2018/10/10 - 2018/10/10
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しにあの旅人さん
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更新記録 2022/8/21 題名変更、所属グループ名変更、初投稿日記入
旧題:七十路夫婦 青木繁を訪ねる 下・布良浜
初投稿日:2018/10/17
青木繁(1882-1911)
明治時代、日本洋画界に超新星のように突然現れ、強烈な光芒を放ち、8年後、わずか28才で夭折した画家です。
1904年夏、青木は千葉県館山市に近い布良(めら)に滞在し、最高傑作のひとつ「海の幸」を描き上げました。
詳しくは上・小谷邸をご覧になってください。
https://4travel.jp/travelogue/11411945
私たちは布良浜に3回行きました。最初は2017年1月で、だれもいない海でした。布良の海の寂しさは胸に迫るものがありました。これは青木繁の人生の最期の寂しさを思わせるものがありました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
青木繁記念碑、布良海岸、布良漁港、相浜と回ります。
なお文中4枚の絵手紙は、NPO法人・青木繁「海の幸」会のホームページより許可をいただいてコピーいたしました。ご厚意感謝いたします。以降「海の幸」会と略記させていただきます。 -
青木繁記念碑です。布良浜の入り口、丘の上にあって、海岸と太平洋を見下ろします。
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妻の右上に伊豆大島が見えます。1回目の布良訪問、冬でした。
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記念碑の説明板です。
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青木繁はこの布良浜が大好きでした。
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記念碑のある丘の上から浜を俯瞰します。布良浜の南端。
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中央。
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北端です。
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記念碑の北、右が女神山(めがみやま)、左が男神山(おがみやま)です。
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布良の町方向です。波打ち際に人影がみえます。10月の布良浜、この日見かけたのは一人でした。
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反対方向です。
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浜から東を見上げます。右の建物の向こうに国道410号が走ります。右端に青木繁記念碑の上端が見えます。
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さきほどの男神山と女神山です。
伝説ですが、神武元年、阿波の忌部(いんべ)氏が、一族を率いてこの阿由戸(あゆど)の浜に上陸しました。その後房州安房開拓の礎を築いたと言われております。
阿由戸の浜は布良浜の古名です。青木繁もこの浜を阿由戸の浜と呼んでいました。 -
「海の幸」会ホームページより。清書文も借用させていただきました。
青木繁が布良から友人に送った4通の絵手紙の一つです。
「其後ハ御無沙汰失礼候。モー此処に来て一ヶ月余になる。この残暑に健康はどうか?僕は海水浴で黒んぼーだよ。定めて君は知って居られるであらうがこゝ は万葉にある『女良』だ。すぐ近所に安房神社といふがある。官幣大社で、天豊美命をまつったものだ。何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で上古に傅はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない。
漁場として有名な荒つぽい処だ。冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ。
