2022/07/11 - 2022/07/16
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薔薇の咲く庭さん
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この旅行記のスケジュール
2022/07/15
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電車での移動
西十一丁目→新札幌
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バスでの移動
新札幌→北海道開拓の村
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北海道開拓の村
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バスでの移動
北海道開拓の村
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電車での移動
新札幌→桑園
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札幌場外市場
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この旅行記スケジュールを元に
昨年の旅行で見ることができなかったり、行くことができなかったりした所へ行くリベンジ旅行とは言いすぎかもしれませんが、登別、洞爺、札幌を回る同じコースを計画しました。
しかし、昨年とは観光内容が違うので新たな発見があります。
旅の5日目。北海道開拓の村を訪れました。以前母と息子たちと尋ねたことがありますが、もう一度屯田兵の家を見ておきたいと思ったからです。私の祖先とのかかわりがあるからです。
7月11日(月)羽田発新千歳空港着 登別温泉第一滝本館泊
7月12日(火)登別水族館 ザ・ウインザーホテル洞爺泊
7月13日(水)火山科学館 湖畔亭・日帰り入浴 ザ・ウインザーホテ
ル洞爺泊
7月14日(木)サッポロビール博物館プレミアムツアー サッポロビー
ル園ジンギスカン料理 札幌プリンスホテル泊
7月15日(金)北海道開拓村 札幌場外市場 札幌プリンスホテル泊
7月16日(土)北大植物園 新千歳空港発羽田着
温泉巡りの旅25 札幌プリンスホテル 大通り温泉
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 5.0
- 交通手段
- 高速・路線バス JALグループ 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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札幌に来て2日目の朝。昨夜はジンギスカンをたくさん食べましたが、朝食ももりもり食べられます。プリンスホテルの朝食は内容が良いと思います。和食のコーナーと洋食のコーナーがあってどちらも自由に選ぶことができるビュフェです。
札幌プリンスホテル グルメ・レストラン
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ダイニングは高い窓が上のほうにあって、開放的な感じがします。建物が円形なので、柱がありません。とても開放感があって良いです。
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円形の筒の中を上下に動くエレベーターです。筒の中を上がっていく感じがします。
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これが外観です。中がどんなになっているのか興味がわきますよね。
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さて、今日は北海道開拓の村へ向かいます。何年か前に母と息子達と訪れていますが、前回の記憶がほとんどありません。
札幌には市電が走っているんですね。驚きました。札幌市電 (路面電車) 乗り物
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西11丁目の駅から地下鉄東西線に乗り、新札幌の駅に出ました。乗り換えなしで1本で行くことができたのでとても便利でした。
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新札幌の駅から、北海道開拓の村行きのバスが出ています。10時30分発のバスにちょうど乗ることができました。タイムロスはほとんどありませんでした。ラッキーです。
新札幌バスターミナル 駅
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北海道開拓の村の入り口です。これは旧札幌停車場の出入口だそうです。明治から昭和初期にかけて建設された北海道各地の建造物を移築復元?再現した野外博物館です。
北海道開拓の村 美術館・博物館
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旧開拓使本庁舎(ビジターセンター)になっています。昨日札幌ビール園博物館で見た映像の建物です。本物を見ることができたので少し感動します。
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馬車鉄道です。国内唯一の馬車鉄道だそうでレトロな建物が並ぶ街並みを走ります。もちろん乗ることにしました。
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記念撮影。ご機嫌です。
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馬の名前はわかりませんでした。頑張って馬車を引っ張っていました。馬は本当に力があるんですね。湯布院で乗った馬車を思い出しました。あの時の馬の名前はさゆりちゃんでした。
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下に鉄道が敷かれているので、脇道にそれることができません。御者さんは手綱をしっかり引いて線路に沿って馬を走らせていました。ここでもたくさんの中学生たちが現れました。修学旅行ができるようになってよかったですね。
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馬車は終点まで来ました。馬車を降りて記念撮影をしました。確かに乗りました。
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終点の場所にあったのは旧ソーケシュオマベツ駅逓所でした。この建物の中にはマネキンがいて何か書いていました。何をしているのかがよくわかりません。
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この表はどうも駅と駅との間の距離を表している表のようです。
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この説明書きを読んでわかりました。駅逓は明治・大正?昭和にかけて荷物の搬送や郵便?宿泊などの業務を行ったそうです。北海道の発展に大きな役割を果たしています。先程のお人形はその事務をしていたんですね。
