2021/12/02 - 2021/12/02
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しにあの旅人さん
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青木繁、夭折した明治の天才画家。そりゃ絵は今は重要文化財かもしれないけれど、生前はまわりの親兄弟、恋人・福田タネ、なにより友人にとっては、とんでもない人物でありました。
でも魅力的なんですよね。
一番迷惑を被った一人が坂本繁二郎でしょう。でも彼は繁の死後すぐ、彼を世に残そうと遺作の展覧会を開催しています。リアルタイムで繁の魅力を見抜いていた。天才は天才にしか分からない、ということですかね。
繁と繁二郎のルーツを訪ねてきました。
使用した参考資料は下記のとおりです。引用に際しては僭越ながら敬称を略させていただきます。
「悲劇の洋画家 青木繁伝」渡辺洋・小学館文庫/2003年 以降「青木繁伝」
「青木繁画集 : 附・歌稿、尺牘と談片」編集:小谷保太郎/政教社/発行:大正2年(1913年)国立国会図書館デジタルコレクションより。以降「尺牘と断片」尺牘(せきとく)とは手紙のことだそうです。引用( )内の数字はデジタルコレクションのページ番号です。
「青木繁全文集 假象」中央公論美術出版/平成15年
「坂本繁二郎文集」中央公論社/1956年昭和31年
「青木繁 その愛と放浪」松永伍一/日本放送出版協会/1979年(昭和54年)。以下「青木繁愛と放浪」
「青木繁・坂本繁二郎とその友-藝術をめぐる悲愴なる三友の輪-」竹藤寛/福岡ユネスコ協会/1986年(昭和61年)。以下「青木繁・坂本繁二郎とその友」
「ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」展カタログ/アーティゾン美術館・久留米市美術館/2022年。以下「青木坂本展カタログ」
「坂本繁二郎」岩田礼/新人物往来社/昭和48年(1973年)
「青木繁-悲劇の生涯と芸術」河北倫明/1964年/角川新書
「青木繁と坂本繁二郎」松本清張/1982年/新潮社
「私の絵私のこころ」坂本繁二郎/日本経済新聞社/1969年
参考書ではありませんが、アーティゾン美術館で2022年7月30日から10月16日まで開催された展覧会「生誕140年ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」で撮影した写真も使用しております。以下「青木坂本展」と略記します。使用したものはすべて撮影可のものです。
投稿日:2022/10/01
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
門を入ります。
青木繁旧居、駐車場完備。 by しにあの旅人さん青木繁旧居 名所・史跡
-
門の左には旧居の説明。
書き起こします。
★日本が明治維新から近代国家へと急激に変貌していく中で、一人の天才が彗星のように現れ、一際鮮やかな光を放って駆け抜けて行きました。
青木繁(1882~1911)は久留米市荘島町に生まれ、重要文化財「海の幸」「わたつみのいろこの宮」などの鮮烈な作品を世に残して、28歳の若さで波乱の生涯を閉じました。
その青木繁が多感な少年時代を過ごし、類稀(たぐいまれ)な藝術の才能を育んだふるさとの家を「青木繁旧居」として復元整備し、かけがいのない市民の財産として永く後世に伝えることにいたしました。
青木繁旧居保存会のご努力と多くの皆様のご支援に、心から感謝申し上げます。
平成15年3月 久留米市★
青木繁がこの家に住んだのは、1899年(明治32年)18歳の時、明治洋画界のアレキサンダー大王になると宣言して久留米を出るまでの、希望に満ちた少年時代です。
何度か一時帰省しておりますが、1907年(明治40年)8月父廉吾の死によりこの家に戻りました。翌年10月借金の抵当に入っていたこの家が差し押さえられました。
