小諸・御代田旅行記(ブログ) 一覧に戻る
1902年(明治35年)11月、妙義山にスケッチ旅行に行った青木繁、坂本繁二郎、丸野豊の3人は、その後信州小諸に向かい、つるやという旅籠で島崎藤村に会っています。<br />ダメ元で「青木繁 小諸つるや 藤村」でググったら、「信州小諸つるやホテル」のHPが出てきました。<br />http://www.tsuruya-hotel.com/entry10.html<br />なんと、つるやはいまでもあるのです!<br /><br />泊まってきました。<br /><br />妙義スケッチ旅行の一次資料として、2通の手紙が残っています。詳しくは「青木繁紀行5」をご覧下さい。<br />つるやから青木繁が中之嶽神社社務所の坂本繁二郎に宛てた手紙。以下「青木書簡」と書きます。<br />もう1通は、坂本繁二郎より伯父、権堂千之助(母の兄、後の坂本夫人の父)に宛てた手紙で、ここでは「坂本絵入り書簡」とします。<br /><br />使用した基本的な参考資料は「青木繁紀行4 青木繁旧居、坂本繁二郎生家訪問記」に列挙しました。引用に際しては僭越ながら敬称を略させていただきます。<br /><br />投稿:2022/10/16<br />

青木繁紀行6 小諸、旅籠つるや、藤村との出会い

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2022/10/10 - 2022/10/11

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旅行記グループ 青木繁紀行

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22

しにあの旅人

しにあの旅人さん

1902年(明治35年)11月、妙義山にスケッチ旅行に行った青木繁、坂本繁二郎、丸野豊の3人は、その後信州小諸に向かい、つるやという旅籠で島崎藤村に会っています。
ダメ元で「青木繁 小諸つるや 藤村」でググったら、「信州小諸つるやホテル」のHPが出てきました。
http://www.tsuruya-hotel.com/entry10.html
なんと、つるやはいまでもあるのです!

泊まってきました。

妙義スケッチ旅行の一次資料として、2通の手紙が残っています。詳しくは「青木繁紀行5」をご覧下さい。
つるやから青木繁が中之嶽神社社務所の坂本繁二郎に宛てた手紙。以下「青木書簡」と書きます。
もう1通は、坂本繁二郎より伯父、権堂千之助(母の兄、後の坂本夫人の父)に宛てた手紙で、ここでは「坂本絵入り書簡」とします。

使用した基本的な参考資料は「青木繁紀行4 青木繁旧居、坂本繁二郎生家訪問記」に列挙しました。引用に際しては僭越ながら敬称を略させていただきます。

投稿:2022/10/16

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 明治35年(1902年)11月28日、妙義山を下山。<br />「坂本絵入り書簡」より。以下引用同じ。<br /><br />★十一月廿八日此山にク(グ)ッドバイをして碓井の墜道三十ケ所余りを通り越し、浅間山の裾野直線の傾斜数里の高原に出て中山道軽井沢に到り候★<br />

    明治35年(1902年)11月28日、妙義山を下山。
    「坂本絵入り書簡」より。以下引用同じ。

    ★十一月廿八日此山にク(グ)ッドバイをして碓井の墜道三十ケ所余りを通り越し、浅間山の裾野直線の傾斜数里の高原に出て中山道軽井沢に到り候★

  • 松井田駅<br />出典:「青木繁のデッサン」(梅野記念絵画館)<br /><br />歩いて旧中山道碓氷峠を越えたかと思いましたが、さすがにそういうことはない。「碓井の墜道三十ケ所余りを通り越し」ですから、妙義山から最寄りの、当時の松井田駅、現在の西松井田駅まで歩き、信越本線に乗ったようです。信越本線松井田駅は1885年開業。横川-軽井沢間も1893年に有名なアプト式軌道で開通し、すでに開通していた軽井沢-直江津と合わせ、信越本線は完成しておりました。<br /><br />北陸新幹線の開通により、横川-軽井沢間は1997年に廃線になりました。<br />26のトンネルと18の橋梁があったそうです。坂本繁二郎の言う「墜道三十ケ所余り」には足りませんが、橋梁を合わせればおつりがきます。<br />こんなモノには乗ったことがない3人組、でも何も書いておりません。ディズニーランドに初めて来た子供みたいに、目を丸くして、ただ息を潜めていたか。<br />写真は碓井第6橋梁。<br /><br />小諸駅は1888年に開業しているのに、軽井沢で降りています。途中の沓掛駅、現在の中軽井沢駅は1910年、信濃追分駅は1909年の開業ですからまだありません。<br /><br />★避暑のために建てたる西洋人の家屋赤瓦白壁各所に点々散在して、恰も瑞西(スイス)国辺の風光然たる有様に御座候★<br /><br />これが珍しくて、下りて歩いてみようと思ったのかもしれません。<br />写生しながら行こうということかな。<br /><br />堀多恵子(堀辰雄夫人)によれば「主人(堀辰雄)は19歳のときに軽井沢に来て、そのときの軽井沢の駅というのは、降りてくる三分の二は外国人だったので、(辰雄は)びっくりした」(「山ぼうしの咲く庭で」堀多恵子/オフィス・エム/1998年)/P109)<br />堀辰雄の19歳というと1923年です。<br />もともと軽井沢は、外国人が避暑のために開拓した町でした。<br /><br />島崎藤村は「千曲川のスケッチ」で、「軽井沢の西洋の婦人が小諸の祭を見物に来た」と書いています。藤村の小諸滞在は1899年-1905年、ちょうどこのころですから、軽井沢にはいかに外国人が多かったか、想像できます。<br />