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これが外観です。タイムスリップしたような感じを受けます。
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やってきました。ここが屯田兵の家です。納内と言う場所にあった家だそうです。明治28・29年のことです。明治8年に始まった屯田兵は家族と共に暮らし、北辺の警備と農業開拓に従事しました。
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最初は士族を募集したそうですが、明治23年からは主力を平民に移したそうです。実は私の祖先は屯田兵の入った後に札幌に渡ってきています。
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私の祖先は元は福井の出身です。ミト婆さんという名前のおばあちゃんが1族郎党を率いて北海道に渡ったと言われています。
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「多分、こういうところで最初は暮らしたんだろうなぁ」と私にとってはとても感慨深い家です。私はそのミト婆さんの玄孫なのです。
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最初は屯田兵の入った後に入ったと聞いていますが、その後事業を始めて広い土地を手に入れたそうです。現在も札幌に本家があります。
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北辺の警備とはロシアからの侵略を守ることを意味しています。屯田兵はいざと言うときには兵隊となってロシアと戦うことも考えていたようです。そのために銃が用意されています。
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農業をするために使っていた道具も展示されていました。このような道具を使って農業もしていたのかもしれません。祖先の苦労が偲ばれます。木造の小屋なので、冬はかなり寒かったでしょうね。
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鍋もありました。どのような料理をして食べていたのでしょう?
祖先の苦労が伝わってくるようです。水道はありません。桶に水を汲んで生活していたようです。 -
藁の蓑と傘。雪の中を歩けるガンジキでしょうか?
苦労が偲ばれます。今の私たちの生活様式からは想像ができないような生活様式です。 -
庭から家の中を見てみました。和室が2つあります。
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後ろ髪を引かれるような思いで屯田兵の家を後にしました。
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屯田兵の住んでいた家のすぐ近くでボランティアガイドさんに会いました。私が祖先は福井から渡ってきたんだということを話すと、「あゝ、福井県は10番目ですね」と明治15年から昭和15年の移住してきた方の戸数を教えてくれました。たくさんの人が北海道に渡っています。27392戸です。
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ボランティアガイドの方がいろいろ教えてくれましたがメモも見せてくれました。屯田兵制度が終了した後、旅館を始めた人がいるそうです。来正旅館と言う名前だそうです。後で見てみるように勧められました。
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屯田兵たちはサイドビジネスをやっていたそうで、それが養蚕だそうです。かなり収入を得ていたと言うことでした。
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これはカイコに繭を作らせるために作った棚です。藁で作ってあります。
棚飼いという方法です。その方法だとたくさんの棚を組むことができます。 -
蚕を育てる方法が説明されている表示がありました。カイコがまゆを作るまで30日かかるそうです。
札幌駅の次の駅に桑園という名前の駅があります。そのあたりで桑をたくさん栽培したそうです。 -
かなりグロテスクな写真。蚕が桑を食べて成長していく様子が分かります。
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成長した蚕に卵を生ませて、その卵を販売することもやっていたそうです。その当時の卵でしょうか?保存できるのですね。
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蚕の巣から繭をかきとる時期は、巣を作り始めたから7日目ごろだそうです。蚕のさなぎはさらに10日目に羽化して蛾になるそうです。
1枚の台紙に28蛾を入れて卵を産みつけさせたそうです。 -
これはバラ製と呼ばれるもので、ひとつの大きな枠に集団で産卵させています。
たくさんありますね。この卵を全国に売ったそうです。かなり良い収益だったと言うことでした。 -
旧田村家北西館蚕種製造所のこの建物の中で写真を撮りました。田村忠誠が蚕種の指導をして大きく貢献をしています。蚕種製造の技術は当時はなかったそうです。
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明治34年~40年にかけての北誠館の写真です。原野の中に建っているんですね。
周りには何もありません。 -
蚕のいろいろな種類の標本です。こんなにたくさんの種類があるとは知りませんでした。驚きです。形も大きさも様々ですね。外来語が使われているのはどうしてなのでしょう?
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毛糸の標本です。100年以上たっても腐らずに、絹の光沢を保っているのは驚きでした。ツヤがいいですね。
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蚕種を作り出す親蚕は強健な良い品種を選び、温湿度や病虫害、与える桑の葉原などに注意して飼育したそうです。なるほど何でもいいわけではありませんね。
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これは個別に産卵させる枠です。
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繭から生糸をとっているところだと思います。足踏式が考案されて各家庭で使用されていました。繭を鉄鍋で煮て糸口を集めて機械を用いて糸にするのです。。
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説明書き
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女性が蚕の世話をしています。蚕はかなり大きくなっています。何をしているところなのでしょう?