世に認められず、家族にも見放された、落魄の繁が一人取り残された家でもあります。
家を追い出された繁は、その後約2年半に及ぶ九州での放浪の旅に出ることになります。
一書に曰く、
空気は、柔らかく、ノスタルジック。
小ぶりな、さっぱりしたお家でした。
ここに、七人家族で生活するのは、たいへんだったでしょう。収納スペースも見受けられず。
記念館になっている今は、さっぱりとか言えますが、生活している昔は布団や着るモノ、本などの家財道具があったときは、どうだったでしょう。
次の間という、二畳の納戸らしき部屋に、押し込んだのでしょうか。
どう考えても、一人一部屋などありえず、兄弟、枕を並べて寝たにちがいありません。
そういう芋の子を洗うようにして生活していた家が、今や空き家となっております。
そこに落魄の繁は、ただ一人夜を明かすわけです。
ひとり、灯りもない、がらんとした座敷に寝転んで、天井を見ながら、何を考えていたのでしょう。
もとわが家とは言え、浮浪者の不法占拠ですわね。
そして、そこさえも追われる。
出て行く後ろ姿が見えるようです。
季節がなんであっても、木枯らしが吹いております。
By妻」 -
旧居パンフレットより、家の間取りです。
2LDKと納戸(今は情報コーナー)です。延床面積110.6平米。
「次の間」というのは座敷の隣の控えの間ということでしょうが、こんな小さい家でも武家屋敷ですから、形式は守ったということかな。座敷から見て右側は、襖を挟んで座敷に開いていました。
これで夫婦と子供5人は狭い。母方の祖父が同居していた時期もありました。
父の青木廉吾は「代書」が仕事で、一家は貧しかったそうです。
「代書」は現在の司法書士か行政書士のような仕事です。識字率が低い時代ですから、家には不在のことが多かったらしい。 -
茶の間
旧居パンフレットより。 -
間取り図の「情報コーナー」
青木繁のころは納戸でしょう。 -
8畳の座敷。庭に面して広縁です。
あれか!
「尺牘と断片」には、青木繁の自伝草稿の断片が載っています。(168)執筆時期は不明です。
そのなかに、
父は不在がちであったので、
★母方の祖父が父に代わって来て居て、朝夕その薫陶を受けた。この祖父がまた父にも勝る厳格者で、長崎に出て蘭学や漢方をやったこともあり、後に日田の広瀬淡窓の威宜園に遊んで居たのを縁あって母の実家に養子として迎えたのである。如何な寒中にも朝まだくらいうちに縁側の板敷に机を持ち出して読書させられる、それも大きな声を張出さねばならなかった。挙作進退の一々が厳格な規制の下にあったから、まだ六七歳の幼なごヽろにも、成人のような負けじ魂が固く養われて居た。★
一書に曰く、
このエピソードは、まるで吉田松陰かと思うようであります。
日本は、こういう下層武士階級が支えてきたという例の一つですね。
識字率の高さ、新しい技術を習得できる基礎学力、そして公共心と言うのでしょうか、卑怯卑劣をを恥とする心は、長く日本の美徳でした。
青木繁は、後に絵画ばかりか、文学的な才能を見せますが、ここで基礎訓練されていたのですね。
じいさまが教えたというからには、たぶん論語とかだったに違いないのですが、だとしたら、論語は随分ロマンティックな学問だったのだなあ。
少年のようなプライドの高さ、意地を貫く生き方。松蔭も意地とプライドの人生でした。
By妻 -
8畳座敷まわりの広縁です。
ここに幼い繁は、当然座布団などなく、正座して、書見台にむかい、「シノタマワク」とか大声でやっていた。
「声が小さい!」と爺さんに怒られたのです。 -
青木は5人兄弟でした。
旧居展示写真より。5人中4人が写っています。
これも8畳座敷の広縁ですね。 -
写真の繁が座っているのは敷居のあたりか。
河北倫明「青木繁-悲劇の生涯と人生」によれば、
ツルヨ:明治12年生まれ/1879年
繁:15年/1882年
一義:19年/1886年
