫です。たねがモデルです。 -
たねの自画像です。
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「わだつみのいろこの宮」豊玉姫のアップです。
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客間前の縁側です。ときにはここで夕涼みしたこともあったでしょう。
なお、手前の6畳が青木とたねの寝室、奥の8畳に坂本と森田が寝たそうです。福哲さんは、坂本と森田は、ときには気を利かして、青木とたねを残して出かけることもあったようだとおっしゃっていました。 -
縁側前の小さな庭です。木の根元の池はなかったけれど、木立は変わってないのでは。
-
この大きな木は当時からあったそうです。
-
8畳南側の鴨居に3枚の魚類図鑑が額に入れて飾ってありました。
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小谷家で購入した絵はがきをスキャンしました。右から2番目のものです。
小谷家は日本で最初の水産教育をした水産伝習所所長・関澤明清の水産実習の世話もしていました。そのお礼として「日本重要水産動植物之図」が明治23年に小谷家に送られていました。凹版印刷で、紙幣の印刷技術を応用して印刷されたものです。
この図版は、青木たちが滞在していたころ、まさにこの場所に飾られておりました。 -
8畳東側の鴨居に4枚の絵手紙がありました。
青木が布良から知人に送ったものです。 -
「海の幸」会ホームページより。
そのうちの1枚、左の下段です。モクツ、モク、アラメ、ワカメなど海産物の名前が列挙されています。相浜や布良の浜で遊んだとき見つけたものでしょうが、この図版から名前を知ったはずだと福哲さんがおっしゃっていました。ワカメやハマグリはともかく、トサカメだのメリクサだの、普通この種の海の植物は図版でも見なければ名前は分かりません。
青木たちは主に布良の浜辺で泳いでいました。部屋に閉じこもって絵を描いていただけではないようです。近くの安房神社や、布良崎神社も訪れています。 -
私たちが、現代的にせちがらく、青木たちの食費とか質問したとき、小谷福哲さんの、驚いたような、困ったような表情が印象的でした。曾祖父喜録さんはそういうモノをまるっきり要求しなかったわけで、喜録さんにこの質問をしたら、おそらく同じ表情をしたのではないでしょうか。この土地の名士として当然のことをしただけなのでしょう。
喜録さん家族が同居していた件についても、近くに親戚の家もあったので、繁とたねに気を利かせて、ときにはそちらに行ったかもしれませんね、とこれもまた我々現代人に多少歩調を合わせてくれました。
青木繁の作品は、布良の美しい景色、漁民のたくましい生活ぶりに触発されたものでしょう。
それに加えて、こうした小谷家の人々の、おおらかな、優しい心遣いが、おおきな影響を与えたのだと思います。
青木繁はたねと別れ、家庭の事情で九州に戻り、「必ず呼び寄せるから」という言葉もむなしく、佐賀で死にました。結核でした。
残されたたねは、青木との子供、後に福田蘭童として有名になる幸彦を親許に残して再婚し、平穏な生活を送りました。夫亡き後また絵を再開したことは前に少し触れたとおりです。福田蘭童の子供が、ご存じの方もあるかと、クレージーキャッツの石橋エータローです。
青木繁とたねの恋は悲しく終わるのですが、彼らの一番幸福だったとき、充実していたときは、まごうことなく、ここ布良の小谷家にあったと思われます。
そして、その証明が、「海の幸」なのです。
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4Travelに小谷家がスポットとして登録されていないので、観光情報を書いておきます。
小谷家住宅
所在地 〒294-0234千葉県館山市布良1256
開館日 毎週土・日曜 (お盆時期・年末年始を除く)
開館時間 4~9月 10:00~16:00/10~3月 10:00~15:00
入館料(維持協力金) 一般200円 小中高100円
連絡先
安房文化遺産フォーラム
〒294-0036
千葉県館山市館山1016-1
さらしな館
TEL&FAX: 0470-22-8271 -
バス 館山駅から小谷家住宅へ
JRバス関東・安房白浜行き(約25分) 安房自然村下車
車もこのバス停を目印にします。国道410。 -
バス停近くにこの標識があります。あとは標識に従ってください。
-
小谷家には駐車場はありませんが、このバス停道路挟んで反対側の駐車場に止められます
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