2021/11/25 - 2021/11/25
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gianiさん
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かつて、九州一番の都会だった熊本。
肥後の国の歴史と、
藩庁・県庁所在地だった近現代の歴史を辿ります。
細川忠興が召し抱えた宮本武蔵のスポットも巡ります。
島田美術館以外は2020年秋の時点で
パンデミックの影響で長期閉館していたスポットです。
- 旅行の満足度
- 4.0
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熊本の鶴屋デパートの裏の公園に乙な公園が。
松江から熊本の旧制五高へ転勤になった小泉八雲が暮らした住居が移設されています、小泉八雲熊本旧居 名所・史跡
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八雲とセツは、共にバツイチでした。稲垣家の養女になったセツは、元鳥取藩士を婿に取りますが、財政破綻した稲垣家に臆して逃走。セツは1年で離婚し、実家の小泉家へ戻ります。
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来日前のハーンも、アメリカ滞在中に黒人女性フォーリー(写真)と出会い、教会婚をします。しかし、性格の不一致で3年後に離婚。現地では、異人種間の結婚が違法だったので、あくまでも宗教婚です。
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その後、港町ニューオリンズに流れ着き、ジャーナリストとして活躍する傍らでカリブを放浪して、松江にたどり着きます。
下宿の使用人だった小泉セツと夫婦になります。
余談ですが、小泉家の反対が厳しくて、長い事実婚を経てようやく小泉家の戸籍へ入れました。 -
彼の机も復元。
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熊本とゆかりのある漱石と八雲の共通点
1.幼少期に父親に捨てられたと感じる経験をし、人間不信を抱える。
2.八雲は漱石に東大講師の座を奪われ、失職。一方の漱石は、生徒に敬愛された八雲と絶えず比較され、結局自ら辞職。
3.両者共に、子を捨てた父についての物語を執筆している。
似ているけど違う点。
ハーンは西洋人らしい色彩的な文章だったが、日本に来てからは水墨画のような淡々とした文章に。漱石は英国留学を通して、色彩的な作風に。 -
人間不信と白人社会と織りが合わなかったハーンが、日本で自分の居場所を見つけたという事が分かる雰囲気の住居でした。
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熊本大神宮の横には、宮本武蔵の住居跡が。
細川家が大枚をはたいて招聘した佐々木小次郎を倒した後に仕官した経緯が、興味深いです。熊本大神宮 寺・神社・教会
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濠を反時計回りに進むと、
初代藩主加藤清正を祀った神社が。加藤神社 寺・神社・教会
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清正が設計した熊本城は難攻不落。
熊本地震の凄惨さが今も残ります。
城内には県立博物館もあります。熊本城 名所・史跡
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律令国家で、熊本は西海道九国の一つ、肥後国に。14の郡で構成されました。律令国は朝廷の直下にある中、大陸に近い九州(国)は朝廷が設けた大宰府の管轄下でした。
平安時代には、最高ランクの大国(以下、上国・中国・下国)に格付されます。豊かな農産物と大陸との交易の産物です。
後に九州を平定した秀吉が、「こんな豊かな国はみたことがない」と感嘆したエピソードも残っています。 -
武士団の登場
平安時代に日本全国で、支配層(貴族)に仕える武装した豪族が誕生。九州は大宰府に仕えた府官系武士団が有力に。
菊池(いけの字)氏
地理的に大宰府に近い肥後国菊池・合志・山鹿郡を本拠地とする府官系。11世紀半ば以降に鳥羽院と国衙や荘園利権を通して繋がり、肥後全体に勢力を伸ばす。南北朝期は一貫して南朝を支持し、1380年頃ピークを迎える。 -
阿蘇氏
阿蘇の神を祀る国造阿蘇君(大宮司)系譜で、11世紀後半に成立した阿蘇荘を基盤とする。健軍社・郡浦社・甲佐社(および3社の荘園)を阿蘇社の末社として取り込んだ12世紀に勢力を拡大。阿蘇・飽田・託麻・宇土・八代軍へ勢力を伸ばす。南北朝期に北朝方と南朝方に分裂する。 -
相良氏
平安時代の遠州相良荘が出自。鎌倉時代に球磨郡多良木荘に赴任したのを皮切りに、勢力を拡大。球磨・八代・葦北郡を地盤に、戦国期には薩摩大隅にも勢力拡大。 -
戦国時代に肥後は、龍造寺氏や大友氏の侵攻で菊池阿蘇氏が、島津氏の侵攻で相良氏が消える。秀吉配下の佐々成政が入府し、性急な施政に反発する国衆が武装蜂起(肥後国衆一揆)し、鎮圧。地元勢力の芽が完全に摘まれました。