たよ:22年/1889年
義雄:26年/1893年
繁は1899年18歳で上京、その後1901年(20歳)、1902年(21歳)、1905年(24歳)久留米に一時帰省しています。
1907年に久留米に戻り、以降九州を離れることはありませんでした。
奥で本を読んでいる繁が20歳とすると、左は姉のツルヨ23歳、右2人は弟の一義16歳、三男義雄9歳。だいたいそのくらいに見えます。
最期まで繁を理解した妹タヨ13歳は写真におりません。
一書に曰く、
この写真は、スナップ写真というのですね。
日常生活の一シーンです。
いったい誰がこの写真を撮ったのだろう。
この時代、カメラは一般家庭にはありません。プロのカメラマン、写真屋さんが撮ったのだろうと思われます。
日常生活で、こういうときってあるよねって写真なのだけれど、実は被写体は演技をしているのです。
ということを、by妻は考えました。
この写真は「木と姉弟」という題名でした。わたしには、どうしても木の横、幼い男の子を抱えている男性は、坂本繁二郎ではないかと思えるのです。
by夫は、坂本繁二郎は、木家に二回しか行っていないから、そんなことは無理だと言うのですが。
例えば木繁が上京した後の帰ってきたときで、坂本繁二郎が、今から上京しようかというとき。
東京では、繁しか、知りあいがいない坂本が、東京のことを聞きに来て、木家、坂本家に記念として写したのではないか。
「東京に行ったら、何かと宜しくね。」の気持ちで、写真屋さん代金は、もちろん坂本持ちで。
by妻には、この男性の顔が、どうしても坂本繁二郎に見えるのですが、目がおかしいのでしょうか。
By妻 -
二人並べてみました。
似ているといえば似ている。
By妻説が正しいとなると、従来の説をひっくり返すことになります。繁や繁二郎の手紙など、検証できるモノはありません。
地元の専門家のご意見や、いかに。 -
もう一つ有名なエピソードがあります。これも多分この部屋。
「坂本繁二郎文集」にある「逝ける青木君」からの引用です。初出美術雑誌「方寸」第5巻第3号/明治44年7月。
青木繁が坂本繁二郎に伝えた逸話です。
「尺牘と断片」にも同じ文章がありますが、若干差異があります。(168)
★小さい時分の話である。嘗て厳君(げんくん、他人の父を敬って言う語)から叱られた時の事で、厳君は抜き身の槍を君(青木繁)につき突きつけられたのを、君は御突きなさいと云って動かなかった。それを傍で見て居られた母上は、驚いて君を引退けられた。その時後ろから厳君の投げられた槍が柱に突き立った事などがあるそうで、聞かない気は小さい頃から持って居たのである。★
「青木繁伝」によると、この事件は1896年(明治28年)、青木が久留米中学明善校に進学した頃です。木15歳です。父廉吾に内緒で森三美(みよし)の画塾に入門したのですが、日曜日に絵の練習をしている現場を廉吾に見つかりました。それで激怒した廉吾が繁に槍を突きつけることになったわけです。
繁が引かなかったので、廉吾は部屋隅の柱に槍を突き立てて出て行った、となっています。(P21)
手槍としても2mくらいある。こんな長いものを振り回したのだから、広縁に開いた8畳の座敷じゃないかな。 -
旧居展示写真より。
中学明善校のクラスメイト。
前列中央青木繁。後列左から丸野豊、内田登喜次、梅野満雄。
青木繁も同人だった「画藻」という回覧雑誌のメンバーです。
丸野豊は画家。東京に出て、1893年(明治35年)青木繁、坂本繁二郎と共に妙義山から小諸への旅行に同行。
梅野満雄はこの地方のお金持ちの息子で、青木繁を最期まで援助し、作品のコレクターでありました。彼の努力で繁の絵は散逸を免れたのです。
内田登喜次については詳しいことは分かりませんでした。
一書に曰く、
旧制中学の気分があふれている写真ですね。
明善校という学校は、1783年からある、藩校ではないようですが、それに準じた歴史のある学校のようです。
