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 「大化の改新」発祥地の談山神社から、大化の改新の舞台、飛鳥へ移動しました。<br /> 先ず訪れたのは、国内最大級の方墳で、埋葬者は蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子との説が有力な「石舞台古墳」です。<br /> 晩秋の飛鳥路「飛鳥周遊歩道」を歩きました。聖徳太子誕生の地といわれる橘寺へ、太子建立の7カ寺の一つです。<br /> 飛鳥周遊歩道を歩き「大化の改新」の舞台、[飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)「伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)」]へ向いました。どの辺で蘇我入鹿を切り付けたのだろうか、という思いより、この地で日本が始まった、という歴史スペタクルが頭をよぎる。<br /> 蘇我入鹿は皇極4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって殺害される。乙巳の変である。伝承によれば、その時切り落とされた首は飛鳥板蓋宮から約600~650m離れたこの地、飛鳥寺まで飛び、入鹿の超人的な首飛翔に恐れおののき、その祟りを祓うために首塚が建てられたという地まで巡った「大化の改新」の旅でした。

晩秋の古都、飛鳥を訪ねて(大化の改新の舞台へ)

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2021/12/03 - 2021/12/03

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ガッサン

ガッサンさん

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 「大化の改新」発祥地の談山神社から、大化の改新の舞台、飛鳥へ移動しました。
 先ず訪れたのは、国内最大級の方墳で、埋葬者は蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子との説が有力な「石舞台古墳」です。
 晩秋の飛鳥路「飛鳥周遊歩道」を歩きました。聖徳太子誕生の地といわれる橘寺へ、太子建立の7カ寺の一つです。
 飛鳥周遊歩道を歩き「大化の改新」の舞台、[飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)「伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)」]へ向いました。どの辺で蘇我入鹿を切り付けたのだろうか、という思いより、この地で日本が始まった、という歴史スペタクルが頭をよぎる。
 蘇我入鹿は皇極4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって殺害される。乙巳の変である。伝承によれば、その時切り落とされた首は飛鳥板蓋宮から約600~650m離れたこの地、飛鳥寺まで飛び、入鹿の超人的な首飛翔に恐れおののき、その祟りを祓うために首塚が建てられたという地まで巡った「大化の改新」の旅でした。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
  •  特別史跡 石舞台古墳の案内板が立っていました。読んで見ました。<br /> 石舞台古墳は早くから石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名前で親しまれている。<br /> 昭和八(一九三三)年から実施された調査では墳丘は一辺約55メートルの方墳又は上円下方墳で、周囲には周濠と外堤が巡らされており、墳丘と外堤の斜面には貼石が施されていることが明らかとなった。埋葬施設については南に開口する両袖式の横穴式石室で玄室長は約7.8メートル、幅約3.4メートル、羨道長は約11.5メートル、幅約2.2メートルあり、玄室から羨道にかけて排水口が設けられている。石室内からは凝炭岩片が出土していることから家形石棺が安置さてれいたものと推定される。<br /> 平成十九年三月                         明日香村<br /><br /><br /> 

     特別史跡 石舞台古墳の案内板が立っていました。読んで見ました。
     石舞台古墳は早くから石室を覆っていた盛土が失われ、巨大な天井石が露出していたことから石舞台の名前で親しまれている。
     昭和八(一九三三)年から実施された調査では墳丘は一辺約55メートルの方墳又は上円下方墳で、周囲には周濠と外堤が巡らされており、墳丘と外堤の斜面には貼石が施されていることが明らかとなった。埋葬施設については南に開口する両袖式の横穴式石室で玄室長は約7.8メートル、幅約3.4メートル、羨道長は約11.5メートル、幅約2.2メートルあり、玄室から羨道にかけて排水口が設けられている。石室内からは凝炭岩片が出土していることから家形石棺が安置さてれいたものと推定される。
     平成十九年三月                         明日香村


     

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  石舞台古墳の入口部から石舞台古墳を撮影してみました。<br /> 墳丘は一辺約55メートルの方墳で、周囲には周濠と外堤が巡らされており、墳丘と外堤の斜面には貼石が施されていた、と言う。巨大な古墳であることがわかる。

     石舞台古墳の入口部から石舞台古墳を撮影してみました。
     墳丘は一辺約55メートルの方墳で、周囲には周濠と外堤が巡らされており、墳丘と外堤の斜面には貼石が施されていた、と言う。巨大な古墳であることがわかる。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

     被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  「石舞台」の名の由来については、一般には石の形状からとされていますが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやって来た旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話もあり、石の舞台のように見えることから「石舞台古墳」と呼ばれています。もちろん今は石の上に登ることは禁止されています。