西の方の濱伝ひの隣りに相の浜といふ処がある。詩的な名でないか。其次ハ平沙浦(ヘイザウラ)、其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎でこゝは相州の三浦半 島と遥かに対して東京湾の口を扼して居るのだ。
上図はアイドといふ処で直ぐ近処だ。好い処で僕等の海水浴場だよ。」
青木繁たち4人の布良での生活がよく分かります。真っ黒になって、この浜で遊んでいたのですね。家にこもって絵を描いたばかりいたのではないのでした。
文中「こゝ は万葉にある『女良』だ」とありますが、万葉集には布良は出てこないそうです。古語拾遺にある忌部氏上陸の伝説が、青木の古代に対する想像力を刺激したのでしょう。
「わだつみのいろこの宮」という古代の神話をテーマにした作品をこの浜辺は生み出したのです。 -
絵手紙左上の小山です。
-
布良浜の北端、男神山の海よりの丘です。青木繁は正確に布良浜の風景を写生していたのです。
青木繁のスケッチでは小山は直接に波に洗われていますが、現在では海まで岩場が少しあります。このあたりは関東大震災で3から6メートル海岸が隆起したといわれております。地震の前後を比較できるいい資料ではないでしょうか。 -
「夫れから東が根本、白浜、野島だ、僅かに三里の間だ。野島崎には燈台がある。
沖ではクヂラ、ヒラウヲ、カジキ「ハイホのこと」マグロ、フカ、キワダ、サメがとれる。皆二十貫から百貫目位のもので釣るのだ、恐ろしい様な荒つぽい 事だ。
灘では、トビ魚(アゴ)、カツオ、タイ、アヂ、ヒラメ、サバ、抔だ。それから岸近くでは小アヂ、タカベ、クロダイ、カレイ、ボラ、抔だ。磯部ではタコ (大いよ)、イセヱビ、メチダイ、メジナ抔だよ。」
布良浜からは根本、白浜、野島は見えません。散歩で布良周辺を歩き回ったようですから、どこか丘の上で景色を見たのかもしれません。
やたらに魚に詳しいですが、これにはアンチョコがあります。
小谷家には水産伝習所所長・関澤明清から送られた「日本重要水産動植物之図」がありました。 -
これがその一部。これを見て魚、海産物に詳しくなったのでしょうね。
これは紙幣とおなじ凹版印刷で印刷された貴重なもので、それを海岸に持って行ったとは思えません。しっかり見て、覚えてきたのですね、スケッチしたかもしれません。青木繁の観察力のすごさを物語ると思います。 -
布良の町に入ります。
この路地の奥に青木繁たちが滞在した小谷家があります。現在小谷家は国道410号からアクセスできますが、当時は港からこの路地を通って入りました。 -
ここで振り返ると、
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もう漁港です。
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このあたりも青木たちの散歩コースでした。小谷家現当主福哲さんによれば、このあたりを散歩していれば、新鮮なとれたての魚をいくらでも漁師さんがくれたそうで、青木たちの食生活は安上がりで、豊かだったようです。
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港の向こうに見えるのは洲崎半島です。9月9日、2回目の布良訪問の時です。快晴でした。
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布良の町です。現在の人口700人。最盛期は4000人も住んでいました。マグロ延縄業が盛んで、銀行もあり、映画館もあったそうです。
ただしこのころの漁船は八丁艪の和船です。黒潮を横切って漁に出るわけで、遭難も多かったとか。福哲さんによれば、「後家港」と言われていたそうです。
青木たちがいたの1904年ですから、映画館はまだありませんが、活気に満ちた豊かな町でした。 -
「夫れから濱磯では、モクツ、モク、アラメ、ワカメ、ミル、トサカメ、テングサ、メリクサ、アワビ、ハマグリ、タマガヒ、トコボシ、ウニ、イソギンチャ ク、ホラノカヒ、サゝヱ、アカニシ、ツメッケイ(ツメガヒ)抔だ。
まだまだ其外に名も知らぬものが倍も三倍もある。また種族が同じで殊類なものもあるのだ。
今は少々製作中だ。大きい、モデルを沢山つかつて居る。いづれ東京に帰へつてから御覧に入れる迄は黙して居よう。
八月二十二日 繁
満雄兄」
目の前が全部海です。
布良の町の北側が相浜、その先に洲崎まで平沙浦が続いています。 -
「上図が平沙浦、先に見ゆるのが洲の崎だ。富士も見ゆる。
雲ポッツリ、
又ポッツリ、ポッツリ!
波ぴちゃり、
又ピチャリ、ピチャリ!
砂ヂリヂリとやけて
風ムシムシとあつく
なぎたる空!
はやりたる潮!