    松井田駅
    出典:「青木繁のデッサン」(梅野記念絵画館)

    歩いて旧中山道碓氷峠を越えたかと思いましたが、さすがにそういうことはない。「碓井の墜道三十ケ所余りを通り越し」ですから、妙義山から最寄りの、当時の松井田駅、現在の西松井田駅まで歩き、信越本線に乗ったようです。信越本線松井田駅は1885年開業。横川-軽井沢間も1893年に有名なアプト式軌道で開通し、すでに開通していた軽井沢-直江津と合わせ、信越本線は完成しておりました。

    北陸新幹線の開通により、横川-軽井沢間は1997年に廃線になりました。
    26のトンネルと18の橋梁があったそうです。坂本繁二郎の言う「墜道三十ケ所余り」には足りませんが、橋梁を合わせればおつりがきます。
    こんなモノには乗ったことがない3人組、でも何も書いておりません。ディズニーランドに初めて来た子供みたいに、目を丸くして、ただ息を潜めていたか。
    写真は碓井第6橋梁。

    小諸駅は1888年に開業しているのに、軽井沢で降りています。途中の沓掛駅、現在の中軽井沢駅は1910年、信濃追分駅は1909年の開業ですからまだありません。

    ★避暑のために建てたる西洋人の家屋赤瓦白壁各所に点々散在して、恰も瑞西(スイス)国辺の風光然たる有様に御座候★

    これが珍しくて、下りて歩いてみようと思ったのかもしれません。
    写生しながら行こうということかな。

    堀多恵子(堀辰雄夫人)によれば「主人(堀辰雄)は19歳のときに軽井沢に来て、そのときの軽井沢の駅というのは、降りてくる三分の二は外国人だったので、(辰雄は)びっくりした」(「山ぼうしの咲く庭で」堀多恵子/オフィス・エム/1998年)/P109)
    堀辰雄の19歳というと1923年です。
    もともと軽井沢は、外国人が避暑のために開拓した町でした。

    島崎藤村は「千曲川のスケッチ」で、「軽井沢の西洋の婦人が小諸の祭を見物に来た」と書いています。藤村の小諸滞在は1899年-1905年、ちょうどこのころですから、軽井沢にはいかに外国人が多かったか、想像できます。

  • こういう出で立ちの3人組が外国人に混じって軽井沢の駅に降り立った。<br />久留米の中学校(旧制)明善校では、英語の授業もあったはずです。青木繁は上野図書館(現在の国会図書館の前身)でインドやギリシャの神話の本をいっぱい読んだそうですが、この時代ふんだんに翻訳があるとも思えない。英語原書または英訳でしょう。<br />「青木繁伝」に、明治40年夏、九州の梅野満夫あて書簡が引用されています。イプセン、メターリンク、ツルゲーネフ、メルジコースキイなどを「小生も此頃大分英訳にて通読致候」 (P216)<br />英語は相当読めたようです。<br /><br />脱線です。<br />この時代は、このItは何にかかるか、などというネイティブでさえ間違えるような現代受験英語ではなく、漢文素読のように英文を読み上げて体にしみこませるという学習法であったはず。時間と根気は必要ですが、これが一番正しい外国語の学習方です。読み書きができれば、会話などは勘と度胸でなんとでもなります。<br />私は19歳のときこれでフランス語をやっつけました。<br />70歳で始めたイタリア語は見事に失敗。トシですかね。<br /><br />本線復帰。<br />丸野豊の語学力については資料なし。<br />坂本繁二郎は39歳でフランス留学を決意しました。留学前にフランス語の勉強はしたようですが、いざパリに住んでみると「悲しいことに付け焼き刃のフランス語では先生(シャルル・ゲラン)の注意されることがチンプンカンプンです」(私の絵私の心P71)<br />期待できない。<br />繁1人でもなんとか英語を話せたら楽しいな。<br />軽井沢駅の外国人達は、異様な風体の若者が英語を解するので、ビックリした。ゆかいな想像です。<br />久留米弁なまりの英語って、どんなもんだろう。<br />フランス語でも出身地のなまりが出ますよ。大阪弁なまりのフランス語を流暢に話す人がいた。<br /><br />★此処を過ぎ沓掛村にて日が暮れ一泊★<br />

    こういう出で立ちの3人組が外国人に混じって軽井沢の駅に降り立った。
    久留米の中学校(旧制)明善校では、英語の授業もあったはずです。青木繁は上野図書館(現在の国会図書館の前身)でインドやギリシャの神話の本をいっぱい読んだそうですが、この時代ふんだんに翻訳があるとも思えない。英語原書または英訳でしょう。
    「青木繁伝」に、明治40年夏、九州の梅野満夫あて書簡が引用されています。イプセン、メターリンク、ツルゲーネフ、メルジコースキイなどを「小生も此頃大分英訳にて通読致候」 (P216)
    英語は相当読めたようです。

    脱線です。
    この時代は、このItは何にかかるか、などというネイティブでさえ間違えるような現代受験英語ではなく、漢文素読のように英文を読み上げて体にしみこませるという学習法であったはず。時間と根気は必要ですが、これが一番正しい外国語の学習方です。読み書きができれば、会話などは勘と度胸でなんとでもなります。
    私は19歳のときこれでフランス語をやっつけました。
    70歳で始めたイタリア語は見事に失敗。トシですかね。