当時、旧制中学に行ける子供の数は、多くはなかったはずです。
経済的にも、また学力にも恵まれた男の子達の集団ってことです。
エリート意識を持った坊ちゃん達の、一寸ふざけた写真です。
この明善校入学の経歴は、木繁を、無意識のうちに、生き方を左右する要素になったのではないかと思われます。
彼は、あれほどの貧窮の中においても、気分の乗らない仕事はしないのです。
By妻
旅立ち
▲▼▲
1899年(明治32年)、18歳の青木繁は洋画家を志して東京に旅立ちました。
意気軒昂たるものがありました。
「尺牘と断片」中の自伝草稿によると、
★当時僕は歴山大帝を崇拝して居たので、あのような男子にならねばならぬ。(中略)われは丹青の技によって、歴山大帝もしくはより以上の高潔な偉大な真実な、そして情操を偽らざる天真流露、玉の如き男子となり得るのだと、かう決心した。★ (169)
「歴山大帝」とはアレキサンダー大王のことです。つまり明治洋画界のアレキサンダーを目標としていたことになります。「丹青」とは絵画のこと。
後年、「尺牘と断片」追想記(その四)で、正宗得三郎(洋画家、正宗白鳥の実弟)は、青木繁を回顧して、
★(青木繁は)16歳の時(原文ママ)若菜集1冊持って馬関海峡を渡った・・・★(133)
と書いています。
繁は、3年後、1902年(明治35年)、信州小諸で、若菜集の著者島崎藤村に会うことになります。繁20歳、藤村30歳。
1904年の「海の幸」発表の時、蒲原有明、木下杢太郎が絵を見て感激しています。有明29歳。杢太郎19歳。
1905年岩野泡鳴は第2詩集「夕潮」の挿絵を繁に依頼。泡鳴28歳。
明治の青春の出会いです。 -
旧居玄関。
1899年(明治32年)5月、繁はここを出て、 -
この門から旅立ちました。
松永伍一によると、当時の九州鉄道の時刻表では、久留米発門司行きは、5時40分、9時10分、11時36分だそうです。(「青木繁愛と放浪」P58)
多分9時10分発の列車でしょう。
久留米駅まで徒歩16分くらい。余裕を見て8時半ごろの旅立ちではないかな。 -
久留米市には坂本繁二郎生家も復元されています。
-
2軒の家はJR久留米駅を挟んで反対側、徒歩17分、1.4kmくらいです。
-
青木家は久留米藩下級藩士、坂本家は中級藩士だったそうです。確かに坂本家の方が敷地も広く、家もしっかりした作りでした。
坂本繁二郎と青木繁は親友にしてライバル、と言われています。
しかし幼いときはそうでもなかったようです。
「坂本繁二郎文集」の「追想記」には、
★君(青木繁)の実家と自分の家は十町とは離れていなかったけれども、別々の町ですべての関係が違って居たし、また学校は同じ級にもなったが、多数の生徒の中の事ゆえ別にさしたる知り合いでもなかった。★ (P54)
また
★君の実家には一二度遊びに行った。★
とあるくらいです。
ただし小学校の教室では繁二郎の席のすぐ後ろが繁でした。繁はニコニコしていたそうです。後年の繁からは信じられない。 -
坂本繁二郎生家の展示写真より。
坂本繁二郎と青木繁の接点は。森三美(もり・みよし)の画塾でした。
緑丸が森三美。
坂本繁二郎は、明治25年(1892年)、10歳の時、森三美の画塾で洋画を学び始めました。森は当時久留米で唯一の洋画家でした。
1896年(明治29年)、15歳の青木繁が森三美の画塾に入ってきました。2人の交友はこの時から始まったようです。
写真赤丸は19歳の繁二郎。童顔で、19歳には見えませんが、羽織袴です。
1902年(明治35年)、繁が徴兵検査で一時帰省。繁の勧めで、繁二郎は画家になるため上京しました。その直前の写真です。
なお繁は乱視性近眼で徴兵検査不合格、繁二郎も身長が1分、3.03ミリ足らず不合格でした。
2人のつきあいが濃厚になるのは、東京で下宿や旅行を一緒にするようになってからです。 -