    イチオシ

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     「石舞台」の名の由来については、一般には石の形状からとされていますが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやって来た旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話もあり、石の舞台のように見えることから「石舞台古墳」と呼ばれています。もちろん今は石の上に登ることは禁止されています。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  「石舞台古墳」の中に入る入口が見えて来ました。<br /> 国内最大級の方墳で、埋葬者は蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子との説が有力です。

     「石舞台古墳」の中に入る入口が見えて来ました。
     国内最大級の方墳で、埋葬者は蘇我入鹿の祖父・蘇我馬子との説が有力です。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  「石舞台古墳」の中に入る、入口です。<br /> 方墳(ほうふん)とは平面形が方形で墳頂が平坦な古墳を言います。 四世紀末頃に現われ、古墳時代後期から末期に盛行するが、大規模なものが造られるのは六世紀後半以降です。

     「石舞台古墳」の中に入る、入口です。
     方墳(ほうふん)とは平面形が方形で墳頂が平坦な古墳を言います。 四世紀末頃に現われ、古墳時代後期から末期に盛行するが、大規模なものが造られるのは六世紀後半以降です。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  「石舞台古墳」の中に入りました。天井部を撮影してみました。

     「石舞台古墳」の中に入りました。天井部を撮影してみました。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  こんな大石をここまで運び積んだものです。以前、石舞台古墳へ来たとき、雨の日だった。観光客はいなかった。観光協会の人からバーチャルリアリティーを見ませんか、声を掛けられ、石舞台古墳を造った工法を見たことを思い出しました。

     こんな大石をここまで運び積んだものです。以前、石舞台古墳へ来たとき、雨の日だった。観光客はいなかった。観光協会の人からバーチャルリアリティーを見ませんか、声を掛けられ、石舞台古墳を造った工法を見たことを思い出しました。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  「石舞台古墳の復元石棺」の案内がありました。読んでみました。<br /> 「この石舞台古墳は、昭和8年の発掘調査で30数個の大きな石で築造された大規模な古墳で、6世紀末期から7世紀初頭のものであることがわかりました。<br /> 古墳形状は、上円下方墳と推定されます。<br /> 被葬者は、古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子の桃原墓(日本書記巻第二十二 推古天皇三十四年 626年『大臣…桃原墓に葬る』)であるとの説が最も有力視されています。<br /> 古墳の規模は、下方形墳(外隍)一辺が85m玄室の長さ7.7m幅3.4m高さ4.8mで玄室南側の天井石は、約7.7tと推定されます。<br /> この発掘調査では、石棺は発見できませんでしたが、石室からは平に加工した凝灰岩の破片が見つかりました。<br /> このような発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を元にして石舞台古墳の石棺を復元しました。<br />                    財団法人 明日香村観光開発公社

     「石舞台古墳の復元石棺」の案内がありました。読んでみました。
     「この石舞台古墳は、昭和8年の発掘調査で30数個の大きな石で築造された大規模な古墳で、6世紀末期から7世紀初頭のものであることがわかりました。
     古墳形状は、上円下方墳と推定されます。
     被葬者は、古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子の桃原墓(日本書記巻第二十二 推古天皇三十四年 626年『大臣…桃原墓に葬る』)であるとの説が最も有力視されています。
     古墳の規模は、下方形墳(外隍)一辺が85m玄室の長さ7.7m幅3.4m高さ4.8mで玄室南側の天井石は、約7.7tと推定されます。
     この発掘調査では、石棺は発見できませんでしたが、石室からは平に加工した凝灰岩の破片が見つかりました。
     このような発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を元にして石舞台古墳の石棺を復元しました。
                        財団法人 明日香村観光開発公社

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を元にして石舞台古墳の石棺を復元したそうです。これが復元した石棺で、ここにあるのではなく、当時は石舞台古墳の中に納まっていました。

     発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を元にして石舞台古墳の石棺を復元したそうです。これが復元した石棺で、ここにあるのではなく、当時は石舞台古墳の中に納まっていました。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  分厚い石棺です。今から1,400年前にこんな重量物を造り、石舞台古墳の中に納めた技術には驚きです。

     分厚い石棺です。今から1,400年前にこんな重量物を造り、石舞台古墳の中に納めた技術には驚きです。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  石棺の中を撮影してみました。

     石棺の中を撮影してみました。

    石舞台古墳 名所・史跡

  •  石舞台古墳から「聖徳太子誕生所 新西国第十番霊場 別格佛頭山 橘寺」へ向いました。山村で見かける、農道のような細い「飛鳥周遊歩道」を歩きました。

     石舞台古墳から「聖徳太子誕生所 新西国第十番霊場 別格佛頭山 橘寺」へ向いました。山村で見かける、農道のような細い「飛鳥周遊歩道」を歩きました。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  山里を流れる「飛鳥川」沿いの道を進みます。