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これは何をしているところかがわかります。桑を細かく刻んでいます。蚕が小さいときには刻んで小さくして食べやすくしています。
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北誠館の玄関です。当時のままだと思います。移築して持ってきたんですね。
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北海道開拓村の1番奥にある建物は農商務省滝川種羊場機械庫でした。農業で使った様々な農機具を展示していました。また農業機械の技術の発達についても展示がされていました。
ここはあまり人気がなくて誰もいませんでした。 -
最初は馬を使って畑を耕していましたが、だんだん農業器具が発達して様々な農業器具が使われるようになりました。最初はほとんど輸入しています。
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最初の頃の様子です。馬もかなり大変そう。原野を開墾したのですから、相当大変だったと思います。
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農業機械技術史の略年表がありました。明治9年に石本米一郎さんが民間ブラウンを初製造しています。最初はアメリカから機械を輸入していましたが、日本人はさすがです。自分たちで作り始めています。
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外に出ると一面のジャガイモ畑でした。白いジャガイモの花が可憐に咲いていました。北海道はジャガイモの名産地です。ここでもジャガイモがたくさん取れるのですね。
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北海道開拓村で最も見たかった屯田兵の家を見たので、農村群を引き上げることにしました。馬車鉄道の停留所に戻りました。少し前に馬車が来て、折り返しをする準備をしていました。馬を車から離して、反対方向に馬をつけ直します。Uターンができないからです。
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あまり大きな馬ではありませんが、力があります。何歳位でしょうか?
目が可愛いです。 -
次は漁村群へ行くことにしました。行く途中でラベンダーがたくさん咲いている場所がありました。北海道にはラベンダーが咲きますね。鮮やかな紫です。富良野思い出します。
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さらに進んでいくと池がありました。漁村群をイメージして作られているのでこの池は海に見立てているようです。
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焼尻島の漁民の家です。イワシが海岸近くまで押し寄せると網を投げてとったそうです。大正末期では2世代同居10数名の大家族だったようです。魚期になれば郷里の秋田から2、3名の魚夫も出稼ぎに来ていたそうです。
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間取り図からするとここが居間です。囲炉裏の真ん中にある筒は煙突でしょうか?
さっきまでここに人がいたような雰囲気です。 -
これは船の先首の部分です。倉庫に入っていましたが大き過ぎて全体を写真に取ることができませんでした。ニシン漁に使った船です。
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船の図がありました。1枚の枠網で約80万尾のニシンを運搬することができたようです。すごいですね!
昔はそんなにたくさんのニシンが海にいたんです。 -
旧青山家漁家住宅の玄関です。かってはニシン漁で栄えた漁師の家です。
かって小樽に行った時にニシン漁で栄えた漁師の家を見学するチャンスがあったので興味をもって中に入りました。 -
入ってその広さに驚きました。面積は113坪ほどあります。明治20年(1887年)頃の建築で大正8年に焼失した番屋がモデルだそうです。およそ60名の漁夫が寝泊まりしていた建物だそうです。中央の土間を挟んで、右側が親方の住まい、左側が漁夫の生活の場です。
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土間から親方の住まいの方を覗いてみました。窓まで距離があります。かなり広いです。
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ここは図面からすると台所です。右側に階段があります。これは階段を引き上げることができるのです。2階は、ここに炊事で働きに来ていた女性が寝泊まりするところで、夜になると階段を引き上げたそうです。
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魚夫たちが生活している空間です。板の間に布団を敷いて雑魚寝をしたそうです。ここにもボランティアの方がいらして説明をしてくれました。
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なるほど、番付ならぬ名前が記録されて残っていました。板に墨でで書いてあります。大船頭が石橋さんです。炊事係まで30名の名前が記録されています。炊事係は名前から推測すると女性です。3名いました。
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畳が敷いてある場所の窓際に布団のようなものがたたまれています。多分これを広げて寝たのでしょう。階段があるので、2階にも同様の設備があるかと思われます。そうすると合計60名になります。
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親方の生活空間に入ることができました。座敷は書院造になっていて、違い棚があり、床の間には掛け軸がかけられていました。また立派な仏壇もあります。毛皮が敷かれていて裕福な生活をしていたことが分かります。