繁二郎の父は彼が5歳の時に死んでおります。2人兄弟で、兄麟太郎が京都の三高に進み、一家の希望の星でありました。その兄が在学中に死亡。繁二郎は、高等小学校を出るのがやっとでした。18歳からは森三美の勧めで、久留米高等小学校図画代用教員として働き、母、歌子を支えておりました。
二年前繁が上京したとき、一緒に行きたいのは当然でしたが、行けるものではなかった。
繁二郎が上京後、繁二郎の母はこの家に一人残りました。繁二郎は母のことを、
★母は藩の非常な倹約時代にあって一層昔の女ですから、何の教育もうけず、ただ縫い物くらいしかやれんのですから、子供の教育についてただ放任でありました。★ (「坂本繁二郎文集」の「幼少時代の回想」 P302)
などと書いています。
そんなことはない。
★上京した後は屋敷を区切って借家にして、母一人の生活だけはどうにかやって行けました。★ (引用元上記に同じ)
大望を抱いて都に出た息子に、私のことは心配するなと言い切った。才覚のある、立派な方です。 -
坂本繁二郎生家展示写真より。
これは、1921年(大正11年)坂本繁二郎39歳、渡仏前、池袋の自宅で撮った写真です。左端が母、歌子。
右端が妻の薫。写真のとおり、美人の誉れ高く、坂本の絵のモデルは薫だそうです。
夫人は母の兄権藤千之助の娘、つまり従姉妹でした。
「私の絵私のこころ」によれば、坂本は薫をよく知っていました。この時代には珍しくなかった、顔を見るのは結婚式の当日、などということではありません。「むっつり屋」の坂本に比べて、明るい「おもはゆいほどはなやかな」娘、だったそうです。
久留米高女を出たあと、東京の女子大にあこがれていた。才媛でありました。権藤家は裕福でしたから、その気になれば東京に行けたでありましょう。
「坂本に行くと貧乏することになるが、いいかね」と父の千之助に念を押されて、それでも嫁いでゆきました。 -
「新聞」靑木坂本展より。1910年。
モデルは薫夫人です。
結婚は1910年の1月ですから、この絵は新婚早々です。 -
美人だと聞いていたので、アップで写真を撮ってきました。う~ん、ピン甘い。残念。
繁二郎さん、お嫁さんが来て、よほど嬉しかったのか、「張り物」という洗濯中の妻の絵もあります。残念ながら撮影不可で写真なし。 -
かなり広い屋敷でした。
現地のボランティアの説明員さんによると、下宿屋にしたそうです。 -
目算ですが、庭だけで600平米くらいあります。
畑にすれば、お米以外は自給できる広さです。
歌子は、自分一人自活するどころか、毎月繁二郎に仕送りしていたようです。
東京では、2人は同じ下宿で共同生活をしましたが、繁は繁二郎にほぼ寄生しておりました。
「青木繁伝」によると、歌子が送ってきた仕立て下ろしの絣を、繁二郎が袖も通さないうちに繁が借用して、着古してしまったこともあったということです。
これらについて、繁二郎はなにも語っておりません。
母が苦労して作ってくれたお金を繁に使われて、なにも思わなかったはずはないのですが。
繁二郎が大度であったのか、それほど繁を高く評価していたのか。 -
奥まった部屋のひとつにこういう不思議なふすま絵がありました。
-
4枚並べてみます。
-
「魚図(青木繁)
明治風武家屋敷戦闘図(坂本金三郎カ)」
ともっともらしい題名がついています。
坂本金三郎は繁二郎の父親です。父親が描いたふすま絵に、青木繁が魚図(さかなず)を書き加えたのです。
これはレプリカで、オリジナルは美術館にあります。貴重なものです。
ところが、もともとは、坂本繁二郎が東京滞在中、青木繁が無断で描いた落書きなのです。
青木繁は、明治41年(1908年)10月、抵当に入っていた家を差し押さえられ、放浪の旅に出ました。翌年4月初めまで、九州の知人、友人宅を泊まり歩きましたが、傍若無人な態度でことごとく追い出されました。結局最後は久留米に戻ってきましたが、金も行く当てもなく、坂本繁二郎の留守宅を訪ねました。
「青木繁伝」によると繁二郎の母、歌子は、