     山里を流れる「飛鳥川」沿いの道を進みます。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  飛鳥川は、奈良県中西部を流れる大和川水系の一級河川です。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つで、 明日香川とも綴る。流域は古代より開けた地で、古歌にもしばしば詠まれました。

     飛鳥川は、奈良県中西部を流れる大和川水系の一級河川です。奈良盆地西部を多く北流する大和川の支流の一つで、 明日香川とも綴る。流域は古代より開けた地で、古歌にもしばしば詠まれました。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  石碑には「聖徳太子御誕生所 天台宗 橘寺」とありました。緩やかな石段を上って行きます。

     石碑には「聖徳太子御誕生所 天台宗 橘寺」とありました。緩やかな石段を上って行きます。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  橘寺の正門に当る「東門」前にある「拝観受付」です。入山拝観時間は、午前9時~午後5時までです。受付終了時間は、午後4時30分です。<br /> 入山拝観料 大人・大学生 個人¥350 ・30名以上¥330 ・100名以上¥300 です。

     橘寺の正門に当る「東門」前にある「拝観受付」です。入山拝観時間は、午前9時~午後5時までです。受付終了時間は、午後4時30分です。
     入山拝観料 大人・大学生 個人¥350 ・30名以上¥330 ・100名以上¥300 です。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  橘寺の正門に当る「東門」をくぐりました。

     橘寺の正門に当る「東門」をくぐりました。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  左手に「鐘楼」が見えました。

     左手に「鐘楼」が見えました。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  往生院(天井画)と聖倉殿(収蔵庫)の道標です。<br /> 東門を入って左手にある、往生院の天井画は必見の美しさです。格子天井のひとつひとつが現代画家たちから奉納された美しい花の絵で埋め尽くされています。寝転んで天井を見上げるのも格別です。

     往生院(天井画)と聖倉殿(収蔵庫)の道標です。
     東門を入って左手にある、往生院の天井画は必見の美しさです。格子天井のひとつひとつが現代画家たちから奉納された美しい花の絵で埋め尽くされています。寝転んで天井を見上げるのも格別です。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  往生院(天井画)と聖倉殿(収蔵庫)へ行くには鐘楼の手前を曲ります。

     往生院(天井画)と聖倉殿(収蔵庫)へ行くには鐘楼の手前を曲ります。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  正面の建物は、「本堂(本尊重文聖徳太子像)」です。聖徳太子誕生の地といわれ、太子建立の7カ寺の一つです。8世紀には66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸期に再建された本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっている。

     正面の建物は、「本堂(本尊重文聖徳太子像)」です。聖徳太子誕生の地といわれ、太子建立の7カ寺の一つです。8世紀には66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で四天王寺式伽藍配置をとっていた。現在は江戸期に再建された本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっている。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  「本堂(本尊重文聖徳太子像)」に近づいて来ました。

     「本堂(本尊重文聖徳太子像)」に近づいて来ました。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  左手に「経堂(阿弥陀如来)」が見えて来ました。

     左手に「経堂(阿弥陀如来)」が見えて来ました。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  経堂の本尊は阿弥陀如来、他に傅大士像と弘法大師像が安置されています。入口の右手に安置されているのは賓頭盧尊者 ( びんづるそんじゃ )です。

     経堂の本尊は阿弥陀如来、他に傅大士像と弘法大師像が安置されています。入口の右手に安置されているのは賓頭盧尊者 ( びんづるそんじゃ )です。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  正面の建物は本堂(太子堂)です。元治元年(1864年)に再建。本尊は聖徳太子坐像が安置されています。

     正面の建物は本堂(太子堂)です。元治元年(1864年)に再建。本尊は聖徳太子坐像が安置されています。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  本堂に向かって右側前に、黒駒像が立っています。この黒駒は聖徳太子の愛馬です。

     本堂に向かって右側前に、黒駒像が立っています。この黒駒は聖徳太子の愛馬です。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  これが「二面石」です。案内板が立っていたので読んでみました。<br /> 右善面、左悪面と呼ばれ、我々の心の持ち方を現したもので、飛鳥時代の石造物の一つである。と、ありました。

     これが「二面石」です。案内板が立っていたので読んでみました。
     右善面、左悪面と呼ばれ、我々の心の持ち方を現したもので、飛鳥時代の石造物の一つである。と、ありました。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  正面向かって右側が無垢な善人の顔(写真右)と言われています。