    本線復帰。
    丸野豊の語学力については資料なし。
    坂本繁二郎は39歳でフランス留学を決意しました。留学前にフランス語の勉強はしたようですが、いざパリに住んでみると「悲しいことに付け焼き刃のフランス語では先生(シャルル・ゲラン)の注意されることがチンプンカンプンです」(私の絵私の心P71)
    期待できない。
    繁1人でもなんとか英語を話せたら楽しいな。
    軽井沢駅の外国人達は、異様な風体の若者が英語を解するので、ビックリした。ゆかいな想像です。
    久留米弁なまりの英語って、どんなもんだろう。
    フランス語でも出身地のなまりが出ますよ。大阪弁なまりのフランス語を流暢に話す人がいた。

    ★此処を過ぎ沓掛村にて日が暮れ一泊★

  • 沓掛(くつかけ)村は現在の中軽井沢です。国道18号軽井沢方向。3人組はこちらからやってきました。<br /><br />一書に曰く、<br />軽井沢。中軽井沢だの旧軽だの北だの。<br />あ~。めんどくさい。<br />軽井沢がそんなに偉いのか?<br />それなら、九十九里海岸のテニスで有名な町は、海軽井沢にすればいいじゃん。<br />とか憎まれ口を叩きながら帰ってきましたら、軽井沢には、昔から、欧米人が沢山いたそうですね。<br />そうかあ。そこかあ。<br />絵描きの三人が、ヨーロッパに憧れないはずはなく、ヨーロッパの雰囲気を嗅ぎに、軽井沢に来たのは、当然でしょう。<br />憧れの外国。憧れのヨーロッパ。<br />いつか行きたいね。行けたらいいね。<br />と、坂本繁二郎。<br />いつか行ってやる。きっと行ってやる。行くぞ!<br />と、青木繁は、叫んだことでしょう。<br />By妻<br />

    沓掛(くつかけ)村は現在の中軽井沢です。国道18号軽井沢方向。3人組はこちらからやってきました。

    一書に曰く、
    軽井沢。中軽井沢だの旧軽だの北だの。
    あ~。めんどくさい。
    軽井沢がそんなに偉いのか?
    それなら、九十九里海岸のテニスで有名な町は、海軽井沢にすればいいじゃん。
    とか憎まれ口を叩きながら帰ってきましたら、軽井沢には、昔から、欧米人が沢山いたそうですね。
    そうかあ。そこかあ。
    絵描きの三人が、ヨーロッパに憧れないはずはなく、ヨーロッパの雰囲気を嗅ぎに、軽井沢に来たのは、当然でしょう。
    憧れの外国。憧れのヨーロッパ。
    いつか行きたいね。行けたらいいね。
    と、坂本繁二郎。
    いつか行ってやる。きっと行ってやる。行くぞ!
    と、青木繁は、叫んだことでしょう。
    By妻

  • 小諸方向。<br />このあたりに沓掛宿本陣があったはずですが、なにも痕跡なし。<br />信越本線は1893年には開通、沓掛駅の開業は1910年ですからまだありません。宿は寂れていたでしょう。<br />坂本繁二郎によれば、中山道はうらぶれ、<br /><br />★大家の破れ淋れたる二階にて老いたる人の機織る様★<br />★或いは千客万来、店頭市をなしたらん如き内に孤燈悄然糸をつむぐなる老婆ある等★<br /><br />11月末です。軽井沢の11月だと平均最低気温はマイナス1.2度、12月ならマイナス6.4度、とても野宿は無理です。「私の絵私のこころ」によれば、<br /><br />★(この旅行は)あり金は汽車賃にとっておき、テクれるだけテクり、夜は野宿同然の無銭旅行でした★ (P36)<br /><br />「野宿同然」だから、村はずれのお堂にでも泊まったのでしょうか。<br />翌日もスケッチしながらチンタラ歩いた。<br />「旧中山道」は「1日じゅう山道」と読めるとどなたかが言いました。出典不明。<br />3人が一日中たどったのは、まさに山道。<br />

    小諸方向。
    このあたりに沓掛宿本陣があったはずですが、なにも痕跡なし。
    信越本線は1893年には開通、沓掛駅の開業は1910年ですからまだありません。宿は寂れていたでしょう。
    坂本繁二郎によれば、中山道はうらぶれ、

    ★大家の破れ淋れたる二階にて老いたる人の機織る様★
    ★或いは千客万来、店頭市をなしたらん如き内に孤燈悄然糸をつむぐなる老婆ある等★

    11月末です。軽井沢の11月だと平均最低気温はマイナス1.2度、12月ならマイナス6.4度、とても野宿は無理です。「私の絵私のこころ」によれば、

    ★(この旅行は)あり金は汽車賃にとっておき、テクれるだけテクり、夜は野宿同然の無銭旅行でした★ (P36)

    「野宿同然」だから、村はずれのお堂にでも泊まったのでしょうか。
    翌日もスケッチしながらチンタラ歩いた。
    「旧中山道」は「1日じゅう山道」と読めるとどなたかが言いました。出典不明。
    3人が一日中たどったのは、まさに山道。

  • 出典:「堀辰雄生誕百年」堀辰雄文学記念館/平成16年<br />当時の中山道は現在の信濃追分を通りぬけておりました。3人は旧脇本陣油屋旅館の前を通ったはずです。1902年では、油屋旅館は現在の堀辰雄文学記念館の向かって右隣にありました。1927年に焼失し、道路を挟んで反対側に再建され、それを引き継いだのが現在の「油や-信濃追分文化磁場」です。<br />沓掛宿から来ると当時の油屋は左にあります。写真は小諸方向から撮ったものです。昭和10年(1935年)頃の撮影だそうです。1902年と大差ないでしょう。<br />