★坂本の母は、東京で繁が金や着物などを横取りしたことを知っていたが、繁の窮状に同情して気持ちよく部屋を開けてくれた。★ (P268)
繁発繁二郎あて手紙が残っていて、その日付が明治42年(1909年)4月6日ですから、坂本家に転がり込んだのはそれ以前です。(青木繁全文集P143)
この手紙で、歌子への感謝の気持ちなど一言も書いておりません。
「世話になっている。母上によろしく言ってくれ」などもなし。
その歌子の亡夫の遺品に無断で手を加えたわけです。落書きが結果としては名作なのかも知れませんが、これはないでしょう。
「青木繁伝」によると、
★数日後、繁は坂本家を出て、しばらく駅前通の青々館にいたが、宿代が払えずそこも追い出されると、旧知の女将に泣きついて馬鉄通りの料亭花屋に転がり込んだ。★ (P277)
歌子が激怒して繁を追い出したと考えるのが、普通でしょうね。著者渡辺洋は、後書きの中で、
★坂本繁二郎の旧居の襖絵のことは、当時住まわれていた縁戚の山田禾也(いねや)ご夫妻からお聞きした。★ (P355)
なぜかはっきりと書いていませんが、歌子を怒らせたのは間違いないでしょう。
この件について。坂本繁二郎自身は、「追想記」の中で、
★暫くは自分の家にも居た。★ (P92)
これだけ。父の遺品に落書きされて、なにも感じないはずはない。
その前を引用します。
★故郷の人が君と意志の疎通を欠いたのは無論である。幾分君はわざと人を踏みつけるやうな勢いに進んだ。故郷のある人は君を狂者とした。暫くは自分の家にも居た。★
繁二郎の気持ちそのものでしょうね。初出は大正2年(1913年)、繁の死後3年後に出版された青木繁画集の文章です。故人への礼儀をわきまえた、繁二郎らしい気配りの表現でありましょう。
さんざん踏みつけにされた繁二郎ですが、青木繁の天才をリアルタイムで見抜いていたのです。 -
坂本繁二郎生家展示より。
1909年(明治42年)の坂本家正面玄関です。
坂本繁二郎一家がこの家を売り、上京したのは1910年(明治43年)ですから、居候の間、繁はこの門から出入りしていたのです。
一書に曰く、
坂本繁二郎邸は、庭も広く、ご母堂は、下宿もしたでしょうが、畑なども耕したのではないか。もちろん縫い物等の内職もしたことでしょう。
しっかりした、これぞ武家の妻。山本周五郎の「日本婦道記」に出てくるような女性です。
ところが、繁二郎は、靑木繁とは違って、明善校を出ていません。
これほどの才女が、子弟の教育をおろそかにするとは、思えないのですが。
繁二郎の上にお兄さんがいて、この人は、大変優秀な人で京都大学に進学していたときに、病気で亡くなったそうです。
長男には高等教育を受けさせ、それ以下は、手に職をつけさせるという方針だったのでしょうか。
それとも、繁二郎は、明善校に合格しなかったのか。
そのせいで、靑木繁に生涯、下に見られたのか。
体も小さいし、次男で、押さえつけられることに慣れていたのか。
何れにしましても、繁は、繁二郎の寛容さに、めいっぱい甘えております。
というか。天才は、天災でもありました。
ご母堂は、靑木繁の乱暴狼藉に、どんな思いでいたのでしょうか。後の世にその怒りが残っていないのは、さすが賢夫人、たしなみをご存知だったからか、息子もまた成功したから、すべて水に流したのか。
青木繁と坂本繁二郎、晩年の幸せ、不幸せは、陰で支える人がいるかどうかでしたね。
坂本の成功は、母親と妻の支えがあってのことだったのは間違いない。
By妻坂本繁二郎生家、駐車場あり、事前確認必要。 by しにあの旅人さん坂本繁二郎生家 名所・史跡
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この旅行記へのコメント (7)
-
- 前日光さん 2022/10/15 23:53:11
- 絵に描いたような芸術家(というか放蕩三昧の)人生(>_<)
- こんばんは。
信州から戻られたとか。
信州行きの経緯は、青木絡みですね?