     正面向かって右側が無垢な善人の顔(写真右)と言われています。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  正面向かって左側が悪人の顔と言われています。または男と女の顔、微笑んでいる顔と首をかしげて不思議に思っている顔という説もあります。単に人間には善と悪の両方の面があるという表現なのかもしれません。

     正面向かって左側が悪人の顔と言われています。または男と女の顔、微笑んでいる顔と首をかしげて不思議に思っている顔という説もあります。単に人間には善と悪の両方の面があるという表現なのかもしれません。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  橘寺の案内がありました。大変読み易い角度に設定されていました。<br /> 大化の改新頃の天皇は皇極天皇と孝徳天皇でした。宮都所在地は「飛鳥板蓋宮」でした。

     橘寺の案内がありました。大変読み易い角度に設定されていました。
     大化の改新頃の天皇は皇極天皇と孝徳天皇でした。宮都所在地は「飛鳥板蓋宮」でした。

    橘寺 寺・神社・教会

  •  川原寺跡です。飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、平城京遷都後も飛鳥の地に残った。斉明天皇の冥福を祈り、息子の天智天皇が建立したのが創建。西金堂と塔を回廊が囲み、さらに北側に講堂を置く「川原寺式」伽藍で、現在中門跡などが整備されている。

     川原寺跡です。飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、平城京遷都後も飛鳥の地に残った。斉明天皇の冥福を祈り、息子の天智天皇が建立したのが創建。西金堂と塔を回廊が囲み、さらに北側に講堂を置く「川原寺式」伽藍で、現在中門跡などが整備されている。

    川原寺跡 名所・史跡

  •  飛鳥地方は稲刈りも終わり晩秋の気配が漂っています。のどかな「飛鳥周遊歩道」を歩いています。

     飛鳥地方は稲刈りも終わり晩秋の気配が漂っています。のどかな「飛鳥周遊歩道」を歩いています。

  •  「史跡 伝飛鳥板蓋宮跡」の案内板です。奈良県教育委員会が立てたものです。<br />少し、読んでみます。<br /> 先ず、昭和四十七年四月十日指定とあった。<br /> 推古天皇から持統天皇に至る七世紀の約100年間、飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、その遺跡はどれもまた確認されていない。そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和34年以来、おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた・・・中略。

     「史跡 伝飛鳥板蓋宮跡」の案内板です。奈良県教育委員会が立てたものです。
    少し、読んでみます。
     先ず、昭和四十七年四月十日指定とあった。
     推古天皇から持統天皇に至る七世紀の約100年間、飛鳥地方には歴代天皇の宮がつぎつぎと造営されたが、その遺跡はどれもまた確認されていない。そのうち皇極天皇の飛鳥板蓋宮については、この付近とする伝承があり、昭和34年以来、おもに橿原考古学研究所によって発掘調査が続けられてきた・・・中略。

    飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡

  •  645年と言ったら、誰もが「大化改新(乙巳の変)」と答えるでしょう。まさにこの場所が「大化改新」のはじまりの舞台となった場所です。<br /> 飛鳥宮跡は、調査で飛鳥板蓋宮(皇極天皇)だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が断続的に置かれたことが判明し、伝飛鳥板蓋宮跡から飛鳥宮跡へ名称が変更された。

     645年と言ったら、誰もが「大化改新(乙巳の変)」と答えるでしょう。まさにこの場所が「大化改新」のはじまりの舞台となった場所です。
     飛鳥宮跡は、調査で飛鳥板蓋宮(皇極天皇)だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が断続的に置かれたことが判明し、伝飛鳥板蓋宮跡から飛鳥宮跡へ名称が変更された。

    飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡

  •  飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)の遺構は直線的である。当時の建築技術の高さに感心するばかりである。<br /><br /> 飛鳥宮跡(飛鳥板蓋宮跡)に万葉歌碑がありました。<br /> <br /> 采女(うねめ)の袖吹きかえす明日香風(あすかかぜ)<br />都を遠みいたづらに吹く

     飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)の遺構は直線的である。当時の建築技術の高さに感心するばかりである。

     飛鳥宮跡(飛鳥板蓋宮跡)に万葉歌碑がありました。

     采女(うねめ)の袖吹きかえす明日香風(あすかかぜ)
    都を遠みいたづらに吹く

    飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡

  •  7世紀半ばの皇極天皇の宮殿(飛鳥宮跡)で、中大兄皇子(天智天皇)藤原鎌足らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(大化改新)の舞台がこの場所。辺りの景色を見るとのどかで、そんな政変があったのだろうか、と思えてきます。