    出典:「堀辰雄生誕百年」堀辰雄文学記念館/平成16年
    当時の中山道は現在の信濃追分を通りぬけておりました。3人は旧脇本陣油屋旅館の前を通ったはずです。1902年では、油屋旅館は現在の堀辰雄文学記念館の向かって右隣にありました。1927年に焼失し、道路を挟んで反対側に再建され、それを引き継いだのが現在の「油や-信濃追分文化磁場」です。
    沓掛宿から来ると当時の油屋は左にあります。写真は小諸方向から撮ったものです。昭和10年(1935年)頃の撮影だそうです。1902年と大差ないでしょう。

  • ★西は追分、東は関所の昔の歌を思い出す旧追分宿の途を右にとり★<br /><br />写真は信濃追分のわかされです。左は現在の国道18号、旧中山道。右は北国街道です。3人は右、北国街道に入ります。<br />

    ★西は追分、東は関所の昔の歌を思い出す旧追分宿の途を右にとり★

    写真は信濃追分のわかされです。左は現在の国道18号、旧中山道。右は北国街道です。3人は右、北国街道に入ります。

  • ★其日午後十時頃目的地信州小諸町に到着仕候★<br /><br />3人が投宿した旅籠つるや。<br />写真は明治時代の旅籠つるやです。ホテル入口左に写真が掲げられておりました。<br />

    ★其日午後十時頃目的地信州小諸町に到着仕候★

    3人が投宿した旅籠つるや。
    写真は明治時代の旅籠つるやです。ホテル入口左に写真が掲げられておりました。

  • 現在のつるや看板。<br />明治のオリジナルと同じデザインです。オリジナルは別途保管されているそうです。<br />

    現在のつるや看板。
    明治のオリジナルと同じデザインです。オリジナルは別途保管されているそうです。

  • 入口にわずかに旅籠の面影を残しております。

    入口にわずかに旅籠の面影を残しております。

  • かつては小諸に30軒あったという旅籠、唯一の現役生き残りです。

    かつては小諸に30軒あったという旅籠、唯一の現役生き残りです。

  • 連子格子の美しい旧北国街道の町並みに似合いませんが、現役のホテルとして生き延びるためには、やむを得ないでありましょう。

    連子格子の美しい旧北国街道の町並みに似合いませんが、現役のホテルとして生き延びるためには、やむを得ないでありましょう。

  • お部屋は、きわめてふつーのビジネスホテルです。<br />この日私たちは、千葉の自宅から中之嶽神社、以降ほぼ同じルートをたどってここまでやってきました。車で約400km。<br />一方彼らは沓掛宿から30kmを半日以上かけて歩いてきました。あっちで写生、こっちでスケッチと、チンタラやって来たのでしょう。<br />このホテルのどこかに3人はドサッと荷物を投げ出したはず。汗と埃で、臭そう。<br />

    お部屋は、きわめてふつーのビジネスホテルです。
    この日私たちは、千葉の自宅から中之嶽神社、以降ほぼ同じルートをたどってここまでやってきました。車で約400km。
    一方彼らは沓掛宿から30kmを半日以上かけて歩いてきました。あっちで写生、こっちでスケッチと、チンタラやって来たのでしょう。
    このホテルのどこかに3人はドサッと荷物を投げ出したはず。汗と埃で、臭そう。

  • ホテルに当時の宿帳が残っていました。<br /><br />★<br />明治参拾五歳十一月十■ヨリ<br />同三十六年一月三日迄<br />宿泊人届簿<br />小林佐平■<br />★<br /><br />ホテルのオーナーは現在も小林さんです。<br />■は読めません。現オーナーさんによると佐平「次」<br />

    ホテルに当時の宿帳が残っていました。


    明治参拾五歳十一月十■ヨリ
    同三十六年一月三日迄
    宿泊人届簿
    小林佐平■


    ホテルのオーナーは現在も小林さんです。
    ■は読めません。現オーナーさんによると佐平「次」

  • 3人の記録です。<br /><br />一書に曰く、<br />この宿帳を見ると、いろいろなことがわかります。<br />身分まで書くのですね。<br />三人とも士族と書いております。<br />士族には、士族のプライドというのがあったのでしょうか。<br />確かに青木繁も坂本繁二郎も、士族ではありました。<br />By妻<br /><br />

    3人の記録です。

    一書に曰く、
    この宿帳を見ると、いろいろなことがわかります。
    身分まで書くのですね。
    三人とも士族と書いております。
    士族には、士族のプライドというのがあったのでしょうか。
    確かに青木繁も坂本繁二郎も、士族ではありました。
    By妻