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海の仕掛けという図子ありました。やはり二組の組織があったことがわかります。大船頭が2人います。沖合で働く人たちと浜と台地で働く人たちとに役割分担がされていました。
網を張って魚が網の中に入るような仕組みになっています。かなり大掛かりですね。 -
漁村群の見学を終わって、市街地群へ行きました。
龍雲と言う名前のお寺です。明治26年(1893年)頃に新築落成した本堂だそうです。浄土宗のお寺です。 -
明治26年ですが立派なお寺の設備で驚きました。宗教の力は強いですね。キーウへ行った時に野外博物館を見学したときのことを思い出します。草原のかなり奥に立派な教会がありました。厳しい生活をしているからこそ宗教が心の支えになっているのだと思いました。
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全景です。ガラス張りになっているのがとても不思議です。寒さをしのげませんね。
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建物を見た瞬間に学校だとわかりました。細長い校舎は学校にしかない特徴があります。
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北海中学校と言う名称です。驚いたことに前身が私立北海道英語学校と言う名前でした。公立ではありません。札幌農学校に優れた人材を送り込む目的で始められたそうです。校舎の中には北海道教育史の展示がありました。
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この景色を見て教育のシステムの歴史は変わらないものだなあと思いました。
今でも使えそうな感じがします。 -
学生服と袴。あまり変わってないですね。卒業シーズンに袴で歩いている女性をたくさん見ますから。
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明治5年に学制公布。明治12年に教育令を発布。明治19年に小学校令、中学校令、師範学校令。北海道でも教育をとても大事にしていたと思います。
明治5年に「開拓使仮学校にアイヌ子弟を入学」と書いてあるのは感動します。
世界一平等な教育をこの頃からしていたのです。 -
円満な家族の写真。真ん中の赤ちゃんは男の子でしょうか?目はお母さん似ですね。
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有島武郎の家族でした。日本の文学史に登場する有島武郎ですが、年表の最後を見て心が痛みました。46歳で自殺をしています。32歳で結婚しているので、有島武郎が亡くなった時の男の子の年齢は13歳位です。
「生まれ出づる悩み」まだ読んだことがありませんが、小説を書いている場合ではありません。 -
有島武郎宅の居間です。書院造になっています。床の間と違棚があります。廊下側に子供が乗っていたのでしょうか? 揺れる木馬があった幸せな生活を営んでいたように思います。
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ベビーベッドもありました。有島武郎は農家の出身で、札幌農学校の卒業生でした。北12条西3丁目に住んでいます。東北帝国大学農科大学講師として札幌に来ています。
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書斎と思われます。ここで作家活動をしていたんでしょうね。この建物には
2階がありましたが、耐震がされていないために2階に上がることができません。 -
この部屋も書院造になっていて、床の間がありました。床の間があると落ち着きます。日本独自の文化ですからね。
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肖像画が飾られていました。なかなかイケメンではありませんか?
しかし、悩みがかなりありそうな表情です。 -
生まれいずる悩みの原稿がありました。
あまり肯定的な事は書いてありませんね。読んでみると気分がダウンしました。 -
北海道開拓の村のメインストリートを歩いて戻ってきました。見学する人も少なくなりもうそろそろ引き上げる時間が近づいています。
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三省堂と言う名前に惹かれて、中を覗いてみました。本屋さんかと思いましたが、お菓子屋さんでした。
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明治時代がこんな風に商品が並べられて販売されていたんですね。丸いガラスの中には何が入ってるんでしょう? 子供が喜びそうです。
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通り沿いに歩いて行くと山本理髪店がありました。床屋さんです。中にお客さんがいるみたいです。
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傾斜の急な切妻屋根、玄関の雨除けアーチなど大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観です。
確かにあまり違和感を感じません。現在の感覚でも理髪店ができそうです。 -
理容師さんとお客さんがいました。技術的には当時も今もあまり変わっていませんね。かなりリアルな感じがします。
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これは何屋さんだろうと考えましたが、わかりませんでした。入ってもみてわかりませんでした。
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郵便局でした。説明書きを見てやっとわかりました。ニシン漁や昆布の生産なのでたくさんの人が出稼ぎに来ていたようです。そのために郵便物の取り扱いが多かったそうです。
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これが受付の窓口です。今とあまり変わりありません。