     7世紀半ばの皇極天皇の宮殿(飛鳥宮跡)で、中大兄皇子(天智天皇)藤原鎌足らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(大化改新)の舞台がこの場所。辺りの景色を見るとのどかで、そんな政変があったのだろうか、と思えてきます。

    飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡

  •  「飛鳥板蓋宮」近くで発掘調査が行われていました。のどかな田んぼを掘り起こすと貴重な日本史が出て来る。まさにここは飛鳥です。

     「飛鳥板蓋宮」近くで発掘調査が行われていました。のどかな田んぼを掘り起こすと貴重な日本史が出て来る。まさにここは飛鳥です。

  •  「飛鳥周遊歩道」を歩いています。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)が近いだけに貴重な物が沢山出て来るような気がします。

     「飛鳥周遊歩道」を歩いています。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)が近いだけに貴重な物が沢山出て来るような気がします。

  •  「飛鳥周遊歩道」を歩いています。大規模な発掘調査です。

     「飛鳥周遊歩道」を歩いています。大規模な発掘調査です。

  •  墓前には仏花が供えられてあった。<br /> 蘇我入鹿は皇極4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって殺害される。乙巳の変である。伝承によれば、その時切り落とされた首は飛鳥板蓋宮から約600~650m離れたこの地まで飛び、入鹿の超人的な首飛翔に恐れおののき、その祟りを祓うために首塚が建てられたという。 <br /> 皇極天皇の4年(645年)6月12日、に俗に言う「大化の改新」です。

     墓前には仏花が供えられてあった。
     蘇我入鹿は皇極4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子、中臣鎌足等によって殺害される。乙巳の変である。伝承によれば、その時切り落とされた首は飛鳥板蓋宮から約600~650m離れたこの地まで飛び、入鹿の超人的な首飛翔に恐れおののき、その祟りを祓うために首塚が建てられたという。
     皇極天皇の4年(645年)6月12日、に俗に言う「大化の改新」です。

    安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会

  •  飛鳥寺の外側、西門(蘇我入鹿の首塚)から飛鳥寺へ入りました。

     飛鳥寺の外側、西門(蘇我入鹿の首塚)から飛鳥寺へ入りました。

    安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会

  •  飛鳥寺に夕闇が迫っていました。

     飛鳥寺に夕闇が迫っていました。

    安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会

  •  首塚付近に「飛鳥寺西門跡」の案内がありました。

     首塚付近に「飛鳥寺西門跡」の案内がありました。

    安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会

  •  「蘇我入鹿の首塚」側から見た飛鳥寺です。

     「蘇我入鹿の首塚」側から見た飛鳥寺です。

    安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会

  •  通常、大仏様の写真撮影はお断りです。しかし、飛鳥寺の大仏様の場合、写真は自由に撮って下さい、とのことです。<br /> 「日本最古」といわれながら、国宝になれない仏像がある。飛鳥寺「安居院」(あんごいん)(奈良県明日香村)にある飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像、重要文化財)である。国宝になれないのは、後世の補修箇所が多く、造られた7世紀当時の部分がほとんど残っていないからとされている、最新の研究では、オリジナル部分が従来考えられていたよりも多く残っているとの結果もあります。

     通常、大仏様の写真撮影はお断りです。しかし、飛鳥寺の大仏様の場合、写真は自由に撮って下さい、とのことです。
     「日本最古」といわれながら、国宝になれない仏像がある。飛鳥寺「安居院」(あんごいん)(奈良県明日香村)にある飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像、重要文化財)である。国宝になれないのは、後世の補修箇所が多く、造られた7世紀当時の部分がほとんど残っていないからとされている、最新の研究では、オリジナル部分が従来考えられていたよりも多く残っているとの結果もあります。

    安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会

  •  飛鳥寺の本堂です。本堂に飛鳥大仏が安置されています。創建時、ほぼこの位置に中金堂がありました。現存する本堂は江戸時代の文政8年(1825)に建てられたものです。

     飛鳥寺の本堂です。本堂に飛鳥大仏が安置されています。創建時、ほぼこの位置に中金堂がありました。現存する本堂は江戸時代の文政8年(1825)に建てられたものです。

    安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会

  •  飛鳥寺観光が終わり、帰路に着く頃、奇妙な夕焼けに出合いました。何を暗示しているのか、それともよく来た、さようならとも言っているのでしょうか。「大化の改新」の旅は終わりました。

    イチオシ

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     飛鳥寺観光が終わり、帰路に着く頃、奇妙な夕焼けに出合いました。何を暗示しているのか、それともよく来た、さようならとも言っているのでしょうか。「大化の改新」の旅は終わりました。

    安居院(飛鳥寺) 寺・神社・教会

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