  • 左ページ拡大。<br /><br />★投宿して宿帳に東京の画伯として、皆三つ四つ宛年を多くかき付たる故かあらぬか、宿の主人公、朝に夕に底頭平身、昔流の畏まり方にて御機嫌伺に来る有様中々 可笑敷(おかしく)候★<br /><br />このとき全員20歳。トシを皆三つ四つさば読んだと書いてあります。丸野豊は六つ、木繁は四つ。坂本繁二郎は21と一つだけ。童顔でこれが精一杯か、まじめなので遠慮して一つにしたのか。実直な繁二郎です。<br />それにしても、自分で「画伯」って書くかねえ。ふつうだと偉い絵描きへの敬称です。<br />繁が、「職業? 画伯ってしとけ」くらい言ったのではないか。言いそう。<br /><br />投宿時刻は、繁二郎は手紙に「十時」と書いていますが、宿帳は「七時」となっております。宿の時計を見ながら書いたのでしょう。こちらの方が正しい。だいたいかれらが時計など高価なものを持っているはずがない。<br /><br />いずれにしても、えらそうな、おそらく特に繁の態度で、宿の主人は3人を信用しました。実際にはほぼ文無し。<br /><br />一書に曰く、<br />三人がご迷惑をおかけいたしました。<br />そのせいか、冷たい。<br />まだ忘れていないのでしょうか。<br />宿帳を見せていただくとき、<br />触っていいですか?歴史的な文献だから<br />と、うかがうと、<br />「あ、いいですよ。全然。」だって。<br /><br />年齢はウソ書く。自分で自分に画伯なんて尊称つける。<br />全く、することが詐欺師ですもんね。<br />調子乗りすぎ。<br />でも、旅館側は、分かっていたと思いますよ。<br />「こ~の、貧乏書生が。」<br />と、陰では言っていたと思います。<br />が、まさか、これほど持っていないとは!<br />この時の彼らの頭の中を、見てみたい。<br />本当に、つるやさん、ご迷惑をおかけいたしました。<br />By妻<br /><br />ところが12月4日には文無しがばれました。<br /><br />★去る12月4日、主人公眼に涙を浮かべ悄然として来り、今日までの宿代は仕方は御座りません故、只今限り御出立をと云う藪から突き出す棒談判に、画伯先生等吃驚(びっくり)敗ぼく大いにへこみ候★<br /><br />一書に曰く、<br />今までの宿代チャラにするから、出て行ってくれと、云われているのですね。<br />それでも居座った。<br />私たちは、この旅館には、いつも気候の良い頃に来て居るので、理解できませんが、たぶん相当寒いのでしょう。そこを追い出されたら、切実に困るわけです。<br />ビックリ敗北、大いにへこみ候。<br />なんて云える若さって、ほんと~~~に、ばか。<br />というかうらやましい。<br />想像するだけでも泣きたくなる状況です。<br />By妻<br />

    左ページ拡大。

    ★投宿して宿帳に東京の画伯として、皆三つ四つ宛年を多くかき付たる故かあらぬか、宿の主人公、朝に夕に底頭平身、昔流の畏まり方にて御機嫌伺に来る有様中々 可笑敷(おかしく)候★

    このとき全員20歳。トシを皆三つ四つさば読んだと書いてあります。丸野豊は六つ、木繁は四つ。坂本繁二郎は21と一つだけ。童顔でこれが精一杯か、まじめなので遠慮して一つにしたのか。実直な繁二郎です。
    それにしても、自分で「画伯」って書くかねえ。ふつうだと偉い絵描きへの敬称です。
    繁が、「職業? 画伯ってしとけ」くらい言ったのではないか。言いそう。

    投宿時刻は、繁二郎は手紙に「十時」と書いていますが、宿帳は「七時」となっております。宿の時計を見ながら書いたのでしょう。こちらの方が正しい。だいたいかれらが時計など高価なものを持っているはずがない。

    いずれにしても、えらそうな、おそらく特に繁の態度で、宿の主人は3人を信用しました。実際にはほぼ文無し。

    一書に曰く、
    三人がご迷惑をおかけいたしました。
    そのせいか、冷たい。
    まだ忘れていないのでしょうか。
    宿帳を見せていただくとき、
    触っていいですか?歴史的な文献だから
    と、うかがうと、
    「あ、いいですよ。全然。」だって。

    年齢はウソ書く。自分で自分に画伯なんて尊称つける。
    全く、することが詐欺師ですもんね。
    調子乗りすぎ。
    でも、旅館側は、分かっていたと思いますよ。
    「こ~の、貧乏書生が。」
    と、陰では言っていたと思います。
    が、まさか、これほど持っていないとは!
    この時の彼らの頭の中を、見てみたい。
    本当に、つるやさん、ご迷惑をおかけいたしました。
    By妻

    ところが12月4日には文無しがばれました。

    ★去る12月4日、主人公眼に涙を浮かべ悄然として来り、今日までの宿代は仕方は御座りません故、只今限り御出立をと云う藪から突き出す棒談判に、画伯先生等吃驚(びっくり)敗ぼく大いにへこみ候★

    一書に曰く、
    今までの宿代チャラにするから、出て行ってくれと、云われているのですね。
    それでも居座った。
    私たちは、この旅館には、いつも気候の良い頃に来て居るので、理解できませんが、たぶん相当寒いのでしょう。そこを追い出されたら、切実に困るわけです。
    ビックリ敗北、大いにへこみ候。
    なんて云える若さって、ほんと~~~に、ばか。
    というかうらやましい。
    想像するだけでも泣きたくなる状況です。
    By妻

  • ★<br />廿九日ヨリ 滞在 丸野豊<br />同        坂本繁二郎<br />同        青木繁<br />★<br /><br />前後の高橋さんと岩田さんの間で、12月6日の記載です。<br />1週間連泊すると再度宿帳に書き込むのか、文無しと分かったので待遇が変わったのか。<br />このとき救いの神が現れました。<br /><br />★幸ひ此の当地の幅きき米国帰りのハイカラーにて、矢張私等の中(ママ)間なる丸山君及び他中学の教師等私等の居る事を聞出し尋ね来たり、又た新体詩にて我国屈指の一人島崎藤村君尋ね来る等にて宿屋の信用厚くなり・・・★<br /><br />小諸義塾の教師、特に島崎藤村が宿に尋ねて来たので、宿の信用が増した、ということです。<br /><br />藤村との出会いは書くことがいっぱいあるので、次回に回し、独立させます。<br />


    廿九日ヨリ 滞在 丸野豊
    同        坂本繁二郎
    同        青木繁


    前後の高橋さんと岩田さんの間で、12月6日の記載です。
    1週間連泊すると再度宿帳に書き込むのか、文無しと分かったので待遇が変わったのか。
    このとき救いの神が現れました。