藤村との交流を調べに?
それにしても「青木兄弟(姉)」の写真に写る男性は、確かに顔が坂本に似てますね!
坂本の渡仏前、池袋の自宅で撮った写真の顔と、青木兄弟の中に映る男性は、よく似てますねぇ。
坂本が青木宅に行ったことは2回ほどしかないので、それはあり得ないとのことですが。
超常現象ですかね?
ま、いずれにしても、青木のような人間は、芸術家と呼ばれる人々にはありがちな、他を顧みない傲慢さ、傍若無人ッぷりの甚だしいことは前後に類を見ません。
第三者として客観的にその様子を眺めるには、これほど典型的で魅力的な人間はいませんね。
でもこの男が、すぐ側にいて、いちいち生活の面倒まで見るとしたら。。。
お断りしたくなるタイプですね。
甘えてんじゃないわよ、いいトシして。
自分のことぐらい、自分で解決しなさいよ!と言いたくなりますが、こういう人間に限って周囲が助けたりするものです。
なんか太宰を思い出しますねぇ(^^;)
才能はあっても、生活者としては失格、でもそれくらいでないと優れた芸術は生まれない。
芸術の神に魅入られた者は、こうして夭折するしかないのでしょうね。
人生が二度あるとしたら、私も一度は「はちゃめちゃな」人生というものを送ってみたいなどと思いますが、それはそれでシンドイのだろうなと。。。
女が信条を貫くと、伊藤野枝みたいに虐殺されちゃいますからね(-_-)
いずれにしても、青木も坂本も興味深い人間ではありますね。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2022/10/16 07:19:01
- Re: 絵に描いたような芸術家(というか放蕩三昧の)人生(>_<)
- 小諸、信濃追分、軽井沢から帰りました。軽井沢はもう紅葉が一部始まっていました。
軽井沢はオサレでした。群馬県は他の関東3県より長野県と一緒になりたがると、前日光さんがおっしゃっていましたが、わかる。可能なら軽井沢の隣に引っ越したがる県はあるでしょう。
コンビニの作りが他と違うのです。7/11もあのケバい三色模様が無い。ケバイ色は使っちゃいけないという町の条例でもあるのかな。
帰りに竹久夢二記念館再訪。ここで夫婦間の意見の齟齬が発生。私は夢二ファンを確信、By妻は大いっ嫌いだそうです。あんな背骨が軟骨のような女は、虫唾が走るとのこと。この件、後日ブログネタになります。少女趣味とはいうけれど、夢二の絵は女に嫌われる傾向はあるらしい。
青木繁一行の藤村との出会いで、ネタをいっぱい仕入れてきました。
一義と繁二郎が似ている件ですが、繁二郎が2回と言っているのは少年時代とすると、青木繁が一時帰省中なら、辻褄はあいます。By妻はこの説。
繁は生意気で年上に見えるし、繁二郎は童顔なのです。
青木繁は絵描きの寅さんだ、というキャッチでこのシリーズを書き出したのですが、ふざけすぎるとBy妻に却下されました。はたからみると面白いけれど、家族友人は大迷惑。前日光さんがさくらだとして、寅さんが兄だとしてら、どうします?