童謡
『ひまにャ来て見よ、
平沙の浦わァー、
西は洲の崎、
東は布良ァよ
沖を流るゝ
黒瀬川ァー
サアサ、
ドンブラコッコ
スッコツコ !!!』
これが波ののどかな平沙浦だよ。濱地には瓜、西瓜抔がよく出来るよ。蛤も水の中から採れるよ。
晴れると大島利島シキネ島抔が列をそろえて沖を十里にかすんで見える。
其波間を漁船が見えかくれする。面白いこと。」
和船の帆がたくさん見えます。これが八丁艪の漁船でしょうか。 -
10月10日の洲崎です。この日は曇り空でした。洲崎灯台は山の向こうで見えません。
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平沙浦が延々と続きます。台風の置き土産でしょうか、浜に流木など散乱しています。
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相浜海水浴場。
-
相浜漁港です。今は立派な港ができていますが、かつては浜辺に乗り上げた漁船から、その日の獲物を水揚げしたのです。
青木繁の代表作「海の幸」は、この相浜で収穫物を運ぶ漁師を、親友坂本繁二郎が目撃したのが、きっかけでした。
手紙からも私たちに伝わる24才の青年の心の高揚が、それをきっかけに爆発して、名画を生み出したのでした。
天才画家青木繁の青年としての喜びは、凡人である我々にも伝わり、そして、彼の最期を知っている故に胸に突き刺さるものがあります。
ここ布良は青木繁にとって、人生最良の時を過ごしたに違いない所なのです。
才能ある友に一目置かれる喜び、そして美しく可憐な娘にひたむきに愛される幸せ。
青木繁は二つながら我が物にして、彼の幸福の絶頂にいたことでしょう。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- kummingさん 2021/02/19 22:36:49
- ふむふむ…
- まだ駆け出しだった時代の、初々しい作品?
既にしにあさんの現地ルポ→今に至る前兆が随所に見受けられます♪
古谷氏の様な地方の名士が、将来性ある芸術家、才能ある若人を無償でもてなす、居候させるような大らかな時代があったのですね。
大正時代とか、文人にもお金に頓着しない野放図なタイプがいて、それでも食べて行けていたり、芸術的才能ある方にはパトロンのあるなしが、今も昔も才能の開花に大いに影響していた。時代の余裕とか色々な事情もあったのでしょうが、青木繁が病に倒れて夭折した事、惜しまれます。
中国の戦国春秋時代にどこかの国の宰相が、異能の人々を養って、その異才を伸ばし活用していた話、食客というのですが、ご存知ですか?食客も数百~数千人という単位で、例えば、鶏のなき声の真似が上手い、というだけの食客に、いざという時に鶏の真似をさせて、敵を欺き門を開かせた、とか。
話が飛んでますね(ーー;)古谷家の場合は見返り求めない無償サービス、でした!
メデイチ家はどうだったんだろう?
などなど、しにあさんのブログを見るにつけ、どんどん話が広がってしまう私m(_ _)m
未読作品を見つけたので、ぼちぼち楽しませて頂きま~す♪
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/20 07:01:04
- Re: ふむふむ…
- おはようございます。
昔はこういう地方の篤志家がいたのです。名士というやつ。お金もあるけれど、それなりに有意義な使い方をしていたわけです。
でも小谷家を見ると、そんなにお金持ちには見えなかった。自分たち親子4人は6畳くらいの窓のない納戸に寝て、一番いい部屋2部屋をタダで貸しちゃうんですからね。
でも私の北海道の祖母の実家は、広い家でしたが、一番いい部屋は客間で、普段は使っていなかった記憶があります。確か子供が入ると怒られたんじゃなかったかと。
無駄な見栄だといえばそれまでですが、昔の日本人は、こう、一本筋が通っていたような気がします。
その極めて大規模なケースが、BSの石橋さんですね。
博多のBy妻の祖父母の家には、頼山陽の掛け軸その他、旅の芸術家が残した書だの、扇に何やら書いてあるのがいっぱいあったそうです。タダでしばらく面倒をみてやって、その礼で置いていったということらしい。
今はどうでしょう、どのくらいお金持ちだったら、こういうことをするかな。私が仮に石橋さんでも、しないな。面倒臭い。
なんか、しょぼい話になりました。
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