    ★幸ひ此の当地の幅きき米国帰りのハイカラーにて、矢張私等の中(ママ)間なる丸山君及び他中学の教師等私等の居る事を聞出し尋ね来たり、又た新体詩にて我国屈指の一人島崎藤村君尋ね来る等にて宿屋の信用厚くなり・・・★

    小諸義塾の教師、特に島崎藤村が宿に尋ねて来たので、宿の信用が増した、ということです。

    藤村との出会いは書くことがいっぱいあるので、次回に回し、独立させます。

  • 島崎藤村。だいたい30歳くらい。<br />写真は藤村の井戸案内板より。<br />

    島崎藤村。だいたい30歳くらい。
    写真は藤村の井戸案内板より。

  • 出典:「美しき明治のみづゑ 丸山晩霞展」丸山晩霞記念館/平成30年<br />丸山晩霞 1900年ボストン滞在中。<br />

    出典:「美しき明治のみづゑ 丸山晩霞展」丸山晩霞記念館/平成30年
    丸山晩霞 1900年ボストン滞在中。

  • 丸山晩霞の水彩が2点つるやにあります。そのうちの1点。<br />寄贈だそうです。<br />

    丸山晩霞の水彩が2点つるやにあります。そのうちの1点。
    寄贈だそうです。

  • 一時回復したかに見えた宿の信用ですが、ついに無一文がばれました。<br />坂本繁二郎によると、<br /><br />★草鞋切れたれども買う不能、鉛筆書つくれども求むる不能、服破れても縫う糸なく★<br />★憐れ其頃は雪陰(隠)紙に困り申候★<br /><br />雪陰(隠)紙、トイレットペーパーに困った。<br />そりゃ、無一文がばれます。<br /><br />一書に曰く、<br />これを読むと、トイレットペーパーは、持参しないといけないことが分かります。<br />へえ!<br />これは、現代日本人には理解できないことです。<br />たぶん、持って歩く人もいただろうけれど、普通の人は、宿で売っているのを買ったのではないでしょうか。<br />ついこの間まで、紙は、高価な物でした。<br />私が幼い頃は、トイレットペーパーは、落とし紙という名前で、ちり紙とは別の黒っぽいごわごわしたモノでした。<br />そして、ときどき、それさえも切らしたら、新聞紙を小さく切りそろえて使っていましたね。<br />そう言えば、わが家では、新聞紙を跨ぐと、ばっちーんと叩かれておりました。<br />母が叩くのですが、字が書いてあるものを跨ぐとは何ごとか!<br />ということでした。<br />字は神聖でした。<br />ですから、お弁当を包むのも新聞紙でしたよ。むかしは。<br />By妻<br /><br />11日に宿の親父が来て、<br /><br />★遂に代わりに物品差置談判と詰めかけ来り候★<br /><br />宿代払え、さもなくば持ち物を差し押さえると言い出しました。<br />実は中之嶽神社を出る前に、3人はそれぞれ送金依頼をしており、小諸に転送の手続きをしておりました。坂本は伯父の権藤千之助。それが着かない。<br />そこで11日、坂本のみ「宿屋には陰(ひそか)に逃げるが如く」つるやを脱走して中之嶽神社に戻りました。残りの2人はいわば人質でつるや残留。<br />坂本が中之嶽神社で調べると、伯父からの送金は着いておりました。一人の分は東京へ返送、もう一人は着金していない。だれの分が未到着か坂本は書いていませんが、おそらく青木でしょう。久留米の親には送れるお金はなかったはず。<br />

    一時回復したかに見えた宿の信用ですが、ついに無一文がばれました。
    坂本繁二郎によると、

    ★草鞋切れたれども買う不能、鉛筆書つくれども求むる不能、服破れても縫う糸なく★
    ★憐れ其頃は雪陰(隠)紙に困り申候★

    雪陰(隠)紙、トイレットペーパーに困った。
    そりゃ、無一文がばれます。

    一書に曰く、
    これを読むと、トイレットペーパーは、持参しないといけないことが分かります。
    へえ!
    これは、現代日本人には理解できないことです。
    たぶん、持って歩く人もいただろうけれど、普通の人は、宿で売っているのを買ったのではないでしょうか。
    ついこの間まで、紙は、高価な物でした。
    私が幼い頃は、トイレットペーパーは、落とし紙という名前で、ちり紙とは別の黒っぽいごわごわしたモノでした。
    そして、ときどき、それさえも切らしたら、新聞紙を小さく切りそろえて使っていましたね。
    そう言えば、わが家では、新聞紙を跨ぐと、ばっちーんと叩かれておりました。
    母が叩くのですが、字が書いてあるものを跨ぐとは何ごとか!
    ということでした。
    字は神聖でした。
    ですから、お弁当を包むのも新聞紙でしたよ。むかしは。
    By妻

    11日に宿の親父が来て、

    ★遂に代わりに物品差置談判と詰めかけ来り候★

    宿代払え、さもなくば持ち物を差し押さえると言い出しました。
    実は中之嶽神社を出る前に、3人はそれぞれ送金依頼をしており、小諸に転送の手続きをしておりました。坂本は伯父の権藤千之助。それが着かない。
    そこで11日、坂本のみ「宿屋には陰(ひそか)に逃げるが如く」つるやを脱走して中之嶽神社に戻りました。残りの2人はいわば人質でつるや残留。
    坂本が中之嶽神社で調べると、伯父からの送金は着いておりました。一人の分は東京へ返送、もう一人は着金していない。だれの分が未到着か坂本は書いていませんが、おそらく青木でしょう。久留米の親には送れるお金はなかったはず。