私が隣の印刷屋のタコだったら、迷惑だなあ。
友人の絵描きで、「絵描きは気狂いではない!」と力説する人物がおります。多分頭には青木繁がある。
それでも妙義、小諸の3人組はまさに青春真っ只中、あとを追っていて、こっちも楽しくなります。一緒に旅はしたくないけれど。
-
- mikanさん 2022/10/09 07:12:29
- 青木繁の事がよく理解できました
- しにあの旅人さま
はじめまして。
偶然、青木繁の名を目にして、拝読させていただきました。
数年前、ブリヂストン美術館で青木繁の作品を無知のまま立ち寄り観た、その時の衝撃がずっと残っていたのですが,青木の生い立ち、生涯、人間関係を知ることができ、理解が深まりました。
ブリヂストン美術館が新しくなり、この秋青木繁作品を観る機会が有ればと熱望している最中でしたので、是非ここでいただいた情報をベースにして、ゆっくり作品に向き合って観たいなと思います。
きっと、前回とは違う感動があるのでは、期待が膨らみます。
ありがとうございました。
mikan
- しにあの旅人さん からの返信 2022/10/09 08:08:02
- Re: 青木繁の事がよく理解できました
- お役に立ったようで、うれしい限りです。
アーティゾン美術館での展覧会は10月16日までです。可能であれば、ぜひご覧になることをお勧めします。完全予約制。
青木繁の展覧会としてはほぼ完璧で、今後しばらくはこれほどの展覧会はできないだろうと思いました。
青木を理解するには、坂本繁二郎を知ることが必須で、両方の作品を同時に見ることができるのは有り難かったです。
対照的な生き方をした2人でした。
青木繁という人は、調べるほどうんざりします。芸術家としては素晴らしいと思いますが、一人の人間としては、どうにもなりません。
そいうことまで含めて、丸ごと青木繁を見せる展覧会でした。
- mikanさん からの返信 2022/10/09 08:16:50
- Re: 青木繁の事がよく理解できました
- お返事ありがとうございます。
ホームページチェックしてみます。
坂本氏がそれほど影響してたとは、全く知りませんでした。
対照的な二人だから惹きつけられるのでしょうか、夫婦のようですね。
益々興味深い展覧会です。
ありがとうございます。 mikan
-
- kummingさん 2022/10/04 17:37:51
- お勉強♪
- しにあさんおはようございます?!?!
ジモティなのに青木繁氏の事も坂本繁二郎氏のことにも疎い私、いつもしにあさんちでお勉強させてもらっています。
青木繁氏が先輩だとは、これまた知りませなんだ(*_*)父も娘もココが母校、親戚が集まるともっといっぱいで、昔話に花が咲きます。
プログとは関係ありませんが、売れない画家、絡みで自分ちネタをm(_ _)m
私は合ったことない祖父、父の父が売れない画家、日本画の細密画で、父から幼少期の苦労話をよくきかされました。
古本屋で立ち読みしていると、店主にはたきで叩かれていたらしく、おかげで私たちは父に連れられて本屋に行くと、買いたい放題!コミック、スクリーン、ロードショー含む、でした。一人で行くとツケが効く、という特典も((笑)
その後成長した今や、完全に図書館派に脱皮?していますが。
つまらない私事ばかりで、ごめんなさいm(_ _)m
今からCappela degli Scrovegniに入ります♪
今日まで生きてて良かった、と思える瞬間の前、
待ち時間のカキコでした。
- しにあの旅人さん からの返信 2022/10/07 14:07:34
- Re: お勉強♪
- Cappela degli Scrovegniって、Padovaですね。ローマからヴェネチアに行くときに列車で通った。今日あたりはヴェネチアですか。
久留米はこの2カ所だけでした。あまり事前勉強していなくて、シナリオ準備不足。写真が足りなくて困りました。
この時は、本格的に久留米の青木繁紀行をやろうとは思っていなかったのです。その後調べて、のめり込みました。
福岡県立県明善高校ですね。旧制明善中学。青木繁と言ったら河北倫明ですが、先輩ですね。さすが歴史がある学校で、すごい先輩がいる。今回も倫明の「青木茂」を図書館で借りましたが、結局買いました。アマゾンで中古なのに、新書版で4500円もした。青木繁を勉強するなら、持ってなければいけないみたいです。
青木繁旧居なんて、立派な駐車場があって、久留米市はリキ入れているのがわかります。でも中学高校あたりで、どうやって教えるのだろう。あんまり誉められた生き方していないけれど。
教えないからkummingさんも疎かったのかな。
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