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佐々はあっさり改易され、1589年に加藤清正が隈本入府、熊本と改めます。肥後の南半分は小西行長が統治します。二人は、天草平定に取り組んだ後、九州大名の一人として2度の朝鮮出兵のも参加します。
写真は、天正17年8月28日付の加藤清正判物。肥後統治に際して、家臣の下村勝介に知行を約束した書状。今後の頑張り次第では、加増もあるぞと激励する文面も。 -
関ヶ原の戦いで清正は西軍に味方した大名の城下を次々と攻略。その中には小西行長も含まれます。清正は肥後一国を委ねられ、初代藩主として1611年に死去。
写真は清正のサインの変貌。
賤ヶ岳七本槍として名を馳せた名残で力溢れるものから、歳と共に落ち着きが出ています。 -
築城の名手清正は、18の門と49の櫓のある難攻不落の熊本城を完成させました。西南の役では西郷軍の攻撃に耐えました。
清正は農業政策でも大きな成果を上げ、今もその恩恵を受けています。地元では「清公(せいこう)さん」と呼ばれ、いまも親しまれています。 -
清正の築いたものは戦争や台風を乗り越えましたが、平成28年の熊本地震で大きな損害を被りました。井樋橋(堰)もその一つ。
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1632年、清正の息子忠広は改易。肥後は細川家の土地となる。細川家は室町幕府で管領を務めた名家。一流の文化人の城下では、様々な文化も花咲く。
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豊後鶴崎
現代人が大分市と認識している都市。戦国大名大友氏によって建設。1601年に加藤清正が天草と引き換えに獲得した豊後3郡の港町。肥後の東の玄関口として機能し、参勤交代などで使用されました。
ちなみに加藤忠正は、参勤交代で品川宿から江戸へ入ろうとしてそのまま足止め。その場で改易を仰せつかりました。 -
波奈之(なみなし)丸
国の重要文化財に指定。細川家が参勤交代に用いた舟屋形。どんな波にも負けないという意味を込めた当て字。2階部分だけで12畳もある船室を備えている。大きすぎて、2階から28mm広角レンズで撮影しても全容が収まりきらなかった、、、 -
瓦に描かれた細川家の家紋。九曜(=星※)紋と呼ばれ、古代インドの宗教観を反映。日本では曼荼羅や妙見といった武神の信仰と結びつく。
※言われてみれば、日月火水木金土も星ですね。
上の家系図では、18代まで出ています。第18代は、熊本県知事を経て、日本新党を立ち上げて内閣総理大臣まで務めた有名人ですね。 -
手永制度
小倉藩主時代に取り入れたシステムで、村と郡の間に機能する行政システム。
一方の、熊本・高瀬・高橋・河尻・八代には町の格が与えられ、町奉行の下で、多くの経済的特権を享受しました。 -
雨ごい
民間信仰。肥後西部の気候を反映したもの。熊本城の地盤を踏み固めるために、清正が活用した話は有名。 -
明治維新後も、大藩の藩庁として発展した熊本の地位は不変。九州の中心というロケーションも相まって、明治6年には鎮台が置かれ、以降軍都としての一面を加えて発展します。新政府による急進的な西洋化改革は士族の不満を招き、明治9年には熊本敬神党の決起、翌10年には薩軍の攻撃にさらされます。軍都ゆえに、空襲にも苦しめられます。
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明治20年に九州初の高等教育機関が設置されたのも熊本です。
日露戦争後は、国策で食糧自給が叫ばれ、多くの畑地が水田へ転作されました。 -
博物館の北には大名屋敷。
旧細川刑部邸 名所・史跡
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熊本には、今も城下町の風情が残ります。
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島田美術館
生前武蔵会会長だった島田真富氏のコレクションを公開展示。交通の便が悪いですが、武蔵直筆の書画と加藤・細川ゆかりの日本刀が充実。マストのスポットです。企画展では、赤穂事件と肥後熊本のつながりに焦点が。
島美こと、シマビーというオリジナリキャラも存在します。島田美術館 美術館・博物館
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熊本駅前には、夜まで開いている観光発行基地が。
毎回情報収集に訪れますが、奥が深いです。 -
○トラベルではスルーしている5ヶ町の一つの川尻も詳しく解説。
熊本出身で、阪神で活躍した川尻哲郎さんは、本当に良いピッチャーでした。
世間の女子は織田裕二似の藪恵壱推しが多かったけど、、、くまもと森都心プラザ 名所・史跡
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城下にはバナナ売りも
写真は松田青果さん
次は、熊本から島原へ航海します。↓
https://4travel.jp/travelogue/11779419
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