  • ここで中之嶽神社社務所から宿代の請求がありました。そうでした、小諸に行く前の、3人の宿代が未払いだったのです。25円。<br /><br />★(神社の)明日の米代が無という単刀直入の談判にて幾何とも詮すべなく★<br /><br />神社自身が窮乏している、という状態。<br />しかし繁二郎さん、ここで驚異のねばり。25円を18円に値切りました。<br /><br />★余分の代わりに一寸夜なべに水彩一枚をかき与え★<br /><br />とあります。のちの文化勲章の水彩画です。<br />今はどこにあるのでしょう。7円、単純計算で現代に換算するとン万円。これではすまない。ン十万、ものによってはン百万はいくでしょう。<br /><br />一書に曰く、<br />坂本繁二郎だって、値切りたくはなかったと思います。<br />なにしろ武士の出ですから、普段なら言い値を払ったと思います。<br />でも、お金がないんだもの。<br />三人分を坂本一人がまかなったのですからね。<br />どうしろと?<br />繁二郎、必死だったかと。<br />あの顔で、とつとつと、九州弁丸出しで、つっかえつっかえ値切ったのですよ。<br />汗なんかかいて。<br />あー気の毒。<br />というかコントみたいだったのではないでしょうかね。<br />お気の毒です。<br />繁二郎は、これ以後青木繁とのつきあいを、考えたでしょうねえ。<br />でも、まだまだ続くのです。<br />恐ろしい。<br />天才は、天災なのです。<br />By妻<br /><br />ここで脱線。<br />私は生まれも育ちも関東。By妻も物心ついてからは箱根の東です。関東人の常で、値切るのは大のにがて。<br />パリの友人で、ご主人がフランス人、見るからにはんなり京女という人物がおります。彼女がパリのデパート、プランタンで「ひとつならこのお値段、ほなら二つならおいくら?」とやりました。横にいたダンナは「大変な女と結婚してしまった」と言ったそうです。<br />京女「どうしてどすか?」とぶんむくれ。<br />馬関海峡を渡るとどうなるか。<br />久留米では?<br /><br />本線復帰。<br />坂本は1週間中之嶽神社に滞在して、3人が残した荷物を東京に送り出しました。<br />小諸で人質の2人は坂本からの送金で解放、年内あるいは年明け早々には帰京できたようです。<br />お馬鹿トリオの青春ハチャメチャ旅行は無事終わりました。<br />めでたしメデタシ。<br />

    ここで中之嶽神社社務所から宿代の請求がありました。そうでした、小諸に行く前の、3人の宿代が未払いだったのです。25円。

    ★(神社の)明日の米代が無という単刀直入の談判にて幾何とも詮すべなく★

    神社自身が窮乏している、という状態。
    しかし繁二郎さん、ここで驚異のねばり。25円を18円に値切りました。

    ★余分の代わりに一寸夜なべに水彩一枚をかき与え★

    とあります。のちの文化勲章の水彩画です。
    今はどこにあるのでしょう。7円、単純計算で現代に換算するとン万円。これではすまない。ン十万、ものによってはン百万はいくでしょう。

    一書に曰く、
    坂本繁二郎だって、値切りたくはなかったと思います。
    なにしろ武士の出ですから、普段なら言い値を払ったと思います。
    でも、お金がないんだもの。
    三人分を坂本一人がまかなったのですからね。
    どうしろと?
    繁二郎、必死だったかと。
    あの顔で、とつとつと、九州弁丸出しで、つっかえつっかえ値切ったのですよ。
    汗なんかかいて。
    あー気の毒。
    というかコントみたいだったのではないでしょうかね。
    お気の毒です。
    繁二郎は、これ以後青木繁とのつきあいを、考えたでしょうねえ。
    でも、まだまだ続くのです。
    恐ろしい。
    天才は、天災なのです。
    By妻

    ここで脱線。
    私は生まれも育ちも関東。By妻も物心ついてからは箱根の東です。関東人の常で、値切るのは大のにがて。
    パリの友人で、ご主人がフランス人、見るからにはんなり京女という人物がおります。彼女がパリのデパート、プランタンで「ひとつならこのお値段、ほなら二つならおいくら?」とやりました。横にいたダンナは「大変な女と結婚してしまった」と言ったそうです。
    京女「どうしてどすか?」とぶんむくれ。
    馬関海峡を渡るとどうなるか。
    久留米では?

    本線復帰。
    坂本は1週間中之嶽神社に滞在して、3人が残した荷物を東京に送り出しました。
    小諸で人質の2人は坂本からの送金で解放、年内あるいは年明け早々には帰京できたようです。
    お馬鹿トリオの青春ハチャメチャ旅行は無事終わりました。
    めでたしメデタシ。

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この旅行記へのコメント (5)

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  • 前日光さん 2022/11/10 00:02:24
    神社も宿も。。。
    とんだトバッチリでしたね。
    天才あるあるエピソード( ̄∇ ̄)
    お金持ちの天才なんて面白くも何ともない。
    酒に溺れ、女に溺れ、文無しで結核。
    これが後の文学史や美術史に残るポイントです。
    特に文学者は凄まじい。
    肉体が健全だったりすると、天才にはなれなかったのか!と思うほど、
    彼らは病気持ちでよわっちいです。
    だいたい健全な精神の持ち主である天才なんて、嘘っぱちですね。
    精神を病んでいるからこそ、素晴らしい作品が生まれるというものです。