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ここは配達をする人たちが寝泊まりをする部屋です。布団が畳まれてあります。カバンが壁にかけてあるので、そのカバンの中に郵便物を入れて配達をしたのでしょうか?狭い部屋で不自由が多かったと思いますが、頑張って働いていたんですね。
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通りの角のところに巡査の派出所がありました。交番です。最初は木造だったそうですがその後個人の篤志寄付で立て替えられ、イギリス積みのレンガの家になりました。
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時代を感じさせますね。明治18年(1885年)当時は、かなりモダンな建物だったでしょう。
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中で巡査がお仕事をしていました。ストーブがあります。寒いのですね。
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次は医院です。近藤医院と言う名前のクリニックです。明治35年(1902年)に建てられた病院です。なんと昭和33年(1958年)まで使われました。1階に診察室、手術室、茶の間などがあり、2階に居室があります。
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玄関の上にバルコニーがあって、明治35年当時にはかなりモダンな建物だったと思います。現在にこのような家があってもおかしくないと思います。よく保存しましたね。
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1階の受付、薬局、診察室、手術室、茶の間等は大正10年(1921年)の頃の様子を展示しているそうです。2階に洋室が2間、和室が1間あります。2階には上がることができません。このクリニックの裏に文庫倉がありました。
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ここは手術室ですね。何の手術をしたのでしょうか?
大きな手術ができる設備は整っていないように思います。 -
ここは診察室。現在開業しているクリニックとあまり違いがないように見えます。
ただ壁にかけてある人体内臓一覧図が、あまりにも実際の内臓の位置と違っているのは怖い感じがします。 -
近藤先生は書物が大好きでよく勉強したそうです。棚の中に見えるのは病疫学応用編、薬理学、生理学、内科等の医学書が展示されていました。どのような病気にも対応しなければならなかったことが推測されます。
下から2番目の棚には蔵書目録があるのでびっくりします。10,000冊の蔵書があったそうです。文庫倉が必要ですね。 -
近藤成吉さんの肖像画です。あまりにこやかではありませんね。厳しい仕事だったんでしょう。
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蔵書数10,000冊と言うのはものすごい量だと思います。すべての本を読んだとは思いませんが。
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入り口のところにある来正旅館に戻ってきました。待合旅館と言う看板が出ています。ガラスが多く使われていて冬の北海道には寒さがこたえそうです。
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中に入るとボランティアの方が何人かいらっしゃいました。来正さんは屯田兵の出身ですが、屯田兵制度が終わった後、旅館に職業を変更したそうです。で、子孫は現在どこでホテルを経営しているのかを尋ねると、廃業されてしまったと言うことでした。
1代限りの旅館業だったんですね。それで、この旅館が残ったと言うことでした。 -
2階へは上がることができません。耐震構造になっていないからだそうです。1階に電話機がありました。記録映画の中で見たことがある電話機です。
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旅をする人のために旅館が必要だったんですね。落ち着いたお部屋でとてもいい感じの和室です。
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再び旧開拓使札幌本庁舎のところに出てきました。長い間この建物が開拓史のシンボルだったんでしょう。とてもモダンな建物ですね。
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新札幌の駅に戻り、函館本線に乗りました。桑園で降り、タクシーで札幌場外市場にあるお寿司屋さんへ夕食を食べに行きました。
今日も良い旅ができました! 乾杯! -
酒の肴もなかなかおいしいです。鮮度が良いように思います。まぁビールが1番おいしいですけどね。クラシックがおいしいです。
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海鮮丼。もうちょっとたっぷりお刺身がのっていると嬉しいです。
鮮度はとても良かったです。美味しくいただきました。 -
確かに来ました記念写真。
札幌場外市場は夕方は開店しているお店は少なかったです。 -
プリンスホテルに戻りました。今日はぐっすり眠れそうです。
このホテルには2階に温泉があります。札幌の市中に温泉が出るんですね。 -
18階の部屋から見える景色。札幌は大きな都市です。
札幌プリンスホテル 宿・ホテル
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札幌プリンスホテルは本当に筒の中にホテルがあるのでとても面白い構造だと思います。エレベーターに乗っていると各階の廊下の窓が見えます。
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筒の中にあるエレベーターから上を見上げて撮った写真です。
ホテルには見えませんね。
明日は北大植物園へ行く予定。そして夕方の飛行機で帰ります。
明日も良い旅ができますように。
~旅は続きます~
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