    この旅行記の三人の若者も、みんなどこか変。
    坂本ですら、一見まともそうでありながら青木とつき合えた点で既に変人です。
    そんな彼らが藤村に出会えたということは、ラッキーでしたね。
    一瞬、宿の信用が回復、しかしそれも束の間。
    あまつさえ、中之嶽神社にまで借金していたとは。
    啄木だけじゃないんですね、借金まみれは。
    坂本の奔走で帰京できた二人。
    ああ、青春お馬鹿日記!
    天才あるあるのお話( ・∀・)
    人生が二度あるなら、一度はやってみたい青臭いお馬鹿なふるまい。
    それ故に愛しい若者たち(^-^)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/11/12 06:46:39
    Re: 神社も宿も。。。
    私のフランスの友人には、絵描きが何人かいました。友人というにはおこがましいですが、人格円満と言えるのは、荻須高徳くらいなものか。菅井汲は普通は温厚な紳士ですが、ポルシェ気狂いで、ハンドルを握ったら気が狂いました。シャンゼリゼ通り2kmをセカンドで凱旋門まで突っ走ったという伝説があります。どこかが歪になるみたい。
    70を過ぎて、功なり名遂げてこうですから、若い絵描には実に変なのが多かった。
    「絵描きは気狂いじゃない!」と力説する絵描きもいましたが、あいつもかなりおかしかった。

    旅行記の3人組も青春真っ盛りの変人です。
    坂本繁二郎が一見まともですが、おっしゃる通り、青木と付き合えたことで、すでにカテゴリー変人。

    丸野豊だって、「青木繁伝」では、妙義神社の本殿裏に立ちションをしに行って、天狗の面を見つけるのです。このエピソードは出典根拠がわからなかったので、使いませんでした。いくらなんでもひどい。

    どうして青春というのはおバカなのか。
    もっか堀辰雄紀行の準備中なのですが、堀辰雄が学生時代、交番の横で立ちションして罰金50銭取られたらしい。あの堀辰雄が、ですよ。
    ついでに堀辰雄のこの癖は治らなくて、後年多恵子夫人が怒っています。
  • kummingさん 2022/10/20 21:24:41
    久留米弁(ちっご弁)訛りの英語♪
    しにあさん、by妻さんこんばんは♪

    青木繁、坂本繁二郎、丸野豊、3人がスケッチ旅行で辿った道を文字通りなぞる旅。
    青木繁が豪放磊落、破天荒だったのに比べて、坂本繁二郎は生真面目で堅物なタイプだったみたいなお話。人って案外全然違うタイプに惹かれてしまったりしませんか?自分にないものを求める、みたいな?

    無一文で、しかも宿泊費を払うあてもないのに、よくも長期滞在できるものですね(°_°)これはもう詐欺の一歩手前?大胆不敵すぎる~。でも、実直なはずの坂本も知っててやるのだから、同類とも?結局、尻拭いをさせられるのは自分だと、分かってやってる感じ(笑)腐れ縁、と思って開き直っていたのかも?
    お代代わりに絵を描くって手段、もっと使えば良かったのに?

    値切り、私も苦手です、割と言われるがまま、ぼんびーなくせに、というか、だからボンビーなのか!

    今回、宿泊先のオーナーって、みんな予約サイト(Booking.com みたいな)のreviw を気にしているので、それを逆手に取る手段を多用しました。帰る前にお礼を兼ねて渡していた百均のストラップを、最初のチェックインの時に渡すと、次に会う時は、鍵束に付けてくれていました。みんなかわいいイタ男くんたちでしたが、あまり甘い顔は見せてはいけません。

    色んなやり取り、交渉や反論した事を、うちのバッカスに話すと、negative な話ばかり、と言われましたが、私はとっても面白かった^o^
    話が逸れましてm(._.)m

    久留米弁訛りの英語喋る人、4tr登録100万人中、数万?数千?数十人でしょうか?
    ちなみにBut→Batten(ばってん)と言います⁈ お後がよろしいようで(-。-;

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2022/10/22 12:16:08
    Re: 久留米弁(ちっご弁)訛りの英語♪
    「ちっご弁」というのは「筑後弁」ですね。ネイティブはそう言うのか、知りませんでした。
    全国で一番言われてみたい方言は博多弁の「好いとっと」だそうです。ちっご弁も同じですか。
    横浜生まれで東京西近郊をうろうろした私は全くお国言葉がありません。羨ましい限りです。
    By妻はそれでも博多弁を少しあやつります。筑前弁って言うのかな。

    坂本は、後処理が自分に来ることは覚悟していたみたい。久留米から出てきて一緒に下宿していましたから、青木のことはよく知っていたはずです。
    それでもこの後数年で袂を分かったのです。我慢できなかったみたい。
    でも繁の天才を早くから認めていたみたいです。同時代ではっきり繁をみとめていたのは、藤村、漱石、杢太郎、泡鳴、それになんと竹久夢二。
    夢二のことは、ずーと後ですが取り上げる予定。

    B/Bのオーナーの習癖を逆手に取るとは、相手も「むむ、お主やるな」と思ったでしょうね。
    このあたりのお話、後でたっぷりと聞かせてください。待っています。

    kumming

    kummingさん からの返信 2022/10/22 13:00:51
    Re: 久留米弁(ちっご弁)訛りの英語♪
    好いとっと、確かに、言われてみれば良い響き♪
    す~す~すっ 
    とっとーと 
    ↑ お分かりですか?

    多くの巨匠クラスがその天才を認めていたのですね!

    訛の英語、次のブログ動画で聞こえてしまうので(笑)、生音声に音楽をかぶせようか? 思案中でございます~m(_ _)m

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